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貨幣について : 経済と社会・および貨幣の問題をめぐって(荒木廸夫教授退官記念論文集)

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貨幣について

経済と社会・および貨幣の問題をめぐって

田  中  菊  次

1 はじめに  貨幣は,現在,われわれの人間・社会の生活の中で,最も普遍的で,また最 も重要な要因の一つである。旧く日常的な身辺生活では,貨幣は紙幣あるいは 硬貨という形態で存在し,われわれは1日1時といえども貨幣から無縁である わけにはゆかない。国民経済的な機構の中では,貨幣は,さらに,預金通貨の 形態で大口の流通で巨大な比重を占めている。そして最近では,コンピュータ ーの発達とともに,いわゆるエレクトロニック・マネーが進展しつつある,と いわれる。また,国際経済の関係では,世界貨幣としての金や銀の時代から, 第二次世界大戦後,国際通貨基金(IMF)体制のもとで,ドルが国際的基準 コ      きん 通貨となり,その後,金との交換を停止されたドルは国際基準通貨としてのそ の地位を低め,いまや,新たな国際通貨制度が模索されている。ひるがえって 歴史的に遡ると,例えば,わが国の近世では大判・小判といった金鋳貨や種々 の補助鋳貨や藩札などの紙幣もみられた。さらに時代を遡ると,貨幣は,いわ ゆる原始貨幣として,無数の種類の鉱物・植物・動物,はては人間(女性や奴 隷)までも,物品貨幣あるいは物財貨幣であった,といわれている。  このような貨幣の存在状況を背景にして,貨幣とはいったい何であるか?貨 幣存在の始元は如何なるものであり,貨幣の存在や生成の根拠は何であるか? 貨幣は,将来,どのようになるか?といった貨幣にかんする,古くて新しい, 根本的な諸問題が,現在,また,更めて問われている。  近代の経済学は,貨幣の問題をその最も基本的で重要な課題としてきた。経

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済学にとって,貨幣は,商品や資本とともに,その原理的なものを形成する基 本的なカテゴリーとなった。K.マルクスはその貨幣論を,彼の主著『資本論』 の第1部の第1篇「商品と貨幣」の中で展開している。よく知られているよう に,マルクスの貨幣論に対しては,彼の経済学全体系にかかわる批判とともに, 数多くの批判が加えられてきている。だが,しかし,それにも拘らず,マルク スの貨幣論は,その全経済学的な体系性において,また,その精蜜な理論的構 成において,さらに,近代ブルジョア社会の経済学的分析を通して,人聞・社 会・歴史の一般に通じるものを探索するというその方法的本源性において,経 済学における数多くの貨幣論の中でも,最も優れた代表的なもの,とみること ができるであろう。たが,しかし,いまや,マルクスの貨幣論は一つの新たな, しかも極めて厳しい挑戦に当面している。それは社会人類学あるいは経済人類 学などの見地からの貨幣論的挑戦である。 “貨幣は集団表象である”あるいは “貨幣は貨幣であるが故に貨幣であって,貨幣の存在に他の実体的な根拠を求        1) めること自体が無意味である”といった見地からの批判である。  以下,小論では,これらの論点を念頭におきつ・,経済学における貨幣の問 題と社会人類学あるいは経済人類学における貨幣の問題とをめぐって,若干の 考察を試みてみたい。 II経済(学)と貨幣について  『資本論』におけるマルクスの貨幣論は,その第1部第1篇第1章第3節の 「価値形態」と同第2章の「交換過程」と第3章の「貨幣または商品流通」で 展開されている。その「価値形態」と「交換過程」とは商品から貨幣への生成 の問題を取りあつかい, 「貨幣または商品流通」は,商品から生成した貨幣と 商品世界との関係の展開のうちに貨幣の諸機能が分析され,資本の端初範疇と    コ   コ   ロ       ロ   コ しての貨幣としての貨幣・Gが措定されている。小論ではこれらのうちマルク 1)例えば吉沢英成『貨幣と象徴   経済社会の原型を求めて』(1981年,日本経済新聞社). 岩井克人『貨幣論』(1993年,筑摩書房),湯浅赴男『経済人類学序説一マルクス主義批 判』(1984年,新評論)などである。

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      貨幣について    3 スの貨幣生成論を中心に考察をすすめることにする。社会人類学あるいは経済 人類学などの見地からのマルクスの貨幣論批判の一つの中心的論点が,やはり 貨幣存在論あるいは貨幣生成論にある,といえるからである。  よく知られているように, 『資本論』の貨幣論,とりわけ価値形態論と交換 過程論にかんしては,これまで実に多くの研究が積まれ,また極めて熱心な論 議がなされてきている。それにも拘らず,問題は,なお,依然として,眞の決        2) 着には達していない,としなければならない。..そして,そこには,マルクスの 貨幣論とそれに対する社会人類学あるいは経済人類学などからの批判的見地と が深くかかわり合っているのである。  マルクスの価値形態論はそれに先行する「商品の二要因」論と「商品に表わ される労働の二重性」論を前提にして,商品の価値の表現を“簡単な価値形態”, “全体的な価値形態”,“一般的な価値形態”と追跡して, “光まばゆい貨幣形 態”にまで達することであり,それによって“貨幣の謎”を解くことである。 この価値形態論で従来から問題とされているのは,形態II(全体的な価値形態) から形態III(一般的な価値形態)への移行におけるマルクスのいわゆる“逆 転”の叙述である。すなわち,マルクスは,そこで,「実際,もしある人が彼 のリンネルを他の多くの商品と交換し,それゆえ,リンネルの価値を一連の他 の商品で表現するとすれば,必然的に,他の多くの商品所有者もまた彼らの商 品をリンネルと交換しなければならず,それゆえ,彼らのさまざまの商品の価 値を同じ第3の商品で,すなわちリンネルで表現しなければならない。一こ うして,形態IIを逆にすれば,すなわち,この列に事実上すでに含まれてい        3)る逆の関連を表現すれば,形態IIIがえられる。」としている。  岩井克人『貨幣論』もこれらを念頭において,   「全体的な価値形態Bを逆にすると一般的価値形態Cがえられる  マルクス  のこの説明のあまりの“安易”さに,従来のマルクス解釈者はほぼ例外なく狼狙  し,なんとかより“深遠”な“解釈”を与えようとつとめてきた。たしかに,マ 2)例えば富塚・服部・本間編『資本論体系』,「2,商品・貨幣」(1984年,有斐閣),参照。 3)K,マルクス『資本論』,1 (1982年,新日本出版社),111ページ。

