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徹 豆州内浦諸村の生産概況1ー村明細帳を中心にー1山口

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(1)

論 説

豆 州 内 浦 諸 村 の 生 産 概 況

1 ー 村 明 細 帳 を 中 心 に ー 1

山 口 徹

1 わが国は四辺を海にかこまれ︑海に接する村々には海を生業の場とする漁業や廻船業︑さらに海を主たる輸送手段

とした林業︑薪炭業︑石材業など︑海とかかわる暮しがあった︒

従来︑こうした村々は漁業に注目することによって漁村と呼ばれ︑その多くは半農半漁の村と言われてきた︒

このように半農半漁と呼ばれる村の調査を一九八三年以来︑上総国九十九里浜の地曵網漁業・漁村の調査を皮切

に︑安房︑東京内湾︑更に西伊豆の土肥町とすすめてきた︒近年は沼津市史の漁村部会を引受けたこともあり・日本

常民文化研究所の漁業史研究の出発点ともなった豆州内浦(現沼津市)の村々の調査をおこなっている︒その過程で︑

半農半漁の村と言われる村々の実態はこれまで必ずしも明らかになっていないし︑海に接し︑海とかかわりながら生

活を建てている百姓の住む村々を村全体の生業︑生活の総体としてとらえ︑漁業や漁民のあり様をその中に位置付け

ることが必要であると感じた︒こうした関心にそって︑一九九一年には﹁土肥村の概況と諸職・職人﹂(﹃歴史と民俗﹄

(2)

8・平凡社)︑﹁豆州内浦一四ヶ村と江梨村の生産概況t明治前期を中心にしてi﹂(﹃沼津市史研究﹄1.一九九二.沼津市

教育委員会)等の成果を発表してきた︒

その分折を通して言えることは一見︑同じ様な自然環境にあるように思われる海付の村々のあり様にはかなり大き

な差が認められるということである︒

例えば狩野川河口から大瀬崎を見通した内浦湾には︑明治期以降の漁業組合の区分では︑第七区に属する我入道︑

志下︑獅子浜︑江浦︑多比︑口野の六ヶ村︑第六区に属する重寺︑小海︑三津︑長浜︑重須の五ヶ村︑第五区に属す

る木負︑久連︑平沢︑立保︑占宇︑足保︑久料︑江梨の八ヶ村がある︒これらの村々を見ると獅子浜から志下にかけ

ては砂浜が多く︑遠浅で︑後背地に平坦な耕地が多く︑漁業も当然のことながら立切網漁はなく︑地曵網や釣漁が中

心であった︒これに対し︑第七区の江浦︑多比︑口野と第六区の重寺から重須にかけての内浦五ヶ村はそれぞれ深い

入江を持ち︑立切網漁を中心とした漁業が展開していた︒第五区の木負から江梨にかけての八ヶ村は︑第六区のよう

に深い入江もなく︑六区の村に比べれば必ずしも立切網漁に適した条件をもたず︑後背に山がせまり︑そのまま巨岩

が海に落ち込み曵網漁にも不適当な漁場条件をもつ村である︒したがって︑第五区の村々の立切網漁は︑江梨村を除

いてはごく小規模なものであった︒

このように︑漁業は海岸線や地先海面の状況︑更に廻遊してくる魚種により多様であり︑隣接する村であっても︑

全く違った漁業が営まれ︑生業も生活も異なる様相をしばしば見せてくれる︒

このように変化に富んだ環境をもつ海付のこれまで一般に漁村といわれていた村は︑漁業のあり様一つとっても村

境を接しながら全く異なった様相を示し︑そこに住む人々の生業も生活も全く異なった姿を示すのである︒これは水

田単作地帯であれ︑畑作農村であれ︑純農村地帯では見ることの出来ないものであると︑日えよう︒

(3)

豆州内浦諸村の生産概況  

3 そもそも漁業は海底環境に応じ生息し︑また海流に沿って廻遊する魚類を︑伝承されてきた漁民の知恵と工夫を

もって生み出した漁具と漁法をもって漁獲するものである︒魚類の中には漁民達が﹁根﹂と呼んでいる魚礁に生息す

るもの︑海底の砂地に生息するもの︑黒潮に乗って廻遊するものなど多様である︒こうした魚類を漁する漁具や漁法

から見ると︑魚礁をほとんど動かない魚の場合は網がかりのする網漁法は不向きであり︑釣漁︑はえ縄漁が巾心とな

る︒また廻遊魚の場合も︑沖に船を出して︑魚群を追い︑沖合で網を入れ魚を漁る漁具・漁法もあれば産卵のために

陸地に廻遊してきた魚類を︑自然環境を利用して地先の海面で漁る地曳網や壷切網︑刺し網︑俗に定置網と呼ばれる

漁法もある︒

藷 県 水 監 L で は 県 下 の 網 具 の 種 類 を 笙 建 網 類 ・ 第 二 窃 網 類 ・ 第 三 曳 網 類 ・ 第 四 繰 網 類 ・ 第 五 敷 網 類 ・ 第 六

施網類︑第七刺網類︑第八抄網類︑第九掩網類︑第卜雑漁具のト種に分類し︑県下の網魚具の構造︑使用法︑対象魚

等について︑各地の事例にそくした調査報告をまとめている︒例えば第三曳網類を見ると︑

第三曳網類

戸 田 ノ 鰹 網

子 浦 ノ 鮪 鰹 網

藤 守 ノ 鰹 地 曳 網

城 ノ 腰 ノ 鯛 網

蒲 原 ノ 小 地 曳 網

間 門 ノ 綿 地 曳 網

重 須 ノ 鮨 網 井 田 ノ 鰹 網

元 吉 原 村 ノ 大 地 曳 網

白 須 賀 町 ノ 鯉 地 曳 網

城 ノ 腰 ノ 働 網

元 吉 原 村 ノ 鮨 網

我 入 道 ノ 鰍 網

江 奈 ノ 鯛 地 曳 網 土 肥 ノ 鰹 網

間 門 ノ 大 地 曳 網

福 田 ノ い ち 網

三 保 村 ノ 大 地 曳 網

沼 津 町 ノ 鯉 大 網

我 入 道 ノ 大 鰹 網

濱 ノ 鯉 地 曳 網 土 肥 ノ 金 鎗 魚 網

志 下 ノ 鰹 網

藤 守 ノ い ち 網

蒲 原 ノ 大 地 曳 網

沼 津 町 ノ 地 摩 網

我 入 道 ノ 小 鮨 網

伊 東 ノ 地 曳 網

(4)

