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いわゆる藩札=信用貨幣論争について

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(1)

いわゆる藩札=信用貨幣論争について

著者 鹿野 嘉昭

雑誌名 經濟學論叢

巻 55

号 4

ページ 25‑54

発行年 2004‑03‑20

権利 同志社大学経済学会

URL http://doi.org/10.14988/pa.2017.0000004647

(2)

【論 説】

いわゆる藩札=信用貨幣論争について *

鹿 野 嘉 昭

1

は じ め に

江戸時代,江戸・大坂といった大都市や幕府直轄地以外の地域においては,

大名領国政府が発行した藩札と称される紙幣が地域的な交換手段として重要な 役割を果たしていた.この藩札に関しては,1920 年代後半から

70

年ごろまで の間,諸藩における藩札発行の仕組み,通用仕法などといった制度的枠組みの 解明を中心として精力的に研究が進められ,そこで得られた成果は

1970 年代半

ばに刊行された日本銀行調査局編『図録 日本の貨幣』第

5,6

巻において集 大成された.この『図録』において藩札は近世貨幣史の第1人者である作道洋 太郎大阪大学教授が提唱した学説に依拠するかたちで私札と並ぶ信用貨幣とし て位置づけられ,貨幣史上の意義や役割に加え,流通状況等が詳細に論じられ た.これを契機として,その後,藩札は信用貨幣であるという捉え方が支配的 な見解になりつつあった1)

しかし,1980 年に開催された社会経済史学会第

49

回大会において,同じく

* 本論文の作成に際しては,西岡幹雄,および末永國紀両教授から有益なコメントを頂戴したことを 記して感謝したい.いうまでもなく,ありうべき誤解や誤りはすべて筆者の責任に属する.なお,本 研究を進めるに際しては,全国銀行学術研究振興財団の助成を受けた.

1)学説史的にみた場合,藩札=信用貨幣論は飯淵敬太郎教授の「端緒的な信用貨幣」『日本信用体

系前史』,学生書房,1948 年,34〜38頁)という概念規定にまで遡ることができる.この考え方を さらに発展・展開し,藩札は「近世におけるもっとも典型的な信用貨幣」であるとしたのが作道教 授である.その後,藩札=信用貨幣論は,中井信彦慶応大学教授,藤田貞一郎同志社大学教授など の有力歴史家が賛意を示したこともあって,広く受け入れられるようになったということができる.

その一方で,藩札=信用貨幣論を批判する見方も根強く,たとえば川上 雅金沢大学助教授は「藩 札論」(大阪歴史学会近世部会『近世史研究』,No.37,1963 年9 月)においてそういった捉え方を 厳しく批判している.

(3)

近世貨幣史の泰斗である田谷博吉大阪府立大学教授は,藩札は信用貨幣ではな く政府紙幣であるという見解を披瀝した.すなわち,田谷教授は,信用貨幣と は銀行が振り出した兌換銀行券,あるいは銀行信用を基礎として流通する小切 手や手形など銀行貨幣のことをいい,そうした概念を信用経済成立以前の単純 商品流通の段階にある江戸時代の藩札に適用するには無理があることを根拠に 藩札を信用貨幣として捉える見方を否定するとともに,藩札は藩当局により付 与された強制通用力を背景に流通する政府紙幣として理解されるべきであると 主張した.このようにして表面化した藩札の性格をめぐる意見の対立は一般に,

藩札=信用貨幣論争と呼ばれる.

この意見対立は,藩札=信用貨幣論争と称されるのとは裏腹に,多数の学者 を巻き込んでの論争となるまでには至らず,その後,決着をみないまま静かに 収束した.というのも,藩札は信用貨幣ではないという批判に対し,作道教授 は社会経済史学会あるいは同学会の機関誌において反論を展開したが,田谷教 授は自説を繰り返し述べる一方で,作道教授からの反駁に対する発言を控えた まま今日に至っているからである.実際,作道教授が田谷教授からの批判に応 えるべく登場した翌

1981 年の社会経済史学会第 50 回大会において両教授は初

めてこの問題を介して顔を合わせることになった.しかし,田谷教授が意図的 に見解の表明を控えたため,両教授が藩札は信用貨幣であるか否かをめぐって 意見を直接交換することはなかった2).加えて,藩札=信用貨幣論争は,近世貨 幣史研究における

2

大巨頭の間での意見対立であったため,管見の限り,それ ぞれの支持者が

1,2 見解を表明するにとどまるなど,論争らしい論争にまで発

展することはなかったのである.

それにもかかわらず,藩札=信用貨幣論争は,藩札の性格を考えるうえでは

2)実際,田谷教授は『収集』(書信館出版)1998 年新年号所載の「東アジア的紙幣―私の藩札観―」

のなかで次のとおり述懐されている.「この度は,当然のこと作道洋太郎氏の私に対する反論が展開 された.ご参会の皆様からも,この反論が期待されていることは分かっていた.しかし私は,当日 御出席であって,私にとっては先学にあたる堀江保蔵・宮本又次両博士の前でする論戦は,これを 避けることにしていたから,1 点か2 点,質疑応答がなされたに過ぎなかった.

(4)

決して無視し得ない重要な論点を多数含んでいるのも事実である.それゆえ,

本論文では,改めてこの論争を取り上げ,その意味するところを現代的な観点 から再検討することにした.以下,第

2

章では田谷教授および作道教授の主張 を要約するとともに,論争での対立点を明らかにする.第

3

章では,藩札は信 用貨幣か政府紙幣かという問題について,金融論の立場から改めて検討する.

次いで第

4

章では,三貨制という江戸時代の貨幣制度との関連で藩札発行を捉 え,そうした文脈のなかで藩札の性格を議論する.最後に第

5 章において,本

稿での議論を要約する.

2

藩札=信用貨幣論争の実際

2. 1

田谷教授による藩札=信用貨幣説批判

やや順番は前後するが,最初に田谷教授による藩札=信用貨幣説批判を紹介 することにしよう.田谷教授の主張は,社会経済史学会第

49

回大会『大会報 告集』所収の報告要旨「藩札の流通―信用貨幣か政府紙幣か―」などからも明 らかなように,次の

5 点に要約することができる

3)

すなわち,第

1

に,作道教授は藩札に関する著書(『近世日本貨幣史』(弘文堂

「アテネ新書」,1958 年)および『日本貨幣金融史の研究』(未来社,1961 年)のい ずれにおいても,藩札を信用貨幣として捉えるうえでの理論的根拠を何ら示し ていない.藩札は信用貨幣であると先験的に想定のうえ,江戸時代の信用貨幣 は純粋領国型・特殊領国型・非領国型の

3

種類に分類できるという類型化が提 示されているだけである.その一方,『近世日本貨幣史』の冒頭(1 - 3 頁)で は,荒木光太郎著『貨幣概論』(有斐閣,1936 年)

81 頁に掲載の図表を援用のう

3)田谷教授による藩札=信用貨幣説を批判する論文としては,社会経済史学会における報告要旨の ほか,「藩札―江戸時代の紙幣―」(阪南大学『阪南論集 社会・人文・自然科学編』第17 巻第4 号,1982 年),「近世日本の紙幣」(阪南大学『阪南論集 社会科学編』第25 巻第1・2・3 号,

1989 年)が挙げられる.このほか,同教授の考え方を理解するに際しては,「藩札=信用貨幣説批 判」『収集』1995 年新年号)「私的藩札の提唱」『収集』1996 年新年号)「東アジア的紙幣―私 の藩札観―」『収集』1998 年新年号)も参考にした.

