元曉の著作の成立時期について (川崎信定教授退任 記念号)
著者名(日) 伊吹 敦
雑誌名 東洋学論叢
号 31
ページ 150‑132
発行年 2006‑03
URL http://id.nii.ac.jp/1060/00003230/
Creative Commons : 表示 ‑ 非営利 ‑ 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by‑nc‑nd/3.0/deed.ja
元 暁 の 著 作 の 成 立 時 期C
はじ め に
こつ い て
伊 吹
(51 )
敦
元 暁(617‑686) は、 新 羅 に お け る 最 も 重 要 な 佛 教 思 想 家 の 一 人 で あ る 。 彼 の 思 想 は 「和 静 」 を 特 色 と す る と言 わ れ る だ け あ っ て 、 そ の 著 作 は賓 に多 方 面 に 及 ん で い る。元 暁 自 身 は、朝 鮮 半 島 を 出 る こ と は なか っ た。
し か し、そ の著 作 は 早 く か ら中 國 や 日 本 で も 注 目 さ れ、また 、研 究 さ れ た。
中 で も 彼 の 『起 信 論 海東 疏 』 が、法 蔵 (643‑712) の 主 著 の 一 つ で あ る 『起 信 論 疏 』 に おい て 、 大 い に利 用 さ れて い る こ と は よ く 知 ら れて い る 。
こ の よう に軍 ア ジ ア の思 想 界 に多 大 の 影響 を嚇 え た元 暁 の こ と であ る か ら 、 こ れ ま で 、 し ば し ば、 そ の 生 涯 や 思 想 が 研 究 對 象 と さ れ て き た の は 常 然 で あ る 。 そ う し た 研 究 の 中 で も と り わ け 興 味 深 い も の と し て 、 石 井 公 成 、 福 士 慈 稔 ら の 諸 氏 に よっ て 行 な わ れ た 、 元 暁 の 著 作 の 成 立 時 期 を 特 定 し よ う と す る 試 み が あ る。 こ う し た 研 究 は、 元 暁 の 思 想 の 形 成 過 程 を 探 る う え で 不 可 鋏 の もの で あ り 、 そ の 意 義 は 何 人 も 否 定 で き な い であ ろ う と 思 わ れる 。
筆 者 は、 憚 思 想 の 形 成 過 程 の 解 明 を 主 た る 研 究 課 題 と し て き た も の で あ っ て 、 従 束 、 必 ず し も こ の 方 面 に 強 い 開 心 を 抱 い て い た わ け で は ない が 、 以 前 か ら 『 二。人 四 行 論 』 や 東 山 法 門 と の 開 係 が 指 摘 さ れ て い る 『金 剛 三 昧 経 』 の成 立 に つ い て 考 え る に常 た っ て 、 こ れ を 依 用 す る 最 古 の 文 献 で あ る 元 暁 の 『 金剛 三 昧 経論 』 の著 述 時 期 を 特 定 す る 必 要 が あ り 、 こ の 問 題 に つ い て 少 し く 考 察 を 行 なっ た と こ ろ 、 従 来 の 説 に對 し て 異 を 唱 え る べ き黙 をい くっ か 見 出 し た の で 、そ れを こ こ に 述 べ る こ と とし たい 。
(52 )
一
従来 の研究
先ず、従来 の 説を一瞥 する とともに、 その問 題鮎を 明確に する とこ ろ から始め よう。 元暁 の著 作の成 立時期 を文献學 的な方 法で明 らか にし よ うと初め て試 みたの は、石井 公成氏であ る。 即ち 、氏 は、元 暁の著 作 に 見ら れる 自著へ の言 及を整理 し、その 開係を 次頁に示 す ような圖 に纏め たうえで、そ こに見 られる玄 奘(602‑664) の新詳 の依用 につ いて も調査 を行ない、次 のような 鮎を指摘し てい る。
1. 『起 信 論 別 記』では 、『解深密経』(649年以 前 に詳川 )、『佛 地 経 』(645 年 詳出)、『佛 地 経論』(649年 詳 出)、『喩伽 論』(648年 薗[に『穎 揚 聖教論』
(646 年詳川)、『阿毘 達磨雑 集 論』(『對 法論』、646 年 謬 川)な ど を 引 用 す る が、 これ ら は全 て、貞観二十三 年(649)ま で に 翻 詳さ れてい る。2.
『二障 義』に は 、『損 大 乗 論 世 親 拝』㈲9年 詳出)の引 用 も 見られ る。3.r 起信 論海東 疏』に は、他に『廣 百 論』㈲O 年 犀出)も引 か れてい る。4.
『無量 壽経宗要』や『m 勒上 生 経 疏』に は、『倶 舎論』(654年 課出) が 引 か れてい る。5.
『中 逞 分 別 論 疏』に は 、『人毘婆 沙 論』(659年 騨出)が 引か れてい る。6 う 刈 比量箭』(671年 撰 述)に は 汀成 私 識 論』(659年 詳出 )が 引 か れ て い る。7.
