第
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号
近代大谷派の歩み 宗門,近世から近代へ 藤 島 達 朗 1 近代仏教学の歩みとわれらの先学 桜 部 建 14 近代真宗学の歩み 寺 川 俊 昭 20 明治国家と大谷派教団 金 浦 受 英 32 一特に公認教と宗教法案反対運動をめぐってー 善導の観念法門の浄土教 村 地 哲 明 45 児術と宗教のあいだ 名 畑 崇 58 一不空絹索呪の受容過程一 説一切有部の基本命題 田 端 哲 哉 72 昭和52年度教学大会発表要旨 中 村 議 小 倉 求 85 松見得忍 吉元信行 一郷正道昭和
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年
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月
真 宗 同 学 会
仏教思想研究会編
果
肉 果 : : : j i − − j i − − ・ : : : ・ : ・ ・ : 中 村 元 業 因 業 果 と 無 因 無 縁 論 : : : : : ・ : j i − − : ・ ・ 雲 井 昭 普 原 始 仏 教 に お け る 因 果 思 想 : : : : : : : : : : : ・ 藤 田 宏 遠 ア ピ ダ ル マ 仏 教 の 因 果 : : ・ : j i − − − j i − − ・ : ・ 桜 部 建 中 鋭 折 弓 字 と 因 果 論 i z − − ・ : : : : : j i − − : : : : : ・ 梶 山 雄 一 ーl
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イ ン ド 仏 教 唯 識 学 に む け る 困 果 : : : : ・ : : : ・ 武 内 紹 晃 如 来 蔵 思 想 と 縁 起 ・ : : : : : : : : j i − − : : ・ : ・ 高 崎 直 道 イ ン ド 浴 教 に む け る 肉 果 の 問 題 ・ : : : : : ・ : 金 岡 秀 友 ー ー 鬼 子 母 説 話 を 通 し て1
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中 凶 天 台 に お け る 因 果 の 思 想 ・ − − j i − − : : : : 新 田 雅 章 華 厳 教 学 に む け る 因 果 の 問 題 ・ : j i − − : ・ ・ : : 木 村 清 孝 中 国 浄 土 教 に む け る 因 果 に 関 す る 諸 問 題 : : ・ ・ 藤 堂 恭 俊 日 本 霊 異 記 に あ ら わ れ た 因 果 応 報 思 想 ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ 白 土 わ か 日 本 文 学 に あ ら わ れ た 因 果 思 想 ・ : : : : : : ・ 坂 東 性 純 1 1 生生要集|| 真 弓 一 一 一 省 教 の 因 果 の 問 題 : jji − − ・ : : : 宮 坂 宥 勝 目 本 浄 土 教 と 因 果 の 問 題 : : : : : : ・ : : : : : : 幡 谷 明1
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特 に 親 鴬 に つ い て の 一 考 察 | | 禅 と 因 果 ・ ・ ・ ・ ・ ・. . . . . .
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・ ・ 柳 田 聖 山 法 華 信 仰 と 因 果 : : : : : : ・ j i − − : : j i − − ・ : 回 村 芳 朗 イ ン ド 哲 学 と 閃 果 論 ︵ サ l ン キ ヤ 哲 学 を 中 心 に ︶ : ・ 今 西 順 吉 ニ ヤ l ヤ・ヴァイシェ l シ カ 哲 学 と 凶 回 全 岬 : ・ 前 田 専 学 因果と自由 j i − − ・ : : : : : ・ : : : j i − − : : : : : 峰 島 地 雄 − 1 ヨ l ロ y パ 思 想 と 仏 教 に お け る | | A 5 五二八頁・五八 OO 円・干二回 O 円仏教思想
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巻
(600) 京 都 市 正 面 烏 丸 東 振替京都2743・電(343)0458法蔵館
未公開のものまで全著作のすべてを収録。底本 は可能な限り真蹟本により学的に最高にしてい る。巻末に検索に便利な索引を附す。 − 教 行 信 証 ・ 2 和 讃 ・ 漢 文 篤 ・ 3 和文・ 書簡篇・ 4 言行篇・5
輯録篇・ 6 写 伝 篇 ・ 7 註釈篇・ 8 ・ 9 加 点 篇 秘 蔵 の 真 蹟 ま で す べ て を 網 羅 / ・現
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宅 A 5 判 ・ 裂 地 表 紙 ・ 各 一 一 豆 口 1 喜 一 口 頁 価 全 巻 一 回 口 、 D D D 円 高 木 宏 夫 行 証 に 生 き る 人 B 6 ・ 価 一 、 呂 田 石 凶 慶 和 信 楽 の 論 理 B 6 ・ 側 一 一 二 一 口 口 円 石 川 慶 和 親 驚 の 思 想 B 6 ・ 価 ニ 、 二 口 口 円 広 瀬 果 歎 異 抄 の 諸 問 題 A 5 ・ 価 一 一 一 、g
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広 瀬 果 真 宗 救 済 論 A 5 ・ 価 園 、 八g
円 寺 川 俊 昭 歎 異 抄 の 思 想 的 解 明 A 5 ・ 側 = 一 二 塁 円宗
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宗門、近世から近代へ 本日のプログラムでは、このあとシンポジュウムがあ り、各先生方を中心に宗門に於ける近代の歩みを相当詳 しくお聴せにあずかることになっている様であります。 としますと私はそれに入る前、それをおおって一応の流 れを申げれば、だいたいの責任を果せるかと思います。 さて派祖教如上人によりまして慶長八年に、事実上東 本願寺が独立する訳でございます。そうして、上人は慶 長十九年おうよそ十二年ばかりで御命終、続いて、宣如 上人がつがれますが、大凡教如上人の独立は一般的には、 あまりはっきりとそれと受取れることにはならなかった よ う で 、 当 時 の 知 識 人 ︵ 貴 族 ︶ の 日 記 で は 、 す べ て ﹁ 裏 方 ﹂ 、 ﹁裏﹂ということで上人を呼んでおります。ところが次 の宣如上人になりますと、はっきりと﹁東門主﹂という 文字が出てまいります。こうして東本願寺が、名実とも に一般的に独立したことを認められるのは宜如上人から-
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藤
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朗
達