(5)

え,経済社会は現物経済・貨幣経済・信用経済へと発展して来たとするドイツ 歴史学派のブルーノ・ヒルデブラント(1812 - 1878)が提唱した経済発展段階 説,ならびに貨幣も物品貨幣から鋳造貨幣,鋳造貨幣から信用貨幣へと発達し てきたことが紹介されている.この文脈から判断すると,作道教授は,物品貨 幣・鋳造貨幣に次いで登場した紙幣である藩札は当然のこととして信用貨幣で あると理解され,藩札=信用貨幣説を展開されたようである.

2

に,ヒルデブランド等が信用貨幣と呼んだのは,銀行が振り出した兌換 銀行券や銀行信用を基礎として流通する小切手・手形など,銀行制度を前提と して流通する銀行貨幣(あるいは現代的にいうと預金通貨)である4).そうした近代 的な貨幣概念を信用経済成立以前の単純商品流通の段階にある江戸時代に流通 していた紙幣である藩札に適用すること自体,無理があるといわざるを得ない.

藩札は幕府貨幣から派生した前近代的な紙幣であり,そのような紙幣と小切 手・手形あるいは銀行貨幣を意味する信用貨幣とを同列に議論することは発達 段階からみても整合的ではない.また,作道教授は,先に述べたように藩札を 類型化しているが,銀行券や商業手形・小切手などのように藩札が本来の意味 での信用貨幣であれば,地域的な類型化にはなんら意味がないのではないか.

3 に,藩札は大名領国政府の財政窮乏を賄うために発行された紙幣である

という性格を反映して,発行・流通の仕方も信用貨幣のそれとは根本的に異な る.銀行貨幣に代表される信用貨幣は,本来的には各種の取引によって生じた 債務の履行を目的として振り出された支払約束証書ではあるが,その支払約束 に関する高い信頼に基づき交換手段に利用されるなかで貨幣としての機能を備 えるようになったものである.これに対し,藩札は大名領国政府による公共事 業,役人の俸給または領主の個人的支出などの支払手段として発行される.藩 札の発行に際し大名領国政府は内外の有力商人を札元に登用していたが,彼ら に委託していたのは発行・引替事務であり,大名領国政府の有力商人に対する

4)ただし,作道教授による藩札=信用貨幣説を最初に批判した『大会報告集』での報告要旨におい ては,銀行貨幣は兌換銀行券に限定されていた.

(6)

債務が藩札という形態で転々流通していたわけではない.加えて,藩札の場合,

商業手形のように金銀貨との自由な引き替えが確約されておらず,領外への支 払いに対してのみ引き替えるというのが一般的な形態であった.その意味で,

藩札が表象する信用はいうなれば擬装された信用関係であり,藩札は信用貨幣 であるという主張は本来的に成り立ち得ない.

4 に,藩札は政府紙幣として理解される必要がある.政府紙幣とは一般に,

政府自らが財源調達手段として発行する不換紙幣のことをいう.実際,領国大 名の多くは寛文・延宝期から元禄期にかけて,参勤交代および江戸在府に随伴 する領外支出の膨張を主因に財政が窮乏し,そうした事態への対応措置として 藩札の発行に踏み切ったのである.不換紙幣である藩札を額面金額どおりに流 通させる,あるいは藩札を兌換紙幣であるかのごとく見せかけるべく,①内外 の豪家を札元役に取り立て,彼らがあたかも藩札の発行責任者であるかのよう に装ったり,②銀から札,札から銀への札場両替規定を掲げたりする一方で,

③領民には金銀貨を提出させるとともに領内取引については藩札の使用を強制 する,といった内容からなる銀札規定が制定されたのである.また,藩札の流 通実態をみると,過剰発行からその価値下落すなわちインフレの発生に至った 事例が数多く観察される.このようにインフレを頻繁に起こしている紙幣が信 用貨幣であるとはいい切れない.

5

に,その一方で,幕府貨幣との混合流通であるにもかかわらず,多量に 流通するとともに必要があればいつでも兌換可能な藩札が第

2

次世界大戦後,

発見されている.たとえば,肥前国にあった対馬藩の飛地=田代領において豊 後国日田の豪家広瀬氏によって弘化

2 年

(1845)から万延元年(1860)の「銀札 崩れ」まで発行されていた田代領銀札である.この銀札に関する作道教授の研 究においては生蝋の専売よりも貸付利子の取得を目指していたことなどが見落 とされているが,従来とは異なった種類の藩札の発見は藩札=信用貨幣説の功 績であった.こうした種類の藩札を田谷教授は,一般的な藩札と峻別すること を狙いとして,貸付利子取得型の藩札あるいは私札的藩札と呼んでいる.

(7)

しかし,そうだからといって,ただちに藩札=信用貨幣説を持ち込むことに は賛成しかねる.田代領銀札の場合,藩政府の依頼を受け内外の豪家によって 貸付発行された紙幣であり,豪家が自らの責任において貸し付けている以上,

引替準備については常に最大の努力が払われていた.換言すると,信用(クレジ ット)ではなく,世人の信頼すなわちコンフィデンスを得た結果,田代領銀札は 兌換券として機能していたのであり,この種の紙幣の存在を根拠として藩札は 信用貨幣としての機能を果たしていたという主張は著しい時代錯誤である.

2. 2

作道教授による反論(その1 ):藩札は信用貨幣である

以上が,田谷教授による藩札=信用貨幣説批判の概要である.これに対し,

信用貨幣説の立場を採る作道教授は次のような反論を展開している5). 最初は,信用貨幣に関する概念規定である.この問題に関しては,岩波書店

『経済学辞典』や東洋経済新報社の『経済学大辞典』,さらには『体系金融大辞 典』を紐解き,信用貨幣とは債権・債務関係の存在を前提に貨幣代用物として 流通する貨幣支払約束書のことをいい,田谷教授のように信用貨幣を近代の銀 行貨幣に限定した理解は狭すぎるほか,信用貨幣概念に関するひとつの見解に 過ぎない.その意味で,藩札を信用貨幣とする見解に問題はないと反論される.

そして,藩札という信用貨幣の場合,札元に登用された商人グループなどの債 務返済能力という「商人信用」を基礎とし,債務負担に対する領国大名政府の

「国家信用」によって補強されるという独特の性格をあわせ持つところに特徴が あるとされる.

また,藩札は政府紙幣であるという田谷教授の主張に対しては,信用貨幣の 対立概念は金・銀・銭貨といった金属貨幣であり,政府紙幣ではない.それゆ え,仮に信用貨幣ではないとした場合でも,そのことから直ちに藩札は政府紙 幣であるという結論は導き得ないと反論している.実際,藩札は信用貨幣か政

5)作道教授による反論の詳細については,「近世経済発展と藩札の発行――田谷博吉氏の見解に対す

る私見――」社会経済史学会『社会経済史学』第48 巻第2 号(1982 年7 月)を参照のこと.

(8)

府紙幣かという問いかけに対しては,藩札は領国内での通用を前提とした政府 紙幣の性格を持つと同時に,先に述べたように,商人信用を基礎として国家信 用によって補強された信用貨幣としての性格をあわせて備えていたと理解され る.その意味で,藩札が表象するのは擬装された信用関係であり,藩札は信用 貨幣であるという主張は本来的に成り立ち得ないという田谷教授の主張は排斥 される.