元 吉 原 村 ノ 鰍 地 曳 網

三 保 村 ノ 鰍 曳 網

我 入 道 ノ 鯛 網

中 宿 ノ 手 繰 網

吉 永 ノ 猫 網

新 所 ノ 蝦 網

元 吉 原 村 ノ 鰍 時 曳 網

我 入 道 ノ 河 曳 網 志 下 ノ 鰍 曳 網

蒲 原 ノ 鰍 見 曳 網

我 入 道 ノ 柔 魚 網

清 水 ノ 手 繰 網

氣 賀 ノ 夜 曳 網

小 金 ノ 高 綱 地 曳 網

元 吉 原 村 ノ 時 小 網

間 門 ノ 夜 曳 網 間 門 ノ 鰍 曳 網

網 代 ノ 鯛 網

江 奈 ノ 手 繰 網

城 ノ 腰 ノ 手 繰 網

氣 賀 ノ た ふ 網

三 保 ノ 高 綱 網

志 下 ノ 鯖 地 曳 網

重 寺 ノ 小 地 曳 網 仁 科 村 ノ 鰍 曳 網

田 子 ノ 鯛 網

元 吉 原 村 ノ 手 繰 網

撒 餌 曳 網

新 所 ノ 地 曳 網

三 保 ノ ご ろ 曳 網

田 牛 ノ 小 地 曳 網

重 寺 ノ 鰺 曳 網

と六〇種の曳網が詳述されている︒この様に漁具や漁法は海底環境や廻遊魚の漁獲場所︑対象魚の種類により多様で

あった︒

更に︑地先海面︑海底の状態や︑海辺の環境により︑繋留可能な船の大きさも制限されるし︑場合によっては全く

船漁が出来ない村も出てくることになる︒

したがって︑漁村︑半農半漁の村と言っても︑その内容は様々であり︑その実態を知ることがまず必要になってく

る︒

私はかつて明治三十八年の﹁千葉県統計書﹂(﹃明治年間府県統計資料集成﹄)から︑山武郡︑安房郡︑千葉郡の漁獲高と

漁業人口の概況を抽出し︑延長五十七キロにもおよぶ砂丘地帯をもつ九十九里浜︑砂浜のほとんどない︑岩礁におお

われた外房から東京外湾に連なる安房の村々︑そして富津岬から東京湾の最深部に至る東京内湾の村々と自然環境も

社会環境も異なる三つの地域にそれぞれ異った漁業が展開し︑それぞれの地域における漁村の構造も︑生活のあり様

(5)

豆州内浦諸村の生産概況  

5 もかなりの差があることを明らかにしたことが献麗︒

漁獲口同を見ると︑九十九里では鰯が︑安房郡では鰯以外の九十九里では雑物と呼ばれる鯛・平目・すずきといった山切同級魚が︑千葉郡ではハマグリとアサリといった貝類の漁獲高がそれぞれの地域の総漁獲高の八〇%〜九〇%を占め

ていた︒そのことは九十九里の漁業は地曳網漁業が中心であり︑安房の場合は岩礁地帯であり曳網も船曳が中心であ

り︑多くは小漁船による釣漁が支配的であったこと︑更に富津から東京内湾にかけてはハマグリ︑アサリと言った二

枚貝の採取漁が中心であったことを物語っている︒

また︑この三つの地域の漁家戸数︑同漁家戸数の総戸数に占める比率︑総漁獲高と=戸当りの漁獲高を比べて見る

と︑安房郡が漁業の占める比率も︑個々の漁民の生産額も最も高く︑海とのかかわりが最も大きい地域であり︑最も

低いのが千葉郡であったことがわかる︒例えば一戸当りの漁獲高で見ると安房郡の二三四円三六銭に比べ︑千葉郡は

二一二円二六銭と約十分一であった︒九十九里が全ての海岸線を占める山武郡の場合は︑安房郡のほぼ半数︑一九二円

であった︒このことは千葉郡のハマグリ︑アサリを中心とした漁業は零細規模のものが多いことを示し・山武郡の場

合は鰯地曳網漁の網元単位ではかなり山目同い漁獲高が予想されるのであり︑山武郡の=戸平均漁獲高が安房郡に比べて

半分と低いのは︑この地域で縄船と呼ばれる小漁船をあやつる漁業が安房に比べかなり零細であったことを推測させ

る︒

更に言えば︑九十九里(山武郡)︑の漁獲高の八八%を占める鰯地曳網漁業は︑一村に一名乃至数名いる網元によっ

て経営されており︑浜方の村は勿論︑内陸部の岡方の村民達も岡働(地曳網の曳子)として地曳網漁業に組織されてい

た︒

このように房総半島には地域の自然環境に応じ異なった漁業が展開し︑漁業経営のあり様に応じた異なった漁村の

(6)

構造が存在しているのである︒

ここに言う地域差は房総半島全体を眺観することによって浮ぴあがった地域というか地帯の区分︑類型化であり︑

それはそれなりの意味を持っている︒しかし︑個々の漁村のあり様を考える場合には先にふれた様に︑漁村の場合は

農村に比べ︑自然環境の違いが大きく︑ごく限られた地域を見ても︑その中には全く性格の異なった村や漁業が展開

しているのである︒例えば安房の村々においても自然環境や漁業のあり様によって全く違った様相を示すことが予想

されるのである︒かかる問題を感じながら︑豆州内浦の漁村調査を始めることになり︑当然のことながら︑分析の視

点を確定するためにも︑内浦から伊豆西海岸の漁村の概況を把握する必要があった︒その一つの作業仮説として︑と

りあげたのが﹃沼津市史研究﹄1(一九九.=沼津市教育委員会)に収めた﹁豆州内浦一四ヶ村と江梨村の生産概況﹂で

あった︒

ところで︑地域や村の特性や概況を知るための史料や方法は多様である︒先に見た房総半島の特徴を概観するため

には統計書を素材とした︒

﹁豆州内浦一四ヶ村と江梨村の生産概況﹂では江梨区有文書のなかにあった﹁組第五百三拾号明治一七年度漁業税課

額﹂と題した︑君沢田方郡長岡田直臣から占宇村組長田村純平殿に宛てた差し出し書面の写と︑明治二四年から二五

年半ばにかけての調査を善にまとめた﹃静岡県水産誌﹄更に﹃旧高旧領取諏幌﹄を利用して各村の村高︑戸数︑漁

家戸数を出し︑明治一七年の漁業税額との対比を通して︑この地域の漁業とのかかわりの中に現れる各村の性格を類

型的に把握せんとしたのである︒

地域の類型的把握や特性を知る史料や方法は多様であり︑史料の選択も何を切口にするかによって様々な史料の組

合せが考えられる︒県統計を使用した場合は史料の性格から村段階には入れない︒しかし︑全県的︑全国的に地帯区

(7)

亜州内浦諸村の生産概況  

7 分を行う場合には適当な素材と言えるのであろう︒静岡県の場合は﹃静岡県水産誌﹄という他に例を見ない漁村調査

が明治二四〜二五年半ばにかけて行なわれ︑その成果が静岡県漁業組合から田行されているために村単位での漁村の

概況を知り得る︒しかし︑この種の史料を使って全国各地の漁業︑漁村の類型的把握︑比較研究をおこなうことはほ

とんど不可能に近い︒このように︑史料の現存状況︑史料の性格によって当然問題も切口も限定されることは言うま

でもない︒

さて︑近世から明治初年の村々を調査していると︑旧名主文書の中に一般に村明細帳と呼ばれ︑明治期に入ると﹁村

是﹂と呼ばれる︑村の概況︑村況を書き記した史料が残されている︒私達は調査に当って︑その村の概況を知るため

に︑この種の史料や﹁農間渡世書﹂﹂や﹁物産取調書上﹂などの史料にまず目を通す︒これらの史料も村の概況を知

り︑村の比較をするためには役に立つ史料であると思われる︒

内浦一四ヶ村の調査をすすめる過程でも︑江梨村︑久料村︑平沢村︑重須村︑長浜村︑三津村︑小海村︑重寺村の

村明細帳を収集することができた︒

本稿は︑これらの村明細帳を使って︑そこに現れる内浦一四ヶ村の村々の概況を検討し︑更に前稿において﹃静岡

県水産誌﹄等によって明らかになった漁村の諸類型との比較を試みることにより︑村明細帳に表現される村況の性格

を明らかにすることにしたい︒

O

﹁明治一七年漁業税額﹂には君沢郡に属する一九ヶ村の漁業税額が村ごとに記されている︒その村は静岡県漁業組合

の第四区の内君沢郡に属する小下田村︑八木沢村︑土肥村︑小土肥村︑戸田村︑井田村の六ヶ村︑第五区(西浦の村)

