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山岳民族の集落構成の比較研究試論 : 貴州とトラ ジャの比較を試みる

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ジャの比較を試みる

著者 細田 亜津子

出版者 法政大学国際日本学研究所

雑誌名 国際日本学

巻 6

ページ 109‑148

発行年 2009‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00022606

(2)

細 田 亜津子

はじめに 調査の背景と本論の試論について

国際日本学研究所学術フロンティア、テーマプロジェクト③「アジアの中の 日本学」(飯田泰三法学部教授プロジェクト・リーダー)分担として中国貴州 の調査を行った。調査は、2006 年 4 月 29 日~ 5 月 4 日であった。この調査期 間のうち、細田は調査前半部分、安順、貴陽、凱里に加わり、調査後半部分で ある榕江には加わらなかった。この調査については、これまでの調査全体との 関係や、短期間で遠距離を移動する時間など調査自体が十分であったとは考え ていない。本調査は、「日本文化の古層は、人類史的古層、アジア的古層、天 皇制的古層には長江文明に発するイネの道、および海のアジアが関わっている という。この論点は、黄河文明(=中華文明)中心のアジア観、および天皇制 的古層を日本文化のゆるぎない基盤と見る従来の日本文化論に挑戦するもので ある」(飯田、学術フロンティア成果報告会報告(Hosei I.J.S. No. 5 Dec. 2006)

のような学術フロンティアにふさわしい壮大なスケールの計画のうち、そのス タートに着いたばかりである。このような中華文明の影響を受けないアジア的 古層を重視する学術フロンティアは今まで試みられなかった新しいアジアの視 点を打ちたてようとするものである。したがってこのような学術研究が今後も 継続されることを望むものである。

Ⅰ 山岳民族トラジャ族との関係

現在トラジャ族と呼ばれているのは、インドネシア共和国南スラウェシ州タ

山岳民族の集落構成の比較研究試論

―貴州とトラジャの比較を試みる―

(3)

ナ・トラジャ県に住む山岳民族を呼ぶものである(地図参照)。トラジャ族は、

タナ・トラジャ県を北から南に流れるサダン川に沿って暮らしている人々をさ し、サダン・トラジャ族とも呼ばれる所以である。サダン・トラジャ族は、葬 儀に長い年月をかけ、葬儀の場でたくさん水牛を犠牲にすることで知られてい る。インドネシア国内でもこのトラジャ族の葬儀は有名であり、このために国 内からも葬儀を見物にやってきている。外国人観光客、特にヨーロッパ人観光 客は国内観光客が訪れる前からこの葬儀を見るためにやってきていた。現在で もこの葬儀は執り行われている(1)

著者は、トラジャ族との関係を始めたのは、葬儀など儀礼への興味ではなく トラジャ族が住む高床式木造建造物=トンコナンの修復をやることになってか らである(2)

トラジャ族が数百年修復を繰り返して住み続けている伝統的家屋トンコナン を修復する経験により具体的なトラジャ族の慣習などを学ぶことができた。ま た、なぜトラジャ族は、新しい家を次々と建てるのではなく、何百年と修復を 繰り返してでもトンコナンに住み続けるのかというようなことが、トラジャ族 と一緒に修復作業をするなかで理解することができるようになったのである。

トラジャ族にとってトンコナンは、神聖な儀式の場であり、人々の生死を営 む場である。そしてトラジャ族の核となるシンボルであるということが理解で きたのであった。

Ⅱ トラジャ族との修復の経緯と経験から得られたこと

タナ・トラジャ県で最初に行った伝統的家屋修復は、バヌア・タンベンであ った。当時バヌア・タンベンは数棟しか残っていなかった建物であった。当時 バヌア・タンベン修復に関しては、トンコナンが貴族階級の建物であり、バヌア・

タンベンは奴隷階級の建物であるという理由で歓迎されない部分もあった(3)。 しかし、文化庁と外郭団体である財団法人文化財建造物保存技術協会は、初 めての海外技術支援としてバヌア・タンベンを修復の対象とした(4)。バヌア・

タンベンを修復物件に選んだのは以下の理由による。

(4)

1、 トラジャ族の古い形式を伝える

2、 バヌア・タンベンはすでに消滅したとされていて、今回の調査で純粋な ものはこの一棟であり希少価値が高い

3、 20 世代前と伝えられ、トンコナンを含めた調査対象の中で最も古く、文 化財的価値が高い

4、 すでに無住で所有者は近年取り壊しを予定しており、そのために修理の 同意が得やすい

5、 放置されているため、屋根が破れ雨漏りによる腐朽が進行している。そ のため早急な保存の措置が必要である

6、 規模が小さいので最初のプロジェクトとして資金面でも作業面でも実行 が容易である

7、 ランテパオ地区にあり、宿泊施設の問題がない。職人の手配が容易である。

文化財的な保存・修復の行為を多くの人たちに見せることができる。文 化財保存理念の周知・普及の点で大きな効果が期待できる。

(いずれも普請研究 No.38 p100 を基に一部細田が簡略した)

このように修復対象としたバヌア・タンベンは地元大工たちと二ヶ月にわた って作業が行われ現地保存した。この修復物件に決めた理由として(2)にあ るような予想は的を得たのであって現存するバヌア・タンベンはほぼ消滅した。

この修復したバヌア・タンベンは現在も山中に現存し、この所有者が管理して いる。

バヌア・タンベンの修復保存作業はインドネシア共和国タナ・トラジャ県と 日本の双方にとって、修復理念の共有、技術交流、若手の育成など成功し終了 した(写真1)。

この修復は、トラジャ人の希望で、作業は早朝から始め、夕方早めに終了し た。また、日曜日はミサのため教会に行くので休業とした。日本人技術者と著 者は、午後より作業をトラジャ人大工に任せ伝統的家屋の調査を行った。著者 はこの修復作業終了後、タナ・トラジャ県に行き一人で調査を継続した。その 結果わかったことは以下の点であった。

(5)

1、 タナ・トラジャ県における伝統的家屋は、屋根の葺き材が竹葺き、板葺 き、石葺きとあるが、竹葺きが多くなり板葺きが少なくなっている。また、

石葺きは県内で 2 棟しか現存しない(5)。 2、 波型鉄板=トタン葺きが急速に増えた(6)

3、 県南部メンケンデック、県央部マカレ、ランテパオ周辺ではトンコナンが 少なくなり、インドネシアの他地域でもみられる洋式建物に替わってきた。

4、 このような一部地域で洋式建築に替えられているものの、トラジャ全体 としては、トンコナンを残す努力がなされている。例えば屋根をトタン 葺きにしてでもトンコナン自体は残そうとしていた。

5、 伝統的建物は、一部部材などを取り替えて修復しても建物自体を取り壊 してしまうものではなく家族で努力し残していることがわかった。

6、 以前のトンコナンよりは意匠や彫刻、彩色など派手にする傾向はあるも のの新築しているトンコナンも多くみられるようになった。

7、 トラジャ人はトンコナンを儀式の場、家族の団結の象徴、トラジャ族の 象徴と考えており、将来もトンコナンを建築し維持する意向が強い。

写真 1 修復後のバヌアタンベンと大工たち

(財団法人 文化財建造物保存技術協会・岡氏撮影)

(6)

このような調査を行っている過程でトラジャ人とのネットワークがつくれる ようになった。また、次の修復をどうするかという具体的な目標のために、ト ラジャ人とも話しがしやすくなった。例えば、修復費用の話し合い、日数の決定、