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 ルクスの議論はいささか混乱している。だが,その混乱の一端は,ほんらい商品  語の世界であるべき価値形態論の説明の中に,ときおり交換過程の言葉であるべ  き人間語がまじったことからきているのである。じっさい,価値形態論がすでに  何らかの意味で価値体系が成立している商品世界をその分析の対象にしているこ  とさえ念頭におけば,全体的な価値形態Bから一般的な価値形態Cへの“移行”  とは,別に深遠な解釈など必要としない“問題”ならぬ“問題”なのであること        4)  がわかるだろう。」 としている。  “交換過程論的な言葉の混入”の問題については後述にゆつって,ここでは, まず,この岩井・貨幣論におけるマルクス価値形態論の処理について検討する ことにしよう。  岩井・貨幣論はいっている。   「一つの商品リンネルを考えてみよう。そして,何らかの理由で,このリンネ  ルに全体的価値形態が成立していると想定してみよう。重要なのは,ここでは何 故リンネルが全体的な相対的価値形態であるかという交換過程的な問いを発して  はいけないということである。……どのような理由であれ,リンネルが他のすべ  ての商品それぞれに自分との直接的な交換可能性を与えるという純粋に思考実験  的な想定から出発するのである。そうすると,当然,上着もお茶等々も,それぞ  れがリンネルと直接に交換可能な存在となることになる。したがって,今度は逆  に,上着もお茶等々もそれぞれ同時にリンネルに対して自分との直接的な交換可  能性を与えることができることになる。これは,勿論,リンネルが可能性として  (そして,あくまでも可能性として)一般的な等価形態となることを意味してい  る。すなわち,ペテロが人間としての主体性を他のすべての人間への関係によっ  て社会化することが,ペテロの人間としての客体性が他のすべての人間からの関 係によって社会化されるための条件となるのである。全体的な価値形態Bは必然  的に一般的な価値形態Cを可能にするのである。 4)岩井克人『貨幣論』,前掲,46ページ。

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 ここにあるのは,たしかに深遠さを欠いた味気のない論理的関係だけである。 それは,たんに,もしリンネルが他のすべての商品に自分との直接的な交換可能 性を与えているならば,まさにそのことによって,他のすべての商品はそれぞれ リンネルに自分との直接的な交換可能i生を与えることができるといらているにす   5) ぎない。」  「このようにして貨幣形懲Dに到達したマルグズは,自ら展開してきた価値形 態論の成果にかんして,いささか自負心とともに要約を与える。……20エレのリ ンネル=一着の上衣 という単純な価値形態Aから出発して,金を一般的な等価 形態にする貨幣形態Dによって商品世界の価値形態が完成したとき,価値形態A にみられた主体と客体との臣下と王との“とりちがえ”は社会的に“固定化”さ れ,その起源は全く忘れさられてしまうのだ,とマルクスはい%そこでは“一 商品は,他の商品が全面的に自分の価値をこの一商品で表わすので始めて貨幣に なるとは見えないで,逆に,この一商品が貨幣であるから,他の諸商品が一般的 に自分たちの価値をこの一商品で表わすように見える”というわけである。これ がマルクスが見いだしている“貨幣形態の秘密”にほかならない。  だが,ここにいたっても,マルクスの価値形態論はいまだ古典派の重金主義批 判の水準をこえているとはいえない。たしかに,単純な価値形態Aにかんする“と りちがえ”の場合とちがって貨幣形態Dにかんする“とりちがえ”は,もはやた んに個人の頭の中にまぎれこんでしまった呪物崇拝ではない。だが,マルクスが “何々とは見えないで……何々のように見える”といっている限り,それは社会 全体をまきこむ共同性をもってはいるが,主観的な呪物崇拝であることには変り はない。……  しかしながら,貨幣が貨幣であるという事実は,一回の玉音放送によって霧散 してしまう共同幻想などではない。それは商品世界の存在構造そのものが必然化       6) する社会的な実在なのである。」 岩井・貨幣論は,また,次のようにもいっている。 5)同前,46−48ページ,参照。 6)同前,51−52ページ,参照。