『大 慧 度経宗 要』に は 、『大 般若 経J(663 年 騨出)が引 か れて いる。
そして、こ うし た認 識に基づい て、石井氏 は『起信 論海東 疏』の 撰述 時 期を論じて、
「 以 上 の こ と か ら 、
『
海東 疏』は『成 唯 識論』を 引 く 『判 比 量 論 』 の 少
レ 出 こ、 す な わ ち 五〇 歳 前 後 に著 わ さ れ た も の と 考 え ら れ る。 第七 識 の性 格 を 初 め と し て 唯 識 説 に 関 し て 精密 な 議 論 を 展 開 す る『 成 唯 識 論 』 を 知 っ て お れ ば、『海 東 疏 』 が 他 の 経 論 の 説 と の 會 通 を 試 み な か っ た
は ず が な い 。『 成 唯 識 論 』 を 所 依 と す る 圓 測 や 慈 恩 の 主 著 が 元 暁 の 目 に 鯛 れ た と し て も、 そ れ は『
海 軍 疏』の 成 立 よ り 後 の こ と で あ っ て 、 元 暁 の 主 な 著 作 が か な り 書 か れた 後 に なっ て の こ と で あ ろ う 。」− ↓49 −
(53 )
と 言 い 、 更 に [ 金 剛 三 昧 経 論 ] に つい て も、 次 の よ う に 削 れ て い る。
「 なお 、『 海 軍 疏 』以 降 の 作 で あ る『 金 剛 三 昧 経 論 』は 、 新 譚 経 論 に つ い て は『 喩 伽 論 』や『 解 深 密 経 』な ど 僅 か な も の も の し か 引 か な い う え、
後 半 に なる と 誤 詳 も 含 め て 引 用 が 極 端 に 少 な く な る が 、 こ れ は 十 分 な 資 料 を 持 た ず に 急 い で 書 か れ た こ と を 意 味 す る の で あ ろ う かU
〈 石 井 公 成 氏 説 〉
1
2
3
大 慧度 鎧 宗 要*
判 比 量 論*(671) こ の 年 、 義mm 國(
成 唯 識 論を初 めて 引 用)
普 法 章* で?1
華 巌m.疏*(華 収 維 宗 要*) 于
霖t
矢 印 は 白 作 の 引 用 な い し 參 照 を示 す 太線 は 特 に『海 東 流』と開 係 の 深 い 著 作
* は現 存 し な い か 、 あ るい は そ の一部 や 供 文 し か 残 さ れ て い な い 著 作
(54)
この研 究は 、元 暁 の 著作 を 丹念 に調べる という着 賓な 方 法と 、 新詳の 依用状 況か ら 成立 年 代 を 特 定 し よ うとす る ア イ デ ア の秀逸さに よっ て、 登表 と同 時に 大 いに 注 目を集 め た。確 かに 、 自著 へ の 言及 によって 定め られ た 成立 の順序 は、基 本的には 動 か し 難 い もの であ る と 言 っ てよ い だ ろう。し かし 、 新詳の 依 用に闘 し て は 、 い く っ か の問題鮎 を 指 摘 す る こ
と ができ るのである。
先ず 、新詳 の『倶舎 論』が『無 量壽経 宗要』に引 用されてい る とい う が 、 見常たら な い よ うであるし 、『顛 勒上 生 経 宗要』の『似 舎 論』の引 用 は 取 意 であるので 、それを新詳と は 特定し が た い よ うであ る。ま た 、氏 は 、『中 逡分別 論 疏』に 新詳 の『大 毘婆沙論』の引 用がある とい う が、そ こに「又 婆 沙云 」「婆 沙論 中」と し て 引 用 さ れ る 文 章 は 、浮 陀蹊摩共道泰等詳 の『阿 毘曇毘 婆 沙論』か ら の も ので あ る か ら『ちな み にj 涅槃 紅宗 要』に「如婆 娑 云」「若 准 婆 沙第四 十巻」と し て 引 か れ る ものも同 様 であ る )、 先 の圖で 「『│コ逡 分別論疏』
を『 金剛三昧経論』や 『 涅槃経 宗 要』と 同 じ 頃 、 あるいは 、それ ら よ り も後 の 撰 述 で ある か の ご と く 示 し て い る のは修 正 され な く ては ならな い で あ ろ う。また、『起 信論別 記j にr 穎 揚 聖 教 論』か ら の引用が あると
もいう が 、 こ れも確認 で きな かっ た。
氏の指 摘で、 もう一つ問 題だと 思 わ れる のは 、『l 障 義』には 、 確 か に新謬 の『撮大 乗 論 世 親 拝』(649年詳 ㈲ の一節 が 、