といわなければならないように思われます。 なお、この東西二つに分裂しましたことは、いろんな 点において以後の真宗教団の歩みを複雑にしてまいりま す。しかし、悪いことばかりではなく、むしろ以後両派 が桔抗しながら、あの三百年の封建体制の中にあり、大 部分の諸宗派があまり活発ではなかったのに対し、勿論 封建体制内におけるという限界はありますが、それぞれ 相当な動きを見せておることが認められるのであります。 宗門の教学の動きも、教如・宣如・琢如この辺の初期、 長福寺の慶秀、円智であるとか、あるいは西方寺空慧で あるとか、いわゆる宗門教学の先覚者によって、だいた い方向が基礎づけられるのであります。それを決定的に したのは、申すまでもなく、初代講師恵空師でありまし ょう。正徳年聞にはっきりと高倉の学寮の基礎が固めら れてまいります。一般的に宗門教学の学風といいますか、2 よく東は余乗、西は宗乗という。東は余乗ということは、 結局は学問的な幅が広いということに考えてよかろうと 思います。西が宗乗だけに、そしてそれを深めていこう とするということに対して、東はより広い立場でそれを 取り上げていこうとする方向がそこには、看取されるこ とかと思います。特に恵空講師の学風には、自分の立場 からいうようでありますが、歴史的な面がその根底にあ ることが考えられる。これが高倉の学風となって歴史的 なものと教理的なものが、こよなく合致しながら発展し てまいります。その間一方の方が重くなったり又他方が 軽くなったりという傾向が出てまいりますが、だいたい におきまして、常に西の学風に比べますと、歴史的なも のが強いということがいえるようであります。しかし、 そういう面をうまく全体的に一派教学の根幹を大成した といっていいのは、いうまでもなく香月院深励講師であ ります。呑月院議師の時は、申すまでもなく円乗院宣明 講師がおいでになります。円乗院が深い、そして鋭い考 察を加えられるのに対しまして、呑月院が綿密に、そし て広汎に問題をとらえようとされる、この香月院講師の 円満な圭角のない学風が、大きく一派の教学を以後推進 していくことになったと考えられるのであります。昨年 ﹁蓮如上人御一代聞書﹂を安居で講じます際に改めて香 月院の﹁聞書﹂を読みかえして、文字通り円満な広いそ して十分に歴史的方面にも心のとどいたそれに、深い感 銘をうけたことであります。この方向から以後の高倉の 隆盛時代が呼びおこされます。高倉の極盛と申しますと、 この香月院師の時から、雲華院大含師におよぶころ、ち ょうど文化文政から天保のころであります。学寮に懸席 の所化が千八百人から二千人を数えております。これは、 まことにすばらしい歴史的事実であると思うのでありま す。この点、おそらく日本における当時の仏教界、各宗 を通じてみることの出来ない盛況であって、その聞に一 方又雲華院師のあの透徹した一つの見解に対し、真宗学 の根本にたった信念をもって、教学を自らのものにされ、 かっそれを一般に述べられた呑樹院徳龍講師の存在が注 目され、まことに香月院の後ありと思うのであります。 しかし、一般的な大勢といたしましては、時代が幕末 に入ってまいりますと、ようやくいろいろな点において 文化的な停頓が、これは全般的に見られるのでありまし て、江戸時代末期のはなやかな文化が文化文政のころを 頂点として、以後急速に、衰退に向う、衰退ということ ははなはだおかしいのですが、以後活発にならないとい
宗門、近世から近代へ うことになっていくのでございますが、このことは、又 宗門における教学でも指摘しなければならないかと思う のであります。が、しかし、その問、三河満徳寺了祥師 のあの燃犀な史観に立つ、特色ある教学が生まれている ことや若狭妙玄寺東条義門師の国語学の発揮をみるなど は注目に値すると思うことであります。こうしまして、 幕末維新に入る訳でありますけれども、そのころになり ますと、又全般的な問題と関係しますが、ようやく宗門 におけるところの宗門はじまって以来の危機、これは、 単に宗門に限らず仏教界全般の危機が到来しておりまし て、それにたいする防護ともいうべき体制が大きく出て まいります。先頭に立ヮたのが呑山院龍温講師であり、 その犠牲になられたのが伏見西方寺闘彰院東滅師であっ たと考えられるのであります。しかしこの呑月院師や闘 彰院師等の存在により、宗門の教学がここに又大いには ばたいてくる方向を看取すべきであると思われる。 このようにみてまいりますと、割りあいに順調に一派 の体制・教学が進展してきた、もちろんその教学の内容 なり性格なりにいろいろ問題があるのでありますが。な おかつ全体的な制約をうけながら、真宗教学が順当な発 展をとげておると、認めなければならないと考えるので 3 あります。しばしば、封建教学であるといって、無視の 言葉が出ておりますが、簡単にこのような言葉を用うべ きではないと思います。 さて、又、一方宗門の宗政の面ですが、これは厳然た る封建制であります。しかし、こういうものは、実は八 代の蓮如上人の晩年にすでにもう見えております。一門 ・一家衆の制、事実上本願寺の藩扉たらしむべく、自ら の子弟を諸地に配される。が、この傾向が決定的になっ たのは十一代顕如上人の時本願寺がこの門跡になったと いう事実からでしょう。門跡というのは、教界における 寺院の地位としては最高のものであることは言うまでも ありません。が同時に皇族、或は摂家の出身者が住職に なられるということにおきまして完全な貴族的な寺であ り、貴族的な体制をとることは、当然であります。時代 一般に封建的体制が進んでゆきますから、全体に封建体 制になるのは当然でありますが、それをさらに、上まわ って両教団の宗政が封建化したのはこれによると私は思 うのであります。門跡になりますと、当然院家制度とい うものがおかれます。一門一家衆の上にさらに、その中 からすぐって、いわゆる院家寺院を定める。そして、宗 政の面では、いわゆる坊官、 それまででも下問氏が大き
4 く寺政を聾断してまいりました。これがさらに制度とし て一そう強化される訳であります。この宗門の政治に一 般の末寺の者が関与することが出来ない、だいたいに於 いて関与しない、そして、法主と坊官によるところの一 つの封建制というものが厳然として敷かれてまいります。 尚しかしながら本願寺自体におきまして、いわゆる堂衆 ・堂僧というものがありまして、本願寺そのものの活動、 これをはたして活動といっていいか一つの問題だと思い ますが、とにかく本願寺の生活の面、あるいは儀式なり の面におきましては、御堂衆の活躍があることは認めな ければなりません。しかしこの御堂衆の教学の面がやが て高倉の学寮において継承されて来る訳であります。 こうしまして、本願寺の宗政の面と教学の面とが裁然 と分かたれてまいります。かろうじて末寺のものは、高 倉において学ぶという一つの方向においてのみ宗門にお いての地位がある。本願寺そのものは下問氏以下坊官の 聾断するところといっていいかと思います。こういう傾 向、この封建制は同時に本願寺の場合貴族性であります。 しだいに貴族・権門から裏方が入られるという事実が出 てまいります。法主すら大谷家でない貴族からはいられ た方が︵九条家︶、法主になられたという事実が西にあり ます。幸いにと申しますか東にはそれはありません。こ の点だいたいにおきまして、一応大谷の清流は保たれて いるといえるかと思います。とにかく宗政そのものは、 完全に坊官の聾断するところとなって明治にいたったの でありますのはいまさら申し上げることもないのであり 古 品 十 フ 。 古 品 、 そういうふうな傾向をもっていろいろ問題はあり ますけれども、実はこれは、少し、余談になりまするが、 先年、高倉の倉を、整理することを命ぜられまして、学 生諸君と共に十日間ばかりを費いやして、それを行った のであります。大凡達如、厳如、現如とこの三代の関係 のものでありますが、この中に、小さなメモ帳がうず高 くありました。で、これを整理します時に今はなき能浄 院殿が﹁お前たちは整理して目録をつくればいいのだ。 調査したり、調べたりする必要はない。もう五十年もた てばこれを公開してもよかろう、が、今はいけない﹂とこ ういうことだったんであります。しかし、そうはいわれ ても、一応ざっと目を通さねば整理されません。文字通 り散見したことですが、厳如、達如両上人共に在位は長 いのですが特に厳如上人は、だいたい五十年であります勺 あの幕末の動乱から明治の二十二年まで、文字通り宗門
