「
女
院
御
書
」述
作
の
因
縁
に
就
い
て
附
「上
卷
分
科
」森
四 四英
純
■ 一書
名
我 が 西 山 派 祀 彌 天 善 慧 鑑 知 國 師 の 御 述 作 ご し て 慱 へ ら れ る 短 篇 抄 物 の 中 で 、 最 も 組 織 的 に 且 つ 挙 易 に 國 師 の 御 己證
を 御 示 し 下 さ つ た も の は 、 所 謂 『 女 院 御 書 」 の 上 卷 で あ ら う 。 『 女 院 御 書 』 そ れ は 「 女 院 の 爲 め に 物 せ ら れ た 御 書 」 の 意 味 で あ る 。 勿 論 國 師 御 自 身 が 附 せ ら れ た 書名
ノ コ で は 無 く 、後
日 の 傳 持 者 の 興 へ た 書 名 で あ る 事 は 誰 に も 推 知 し 得 ら れ る 事 ド 思 ふ o 「 御 書 」 は 或 は 「 御 抄 」 こ も 書 い て 必 す し も 一 定 し な か つ た 機 で あ る が 、 現 行 木 版 本 に よ つ て 「 御 書 」 巴 定 ま つ た 樣 で あ る 。 二 女 院 と は 何 人 か 此 の 『 女院
御 書 』 が 如 何 な る 女 院 の 爲 め に 、 如 何 な る 因 縁 に よ っ て 述 作 せ ら れ た か に 就 い て 兩 三 の 異 説 が あ り 、 そ れ が今
日 で は 『 西 山 善 慧 國 師 要 話 録 』 ( 關 本 前 法 主 猊 下 著 、 明 治 廿 六 年 四 月 慈 無量
魅 發 行 ) の 考 證 に よ っ て 「 御 嵯 峨 天 皇 の 皇 太 后 源 逋 子 の 方 の 電 請 に 應 じ て 述 作 せ ら れ た も の で あ ら う 」 ε の 説 に傾 い て 居 る 樣 で あ る o ( 西 山 學 報
第
一 號 附 録 解 題 ) o 本 年 四 月 、 尼 衆 敢 習 所 に 於 い て 『女
院 御 書 』 上 卷 を 講 護 す る に當
っ て 、 些 か 其 點 に 就 い て も 研 究 を 試 み た の で あ る が 、 そ れ は 筆 ろ 本 書 最 初 の 出 版 者 室 覺 師 の 跋 文 に 言 へ る 「 四 條 院 の女
御 の 爲 め に 」 ご い ふ 説 が 妛 當 で あ る 巴 考 へ る に 至 っ た の で あ る o此
點 に 就 い て 愚 考 を 逑 べ 識 者 の 叱 正 を 得 た い ε 思 ふ o 三現 行 木 版 本 の 題 言
、 現 行 の 「 女 院 御 書 』 は 文 政 三 年 に 、 白 木 辨 才 師 に よ つ て 壽 梓 せ ら れ た む の で あ る が 、 其 れ は 上 下 爾 卷 か ら 成 り 、 其 の 上 卷 が
今
逋 べ ん こ す る 所 の も の で あ つ て 、 下 卷 は 辨 才 師 に よ っ て 始 め て 世 に 公 に せ ら れ た も の で あ る o 從 つ て 下 卷 は 其 の 題 言 に 從 つ て 「 北 白 河 女 院 ご 我 が 國 師 こ の 往 復 御 文 章 」 ご 信 で る 外 は 無 い o 上 卷 に 辨 才 師 題 し て 曰 く 斯 . 「篇
ハ 曾 . 應 翻 テ 四 條 院 .女
御 . 奪 講 鴫 本 地 十 一 面 觀 自 在 算 ノ 所 」 宣 設 → 玉 . 也 始 自 二 五劫
思 惟 . 因誓
哺 絡 至 聖 テ [ 念 業 戒 果 滿 綴 他 力 難 思 . 鈔 用 鑚レ バ 則 彌 … 堅 ク 仰 グ バ 則 彌 高 シ 今 歎 部 奮 刻 已二 亡 ぜ タ ル テ 再 訂 メ 壽 四 梓‘ 公 ラ ト 于 世 唱 云 文 政 三 年 庚 辰 初 春. 佳 于 南 紀 林 總 持 講 寺 尾 張 鈔 辨 才 題 此 れ に よ つ て 辨 才 師 は 舊 刻 本 即 ち 塞 覺 師 の 出 版 せ る 書 を 再 訂 壽 梓 し だ 事 は 明 か で あ る 。 從 つ て 其 の 述 四
譁
四 六 作 の 因 縁 に 就 い て も 室
覺
師 の 傳 聞 説 を 蹈襲
し た も の ご 見 る べ き で あ ら う 。 但 し 其 斷 定 的 な 宣 表 は 何 か 別 に 確實
な る 吏實