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  「“単純な価値形態,すなわち貨幣形態のこの萌芽形態の不十分さは,一見して  明らかである。”とマルクスはいう。だが,いったい,価値形態Aのどこが不十分  だというのだろうか?勿論,20エレのリンネルと一着の上衣との等価関係はたん  なる“偶然的現象”であるかもしれず,労働価値論によってすでに抽象的一般的  に規定されている価値表現としては不十分だというのである。それでは,マルク  スはなぜ“価格形態”あるいは“貨幣形態”が価値形態の成熟したすがたである  というのだろうか?勿論,それは,貨幣を共通の媒介とすることにより,すべて  の商品を貨幣にふくまれている労働の物質化として“質的に等置”するからだと  いうのである。すなわち,“諸商品を……同じ労働実体の物的な諸表現として相  互にあらわす”べき“価値形態”が,貨幣形態においてまさに“価値概念に対応”  しているからだというのである。   『資本論』の読み手の多くは,ここに循環論法のにおいをかぎつける。労働価  値論を前提して商品世界の貨幣形態をみちびきだし,商品世界の貨幣形態をとお  して労働価値論を実証するという循環論法である。たしかに,過去に何人もの人  が何とかこの循環論法をつかわずに価値形態論を再構成することを試みてきた。  だが,護教的なマルクス主義者をのぞく大多数の読み手は,この循環論法に絶望  して,労働価値論も価値形態論も捨てさってしまったのである。   しかしながら,“循環論法”それ自体はかならずしも絶望すべきものではない,  いや,これからわたしが示していこうと思うのは,“貨幣形態”にもし“秘密”  があるとしたら,それはこめ貨幣形態を固有の価値形態とする商品世界がまさに  “循環論法”によって存立する構造をしていることなのである。それは同時に,  貨幣という存在が,商品世界におけるまさに,“生きられた循環論法”にほかな       7)  らないことを示すことなのである。」  これらの叙述部分には,マルクスの価値形態論に対する岩井・貨幣論の見地 が集約的に示されている。その主要な内容は,第1に,マルクズの価値形態論 は“純粋に思考実験的な想定や推論”に属している,ということであり,第2 7)同前,41−42ページ,参照。

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       貨幣について    7 に,その論法の実態は,労働価値説を前提して価値形態を展開し,価値形態の 展開によって労働価値説を証明する,という“循環論法”にすぎない,という ことであり,第3に,したがって,価値形態1からIIへの,形態IIから形態III への,形態IIIからIVへの移行は理の当然であって,従来のマルクス経済学 の諸研究が難問としてきている形態IIから形態IIIへの移行における“逆転” の問題は,もともと問題にならない問題を問題にしているにすぎない,という ことであり,第4に,しかしながら,マルクスの価値形態論は, “循環論法” として絶望的に放棄されるべきものではなく,眞の問題は,むしろ,マルクス が自ら創始した循環論法でまだ彼じしんが使い残している内実を見いだし,そ れを生かして貨幣の循環論法的な存在構造そのもののうちに,貨幣の存在を求 めることである,ということである。  こうして岩井・貨幣論は,マルクスの価値形態論を逆読みして   「リンネルが一般的等価形態Cにあるという想定から出発してみよう。リンネ  ル以外のすべての商品が同時にリンネルに対して自分との直接交換可能性を与え  ているのである。そうすると,当然,リンネルは上衣ともお茶等々とも直接に交  換可能な存在になる。したがって,今度は逆に,リンネルが上衣にもお茶等々に  も,それぞれ同様に自分との直接的な交換可能性を与えることができることにな  る。つまり,形態Cは必然的に形態Bを可能にするのである。ここに形態Bと形  態Cとの間の“循環論法”が示されることになる。   結局,リンネルが他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えているならば,  逆に,他のすべての商品はリンネルに直接的な交換可能性を与えることができ,  他のすべての商品がリンネルに直接的な交換可能性を与えているならば,逆に,  リンネルが他のすべての商品に直接的な交換可能性を与えることができるのであ  る。……商品世界においては,リンネルが全体的な相対的価値形態であることと  リンネルが一般的な等価形態であることは,お互いがお互いの成立のための根拠  となっているというまさに宙づり的な関係になっているのである。   ところで,以上の議論は,リンネル商品を例とした純粋に思考実験の話であっ  た。だが,もしそのような商品が現実に存在したならば,それは眞の意味の貨幣

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 である。貨幣とは全体的な相対的価値形態と一般的な等価形態という二つの役割        8)  を商品世界の中で同時に演じている,いや演じさせられている存在なのある。」  こうして,貨幣をめぐる価値形態Bと価値形態Cとの無限の循環論法,岩 井・貨幣論のいう“貨幣形態Z”が成立すると,貨幣は「まさにその“循環論 法”を現実として“生き抜く”存在となる。」そして,そこでは,「貨幣として 機能している商品の生産のための社会的必要労働も,貨幣商品に対する人々の 主観的な欲望も,さらには貨幣として強制的に通用させる共同体の申し合わせ や君主の勅令や市民間の契約や国家の立法といった外部的な要因は,いっさい, 入りこむ余地はない。全体的な相対的価値形態と一般的な等価形態というお互 いにお互いを成立させるための根拠となっているこの二つの形態を同時に演じ ている貨幣という存在は,まさに自らの存在の根拠を自らで宙づり的につくり        9) 出している存在なのである。」というわけである。  このような岩井・貨幣論のマルクス価値形態論の処理については,次のよう にいわなければならない。  まず第1に,もともと,マルクスの価値形態論は,資本主義社会の富は一つ の彪大な商品の集まりとして現われる,という近代の国民経済的な事実から出 発している。つまり,個々の商品は,その富の,いいかえれば,商品世界の単 位であり,近代ブルジョア社会の経済的細胞である。したがって,商品には資 本主義社会の社会的生産関係の最も基本的で単純なものが端初的に含まれてお り,それが商品の二要因,使用価値と価値,具体的有用労働と抽象的人間労働, 私的労働と社会的労働である。商品の価値形態とその発展は,このような商品 の社会関係的内実の発現形態であり,その発展的展開である。このような商品 の概念的内実は,商品体と商品体との,商品の使用価値と使用価値との関係と して現われる。商品の価値的な,抽象的人間労働的な,社会関係的な契機は, もともと目にも見えず手でも触れえない,いわば社会関係的なものだからであ る。したがって,岩井・貨幣論のように,マルクスの価値形態論が“純粋に思 8)同前,52−54ページ,参照。 9)同前,54−56ページ,参照。