部材の調達などより具体的な話の中でお互いの信頼関係を構築することが出来 るようになった。この信頼関係が構築できたことが一番大きい成果だった。

また、調査過程では、トラジャ県内の地域差があり、この地域差によりトン コナンの建築方法の違いがあることがわかった(7)。集落を単位とする人々の生 活は、静かで落ち着いたものであった。これが、集落と建物、人々、動植物な ど一体となり作り出す景観の美しさにも気づいていった(写真2)。

農業を生業とするトラジャ人の集落は、集落ごとに大工、彫刻師、鍛冶屋が おり、農業を生業とするがトンコナンや米倉=アランを建てる時は、相互扶助 で行うのである。多くの技術は年配者から若者に受け継がれている。受けつが れた技術は、トンコナンを建てることや修復することで技術が磨かれ定着して いたのである。

写真 2 ケテ・ケス集落とトンコナン

(7)

Ⅲ 伝統社会における組織化の経験

トラジャで行ったトンコナン修復をとおした組織化の方法はとても時間のか かるものであった。まず、個人的ネットワークを作ることができ、そのネット ワークを利用しても、具体的に事業を行う場合は、行政区としての県、郡、村 を無視しては何もできないということである。これは、これら行政区の公的機 関ともネットワークを作る必要があるということである。それは、村を構成し ているドゥスン=字、集落の長がおり、そして村長と関係者は多岐にわたり、

それらの人々とのネットワークを作らねばならないことを意味した(8)。 事前調査を済ませた後に、対象物件を決定し、費用の交渉にはいる。対象物 件の所有者である家族の交渉が第一である。しかし、トラジャの家族の概念は 規模が大きく、対象物件のトンコナンに現在居住している家族がこの建物の所 有者で、交渉権があるわけではない。交渉権のある家族の代表者に会うまでに 数日かかる。例えば、この家族の代表者がジャカルタや州都マカッサルに住ん でいる場合もある。トラジャ県内山岳部に建つ対象物件のトンコナンの所有者 が町部、ランテパオやマカレに住んでいることも多い。このために何度も町部 や山岳部を移動する必要が生じるのである。

さて、交渉日が成立すると、この対象物件のトンコナンの所有者(または代 表者)、ケパラ・デサ(村長)ケパラ・ドゥスン(字長)、時には、チャマット(郡 長)まで加わるのである。彼らはそれぞれこの交渉に直接の関係はないが思惑 がある。例えば、彼らはこの交渉を見守ることで報奨金を望むのである。交渉 は、ケパラ・デサ、ケパラ・ドゥスン、チャマットなどにはそれぞれ説明をす る。質問がそれぞれ何度もくるからである。

実際の金額の交渉で一番有効であったのは、前もって技術者であるその土地 の大工たちに大まかな見積もり金額を聞いておくことである(9)。大工たちの提 示する金額は、法外な金額を上乗せしたりすることはなく、ほぼトンコナンの 規模、日数、修復状態などに見合った見積もりを提示してくれる。したがって、

交渉の段階で、トンコナンの所有者または代表者が示す金額についてこちらか ら交渉の糸口をきることができたのである。

また、この交渉の段階から契約書については、双方が話しあって作成するこ

(8)

とが必要であった。契約書をあらかじめ作成し、これをたたき台にして、双方 が交渉をすすめていく。こうすると、話し合いの場で削除、変更部分が書類で 残っていくからである。契約書は、細かい点まで明記することが有効であった。

こうして第一段階が終わると第二、第三段階を経て交渉が成立することになる。

このような場合、契約書を用意し、双方が話し合って契約書を変更しても、あ まり強行な態度ではなくその場、状況に合わせた柔軟な態度と柔軟な姿勢が求 められる。この調整は、大変難しいものであった。

例えば、事前調査を行って、大工たちの見積もりを取り、交渉に当たった場 合、その交渉が数年に及ぶ場合もあった。この間にインドネシア国内の情勢に よる物価の値上がりなどがあり、予期せぬ状況が現出するからである。このよ うな場合は柔軟な態度での取り組みが必要である。行政サイドに協力を依頼し てみる方法も有効であった。また、行政サイドに立ち会ってもらい双方がどこ で妥協するか、助言をしてもらうのも効果があった。つまりトラジャでの交渉 は、これに関わる人が多く、それぞれの立場の人との交渉をこなし、地域差や 状況変化での総合的な判断が必要である。しかし、双方で契約書を作ることは トラジャの人々も慣れており、この方法をとることが有効であるということも 経験から得られたことである。

Ⅳ 支払いをめぐる経験

調査は、トラジャ県内のトンコナンとトンコナンが建つ集落をほぼ全県内網 羅した。その後トラジャでの組織化にあたった。このようにして契約を行い修 復に至った物件はトンコナン 6 棟、アラン 1 棟、トンコナン修復の一部支援 1 棟であった(10)

全県の調査は、地域差、集落差など学ぶ点が多かった。また、トラジャ地域 と西方ママサ地域との類似点などについても学ぶ点が多かった。これまでトラ ジャの伝統的建造物であるトンコナンは竹葺きの屋根を反り上げ木造の高床式 舟形家屋であり、多くは三室構造であるといわれてきた。このようなトンコナ ンについての固定した見方は、間違っていることが明確になった。また、集落 ごとの人々の生活形態も平地や山岳地での違いがあることも明確になった。ト

(9)

ンコナンについての固定観念ができるのは、多くは、県南、県央部のトンコナ ンとその集落をもとに情報がでまわるからである。これも全県調査で明確にな った点であった。

トンコナンの修復事業が遅れたのは大きく次ぎの理由によっていた。

1、 県北山岳部の集落に建つトンコナンは、気候条件で作業ができなかった。

当時、修復をしていた期間は例年になく雨が多く、作業がはかどらなか ったのである。

2、 県北部には県北部、特にバルップ地域にはマネネという儀礼がある。こ れは 8 月に行うもので、この儀礼が執り行われる期間は一切作業がなさ れない。

3、 国内の物価の上昇がトラジャ県にもおよび部材の調達が予算内では思う ようにできなかった。

4、 葬儀が執り行われることになった場合は、作業が一切行われなかった。

このような理由で作業は遅れた。しかし、これらの理由はトラジャ文化の特 徴であり、人々の生活そのものである。したがって、これについて特に攻め立 てることや契約違反として詰問することをしなかった。むしろ、ここで大切な ことは、このような理由を尊重して認めたうえで、トラジャ側で仲介役になる 双方にとって信頼のある人物を交えて再度話し合うことである(11)。こうして何 度でも話し合いを行った。また、この席には以前に説明した、チャマット、ケ パラ・デサなどに同席してもらい、多くの人との話し合いの中で合意を得るこ とが必要であった。このような場合、チャマット、ケパラ・デサも快く参加し てくれたのである。

したがって、さまざまな理由で、契約を行って作業を実施しても契約で約束 されている期間に修復を終わったのは、一棟だけだった。修復作業が契約どお りに行われる日本と比べ、時間にルーズである。しかし、時間にルーズである ことは、前述のような理由を考慮すればあまり問題とはならない。要するに修 復作業を最後まできちんとできるかどうかである。そのためにはいつでも話し 合うことである。

契約時に作業費用を話し合った。トンコナンの所有者は、こちらが、あらか

(10)

じめ大工たちから情報を集めた金額の 3 倍の請求をした。この場で、部材の点 検、数量の見積もり、大工の人数、日数など一つ一つ話しあった。このような 場合に、対象となるトンコナンの建つ地域ではなく県内の他地域のトンコナン の情報をもっていることで、その情報をうまく使って話すことができた。つま り、他地域の見積もりの実例を、トンコナンの名前も示しながら、一つ一つ説 明することである(12)。これは大変有益であった。その結果、金額を半分まで下 げることが出来た。しかし、その次の段階がなかなか進まなかった。この段階 が進まないのは、トラジャ側が儀式の費用を主張していたからである。トラジ ャ社会では、家の修復時に祝祭を執り行う。祝祭は日本の建前にあたる時、棟 上げのとき、そして修復が終わった時にトンコナンの規模にしたがって執り行 うのである。