宗門、近世から近代ヘ のあの動乱の期に責任をおわれたのであります。メモに はいろいろと毎日の小さいことが書かれて居ります。で、 たまたま目に付きましたのは、ある朝の長朝の勤行で、 きょうは御堂衆の何々が出仕しなかった、それから内陣 の何寺の調声が、少しおかしかづた、というようなこと。 だいたい達厳の二代法式作法が厳格であったことはきい てはいましたが、その一端がそこにみられました。が、 それらをふくめてそういう風な筆つきのあとに考えられ ますとここは、なんか法主が本願寺そのものを、宗門全 体を文字通り背おって立っているんだという、その一つ の気慨であり、自分が全責任をおっているんだという一 つの思いであります。封建体制というのは三角形で、そ の頂点、頭は、これは全体を代表し、身を以ってひきい る体のものであります。この辺の自覚がはっきりとうか がわれます。幕末から明治維新にかけて、厳如・現如両 上人は文字通り宗門の危機を乗りこえるべく、身を挺し て活動されておる訳であります。これは文字通り宗門と いうものの責任を荷つての行動であった。宗門の安否は 自らの行動にかかるという一つの責任感がうかがえるの で あ り ま す 。 さて、なんといいましても宗門の大きな危機はあの幕 5 末維新の際でありました。いうまでもなく東本願寺が、 創立以来、徳川家に深い思顧を蒙むって三百年つづいて まいりました。四回の火事、この火事ごとに幕府は常に 飛騨、あるいは富士山麓の巨大な材木を提供しまして、 そしてその復興を常に助けてゐる。その外陰に陽に東本 願寺に対するところの幕府の保護は厚かった。ぞれが厚 かっただけに、幕末以後の東本願寺の立場というものは、 苦 し か っ た 。 これまた余談でありますが南条文雄先生の﹁懐旧録﹂ をかつて読みました。先生はいうまでもなく大垣の末寺 の出身であります。すると大垣の別院が、僧兵、先生は 僧兵といっていられますが、僧兵の制度を作って紹隆兵 といった。だいたい末寺の次男・一二男の者どもを集めて、 兵士訓練をするのであります。そしていぎというときに は、いつでも出兵する。徳川方を、本願寺は擁護する、 それに自分達は従わなくてはならないと思っていたとい う風に先生は書いておられる。これが本当のこととなっ たのは明治元年戊辰の役の際であります。あの時京都に は薩長の兵がおります。そして、十五代将軍の慶喜が大 阪城におりまして、いろいろ申し上げたいと大阪から上 ってこようとするんですが薩長はこれをこばむのであり
6 とうとう幕府軍は兵をひきいて上ってまいります。 そして淀から軍隊を二つに分け、一方は鳥羽の方から一 方は伏見、両方から整然として京都へ入って来るのであ ります。この時、伏見の方は長州、鳥羽の方は薩摩、そ れぞれ開戦することになった。明治一五年の一月四日であ ります。四日の夜十二時頃、夜中であります。内事の門 をけたたましくたたき、山階宮晃親王が馬でのりつけら れた。宮は厳如上人の一一方嘉枝宮の兄君ですが、御所に おいて会議があって、その時しばしば薩長の人々から東 本願寺の態度が明瞭でない、だから今回はっきりと焼打 ちすべきだということになりかけた。そこで自分は絶対 にそういうことはないと、その証拠に必ず誓書を取って 来るといってその席からかけつけたのだといって、厳如 ・現如両上人に明朝早く参内し、誓書を奉れということ であった。そこで翌五日に両上人は、参内して誓紙を奉 まつられたのであります。そしてその実を示すべく両上 人がそれぞれ二手に分かれて、献金の為の募金に出かけ られます。そして一万五千両を、おさめていられます。 その当時、東本願寺のまわりを薩長の兵がいつもうろう ろしておったということは、阿部慧行氏の回顧録にも書 かれております。とにかく東本願寺としては、なかなか ます 。 危いところであった。で、その時、さきほどの南条文雄 先生の﹁懐旧録﹂に一月四日に京都の本願寺から使いが 来た。﹁徳川家御浮沈の場合に相成り、御門跡御下知次 第、御加勢可被成候に付紹隆兵速に御差上有之度﹂とい うことで、その出兵はきまり、自分達も、覚悟をした。 するとそのあくる日、急に見合わせるようにとの申越で、 出兵はとりやめになった。が、もしもあの時に我々が鉄 砲をもって京都へ行ったなら、これはたちまち薩長の兵 にやられ、かつ又本願寺は焼かれるということになヮた にちがいないと、先生は回顧しておられる。とにかくこ のような時期、厳如上人が、普通の言葉でいいますと順 逆の道をあやまられなかったといえましょう。 つづいて明治の二年になりますが、その当時新政府の 一番の悩みの種だったのは、北海道の問題です。蝦夷島 といっておりまして、ロシアの軍艦がしばしば千島から この北辺を遊
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する。まことにこれは危ない。なんとか して北海道をはっきりさせなければならないということ を感じるのです。その当時、北海道はごく南の函館から 今の福島あたりまでひらけてて、その他の大部分は全く 未聞の地であり、海岸線にそいごく少しずつ、点々とし て存在する。しかし中央辺は、全然蒙昧の地であった訳であります。なんとかまずその中に道をつけるというこ とからはじめなければならなかった。ところが新政府は 全然資金がない。で、これをいったいどうするか、結局 これは東西本願寺に頼むより他に道はないということに なった。が実はその前に西本願寺は、その当時政府は金 がないもので、紙幣をどんどん出した。だがこれは不換 紙幣です。かわらない紙幣なんです。ですが、それを引 き受けたのが西本願寺であります。コ一万両を引き受けた。 実質はその半分だから一万五千両というものは、ま、は っきり申しますと損をした、まあ献金の形になった訳で あります。だから、これ以上西本願寺に迷惑をかける訳 にはいかない。だとすると今度は東だということになっ て北海道の話が太政大臣三条実美公から東本願寺にあっ たのであります。 宗門、近世から近代へ よく、東本願寺が出願をして北海道を開拓したと一言わ れますが、事実はそんなことではありません。その前回 回目の火事、それより三年前の元治元年、寺内は全部全 焼した。ほんとに金がない窮わまった状態であります。 とうていそういう状況において北海道開拓なんて言える 筋合いのものではありません。ですが、向うから言われ ますと東本願寺としてそれは断れない。そこでそれをや 7 らなければならないということになりました。で、本当 に金がないのです。そこで京都を出発されて向うに着か れるまでの間なるべく長くその期聞をとって、その聞に 募金をしながら北海道に達するという計画をたてられた。 で、そういう一つの長期の、そして北海道という庫療 の地へおもむかれることですから、すでに六十に近かっ た厳如上人というわけにはまいりませんので、十九歳の 文字通り年少気鋭の現如上人、新門が先頭に立たれたの であります。そして、この京都を出発、これは明治三年 二月であります。二月十日に出発されるのですが、京都 を出発されて中仙道を通って、そして、長野の方から越 後の方へ出る。毎晩必ず泊られるところで、だいたい末 寺が指定されます。そこでもって、いわゆる御信教があ る。たちまちに男性は着ているところの、羽織をそこに 投げ出す、女性はかんざしゃ、くし、こうがいなどを差 し出す。それらはうず高く毎晩つまれたということであ りますけれども、まあ果してどれだけの金になったかと いうことは問題でありますが、とにかくそういうことを 続けて向へいく。 ところがそれが新潟県でまず頓挫した。新潟県は、本 願寺に一段と関係が深い。だから長岡から新潟までそれ