に 基 ぐ か ご も 思 は れ る が 其 邊 は 明 か で な い o 四 空覺
師 出 版 審 の 跋 文 室 覺 師 の 印 行 せ る 木 版 本 は 如 何 な る も の で あ る か 、 未 だ 親 し く 披 見 す る の 眼 煽 を 得 な い が 、 龍 谷 大 學 所 藏 本 に よ つ て 其 れ の 寫 本 二 部 を 拜 見 し 、 又 大 谷 大 學 所 藏 の 『 淨 土 西 山 流 秘 要 藏 』 (亮
範 大 和 省輯
録 ) 中 に 、 亮 範 大 和 爾 が 室 覺 師 の 版 本 ざ 他 の 一 異 本 ε を 封 校 せ り8
い ふ も の 》 寫 本 を 拜 見 し得
た の で あ る 。 龍 大 の 寫 本 に は 塞 覺 師 の 跋 丈 は 撮 要 摘 記 に 止 ま つ て ゐ る が 、 谷 大 本 に は 療 丈 の 儘 が 出 さ れ て 居 る 。 其 蹟 文 に 曰 く ゜ 傳 聞 . 昔 日四 條 院 崩 御 後
女
院 入 副 釋 門 唱 尋 蹄 出 離 . 要 路 → 盆 傾 計 心 . 於 安養
喘 對 諏 善 惠 上 人 鴫 而 問張
. 安 35 念 佛 之 詮 要 → 困 ” 茲二 上 人 不 レ 忍 二 默 止 嚇 . 晶 而 爲匹 令 レ 易 劼 ラ 於 通 讀 鴫 以 ゴ 倭 字 り 書 靭 要 語 → 而 授 ” 敷 テ解
猿 . 惑 . 矣後
來 號 凵 之 . 謂 二女
院 御 書 外 矣然 ま 星 霜 瘻、 移 ゆ テ 知 ル 者 少 シ 爰一. 不 按 塞 覺 周 . 尋 ネ 強 チ 晶 求 . テ 邃., 乃 チ 得 ゴ , 智 逋 上 人 親 筆 之 一 本 づ 然 ル 後, 妻 諺 テ 梓昌 廣 〃 世= 而 備 ひ 不 朽 弓 欲 統 ハ 報 ン ト 乃 組 之 芳 恩 喋 予 願 也 故, ♂ 忘 二 固 陋 → 以 ナ 跋 ひ ト 鰹 尾 喋 云
寛
文 十 一 辛亥
秋 七 月日
五
貞
暉 師 の 異 論 と 箕 の 檢 討 此 の 塞 覺 師 の 跋 文 の 説 に 異 論 を 稱 へ た の が 『 茜 山 上 人 賂 年 譜 」 の 著 者 貞 暉 師 で あ る G 貞 陣 師 は 室 覺 師 ε 同 時 代 の 宗 學 者 で や 丶 後 輩 で あ る o 其 著 『 略 年 譜 』 は 寛 文 十 一 年 十 一 月 廿 六 日 に 稿 成b
, 延 寶 三 年 に 至 つ て 同 門 長 春 師 の 序 丈 を 附 し て 不 日 印 行 さ れ た も の 丶 如 く で あ る o 然 し て 元 祿 九 年 に 重 梓 さ れ て ゐ る 其 の 初 版 本 の寛
元 三 年 の 條 下 に 曰 く 寛 元 三 年 乙 巳 夏 四 月 、 皇 太 后 召 . 受 確 戒 . 亦 一 七 日 説 戒 セ シ . 玉 . 又 依 劃 儼 旨 鴫 以 計 和 字 づ 書 馳 . . 玉 . 念 佛 安 心 文 づ 世 昌 稱 瀞 女 院 御 抄 艸 云 々 予 頃 獲 略 稱 吊女
院 御 抄 → 之 書 D 且 . 其 跋一一 日 ク 四 條 院 , 女 院 卜 但 愚 按 ス 蜚 恐 ク ハ 後 嵯 峨 院 之 女 御 ナ . ン 者 . 傅 寫 展 轉 . 誤 テ 爲 諏彼
. 説 → 抑 モ 叉 文 中 訛 語 甚 多 .嘗
. 檢 詔、 .疲
. 親 筆 之 本 づ 則 無 勠 撰 號 與 二 題 號 → 是 壽 梓 , 所・ 一 私二 加 脇 乎 見 者 質 ば 之 . ( 亮 範 大 和 爾 の 女 院 御 書 冩 本 末髣
註 詛 に よ る 。 『 要 話難
に は 此 れ と 同 丈 を 延奪
ら れ た る も の を 出 せ り 。 谷 大 本 の 元 祿 二 年 惠 鹽 叟 書 寫 「’ ズ 院 御 抄 一 の 奥 の 竄 脚 鐙 師 { 私 註 略 同 ナ } ) 此 の 貞 暉 師 の 異 論 に 對 し て 一 往 考 察 を 試 み る 必 要 が あ る 。 第 一 に 彼 の 言 ふ 皇 太 后 ご は 何 人 を 指 す か 、 要 話 録 に は 之 れ を 後 嵯 峨 帝 の 御 生 母 源 通 子 の 方 ざ 解 せ ら れ て ゐ る 。 貞暉