建物に関する祝祭は、豚を殺し、それを料理し、大量の米飯、やし酒を村の 人々に振舞うのである。人々に対して十分に振舞い満足してもらうことが重要 である。トンコナンが建つ集落の人たちは誰でも招待される。したがって祝祭 の費用はふくらむばかりである。この儀礼費用をトラジャ側は請求してくる のである。

トラジャの人々にとって儀礼は重要であり、欠くことが出来ない。祝祭は、

葬儀に比べると規模が小さいとはいえ、集落、村落の人々が十分に飲食するこ とを満たす必要がある。それがトラジャの慣習である。このような儀式が必要 であることは理解するが、それは修復の費用とは別にしたいと思っていたので ある。そこで、儀礼は修復費用には含めることは出来ないということを時間を かけて説得することになった。

こうするには前提がある。つまり、支援というのは、限界があり、トラジャ のトンコナンを修復することは、最終的にトラジャに伝統的建物が残ることで ある。その費用を支援するのであるからトンコナンの建物の所有者がこの儀礼 費用を自己負担することが等分の考え方である。この説明は、支援というのは お互いが助けあい事業を成功させていくことである。したがって双方で妥協点 をみつけ、その妥協点を双方が支援の形で行うことで成功させられるかである。

当初、この考え方は理解されなかった。しかし、話し合いを重ね、「支援」

というのはどういうことなのかをお互いに確認していった。その結果儀礼につ

(11)

いての費用はトンコナンの所有者が拠出することになった。トラジャ社会は、

相互扶助を基本として生活していることも、支援を理解、同意することに役立 った。この間、いくつかの祝祭では、豚 1 頭を祝祭のために持参したり、その 費用を拠出したりすることで儀礼に参加したのである。このような相互理解が お互いの信頼関係を築く基になった。

修復費用の支払いは、全額の半分を前金として支払った。この費用でトンコ ナンの所有者は部材を調達し、大工を集めた。そして修復作業を進めていった のである。残金の半分は修復が終了し、その終了作業を確認してから支払いを 行った。修復作業が資金不足で部材の調達で出来ず遅れている場合もあった。

そのような時は確認をして支払いを行った。

相互の信頼があり、修復費用の半額を支払い、作業をしてもらった。その間、

トラジャ人に作業の進行を全面的に依頼した。結果的に、作業を途中でやめる こともなく、トラジャの大工たちは確実に仕事をこなしていったのである。

Ⅴ 経験から展開へ

これまで論じたトラジャでの修復に関する経験は、集落を観察し、人々の慣 習、儀式、周辺の景観、人の生と死、そしてトラジャの文化を深く理解するこ とに役立った。

トンコナンの修復作業は、現実には金の取引という相互にシビアなビジネス の側面での交渉の世界であった。一方、このビジネスを双方に満足いくように 成立させるためには、トラジャ族が千年以上継続してきた慣習、儀式、文化、

社会制度などを理解しなければならなかった(13)。これら複雑な文化的社会的理 解は、長い時間が必要とされたが、ダイナミックな知的作業でもあった。

このようなトラジャの社会を理解したうえで、もっとも重要なことは、トラ ジャの人々との信頼に基づくネットワークを構築できたことであった。

この経験を基に、この章では、トラジャのトンコナンが建つ集落とインドネ シア共和国バリ島以東のヌサ・テンガラ・バラット、ヌサ・テンガラ・ティモ ールの山岳民族とを比較していく。まず、トラジャのトンコナン集落、次にス ンバ島の集落、フローレス島の集落を比較する。そして最後に中国でも山岳民

(12)

族を言われている貴州の集落との比較を試みる。

① トンコナンの建つ集落

トンコナンの建つ集落は、トンコナン数棟から数十棟が並ぶ。また一棟のみ の孤立したトンコナンも建っている。一方トラジャでは米倉はアランといい、

これもトンコナンと同じように木造で高床式の舟形家屋である(写真3)。ト ンコナンの小型の建物とも考えられる。集落には、集落の中心となるトンコナ ンがある。通常は、集落の創設者などのトンコナンが中心となっている。

集落ではトンコナンは北向きに、アランは南向きに建てる(写真4、5)。ト ンコナンとアランは、広場をはさみ並列する。通常一つのトンコナンの対面に そのトンコナンが所有するアランが建てられる。しかし、トンコナンを所有す る家系が特に富者や水田を多く所有する昔からの名門である一族は、数棟のア ランを所有する。この場合もトンコナンの対面にアランが建てられる。米を保 管するアランは、地域的な違いがあり、水田が少ない地域や稲作が不可能な地 域では米倉を所有しない場合も多い。また、トンコナンの床下に竹で編んだ籠

写真 3 トンコナンとアラン

(13)

写真 4 トンコナン・アランと広場

写真 5 ママサ地域のバヌアとアラン

(14)

式のアランを所有する地域もある。

したがって、集落内のアランの数をみれば、その地域の水田の規模、いうな れば稲作の有無や収穫量の多さや少なさを測ることができる。

集落の立地場所としては、次のような地形が選ばれている。

1、 崖や傾斜地の上

2、 幹線道路より数キロも離れた山間地 3、 比較的高地の山の中腹(写真6)

このように集落の立地条件は、集落から見ると平地が見渡せる高地を選ぶ。

また、傾斜地、高地、山の中腹など集落への到着が困難な場所を選んでいる。

また、集落は、竹林や木立に囲まれ集落の存在さえわからないような工夫が なされている。集落の場所が平地にある場合は、集落の入り口は柵が何重にも 作られ簡単に集落の中にはいることができないような工夫がされている。集落 は、トラジャの人々が暮らす場所であると同時に、人々を守るシェルターの役 割があり、集落内の安全と安寧を保障するように構成されている。集落の立地

写真 6 バルップ郡、山中の集落とトンコナン

(15)

もそのような場所を選んでいる。トラジャが現在のタナ・トラジャ県、ケチャ マタン(郡)、デサ(村)というようなインドネシアの行政区に統一される以前は、

各地方の有力者が群雄割拠し、それぞれの勢力圏争いをしており、そのため集 落はこれらの闘いから集落の人々を守ることが第一として構成されていた。現 在でも集落は、この形態を踏襲している。現在ある集落は、群雄割拠の時代か ら構成されていた集落がそのまま集落として存在しているものも多い。また、

近代化に伴い、行政の中心地マカレ、商業の中心地ランテパオの近郊では、ト ンコナンではない簡易住居が次々に建てられている。しかしこのような簡易住 居は、幹線道路に沿うように建てられており、伝統的な集落とは異なる。

数棟から数十棟で構成されている集落ではなく、1 棟や 2, 3 棟で構成されて いる場合も立地場所は、おなじような場所を選ぶ傾向がある。高地や山間、竹 林や木立に囲まれた場所に建てられている。このような規模の小さな集落、ま たは一棟であっても、トンコナンは北向きに、アランは南向きに建て、その中 心に広場をもっている。つまり、集落は人々の生活する場所であると同時に広 場は儀礼を執り行う場所である。集落はこの二つの条件を整えているのが基本 である。

集落は、血族か昔からその家系に関係していた人々が相互扶助で暮らしてい る。水田耕作、田植え、稲刈り、トンコナンの建築や修復、葬儀の仮小屋を作 ることなど、様々な相互扶助を行っている。集落内の富者、またはトンコナン の所有者は、集落内の人々の生活を保障することが暗黙の了解とされている。