一方,作道教授が『近世日本貨幣史』において引用していたヒルデブランド の経済発展段階説と藩札=信用貨幣説との関係や藩札の地域的類型化の意味合 いに対する田谷教授からの根源的な疑問に対しては,なんら答えが用意されて いない.むしろ,『体系金融大辞典』での三上隆一和歌山大学教授による信用 貨幣の定義を引用のうえ,本位貨幣以外の一切の通貨,すなわち補助貨幣,銀 行券,政府紙幣,預金通貨等の総称が信用貨幣であり,政府紙幣も信用貨幣に 含まれると主張される.ただし,藩札=信用貨幣説の提示に際しては,近世の 日本に特徴的な信用貨幣の特質の解明を課題としていたという事情もあって,

信用貨幣という一般的な概念規定ではなく,「近世」信用貨幣というように時代 を限定した範疇で考えていたと述懐されている.

それゆえ,「信用貨幣か政府紙幣か」という二者択一的な議論の立て方自体,

あまり生産的なことではないと主張される.これまでの研究業績からも明らか なように,藩札の流通には多種多様なものがある.そうした流通実態から離れ,

特定の概念規定にしたがって藩札の歴史的性格を先験的に断定するという演繹 的な考え方では,幕藩体制下の経済構造や商業経済の発展とのかかわりで藩札 を捉えることが困難となるおそれが強い.むしろ重要なのは,全国諸藩におけ る藩札の流通実態をさらに克明に跡付けるという基礎作業の遂行を通じて,藩 札の性格を帰納法的に導くことであり,それこそが今後における藩札史研究に おける最大の課題であるという主張でもって作道教授の藩札=政府紙幣説に対 する反論は締め括られる.

この作道教授による結論は正論ではある.しかし,そのこと自体,藩札=信

(9)

用貨幣論争は,歴史研究に際し理論と実証の関係をどう位置付けるかという経 済史方法論における永遠のテーマに帰着することを意味しているではなかろう か.とりわけ,藩札の場合,徳川幕府による発行許可が必要という点を除けば,

発行の仕組み,通用仕法などといった制度的枠組みの詳細については統一的な 規定が設けられておらず,それらは個々の大名領国政府の裁量に委ねられてい た.こうした制度面での裁量の余地の存在や発行に至った事情の相違が藩札の 多様性の背景にあることを見逃すわけにはいかない.仮に田谷教授が指摘する ように藩札が政府紙幣であったとしても,大名領国政府が発出した一片の通達 や規定にしたがって不換紙幣である政府紙幣が額面どおりに転々流通するとは 到底考えられないからである.それゆえ,藩札の性格を議論するに際しては,

帰納法および演繹法の一方に偏することなく,バランスの取れた接近が求めら れる.

筆者がかつて属していた日本銀行金融研究所では

1983 年度から 90 年度にか

けて,山口和雄東京大学名誉教授の指導の下,藩札の流通実態についての理解 をさらに深めることを目的として,地方在住の貨幣・金融史研究家に全国諸藩 が発行した藩札の流通実態に関する研究を委託してきた.そうした委託研究の 成果を取り纏めたのが,鹿野嘉昭による論文「委託研究からみた藩札の流通実 態」(日本銀行金融研究所『金融研究』第15 巻第5 号,1996 年12 月)であった.鹿 野の「委託研究」は,日本銀行金融研究所が実施した委託研究のなかで得られ た研究成果やそれまでに公表されていた藩札研究に基づき,藩札の流通実態を 地域別・年代別に検討のうえ,次のとおり総括している.

すなわち,第

1 に,藩札の流通事例には,各藩のおかれていたその時々の経

済環境や藩当局の財政運営態度の相違などを背景として多種多様なものがあり,

通説のように「純粋領国型の悪貨範疇」6)のなかで捉えるのは,やや早計と窺 われた.実際,通説のとおり幕末にかけて価値の急落や札騒動が発生する事例

6)作道『近世日本貨幣史』,141〜143 頁.

(10)

もみられたが,その一方で,藩専売制の実施により領外からの正貨獲得に成功 した藩においては藩札が円滑に流通していた事例もまた少なからずみられた.

2

に,藩札の貨幣としての一般受容性に対する領民からの信頼維持を目的と して各藩とも,十分な兌換準備確保のほか,有力な商人の信用を利用するなど,

できうる限りの方策を用いて藩札の価値維持に腐心していた.このほか,藩札 発行を藩財政から切り離したうえで有力商人に委託し,領内の貨幣需要に応じ て弾力的に藩札を発行するという工夫を選択した大名領国においては,多くの 場合,藩札は円滑に流通していた.第

3 に,継続的な発行を背景として藩札は

士民生活のなかに定着し,利便性の高い交換手段として広く利用されていたこ とが窺われる.そうであるがゆえに,藩札価値の下落が見込まれる場合には,

札騒動が発生したといえよう.

鹿野の「委託研究」による総括は,対象となった

33

藩における藩札の流通 実態に基づくものであり,これから直ちに江戸時代における藩札流通を推し量 るには若干の留保が求められるのはいうまでもない.もっとも,そこから浮か び上がってきた流通実態からすると少なくとも,田谷教授のように藩札は大名 領国政府が発行した紙幣であるという形式的な基準に基づき,その性格は政府 紙幣であると断定することはできないといえよう.その一方で,この結論自体,

藩札は信用貨幣であるという主張を直ちに肯定するものではない.藩札が信用 貨幣であるか否かを議論するに際しては,信用貨幣とは何かという問題につい て検討する必要があるからであり,作道教授が指摘するように「あまり生産的 ではない」として避けて通ることはできない.この点に関しては,章を改めて もう少し詳細に検討することとし,その前に田谷教授から提起された,田代領 銀札は真の意味での信用貨幣であるか否かというもうひとつの問題について検 討することにしよう.

2. 3

作道教授による反論(その2 ):田代領銀札は真の意味での信用貨幣である 対馬藩田代領で流通していた銀札に関する田谷教授の主張は,次の

3 点に要

(11)

約することができる.すなわち,第

1

に,銀札の発行は貸付を媒介として行わ れており,同地域の特産品である生蝋を国産専売とするための手段として発行 されたのではない.第

2

に,田代領の場合,製蝋業の経営は容易ではなかった ため,専売制の維持も困難であったことを見逃してはならない.第

3

に,田代 領銀札の価値は豊後国日田の豪家広瀬氏による救済融資によって支えられた場 合が多く,最終的には「銀札崩れ」に至った.

こうした田谷教授による批判に対し作道教授は,いずれも藩札=信用貨幣説 を否定するための論拠にはなり得ないとしつつも,次のとおり反論を展開して いる7).田代領銀札の場合,1829 年(文政12年)に田代領の商人荒木吉次に生 蝋栽培の促進に必要な資金調達手段として銀札の発行がそもそも認められたの であり,藩営専売制とは直接的な関係はみられない.藩営専売制と銀札発行と がリンクするようになったのは,対馬藩が生蝋の流通を独占した

1852 年

(嘉永 5 年)以降のことであり,この点,田谷教授のほうにいささかの即断があったと 思われる.また,専売制の実施後,生蝋会所と銀札会所とが密接な関連をもっ て運営されており,そうしたなかで生蝋会所が一種の問屋制前貸しの機能を果 たし,銀札会所がその資金を供給する機関としての役割を担っていたと理解す ることができる.それゆえ,田代領銀札は専売制の手段として利用された藩札 とみる以外に考えようがないとして,田谷教授の銀札は貸付を媒介として発行 されており,国産専売のための手段ではないという主張を退けている.