「 如 禍 論 説 。 能 遍 計 心 唯 意 識 故 。」
「 如 倶
と引 か れ て い る が 、 他 の 所 で は 、
巾
「 如 揚 論 云 。 若 無 下 無 明 。 諸 行 不 生 。 若 無 脩 道 無 明 。 諸 行 不 熟 者 。」
と屏 諦詳 が用 い ら れてい るとい う黙 であ る。「 二障 義」 以 外の著 作 で元 暁が用い る『価 大乗 論』『撮大 乗論 祥』は、一 般 に尉 諦謬 である と さ れ ている から 、『二障義』の この二つの 新詳 の引 用は、 むし ろ 例外 と言っ てよい。こ の部 分が後 に書 き加えら れたものであ る 可能性 も否定 できな い のでは ない だろう か。
−147 −
(55)
元 暁 の著 作 に お け る 新 詳 の 依 用 状 況 は 、 石 井 氏 だ け で な く、 福 士 慈 稔 氏 に よ っ て も 研 究 さ れ て い る 。 即 ち 、 氏 は 、『 新 羅 元 暁 研 究 』 に お い て、
石 井 氏 の方 法 を 自 ら の 先 駆 と 認 め た 上 で 、 元 暁 の 著 作 の そ れ ぞ れ に つ い て 、引 用 す る 新if 経 論 を列 挙 し て い る が 、 そ の 中 で 新 た に 、
1 。『涅 槃 経 宗 要 』 や 『 中 逞 分 別論 疏 』 に は 、『倶 舎 論 』(654年詳出)が 引 か れ て い る 。2
.r 無 量 壽 経 宗 要 』『梵 網 経 菩 薩 戒 本 私記 』『中 逡 分 別 論 疏 』 に は 、『成 唯 識 論 』(659年済出)が 引 か れ て い る 。
とい う事賓 を指摘 した うえで、 常時は、 唐と新 羅との闘 係 は密 接であ っ たから、唐 で詳さ れた ものは、 順次、新 羅に傅 えら れたであろ う とい う 推 測の もと、元暁 の著作 を成立 を異にす る以下 のよう な四つ の層に 分類 する試みを行 なっ ている
。
著 述 初 期 :「起 信 論 別 記」以 前 の 成立と 見 ら れ 、 新 詳 経 論 の 引 用 も 見 ら れ な い 著 作 げ登心 修川副 など)
著 述 中 期 :650 年 以 前 に 翻 詳 さ れ た 新 詳 経 論 の み を 引 く 著 作 (『起 仁 論 別 記』『こ障 義』『起 信論 海楽疏』[金剛三昧 経 論]な ど ) 著 述 後 期I: 上 記 に 加 え て 、654 年 翻 津 の『倶 舎 論 』を 引 く 著 作 (『 禰 知h
几経宗 要』『涅 槃 経宗要』な ど)
著 述 後 期n: 上 記 に 加 え て 、659 年 詳 出 の『成 唯 識 論』や『大 毘 婆 沙 論 』 を 引 く 著 作(で無 量 壽 紅 宗要)『梵 網経 菩薩 成 本 私 記』『判 比 量 論』
な ど)
石井氏が 『起信 論海東 疏』以 前の著 作とする 『無量壽 経宗要 』を後 期 の著作 とす る鮎 は大い に 異な るが、 こ れは、『起 信論 海 軍疏』 が「無 量 壽経料 簡」 として 言及 している ものを 、石井氏 が『無量 壽経宗 要』 を指 すとするの に對し て、福 士氏は、 こ れとは別の 著作 と考え てい るた めで あ る。 氏の ように 『無量 壽経宗 要』に 『成唯識 論』が引 用 されてい ると するの であ れば、『 起信論 海東 疏』 以後 の著 作と 見倣 さざ るを 得ず、 そ れを「無量壽 経料簡」 と同一 視し得 ない のは常然 である。
(56)
と こ ろが、 ここ に も 重 大 な錯 誤が 含ま れて い る。先ず 『倶 舎 論』の 引 用であ るが、 氏の言う よ う に、 確か に『涅槃 経 宗要』や『中 漫 分 別 論 疏』 に は 、 そ れを見る こ と が で き る。し か し 、そ の出 典 を 調 べ て み る と 、 そ のい ずれも が 員 諦 詳 で あ る こと が知 ら れ る の で あ る。 ま た 、 氏 は 、『無 量壽経宗要』な どの三書に『成 唯 識 論』の 引 川 が あ る と い う が 、『中 逼 分 別 論 疏』に は、そ れ ら し き も の が 見 あたら ない。一方 、『無量 壽経 宗 要』 や『梵 網 経菩薩 戒 本 私 記』に は 「 唯 識 論」が 引 か れ て い る が 、 こ れ は 員{