このような相互扶助は、トラジャ人が相互扶助により最低生活を保障するこ とにもなる。伝統的集落の人々の生活の保障は、制度的特徴を有しそれは現在 でも存在している。例えば、水田耕作について記述すると、伝統的水田形態に は、ウマ・マナ、ウマ・トンコナン、ウマ・ディアンナ、ウマ・ガラントと呼 ばれるものがあり、ウマ・ディアンナは共有田であった(14)。共有田は、貧者を 救う意味をもったもので、収穫物は貧者に与えられる機能だった。現在、共有 田というウマ・ディアンナは形式上存在しないが、ウマ・トンコナンとしてこ の役割を担っている。また、葬儀の時に犠牲にして殺した水牛の皮は売買し集 落の共通の福祉に使用した。これは現在でも行われている。このように集落は 単に、人々が生活するのみではなく、人々の最低生活を相互に保障する制度的

(16)

役割をもってまとまり、維持されているのである。

② 集落と墓の位置

トラジャの集落は、トンコナン、アラン、広場、各トンコナン家族が使用 する炊事場用掘っ立て小屋、鍛冶小屋、豚小屋、鶏小屋、水牛小屋などで構成 されている。集落の裏手や集落の近くに先祖の墓を作る。また、現在の傾向 は、トンコナンとは別に家族の住む簡易住居を集落内に建てる。この簡易住居 はバヌア・ビランダと呼ばれている。これは、オランダの家といい、トンコナ ンとは区別した西洋式建築のことを呼ぶ。バヌア・ビランダと呼ばれる建物は トラジャにオランダの宣教師がやってきてから建てられるようになったもので ある(15)

集落の裏側と集落周辺には様々な形態の墓が作られている。墓の形態は、集 落裏の洞窟を利用した墓、岩盤に穴を穿ち墓にしたもの、巨岩を刳り貫いた墓 など地形を活かした多様なものである。また、墓の場所も住居から離れた岩盤、

岩などに作ることも多い。墓を集落以外の場所に造り、場所が分散される傾向 と比較すると、伝統的集落では集落の裏手に風葬の墓が造られているというま とまりがある。

サンガランギ郡ケテケス村の場合、集落は広場を中心にしてトンコナンは 北向きに、アランは南向きにして並列している。この集落の小道を集落の裏 手にはいると風葬の墓がある(写真7)。ケテケス集落の裏手、南側に墓があ る。集落の南側は、トラジャ族の方位観に基づくと、南の方向に死者の国=

Puya =プヤがある。死者はそこに戻ることを意味する。

トラジャでは、日本が北枕で寝かせるのとは逆に、死ぬと南枕に寝かせる。

「南にある死者の国に戻るとされるからである」(山下 1986 年 p97)。ケテケス の例では、集落の南側に先祖の墓があるのは、先祖が死者の国に戻るというト ラジャ人の方位観に合致するものである。トラジャの人々は、先祖に守られて 生活をしていると考えている。死者は南側の国にて集落を見下ろし、先祖は子 孫の生活を守るという循環の中で集落の日常生活を送っているのである。

死者は裏手の墓、洞窟の中で、風葬にする。また、ケテケスの特徴である、

岩盤に横軸を通し、そこから棺桶を吊り下げて風葬にする吊り下げ式風葬墓が

(17)

ある(写真 8)。この吊り下げ式以外は洞窟の中にて風葬にする。ケテケス村 だけではなく、先祖の姿を似せて作ったタウタウという木製の人形を副葬品と して備え付ける。墓場にはこのタウタウがいくつも並び、集落の方向を見つめ ている。タウタウ人形は、ナンカ(ジャックフルーツ)の木を彫り一体の人形 に仕上げるものである。ナンカの木は、防腐剤効果があるため、昔は死体の防 腐剤として使っていた。また、ナンカの木はとても硬く、トンコナンの部材と しても使用される。現在、ナンカからタウタウを彫る職人がいる。

墓の周辺は、死者を運んできたサリガンという台=日本の神輿のように数名 で担いで運ぶ台、花束、備えられたビン、笠などが散乱している。トラジャ人 は、これら残していったものにはほとんど興味を示さない。捨てられ、風化さ れ、放置されている。

また、トンコナン一棟アラン一棟が建つ敷地では、敷地内に先祖の墓を作っ ていることも多い。道路沿いの岩や耕地内の岩盤に墓を作っているが、この場 合も死者を運んできた台や花輪、儀式に使ったビンなどはその周辺に放棄され たままで、自然の風化にまかせるのである。

写真 7 岩盤に掘られた風葬墓とタウタウ

(18)

タナ・トラジャ県北リンディンアロー郡バルップでは死者を包み重ねるマネ ネ儀礼があり、先祖は家族によって包みなおされる。この場合先祖を葬る墓は 二種類ある。一つは集落近くの岩盤に穴を穿ち風葬にする方法である。バルッ プ地域は、山々に囲まれた高地である。巨大な岩石が露出した山も多く、その ような岩盤を刳り貫いて墓にするのである。他の一つは集落の近くに高床式簡 易住居を建てそこに先祖を納めるのである(写真9)。現在、高床式簡易住居 とは別に、一戸建ての簡易住居を建て、その中に棺桶を納めている場合もある。

いずれの場合も、集落または家族が住むトンコナンの近くに墓がある。墓は、

水田の畦道をとおり、その先に水田や集落が見える場所になにげなく作られて いる。死者も生者もそれぞれの位置を確認できる場所であった。このような距 離感を持って人々は暮らしている。

このように集落と墓との位置関係は、集落の裏手、南側に墓を作っているか、

家族の敷地内、集落の近くの岩盤を利用して集落の墓を作っている。集落の近 くの墓は、集落からあぜ道を渡り、村人の生活圏の中で死者の存在が常にある のが普通である。

写真 8 ケテ・ケス集落裏の棺桶と骸骨

(19)

③ スンバ島の伝統的集落(16)

スンバ島の伝統的集落は、先祖の墓を広場の中央に造り、住居が左右に並列 する。建物は、トンコナンのように高床式の木造建築である。建物は屋根を帽 子形にそり上げた構造である。スンバの集落の特徴は、屋根を帽子型にそり上 げた形の木造建築が両サイドに並び、集落の中央に墓を配置していることであ る(写真 10)。集落の中心に墓を作るようになったのは、スンバの慣習として あったもので死者は金銀とともに埋葬するため、その金銀を盗まれることがあ った。そこで集落の中心に移し監視ができるようにして現在に至ったとのこと であった。

伝統的集落は、ヒエラルキーが明確である。貴族階級、一般階級、奴隷階 級の三階級である。このヒエラルキーに基づき人々は生活している。集落の長 は、長のシンボルとして水牛の角が住居の入り口に飾られている建物に住んで いる。集落では、結婚した女性は刺青をする。

また、集落には、マラプ・ウマ(先祖の家)と呼ぶ儀式用の家屋が必ずある。

マラプ・ウマの前には、カトダという小さな石柱の守り神がある。

写真 9 家屋の中に先祖の死体が収められている

(20)

貴族階級は、巨石墓を持つものもいる。大きな墓になると、墓石は 1000 人 くらいが運び造り上げた。その労働報酬のために肉の分配を行った。墓の周り の彫刻はマムリと呼ぶ、女性性器を意匠化した図柄が彫られている。