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      貨幣について    9 考実験”的な想定や推論にすぎないという見地は,マルクス価値形態論のこの ような内実を見ようとしないもの,としなければならない。  第2に,こうして,価値形態の第1形態から第II形態へ,さらに第III,第 IV形態へという展開は,近代資本主義社会の社会的生産関係の最も基本的で 単純なものからヨリ発達した複雑な内実の展開にほかならない。そこでの特質 は,第1形態としての 20エレのリンネル=1枚の上衣 は,相対的価値形態 に立つ商品・リンネルの価値表現であって,上衣商品のそれではない,という ことであり,また,第1形態と第II形態,さらに第III形態と展開される価値 諸形態相互の関係は,それぞれの質的内容を異にし,その展開のうちに社会関 係的発展を含んでいる,ということになる。したがって,岩井・貨幣論のよう に,マルクスの価値形態論を“逆読み”して,第III形態を第II形態に逆転さ せ,そこから貨幣の存在論的契機となる“貨幣形態Zの無限の循環構造”を 引き出すことはできない。そこにはマルクス価値形態論に対する種々の無理解 が伏在している。価値形態が相対的価値形態に立つ商品の価値表現であり,そ の形式的な逆転は,別の価値表現,例の上衣商品の価値形態という別個の価値 表現となるわけであり,また,価値形態論の本来の内実は第1形態から第II 形態へ,さらに第III形態への移行にあり,第III形態から第IV形態への移行 は田本質的な技術的・慣習的な問題にすぎず,価値形態論の展開としては非本 質的・非本来的なものである,というわけである。したがって,第II形態と 第III形態とを逆読みすることはマルクス価値形態論のこのような本質的な内 実を無視することにほかならない。ここには,むしろ,逆に,岩井・貨幣論に おける“純粋に思考実験”的な性格が露呈している,といえるであろう。  第3に,岩井・貨幣論の結論ともいうべき“貨幣宙づり”論についてである。 すでにみたように,もともと,この結論は,マルクス価値形態論の不合理な“逆 読み”によって引き出された“貨幣形態Z”に基づいている。そして, 「貨幣 はこのような商品世界の存在構造  すなわち貨幣形態Z そのものが必然 化する社会的な実在である。」とし,そこに“貨幣の眞の謎”があるというので ある。だが,しかし,そのような現実の貨幣は,いったい,いつ,どうして,

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どこから,商品世界の中に現われるのであろうか。それは,次節(III)でも触 れるが,やはり,“貨幣生誕の奇跡”をまつ,ということになるのであろうか。  岩井・貨幣論のマルクス価値形態論の処理の主要なものは以上のようなもの である。その底には,商品・貨幣の世界を生産社会に外的な独自の市場領域と する見地が想定されていて,そこからマルクスの価値形態論を純粋に思考実験 的なものと批判するにすぎない,といえるのである。  ところで,マルクスの貨幣論の難問は,以上で取りあげた価値形態論よりは むしろ交換過程論の中にある。以下,節をあらためて考察を加えることにしよ う。 III社会(人類学)と貨幣について  K.マルクスの貨幣存在論あるいは貨幣生成論としての「価値形態」論に対 しては,まだ,他の半面が残っている。それは『資本論』第1部第1篇第2章 の「交換過程」論である。そして,マルクスの貨幣論にかかわる難問は,むし ろ,この方面にある。そこでは,商品関係が商品と商品,あるいは商品と貨幣 の関係として現われ.る価値形態に対して,商品の所有者と所有者との関係とし て現われる。したがって,そこでの主要な課題性は,商品・貨幣形態と人間・ 社会との関係の問題として現われ,おのずから社会人類学あるいは経済人類学 における貨幣の問題や,総じて,経済と社会の問題ともあい接触することにも なるのである。  よく知られているように,マルクスの交換過程論は, 「諸商品は自分で市場 に出かけることができず,また,自分で自分たちを交換することができない。 だから,われわれは,それらの保護者たちを,商品所有者たちを探し求めなけ ればならない。」という叙述で始まっている。したがって,交換過程は商品所有 者たちの意思や欲望や心理などの諸事情を通しておこなわれる。が,しかし, 他面では,このような商品所有者たちのいわば人格的・意思的・心理的・法的 な相互諸関係は,経済的関係によってその内容が与えられており,経済的関係 の反映にほかならない。つまり,商品の本性が,物から商品への,商品から貨