次いで,田代領における製蝋業の経営は容易ではなかったため,専売制の維 持も困難であったことを見逃してはならないという田谷教授の主張に対しては,

そのとおりではあるが,それ自体,藩札=不換紙幣説の根拠にはなり得ないの ではなかろうかとしている.そしてまた,田代領銀札は最終的には「銀札崩れ」

に至ったことが藩札=不換紙幣説の論拠として挙げられていることに対し,作 道教授は,そうした危機を何とか切り抜け,明治初年まで流通していたという

7)作道「近世経済発展と藩札の発行」,134〜145 頁.

(12)

事実に目を向けるべきではないかと主張する.

3

藩札は信用貨幣か政府紙幣か

3. 1

信用貨幣の意味するもの

本論に戻って,藩札=信用貨幣論争について検討することにしよう.作道教 授の著書『近世日本貨幣史』においては,藩札を信用貨幣として捉えるに際し ての根拠は具体的に示されていない.あるいは,藩札は信用貨幣であると先験 的に想定のうえ,純粋領国型・特殊領国型・非領国型の

3 種類に分類できると

いう類型化が提示されるにとどまっている.この点は,田谷教授が指摘すると おりである.その一方で,あえて同書のなかに信用貨幣の定義を求めるとすれ ば,ドイツ歴史学派のブルーノ・ヒルデブラントが提唱した経済発展段階説に 基づき,藩札は「素材価値を離れた貨幣」として成立した信用貨幣であると理 解され,藩札=信用貨幣説が展開されたと解釈できる.もっとも,作道教授自 体,「経済史についてのこうした考え方は,その後,ドブシュによって否定され ることになった」(同,1 頁)と述べているように,経済発展段階説には必ずし も与されていないようである.

このように考えると,作道教授の場合,金銀貨とは異なり,素材価値すなわ ち使用価値がゼロに等しいのみならず,領内通用の不換紙幣として発行された 藩札が貨幣として広く流通していたのは,札元となった商人の信用力によると ころが大きいと判断のうえ,藩札は信用貨幣であると結論づけられたように窺 われる.そうであるがゆえに,先に述べたように,藩札は商人信用を基礎とし て国家信用によって補強された信用貨幣としての性格をあわせて備えていたと 理解されるとともに,「本位貨幣以外の一切の通貨,すなわち補助貨幣,銀行 券,政府紙幣,預金通貨等の総称が信用貨幣である」という三上教授の解釈が 紹介され,自らの考え方の正当性が主張されることになったのであろう.

日本銀行調査局編『図録 日本の貨幣』において藩札の項を担当した妹尾守 雄氏は,藩札を信用貨幣とした理由について,作道教授とは「視角をやや異に

(13)

し,いわば現物史的立場に基づく」8)と述べている.すなわち,貨幣の発展を その素材面から捉えると,①物品貨幣,②鋳造貨幣,および③信用貨幣,の

3

段階に分けられるが,自然財からなる物品貨幣や金属鋳という制度的貨幣以外 の交換・流通手段はすべて信用貨幣の範疇に含まれる.そして,この場合,信 用貨幣は,「契約と決済との間に時間的ズレがある経済的取引過程において生じ る信用が,その債権債務当事者を越えて一般的流通性をもち,貨幣として機能 しうるもの」9)と定義される.いずれにしても,妹尾氏および作道教授の立場 は素材価値を離れて交換手段として利用されている貨幣はすべて信用貨幣であ り,そうした観点からすると藩札は信用貨幣であると結論づけられる.

しかしながら,貨幣や信用のあり方を分析の対象とする金融論のテキスト等 を紐解くと,信用貨幣に関しては広く承認された定義があることがわかる.た とえば千葉商科大学の齋藤壽彦教授は近著『信頼・信認・信用の構造』(泉文 堂,2002 年12 月)において,信用貨幣概念を次のように定義している.すなわ ち,「信用貨幣は,後述の商業信用(第5 章)や銀行信用(第6 章)という信用 にもとづく貨幣である.信用貨幣は,貨幣支払約束そのものが支払手段として 用いられたものである.具体的には転々と流通する商業手形(商業貨幣)や,兌 換銀行券や預金通貨である.信用貨幣の十分な普及と発展は,近代的信用制 度・銀行制度の発達を前提とする.商業貨幣は信用貨幣の萌芽形態であり,現 在は貨幣として利用されていない.兌換銀行券が,持参人に対する貨幣の即時 支払約束を明示した本来の信用貨幣である.だがこれも現在は利用されていな い.預金通貨が今日の信用貨幣であり,今日の主要な貨幣形態である.」(123〜

124頁).

この信用貨幣の定義,つまり信用貨幣とは兌換銀行券および預金通貨を指す という考え方はとくに目新しいものではない.実際,作道教授および田谷教授 がともに引用している荒木光太郎著『貨幣概論』も「現今に於ける貨幣経済の

8)妹尾守雄「藩札と私札の経済的意義」『上智経済論集』第21 巻 第2・3 号,1975年3 月,59 頁.

9)妹尾守雄「藩札と私札」,59 頁.

(14)

発達は預金貨幣の出現を見るに至った」(78 頁)と述べるなど,明確なかたちで はないにせよ,そうした定義のうえに立って信用貨幣に関する議論を展開して いる10).このように信用貨幣という一般に承認された概念規定を有する経済学 上の重要な用語を明確に定義しないまま利用すること自体,誤解を招くおそれ が強い.その意味で,作道教授による藩札=信用貨幣説はやや安易という謗り は免れ得ない.

また,藩札の場合,有力商人を札元に登用するなど,その流通性の向上を目 指して商人の信用あるいは信認が利用されているが,基本的には不換紙幣であ る.加えて,大名領国政府の財政事情等に基づき発行されるなど,商業手形が 表象する債権・債務関係の存在は藩札発行に際しとくに前提とされていない.

言い換えると,妹尾氏により規定された「契約と決済との間に時間的ズレがあ る経済的取引過程において生じる信用が,その債権債務当事者を越えて一般的 流通性をもち,貨幣として機能しうるもの」という信用貨幣の概念を,藩札自 体,実は満たしていないのである.さらにいうと,藩札が本来の意味での信用 貨幣であれば,田谷教授の指摘どおり,地域的な類型化も意味をなさなくなる という点にも留意する必要がある.

以上のとおり,金融論の立場からすると,作道教授や妹尾氏の主張とは異な り,信用貨幣はあくまでも近代銀行制度のなかで登場した利便性の高い交換手 段のことをいい,「信用貨幣を近代の銀行貨幣に限定した理解は狭すぎるほか,

信用貨幣概念に関するひとつの見解に過ぎない」とはいえないのである.むし ろ,田谷教授が批判したとおり,信用貨幣という貨幣概念を藩札に適用するこ とには無理があるといわざるを得ない.しかし,そのこと自体,作道教授の研 究業績を何ら否定するものではない.世界史的にみても近世日本においてのみ 流通事例が観察される藩札という交換手段の特徴や特質の解明を目的とするの であれば,作道教授自身が述べているように,信用貨幣という一般的な概念規

10)なお,田谷教授は銀行貨幣を信用貨幣と呼ぶとされているが,その場合の銀行貨幣は預金通貨に 相当すると考えられる.

(15)

定ではなく,「近世」信用貨幣というように時代を限定した範疇で規定・利用す ることを強調する必要があったのではなかろうか.

3. 2

藩札は政府紙幣か

それでは,藩札が信用貨幣ではないとした場合,田谷教授の指摘どおり,政 府紙幣という概念で捉えることができるのだろうか.この点に関し,筆者は先 に述べたように懐疑的である.それゆえ,ここではこの問題についてもう少し 詳しく検討することにしよう.