■?'})
諦 評『大 乗 唯 識 論』の文章 であ っ て 、『成 唯 識 論』か ら の 引 用 で は な い の で あ る。、して みれば、『無 量 壽経宗 要』を『起 信 論 海 東 疏』以 降 の 著 作 と 見 な く て はな ら ない 理 由は 存在 しない こと にな る。夙 に 梯信暁 氏 が 指 摘 し て いる よ う に、『起 信 論 海東疏』に いう「無 量 壽 経料 簡」は 、や は り 、
『無量 壽経宗 要』そ の も のを 指すと 見 倣 す べき であ ろ う。そ れ は と も か く 、 以 上の考察 に よ っ て 、 新 詳 の『倶 舎 論』を引 く 著作 も『大 毘 婆 沙 論』を 引 く 著 作 も 存 在 しな い こととなり、「著述後期」を 更 に二期 に 分 け よ う と する氏の 主張の前 提そ の も のが 、そ もそも成り 立だ な く なって し ま う の で あ る(な お、氏は『起 信 論 海束疏』に『解 深 密 纒』から の引 川 が あ る と い う が 、 こ れ も 見あ たらないよう で あ る )。
新詳の 引 用に 基 づ い て元 暁の著 作の成立時 期 を 特 定 し よ う と す る 着 想 そ の も の は 非 常 に 興 味 深 い も の で ある。た だ 、 そ れ が 意 味 を 持 つ た め に は 、その 前提 と し て 、 新 詳 の 依 用 状 況 が 正確に把握 され て い な く て は な ら な い はず で あ る。こ の 鮎 に お いて 、 従 束の研 究 に は 訣 け る 勁 が あ っ た ように 思われる。
一
一
新 詳の依用か ら見た 著述 年代
そ こで 、今‥一度 、 原 脆 に立 ち返っ て、元暁の著 作 に お け る 新 詳 の 依 川 状 況を調べ て み た と こ ろ、次 のよう な 結論を 得 た ( な お 、こ れら元暁 の著 作 の中には 不完 令 な も の も多 い が 、そ の場 合 に も、現 存 部分 の み か ら引 乱 文 を探 っ た)。
著 作 名
『起 信 論 別 記』
依 用 さ れ て い る 新m 経 論:
『 解深 密 経 』『喩 伽 論 』『阿 児 達 磨 雑 集 論 』『佛 地 経論 』
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(57)
「起 信 論 海 軍 疏 」
:「喩 伽 論」 『穎揚 聖 教 論
』『阿 毘 達 磨雑
集論』『廣 百 論』
『無量 壽 経 宗 要』 :『解深 密 経
』
「喩m 論」『法 華 経 宗 要』 :『解 深 密 経』『喩 伽 論』『阿 毘 達 磨雑集論』
『大慧度経 宗 要』 :『解 深 密 経』『喩fiJD論』『廣 百 論 』『大般若緩』
『涅槃 経 宗 要』 :
『
喩 伽 論』『大 般 若 経』『蝿 勒上 生 経 宗 要』:r 喩 伽 論』
『解 深 密 経 疏
』:r
解 深 密経』
『菩 薩 経 絡 本 業 経 疏i: 『喩 伽 論』
『穎揚 聖 教論 』
『阿 毘 達 磨雑集 論』『中 逡 分 別 論 疏
』
:『喩 伽 論』『穎揚 聖 教 論 』
『阿 毘 達 磨雑集 論 』『阿 蝿陀 経 疏』 :『解 深 密 縮
』『喩 伽 論 』
『梵 絹縮 菩 薩 戒 本 私 記』:『mm 論
』
『菩 薩坂本 時 犯 要 記』 :『解 深 密 経』『喩 伽 論』
『 二障義 』 :『解 深 密 経』r喩伽論』『顕揚聖教 論』『阿 児 達 磨 雑 集 論』[『獅 大 乗 論lit親 憚』]
『 金剛三昧経 論』 :『解 深 密 維ir 喩 伽 論』『顕揚聖教論 』『阿 児 達 磨 雑 集 論』
『十門 和評 論』 :『喩 伽 論』
『顕 揚 聖 教 論
』『判比 量 論』 :『成 唯 識論』
こ れを見る と、元暁 が引 用する新詳 経論が 極めて 限ら れたもの である ことが知ら れる。即 ち、 基本的 には、
1.
『
解 深 密 経』4.
『
阿 毘 達 磨 雑 集 論』7.
『
成 唯 識 論』
2 。
『喩 伽 論 』5.
『廣 百 論 』8.