8 ぞれ一週間から十日滞在の日程が組んであった。ところ が、それぞれ、新門の滞留を御遠慮申しあげますといっ て、それを拒否した。そのような状勢はとうとう秋田で ゆきつまった。もともと秋田には有名な排仏家の平田篤 胤とその門下の地であります。そこで新門の秋田入りに 頑強に抵抗したのであります。とうとう秋田は通れない ことになりました。ところが秋田を通っていくという日 程でだいたい二月に出発し、五・六月頃に北海道につく、 寒い時になりますと、全然作業にならない、せめて八月 迄の聞になんとか北海道に着いて着手せねばならない。 ところが、それが通れないと今度は仙台の方を回らなけ ればならない。だいたい半月遅れるわけで、固まってい られた。たまたま本庄の港に加賀の船が入っておりまし て、新門が困っていられるのを聞き、北海道よりの帰り の船で、少し荷物を積んでおったけれども、それをそこ へあけて一行二百人からでありますが、それを乗せて出 発したのでありますが、その時あの・有名な遭難事件があ り ま す 。 はじめは風がなくて、すすまない。時は六月真夏であ ります。暑い訳です。そして水がなくなる。苦心さんた んであります。それが四日続きまして、今度は五日ごろ 風が出て来ます。ところがそれが急激に台風になった。 今度は船はゆさぶられます。こうしましてのっておりま した二百人、それがほとんど全部起きれない、ところが、 十九歳の新門現如ただ一人厳然として態度をくずされな かったという。そして水のかわりに梨がありまして、そ れをかじってすごされた。一週間目となり、もうこれが 最後だということで、最後の勤行をすることになった訳 です。ところがだれも声が出ない。ただ調声の新門の声 のみひときわ高かったということが書かれております。 八日目となり風がやみ、はるか向うに、漁船がみえた。 すると座っておられた新門がさつと立ち上って、そして、 へ先にまで走っていかれ、そのへ先に立って、船を呼ば れたそうであります。そしてその船のみちびきで、あの 深浦というところへ入れられたということになるのであ ります。この辺の動作にでも、若き新門のリーダーとし ての、自覚と責任観をみることが出来ます。 こうして函館につき、札幌にいり、やがてあの通りい わゆる本願寺四街道が立派に出来あがるのであります。 そしてこの時東本願寺は結局は四万両近い三一万人千何百 両、あとの﹁北海道開教紀要﹂には、三十万両から四十 万両使ったと書いてありますが、これは少し多いようで
あります。しかし三万人千両という金は大きい、そうい う金がとにかくよく出たもので、当時の状況からいえば、 全く、奇跡としか言いようがない。やっぱり宗門の危機、 本願寺の危機感が、みちみちておったということであり 幸 也 、 し ょ 、 っ 。 宗門、近世から近代へ いうまでもなく、真宗を含めて、あのころの仏教界は 大きな受難期ですけれども、これに対処するのにだいた い二つの方向があります。まずその一は廃仏段釈、もと もと廃仏段釈のもとずくところは仏教及び仏教徒は無益 有害の徒である。何十万人の坊主がおるが、それは徒食 しているという。従ってこれに対し仏法国益を示さねば ならぬ。もう一つ、その国益の一として闘邪であります。 キリシタンが、はっきりと解禁されまして、どんどん入 って来る。これは日本の為、仏教の為一つの大きな問題 である。この二つの問題に対処すべく仏教の国益、国の 為になるんだ。仏教徒は立派にそれをやれるんだ、やる んだという実を示さなければならない。これにさらにさ きにいうが如く東本願寺は、徳川方であったという一つ の負い目がありまして、さらにそれに拍車をかけるわけ であります。各宗を通じて東本願寺が、もっとも苦しい 最もつらいところの立場にあったわけです。 9 さて新門がかえりまして一年半たった、明治五年、早 くも海外へ赴くということを考える。これは、バ γ ク に 石川舜台師があり、この舜台師によっての画策ですけれ ども、とにかく新しい世界をまわり、国家と宗教との関 係、社会と宗教のあり方を充分見て来なければならぬ。 これはまた、これに三条公が非常に力を加えられている。 先程のように全く金のないところで北海道の開拓に金を 使った。当時大凡、八十万両の借金があったという。そ のような時洋行するとはいったいどこからその金が出る のかということです。これは結局、三条公と井上公の力 であります。この二人の方が力を借されまして、大阪の 小野組が十万両の金を、無担保で借してくれたと書かれ ております。とにかく、このうち石川舜台師と明治のは じめ、文名の育向かった成島柳北、それから松任本誓寺の 松本由華師、三河の安休寺雲英晃耀師の舎弟の関信三氏、 これは俗人の名前にして、キリスト教研究のため長崎に いっていた。当時学寮では、キリスト教研究をしなけれ ばならないというのであの有名な﹁護法場﹂というのが 設けられておりますが、その護法場出身です。これらの 四氏が随行して、明治五年の九月フランス船にのって出 帆されるのであります。
10 この出発についてもいろいろ話があります。当時新門 は東京浅草にいられましたが、浅草そ出発されましたの も、全然秘密であります。現如上人の一一方は大分県日出 藩の木下さんから来ていられる訳ですが、四月に結婚さ れてそして出発されるのが九月ですから、まだほんとの 新婚早々、その新婚草々の奥様に何んにもいわれない。 自分はちょっと旅行して来るんだ。でもさすがに京都の 両親をお前はよく見てほしいということを言われたのだ そうであります。でも、その時はお裏さん、そのことは 全然知られず、あとで、あとになってやっぱりあの時両 親によくしてほしいと言われたのは、そのことだったの かと気ずかれたそうです。そして、三条公の家の前に来 て、一一一条公にあいさっされる。三条公すぐ出て来てワイ ンでもって乾杯して、その出発を祝された。そして、も う汽車が通っておりますけれども、新橋からでは人目が あるということで品川へいって、そこから乗って横浜へ つかれる。高島という骨董屋があり、そこに古いものの 展開をしておりますので、それを見に行くんだという名 目でありけす。そうして向うには、先ほどの石川舜台、 松本由華等が待っております。やがて洋服に着かえられ る。その時まで、ついて来ていた家臣浅野にあとのもの お前持って帰れといわれる。その時はじめて浅野は洋行 されるということを知った訳です。文字通り、驚き、ロ をきわめておとめの申すけど、もとより聞かれない。こ うしてその夕方に出帆されるのであります。もちろんそ のあとの浅野の報により浅草本願寺もそしてやがて京都 の本山も大騒ぎとなりました。結局はどうすることも出 来ずそのままとなりました。 こうして、新門はその後一年あまり、実に精力的に欧 州の各地を回られました。ぞれは教会から、各福祉施設、 博物館、この博物館で見られたなかに党文の経典があり まして、それがやがて明治の九年に南条文雄、笠原研寿 の両師を、オヅクスフォードに留学させられることにな る、きっかけであります。 帰朝されますと直に、本山の内部改革でありますがこ れよりさきに坊官によっていたところの宗政を一挙に配 置替えして、そして、末寺の僧がそれを全部やるという 一つの英断が行われていまして、明治四年の十月一日に それが発令される。なおその改革の先頭に立ったのが、 学者でありかつ執行であったところの闇彰院東減師であ ります。ところが、これは、当然のこと坊官連中の怨を かい、その翌々一一一日の夜闇彰院師が、あの高倉の高瀬、