(8)

第1表 君 沢郡 の漁村 の概要

村高

i

全戸数漁家戸 数

全戸数に対 する漁家戸 数の比率

1戸 平均石 高

明治17年 漁業税額

1村 平均 漁業税額 第

四 区 の 内 君 沢 郡の 村

西豆村 小下 田村 sss

P

238

11.3 % 2.8.0.6 斗 升 4.59

八木沢村 532 228 48 21.0 2.3.3.3 3.52

土肥村 上 肥 村 72fi 379 98 25.8 1.9.1.5 33.04 小L肥 村 320 142 29 20.4 2.2.5.3 2.88

戸田村 戸 田 村 823 soo 75 12.5 1.3.7.1 124.82 井 田 村 112 45 45 100.0 .. 7.00

小 計 6(村) 3,181 1,s32 322 19.7 1.9.4.9 175.85 29.30

第 五 区

(

西 浦 の 村

)

西浦村

江 梨 村 33 64 61 95.3 0.5.1.5 57.22 久 料 村 13 14 14 100.0 0.9.2、8 18.95 足 保 村 14 17 17 100.0 0.8.2.3 21.20 古 宇 村 107 48 48 ioo.o 2.2.2.9 39.52 立 保 村 47 18 18 100.0 2.6.1.1 12.63 平 沢 村 58 25 23 92.0 2.3.2.0 6.44

久 連 村 119 63 54 85.7 s・r 0.00 木 負 村 181 64 42 65.6 2.8.2.8 25.is

小 計 8(村) 572 313 277 88.5 1.$.2.7 181.12 25.87

第六 区(

内 浦

)

内浦村

重 須 村 151 58 3fi 62.1 2.6.0.3 29.21 長 浜 村 47 43 38 .. LO.9.3 48.81 三 津 村 165 147 22 14.9 1.1.2.2 21.20

小 海 村 22 33 28 84.8 o.s.ss 25.9s 重 寺 村 28 73 ss 93.1 0.3.8.3 62.08

小 計 5(村) 413 354 192 54.2 .L6.6187.2611 37.45 1総 計 19(村) 4,166 2,299 791 34.4 1.8.1.21544.23 30.23

出 典:村 高 は 「旧 高 旧領 取 調 帳 」a全 戸 数 ・漁 家 戸 数 は 「静 岡 県 水 産誌 ⊥ 度 漁 業 税 課額 」(江 梨 区有 文 書)

漁 業税額 は 「明治17年

に属する江梨村︑久料村︑

足保村︑古宇村︑立保村︑平

沢村︑久連村︑木負村の

八ヶ村︑第六区(内浦の村)

に属する重須村︑長浜村︑

三津村︑小海村︑重寺村の

五ヶ村︑計一九ヶ村である︒

これらの村々の漁村の概要

を示したのが第1表であ

り︑更に第1表から明治一

七年の漁業税額と村高の相

関︑更に漁業税額と全戸に

対する漁家戸数の比率の相

関を求め︑そこからこの地

域の漁村の諸類型を抽出し

たのが第2表である︒

A類型の村は漁業税が五

〇円から六〇円と漁業税額

(9)

豆州内浦諸村の生産概況  

9

第2表 漁村の諸類型 類 型 村 名 区 a村 高 b全 戸数 c漁 家戸

音 ×1・・

1戸 平均石

高 漁業税額

A類 型A

重 寺 村 6区 28

7'

68 93.1%

石 斗 升 合 0.3.8.3

is

長 浜 村 6区 47 43 38 88.3 1.0.9.3 48.81

江 梨 村 5区 33 64 sl 95.3 0.5.1.5 57.22 B類 型 B 足 保 村 5区 14 17 17 100.0 0.82.3 21.20

久 料 村 5区 13 14 14 XOO.0 0.9.2.8 18.95 B" 立 保 村 5区 47 18 18 100.0 2.6.1.1

{

12.63

平 沢 村 5区 58 25 23 92.0 2.3.2.0 6.44

B"" 小 海 村 6区 22 33 28 ・'. o.s.ss 25.96

C類 型 C 木 負 村 5区 181 s4 42 65.6 2.8.2.8 25.lfi

重 須 村 6区 151 36 s2.1 2.6。0.3 1.1.2,2

29.21

C" 三 津 村 6区 165

58

147 2214.9 21.20

宙 類型 D 4ベド田村 4区 668 238 27111.3 2.8.O.fi 4.59

八木沢村 4区 532 228 48121.0 2.3.3.3 3.52

小上肥村 4区 320 142 29 20.4 2.2.5.3 ....

D'

i l

EE

七 肥 村 4区 726 379 98 25.8 1.9.1.5 33.04

戸 田 村 4区 823 soo 75 12.5 1.3.7.1 124.82

第1表

 

がこの地域の他の村の二倍から三倍と高く︑漁家戸

数の全戸数に対する比率も九〇%前後と比較的に高

い︑にもかかわらず村高は五〇石以下と低い︒この

三ヶ村は第五区︑第六区の立切網漁の中心的村であ

る︒

B類型の村は漁業税額は少ないが村のほとんどの

家が漁業を営んでいる︑しかし村高は足保村︑久料

村の場合は二〇石未満であり︑立保村︑平沢村︑小海

村でも五〇石以下である︒

C類型の村は漁業税額︑したがって漁獲高はB類

型の村よりやや多いが︑漁家戸数の総家数に対する

割合はこの地域で最も低い︒つまり︑第五区︑第六区

の村の中では漁業に依存する率が最も低い村であ

り︑逆に村高が一五〇石〜一八〇石とこの地域の村

に比べると多い点に示されるようにこの地域の村の

中では農業に依存する率が比較的に高い村であると

言える︒

D類型の村は村高も多く︑漁家戸数の総家数に対

(10)

第3表 明治25年 前 後 の業 務 の歩 合

業 務 の 歩 合 漁 業 者1ケ 年1人 ノ収 入

漁業 商 業(*)淋 業i農 平 均 ・最 多漁 者

9分 *1分 3050

7分 *5煽 匪2ク1}5厘 4050

5分 3分2分 501150

13分 3分

3分4分ll520

1

3分5厘3分5厘il725

3分5厘 一6分 1218

一7分*2分3分 ㎜一 一 一 一一一}"一35.45517一{

3分 1分6分 汁5151

3分 i

一⊥1分

一一一7分

*5分4分

一 一̲̲㎜  一 胡 開圏

15'30' 一一 一一35i45」

一区665555566

村 名

重寺村 長浜村 江梨村 足 保村 久 料村

¥1/沢村立保村

木負 村 重須 村 傭 村 類 型

AA

B甘

B

ll

隠 寝鵜 i

C'Ii

出 典:「k産 誌 」

する比率も.一〇%前後と低く︑またE類型の漁業税額がA類型の村に

比べても二倍と多い戸田村でも︑わずか一.一・五%に過ぎない︒D.