師 の 意 も 亦 然 り し な る べ し ご 察 せ ら れ る の で あ る が 、 抑 も 帝 の 御 生 母 源 逋 子 の 方 は 其 御 沒 年 月 は今
日 不 詳 で あ る が 、 然 し 帝 の 御 師 位 當 時 既 に 故 人 で あ ら せ ら れ た事
は 、 其 の 御 即 位 の 年 ( 仁 治 三 年 )七
月 に皇 太 后 ご 賂 穃 せ ら れ 、 山 陵 、 國 四
さ
四 八 忌
齋
を 置 か せ ら れ た 事 に よ つ て 明 か で あ る o 從 つ て 其 れ よ り 後 の寛
元 三 年 の 御 受 戒 等 は 何 等 か ら 誤 り ご す る の 外 無 く 、 『 要 話 録 」 の 説 も 亦 肯 定 し 難 い の で あ る Q ・ 次 に 後 嵯 峨 院 の女
御 の 説 を 考 察 す る に 、 其 の 指 す所
は 大 宮 院 藤 原 嬬 子 の方
か o 若 し 然 り ε す れ ば此
の 大 宮 院 は 、 後 嵯 峨 帝 御 即 位 の 年 六 月 御 年 十 八 に し て 入 内 、 尋 い で女
御 こ な ら せ ら れ 、 同 八 月 に 中 宮 に 立 た せ ら れ し方
、 翌 寛 元 元 年 亠 ハ 月 に は 後 の 後 深 草 帝 御 串 生 、 次 い で 建 長 元 年 五 月 に は 叉後
の 龜 山 帝 御 出 生 遊 ば さ れ て ゐ る o 年 譜 に 云 ふ 恥 見 元 三 年 頃 は 君 の 寵 幸 殊 に 厚 く 御 榮 光 に 時 め き 給 ふ 折 ε 拜 察 せ ら れ 、 念 佛 の安
心 を奪
請 あ ら せ ら れ る に は ふ さ は し か ら 命 思 は れ る の で あ る o 斯 ぐ 見 來 れ ば 貞 暉 師 の 異 論 は 兩 者 共 其 の 當 を得
ざ る も の 巴 斷 す る の 外 は な い o 彼 の 『 西 山 年 譜 要 記 」 ( 延 寳 七 年 編 纂 、 同 八 年 開 版 ) の 著 者 籠 谷 沙門
が 、 貞 暉 師 の 言 を 以 て 故 ら に 室 覺 師 の 跋 丈 を 妄 評 し て 根 據 な き 説 を 主 張 す る 者 ご 貶 し た る 事 は 、 誠 に 故 な し ε し な い の で あ る o 然 る に 元 祿 九 年 に 重 梓 せ ら れ た 『 異 年 譜 』 に は 寛 元 三 年 の 條 下 が 次 の 如 く 改 訂 さ れ て ゐ る 。夏
四 月 皇 太 后 召 . 受 戒 亦 一 七 日 諡 戒 先 映 是 . り 依 … 」 承 明 門 院 . 索 喋 以 一 和 字 一 書 一 念 佛 安 心 . 文. つ 焉 予 頃 。 獲 驚 稱 二女
院 御 抄 叫 之 書 ” 且 . 其 跛【一 日 ク 四 條 院 .女
御 卜 但 シ 愚 按 生 恐 ク ハ 後 鳥 朋 院 之 皇 后 . . ン 者 . 傳 寫 展 轉 .誤
. 爲 二 彼 , 説 → ( 下 略 ) 即 ち 初 版 に は 「 叉 依 嚴 旨 以 和 字 書 念 佛 安 心 丈 」 ご 言 へ る を 重 梓 本 に は 「 先 是 依 承 明門
院 索 以 和 字 書 念佛 安 心 文 焉 」 ご 改 め 、 叉 「 但 愚 按 恐 後 嵯 峨 院 之
女
御 」 ご 言 へ る を 「 但 愚 按 恐後
鳥 朋 院 皇 后 」 ご 改 訂 し て 居 る の で あ る o 即 ち 初 版 本 が 前 に は 皇 太 后 の 嚴 旨 に 依 る ざ 云 ひ 後 に は 後 嵯 峨 院 の 女 御 ざ い ・ 逼 自 家 撞 著 を 認 め て 、 重 梓 本 に は 前 に は 承 明門
院 の 索 め に 依 る ご 云 ひ後
に ば 承 明 門 院 を 後 鳥 筋 院 の 皇 后 ご 言 っ て 自 家 撞 著 の難
を 免 れ ん こ し た の で あ ら う Q然
し な が ら 何 の 根 據 あ つ て 斯 く 改 訂 せ ら れ た の で あ ら う か G 承 明門
院 の 我 が 國 師 に 於 け る 、 深 き 御 因 縁 の あ る 事 は 認 め ら れ る が 慮 ち に そ れ が 此 の 間題
の解