一方伝統的集落に住む人々の観念の特質は、4 と 3 の組み合わせの重視とい うことがあげられる。帽子型の屋根を持つ住居は、高床式で、バーティカルに 屋根部―居室部―床下部の三層で構成される。屋根部は聖なる空間で先祖と神 の空間である。居室部は現在に生きる人々が衣食住を営む生活空間である。床 下部は四本柱の軸が地面を貫いており、この柱が建物を支える基礎である。屋 根部―居室部―床下部は先祖―人間―動物の空間でもある。先祖は神と考えて いるので神―人間―動物という家屋構造の中を上下に貫く世界観である。また、

集落の人々は床下部には悪霊が住むとも考えており、地面に直接住むことを禁 じているため床上部に住む。床下部分は現在、馬、豚、鶏などの家禽類を飼っ ている。これはトラジャのトンコナン高床構造と同じである。

この三層を天井から床下まで貫く柱が建てられている。三層の空間、神―人 間―悪霊を四本の柱がバーティカルに貫き人間が住むことで居室部に意味をも

写真 10 スンバの集落

(21)

たせている。また、4 本の柱はそれぞれ意味がある。正面入り口より入り、手 前右が第一の軸柱、右回りにその右後ろ柱が第二柱、その後方、正面から左斜 め後ろ柱が第三柱、正面左が第四柱である。居室部はこの 4 本の柱を右回りす るのである。

四本柱はそれぞれ次のような意味を持っている。

第一柱 食:米やとうもろこしなどの食糧を意味する 第二柱 生:結婚

第三柱 死:死亡 第四柱 富:幸福、幸運

このように居住空間の中で、神―人―悪霊という宇宙観を持ちつつ、4 本柱 に人間の誕生から死までのシンボル化がある。

その上、集落に住む人々は慣習として対概念を尊重して生活している。右と 左、前と後、男と女、上と下、中心と周辺というようなわかりやすい対概念で ある。この場合、右、前、上、中心が上位であり、男は上位、女は下位の男系 社会である。居室部の右空間は、儀式や公的会合などで男性によって統括され 使用される。居室部の左の空間は女性が日常生活に必要な活動に使用される。

4 本柱で囲まれた中心部分の炉空間は、これも右部分と左部分に分けられ、右 の部分は儀式のときに使われる。左の部分は日常の炉として使用される。

このように帽子型の家屋は、明確な対概念によって生活が営まれる。スンバ 島の伝統的家屋と集落は、対概念による役割分担と居住空間の区別化など明確 でわかりやすい構造を現在も維持している(17)

④ フローレス島の伝統的集落(18)

スンバ島の伝統的集落は、男系を中心として統率され生活している。明確な 対概念と神―人―悪霊を一棟の帽子型家屋の中に内包し、宇宙観を持ち生活を 維持している。このスンバ島集落と比較するとフローレスの集落の特徴は、男 系クラン集落と女系クラン集落の双方で維持される構造をもっている。男系ク ランを維持する集落と女系クランを維持する集落の二つの形態が存在する。ま

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たスンバに比べるとフローレスの集落内は、よりシンボル化されているといえ る。

A 絶対的男系社会の集落

絶対的男系社会というのは、モサラキと呼ぶ男性支配者と農民の二階級があ るだけの社会で、モサラキは絶対的な権力を持っているからである。モサラキ の家系は基本的に長男がこれを継いでいく。モサラキはシャーマンも兼ねるた め、経済的・精神的権力を掌握している。この意味でも、絶対的男系社会である。

モサラキの家は、高床式で木造の四階構造である。屋根はアランアランと呼 ぶ茅で葺かれている。スンバの帽子型ほど曲線的な反り上げはないが、なだら かな帽子型のような葺き方である。四階構造のうち、一階部分は、家屋入り口 の手前の縁台部分をいう。二階は、家屋内部に入る来客のために設けられた部 屋がある。この空間は男性用と女性用に分かれている。三階は、ここに住む家 族が生活する空間である。この三階居住空間の特徴は、男性用、女性用と部屋 が分かれており、部屋も台所も別である。男性は女性よりも地位が上である。

例えば、男性が食事をするとき、女性は外で待たなければならないような習慣 がある。したがって、入り口手前の縁台部分を除けば三層構造の家屋ともいえ る。

四階は先祖の部屋である。四階といっても家屋の構造上実質天井部分である。

この先祖の部屋と呼んでいる空間には、棚形式の部屋もある。しかし、人々に とってはどのような形式であろうが先祖の部屋、聖なる空間である。

家屋の入り口正面は、右の壁に男根の彫刻、左の壁には乳房の彫刻があり、

男性のシンボルと女性のシンボルに挟まれている。入口正面からみると、右側 男性、左側女性の象徴化された建物である。建物の中にはいると、外側からの 右側男性、左側女性の対概念が逆になる。室内には男性のシンボルがアテと呼 ばれ心臓部分として取り付けられている。つまり、建物も建物の構造も意匠上、

男性のシンボルを中心にこれを誇示する構造である。

モサラキの家の近くには巨石を積み上げた墓がある。モサラキは死ぬと巨石 の下に埋葬される。モサラキ夫婦で巨石墓にはいることはできるが、他の人々 がはいることは出来ない。墓は石を次々と上に積み上げていくので高いものに

(23)

なる。このようなモサラキの墓は集落内にある。また、この集落に住む人々は、

自分の家の前に墓を造り、日常生活の中で、この墓の上で眠り、休憩をとり、

洗濯物干しなどさまざに使用している。

B 女系を維持する社会の集落

モサラキの絶対的男系社会とは対象的に女系を維持することを目的として構 成されている集落がある(写真 11)。女系を維持する集落ではあるが、女系ク ラン、男系クラン双方が集落内に暮らす。女系クランと男系クランで構成され る集落は、女系クランを受け継ぐ女性と男系クランを受け継ぐ男性は双方独立 した家屋を所有するが、必ずその家屋は女系クランであるか男系クランである か識別できるよう、屋根の上にシンボルを取り付ける。女系クランは家、男系 クランは兵士のシンボルを取り付けている。また、女系クラン、男系クランと 特に強調するのは、女系クランの家族のなかで、女系クランを継ぐ女性を選び、

先祖代々よりの集落に住むことができるが、女系クランでそれを継がない姉妹 はこの伝統的集落の周辺の土地に出て生活をしなければならないからである。

写真 11 フローレスの集落

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つまり集落内に住むことができない。男系クランもこのような方法で伝統的集 落に住み続けるのは選ばれた者で、それ以外は女系クランと同じように外にで て暮らさなければならないのである。

集落は、この女系、男系クランを表す二種類のシンボルとその他の重要な三 つのシンボルを設けるのが特徴である(写真 12)。三種類のシンボルは次の意 味を持つ。

1、 Peo =ペオと呼ぶ巨石、石塔である。この Peo は、聖なる巨石であり、

儀式の時は、このペオにてサクリファイスを実施するのである。

2、 Bhaga =バガと呼ぶ女性のシンボルで、住居に比べれば非常に小型の家 である。このバガには女性性器を具象化した彫刻が全体の文様として彫 られている。

3、 Ngadhu =ンガドゥと呼ぶ男性のシンボルで、垂直の傘型をしたものであ る。

写真 12 ペオ・バガ・ンガドゥの組み合わせ

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このペオ、バガ、ンガドゥという三つのシンボルは、三つで一セットであり、

三つで成立するものである。どれか一つが欠けることは絶対にない。女系クラ ンであろうと男系クランであろうと一クランは必ず、このペオ、バガ、ンガド ゥのシンボルを建てる。集落のほぼ中央にペオ、バガ、ンガドゥがいくつも建 てられている。このセットを数えることで、集落内のクランの数がわかる。そ れは、屋根の上に取り付けられた女系と男系のシンボルの数とも一致する。