宗門、近世から近代へ 五条のところに剣の先の様にとがヮた本山の地がありま して、そこに嗣講寮が立っていた。それで、剣先寮とい っておりましたが、そこにおられた。その宿直されてお るということを見すかして、そこに入り、殺害したので あります。文字通り、本願寺改革の犠牲になられたわけ であります。なおこの間彰院が、先程申しました高倉の 新しい一つの傾向﹁護法場﹂を司管されまして、そして、 有能な人材をそこから出されました。三河の大浜事件の 中心になられました石川大嶺師もその一人であります。 南条先生もそうであります。 さて五年の終りに、帰られました新門はたちまち自ら かつて出て表寺務所の総務になられるのであります。い わゆる宗務総長であります。新しい方向の一つとして先 程申しました焚語経典云々というところから翻訳局が、 本願寺の内に設けられるのであります。私は、これは、 たいしたことであったと思います。とにかくそのころ本 願寺は、何十万両の借金がある訳です。翻訳という様な 事は、それは金があってすることならわかります。しか し、今さしあたってどうという様なことではない訳です。 ヤソ伝の翻訳が最初にだされておるのです。そのへんの 翻訳、これは明治六年からだいたい活動しましたのは、 11 明治の九年までであります。成島柳北が、局長になりま して、サンスクリットの辞典やら、いろんなものを出し ております。これはもうすっかり、大谷大学の図書館に 資料が残っております。その辺のころから、本願寺の一 つの猛然たる外部に向った発展がはじまってまいります。 明治六年、小栗栖呑頂師が中国に入って行きます。そ して中国開教をはじめます。この小栗栖呑頂師は、天台 山に上りまして、この時読みあげました願文がのこって います。時聞がないので詳しくは申されませんが、やが て明治の九年となり、上海に至ってここにはじめて別院 を設けます。続いて又北京にその出張所を設けまして、 そしてそれぞれ学校を設立します。江蘇教校と直隷教授 であります。開教といいましても、教育からはじめるの は本格的といわねばなりません。このことは、又同じよ うに朝鮮開教、明治十年からはじまってまいります。 それは唐津の高徳寺の奥村円心師がその先頭に立った。 この円心師は、やはり釜山にまいりまして、まず学校を 設けた。奥村師が、朝鮮のいわゆる五別院のうち、関係 しないのは京城のみ、苦心さんたん、一応基礎が出来る と、また移っていくというわけです。 この無欲といいますか、何らの名誉心のない、 一 重 に
12 開教に専心された円心師、この奥村円心氏で、今一つ注 目すべきことは、明治三十一年から千島開教、千島とい うものが、当時問題になっております。現在でもそうで すが、だいたい申しますと、千島は、あれは、ほとんど 日本の領土だということで皆日本人が入っております。 もっともですね、クナジリ、エトロフぐらいまでで、そ の奥は、とうてい人間の住めるところじゃないというこ とで、はいっていない。ところが、ロシアがだんだん南 下して来るのであります。カムチャッカを制圧しまして、 千島に入ってまいります。で、これは尚、明治の八年に 榎本武揚がベテルスブルグで会談し、交渉の結果、千島 全土は、日本、そのかわりカラフトはロシアとはっきり 決った︵千島・樺太交換条約︶。従って千島全部は日本領な んですけれども、ロシアはどんどん入って来るのです。 これはどうもほっとけないというので、報効義会という も の が 、 郡 司 成 忠 大 尉 ︵ 幸 田 露 伴 氏 の 兄 ︶ に よ っ て つ く ら れ 、 千島への開拓が行われるのです。しかし政府はいろいろ 考えて、ただ人聞を移したってだめだ、やっぱり宗教的 な人間教育をやらねばならぬということでたちまちにま た本願寺に命令が来たのです。 で本願寺は、開教のベテランである奥村円心師、これ は朝鮮から、もう帰っております。それを起用しました。 そして改めて五十六歳の年をもって奥村円心師は千島に 入って行きます。二年間ぐらいです。その辺のことは、 かつて、大谷大学の昭和四十年の秋期公開講座で話をし たことがありまして、簡単な紀要を大谷学報にのせてお いたので略しますが、実に苦労しております。布教なん てことは全然出来ない、無智蒙味、そして、もう物があ る聞はそれを食ってじっとしており、なくなってはじめ て働く。そういう人聞を人間的に教育することからはじ まる。だいたい師の﹁千島布教日記﹂が高徳寺にのこさ れていまして、実によくその辺のことが記されておりま す 。 なお、この外明治九年の鹿児島開教、同十年の田原師 の琉球開教等まことに開教方面は東本願寺の独檀場であ りました。又、明治の初めからはじまりましたのに、刑 務教諦があります。今はなき蓑輪英章元宗務総長の曾祖 父、蓑輪対岳師が東京石川島に行ったそれが日本におけ る最初の刑務教読であります。このようにして、とにか く東本願寺の外部的な発展は文字通り、めざましいばか りであります。それら、根本にやっぱり、やらなければ、 とういう危機意識のいたすところといえましょう。
宗門、近世から近代へ が実を申しますと、終始その間苦しめられたのは本願 寺の財政的な方向であります。四回の火事、それを建て 直し、建て直し、出来たと思ったら、又やけ、結局、だか ら先程申しましたように明治の三年におきまして、八十 万両の借金であります。そして、現在の両堂が建ちまし た明治の二十八年、三百万円近い膨大な借金があります。 この借金がずっと後まで続きます。なくなったのは、大 正七年でありますが、句仏上人が明治の末年不自由な体 でもって、北海道から日本中を行脚されます。この時、 上人が述懐された一つの遺書ともいうべきものでありま して、本当に心をうたれる。自分の体は問題ではない。 今宗門は大きな危機にある、なんとか、これをしなけれ ばならない。句仏上人は、明治四十一年から法主になっ ておられる。従って四十四年の宗祖六百五十回忌をなん とかして勤めなければならない。この際北海道の巡回さ れました時には、道がないので、船で回られたそうです が、ところが、波があらい。不自由な足で渡し船にお移 りになるのがみておれなかったと、その時随行した我々 の先輩の谷大生が書きのこしています。能登の巡回の際 13 には、雪にうずもれられ、本当に危いこともありました。 ﹁隻脚に朽ちんも皆師思﹂はこの時です。とにかく句仏 上人前半生、本当に御苦労でした。そこにはまだ尚残っ ておりますリーダーとしての一つの責任感とつよい報恩 の思いであります。 申したいことは多いのですが、時間がありませんので、 この辺でおわろうと思いますが、逆縁であります。廃仏 鼓釈と徳川党であったという一つの逆縁が宗門をふるい 立たせた大きな原因であります。しばしば一部の人は、 東本願寺のそういう行動は、明治帝国主義絶対政権の走 狗となったんだと申します。歴史の歩みというものは、 そんな簡単なものではありません。それは観念論です。 とにかく、そういうこととは別個に、我々自身の立場に 於いて我々の先輩達の苦労というものが、宗門のあらゆ るすみずみにまであって、そして今日まで来ているんだ ということを上から下まで宗門人が今日にあって反省し なければならないと思うことであります。甚だ大ざっぱ な話でありましたが、時聞がだいたい来たようでありま す の で : : : 。
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近代仏教学の歩みとわれらの先学
﹁近代仏教学﹂という呼称はわが国で比較的近年に用 いられ始めたもので、したがってその用法に必ずしも明 確なものがあるわけではない。いま私もそれをただ常識 的な意味で用いるのである。 ここに﹁近代﹂というのは、まず、おおよそ明治以後 を指すと見てよい。ただ明治以後の仏教研究をすべてひ としなみに近代仏教学と名づけるのではなく、徳川期以 前の仏教の学問に比して資料的にも方法論的にもあるい はその意趣においても明らかに殊別できるような新しい 型の仏教研究を指して特にそう呼ぶのである。資料的に 別であるというのは、従前の仏教学が専ら漢訳の経・律 .論およびそれに基づいてシナ・日本において述作され た諸著を H 聖教 μ として研鎮の対象としていたのに対し桜