E類型の村は漁業の占ある比率が最も低い村であるとユ︑肖える︒この

D・E類型の村は全て第四区の村であった︒

本稿で分折の村象とする豆州内浦一四ヶ村の村は全てA.B.C類

型に属する村であり︑総じて︑A類型とB類型の二つのタイプに分け

ることが出来るように思われる︒

第3表は前節で検討した君沢郡に属する漁村の類型を︑﹃静岡県水産

誌﹄の調査結果にスイッチ・バックし︑﹁本区ノ戸数人口井二業務二関

スルモノハ左二表記シテ之ヲ示ス﹂として︑各区ごとに表記した結果

のうち︑﹁業務ノ歩合﹂と﹁漁業者一ヶ年一人ノ収入﹂に示された平均

高と最多漁者の収入高を移記したものである︒

この表から明らかなように︑A類型の村は瓦区六区の内浦一四ヶ村

のうち立切網漁の中心的村であることが﹁業務ノ歩合﹂︑﹁漁業者の一

年一人ノ収入﹂を見ても確認される︒即ち︑この三ヶ村の漁業の比率は

九分︑七分︑五分とB類型の比率より圧倒的に高く︑農業は全て二分五

(11)

豆州内浦諸村の生産概況  

11 厘以下であった︒この村は漁業を中心とした︑その意味では純漁村であると亦一口える︒漁者の平均収入もB類型・C類

型に比べても多い︒

このA類型の巾で注目されるのは立切網漁に最適な自然環境をもつ︑深い入江の中に位置する長浜村︑重寺村より︑

大きな入江もなく︑明治期に入り張置網をかけることにより立切網漁の効率をはかった江梨村が漁者の平均収入でも

最も多く︑最多収入漁者も一五〇円と重寺村︑長浜村の最多収入者の三倍の収入を得ていることである︒それはA類

型に属しながら江梨村が六区の重寺村︑長浜村とはかなり性格の違った村であり︑漁業のあり様も二村とは異なって

いることを示している︒

重寺村︑長浜村の属する第六区は﹃静岡県水産誌﹂には次の様に記されて転説︒

本区ハ内浦湾ノ東南隅二位シ三津湾ト構シテ碇繋ノ所タリ海岸線ハ西方第五区ト相接スル長居崎ヨリ北方重寺二

至ル嚢状ヲナシ湾ロニハ淡島アリテ其三分ノ一ヲ塞ク湾邊ハ山豚重團シ樹木笹蒼トシテ海水二蕪レ水清爽トシテ

恰モ湖水ノ状ヲ呈シ魚族ノ来集最モ適セリ故ヲ以テ魚群ノ此二来ルアレハ岸線二嚇ヲ衝テ游泳シ泰然トシテ亦去

ルナシ而シテ各所ノ岸邊ニハ池巣状ノモノアリテ魚群ハ自ラ之二進入シ労セスシテ多獲ヲナスコトァリ県下広ク

漁場多シト雛モ未タ嘗テ此区二優リタル漁場アルヲ認メズ漁家ハ岸邊ノ山脚二構へ重須︑長浜︑三津︑小海︑重

寺︑ノ五小区トナル而シテ各小区共接岸岩礁ノ存セサル虜数ヶ所アリテ此二漁業ス其漁場ヲ名ケテ網戸ト︑ムフ網

戸ノ左右背後ノ山嶺若クハ丘頂ニハ櫓ヲ建設シテ魚見小屋ヲ造リ魚見人ハ此二魚族来泳ヲ窺フ

つまり︑重寺村︑長浜村は嚢状をなす三津湾に面し︑この漁場は魚影も豊富であり︑立切網に最も適した環境をもっ

ていた︒この漁場には重須村︑長浜村︑三津村︑小海村︑重寺村の五ヶ村があり︑この湾に入って来た魚を対象にし

た立切網漁をおこなっていたのである︒この五村の内には重寺村九分(九〇%)︑長浜村七分(七〇%)と漁業を主たる

(12)

生業とした村と︑五分(五〇%)を漁業に依存している小海村と︑漁業に対する依存度が必しも高いとは言えない重須

村︑三津村がある︒いずれにしても六区の村々は共通の地先海面で漁をするのであり︑そのことが重寺村や長浜村の

様に九〇%〜七〇%という高い漁業依存度を示しながら一漁業者単位の漁獲高は江梨村より低く︑最高の漁者の収入

も江梨村の最多漁者の収入の三分の一になった理由と考えられる︒

江梨村の場合は地先にある二つの網戸場を四人の津元で利用し︑立切網漁をおこなっているが︑漁業に依存する率

は五〇%と低く︑なによりも︑地先海面を自村の津元が占有しているという条件が重寺村︑長浜村より漁者単位の漁

獲高を多くしているものと考えられる︒つまり︑江梨村は重寺村︑長浜村と同じA類型に属しながら︑重寺村︑長浜

村より村経済の漁業に対する依存度が低い︑その意味では性格の異なった村だと言うことができよう︒

このように見てくると︑第2表ではB類型に一応入れてある︑小海村は第3表で見る限り︑A類型の重寺村︑長浜

村に近い村であるように見える︒小海村は重寺村︑長浜村と共通の漁場を占有し︑漁業の占める比率は両村より低い

が︑漁業者の平均︑最高収入高はほぼ両村と同じである︒

第六区の漁村の中で最も例外的なのは三津村である︒第3表で見ると三津村は漁業依存度はわずか一〇%︑しかし︑

三津湾という好漁場に面しているが故に漁業者の収入は第六区の村とほぼ同額である︒村という面から見ると三津村

は漁村ではなく︑商業が五〇%を占ている点に示されているように︑商業あるいは水産加工を主とした村であると考

えられる︒三津村はこの地域の漁業にかかわる加工︑流通の巾心地であったと言えよう︒

このように﹃静岡県水産誌﹄︑﹃旧高旧領取調帳﹄を利用し︑各村の村高︑戸数︑漁家戸数を出し︑明治一七年の漁

業税額との対比を通して︑この地域の漁業とのかかわりの中に現れた漁村の類型は﹃静岡県水産誌﹂の﹁業務ノ歩合﹂︑

﹁漁業者一ヶ年一人ノ収入﹂を加味した結果︑必ずしも性格がはっきりしなかった小海村はB類型よりA類型の重寺

(13)