最初は政府紙幣の定義である.政府紙幣とは一般に,政府が,国家に対する 信用あるいは信認に基づき発行する紙幣のことをいう11).そして政府紙幣の場 合,一定額の貨幣=金銀貨の支払いを約束しない不換紙幣として発行されるた め,法令に基づき強制通用力が付与される.こうした特徴を有する政府紙幣は 鋳造貨幣制度の下では,政府財政が戦争による財政圧迫等を主因として困窮を 期したときなどに財源の調達手段として発行されることが想定しうるが,実際 の発行事例はさほど多くはない.すなわち,政府不換紙幣の発行事例は

18

世 紀末にフランス革命政府により発行されたアッシニア紙幣,19 世紀半ばに勃発 した南北戦争時代のアメリカにおいて政府赤字ファイナンスのための発行され たグリーンバックスにとどまる.加えて,いずれの事例においても政府紙幣は 国民からの信認を獲得できなかったため円滑には流通せず,短期間のうちに姿 を消した.たとえばフランス革命政府が

1790 年に発行したアッシニア紙幣の場

合,財源調達を目的とした純然たる不換紙幣として濫発されたという事情もあ って,5 年後の

95 年末における流通価値は額面の 0.5%にまで落ち込んだ

12)

田谷教授が藩札=政府紙幣説において想定する政府紙幣は,そうした一般的 な定義よりも狭く,アッシニア紙幣のように「政府自らが財源調達手段として

11)齋藤,前掲書,68 頁.

12)余談になるが,こうした苦い経験を踏まえ,ナポレオン・ボナパルトの提案に基づき,1800 年に 商業手形を割り引き,その見返りに銀行券を発行するというフランス銀行が創設されたのであった.

(16)

発行する不換紙幣」として規定されている13).この概念規定を藩札がその主張 どおり満たしていたとした場合,すべての藩札は領民から受け取りを拒否され,

交換手段として機能し得なくなり,市中から姿を消すという事態の発生が予想 される.しかし実際には,今日の銀行取り付けに相当する札騒動が時として発 生したものの,1730 年(享保15年)の藩札発行再解禁以降,約

140 年の間,藩

札は各地の大名領国において交換手段として重要な役割を果たしてきたのであ る.その背景としては,藩札の発行に際し,有力商人を札元に登用するとか,

藩札と幕府貨幣との混合流通を容認することで自らを規律づけるといった各種 の工夫を施すなど,大名領国政府もその円滑な流通に向けて努力していたこと が指摘できる.

こうした議論からも明らかなように,政府紙幣といえども,強制通用力を付 与するだけでは交換手段として有効に機能し得ない.政府紙幣が交換手段とし て広く利用されるためには国家に対する国民からの信認が不可欠であり,たと えば財源調達のために濫発され,そうした信認を欠くことになれば,政府紙幣 の受け取りは人々により瞬く間に拒否される.加えて,肥前国にあった対馬藩 飛地=田代領において流通していた田代領銀札は,田谷教授自身が貸付利子取 得型の藩札あるいは私札的藩札と呼んでいるように,豊後国日田の豪家広瀬氏 が兌換用の銀を拠出するなど,政府紙幣の概念から大きく逸脱している.論理 的にいうと,そういった種類の藩札を包含し得ない限り,藩札は政府紙幣であ るとはいい難い.

それゆえ,田谷教授の主張とは異なり,藩札は政府紙幣であると単純に結論 づけることはできない.実際,藩札の場合,商人信用を基礎に領国大名政府の 国家信用によって補強されていたという作道教授の主張とは異なり,その流通 価値維持のため,大名領国政府自らが付与した強制通用力を商人信用によって 補強していたのである.そして,商人信用による補強の仕方やそれに対する信

13)田谷博吉「藩札史随想 第4 回」,九州貨幣史研究会『貨幣史の研究』第278 号,1988 年7 月.

(17)

認度合いの相違が,藩札の多様な流通実態を醸成したということができる.こ の点に関連していうと,先に述べた作道教授による藩札の性格付けに対し,政 府紙幣の立場を取る川上 雅・金沢大学助教授は「藩札=信用通貨論の自己矛 盾」と批判している14).しかし,ここで述べたように藩札に表象される国家信 用が商人信用により補強され,交換手段としての信認向上につながっていたと 理解すると,矛盾は解消する.

次に,田谷教授はなぜ藩札=政府紙幣説を唱えるに至ったのかという点につ いて検討しよう.田谷教授は荒木光太郎著『貨幣概論』の議論15)やアジアにお ける紙幣の発行歴を根拠として,鋳造貨幣から信用貨幣への直線的な発展を想 定する経済発展段階説を批判するとともに,鋳造貨幣に次いで登場する貨幣は 信用貨幣ではなく,政府紙幣であり,経済発展段階説においては信用貨幣と区 別すべき政府紙幣のことが完全に脱落していると主張される16).多分,これが 田谷教授による藩札=政府紙幣説の理論的根拠であろう.このように田谷教授 は貨幣の発展段階論の立場から藩札を政府紙幣として理解のうえ,諸国大名の 貧,すなわち藩政府の財政不足または財政窮乏に基づいて発行された点を重視 し,藩札は政府紙幣であると主張したと考えられる.それゆえ,藩札=政府紙 幣説が正当という評価を獲得するためには,現実における貨幣の発展と整合的 であることが必要となる.さもなければ,信用貨幣という近代的な貨幣概念を 単純商品流通の段階にある江戸時代において流通していた藩札に適用すること 自体,無理があるという藩札=信用貨幣説に対する批判と同様の批判を受け入 れざるを得ないからである.

14)川上 雅「藩札論」,9 頁.

15)実際,荒木光太郎は次のように述べている.「然るに現今に至りては鋳造貨幣は漸次信用貨幣によ

って代えらるるに至った.すなわち,紙幣たる政府紙幣並びに銀行券は鋳貨に代り,大なる金額の 取引はさらに小切手の使用によって預金通貨を以って決済せられ,鋳貨はきわめて小額の取引にの み用ひらるる傾向を示すのである.(77 頁)

16)田谷教授は,「藩札=信用貨幣説批判」『収集』1995 年新年号)において「このような政府紙幣

の脱落は,もとをただせば,ヒルデブラントなど19 世紀中頃のドイツ歴史学派の人達には,東アジ アの中国,日本にて政府紙幣が発行され流通していたことなど,眼中になかったことによるのであ ろう.」と指摘している.

(18)

発生史的にみると,金,銀などの貴金属が貨幣という価値移転手段に利用さ れてきた.しかし,貴金属が交換手段として有効に機能すればするほど,その 交換価値は素材価値から切り離され,独り歩きするというかたちで貨幣の名目 化が進展する.たとえば,江戸時代に幾度となく実行された金銀貨の改鋳にも かかわらず,金・銀貨が額面価値あるいは重量で通用していたという事実はそ うした文脈のなかで理解することができる.この貨幣の名目化が極限まで進展 した状況においては,貴金属が表象する素材価値から完全に独立した交換手段,

あるいは素材価値による裏付けをまったく必要としない流通手段の登場を想定 することができる.これこそが政府紙幣に代表される不換紙券貨幣(不換紙幣)

である.その意味で,作道教授が主張するとおり,信用貨幣と政府紙幣とは相 対立する概念ではなく,藩札が信用貨幣でないからといって直ちに政府紙幣で あるとは主張できないのである.