『大 般 若 経 』
3 。r顕 揚 聖 教 論 』6.r 佛 地 経 論 』
の 八 書 に過 ぎ な い の であ る
。
し か も、 こ こ で 注 目 す べ き は 、1 。『成 唯 識論』と『大 般 若経』の翻 詳が、 そ れぞ れ、659年 と663年 で ある のを 例 外と して 、その 他 の経 論は、 全 て、650年 まで に翻詳
されたものであ る。
(58 )
2 。 元 暁 の 著 作 の 多 く は 、650 年 まで に 詳 さ れ た 新 詳 経 論 を 引 用 す る に 止 まっ て お り 、『 成 唯 識 論 』や 『 大 般 若 経 』 を 引 く 著 作 は 、『 判 比 量 論
』『
涅 槃 経 宗 要』『
大慧 度経 宗 要』の 三書 に 過 ぎ ない 。
と い う事 賓 で あ る。『成唯識 論』や
『大
般若 経』が 非常 に重要 な 経 論 で あ ること を思え ば、こ れらに言及 し ない 著 作 が このよ う に 多獄に 上 ると い う こと は、多く の場合、それ を書い た時貼で は 、 そ の 存在その ものを知 ら な か っ た た め と 見る よ り ほ か は なかろ う。従 っ て、 次のよう に 考 えて よい と 思 わ れ る。即 ち、‑650 年 を少 し 過 ぎ た 頃 に、 そ れまで に翻詳 され た 新 詳 経 論 が 、あ る 程 度、纏 まった 形 で 新 羅 に 将 束され 、それに 基づいて元 暁 は 、 主要な 著 作のか なり の 部分 を著わし た。
し か し、その 後 、(『判比量論』が書
かれた)671 年以 前の あ る 時 期 に『成
唯 識論』や 『大 般 若
経』な ど
、その 後 に詳さ れ た経論が 新た に将 来 さ れ 始 め 、『判 比
量論』『
涅 槃経宗要』
『大 慧度経 宗 要』
など、 後 期の 著述 に利用 さ れ た ー と。
問 題 は、r成 唯識論
』
や『人 般
若 経』
が 将 来 さ れ た 時 刻が いつ か とい う こ とであるが 、こ れ について は、元 暁 と菰知の間 柄であった 義 湘∩625‑702)が唐 か ら貼閥 し か671年 を
一座 の 目 途
とす る と い う こ とも、一つ の 考 え 方 とし て 成り 立ち うると 思 わ れるが 、 常 時 の 唐 と 新羅の佛 教 界 の 密接 な開 係を 考えれ ば 、 こ の よう な重 要 な 経 論 が、 翻謬から十 年 以 ヒも 新羅に傅 えられな か っ たという こ と は、 ほ とんど 有り得 な い と思 わ れる。
ま た 、手に 入 れ た ば かり の『成 唯
識論』を 元
暁が 直 ち に 理 解 し て、 その 年 の う ち に す ぐに 自 ら の著 作 に 利用するこ と が できた か どう か 、その 黙 に も 多 少 の疑 問 が 残 る。
従 って 、遅く とも それ より叡 年 前に は 新 羅に 傅 え られて い た と 見る のが 妥常で は ない だ ろ う か。だ と すれば 、『
大 般若経』を 引 く『涅槃 経宗要
』
や『大 慧 度 経 宗 要 』
の成立 も、おお む ね 、665 年 以 降と見る べ きであ る よ うに思 わ れ る。一 一
一
『金 剛 三 昧 経 論 』 と 『涅 槃 経 宗 要 』 の 著 述 時 期
既 に 見 た よ う に 石 井 氏 は 、 元 暁 の 著 作 に 見 る 自 著 へ の 言 及 に 基 づ い て 、『 金 岡り三 昧 経 論
』が 『
起 信 論 海 東 疏』
よ り 後 の 比 較 的 後 期 の 著 作 で あ る こ と を 明 ら か に し た 。 し か し 一 方 で 、650 年 以 降 に 詳 さ れ た 新 詳‑ 143 −
(59)
経 論 を用 い て い な い 勁 も 指 摘 し て い る。r金 剛 三 昧 経 論』を 著 わ し た 時 、 もし も元 暁 が い まだ『成 唯 識論
』
やF 大 般 若 経』
を 知 ら な かっ た と す れ ば 、 そ の 成 立 は、665 年 を 少 し 遡 る 頃 と い う こ と に な ろ う。た だ 、こ こ で 問 題 な の は、『金剛三昧 経 論』が
『成 唯 識 論 』や『
大 般 若 経 』 を 引 か ない こ と は 事 官 で も、 そ れ が 直 ち に そ れ ら につ い て 知 ら な かっ た こ とを 示 す わけ で は な い とい う 黙であ る。
そ れ ら の 存 在を 知 っ て は い て も、『金 剛三昧 経J の 註 祥 を 行 な うに富 た っ て 、 そ れ に 言 及 す る 必 要 を 感 じ な か っ た と い う こ と も十 分 にあ り う る か ら で あ る。賓 際 の と こ ろ 、『金 剛 三 昧 経 論』に は 、『大 般 若経』を 引 く