豆州内浦諸村の生産概況  

13

第1図 漁 業 ・農 業 ・(林 業 ・商 業)の 相 関

(イ)漁

°/a

100

[=コ は第六区の 他は第'f区 の村

團x\

江梨[璽 】

q

呆 木 負

'久

足保

・[=郵  

90807050302010

10 20 30 40 50 60 70 80 90100%

(ロ)農

 

0 村︑長浜村と同一類型に近く︑三津村はこの地域の漁獲

物の加工︑流通の中心に位置する町場的性格をもった村

であることが明らかになった︒

(四  

すでに明らかなように︑海付の村の場合︑同じような

気候︑風土︑自然環境のなかにありながら︑生業や生活に

かなりの違いがあることを明らかにしてきた︒大瀬崎か

ら狩野川河口を結ぶ内湾︑内浦湾に面する村々のなかに

も幾つかの性格の異なった村が混在しているのである︒

この点を漁業と漁業以外の生産との相関からまとめてみ

ることにしよう︒

第1図は漁業と農業︑更にそれ以外の生業(ここでは林

業.商業)との相関を︑﹃静岡県水産誌﹄の調査結果から

まとめて見たものである︒イ軸.ロ軸.ハ軸は漁業・農業・林業(商業)の︑村の生産に対する比率を示す︒村名

を[Lでかこった村は第六区︑明治町村合併後は内浦村に併合された村︑[]のない村は第五区︑明治町村合併後は西

浦村に編成された村である︒村名に※印の付けてあるものは林業ではなく商業と史料上に表現されている村である︒

この図から見ると第六区︑第五区の村は漁業から見ると︑漁業が七〇%〜九〇%を占める重寺・長浜村︑ほぼ五〇

(14)

%の小海村・江梨村︑漁業の比率は三〇%であるが︑林業に依存する度合が高い久料村.足保村︑農業比率の高い木

負村・立保村・平沢村・重須村︑それに漁業の比率がわずか一〇%で︑五〇%が商業で占められている三津村に類別

される︒

前節でふれたように︑この地域の水産加工︑流通の市場地であると考えられる三津村を除くと︑生業.生活の中心

を漁業に置く村は第六区の︑通称三津湾と呼ばれる入江に面した村である︒これに対し︑江梨村を例外とした第五区

の村は全て漁業比率が三〇%と低く︑その中には久料︑足保といった農業以外の林業に負うところが多い村もある︒

この傾向はこの地域の村が︑地域の自然環境︑特に海辺の状況や地先海面の漁場環境によって漁業のあり様︑それに

規定された村の構造そのものが全く違った様相を示すことを示唆している︒

すでに前節で述べたように︑重寺村︑長浜村︑江梨村は漁業税額で見る限り︑生産額も多いが︑第五区に属する大

半の村は重寺村︑長浜村︑江梨村に比べると生産額は三分一から四分一と低い︒つまり︑足保村︑久料村︑立保村︑

平沢村︑木負村︑それに六区の重須村は漁業規模も小さく︑久料村︑足保村の両村に見られる様に農業でも生活を維

持し得ない貧村であったと言えよう︒これらの村の漁業は長浜村︑重寺村とは異なり︑余業的意味しか持ち得なかっ

た︒

以上は明治二〇年代後半期の豆州内浦の海付の村々の生産概況を漁業との関連から眺観したものである︒それぞれ

の村に占める漁業の位置はかなり顕著な差が認められ︑村経済の中に漁業がほとんど余業的意味しかもたない村もあ

る︒こうした村でも︑例えば久料村や立保村の様に村民の全てが漁業に従事している村もある︒その限りにおいて︑

つまり村民の生活を維持するという意味に於ては不可欠の位置を漁業が占あている村もある︒

こうした漁業が村経済にとって持つ意味はともかくとして︑明治二〇年代後半期には全ての村の漁業が把握されて

(15)

いた︒それでは江戸時代にはこうした村々に展開する漁業はどの様に史料上に現れるのであろうか︒ 概況︑村況を示すと言われている﹁村明細帳﹂からさぐるのが本稿の課題である︒ この点を︑村の 豆州内浦諸村の生産概況

15

第4表はこの地域に残る宝暦〜寛政期の村明織を前節との関連から肇以外の営業を漁業・林業・其他に分けて

整理したものである︒この表以外の営業はほとんどなく︑三津村を例外として他村は﹁男之稼魚業其外薪山稼仕候︑﹂

﹁女耕作之間二少々宛木綿織男女志きせ一一化慌﹂というものであった︒

第4表で明らかなように海︑なかんずく漁業について知り得る情報は浮役米︑船数︑浜方分一︑御菜役︑磯海苔役︑

それに船大工の数である︒浮役米は元禄三年までは御番肴銭︑節季銭︑網戸銭︑歳暮銭︑夫銭として定納されていた

ものを元禄二年に﹁御番肴銭︑歳暮銭︑夫銭︑節季銭︑網戸銭之名儀相除之向後者浮役与斗名付︑定納可申候︑且又

魚猟分一︑船役︑御菜御肴等ハ如先規︑不替可勤之者也﹂(﹁豆州君沢郡長浜村浦例仕法立写﹂・﹃大川家文書﹄・沼津市歴史

民俗資料館蔵)とあるように御番肴銭︑歳暮銭︑夫銭︑節季銭︑網戸銭の名目の定納役銭を一括したものである︒天明

五年の重須村指出帳の米五石三斗五升の浮役米は﹁是者海網戸場所持仕候者共年々御上納仕候﹂ものであった︒享保

一四年の重寺村の﹁村差出帳﹂には

コ︑本米六石定納浮役

是ハ魚類網戸場其外海役米として年々上納仕来リ候﹂

と記されている︒また第4表に明らかなように浮役銭の記載があるのは網戸場があり︑立猟がおこなわれ︑漁船のあ

る村々であり︑久料村︑平沢村の様に漁船(網船)のない村には浮役の記載がない︒この点から判断しても浮役の中心

(16)

舗鮮賜﹁謹温諾粛﹂π辮き葎肖訓醸避θ茸S薄燗

茸菌

叫四難畑皿

田妬茸(楓究=)︑﹂オ(涛詩=)(瞬爵幽)キ 頃謡オ畑蒲

茸(鴻痔 ㊤)

茸(洲温 窃)(洲温 ・ ︒)

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(17)