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       貨幣について   11 幣への経済関係の発展として現われ,そして,それらを貫いている経済的法則 が,商品所有者たちの交換を通して現われ,自らの反映と化する,という関係 である。こうして,交換過程論の課題は,商品の本性,商品の二要因,商品価 値の形態など総じて経済的存在としての商品形態が商品所有者たちの交換関係 と如何に関連しているか,経済的関係が所有者たちの人格的・意志的・心理的 ・法的などの諸関係の内容として現われ,それらを如何に規定するかという問 題の解明である,ということになる。  ところが,マルクスの交換過程論の実際はこの点では甚だ不十分なものに終 っている。そこでは交換過程のうちに貨幣が生成する問題を交換過程における 商品所有者たちにおける例の私的過程と社会的過程との矛盾を解決するにあた       はりめ って,結局“太初に行為ありき”というファウストの言葉によって処理し,ま た,諸物の交換から価値形態への進展,さらに貨幣形態への結晶を,「課題は, その解決の手段と同時に発生する」というような一般的命題によって処理して いるにすぎないのである。  従来のマルクス経済学の諸研究は,マルクスのこのような処理について,価 値形態論と交換過程論との問に課題の不分明を見いだし,あるいは,交換過程 論を価値形態論に吸収しようと試み,あるいは,価値形態論と交換過程論との 課題的区別を更めて明確化しようと試みたりしている。すでに触れたように, 岩井・貨幣論も,マルクス価値形態論の例の難問に関連して,商品語の世界で        10) ある価値形態論への交換過程論的な人間語の混入として批判しているが,交換 過程論にかんしては,モースの『贈与論』やポラニーの経済人類学やレヴィ= ストロースの神話論などを引魚しながら次のように論じている。すなわち,マ ルクスの交換過程論は,商品世界の“構造”論としての価値形態論に対する商 品世界の“生成”論であるが,その内実は価値形態論の単線的な構造をそのま ま下敷きにした貨幣の生誕話にすぎないが,その神話物語りは歴史における貨        11)幣の奇跡によって救われる,としている。 10)同前,46ページ。 11)同前,72−104ページ,参照。

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 だが,しかし,マルクスの交換過程論は,これらのような処理によっては決 して済まされえないであろう。そこには,もっと根の深い課題性が伏在してい る,としなければならないのである。 『資本論』の第1部第1篇第3章第1節 の「価値の尺度」の中には,価格形態について二つの異別の規定がみられる。 「商品価値の指標としての価格」と「交換関係の指標としての価格」である。 そして,「商品価値の指標としての価格はその商品の貨幣との交換関係の指標 であるとしても,逆に,その商品の貨幣との交換関係の指標は,必然的に,そ の商品の価値の指標だ,ということにはならない。」というのである。いわゆる        12) “価値と価格の量的ならびに質的背離”の問題である。  いうまでもなく,価値と価格の背離は,マルクスの『資本論』体系において 極めて重要な意義をもっている。まず,価値と価格の量的背離についてみるな らば,市場価値からの市場価格の競争論的背離の関係であり,また,商品価値 から概念的・恒常的に背離する生産価格の関係である。価値と価格の質的背離 についてみれば,資本と労働の問題における労働あるいは労働力の商品化と労 賃形態の関係であり,資本と土地所有の問題における地代範疇を媒介とした土 地の商品化すなわち土地の価格の関係であり,また,資本と資本の問題におけ る資本の商品化の関係,あるいは,資本の価格としての利子の関係などである。 このようにみてくると,価値と価格の量的・質的背離の関係は,近代資本主義 社会における根幹的な,しかも,いわば日常自明の諸事実をなしている,とい うことができるであろう。  しかしながら,ひるがえって考えてみると,価値と価格の背離は,極めて奇 妙な関係であり,それは『資本論』における一つの理論的断層に基づいている。 もともと『資本論』の「価値尺度」論は,第1章の「商品」論と第2章の「交 換過程」論の展開を前提し一ifいる。第1・2章における商品から貨幣への生成 論をうけて,第3章の「貨幣または商品流通」は,商品から生成した貨幣と商 12)13)これらについては,なお,拙稿「価値と価格の背離について」(東北大学「研究年   報・経済学」第29巻第3・4号,1968年)  拙著『資本論の論理』(1972年,新評   論)に所収  ,参照。

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      貨幣について    13 品世界との関係の展開であり,その過程のうちに貨幣の諸機能を解明しようと している。したがって, 「価値尺度」論における価格形態の関係は,商品世界 と貨幣とのかかわりの端初であって,いわば商品世界の貨幣形態,すなわち価 格にほかならない。こうして価値尺度論における価格論は,第1章の価値形態 論の「形態IV・貨幣形態」に即応している。すなわち,“価値形態としての 価格”である。このように見てくると,「価値尺度」論における第1の価格規 定は,価値と価格の量的ならびに質的な背離を含みえないことになる。すでに 前節(II)でもみたように,総じて,商品価値の形態は,商品の使用価値と価値 の二要因の発現形態であり,商品価値の商品体と商品体との関係を通しての現 象形態であって,その根底には,例えば リンネル=上衣 という等価値関係 が貫かれている。したがって,“価値形態としての価格”は,もともと価値と 価格の背離を量的にも質的にも含みえないことになる。  このように見てくると,価値と価格の背離の関係には“価値形態としての価 格”あるいは“商品価値の指標としての価格”とは百韻のものが介在している, ということになる。それは,商品価値から量的あるいは質的に背離しうる“交 換関係の指標としての価格”の介在である。こうして,問題は,マルクスの価 格におけるこの二つの異別の規定の存在であり,その間の理論的断層をどう処 理すべきかの問題である。ここでは,おのずから,本節の始めで取りあげたマ ルクスの「交換過程」論における本来的課題が想起されることになる。それは, 商品の本性が商品所有者たちの交換関係における人格的・意思的・心理的・法 的などの諸関係と如何に関連するか,商品の本性がこのような所有者たちの交 換関係を如何に規定し,自らの反映と化するか,という問題である。ところが, すでにみたように,マルクスの「交換過程」論の実際は,この本来的な課題に は十分には応えず,商品から貨幣への生成を商品所有者たちの交換行為によっ       はじめ て,しかも“太初に行為ありき”というファウストの言葉に擬して処理してい るのである。  ここには『資本論』における一つの大きな理論的・体系的な断層をみとめな ければならない。そして, 『資本論』における価値と価格の背離の関係は,こ