『
涅 槃 経宗要』と 共 通 す る 勁 が 存 在 す る の で あ る。そ れ は、 即 ち 、 こ の 雨 者 の み に三階 教 の 影 響 と 見 倣 す べ き も のが 認 め ら れ る と い う 鮎であ る。
『
金 剛三昧 経』に は 、 次 の よ う な一一
節 が あ る。「 佛 言。総 説 戒 膏。不善慢 故。海 波 浪 故。如 彼 心 地。八 識 海 澄。九 識 流 浄。 風 不 能 動。波 浪 不 起。戒 性等 空 。持者迷 倒レ如 彼 之 人。七 六 不 生。 諸 集 滅 定。不 離三佛。而 飲菩 扱 。 三 無 相中。順 心 玄 人。深 敬三官。 不 失 威 儀。於 彼 沙門 。不無恭 敬∧ 菩 薩 。彼仁 者 、不 生Ill‑問 動 不 動 法。 人三空 聚 誠三有 心。大 力菩 薩 言。彼仁 者 。於 果 足 痛 徳 佛。如 来 硫 佛。 形 像 佛。如 是 他 所。飲菩提 心。人三聚 戒。不 住 社 相。誠三界心。不 居 寂 地。不 拾 昇 衆。人 不 調 地 不 可 思議。」
こ こに 見 える 「如 来 蔵佛」「 形 像佛」 が 三 階教 の 用語 であ るこ とは、
既 に矢吹慶 輝氏 が指 摘する 通りである が 、こ れに對 して、元 暁は 『金剛 三昧 経論』におい て次の ような註憚を 附している。
「答 中有 二。 先許 前問。 次 奪後問。 初中 言 鶏説戒 者 者。所 鴬 説戒之 人即是諸聾 聞 血。 侍 自持戒懐 諸破戒。故 言不 善慢 故。是 大未 得諸法 空 故。 隨 眠海中七 識浪 輯。故 言海波 浪故 。是 阜持戒 之人 過失。如 彼 心 地者。謂 菩薩心 指諸 法空入 大地故。 第八識 内二 執隨眠 分別起者 皆 已 威霊。故 言 八識海 徴。 徴者 澄也。無 分別智指 大 本畳 ,地 地増長 離 諸 雑染。故 言 九識流浄。 本是 正是 第九識故。心 無 分別非境 所動。 故 風 不 能動。 不 能動故 染七 不生。 故 言波 浪不 起。 是 大既 設一 切 法空。
(60)
七支戒 性達皆空 寂。 故言戒性 等空。而惶 聞人不達 法空。 執有 戒性情 自能 持。故 言持 者 迷倒。 是 答初 問。明 不 持戒 而非 過失。 如 彼已 下。
次答後 問。 以 明無慢。 七六 不生 者。末那 四惑不 現行 故。 見惑 種子已 断滅故。 諸集滅 定 者。 諸生 起識心心 所集。皆校 舎已人 理 定故 。不 離‑
四種 僧等。 無所 不敬。故 於沙 門不無 恭敬。以 依三 佛 而登心故。 抜僑 慢根無 明種故。 上来明其 離諸因患 。」
元 暁 は 、 こ こ で 「 普 敬 」 と い う 言 葉 で 「 如 束 蔵 佛 」 を 説 明 し て い る の で あ る が 、 周 知 の ご と く 、「 普 敬 」 こ そ は 、 三 階 教 の 最 も重 要 な 修 行 法 で あ る か ら 、 元 暁 は 明 らか に 三 階 教 に 闘 す る 知 識 を 持 っ て お り 、 そ れ に 基 づ い て 註 祥 を 施 し て い る こ と が 知 ら れ る の で あ る 。
一 方 、『 涅 槃 経 宗 要 』 で も 、 既 に 洪 在 成 氏 が 指 摘 し て い る よ う に 、r 涅 槃 経 』「 迦 葉菩 薩 品 第 十 二 」 の、
「 善男 子。 或 有 佛 性 一 間 提 有 善 根 大 無 。 或 有 佛 性 善根 人有 一│塙提 無。
或 有 佛 性 二 人 倶 有 。 或 有 佛 性 二 人倶 無。」
と い う 一一節 につ い て 、こ れ は 文 脈 か ら 見 て、「 法 身 泣 如 佛 」 で は な くて 「報 佛 」 を 問 題 に し た も の だ と 述 べ た 上 で 、 四 通 り の 解 祥 を 拳げ る 巾 の 第三 に お い て 、
「第三意者。埓四 種 意故 説四 句。第一句 者抑 引 意説。引 断 善根 者除 絶望心 政。抑 善根人 持善夢 悪故。第二句 者勧 請意説。既 除夢 悪勧修 衆善。挙手 低頭皆 成佛道故。既除 絶望心。識 離諸悪、悪貫 禍本 能障
佛 道 故。
第四 句者起 廣度 意。 雖有富 果而 無観提。 無観豊 者長 没苦 海故。此 四 意内所 詮義 者。 第一 句中約 邪 見説。 第 二句中約 信心 説。 第四同望賞 果指含 有義説貨rn有。節現 無義亦説 倶無 。三義如 是。]
−1 肘 −
(61)
と 「 普敬」に言及し てい る の で ある。
問 題 は、 元 暁 が 、どこか らこう し た 知 識を得 た か とい う 黙 で あ る。早 い 時 期の著 作に こ れが 見 え な い とすれば、 そ の 後 、何らかの契機 があっ て、三階 教 に 開 心を抱く に 至った と 考 え なくてはな らな い は ず で あ る。