豆州内浦諸村の生産概況  

17 は網戸役であったと思われる︒したがって浮役米の有無は︑この村々の漁業のあり様を知る一つの根拠になり得るで

あろう︒

次に船数の記載は海とのかかわり方を示す一つの指標であり︑また︑元禄二年に浮役から独立して扱われた船役の

計算根拠になるものである︒船数・船役高は次の浜方分一(漁猟運上)とともに漁業のあり様︑その量的傾向を知る重

要な指標である︒それ故に九〇%を漁業にたよる重寺村の享保一四年の﹁指出帳﹂には﹁漁船役永之儀ハ年々高下御

座候尤別紙二年々船役改帳差上来リ申候﹂とあるように﹁差出帳﹂からは別途にあつかわれていた︒

浜方分一は﹁漁猟運上﹂﹁海運上﹂︑﹁海猟﹂などの項目のなかで記載されることもある︒宝永七年の﹁伊豆国君沢郡

重寺村郷村井反別指出帳﹂には

一漁猟

是者輔鮪まくろあしか鮭しふわ此分立猟仕候節者長浜村御役人様へ御注進仕︑御改ヲ請︑近村之商人入札い

たし其直段二て御運上指上ケ申候︑魚数之儀︑輔八拾本ほと鮪百武拾本鰹四百本めしか武百五拾本程︑此金

高三拾爾ほと年中論立猟仕候︑右ハ去ル丑ノ年分之積り如此一晒御座候︑尤魚数直段共二年々増減シ御座候夏

一釣猟

是ハ鮪鰹めしかまくろ鮭しふわわらさ釣猟仕候節者長浜村御役人所二而御改を請︑御拾分壷指上ケ申候︑釣

鮪猷百五十本鰹三百本わらさ三千本ほと釣り申候︑此金高五1.雨ほと釣猟仕候︑尤魚数直段共二年々高下御

座候︑右ハ去ル丑年分之積り如此二御座候︑右之内︑釣わらさの義ハ先規6久連根と申場所二而重寺村之猟

師釣出し御忠節仕︑御拾分一指上ケ申来候︑依之他村之猟師此場所へ一切入込不仕候︑先年6釣来り申候義︑

偽無御座候支

(18)

と記されている︒

この記載からも明らかなように︑浜方分一ー漁猟運上は海猟と釣猟に分けて徴収され︑海猟は立網漁でとれた鮪︑

鮪︑まく路︑めしか︑鮭︑しふわに対して課せられる運上で︑鮪︑鰹︑めしか︑まくろ︑鮭︑しふわ︑わらさを釣っ

た場合には別の規準で負課される︒立猟に負課される運上は立猟があると︑まず長浜村の御役所に注進し︑その改を

受け︑近村の商人に入札で販売し︑その売上額から﹁諸引﹂を引き︑残高の三分一を運上額として上納せしめるもの

である︒釣猟の場合は十分一を上納せしめるものであった︒

(9)宝永七年の﹁伊豆国君沢郡江梨村郷村井反別指出張﹂の海運上の項に﹁是鮪︑鮪︑鰹︑まく路︑めしか︑此分立猟

仕候節ハ長浜村御役人様へ御注進を仕御改ヲ請⁝⁝﹂と立猟があった場合︑長浜村御役人様へ注進し︑その改を受け

ている︒長浜村に内浦の村々の漁業を統括する役所があったのである︒その役所の支配管括の区域が豆州内浦組で

あったと考えられる︒この点は目下史料を収集しているので後日明確にしたい︒

この浜方運上は実際の漁獲量に応じて立猟の場合は三分一︑釣猟の場合は十分一を納めるものであり︑その額は漁

業の実勢を示すものであり︑それぞれの村の漁業のあり様を具体的に把握し得る基本データーだと言うことが出来よ

う︒しかし︑村明細帳の性格から︑そこには実数は示されていない︒三津村の寛政四年の御小人目附岩崎半五郎様︑

(10)御普請役辻民右衛門様の御尋に対し三津村から差出した﹁御尋二付差上申箇條書之更﹂(.ト書)には

二浜御運上

去亥年上納永三貫百三拾八文八分低年々高下

と記されている︒

(19)

豆州内浦諸村の生産概況  

19 ところで︑先に見た重寺村の指出帳にコ海猟︑是者輔︑鮪︑まくろ︑めしか︑鮭︑しふわ︑此分立猟仕候節⁝⁝﹂

と分一の対象となる魚が記されている︒更に釣猟についても﹁是ハ鮪︑鰹︑めしか︑まくろ︑鮭︑わらさ釣猟仕⁝⁝﹂

(U)と記されている︒また︑宝永七年の江梨村の指出帳の﹁海運上﹂の項にも﹁是ハ鮪︑鮪︑鰹︑まく路︑めしか此分立

猟仕候節⁝⁝﹂と記され︑文化一四年の﹁小海村の差出帳﹂にも﹁御運上魚︑輔︑鮪︑鰹︑めじか︑鮭﹂と分一の対

(12)象魚が記されている︒また天保一三年の﹁伊U国君沢郡重須村指出拍帳﹂にも﹁海漁御運上﹂として﹁是者輔︑鮪︑

まぐろ︑めじか︑鮭︑此分立漁仕候節︑浜引卜五引御引被下︑残高二而御三分一差上申候﹂と記されている︒

このように村明細帳の浜方分一の記載には輔︑鮪︑まぐろ︑鰹︑めじか︑鮭︑しぶわが記されている︒これらの魚

は分一の対象魚として特別の意味を持っていたように見える︒この点はまだ十分検討していないが次の史料から︑ほ

ぼ分一の対象が右の魚に限定されていることは間違いないと思われる︒

十一月十八日上拍

一輔

右いるか之字二書来申候

一鮪尾長鮪

右二品別種二御座候得共鮪二而素くより瀬長まくろ杯と唱へ申候得共帳面二者鮪大めしか中めしか小めしか

と書来申候

一鰹

一鮭

(20)

右うつはと唱へ来申候

一しふは

右かな書二仕来申候

右五品之魚︑御分一上納仕候︑此外何魚二而茂右二6御分一上納不仕候︑此度御尋二付書上申所相違無御座候︑以

豆州君沢郡長浜村名主

寛政卜一年未卜一月小文次

三津村

名主

覚右衛門

重寺村名主

伴右衛門

韮山

御役所

(13)右の史料は寛政=年未一一月に長浜村︑三津村︑重寺村の名主が連名で韮山御役所へ指出したものである︒この

(21)

豆州内浦諸村の生産概況 21

史料によると︑鯖︑鮪(瀬長まぐろ︑めしかを含む)︑鰹︑鮭︑しふはの五種の魚は﹁御分↓上納仕候﹂と分一を課す対

象魚とし︑それ以外の魚類は﹁此外何魚二而茂右二より御分一上納不仕候﹂と分一を課していないことを知ることが出

来る︒

浜方分一(漁猟運上)は網漁か釣漁かの漁法の違いにより三分一か十分一かの違いがあり︑更に魚種によっても分一

を課すか課さないかの違いがあったのである︒ちなみに鰯網猟の場合は表5の長浜村の浜方分一の項に明らかなよう

に十分一であった︒また天明.一年の﹁伊豆国君沢郡平沢村指出シ下書き﹂には

﹁高下物

一わらさ根申浜端より十五丁余沖二根嶋御座候其根二而内浦海士わらさと申魚釣申候五月より七月之末迄御役十

分一平沢村名主相改御十分一儀ハ魚商売人江売申候値段を以其暮代永二而指上申候⁝⁝﹂

とわらさの場合も十分一であったことが記されている︒

以上︑浮役米︑船役(船数)︑浜方分一について検討してきたのであるが︑この三つの項目が各村の漁業のあり様を

知 る 指 標 に な る こ と を 知 り 得 た の で あ る ︒ 皐 水 五 年 の ﹁ 伊 豆 国 君 沢 郡 コ 渾 村 差 出 漉 ﹂ に

コ 米 七 石 七 斗 五 升 難 議 講 灘 候 定 納 浮 役 ・ 是 ハ 網 引 場 三 ケ 所 之 海 役 米 年 々 金 纏 仕 候 禦

一 網 戸 場 三 ケ 所 網 舟 三 艘 ユ 而 立 猟 仕 来 候 御 事

一 御 三 ケ 豊 魚 品 々 輔 鮪 ま く ろ 鰭 鰹 し ふ わ 鮭 此 分 立 漁 仕 候 時 ハ 御 運 上 御 三 ケ 壱 被 御 召 上 候 御 事