加えて,古今東西の貨幣史を紐解くと明らかなように,政府不換紙幣が世界 的に普及したのは

20

世紀前半以降のことである.すなわち,欧米主要国が

1930 年代に金本位制から管理通貨制度へと移行するなかで,典型的な信用貨幣

である兌換銀行券が不換紙幣化し,政府紙幣(より正確にいうと,中央銀行券)が 一般的な交換手段として広く普及したのである.このことはまた,貨幣経済が 発達するなかで正貨準備による裏付けを必要としない不換銀行券が交換手段と して広く受け入れられたことを示唆している.その意味で,発展段階論的に鋳 造貨幣に次いで登場する貨幣は政府紙幣であるとは断定できないほか,政府紙 幣は

20

世紀になって普及した貨幣概念であり,江戸時代の藩札には信用貨幣 概念と同様に適用し難いといわざるを得ない.

一方,田谷教授の指摘どおり,アジアにおいては古くから紙幣が流通してい た.たとえば世界最古の紙幣は,10 世紀に中国の四川地域で発行された交子と 呼ばれる鉄銭の預り証である.中国の場合,古来より金銀の産出が少ない一方,

銅や鉄には恵まれていたため,鋳造貨幣は銅貨や鉄銭であった.とりわけ,10 世紀の四川においては鉄銭が流通しており,交易の進展とともに鉄銭に内在す

(19)

る問題が顕現したのであった.すなわち,鉄銭は重くて運搬には不便であると いう素材面での問題が取引ボリュームの大口化により生じ,そうした事態への 対応措置として成都の富民

16 戸に鉄銭を預け,その預り証

(交子)を高額取引 向けの交換手段として利用するようになったのである.その後,交子の発行権 限は政府に移管され,宋と西夏との戦争が長引き軍事費が膨張するなかで,11 世紀末になると財政赤字ファイナンスのため増発された.その結果,交子の価 値は下落し,交換手段として利用されなくなった.

また,元代に入ると,中統元宝交鈔と称される銭貨建ての紙幣が発行された.

この紙幣は当初,政府保有の銀塊で通用力が保証されていたが,その後,濫発 されるなかで信認が次第に薄れていったとされている.この中国における紙幣 発行の歴史は,預り証ないし兌換券として発行されていたものが発行主体たる 政府の財政的要請により不換紙幣化した結果,国民からの信認を喪失し,交換 手段として機能し得なくなったことを如実に表している.この点に関連して田 谷教授は,「藩札は,繰り返すまでもなく,政府紙幣であって,しかも,調べて みると,中国の紙幣と同類のものであった.それ故,中国歴代の紙幣と日本の 藩札は,総じて東アジア的紙幣であったといえるだろう」と述べている17)

しかし,仔細に検討すると,この主張は正しくないことがわかる.日本,中 国で発行された紙幣はともに政府が発行主体になっていたという意味では政府 紙幣の範疇で捉えることができる.しかし,中国の場合には,当初は兌換券と して発行されていたのが,財政面での都合により不換紙幣化したのであった.

一方,日本の藩札は当初より不換紙幣として発行され,その流通価値維持のた め,商人信用が利用されていたところに特徴がある.これに対し,中国の紙幣 では商人信用が信用補完措置として利用されることはなかった.その意味で,

中国の紙幣と藩札は同類であるとはいい難い.加えて,それを根拠として田谷 教授は東アジア的紙幣という概念規定を持ち出しているが,政府貨幣という概

17)「東アジア的紙幣−私の藩札観―」『収集』1998 年新年号)

(20)

念に地域的な特色があるはずがない.仮にあったとした場合,それ自体,藩札 が政府紙幣ではないことを示唆しているといえよう.

3. 3

田代領銀札をどう理解するか

田代領銀札の性格を議論するに際しての考え方について,田谷教授自身,『大 会報告集』のなかで次のとおり述べている.「私は,藩札が,国産専売と結びつ いて発行された場合でも,手形であったとは考えていない.したがって藩札は,

本源的な信用貨幣ではなく,もとより,本来の信用貨幣でもなかった,と考え ている」.

多分,この主張のなかの手形という文言のなかに問題の本質が隠されている ように窺われる.すなわち,田谷教授は推察するに,信用貨幣であれば手形と して発行され,政府紙幣であれば不換紙幣として発行されるという二元論的な 発想を基礎として藩札の性格を検討している.それゆえ,手形として発行され 得ない藩札は信用貨幣ではないという結論が導かれる.この結論の当否は別と して,手形,不換紙幣以外に藩札を発行する途はないのだろうか.実はあるの だ.大名領国政府,札元,あるいは専売制の下での銀札会所が特産物等の生産 者に設備増強資金を貸し付けるという方策を採用すれば,藩札の発行は可能と なる.金融論の観点からいうと,政府,札元あるいは銀札会所が発券銀行とし て有望な生産技術を有する商家に生産設備拡張に必要となる設備資金を現金=

藩札でもって貸し付ければ,藩札は自ずと発行されることになるのである.

この点,作道教授は,先に指摘したように「蝋会所が一種の問屋制前貸しの 機能を果たし,銀札会所がその資金を供給する機関としての役割を担っていた」

とするなど,正確に理解している.その一方,田谷教授の場合には,藩札=政 府紙幣説に固執するあまり,そういった発行形態を見過ごした可能性が高いと いわざるを得ない.加えて,田谷教授は,田代領銀札を貸付利子型に分類する など,利息の獲得が藩札発行の主たる目的であったかのように主張しているが,

利息の獲得は貸し付けに随伴するリスク負担の対価であり,それ自身が目的で

(21)

はないという点にも留意する必要がある.いずれにしても,田代領銀札の事例 は,藩札には多様な形態があり,財政赤字補填のために発行される政府不換紙 幣という捉え方はやや単純過ぎるということを示しているのではなかろうか.

4

改めて藩札の性格について考える

4. 1

江戸期幣制のなかで藩札を議論する

以上のとおり,本論文では藩札は信用貨幣か政府紙幣かという論争を取り上 げ,作道教授および田谷教授による所論を批判的に検討してきたが,その結果,

藩札は信用貨幣ではないと同時に政府紙幣でもないことが導かれた.それでは,

藩札の性格についてはどのように理解すればよいのだろうか.あるいは,藩札 とは一体どのような意味で貨幣として機能していたのだろうか.これまでの議 論においてはとくに触れて来なかったが,作道教授,田谷教授とも,経済発展 段階説あるいは藩札の発行・流通という枠組みのなかでの議論に終始し,三貨 制という江戸時代に独特な貨幣制度との関連で藩札発行を捉えたうえでその性 格を検討するという意識が希薄であったといっても過言ではない.

実際,田谷教授が指摘するように,藩札は幕府貨幣から派生した前近代的な 紙幣であるのは間違いのないところである.このことはまた,徳川幣制におけ る藩札の位置づけと性格,さらには藩札発行の意義や機能などを検討するに際 しては,三貨制との関連で議論する必要があることを示唆している.しかしな がら,今から振り返ると,藩札=信用貨幣論争においてはそうした観点からの 検討がほとんどなされず,互いの所論の正当性が主張されるに終始していたと いうことができる.その結果,藩札=信用貨幣論争は,テーマそのものの重要 性にもかかわらず,近世貨幣史研究における

2

大巨頭間での一種の哲学論争で 終わってしまい,貨幣史学界を挙げての論争にまで発展しなかったのである.

それゆえ,藩札=信用貨幣論争を超えて藩札の性格を規定するに際しては,

藩札を三貨制のなかに明示的に位置づけたうえで,その役割,機能および意義 について流通実態に即したかたちで議論することが重要であると同時に必要不

(22)

可欠なアプローチではないかと判断される.本章では,そうした立場に立って,

改めて藩札の性格や発行の意義などについて検討することにしたい.