决 ご は な ら な 、 い Q 傳 聞 説 を 】 個 の 私 見 に よ つ て 改 め る 事 は 許 容 さ れ な い ご 思 ふ ○ 六四 條 院 女 御 説 に 對 す る 疑
問
四 條 院 の 女 御 の 尊 請 に ょ る ご い ふ 傳 聞 説 に 對 す る 異 論 の 發 生 原 因 は 奈 邊 に あ る か 。 『 西 山 年 譜 要 紀 」 の 著 者 籠 谷 沙門
は 、 四 條 帝 崩 御 の 御 年 齡 よ り 推 し て 其 の女
御 の 存 在 を さ へ 否 定 せ ん こ し た o 然 し そ れ は 吏 實 に 闇 き が 故 で あ る o ご は 言 へ 期 う し た 立 塲 か ら 異 説 を 構 へ た 者 が 當 時 に は 有 り 得 把 ご 察 せ ら れ る β 貞 輝 師 も 亦 其 れ で は な か つ た か o 關 本 前 法 主 猊 下 は 「 要 話 録 」 に 次 の 如 く 疑 問 を 提 出 せ ら れ て ゐ る Q 四 條 院 の 女 御 は 放 攝 政 敷 實 の 女 め に て 仁 治 二 年 冬 御 年 僅 に 九 歳 に し て 女 御 ‘ 爲 り 玉 ふ ○寶
治 元 年 國 師 入 滅 の 時 は 女 御 の 御 年 十 四 歳 なb
き o い か な る 御 因 縁 の あ り し か は 知 ら ざ れ ざ も 斯 く 御 若 齢 に て 念 佛 安 心 の 義 を 尋 ね さ せ 玉 ふ こ ご の あ る べ き 樣 に も 思 は れ 兼 て 、 現 行 の女
院 御 書 に 女 御 の 奪 請 に 應 す ご あ 陶 川 九五 〇 る は 甚 だ 疑 は し く そ あ る o 叉 後 嵯 峨 院 の 女 御 な り ε 云 ふ 説 は 貞 暉 師 の 一 按 な れ ご も 、 此 の
事
推 考 す べ き … 樣 も な く 且 つ 年 譜 に 後 嵯 峨 院 の 皇 太 后 ε 掲 ぐ る 自 ら の 本 説 ご 違 へ ば 是 れ 亦 信 じ 難 し o 然 る に 後 嵯 峨 院 の 皇 太 后 源 通 子 ε 申 す 御 方 は國
師 の 義 父 久 我 内 大 臣 逋 親 公 の 長 子 逋 宗 卿 の 女 な れ ば 國 師 こ の 俗 縁 甚 だ 親 し き 御 間 だ 柄 な り G こ れ に 因 て 受 戒 並 に 念 佛 安 心 の 要義
を 尋 ね さ せ 玉 ふ は 最 も あ る べ き 事 の 樣 に 推 し 考 へ ら れ け る 故 に 西 山 綱 要 に も 皇 太 后 ( 後 嵯 峨 天 皇 の 母 君 ) 召 し て 受 戒 す 亦 一 七 日 説 戒 の 事 を 奉 す 又 宣 旨 に 依 り 和 字 を 以 て 念 佛 安 心 の 文 を 書 す 名 け て 女 院 御 抄 ご 稱 す る ε い ふ 此 の 説 殆 ん ご 是 な ら ん か 識 者 之 を 質 せ 云 云 o 後 嵯 峨 帝 の 皇 太 后 並 び に 其 の 女 御 説 の 當 否 は 既 に 明 に し た 如 く で あ る o今
は 四 條 院 の 女 御 説 に 封 す る 疑問
に 就 い て 檢 討 を 試 み よ う 。一 、 要 話 録 』 に 於 け る 疑 問 ω 重 點 は
女
御 の 御 年 齢 如 何 に あ る ご 思 は れ る 。 然 る に 、 四 條 院 の 女 御 宣仁
門 院 彦 子 の 方 の 御 年 齢 に は 兩 三 の 異 説 が あ る 。 關 本 猊 下 は 其 中 に 就 い て 岬 , 墫 鏡 』 の 説 に 憑 ら れ て 居 る 。 ( 大 巳 本 史 も 亦 此 説 を 探 用 し て ゐ る ) 然 し 翻 、 増 鏡 」 は 元 來 が 歴 史 的 丈 學 書 で あ る ○ そ れ は 最 も 吏實
に 近 い 文 學書
ご 言 は れ て は 居 る が 、 時 に 潤 色 の 爲 め に 史 實 を 變 更 し て 記 述 せ る も の が 無 い ご は 保 し 難 い o 女 院 の 御 年 齢 の 如 き た ま ノ 、 其 れ に 當 る の で は あ る ま い か 。 『 増 鏡 」第
四 「 三 紳 山 」 の 條 に簡 は か な く あ け ぐ れ て
仁
治 二 年 に も なb
に け り o 御 門 は今