一 右 之 魚 釣 漁 之 時 ハ 御 運 上 御 拾 分 一 被 御 召 上 候 御 事 ﹂

と︑定納浮役が網戸役︑海役米であること︑分一の対象となる魚が輔︑鮪︑まぐろ︑鯨︑鰹しふわ︑鮭であり︑立

漁の場合は三分の一︑釣漁の場合は十分↓であることが明確に記されている︒

(22)

ところで︑この地域の海付の村の重要な生業の一つである山稼︑薪木の生産については漁業ほどくわしくはない︒

村明細帳では﹁薪木御分一差上申候御事﹂とか﹁男之稼︑耕作之間薪取申候︑其外山稼少々宛仕候﹂などと記される

程度である︒

第4表に明らかなように︑山方分一の記載のある村は第五区︑西浦の村が多く︑第六区の内浦の村のなかでは小海

村と重須村に記載がある程度で︑立猟の中心である重寺村︑長浜村︑更に水産加工︑海産物流通の巾心である三津村

にはその記載がない︒このことは逆に第五区の村と第六区の村の村の生業のあり様︑漁業のもつ意味が違うことを物

語り︑更に︑江梨村が漁業の面から見ると重寺村︑長浜村と同じ類型にある様に見えながら︑江梨村の生産活動の総

体から見ると薪木生産や石切生産にかなり依存している︑その意味で第六区の重寺村︑長浜村とは性格の異なった村

であることを示しているといえよう︒

第 六 区 の 三 津 湾 に 面 し て い る 村 の う ち 山 方 金 の あ る 小 海 杖 專 村 の 村 明 織 の 記 載 を 抜 き 書 き し て 見 よ 乞

小海村

一︑薪木御分一差上申候(文化一四年)

重須村

一︑薪御運上御座候(天明五年.天保士一.年)

一︑男之稼︑耕作之間︑薪取申候︑其外山稼少々宛仕候(天明五年.天保十三年)

右のように︑この両村の薪木︑山稼に関する記載は漁業に関する記載に比べるとごく簡単なものである︒それは第

六区︑内浦の村々の山稼が生業として︑それ程意味を持たないものであることを物語っている︒これに対し︑第五区︑

西浦の村の場合は︑

(23)

豆州内浦諸村の生産概況  

23 久料村一︑薪御運上

是ハ積船廻候節︑御改ヲ請︑船積仕︑御分↓指上候(亨保五年)

一︑薪木之義︑奥山へ参百姓稼二仕候(享保五年)

一︑当村ハ山方稼仕候得共︑近年諸色高値二而困窮村詳御座候(肇保五年)

一 ︑ 藷 分 一 木 粒 融 木 敷 才 松 壱 才

是ハ御運上十分一二仕リ差上ヶ申候︑改之義ハ八年以前子ノ年迄︑長浜村御役所二而御改,請申候処二︑

子ノ九月右芝友三郎と申者二請負被仰付候て去午ノ五月迄此者相改申候所︑御運上金御上納相滞候二

付︑御召放され候後︑長浜村名主四郎左衛門︑重須村名主半右衛門両人二去午ノ六月6被仰付候間︑相

改ヲ請申候︑右薪払方之義ハ戸田村廻船其外所々舟持方へ相払申候(享保+二年)

︑薪取場

是ハ百姓割合一一て所持仕候へ共︑町歩ニハ難積り御座候︑但シ山数大小弐翫九︑尤何方6も入合場所二て

ハ無御座候(享保五年︑亨保十︑年)

︑ 小 揚 舟 壱 艘 講 遡 鑛 つ 〜 但 罐 篶 靖 舟 霊 忠 左 禽

是ハ沼津へもや木積送リ申候二て御座候︑尤壱艘二付もや木九拾己程も積申候︑其外米穀諸売買物等積

不申候︑且又五年以前迄ハ三艘御座候処︑壱艘磯舟仕候故︑其節御注進申上︑これ6弐艘轟罷成リ申候

て只今迄増減ハ無御座候︑尤もや木積送り候節︑名主相改︑壱艘.一付永拾弐文つ︑御運上指上ヶ申候(享

保十二年)

(24)

一︑男之稼耕作之間二薪其外山稼仕候(享保+.一年.享保十四年)

一︑もや木

是ハ駿州沼津へ積送リ申候︑もや壱艘一一付御運上永拾弐文つ\上納仕候︑改之義は村名主相改申候て御

運上差上ヶ申候(享保十四年)

一︑薪秣苅場

是ハ野山二而百姓作之間エ伐リ取焚申候︑井秣場も定リハ無御座候得共︑奥山二而前々β苅来リ申候(天

明二年︑寛政五年︑寛政七年)

平沢村

一︑薪竹舟積之節ハ浜御役人様へ御改申上︑御改請︑御拾分一永指上申候御事(宝永七年.天明二年)

一︑かや︑もや木壱艘舟積仕︑沼津へ参り候得ハ︑往来壱度二永拾弐文五分宛指上ヶ申候御事(宝永七年.天

明二年)

一︑奥山方へ入相二而薪伐申候︑但道法弐里廿丁程参候御事︑(宝永七年.天明.年)(天明二年の記載は若下違い

があり︑薪︑もや木の項には﹁高下物﹂との註記がある︒)

一︑村中作之間ハ山稼仕候而渡世を送申候御事(天明..年)

江梨村

一︑百姓持林

是ハロロ先規6持来候江戸薪作ノ間︑伐出し商売仕候節ハ︑長浜村御役人様御改ヲ請申候︑薪値段沢田

木金壱両二付四百廿把かへ︑立山木金壱両二付五百把かへ︑小立山木金壱両二付五百八十把かへ︑小木

(25)

豆州内浦諸村の生産概況 25

金壱両二付千六百把かへ︑右値段,以御拾分一差上申候︑売申候節ハ戸田村廻船参候へ而舟積仕候︑枝

木ハ小揚舟二而沼津へ積参候へ而売申候︑但シ壱艘二付永九文宛分一指上申︑尤年々増減御座候(宝永七

年)

一︑男作間

是ハ薪を取︑漁を仕候外二稼無御座候(宝永七年)

一 ︑ 薪 御 分 而 林 難 材

是ハ御運上拾分一二仕差上申候︑改之義ハ八年以前子ノ年迄ハ長浜御役所二而御改を請申候所二︑子ノ

九月β芝友三郎と申者請負被仰付工而去午五月迄此者相改申候所二御運上金御上納相滞候二付御召放さ

れ候後︑長浜村名主四郎左衛門︑重須村名主半右衛門︑右両人二去午六月6被仰付候間︑改ヲ請申候︑

右薪払方之儀ハ戸田村廻船其外諸々船持方へ相払申候(享保士.年)