4. 2

地域的な通貨不足の解消手段としての藩札発行

最初に,17 世紀半ばを境として激変した江戸時代の貨幣制度を取り巻くマク ロ的な環境変化についてみることにしよう.16 世紀後半から

17

世紀前半にか けて世界でも有数の規模を誇っていた日本の金銀産出量も,幕府貨幣が全国に 広く浸透した寛文期(1660 年代)ごろから大きく減少した.また,寛文

4

(1664)の金輸出解禁に伴い,銀貨に加え金貨もかなりのペースで流出した.一 方,国内経済の成長・発展とともに貨幣に対する需要はさらに高まっていった.

そうしたなかで

17 世紀後半になると,通貨不足が深刻な経済問題として浮上し

てきた.また,元禄期(1688〜1704)に入ると,五代将軍綱吉による豪奢な生活 や各地で発生した大火・風水害などを主因として支出が急膨張したため,幕府 財政は危機的な状況に陥った.こうした事態への対応措置として徳川幕府が実 施したのが,幕府貨幣の改鋳であり,大名領国政府による藩札発行の容認であ った18)

この

17

世紀後半の日本において発生した通貨不足は,大名領国でとくに深 刻な経済問題として受け止められた.地方所在の大名領国においては,大坂と いった大都市との交易が幕府貨幣の主たる流入経路を形成していたという事情 もあって,比較優位にある特産物を有しない大名領国を中心に,貨幣需要の増 大とともに通貨不足問題に直面することになったのである.そして,この地域 的な通貨需給のアンバランスを平準化するための手段として徳川幕府により容 認されたのが,領国大名政府による藩札発行であった.藩札の発行は寛文元年

(1661)の越前国福井藩に始まり,その後,宝永

4

年(1707)から享保

4

(1730)までの

20

余年間,徳川幕府により一時的に発行禁止になったが,明治

18)宮本又郎・鹿野嘉昭「徳川幣制の成立と東アジア国際関係」『国民経済雑誌』第179 巻第3 号,

1999 年3 月,10〜14 頁.

(23)

期に至るまで約

200

年の間,全国各地で途絶えることなく発行されるなど,大 名領国における交換手段としてきわめて重要な役割を果たしていたのである.

田谷教授や作道教授による所論では,「大名領国政府の財政窮乏を賄うために 発行された紙幣」あるいは「純粋領国型の悪貨範疇」というかたちで,藩札発 行の財源的側面が強調されている.しかし,大名領国におけるマクロ経済的な 通貨の需給バランスという観点からいうと,領国財政の窮乏化は必然的に幕府 貨幣の純流入額の減少を招来する.そして,江戸時代初めにおける金銀正貨の 流通残高(領国金銀貨を含む)に領国への幕府貨幣の純流入額の累積値を加えた のが一領国内での通貨供給量であり,これが所要通貨需要量を下回るときに通 貨不足が発生する.その意味で,大名領国財政の困窮化と通貨不足とは同じコ インの表と裏の関係にあるということができる.

大名領国財政の逼迫要因としては種々のものが指摘しうるが,そのなかでも 最大の要因としては参勤交代が挙げられる.とりわけ,参勤の年,諸国の大名 は多数の家臣を抱えて消費生活するだけの江戸在府を強いられる.しかも,江 戸での生活費は年々膨張していったため,大名領国の財政は押し並べて窮乏化 の途をたどり,藩札の発行に踏み切らざるを得なかったのである19).藩札の発 行が始まった寛文・延宝期から元禄期にかけては,まさにそのような時代であ った.ちなみに,徳川幕府が

1695 年

(元禄8 年)に断行した元禄の改鋳は改鋳 益金の獲得を目的とした悪鋳という評価が支配的ではあるが,改鋳の結果,国 内の通貨供給量は

1710 年

(宝永7 年)までの

15 年間で 85%増加した.その一

方で,米価の上昇率は

15%にとどまっていた.このことは,マクロ経済的にみ

た場合,当時の日本経済においては通貨不足に起因する需要不足,すなわちデ フレギャップが存在していたことを示唆している20)

地方の大名領国経済も同様のデフレギャップに悩んでいた.しかし,徳川幕 府とは異なり,貨幣発行権を有さない領国政府においては,領内の幕府貨幣を

19)藤野 保『大名と領国経営』新人物往来社,1978 年,93〜94 頁.

20)宮本・鹿野,前掲論文,10〜11 頁.

(24)

藩庫に吸収・集中のうえ,それらを準備資産として数倍の規模で藩札を発行す るという方策しか残されていなかったのである.このように,藩札の発行要因 として財政的事情を強調するのが通説となっているが,マクロ経済的な観点か らすると,地域的な通貨不足の解消手段として藩札の発行が始まったというこ とができる.また,領国大名政府からみた場合,藩札の発行はきわめて好都合 な総需要管理手段であった.藩札発行高に対する幕府貨幣の準備率を変更する だけで,領国経済や藩財政の変化に柔軟に対応することが可能となったからで ある.しかし,財政規律が一旦後退すると,歯止めをかけるのが困難となる.

それゆえ,過剰発行となった領国においては藩札に対する信認が動揺し,札騒 動が発生したのである.

4. 3

藩札は通貨の円滑な供給を目的とした地域通貨である

それでは,大名領国内での通貨不足はどのような方法でもって解消されたの だろうか.この問題について検討する前に,藩札の発行方法についてもう少し 詳しくみることにしよう.大名領国政府では,藩札の発行に際し通用仕法を詳 細に制定のうえ領民に公示していたが,その仕法はおおむね次のような条項か らなっていた.すなわち,①領内における幕府正貨の流通禁止(ただし,たとえ ば銀2分以下の小額取引を除く),②個人間での正貨と藩札との引替取引の禁止,

③藩札から正貨への引き替えは,藩外支払目的を除き禁止する,④藩士への禄,

給料(現金支給分)等はすべて藩札で支給する,⑤年貢等藩政府への支払いは藩 札で行う,などといった規則が定められていたのである.そして,藩札を最初 に発行するに当たって領国大名政府では,領民に対し彼らが保有する幕府正貨 との引き替えを義務づけるなど,幕府貨幣との引き替えで発行されたのである.

藩札=信用貨幣論争では,こういった発行方法に関する言及がほとんどみら れない.しかし,実は,このこと自体,きわめて重要な論点を提供しているの である.第

1

に,領国内の幕府正貨は大名政府の手許に集中され,藩庫のなか で一元的に管理されることになった.第

2

に,その結果,領国内からは幕府貨

(25)

幣が姿を消し,藩札しか交換手段としては利用できないため,領内の取引は自 ずと藩札で決済されることになった.第

3

に,領国大名政府では,藩札と幕府 貨幣との引き替えに際し藩札と幕府貨幣との交換を約束していたという事情も あって,領民から吸収した幕府貨幣の一部を兌換準備として保有しなければな らなかった.

このように領内で流通していた幕府貨幣見合いで藩札が発行される限り,領 国政府の財政収支は何ら改善しないのみならず,領内の通貨需給バランスも不 変にとどまる.それゆえ,藩庫に吸収された幕府貨幣を兌換準備金として,そ れを大幅に上回る量の藩札が財源調達手段として発行されたのである.通常は 藩札発行高の

3

分の

1

程度が兌換準備として保有されたため21),藩札の発行に より領内の通貨流通量は約

3

倍に増大し,通貨不足の解消に役立ったというこ とができる.言い換えると,藩札の発行は濫発の可能性を秘めつつも領内での 通貨需給バランスの改善に大きく寄与したのである.