年 十 「 に て 正 月 五 日 元 服 し 給 ふ o そ の 年 の 十二 月 に 洞 院 の 故 攝 政 殿 藪 實 の 姫 君 九 に な り 給 ふ を 、 祗 父 の 大
殿
御 伯 父 の 殿 原 な ざ ゐ た ち て 、 い ご よ そ ほ し く あ ら ま ほ し き さ ま に ひ び き て 女 御 ま ゐ り 給 ふ o 父 の 殿 ひ ご り こ そ も の し 給 は ね ず 」 大 方 の 儀 式 よ う つ 飽 か の こ ε な く め で た し 。 う へ も き び は な る 御 程 に 、 女 御 も ま だ か く ち ひ さ う お は す れ ば 、雛
遊 び の や う に ぞ 見 ぬ さ せ給
ひ け る ○ 云 々 ご 記 邇 さ れ て ゐ る が 、 此 の 雛 遊 び の 樣 に ご 形 容 す る に は 、 主 上 の 十 一 に 對 し て 豐 、 百 錬 鈔 』 の 慱 へ る 十 四 歳 『女
院 小 傳 「 』 の 傳 へ る 十 五 歳 の 女 御 で は ふ さ は し か ら の も の が あ る 『 そ こ に 交 學 的 な 澗 色 が あ り 、 多 少 の 斟 酌 が あb
は し な い か 。 同 じ 『 増 鏡 』 の第
三 「 ふ ち 衣 」 の 條 下 に 女 御 の 父 敷 實 薨 去 を 叙 し て 御 か た ち も 御 心 は へ も め で た く お は し ま し つ る に い ご あ へ な く う せ 給 ひ ぬ れ ば 、 大 殿 ( 道 家 ) の 御 歎 た む む ε へ む か た な し 〇 二 十 亠 ハ に ぞ な り 給 ひ け る o い こ か な し く し 給 ふ 姫 君 若 君 な ご も の し 給 ふ を も 今 は 峯 殿 の み 偏 に は ぐ く み 聞 ね 給 ひ け り o 云 々 ご 言 っ て ゐ る Q此
の 姫 君 ざ い ふ の は 帥 ち 後 の 四 條 院 の 女 御 彦 子 の 方 で あ り 、 若 君 ご い ふ の は 後 の 一 昔院
關 自 藤 原 忠 家 で あ る ○ こ の 忠 家 は 建 治 元 年 に 四 十 六 歳 を 以 て 薨 じ て ゐ る か ら 、 逆 算 す れ ば 寛 喜 二 年 の 誕 生 で仁
治 二 年 に は 十 二 歳 で あ る Q ム ・ 『 培 鏡 』 姫 君 若 君 ご 次 第 し て の 記 述 よ り 見 れ ば 娩 君 の 方 が 若 君 の 姉 に 當 ら れ る 事 を 暗 示 せ る も の ε 見 ら れ る の で あ る o 姫 君 若 君 の 順 序 を 語 呂 の 上 か ら 倒 置 す る の 要 を 見 な い か ら で あ る o 從 つ て 姫 君 の仁
治 二 年 九 歳 説 に 疑 を 持 た ざ る を得
な い o 『 百 錬 鈔 』 の 十 四 歳 説 若 し く 五 一五 二 は 『
女
院 小 傳 』 の 十 五 歳 説 が 安 當 で は あ る ま い か o 若 し 『 女 院 小 傳 』 の 設 に 從 へ ば 、 我 が 國 師 に 念 佛 安 心 の 要 文 を 請 は せ ら れ た事
は 少 し も 不 自 然 で は 無 い o そ れ は そ の 御 生 涯 を 逋 觀す
れ ば 明 か で あ る o 士 四 條 院 女 御 の御
生 涯 一.女
院 小 慱 』 に は女
御 の 御 生 涯 を 次 の 如 く 慱 へ て ゐ る o 教 實 宣 仁 門 院 藤 彦 子 四 條 后洞 院 攝 政 女 母 太 相 國 公 經
女
仁 治 二 十 二 一 叙一 一 從 三 位 一 + 五 十 七 爲女
御 同 三 十 二 十七
准 三 宮 鰔 瓶 軌 韆 蟹 寛 元 元 二 廿 三 院 號 + 七 四 年 十 二 爲 ケ 尼 靖 靜 阿 弘 長 二 正 五 御 事 三 + 六 今 此 れ に 依 つ て 系 譜 を 作 れ ば 次 の 如 き も の で あ る 〇 九條
兼 實ー
良 經ー
道 家 −ー
敷 簧ー
四 條 院 女 御 西 園 寺 公 經1
ー 嘉 子i
宣 仁 門 院 彦 子 注 名 清 淨 阿 思 へ ば 宣 仁 門 院 彦 子 の 方 の 御 〜 生 は 榮 枯 盛 衰 有 爲 轉 變 の 世 の 理 を 身 … っ に 極 め さ せ ら れ た も の で あ つ た 。 前 攝 政 道家