部
建
て、ここにいう近代仏教学は、それらに加え幕末開国以 後わが国にもたらされた党・巴の原典および蔵訳その他 の仏教文献、さらに党・蔵・漢語の一般文献などをもひ ろく M 資料 H として駆使しようとするからである。方法 論的に別であるというのは、従前の仏教学がおおむね諸 宗の祖師以来の伝統説を重んじその﹁宗義﹂を明らかに しようとすることに中心を置き、ことに近世以来は多く 宗乗・余乗という形において行われるのが常であったの に対して、近代仏教学は、流入して来た西欧の学術の方 法をとり入れ、宗門的制約を離れた自由で批判的な態度 をもって歴史的研究、文献学的研究あるいは教理論的研 究などにその新分野を開拓しているからである。意趣に おいて別が立てられるというのは、内面的な欲求に従っ て仏道を歩もうとすることと普遍の知的欲求から発する 仏教の学的研究とがひとまず区別し得るもの、あるいは近代仏教学の歩みとわれらの先学 むしろ区別さるべきもの、であるならば、その限り、近 代仏教学は明らかに後者に属しているからである。 右のような意味での日本の近代仏教学が、日本仏教の 歴史の中で現に果たしつつある役割、そのもつ意義のい かなるものかは、もとより後代の識者の検討に倹たねば ならないけれども、それが過去百年の歩みの聞に印した 足跡はずいぶん大きなものであったし、それゆえにまた 日本の現代仏教の新しい息吹きに無関係ではあり得ない で あ ろ う 。 さて、わが真宗大谷派の諸先学がこの近代仏教学の展 開の上で占めた位置はいうまでもなくまことに大きい。 いまここではただその中の巨星ともいうべき存在を取り 挙げて、多少の考察を加えて見ょうと思う Q すなわち南 条文雄・佐々木月樵・山口益の三師である。 15 南条博士を近代仏教学の鼻祖と呼ぶことに何人も異存 はないであろう。日本仏教界からの海外留学生としては、 明治五年一月渡欧の途に就いた西本願寺の梅上沢融連枝 ・島地黙雷師らの一行に従った赤松連城・光田為然・堀 川教阿氏らをもってその晴矢とすべきであろうが、この 人々が僅々二年余の滞欧視察にとどまったのに比べ、明 治九年五月笠原研寿氏と相携えて英国に渡った南条先生 は、明治十七年五月の帰朝まで八年近くに亘った刻苦勉 励の聞に、師マックス・ミュラl博士に協力して究文の 無量寿経・阿弥陀経・般若心経・仏頂尊勝陀羅尼の刊行 を果たし、ナンジオ・カタログとして不朽の名声に輝く 英訳明蔵目録を出版し、のちにはまた英文十二宗綱要 ︵明治十九年刊︶をも著わして、全欧州にその令名を馳せ た 。 滞欧中の先生は、かくて、廃仏鼓釈の傷手を辛くも凌 いで文明開化の新気運に際会していた日本仏教界にとっ て、仏典原語研究という輝かしい学問の新分野に向けて 放たれた尖兵の役目を、おそらく何人の予期をも超える 程度に遺憾なく果たしたばかりでなく、務明期から漸く 興隆期に向かいつつあったヨーロッパ東洋学界に対して は、なおほとんど未知の領域であった東亜の仏教につい てのすぐれた紹介者の役目を、また、何人にも魁けて果 たしたのである。帰朝後の先生が、日本最初の文学博士 の学位受領者の一人となり︵明治二十一年︶、帝国学士院 会員に列せられ︵明治三十九年︶、長く宗門の大学を萱し ︵ 明 治 三 十 六 年 二 月 ! 四 十 四 年 九 月 真 宗 大 学 学 監 、 大 正 三 年 七
16 月 ー 十 一 年 六 月 真 宗 大 谷 大 学 学 長 、 大 正 十 一 年 六 月
l
十 二 年 十 月大谷大学学長︶、学界の長老・宗門の香宿としての栄誉 に輝いたことは纏述を要しない。 党文学者南条博士の本格的・代表的な学績としてオラ ン ダ の H ・ケルンとの協同に成る党文法華経の校刊︵明 治 四 十 一 l l 五年︶および先生晩年の苦心に成る党文入梼伽 経校刊︵大正十二年︶が挙げられるのは当然のことである。 ただ、近代仏教学の展開史の上に、そのいわば草分けと して博士を見れば、博士の果たされた開明家あるいは啓 蒙者としての役割の大きさを見逃すわけには行かないの で あ っ て 、 そ の 点 で は ﹃ 究 文 金 剛 経 講 義 ﹄ ︵ 明 治 四 十 二 年 ︶ 、 ﹃ 仏 説 無 量 寿 経 講 録 ﹄ ︵ 明 治 四 十 一 年 ︶ 、 ﹃ 仏 説 阿 弥 陀 経 講 録 ﹄ ︵ 大 正 五 年 ︶ 、 ﹃ 真 宗 聖 教 に 顕 わ れ た る 党 語 講 義 ﹄ ︵ 大 正 四|六年︶などの諸著や、﹁闇多迦﹂﹁言語学に於ける究 語の位置﹂﹁欧州究学略史﹂﹁仏陀伽耶菩提樹片略史﹂﹁仏 海繋年代考﹂﹁問討雑記﹂など初期の諸篇︵いずれも大正 六 年 刊 ﹃ 向 上 論 ﹄ に 収 め ら れ る も 、 そ の 成 っ た の は お お む ね 明 治 十 七i
二十年の間︶こそが、よく先生の面目をうかがわ しめるといえよう。﹁闇多迦﹂以下の諸篇は、まさに、 やがて出づる渡辺海旭師の名著﹃欧米の仏教﹄︵大正七年︶ の先縦となったものであった。そこに一示されているのは 未知の領域に学徒を誘引して解説至らざるなく、懇切丁 寧倦むことを知らぬ先導者の姿勢である。 佐々木月樵師の名声は偉大な学長としてはなはだ高い。 ﹁大谷大学樹立の精神﹂は新しい大学の理念を掲げその 基盤を定めた不朽の大文章として永く伝えられるもので あろう。しかし、もしそれによって近代仏教学者として の 佐 k 木先生の優れた一面がかえって看過されるような ことありとすれば、遺憾はこの上もない。 先生は華麗な能力に恵まれた人であったから、その学 問上の業績も広範囲に亘っているが、卑見からすれば、 先生晩年の十年間に次々と世に送られた独特の仕方によ る諸経論の本文研究こそ、その学風をよく代表しその学 問の﹁近代﹂性を最も鮮かに示すものであると思う。す な わ ち 、 ﹃ 中 論 偽 煩 ﹄ ︵ 大 正 五 年 ︶ 、 ﹃ 無 著 論 集 ﹄ ︵ 大 正 六 年 ︶ 、 ﹃ 世 親 論 集 ﹄ ︵ 大 正 八 年 ︶ 、 ﹃ 華 厳 教 学 ﹄ ︵ 大 正 八 年 ︶ 、 ﹃ 夜 摩 天 宮 会 及 其 解 説 ﹄ ︵ 大 正 九 年 ︶ 、 ﹃ 華 厳 聖 歌 ﹄ ︵ 大 正 十 年 ︶ 、 ﹃ 唯 識 二 十 論 の 対 訳 研 究 ﹄ ︵ 大 正 十 二 年 ︶ 、 ﹃ 龍 樹 の 中 論 及 其 哲 学 ﹄ ︵ 大 正 十 五 年 ︶ 、 ﹃ 漢 訳 四 本 対 照 摂 大 乗 論 ﹄ ︵ 残 後 昭 和六年刊︶の諸述作である。これらはいずれも大乗諸経論近代仏教学の歩みとわれらの先学 の本文を、異訳のある場合はそれを克明に対照しながら、 正確に読解しようとした努力の成果であるが、その本文 研究の前に附して、先生の高い識見から発する示唆に富 んだ序説が置かれ、その経論の H 教理史 μ 上の位置や意 義が明かにされているのが常である。すなわち﹁中論傷 煩に就て﹂﹁無著の論著に就て﹂﹁世親の論著に就て﹂﹁賢 首及び其教学﹂﹁夜摩天官会解説﹂﹁華厳聖歌に就て﹂ ﹁世親及び其教学﹂﹁無著の摂大乗論とその学派﹂の諸 篇であって、最後の一つを限いて全集第四巻﹁経論研究﹂ の中に収められている。 これらの研究は、伝統的な三論・法相・華厳の宗学の 覇紳から脱却して、諸経論を本来のインド仏教の思想の 潮流の中にそれぞれ捉えなおすという、先生のいわゆる H テキスト整理 μ の作業の結実である。