一︑男之稼耕作之間二魚猟其外薪山稼仕候(享保十︑︑年)

一︑薪魚漁諸分一之義請負人方へ指出し申候(延享.一年)

一︑薪山萱山野百姓持分二御座候

是ハ他村入合之山二而ハ無御座候︑御水帳二載リ百姓持分︑ 御座候(延亨二年)

一︑薪秣苅場

是ハ百姓持山二而耕作之間伐り取焚申候︑井秣場も定‑ーハ無御座候得共山二而前々より苅リ来申候(天明

四年)

以上は第五区(西浦村)︑第六区(内浦村)の町村合併以前の村々の村明細帳(差出帳類)に記載されている山稼の記述

(26)

を抜き書きしたものである︒この抜き書きを一見しただけでも明らかなように︑第五区の江梨村︑久料村︑平沢村と

第六区の山方運上の記載のある小海村︑重須村の間には大きな違いがあることを知ることができる︒

即ち︑小海村︑重須村の記載は薪木運上が有るということを記すだけで︑その実態には全くふれていない︒明らか

にこの両村の場合は山稼が余業であり︑この村の再生産にとってほとんど量的にも意味を持っていないことを示唆し

ている︒

これに対し︑第五区の久料村︑平沢村︑江梨村の記載は薪・山木の種類から︑分一運上の経過︑薪取場の様相︑積

出しの方法︑売先にいたるまでかなり詳しく記述している︒それはこの村々にとって山稼が再生産にとって欠くこと

が出来ない生業であることを意味し︑村人達もそのことをはっきり自覚していることを物語っている︒

本節において︑村明細帳を農業︑漁業︑林業︑其他の営業にしぼって検討してきた︒其他の営業については石材の

切り出しが目につく程度であり︑それも江戸城︑沼津城︑更に尾州様︑水戸様の石f場の預りであった︒また牛馬は

石や薪木の運搬に関係があると考え牛・馬数を参考までに記しておいた︒小物成は重須村の場合は浮役米の記載があ

るにもかかわらず二︑小物成無御座候﹂と一つ書きされている︒したがって︑従来小物成と浮役は同義に解され

ているので︑再検討をする必要を感じ他の村明細帳の記載を調べた結果である︒ちなみに︑久料村の享保一四年の﹁差

出帳﹂にはコ︑小物成是ハ舟運上高掛リ之類上納仕候﹂と記されている︒

ともあれ︑第4表に明らかなように︑漁業についての記載はほとんどが諸役︑運上にかかわるものであり︑林業も

分一の有無にかかわる情報と考えられる︒例えば宝永七年の平沢村の指出帳にも

コ樹木密柑少々御座候︑毎年浜方御役人様御改之上︑為御運上密柑少々指上ケ申候︑但作之間ハ山稼仕候而渡世

を送り申候御事﹂

(27)

とあり︑樹木︑密柑の記載も︑運上にかかわるものであった︒ 豆州内浦諸村の生産概況

第5表 幕末期の生産概況

型 村の分半が業

中心 の村

・林業 の村

・農業 の村

・農業 の村

髭分,漁 業林 業が 半分 の村

‑‑‑‑ ‑‑1

・林 業 の 村

塗 塾̲一 一一⊥

[}業業業業業漁漁漁漁農 [業業業農林漁 業林 CBCCBAAB

業漁i ABAABCCA

業農 CCBBAACC

目項名村 村村村村村寺海津浜須

重小 ↓..長重

村村村

沢料梨平久江

第六区(内浦村) (西)第五区⁝軍III≠Il ところで村明細帳は幕府側から指出しを命ぜられた村名主が必要な項目につ

いて概況を記し︑幕府御役所に提出するものである︒その際︑その雛形がくば

られ︑名†はその雛形にそくして︑必要な部分を書き記し提出したのであろう︒

江梨村には﹁享保一一年伊︑豆国君沢郡江梨村高反別差出帳﹂という雛形が残っ

ている︒これは細かい字で書いた三四頁にも及ぶ大部なものである︒江梨村に

はこの雛形にそくして作られたと思われる﹁差出帳﹂は残されていないが︑久

料村には享保一一年の﹁村差出し﹂の下書が残されている︒これは四三頁にも

及ぶ大部なもので︑その記載の項目︑順序は享保一二年の江梨村の雛形と全く

同じであり︑﹁炭焼無御座候﹂︑﹁大工無御座候﹂と無い場合でも逐一全ての

項目にわたって﹁無御座候﹂と有無を書き記している︒久料村にも同じ差出帳

の雛形が示されていたのであろう︒勿論︑全ての村に雛形が配られたか否かは

明らかではない︒いずれにしても︑この雛形の実態を分折すると︑幕府が村明

細帳を提出せしめた意図も︑また村側の対応の仕方もおのずから明らかになる

であろう︒この点はそれぞれの時代の雛形について比較検討する必要があると

思うが︑後日の課題としたい︒

27

以上︑村明細帳の記載から各村の概況を検討した︒その結果を農業について

は村高と一戸平均所持高により︑村高も少なく︑一戸平均の持高が一石未満で

(28)

ある村をC︑一戸平均所持石高が二石未満の村をB︑一戸平均所持石高が二石以上の村をAとし︑漁業については︑

浮役米(網戸役)の有無と浮役米高の多少︑船の種類と船数︑更に浜方分一の記載を配慮し︑林業については分一の有

無と記載の内容を考慮しながら︑漁業・林業の比重の高いものからA・B・Cのランク付けを試みた︒その結果を示

したのが第5表である︒

第5表から見ると︑幕末期の重寺村は漁業中心の村︑久料村は林業中心の村︑小海村と江梨村は漁業と林業が中心

の村︑三津村︑長浜村は漁業と農業の村︑重須村は農業半分︑漁業.林業が半分の村であったと言えよう︒

この結果を第3表︑明治︑一五年前後の業務の歩合と比較して見ると︑重須村が明治期の方がやや農業の比重が多く

なっていることと︑三津村が漁業よりも水産加工・商業の比重を大きくしている他は︑ほぼ同じ傾向を示している︒

幕未期から明治中期の間に三津村が水産加工︑水産物流通の町場として︑その性格を変えたとすれば︑それは何時頃

のことであったのであろうか︒今後に残された課題である︒ともあれ全体的には︑この地域の漁村の幕末から明治中

期にかけての変化はそれ程大きなものではなかったと言えよう︒

ところで︑村明細帳の記載を検討する過程で︑漁業にかかわる年貢︑諸役︑運上について︑いくつかの事実を知る

ことができた︒浜方分一・運上について︑それが漁法だけではなく︑魚種によっても分一の率が異なることもその一

例である︒また江梨村の宝永七年の指出帳には︑海役︑小増網役︑大魚網役︑塩浜役︑磯苔役等の役銭の説明がある︒

本稿では幕末期に限定したため︑これらの役銭についてはふれなかったが︑海付の村の年貢︑諸役︑運上については

別稿で明らかにしたい︒なお︑久料村の年貢諸役︑浜方・山方分一運上については︑﹁豆州西浦組久料村の生業と生産﹂

において︑諸種の分一取立帳・改帳に立ち入って詳述しているので参照されたい︒

参照

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