一方、伝統的集落社会は三つの階層で成立している。最高位は、パルビデ階 級=猟師、王のクラスと呼ぶ。次の階級は、ラバ階級=農民クラスである。最 下位は、ガルペオと呼ぶ従者で、基本的には最下位のガルペオ階級は集落の外 に住む。

女系クランを継ぐのは、最上位のパルビデ階級の選ばれた女性が継ぐことが 原則で、最上位階級の女性が最上位階級の男性と結婚して女系クランを継ぐ。

この女性が正式のクラン継承者である。また、パルビデ階級の女系クランを継 ぐために選ばれなかった女性とパルビデ階級の男性が結婚した場合は、男系ク ランになる。ラバ階級の女性とパルビデ階級の男性が結婚してもクランとして 成立しない。

集落の中心にペオ、バガ、ンガドゥのシンボルが立っており、ペオの周辺 に墓が作られている。先祖の魂は、集落の聖なる空間、ペオーバガーンガドゥ の空間に住んでいると信じているからである。このため、人々はペオーバガー ンガドゥの空間に集落以外の人々や外国人が入り込むことを極端に嫌悪して いた(19)

このような集落は、女系を継いだ伝統的集落がクランの継承を行うので、集 落周辺に同じような集落があっても、直系のクランを継いでいるとは限らない のである。このような背景から集落のランクが存在し、儀式の順序はそのラン クの高い集落から行う。

例えば、12 月の新暦クリスマスの四日後に執り行われるレバという祝祭は、

ベナからウォゴ、次にラガその後その他の集落と回っていくので、規模もこれ に準じて小さくなっていく。

このようにフローレスにおいては、集落の形態は、絶対的男系社会か、女系

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を維持する社会かでまったく違っている。二つの形態があるフローレスの集落 は、現在はいずれも山間地などに点在している。海浜周辺にコタ=町に住む人々 や移住して住み始める人々の住居はインドネシアのどこでも見られる簡易住居 になっている。現在では、山間地に建つ伝統的集落に行くには大変な時間が必 要であり、孤立していることも現実である。また、インドネシアの近代化の波 がどこの島々にも押し寄せている。このような先祖の生活形態を続ける伝統的 集落の今後の変容を見極める必要がある。

Ⅵ 貴州の集落

今回の貴州調査では、集落として訪ねたのは貴州台江反排苗族文化生態保護 区と衆江鼓楼のみであった。この二ヶ所をてがかりに比較を試みていく。

貴州台排苗族文化生態保護区、衆江鼓楼で有名な肇興は、ともに観光化が進 んでいた。調査期間と重なった休日は、この地区には中国国内からの観光客が 大変多かった。衆江鼓楼の肇興には、バックパッカーの大学生が雲南・貴州の 少数民族自治区を回っていた。

この肇興は、トン族が住み鼓楼を中心とする木造建築物の村としても有名な 場所であった。トン族はもともと、パイユエ(百越)と呼ばれていた一支族で あって多くの小国に分かれていたときに戦乱などを逃れて、現在の居留地に移 りすむようになったと伝承されているそうである(鎌澤 1994 年 p168)。貴州 省に最も多く住んでいる。

この肇興では鼓楼と水路にかかる橋が大きな特徴であった。鼓楼は太鼓を吊 るしてあったと聞いたがここでは見ることができなかった。鼓楼は一族ごとに 建てられその一族のシンボルである。したがってこの肇興では 5 棟の鼓楼が建 てられていた。この鼓楼が間隔をおいて建てられておりこの鼓楼の周辺に家々 が集まるように建てられていた。これが、一体の面的な広がりを持ち町並みを 形成しているのである。

鼓楼を中心とする集落というよりは、数棟の鼓楼を中心とする町並みという 見方のほうが適していると考える。日本の例で言うならば、国が行っている伝

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統的建造物郡保存地区という選定の基準に合致するような家並みである。トラ ジャのトンコナン集落、フローレスの集落、スンバの集落に比較すると、その 集落の長の建物を中心にし、広場を挟むある一族が中心となった集落構成とは 異なっているものである。

鼓楼は、例えば日本の五重の塔のように塔を層のように積み上げていく構造 である(写真 13)。五層から十層もあるだろう。鼓楼を中から眺めると木造の 吹き抜け構造を見ることができる。この鼓楼は、釘を使わずに組み立てて建て ているもので、一層部分から上に層を重ねるごとに面積が小さくなり頂上に向 かって細くなっているものである。

鼓楼は、文化大革命後建て直したとのことであった。鼓楼の一階部分、つま りこの鼓楼を支える柱の部分は、かなり高いものである。この部分に縁台また は、長椅子が作られており、ここで人々はさまざまに休憩をとっていた(写真 14)。寝ている人もいれば、タバコを吸っている人もいれば、話に夢中になっ ている人などさまざまであった。ここは、だれでも、外部の人であっても、観 光客であっても、気軽に座って休むことができる場所であった。女性たちも子 供たちをつれてここで休憩していた。この柱の立つ部分、鼓楼の塔の床下部分

写真 13 鼓楼 写真 14 鼓楼と人々の姿

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は、老若男女がいつでも集まっている場所であった。これは家並みの中で独特 な景観を作りだしていた。

屋根の庇の部分にはさまざまな絵を描いている。この絵は鼓楼全部に共通す るものではなく、それぞれの鼓楼が絵を描いている。トン族と思われる男性、

女性、鳥、花、家禽、蛇、蝶々などさまざまであった(写真 15)。この絵の下 地になる部分が白く塗られていた。白い庇は、全体に暗黒色の家並みで目立つ 色彩であった。

屋根の上や正面の部分に龍の彫刻が飾られている。龍は水中にすみ、水を 司る精霊として農耕民族のトン族には生活と密着して神といわれている(鎌澤 1994 年 p175)。

沖縄に見られる石敢当は、もともと「泰山石敢当」と書いて板壁や柱に掛け るもので魔よけの意味であるが、沖縄のようにT字路に取り付けるのではなく、

四つ角や山に向かって取り付けるのだそうである(鎌澤 p172)。

調査できたかぎりでは、山岳民族の墓は、前述したトラジャ、スンバ、フ ローレスの集落とは違い、耕作地に丸い饅頭型の土盛をした墓であった(写真

写真 15 鼓楼の龍と意匠

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16)。これは、空き地の地形を利用した丸型の墓が転々と点在していた。墓は 土盛され、盛り上げる部分の土の表面は石を敷き詰めて盛り土の上へと積み上 げていく形であった(20)

このトン族の集落では、中心を流れる川にかかる橋が印象的であった。これ は、屋根を取り付けた橋であり、雨を防ぐことができる。また、雨宿りとして も使える。橋には左右に縁台が設けられ三々五々人々が休憩していた。ここは、

人々が休憩する場所であると同時に人々が情報を交換する場所として利用され ていると考えている(写真17)。調査のときは老父が孫をつれて子守を受け持ち、

人々と一緒に話していた。

このような橋の形態は、トラジャ族にもある。また、西方トラジャのママサ 族にもある(写真 18)。昔はここで市場が開かれていた。現在は、人々が休憩 する場所ではあるが、情報を交換する場所でもある。橋に屋根が掛けられるの は、橋の部材が腐朽化を防ぐ意味もある。また、雨季でも人々が橋をわたれる ことが重要であった。

このように屋根がついた橋はブータン王国にも多くみられる(写真 19)。い ずれも山岳の地に住む人たちの共通点ともいえるのではないか。ブータンのよ うな高地の人々の橋の役割とはまた違う意味でトラジャやママサの山岳民族で は、山道の往復に暑さからのがれて一時の休憩をする場所でもあった。