公 の 長 子 右 大 臣 敏 實 公 を 父 巴 し 、 前 の 太 政 大 臣 西 園 寺 公 經 公 の 女 嘉 子 の 方 を 母 ざ し て 安 貞 二 年 に 誕 生 せ ら れ た 時 の 御 幸 疆 は 誰 羨 ま 蹌 者 は 無 か つ た で あ ら う 、 然 る に 僅 か 九 歳 に な ら せ ら れ た 文 暦 二 年 に は 父 敷實
公 の 薨 去 に 遇 は れ た の で あ る o 仁 治 二 年 御 年 十 五 の冬
幸 蓮 は 再 び 回 り 來 っ て 十 二 月 十 七日 、 時 の 帝 の 女 御 こ な ら せ ら れ た ○ だ が そ れ も 束 の 間 、 翌 三 年 の 正 月 九 日 に は 二 優 か け て 契 ら せ 給 ひ し 帝 に 先 立 た れ 給 ふ た の で あ る 。 人 生 の 不 幸 此 れ に 勝 る も の は あ る ま い Q 如 何 に 御 若 齡 ざ は 言 へ 無 常 迅 速 の 戚 に 打 た れ 悲
歎
の 淵 に 沈 ま せ ら れ た 事 は 推察
し 奉 る だ に 恐 れ 多 い 極 み で あ る Q 寛 元 四 年 十 二 月 御 年 廿 歳 に し て 緑 の 黒 髪 を 斷 た せ ら れ 尼 形 ピ な ら せ ら れ た ど い ふ の も事
實 こ し て 肯 定 せ ら れ る で あ ら う 。 此 處 に 於 い て か 女 院 が 我 が國
師 に 向 つ て 念 佛 安 心 の 詮 要 を 問 は せ ら れ た こ い ふ 説 を 一 概 に 否 定 し 難 い の み な ら交
女
院 の 御 租 父 九 條 遘寥
公 並 び に 外 祀 父 西 園 寺 公爨
義
が 西 山 國 臨あ
法 門 上 の 深 き 御 關 係 に 想 到 す れ ば 、 寧 ろ 其 の 必 然 を さ へ 思 は し め ら れ る の で あ る o 室 覺 師 の 傳 聞 説 は 、 、 貞 暉 師 の 評 す る が 如 き 傳 寫 展 轉 の 誤 ご は 言 ひ 得 な い の で あ る o 辨 才 師 の題
言 亦 肯 定 さ れ て よ い ご 思 ふ Q 八 女 院 の御
出 家 と 御 書 蓮 作 の 繭 後 室 覺 師 は 女 院 御 出 家 の 後 に 念 佛 の 安 心 を問
は せ ら れ た ご 傳 へ て 居 る が 、 或 は 其 れ は 御 躡 家 以 前 で な か つ た で あ ら う か o 想 像 説 で は あ る が 自 分 は 蜜・ ろ 御 出 家 以 前 に 悲 歎 の 情 を 我 が 國 師 に 訴 へ さ せ ら れ た の で は あ る ま い か ご 思 ふ 。 彼 の 『女
院 御書
』 の 中 に 國 師 が 「 歸 命 」 の 心 相 を 説. 不 せ ら れ る に 當 つ て 、 特 に 「 命 」 の 問 題 を 懇 切 叮 嚀 に 解 説 遊 ば さ れ 、 且 つ 「 佛 道 の 人 身 を 得 た る 命 の 徳 用 」 を 張 調 し て 又 難 信 希 有 の 法 に 逢 ひ ぬ る 事 は 、 佛 道 の 人 身 を 得 た る 命 の 徳 用 な れ ば 、 い た づ ら に い け る を あ な が ち 五 三 二 境五 四 に 捨 ん ご 歎 く べ き に も あ ら す 。 况 ん や 穢 土 の
内
の 修 行 は 淨 土 の 功 徳 に す ぐ る事
十 種 の 利 盆 あ り o 經 論 に ひ ろ ぐ 説 く が ご 霍 し 。 自 行 化 他 の つ こ め 止 悪 修 善 の お こ な ひ こ の 時 に お い て は げ み い ご な む べ し o 云 巽 ご 示 さ れ た の は 、 勿 論 國 師 卆 素 よ り の 御 主 張 な が ら 、 特 に女
院 の 御 境 遇 、 悲 歎 の こ ん 底 に 沈 ま せ ら れ て 身 も 世 も あ ら ぬ 御 心 情 に 黝 す る 御 同 情 が 、 御 更 生 へ の 御 激 勵 の 言 葉 ε し て 表 出 さ れ た も の で は あ る ま い か ○ 我 の 全 生 命 を 、 全 生 活 を 佛 に 奉 つ た こ こ ろ に 眞 の 人 間 生 活 の 價 値 が 發 見 さ れ る 。憂