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の理論的・体系的断層をそのまま引きついでいる,といえるのである。“商品 価値の指標であり価値形態としての価格”は, 「価値形態」論の「形態IV・ 貨幣形態」に直結し,他方,商品価値から量的あるいは質的に背離しうる“交 換関係の指標としての価格”は,商品所有者たちの交換関係に介在し,その交 換比率を決める諸要因,すなわち所有者たちの人格的・意思的・心理的・法的       13) などの諸契機の介在によって規定されるわけである。  ところで,『資本論』における価値形態論と交換過程論とのこのような理論 的・体系的な断層には,さらに広くて深い問題性が伏在している。それは,『資 本論』における商品や貨幣の理論的・体系的位置の問題である。  マルクスの経済学研究は,例の「経済学批判のプラン」や「資本論のプラン」 に基づいて進められた。よく知られているように, 『1857−8年草案』の「序 説」に見られる「プラン原形」と呼べるような例の5部編成のプランでは,「一) 一般的・抽象的諸規定」がある。そして,それには,交換価値や貨幣や価格, さらに生産一般や労働過程などがふくまれている。だが,この「一)一般的・ 抽象的諸規定」は当の「序説」とともに,早くも1859年の『経済学批判(のた めに)』(第1分冊)では「差しひかえ」られて,以後,種々のプランにも再び 現われることがない。しかしながら,この問題は,決して,マルクスの経済学 研究から「差しひかえ」られたわけではない。それは『資本論』の「若干の序 k”、として,現行・資本論、の第1部の第、篇・商品と貨幣、や第2篇・貨幣 の資本への転化」,さらに第3篇の記章「労働過程と価値増殖過程」に当たるも のとみることができるであろう。  ここには近代資本主義社会の理論的再生産の体系としての経済学がどのよう な体系順序において構成されるべきか,という根本的な方法問題がかかわって いる。だが,しかし,マルクスの生涯的な経済学研究は完結せず,その最終に して最高の到達点である『資本論』じたいも形式的にも実質的にも未完成のま ま残されている。したがって,『資本論』における商品・貨幣論も,叙上の価 14)1858年2月22日のマルクスからラサールへの手紙。

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      貨幣について   15 値形態論と交換過程論の問題が端的に語っているように,十分野仕上げられて いる訳ではない。そこには近代資本主義社会の理論的再生産の体系は,商品や 貨幣をどう理論的・体系的に位置づけるか,近代社会以前的な存在をもつ商品 や貨幣を,近代ブルジョア社会の理論的再生産の体系を構成する経済学的諸範 疇の一つとしてどう処理するのか,という問題が依然として解明しきれずに残 されているといえるのである。そして,ここでは,おのずから,社会人類学や 経済人類学からのマルクス貨幣論批判,あるいはマルクス経済学批判ともあい 接触することになるのである。  吉沢英成『貨幣と象徴  経済社会の原型を求めて』は, 「貨幣は人々が貨 幣だと思うから貨幣でありうる,集合表象である。また,貨幣は経済の手段で はなく,むしろ,経済が貨幣を前提にし,貨幣のもとでなされる物質代謝の営 みである。したがって,貨幣は人間社会とともにあったし,またありつづける。 貨幣は,あたかも言語のように,どこからも生まれなかったし,どこえも消え        15) て無くなりはしない。」ということを論定しようとしている。このような論定に いたる経済人類学的な全体的見地についての,とりわけ,その方法的見地につ いての検討は,別の機会をまたなければならないが,ここではそのマルクス貨 幣論批判あるいはマルクス経済学批判を中心に,若干の考察を試みてみよう。  吉沢・貨幣象徴論はいっている。   「周知のようにマルクスは,労働生産物が纒う“商品”という形態を,資本主  義経済を特徴づける基本的範疇としていた。」そして,その商品形態は,近代資本  主義社会における生産有機体としての労働編成をいわば外的に媒介する形態であ  る。そこでは,労働の直接的人間関係は物と物,商品と商品との関係として現わ  れる。商品の背後にあって価値の本質をなす労働の質的編成は,こうした外観,  表象に隠蔽されている。 「マルクスはこの外観,表象,隠蔽,そしてこれらをひ  きおこす力を“商品の物神性”とよぶ。」つまり,労働の編成を原空間とすれば,  商品の次元は,それと対応する派生空間である。マルクスは貨幣を,この派生空 15)吉沢英成『貨幣と象徴』,前掲(以下の引用ページは1994年の筑摩書房版による),11−1  2ページ,参照。