鼓楼と屋根のついた橋は、家並みの随所に存在する。これは、鼓楼を中心と して一族を中心とした集落形成であるが、その境界線はこの調査だけでは不十 分であった。このような鼓楼が数塔建ち、橋で仕切られた空間を面として広げ た町並みは、日本のかつての宿場町や城下町のような賑わいである。したがっ て、集落という規模よりはるかに大規模な場所である。この肇興の町並みを歩 くと、町並みの中に入っていっても鼓楼を見つけることが出来る。その鼓楼を 中心に橋があり、川が縦横にながれている。これらどこの橋も、人々が集い話 し、休んでいるので、鼓楼とはまた違う人々の集まる空間の意味がある。また、

川はこれら面としての町並み地区を縦横にながれ、それから水を引いて人々の 生活に活かしている様子がどこを歩いてもわかる。

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写真 16 貴州の土盛り墓

写真 17 肇興の橋

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写真 18 トラジャの竹製の橋

写真 19 ブータンの橋

(出典:INTRODUCTION TO BHUTAN)

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Ⅶ 貴州反排苗族文化生活保護区での聞き取り

この村に入るときは、まず橋を渡りこの橋を渡ることで相手の領域にはいり 歓迎される(写真 20)。橋を渡って村にはいるという行為が重要である。橋を 渡ると歓迎の酒を振舞われるのである。ここでは、観光化のために民族衣装を 着た人々の歓迎の舞踊が行われた(写真 21)。この舞踊は歌垣であって、男女 の掛け合いのものであった。沖縄の歌垣との共通点がある。現在は週に二回く らいこれらの踊りの授業が学校で行われているとのことであった。

この保護区の人口は約 1600 人、世帯数は 340 戸であったので、一世帯の家 族数は、やく 5 人であろうか。一家族に一家屋ということであって、昔は大家 族であったとの話しから考えるとかなり人数の減少がある。また、若者のほと んどは、出稼ぎに行き、一番出稼ぎに行っている場所は広州とのことであった。

小学校は集落の近くにあり、中学校までこの近辺で教育をうけることができる。

しかし、中学以上の高等教育はこの村を出て行かなければならないということ であった。したがって、人口減少をまぬがれないとのことであった。このとき

写真 20 台排苗族文化生態保護区入り口の橋

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聞き取りに協力してくれた Wang Pan Sei さんによると、この村の多くの先祖 は明末に黄河流域から追われてきたとのことであった。

家屋は、村全体の人々が相互扶助で建てる(写真 22)。昔は建物の部材は、

集落近辺のものを使用し、屋根を葺く瓦も集落で焼いていたとのことであった。

建物は三階建てで、一階部分は家禽、倉庫に使用する。二階部分は人がすむ。

三階部分も人が住むとのことであった。山岳地で雪が降るため米の収穫は1年 に一回だけである。先祖の墓は村が見渡せる場所にあり、現在は漢族と一緒の 墓となり墓の方角などあまり意味をもたなかった。

苗族は三つの魂があり、一つは墓を守る魂、一つは家族を守る魂、一つは天 国へ導く魂で家の周りにいると信じている。

この村の調査では、若者の流出に伴う人口減少と保護区とよばれているよう に少数民族としての観光化が顕著であった。これは外国人観光客がたくさん来 ているということよりも自国の中国人観光客が多いのが特徴である。今後、こ れら観光客が少数民族の多様な文化の理解者になることが必要である。

写真 21 歓迎の踊り

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おわりに

インドネシア共和国南スラウェシ州タナ・トラジャ県のトラジャ族の集落、

ヌサ・テンガラ・バラット州スンバ島、ヌサ・テンガラ・ティモール州フロー レス島の伝統的集落を説明した。その上で中国貴州との比較を試みた。インド ネシアにおけるスンバ、フローレス島の伝統的集落は、現在その集落の存在自 体が孤立し始めているのが現実である。トラジャにおける集落の形態は、スン バ、フローレスと比較すると集落規模が大きくないので、そのまとまりのなか で農業を生業として暮らしていける。タナ・トラジャ県のマカレ、ランテパオ など町部においては近代化が進み伝統的家屋に住まないことも特別なことでは なくなってきている。しかしながら、トラジャの集落は意味を持って存在する 理由として、トラジャの人々の紐帯を強める儀礼は近代化が進んでも執り行わ れていることがあげられる。この儀礼に現在でも人々が価値を置いている点で、

急激に集落が孤立する自体にはなりにくいと考えている。

このようなインドネシアの集落に比較すると肇興は規模が大変大きい町並み 写真 22 苗族集落と家屋

(35)

である。また、インドネシアのような 集落全体が農業をなりわいとするとい うことではなく、町並みはそこに住む 人々がさまざまな商業を営んで暮らし ている(21)。集落の形態はまったく異な るため、この比較をするためには、肇 興の鼓楼を中心とするある一族の関係 する地区に絞り込んで、そこでの生業、

就業形態、家系調査などする必要があ ろう。そのような一つ一つの調査過程で インドネシアの集落との慣習、儀礼、民 俗資料などの詳細な比較が可能になる。

今回の調査では、今後の調査へのス タートが出来たと考える。したがって

今後も調査を継続する必要がある。しかし、今回の調査でも顕著であった観光 化と過疎化、若者の出稼ぎの傾向は急激であるため早めに調査をすることが求 められている(22)

脚注

1、 1990 年代に始まったトラジャへの観光開発の動向、トラジャ族の伝統社会について は参考文献(14、「インドネシア観光開発と伝統社会」)に論じた。

2、 修復に至るまでの経緯は次のような概略としてまとめられる。細田はトラジャに初 めて行った 1990 年に、100 年以上の年代のトンコナンに人々が住んでいること、そ のトンコナンを中心とする人々の生活の場所である集落の景観に興味をもった。一 方、無住となり倒壊していくトンコナンもあった。このトンコナンは修復し、現地 保存したほうがいいと考え、修復の話を文化庁に持ち込んだ。この要請をうけ、文 化庁と外郭団体を中心として調査をすることが可能になった。この調査結果が修復 に結びついたのである。

3、 修復のための最初の調査は、(財)文化財建造物保存技術協会などの支援で行われた。

この最初の調査では、鳥越憲三郎も歴史学者として調査メンバーとして参加した。

調査の途中、その方針などの違いから分裂した。バヌア・タンベンの修復を行った 文化庁に対しても批判的であった。その後、鳥越憲三郎・若林弘子は『倭族トラジャ』

を著した。当時から鳥越・若林は倭族の視点から調査を行っていた。

4、 バヌア・タンベン= Banua Tamben は、Banua は家、Tamben は井桁組を意味する トラジャ語である。高床下の柱建ての部分が井桁に組んである建物のことである。

5、 アリン・アリンという茅の一種で葺いていた家屋もあったが、現在はほとんどない。

これは後述するスンバ、フローレスの伝統的集落では家屋の屋根葺き材として現在 も使用している。

写真 23 市場の女性、背負い帯と刺繍

(36)

6、 トタン葺きは竹葺きに比べて部材の価格も安く、人件費もかからない理由による。

7、 トラジャ県内の地域差、地域的特徴については、参考文献(10)に詳しく論じた。

8、 タナ・トラジャでの調査は元県知事アンディ・ロロ氏、前知事タルシル・コドラッ ト氏の協力を得ることができた。県知事の協力は、どこに行っても調査を自由に行 えるなど絶大なものであった。

9、 調査した限りでは、トラジャの大工たちは、こちらの質問にいやな顔もせずに実直 に答えてくれた。トンコナンに興味をもっていることに共感してくれた面も大きい。

10、 バヌア・タンベンの修復後、細田はほぼその調査をトラジャ人と一緒に一人で行った。

その後、岩手県前沢町(現在奥州市前沢区)の牛の博物館との関係ができて、博物 館友の会を中心とする修復支援委員会をたちあげた。この委員会と全国の支援者の 寄付、大成建設自然・歴史環境基金助成、キーコーヒーなど企業からの協力などで 資金調達を行い修復をした。