それはこんにち にあっては何ら異とするに当らない目指すべき当然な方 法であると見られるが、六十余年前の当時にあっては、 全く斬新な﹁近代﹂仏教学的な研究方法として、時代に 魁けたものであった。先生にとって﹃探玄記﹄は華厳宗 の基本的宗典ではなくて賢首の H 教学 H であり、﹃二十 論﹄﹃三十頚﹄﹃十地経論﹄などは唯識宗・地論宗の宗 典でなくて世親の H 教学uであり、﹃中論偽頚﹄は三論 17 宗の、﹃摂大乗論﹄は摂論宗の宗典でなくて龍樹の、無 著 の w教学 H であった。教学という用語自体が先生の創 作であった。 先生は説く l l I 古来の訓詰を重んずる仕方、明治以来 の概論を尊ぶ仕方は﹁何れも一応必要な事なれども﹂共 に欠点あるを免れね。﹁因って予は先づその何れにもよ らずに、大乗仏教教理の研究をなすべく、それぞれその 代表的教家の代表的原典をば、そのまま能く、何人にも 読み易く、得易く之を世間に提供することを第一とし、 次に自らそれに基く所の自己の研究をも併せ﹂て、﹁大 乗教学大系﹂をうち建てることが必要であると思う、と ︵ ﹃ 華 厳 教 学 ﹄ 序 言 ︶ 。 そして﹁印度仏教教学の代表者としては、私は先ず龍 樹をとる。龍樹の位置は、実に前教学に対しては、正し く批評者として立ち、後期大乗仏教に対しては、いろい ろな問題を提供して居るのみならず、そこに無箸、世親 等の取扱ふた所のその問題及びその行き方すら既にその うちに暗示して居るからである。﹂ところで、龍樹は入 宗の祖師といわれるけれども﹁昔、各宗の宗祖も:::そ の︵龍樹の︶著全部に拠りし所の人は一人もなく:::何れ も皆その一論若くはその一口問一句によってのみ部分的に
18 龍樹を祖述し﹂ているだけである。﹁私は何としてなり とも、かかる人︵!龍樹を指す︶の研究のみは、どうし ても常に全的になさねばならぬことと思ふ。如何に困難 なればとて、之をそのまますて置くのは、実に龍樹その 人の教学のみならず、大乗仏教研究上、極めて遺憾なこ と と 思 ふ ﹂ と ︵ ﹁ 龍 樹 及 び 其 教 学 ﹂ ︶ 。 ﹃中論侮頭﹄に次いで﹃無著論集﹄﹃世親論集﹄が矢継 ぎ早に世に送られたのも﹁何人にも印度大乗仏教教学の 三 代 表 家 ︵ 龍 樹 ・ 無 著 ・ 世 親 ︶ の 代 表 的 述 作 を : : : 根 本 的 に それぞれ原典に基きて、正し︿我が大乗仏教教学一般を 世 に 紹 介 す る の 微 意 に 外 な ら ぬ 。 ﹂ : : : ﹁ 正 し く 代 表 家 の 作にもあらざりし所の一﹃起信論﹄の論題的研究と註釈 とによって、世間一般に殆ど印度大乗教学を概観しつつ あった所の明治仏教の仏教研究﹂を離れ﹁大乗仏教の代 表的経論の直接研究﹂によって﹁研究の正路﹂に復せね ば な ら ね か ら で あ る 、 と ︵ ﹁ 世 親 の 論 著 に 就 て ﹂ ︶ 。 四 佐々木先生によって打ち出されたこの新しい本文研究 の方向を推し進めて、卓越した古典解読力をもって、ひ ろく究文・蔵訳・漢訳に亘る仏典の比較研究の方法を日 本の学界においてはじめて確立したのが山口益博士であ る 。 その学問的業作を、若き目、佐々木先生への協力︵﹃唯 識 二 十 論 の 対 訳 研 究 ﹄ 所 収 の 蔵 ・ 漢 対 照 と 註 記 、 ﹃ 漢 訳 四 本 対 照 摂 大 乗 論 ﹄ 所 収 の 蔵 訳 本 文 校 訂 ︶ に よ っ て 始 め た 山 口 先 生 は進んで、自らいう H フランス仏教学 μ の学風を身につ けることによって、佐々木先生以来の本文研究の方法を 飛躍的に発展させ、わが国の近代仏教学に大きな転回期 を画した。多くの人の記憶にまだ新たなその業績のいち いちをあらためて述べる要はないが、中論・廻詩論以下 の龍樹の諸論、中辺分別論・倶舎論・成業論・唯識二十 論などの無着・世毅の諸論、中観心論・中観宝灯論等々、 インド仏教の主要な論典の数々が、諸本の厳密な対照と 釈疏の精確な読解とによって、学問的に完壁に近い形で、 先生によって取扱われたのであった。先生が、学士院会 員に列した︵昭和四十年︶のをはじめとして、学界におい て数々の栄誉を一身に受けたことは、その学績が広く社 会に承認された結果であるし、先生の提摘を受けた人々 が内外の多くの大学でその業を継承発展させつつあるこ とは、先生の打ち立てた確乎とした研究方法が現時の仏 教学進展の方向を指示したものであったことを物語る。
近代仏教学の歩みとわれらの先学 ところで、先生が大谷大学学長の任から退いた直後の ころの編著﹃仏教学序説﹄︵昭和三十六年︶は江湖に広く 迎えられて版を重ねた書物であるが、その緒言の中で先 生は一言う||﹁原典批判をはじめとして、批判的合理的 精神の所産である新しい学の方法と態度とが次第に浸潤 するに及んで、仏教の研究はまったく新しい学問として 幅広く再生している。﹂けれどもそれと同時に学者が﹁仏 教者の立場で、その仏教を合理的批判的に研究するとき の、仏教者かれ自身の思想がどのようであるか﹂を深く 顧みることは﹁緊要な課題﹂である。われわれは﹁今の 時代にあって仏教を研究するものであるから、いわゆる w 批判的合理的精神 μ に従ヮて研究を進めるのではある が、仏教国日本にあって仏教者として仏教を研究するの であって、その伝統精神の萱習するところ﹂おのれ自身 19 の思想を離れては﹁その所論を展開し得ない﹂ と。先生晩年の文章﹁心の無について﹂﹁浄土について﹂ ︵ い ず れ も ﹃ 山 口 益 仏 教 学 文 集 下 ﹄ 所 収 ︶ な ど に は 、 一 代 の 碩 学が到り着いたこのような境地が、色濃く現われている よ う に 思 わ れ る 。 の で あ る 、 大谷派が生んだ近代仏教学の学匠は右の三師に限られ るわけではもとよりない。なお他の諸師に説き及べば、 それがそのまま日本の近代仏教学の展開史にもなろうが いまは、出でては近代仏教学者として大きな足跡をのこ して時代の学風をリードし入っては派内の学林を萱理し て多くの学徒を育成した三先学の遺徳の一半を讃えるに と ど め た い 。
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私に課せられたのは、﹁近代真宗学﹂という主題であ るが、最初にこの近代真宗学という概念について、一応 の検討をしておかなければならないように思う。何を以 て近代真宗学とするかは、それ自体がかなりの吟味を必 要とする一つの問題であるからである。これについてわ れわれは、一応は、近代という歴史の状況において形成 せられ、展開した真宗教学と解することができるであろ う。しかし再応問うならば、真宗教学が確立し展開した 実存が、そして思想が、近代と呼ばれる歴史の状況に確 かな内容を与えたというに価する、そのような真宗教学 を近代真宗学と規定すべきだ、と了解しなければならな い で あ ろ う 。 最初の見解について、考察を統けたい。 日本においてみ
寺
俊
昭