き 事 多 き 生 も 厭 は す 、 死 も 亦 恐 る 丶 所 で な い o 臨 絡 凖 生 = 同 に た “ 南 無 阿 彌 陀 佛 の 生 活 即 ち 念 佛 安 心 の 詮 要 で あb
窮 極 で あ る事
を 示 さ れ た の が 此 の 『 女 院 御 書 』 上 卷 の 説 示 で あ る o此
の國
師 の 御 説 示 に よ っ て 女 院 は 飜 然 韓 心 「 清 淨 阿 」 の 法名
を 得 て 御 出 家 遊 ぼ さ れ た の で は あ る ま い か o 其 の 御 出家
ε の 前後
は ε も あ れ 、 斯 か る 御 境 遏 の 女 院 に 樹 し 斯 か る 御 因 縁 に よ っ て 御 述 作 遊 ば さ れ た 御 書 こ し て 拜 讀 す る 時 、 國 師 御 敖 示 の 旨 が 一 入 に 魂 に 食 入 る の を 覺 ね る の で あ る 。 西 山 國 師 の 欷 旨 信 仰 に 生 き よ う こ す る 人 に は 先 づ 第 一 に 此 の 『女
院 御 書 』 上 卷 を 昧讀
體
認 せ ら れ る 樣 に 御 勸 め し た い 。 九 上 下 兩 卷 御 遞 作 の 年 次 御 書 御 逋 作 の 年 次 に 就 い て 室 覺 師 は た い 御 出家
の 後 ご の み 傳 へ て 居 る が 若 し 然 り ε す れ ば寛
元 四 年 國師
七
十 歳 の 御 時 が 翌 簣 治 元 年 七 十 「 歳 御 入 滅 の 年 で 無 け れ ば な ら ぬ 、 叉 貞暉
師 の 云 ふ 寛 元 三 年 ( 初 版 の 説 ) 若 し く は 是 れ よ り 先 ( 改 版 の 説 ) ε す る も 仁 治 三 年 以 前 に は 遡 ら な い Q 即 ち ⊥ ハ 十 六 歳 以 後 の 晩 年 の 御 述 作 こ い ふ 事 に な る o 御 書 の 内 容 、 用 語 等 よ り 見 て も 晩 年 の 御 述 作 で め ら う 事 は 推 知 せ ら れ る の で あ る ○ 因 み に 一、 女 院 御 書 』 下 卷 は 北 白 河女
院 ε の 往 復 御 丈 章 で あ る ご 言 は れ て ゐ る が 、 此 の 女 院 は 中 納 言 基家
卿 の 女 、 後 高 倉 院 の 妃 、後
堀 河 院 の 御 母 で 、 承 安 三 年 の 御 誕 生 、 貞 應 元 年 四 月 十 三 日 御 年 五 十 に し て 從 三 位 に 叙 せ ら れ 、 准 三 宮 の 御 待 遇 を 受 け さ せ ら れ た 。 同 年七
月 十 一 日 に 北 自 河 院 ご 院 號 の 宣 下 が あ つ た Q 此 れ よ り 先 既 に 御 出 家 遊 ば さ れ て ゐ て 法名
を 如 律 ご 申 上 げ て ゐ た し 嘉 頑 四 年 十 月 三 日 御 年 六 十六
歳 に し て 御 入 滅 遊 ば さ れ た こ 傳 へ ら れ て ゐ る 。 貞 應 元 年 後 堀 河 院 の 御 即 位 ま で は 御 失 意 の 御 境 遇 に あ ら せ ら れ た ξ い へ ば . 其 の 御境
遇 の 折 柄 に 御 出 家 遊 ば さ れ た の で も あ ら う o 女 院 の 御 文 章中
に は 「 法 然 上 人 の 御 房 へ 尋 申 て 候 ひ し か ば 云 々 」 ε あ り 、 西 山 國 師 ω 御 文 章 中 に は 「 故 上 人 の 御 房 の 仰 せ ら れ 候 ひ け る事
こ そ 云 々 」 ご あ れ ば 、 法 然 上 人 の 御 在 世 中 に 念 佛 の 法門
に 就 い て 其 御 敷 化 を 受 け さ せ ら れ、 上 人 御 入 滅 の後
西 山 國 師 に 就 い て 念 佛 安 心 の 趣 を 尋 ね さ せ ら れ し こ ご は 明 か で 、 ・ 女 阮 の 御 文章
中 「 か へ すハ
丶 悦 び て 承b