11、 著者にとってはサンガランギ郡ケテ・ケス村に住むトラジャの文化・社会・歴史に 造詣の深いティンティン・サロンガロ氏だった。サロンガロ氏の住むケテ・ケス村は、

トラジャ的景観が美しくインドネシア共和国が世界遺産 Tentative List に上げてい る場所である。トラジャに来る観光客はほとんどこの村を訪れる。

12、 トラジャではトンコナンには一つ一つ名前がついている。例えば、トンコナン・サ レバユ、トンコナン・テンコバト、トンコナン・パパ・バトゥのように。

13、 トラジャ社会の制度的側面は参考文献(9)(11)に論じた。

14、 伝統的な水田耕作については、参考文献(9)に論じた。

15、 バヌア(家)ビランダ(オランダ)、オランダ人の家と呼んだ当時のなごりの呼称で ある。オランダ人宣教師がトラジャに布教に来たときから建てられたので、こう呼 ばれた。トンコナンに比較すると、簡単に建てられること、値段が安価なことである。

しかしトンコナンに比べると明るいというので若い世代はこれに住みたがる傾向が 16、 スンバ島伝統的集落と記述するのは、スンバ島は、他の島々からの移住者が多く、ある。

港湾を中心に町となり都市化がすすんでいる。このため、本論が展開するような集 落は少なくなっている。近代化に伴い本論のような生活をする人々も減少している。

したがってこれらの人々の生活を区別するために伝統的集落とした。

17、 調査した Kampun Wata Baka では、主人である 75 歳の男性は、現在 2 人の妻を持ち、

子供はこの間に 9 人いた。この現在の妻の前に 2 人の妻がいたがいずれも死亡した。

現在の 2 人の妻は同じ家に住んでいる。

18、 フローレス島もスンバ島と状況は同じである。フローレス島への移住者も多く、そ れは町部を中心に都市化がすすんでいる。フローレス島の場合は、スンバ島に比べ 就業機会が少ないので、若者は他島へ出稼ぎにでる。

19、 この聖なる空間の意味が理解できず、石の上に座ったヨーロッパ人観光客は、鉈を もった村人に追い払われたというような話はよく聞いた。

20、 このような土盛饅頭型の墓は、済州島にも顕著にみられた。

21、 商業地区には、民族衣装を着た少数民族の女性たちが来て買物をしていた。

22、 本論で使用した写真は、写真 1 と 19 以外すべて細田が撮影したものである。

参考文献

1、 鎌澤久也〔1993〕『雲南西南中国の人びと』平河出版社 2、 鎌澤久也〔1996〕『南詔往郷西南中国の人びと』平河出版社

3、 茶谷正洋・八木孝二・盛和春・山口浩司〔1981〕『インドネシア・スラウェシ島サダ ン・トラジャの集落と住居の形態』-住宅の構法と集落の形態に関する研究―住宅 建築研究所

4、 鳥越憲三郎・若林弘子〔1995〕『倭族トラジャ』大修館書店

(37)

5、 普請研究〔1991〕『トラジャの伝統的家屋』第 38 号普請研究会

6、 文化財建造物保存技術協会〔1997〕『インドネシア共和国タナ・トラジャ県伝統的家 屋バヌア・タンベン保存修理工事報告書』(財)文化財建造物保存技術協会

7、 細田亜津子〔2003〕『琉球列島・社会的文化的ネットワークの形成と変容に関する総 合的研究』文部科学省研究助成による中間報告:山岳民族と海洋島嶼民族の共時的 紐帯性の研究、トラジャ族と沖縄民族の文化的社会的ネットワーク構築と継承の方 法―法政大学沖縄文化研究所

8、 細田亜津子〔2004〕『琉球列島・社会的文化的ネットワークの形成と変容に関する総 合的研究』成果報告書―山岳民族と海洋島嶼民族のネットワーク構築と継承、トラ ジャ族と沖縄民族の比較を中心としてー法政大学沖縄文化研究所

9、 細田亜津子〔2005〕『トラジャ農村社会の構造分析』長崎国際大学論叢第 5 巻 10、 細田亜津子〔2006〕『トラジャにおける葬制と表象の地域的特徴―沖縄・八重山諸島

との比較研究』、「沖縄文化研究」第 32 号、法政大学沖縄文化研究所

11、 細田亜津子〔2006〕『トラジャ農村社会の伝統的・制度的特徴』法政大学経済学部「経 済志林」Vol.73, No.3 法政大学出版局

12、 細田亜津子〔2007〕『トラジャにおけるトンコナン集落の構成と機能―沖縄古層村落 と門中との比較研究』、「沖縄文化研究」第 33 号、法政大学沖縄文化研究所 13、 マリアンヌ・マンダドゥン〔1982〕『ママサ』ウジュン・パンダン 14、 村串仁三郎・安江孝司編〔1999〕『レジャーと現代社会』法政大学出版局 15、 山下晋司〔1988〕『儀礼の政治学』弘文堂

16、 Françoise Pommaret, INTRODUCTION TO BHUTAN, 1990, The Guidebook Company Limited, Hong Kong

タナ・トラジャ県人口統計 2006

Kecamatan(郡名) 男性(人) 女性(人) 合計(人)

Bonggakaradeng 3,171 3,143 6,314

Simbuang 3,253 3,024 6,277

Rano 3,066 3,100 6,166

Mappak 3,035 2,893 5,928

Mengkendek 15,420 14,315 29,735 Gandang Batu Sillanan 10,084 9,219 19,303

Sangalla 3,545 3,476 7,021

Sangalla Selatan 4,303 4,094 8,397 Sangalla Utara 4,196 4,051 8,247

Makale 15,034 15,617 30,651

Makale Selatan 6,265 5,966 12,231 Makale Utara 6,242 5,840 12,082

Saluputti 5,482 5,488 10,970

Bittuang 7,006 6,337 13,343

Rembon 9,443 9,498 18,941

Masanda 2,842 2,804 5,646

(38)

Malimbong Balepe 4,765 4,706 9,471 Rindingallo 4,457 3,905 8,362

Rantetayo 5,596 5,183 10,779

Baruppu 3,282 3,111 6,393

Buntu Pepasan 7,014 6,292 13,306 Dende Piongan Napo 5,163 4,355 9,518 Kapala Pitu 3,400 3,263 6,663 Awan Rante Karua 2,505 2,214 4,719

Kurra 3,070 2,661 5,731

Rantepao 12,434 12,282 24,716

Tikala 5,498 5,060 10,558

Tallunglipu 7,786 7,308 15,094 Sanggalangi 5,750 5,423 11,173

Nanggala 5,150 4,499 9,649

Buntao 4,745 4,243 8,988

Kesu 7,574 7,071 14,645

Sopai 6,547 6,409 12,956

Tondon 5,583 3,745 9,328

Rantebua 4,756 4,339 9,095

Sesean 5,746 5,444 11,190

Sa’dan 7,505 6,595 14,100

Balusu 3,652 3,787 7,439

Sesean Suloara 3,140 2,772 5,912 Bongkele Kila 2,890 2,734 5,624

総合計 230,395 216,266 446,661

出典: Tana Toraja Dalam Angka 2007, Bappeda Dan BPS Kabupaten Tana Toraja 2008 年トラジャ県統計局にて入手したが、2007 年度統計表が出来たばかりだった。

統計局資料を基に細田が作成した。

参照

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