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 間の必然的な産物として位置づけ,商品のもつ必然的な論理によって生成するも       16)  のとした。この論理が彼の“価値形態論”であった。   「マルクスの労働価値論は,商品の次元と労働編成の次元との間に対応関係を  見出すことによって提示された。この対応が単に外的なものでなく,商品の次元  から,いわば内的論理にしたがって必然的に労働編成の次元へ移行するような対  応関係としていかに設定されるかということが,労働価値説の論証の一つの重要  な課題であった。ことに労働力までが商品の次元に加えられるときに,二つの次  元の対応関係をいかに扱うか,多くの論争の対象となってきた。」問題は,「これ  ら二つの次元に対応関係をつけるというマルクスの思考を支えたものは何であっ  たかという点である。」そして,それは,結局のところ,マルクスは労働編成のう  ちに個と全体との直接的統一を見いだして,「商品世界の見えざる内容」あるい  は「商品価値の見えざる本質」と対応させているが,しかし,その対応的構成の  「重要な環となっている直接的全体性」は,結局のところ,「マルクスの,いや,  人聞の精神作用の一つの形式,全体的思考であるといった方が適当である。」つま        17)  り,「マルクスの商品世界も精神作用の型式にすぎない。」ということである。   さて「価値形態論とは,商品に共通に内在する価値の契機が,これまた商品に  内在する互いに異なる使用価値の契機の発現をともないつつ,どのように現象形  態を発展させ,すべての商品の価値表現を特定の商品によって行う貨幣形態にま  でいたるか,を展開するものである。この展開には二重の課題が含まれている。  それは恐らく,価値が全体性の契機を,使用価値が個別性の契機を,各々体現す  るところに発しているといえるのであろうが,一方は諸商品が互いに異なるもの  として関係し合う全面的な相互関係の展開であり,もう一方は諸商品の相互関係  に体系性・統一性を与え,個々的な相互関係に全体性の毒づけを与えるものであ  る。貨幣形態の出現はこうした二重の課題を同時に果たす。……貨幣形態を導き  出す価値形態展開の論理過程は,さきの二重の課題を,ひとつながらに達成して  いるかのように解釈されてきた。 16>以上,同前,179−180ページ,参照。 17)以上,同前,181−185ページ,参照。

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       貨幣について   17  だが,しばしば論争の的になってきたように,価値形態論の形態IIから形態III への発展・転化は論理的過程として,甚だ理解しがたい。マルクス自身は例の“転 倒”という外的操作による解決を提示したにとどまった。マルクスがこうした非 論理的操作にしか頼りえず,しかもわれわれが理解に苦しむ理由は,第II形態か ら第III形態への転化には論理的展開の契機そのものの転化が含まれているからで ある。前者では相互関係の全面的展開が,後者には統一性の展開がそれぞれ含ま れている。つまり貨幣形態への価値形態の展開は,相互関係の契機が統一性の契 機へ転化するかどうかにかかっている。だが,前者はいわば横の関係であり,後 者は縦の関係である。この二つの間の移行・転化は成立しにくい。……この論点 は,実は,これらの議論の基礎をなす“価値”に,ア・プリオリに相互関係と統 一性のこ契機を含意させたことによっている。“価値”概念に内包された二契機 を,あたかも一発展系列の相い前後する二項であるかのように扱うのである。だ がこの二契機は,あくまでも並置されるものであり,転化・生成する関係にはな い。」ここにはマルクス価値形態論における無理がある。「相互関係から統一性が       18) 生成することのないように,商品から貨幣が転化し生成することはない。」  要するに,マルクスの商品世界が,結局のところ,人間の「精神作用の一形式 であれば,貨幣もまた,商品から生成するものではなく,精神作用の形式そのも のであることになる。マルクスの価値形態論は,商品という実在するものに拠っ て展開されたというより,マルクスが価値にこめた二契機によって展開されたの であり,精神作用の型式を商品,貨幣という実在形式にはめこんだのである。貨 幣は精神作用の統一性という契機に対応するものなのである。マルクスはこの統 一性を生成せしめようとしたが,失敗に終ることは必定であった。精神作用にお        19) いては,ア・プリオリに統一性の形式が保持されているのだから。」  このような吉沢・貨幣象徴論におけるマルクス貨幣論の批判にかんしては, 次のようにいわなければならない。 まず,第1に,ここで明らかに指摘できることは,吉沢・貨幣象徴論におけ 18)以上,同前,185−187ページ,参照。 19)同前,187−188ページ,参照。

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るマルクス貨幣論批判,あるいは,さらに,マルクス経済学批判の見地の前提 にあるマルクスの商品・貨幣論や『資本論』についての理解・把握には,いわ ゆる宇野理論的な見地が拠りどころとなっている,ということである。ところ で,よく知られているように,宇野理論的な見地は,当面の「価値形態」論と 「交換過程」論にかんしては, 「価値形態」論の中に「交換過程」論を吸収さ せて論じる見地であって,総じて,その『資本論』理解には,商品・貨幣・資 本という流通諸形態が労働・生産過程を労働力商品をキ・一・範疇として包摂す る関係として把握し,そこに『資本論』の原理論的純化を求める見地である。 しかしながら,それは,総じて『資本論』が包寵する課題性のいわばメダルの 半面をとらえて純化するものにほかならず,その意味で“悪しき純化”といわ れるべきものである。そして,そのような事情は,われわれの当面する貨幣論 についても同様である。すでに触れたように,それは「交換過程」論を「価値 形態」論の中に吸収し,そこに商品から貨幣への生成論を見て検討を加える見 地であって,マルクスの商品・貨幣論が本来的に包懐している「交換過程」論       20) 的な課題性をその半面的純化のうちに切り落しているからである。  したがって,第2に,マルクスの価値形態論における従来からの難点とされ ている形態IIから形態IIIへの移行についての吉沢・貨幣象徴論の批判につい ての問題である。吉沢・貨幣象徴論もマルクスの例の“逆転”の叙述について, マルクスは「第II形態を“転倒”して第III形態を導入するといった外的操作 による解決を提示したにとどまった。」と批判し,それを手がかりにしてマルク ス価値形態論の無理の検討に進むのである。たしかに,マルクスの例の叙述に は問題がある。だが,しかし,そこで問われるべき問題は,価値形態論の合理 ・不合理の問題ではなく,説明における適・不適の問題であろう。マルクスは そこでは「事実上」の説明を加えているにすぎないのであって,それは価値形 20)宇野理論における『資本論』の“原理論的純化”にかんしては,なお,拙著『経済学  の生成と地代の論理』(1972年,未来社),同『マルクス経済学の学問的達成と未成』(1989  年,刃風社),拙稿「ブルードンとマルクス  経済と社会,および国家の問題をめぐっ  て」(1995年,「経済と社会」第2,4号所収)など参照。