候 ひ 強 o ふ た 、 び 故 上 人 の 御 房 に 逢 ま ゐ ら せ 候 や う に こ そ 覺 ね 候 へ 。 」 こ も 仰 せ ら れ て あ れ ば 、 法 然 上 人 の 御 入 滅 後 ひ ど へ に 西 山 國 師 を 奪 信 遊 ぱ さ れ た 趣 が 拝 察 さ れ る 。 然 し て そ れ は 貞 應 元 年 國 師 四 十葦
五 六 亠 ハ 歳 前 後 の 御 文 章 で あ ら う 。 最 も 後 の も の ご 見 て も 女 院 の 薨 去 嘉 頑 四 年 を 下 ら な い か ら 國 師 亠 ハ 十 二 歳 前 ざ 見 な け れ ば な ら 鉛 。 故 に 御 述 作 の 年 次 に
順
へ ば ] ,女
院 御 書 』 は 上 卷 ε 下 窟 ざ 順 序 が 顛 倒 さ れ て ゐ 譯 で あ る o 元 來 は 全 然 別 冊 で 別 名 を 附 せ ら る べ き で あ ら う o 十 蕎 刻 本 と 現 行 本 塞 覺 師 出 版 の 舊 刻 本 は 、 其 の 寫 本 に よ れ ば 片 假 名 混b
の 和 丈 で あ つ た 事 は 明 か で あ る 。 然 し て 其 行 も 亦 貞 暉 師 の 評 せ る 如 く 、 文中
訛 語 甚 だ 多 き も の で あ っ た 樣 で 、 惠 塞 師 の 寫 本 の 奥 に も 「 但 脱 字 脱 句 々 不 審 ア リ 後 輩 願 ハ 尋 正 本 而 糺 之 惠 塞 臾 」 冠 あ れ ば 推 し て 知 る べ き で あ る 。然
し そ れ は 必 す し も 塞 覺 の 罪 で は な ぐ 、 塞 覺 師 は 睾 ろ 傳 寫 本 に 何 等 の 改 訂 を 加 へ す 印 行 せ ら れ た も の で あ ら う ε 察 せ ら れ る の あ る ○題
號 撰 號 の 如 き は 塞 覺 師 が 加 へ ら れ た で あ ら う 。 即 ち 「女
院 御 抄 比 丘 證 室 逹 」 ε 惠 塞 師 の 寫 本 は 記 さ れ て ゐ る 。 亮 範 大 和 樹 の 寫 本 も 同 樣 で あ る Q 現 行 の 本 は 其 の 題 言 に 見 る が 如 く 辨 才 帥 に よ つ て 校 訂 せ ら れ た も の で 行 文 も 餘 程 な だ ら か で あ る 、 に よ つ て 辨 才 師 が 稜 訂 せ ら れ た か は 明 か で な い が 其 文 意 に 於 い て は 多 く の 差 異 を 見 な い 。 語 句 の 墸 減 二 三 に 止 ら な い ○ 莓 刻 本 を 對 照 す る事
に よ つ て よ り よ く 文 意 の 逋 す る を 覺 ね し め る 個 所 も あ る し 躅 、 西 山 學 報 」箜
號 の 附 録 は 現 行 木 版 本 を 活 字 に し た に 過 ぎ な い も の で あ る 。 脱 字 誤字
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段 「の 切 方 に 當 を 得 な い も の が あ る ・
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讀 者 の 注 意を
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す る 。 今 下 に 新 古 版 本 の 比 較 例 を 示喜
共 に 、 曾 て 講讀
の 便 に 供 す る 爲 め に 試 み た 上 巻 の 分 科 を 掲 げ て 大 方 諸賢
の 叱 正 を 乞 ふ 。 一 一 新 古 版 對 校 例 龕、 現 行 夲 ラ 底 本 ト シ, 古 版 本 ハ 説 肉 冩 歪 ヨ ル ) 一 [ 女 院馨
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至 心 信 樂 の 身 ざ な れ り 。 欲 生 我 國 の お も ひ 。 事 に ふ れ て 起 れ り Q 乃 至 十 念 の 功 ひ ε へ に 佛 力 に ま か ム ヨ ア ヤ マ フ ン らす
o 不 取 正 覺 の 誓 ひ 。 い ま 現 に 成 就 し た ま へ ば Q 來 迎 の 願 な に よ り て か Q あ や ま り r ぼ し ま さ纛
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