その一方で,こうした発行方法は,藩札が田谷教授の唱える藩札=政府紙幣 説とは異なり,藩札は単純に不換紙幣として発行されたものでは決してないこ とを意味している.藩札の場合,形態的には政府紙幣として発行されたが,当 初は幕府貨幣との引き替えで発行されたという経緯もあって,約束が誠実に履 行されたか否かという問題を有してはいるものの,本来的には兌換券として発 行されていたのである.ただし,先に述べたように,藩札は部分準備の紙幣と して発行されたため,領民すべてが一斉に幕府貨幣との交換を要求すれば,引 き替え不能となるのは火を見るよりも明らかであった.そうした事態の発生を 回避するには,領民が藩札の兌換可能性を強く信頼し,藩札をそのまま交換手 段として保有・利用するよう仕向けることが必要不可欠となる.それゆえ,大 名領国政府では,有力な商家を札元に登用するなど,商人信用を利用して藩札 に対する領民からの信認の維持向上に努めたと考えられるのである.

21)山口和雄「藩札史研究序説」『経済学論集』(東京大学)第31 巻 第4 号,1966 年1 月.

(26)

このように大名領国政府が発行した紙幣である藩札を幕府貨幣あるいは徳川 時代の幣制との関連で捉えると,それは領内で流通していた幕府貨幣との引き 替えで発行された代用貨幣であると規定することができる.そして,藩札の発 行高は,領内の通貨不足解消や財源調達のため,藩庫に吸収された幕府貨幣の 数倍にのぼったほか,その後,財政赤字ファイナンスを目的としてさらに増発 されることになった.その一方で,藩札の場合,兌換準備率を高水準で維持す ることが必ずしも容易ではなかったため,過剰発行されたという風評が支配的 になったときに札騒動が発生することになった.

多分,これが江戸時代の幣制,藩札の発行事情に加え,貨幣の定義を踏まえ たうえでの藩札の概念規定であり,そうした点に藩札の特徴および貨幣史上の 意義を求めることができるのではないかと思われる.こうした性格を有する藩 札を現代的な観点から解釈すると,それは,通貨の円滑な供給および地域の活 性化を目的として地方政府により発行された地域通貨であるといえよう.この 場合,地域通貨とは,地方政府や地方の団体が発行した,特定の地域において のみ流通する貨幣のことをいう.

4. 4

専売制とのリンクで大きく変容した藩札の性格と機能

また,19 世紀に入ると,地場産業の振興を目的として藩札を発行するという 事例が増大した.肥前国にあった対馬藩の飛び地=田代領の銀札との関連で議 論された,国産物の専売制とリンクした藩札の発行が増大していったのである.

この場合,藩札は生蝋,藍などといった地場産業の育成を目指して特産品の生 産業者に設備増強資金を貸し付けるための手段として利用されていた.こうし た融資はそれまでの間,有力問屋が担っていた生産前貸しに相当するが,実際 にはそれ以上の経済効果を発揮し,領国経済の発展に大きく寄与したのである.

というのも,専売制と藩札発行とがリンクした結果,特産品の生産業者に対し 長期にわたる設備資金を融通するという資金供給経路が新たに創出されたほか,

領国大名政府が資金融通機能を媒介として地場産業の振興に直接関与すること

(27)

が可能となったからである.

それはまた,金融論の観点からいうと,政府,札元あるいは銀札会所が発券 銀行となって,有望な商家に設備資金を現金=藩札でもって貸し付けていたこ とを意味している.田谷教授は,そうした専売制とリンクして発行された藩札 のうち豪家が兌換銀を提供していた田代領銀札は例外的な藩札であると位置づ けるとともに,従来型との峻別を狙いとして貸付利子型藩札あるいは私札的藩 札と命名している.しかし,この田代領銀札にとどまらず,専売制とリンクし て発行されたことにより,藩札の性格や機能そのものが大きく変容したのであ る.実際,専売制とのリンクに伴い,藩札の発行は大名領国政府による地場産 業振興のための資金融通手段としての位置づけが色濃くなるとともに,そうし た経路を通じた発行が増大していった.ちなみに,荒木三郎兵衛氏による藩札 研究の集大成である『藩札』(上巻・下巻,いずれも改訂版,1965 年および1971年)

においては,幕末にかけて発行された藩札のなかには「産物会所」「国産会所」

「国益方」などが発行主体として明記されているものが少なくないことが明らか にされている.

専売制とリンクした藩札発行は,田谷教授の言葉を借りれば,貸付利子型と 称されるべき新しい発行形態の生成・発展を意味している.そして,貸付利子 型の藩札発行が全国に広く普及していくなかで,その性格も,地場産業振興の ための資金融通手段へと大きく変容を遂げていったと考えられる.実際,大名 領国政府からみた場合,こうした種類の藩札発行は地場産業の振興・発展に寄 与するにとどまらず,幕府貨幣の純流入額の増大および貸付利子の獲得を媒介 として藩財政を潤すとともに藩札に対する信認の向上につながるという効果を 有していたのである.それゆえ,幕末にかけて大名領国政府の多くが挙って藩 内の特産物に対し藩専売制を適用するとともに,専売制とリンクした藩札の発 行に踏み切ったということができる.

この藩札のあり方の変容は,金融論の立場からは,次のように整理される.

すなわち,藩札は最初に大領領国政府と商家との間に成立した長期の資金消費

(28)

貸借契約に基づき発行される.そして,新たに発行された藩札の貸与という形 態でもって資金融通を受けた商家は,それを支払資金に充当して特産品の生産 施設の拡大に務める.生産施設の拡大は,乗数効果を通じて領国内の生産・消 費活動を刺激する.最後に,借り手となった商家は特産品の売り上げで得られ た収益のなかから借入元本と利息を合わせて返済する.こうした一連のプロセ スを経て藩札は領内を循環し,その経済活動を刺激するとともに幕府貨幣の純 流入を促した後,藩庫に回収される.このように藩札は専売制とリンクした結 果,大名領国政府と商家との間の成立した債権・債務関係を前提として一種の 銀行券のように発行され,資金融通契約が満了するまでの間,領内を貨幣とし て転々循環するようになったのである.その意味で,幕末に至って藩札は専売 制とリンクするなかで信用貨幣的な性格を帯びるようになったということがで きよう.

5

お わ り に

以上のとおり,本論文では

1980 年代前半に交わされた藩札は信用貨幣か政

府紙幣かという藩札=信用貨幣論争を取り上げ,その論争の意味するところと 藩札の性格付けについて金融論の成果をも利用しつつ多角的な観点から検討を 行った.その結果,論争の当事者であった作道教授および田谷教授による所論 とは異なり,藩札は信用貨幣ではないと同時に政府紙幣でもないことが導かれ た.両教授とも,ドイツ歴史学派のヒルデブランドなどが提唱した経済発展段 階説を理論的な拠り所として自らの所論の正当性を主張していたが,そうした 理論に固執するあまりに藩札の発行・流通の実際や幕末にかけての性格の変容 などに対する分析や検討が十分でなかったことによるものと思われる.

しかし,そのこと自体,藩札=信用貨幣論争は,歴史研究に際し理論と実証 の関係をどう位置付けるかという経済史方法論における課題達成の困難さを意 味している.藩札の性格を議論するに際しては,帰納法および演繹法の一方に 偏することなく,バランスの取れた接近が求められているのである.中央大学

参照

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