そし て 、 そ の契機として 最 も可能性が 高 い のは、 義洲の賜 國 で あ る に 相 違 な い。
義湘 は 唐で智 傲(602‑668) に華 巌を學ん だ が 、 智 倣 が三階 教 を大 い に 評 價 してい たことが 木村清 孝氏に よっ て明ら か に さ れ てお り 、 また、義 洲 系 の著作 である とされる『華 巌従問答』にお い て も、三階 教 の 影 響 が 窺 え る こ と が 石 井 氏によって指 摘されて い る、
。こ
う したこと か ら 考 え れ ば、義湘 が三階教 に 関 し て 深 い 認 識を持 っ て い た こ とは ほとんど疑え ない よ うに 思われる。従って 、 恐らく 元 暁 は 、義湘 か ら 三階 教 に 闘す る 情 報 を 得た のであろ う。だ とすれ ば 、『金剛三昧経 論j や『涅 槃 紅 宗 要』 の 撰 述 は 、 義 湘 が 陛國した671年以降 と 見る べきで あ り、 石 井 氏 が 智 廠 の言葉 を 引 くことを指 摘 して い る「普 法 章」や『単眼 経 疏』などと と もに、 元 暁 晩 年の 著 作 と 見 倣 す こ と がで きる は ず であ る。宵際 の と ころ、元 暁 が『金剛三昧経』の存在 を知ったの は 、 そ れ ほ ど 早い 時 期 で はな かった よう であ る、とい う の は 、『菩薩 綴絡本業従』の 、
「 住 是 百 千 三 昧 中 。如 是 佛 行 故 。入 金剛 三 昧レ 一 相 対 相。寂 滅 無 雪 故O 名 無 垢 地 。」
という 一節 をよ 元暁は 、『菩薩 綴絡 本業 経疏 』で次 のよ うに 解し てい る からである。
「 住 是 以 下。正 拝 地 名。所言是 者。指 前 説 故。入 金 剛 三 昧 者。依 前 所 住 百 千三昧 乗。入 最 後 金 剛三昧丿 ヒ時 不 焉 諸 相 所 懐。故 言 一 柵 無 相。
亦 復 不 鴬 諸 垢 所 説。故 言 寂 滅 無 鳥。以 是 義 故。名 無 垢 地 。」
万金剛三昧」の 解説 で あ り な が ら 、『金 剛 三 昧 総』に は 全 く朧 れてい な い が、もし 、こ の 時 黙 で そ の 存 在 を 知って い れ ば 、 何 ら か の 形 で 言 及 し た のでは ない かと思わ れ る。『菩 薩 緩 絡 本 業 経 疏』は『起信 論 別記 』や『一
(62)
道 章 』 以 降 の 著 作 で あ る が 、 こ れ を 仮 に 『 成 唯 識 論 』 や 『大 般 若 経 』 を 知 る 以 前 の も の で あ る と す れ ば 、660 年 代 前 半 の 成 立 と 見 倣 す こ と が で き る 。 だ と す れ ば 、 元 暁 が 『 金 剛 三 昧 経 』 の 存 在 を 知 っ た の は 、660 年 代 の 半 ば 以 降 と 見 て よい の で は ない だ ろ う か 。
以 上 に よ り 、 筆 者 は 、 元 暁 が 『 金 剛 三 昧 経 』 の 存 在 を 知 っ た の を670 年 前 後 、『金 剛 三 昧 経 論 』 を 著 わし た の を675 年 前 後 と 推 測 す る 。 し て み れ ば 、『 金 剛 三 味 経 』 を 新 羅 に 将 束 し か 人 物 と し て は 、 先 ず 義 湘 を 考 え る べ きで あ る か も知 れ ない 。
し か し 、 い ず れ に せ よ 、 元 暁 が 『 金 剛 三 昧 経 論 』 や 『 涅 槃 経 宗 要 』 等 の 晩 年 の 著 作 に お い て 、(r大 般若経』 はともかく として )r成 唯 識 論 」 の 存 在 を 知 り つ つ も そ れ を 用 い な か っ た の で あ る と す れ ば 、 そ れ は 偶 然 な ど で は な く、 そ こ に 元 暁 の 意 圖 を 認 め る べ き な の で は あ る まい か。
むすび
以 上、 種 々の勁 から元暁の 著作の 成立時 期につい て 考えて きたが、従 来の研 究 に基づ きつ つも、 その問 題鮎を指 摘し、 また、多 少 なり とも新 たな知見を加 えるこ とが できたの ではない かと 考える。 最後 に、上に 論 じ た私見を元暁 の生涯 と重ね合 わせ た年譜 を提示 するこ とで、本拙稿 の
「むすび」 としたい。
139
(63)
西 暦
!年 齢
生 涯 著 作6171 押 梁 郡南 佛地 村 で藤 談 乃 末 の 子 と し て生 ま れる
630 頃・14 頃 出家
650 34 玄 奘 を 慕 って 義 湘 と と も に 人 唐 を 企 てる も 失敗
? ?