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      貨幣について    19 態論の論理とは,おのずから別の問題である。第II形態から第III形態への移 行の理論的内実は,もともと,第II形態における商品価値の表現と第III形態 におけるそれとの質的な相異であり,相互の間の進展度の相異である。したが って,マルクス価値形態論におけるこの従来的な難問は,本来は価値形態論と 交換過程論との問題として検討されるべきものであろう。吉沢・貨幣象徴論は, ここでも,従来的な『資本論』理解に拠って,ここでの本来的な課題性を見落 している,といえるのである。  第3に,吉沢・貨幣象徴論におけるマルクス貨幣論批判の核心的部分につい ての問題である。  すでに見たように,吉沢・貨幣象徴論のマルクス貨幣論批判の核心的なもの は次のようである。近代資本主義社会における社会的労働編成はその商品世界 と対応する。前者はその原空間であり,後者は派生空間である。前者における 労働価値の本質が後者における商品から貨幣への必然的な生成と対応すること, いいかえれば,価値形態の展開によって商品から必然的に貨幣が生成して価値 概念と合致することの論定が,マルクスの労働価値説論証の一つの重要な課題 である。価値形態論の課題は,使用価値の個別的な相互関係と価値の全体性と を統合する貨幣の出現を論定することである。だが,その論定は不可能である。 相互関係の契機と統一性の契機とは,もともと異質なものであって,その一方 から他方への移行や転化は不可能だからである。結局,マルクスの価値形態論 における貨幣の生成論は,マルクス自身の人間的な精神作用にア・プリオリな 一型式,すなわち,統一性の型式を商品や貨幣の現実世界に押し込めたものに すぎない,というのである。  だが,しかし,よく知られているように,マルクスは近代ブルジョア社会の          ポリテイカルロエコノミコ 解剖学として始まった経済学を,近代社会に対する人間の一般的な表象や観念 の分析から始めている。彼の経済学の“一般的方法序説”ともいうべき『1857 −8年草案』の「序説」の中の「経済学の方法」である。具体的で現実的なも の,例えば人口や価格や欲望などについての表象から出発して,ヨリ抽象的で 簡単なものに到達する“下向の途”である。商品から始まる『資本論』の体系

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は,この“下向の途”によって到達された最も簡単で基本的なカテゴリーであ る商品からの“上向の途”にほかならない。それは人間の認識作用における“二 つの途”であり,また,近代ブルジョア社会の自己認識の理論と体系として生 成した近代の経済学が,歴史的に辿った途でもある。だが,しかし,この途は 極めて遠く深くまた困難であって,マルクスに至ってもまだ完結してはいない。 彼の主著『資本論』の内実がそれをよく語っている。すでに見たように,『資 本論』は彼の生涯的な経済学研究の最終最高の到達点にほかならないが,それ は,まだ,主としてメダルの半面  いわば原理論的方向一にすぎず,そこ にはメダルの他の半面  いわばプラン論的方向  の問題が未統合の形で含 まれているのである。その上,当の『資本論』じたいが彼の経済学全体系の全 くの基礎部分にすぎないこともよく知られている。だが,しかし,そこには, 経済学研究の最初の出発点である近代社会に対する一般的で現実的な表象や観 念諸形態が,それらの精神的再生産の過程をへて再び,批判的に,到達される べき最終目標として明確に設定されている,といえるのである。  吉沢・貨幣象徴論の見地は,経済学のこのような下向・上向の一歩嬉々の, しかも行ったり来たりの長い行程をいっきに跳び越えて,商品や貨幣の実在を 人間の精神作用の一型式の直接の発現とするのである。また,吉沢・貨幣象徴 論では原始社会にかんする人類学的な研究諸成果が基礎とされている。だが, しかし,ここでも,いい古されたものではあるが, “入間の解剖は猿の解剖の かぎとなる”という命題が,やはり,意味をもっている,といえるであろう。 吉沢・貨幣象徴論がその主題として掲げている「経済社会の原型」の問題も, 近代の経済学がその解剖の対象としている近代ブルジョア社会が,他の諸社会 にも共通する“人間・社会と自然との物質代謝”の過程に基づいた最も新らし い複雑かつ大規模な社会であることと,直接に,連なっている筈だからである。 IV おわりに 以上の小論では,経済と社会と貨幣の問題をめぐって,岩井・貨幣論や吉沢 ・貨幣象徴論のマルクス貨幣論批判を念頭におきながら,若干の考察を試みて

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      貨幣について    21 きた。その結果,マルクスの貨幣論にはこれらの批判的見地によってもなお済 まされえないものがあることが分かった。マルクスの『資本論』には,従来の 諸研究がなお見落しているメダルの他の半面が含まれている。小論で一つの中 心論点となったマルクスの価値形態論と交換過程論の問題も,その眞の本来的 内実においては,このことと密接にかかわっているのである。したがって,湯       21) 浅・経済人類学のように“王様は裸だった!”とはいえないであろう。“裸だ った!”のは,むしろ, “自分自身の王様だった!”といえるのではなかろう か。 21)湯浅越男『経済人類学序説』前掲,10ページ。

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