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− − ノ 近代と理解されるのは、明治以降とするのが一応の一般 的理解である。従って、この通念的理解によるならば、 明治時代以降の歴史の状況の中で形成され、展開した真 宗教学を、われわれは近代真宗学と了解してよいことと なるであろう。ところが、近代という言葉で把握される 歴史の状況は、当然それに先立つ歴史の状況として近世 を、更にそれに続く時代として現代を、それぞれ定立す ることはいうまでもない。今、視野を真宗教学に限定し て尋ねると、いわゆる近代真宗学とは、近代という歴史 の状況と適合関係にある教学であるが、それは第一に、 徳川封建社会において形成せられ、それと適合関係にあ る近世真宗学、いわゆる江戸宗学に対して、それを批判 的に摂取しつつその問題性を克服しようとする性格を、 基本的にもつ真宗教学であると了解することができるで あろう。そして、もし近代に対する現代を、近代を支え近代真宗学の歩み 実現している諸原理が、もはやその確実性を喪失して、 歴史乃至は人間の現実を包み切れなくなった時代であり、 そのことを逆縁として未来を開拓しようとする歴史の状 況であると了解するならば、その現代に適合関係にある 真宗教学を、私は今仮に現代真宗教学と呼んでみたいの である。そのような現代真宗教学の胎動を、私は例えば 高木宏夫編﹃人間性回復への道﹄として公にされた、近 代の主観主義乃至は個人主義を鋭く批判しつつ、それを 突破する道を親驚に見いだそうとする訓覇信雄師の情熱 的な語りかけに、確かにみることができるように思う。 そしてこの点から近代真宗教学を問うてみるならば、そ れは一方では近世教学を一種の封建教学として批判的に 克服しようとするものでありつつも、しかも他の一方で は、現代の諸状況からの批判的な問いかけを受けること となる、明治期|昭和期に形成され、展開した真宗教学 を意味するのだと、差し当り了解しておくこと、ができ るのであろうか。 21 近代という状況をどのように把握するかということは、 決して一義的に明瞭ではない。けれども今、ウェl バ i 的意味における一つの理想型として近代を特徴づけてみ るならば、経済の領域においては資本主義を成熟せしめ た時代であり、社会の場面ではいわゆる市民社会の成形 が実現した時代である。そして政治の領域においては、 近代民主主義を確立しつつも同時に強大な主権を主張す る近代国家の形成が行われた時代である。その全域を覆 うて思想・文化即ち人間の生き方において、いわゆる近 代精神と呼ばれる独自の精神が顕著に息吹いてきた時代 であると、理解することができると思う。殊にこの近代 精神についていえば、その特徴的な内容は、個の自覚も しくは強烈な自我の自覚に立って、人間の自立を強く主 張するような精神であり、しかもその主張が、人聞を縛 るさまざまな力もしくは権威に対して、それを強く批判 することによって人聞を解放し自立せしめるという、独 自の批判精神を伴ってなされるということである。ほぼ このように特徴づけられるものが、一つの理想型として 把握してみた時の近代という概念の内容であると、 することができる。 了 解 このような近代精神と適合関係にある近代真宗教学に ついて尋ねる時、その息吹きもしくは端緒をくっきりと 私に感ぜしめる思索、つまりいわゆる近代真宗教学の出
22 発点ともなった一つの論文が、私の前に浮かんでくる。 それは明治三十年十月、清沢満之師によって提起された 大谷派事務革新運動のさ中、その機関誌である﹃教界時 言﹄第十二号に載せられた、清沢満之師の執筆にかかる ﹁貫練会を論ず﹂と題された文章である。この文章は、 教団改革運動という激動のさ中に書かれたものであるが、 その基調は江戸宗学との批判的訣別というべきものであ る。その主張の骨子を、私は宗義と宗学との厳密な区分 の上に立って、宗学を相対化し、偏に宗義に依るべしと の主張、及び宗学上の自由討究の主張として把握するこ とができると思う。因みに先ず第一の点について、清沢 師の主張するところを聞こう。
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﹁夫れ宗義と宗学とは裁然其の区別あり。決して 混同すべきものに非ざるなり。宗義は宗祖の建立に 係り、宗学は末学の討究に成る。一は所釈の法門に して、一は能釈の言句なり。故に、宗義は一定不易 ならざる可からずと難も、宗学は発達変遷あるを妨 げず。我が真宗の宗義は載せて立教開宗の聖典たる 広本六軸の中に在り。其の文柄として日星の如し。 誰か之を動かすを得んや。かの宗学なるものは、此 の宗義を学問の方面より討究するものにして、其の 解釈の深浅優劣如何に拘らず、均しく末学の私見た るに過ぎざるなり。呑月院深励師の該博精微を以て するも、円乗院宣明師の深遼明確を以てするも、亦 た 各 宗 学 上 の 一 家 見 た る に 外 な ら ず 。 ﹂ ︵ ﹃ 清 沢 満 之 全 集・四﹄三O
四 頁 ︶ω
﹁然れども、既に先輩に拠る者必ずしも正ならず、 先輩に拠ら、ざる者、必ずしも不正ならぎる以上は、 仮令挙げて先輩諸師に反対するも、決して非難すべ きに非ざるなり。何となれば、是非正否の標準は広 本の明文に在りて、先輩の講説に在らざればなり。 若し必ず先輩の講説を待ち、然る後始めて聖教を窺 ふべしとせば、先輩の講説を会得するにも亦た他の 講説を待たざる可からざるに至らん。此の如くにし て、註疏の上に註疏を重ね、解釈の上に解釈を加へ、 本を捨てて末に趨り、源を忘れて流を控ひ、反りて 益々聖教の正意に遠ざかるもの、是れ実に仏学者の 通弊なり。殊に知らず、聖教は義旨幽遠なりと難も、 文辞却りて明白なり、有くも句面の如く之を窺はば、 其の正意を得る、必ずしも至難の事ならず︵﹃同前﹄ 三O
九 貰 ︶ 。 第二の宗学1
教学上の自由討究の意義については、清近代真宗学の歩み 沢満之師は次のように主張する。
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﹁要するにかの貫練会一派の諸氏が、先輩の一学 轍を標準として、是非正不を決せんとするが如きは、 不法の甚だしきものにして、一宅も其の理由なきもの なり。而して諸氏が此の迷窟の一美に佑僅して、自ら 小にし、広潤なる自由討究の天地に遊びて、大いに 宗義務﹄発揮すること能はざる所以のものは、蓋し其 の宗義と宗学とを混同するの謬見に基因せずんばあ らず。︵中略︶真宗の宗義は柄として立教開宗の広本 に在り。有くも真宗の徒たる者、誰か之に向って改 震を加へんや。但し、かの宗学なるものは、此の宗 義を学問的に討究して、説明解釈を与へんとするも のにして、其の説明解釈は如何に変遷するも、宗義 は牽も其の影響を受けず。超然として其の一定不易 の性質を保つことを得るなり。故に宗学の境界に於 いては討究上充分の自由を与へ、決して束縛を加ふ べ き も の に 非 ざ る な り 。 ﹂ ︵ ﹃ 同 前 ﹄ コ 二O
頁 ︶ω
﹁今日の宗学に努むべきは、他宗向対門に非ずし て、他教向対門なり。他教向対門に非ずして、世間 向対門なり。今日科学、哲学に対し世間共許の道理 に拠りて、宗義を論成するの必要なるは、猶ほ昔日 23 他宗に対し諸宗通談の法門に拠りて、宗義を論成す る の 必 要 な り し が 如 き な り 。 ﹂ ︵ ﹃ 同 前 ﹄ 一 二 一 一 ニ 頁 ︶ 師のこの文章によって、われわれは疑問の余地なく明 らかに、清沢満之師が伝統の宗学、いわゆる近世真宗教 学に対して、その真宗理解を金科玉条とせず、自由討義 としてその自由な批判を行う柔軟さを求め、そのことを 通して師が宗義と語るところの宗祖の根本精神、宗祖の 信仰的自覚の独自性を探求し開顕しようとしていること を知るのである。そこに顕著にみられる姿勢は、近世真 宗学を近代化し、近代的に再解釈しようとするものでは なく、むしろ自由潤達な近代の批判精神に立って、宗祖 の根本精神に肉薄し直参しようとするそれである。そし てその根本精神の独自の積極的内容を、同時代の諸思想 との対話を通して開顕しようとする姿勢である。その意 味で、私はこの﹁貫練会を論ず﹂に浮彫りにされている 清沢満之の主張をもって、近代真宗教学というに価する 性格をもった真宗学が、その自覚的歩みを始めたと了解 す る も の で あ る 。 近代精神というこの視点に立って、清沢満之師の信仰 告白に接する時、そこに繰り返して強く﹁自己﹂の表白 がなされていることに、私は陸自の思いを禁じ得ない。24 例えば晩年の、余りにも有名な二三の信仰告白を聞こう。