『 解 深 密 経 』『 喩 伽 論J 穎 揚 聖教 論』
『阿 毘 達 磨 雑 集 論 』『 廣 百 論』[佛 地 経 論 』な ど の 新 譚 経 論 を 人 手 す る
? ? r起信 論 別 記 』 を 著 わ す
? ?
この間 に『 一道 章』『 二障義』
『本 業 絲.疏且不 増 不 政繩疏』『初inm.
疏』[無量 壽経宗要』『中 逼 分別論疏』な ど を 著 わ す
? 7
太 宗( 武 烈 ̄に645 −661 在 位) の 命 に よ り 還 俗 し 、公 主 を 瓦に 迎 え る こ れ 以 降 、日 ヽ姓 居 十 」 と し て 民 衆 の 教 化 に も 力 を 人 れ る
661 45 義 湘 が 人 唐 を 米た す
? ?
? p r起 信 論 海 束 疏 』 を 著 わ す
? ? 『 成 唯 識 論 』『 人 般 若 紅 』 な ど の 新 騨 紅 論 を 人 下す る
こ れ以 降 に『大 慧 度 経 宗 安 』 を 著 わ す
671 55 義 湘 が 励 國 す る 『 判 比 量 論.l を 著 わ す
? ? 『 金 剛 モ味 経 』 を 人 于 す る
こ の 間 に『普法 章』『涅槃 経 京 要j『金 剛三昧 経 論』『希E倣 維 疏』
な ど を 著 わ す
? ? 子 の 川 咆が 生 まれ る 686 70 穴 寺 に お い て 入寂
780 ‑ 祚 聴 の 子 の 仲 業 、 使 抒と し て 来 日
(64 )
註
山 石 井 公 成「 新 羅佛教にお ける『大 乗起信 論』の 意義 一 元 暁 の解 鐸を巾 心 として」
(平 川彰編r如束 蔵 と 大乗起 信 論J春秋 社 、1990年)545 −579頁。なお、こ の 論 文 は 、 後に 同 氏 の『華厳思 想の研 究』( 存秋 社 、1996年 )に「元暁 の教學 」(第3 章 第二節)
とし て 収 め ら れ たの で、 以 ドに おい て は 、 このr 華 賑 思想の研 究』に よって 引 川 を 行 な う こ と とす る。
(2)a 下 に おける 元暁 の著 作の引用は 、 人 正 職巾に 存 す る も のはそれに依 櫨 し 、 それ以 外 は『川 川 佛敦全書』第一巻 所 収 の もの に 隷っだ。(3
) 前掲『華巌 思 想の研 究J196 頁。
副 同上、195−197 頁。な お 、『人慧皮経宗 要』に つ い ては 、 同書の294 貞 を參照 さ れたい。
(5) 同上 、197頁。
㈲ 同 十。。
巾 『州 鞘 ヒ生 経 宗 要』の文章は、 次の通 りであ る。
「倶 舎 論 云。長 極八萬。紅 至 回
「倶舎論説。如是此壽 長 遠 究 竟 極此八ト丁・歳。是時 諸人 安 坐 受 聖 無 所 馳 求。
壽八 十 千歳。住阿 僧 祇年。乃至 衆生来造│・悪。従 起 十 悪集道時 節。壽命 囚 此 十十 歳 滅。度一百年。即滅十歳。。乃至 廣 説。」(│HJ比、301中)
こ れ と全 く同じ 文 章は 員 諦汗 に も玄 奘 詳 に も存 在し ないので、取 意 と 考え ら れ る。屏諦 謬 で は、巻 第九の  ̄分 別 此間品之四」(大正 蔵29、218 中−225上 )、玄 奘 詳では、 巻 第十 この「分 別 世 ふll第三之 五 」(│nj上、62 上 −67上)に類似 し た内容 が説か れて い る。
㈲ それを掲 げれ ば 、 次 の如くである、
「又 婆 沙云。解 脱 分善有辿有近。近者 所 趾 前身 種。此 身 成 就 米 身 ㈲ 」臨 近 者 曾種逗那 由他受身。不 能 生 遠 分善。」(『韓 國佛教 全書 』1 、829 □
「 婆 沙 論中有三師 説。有 説 無 知。有 説 不 得。有 説於 定 不 得 自 在。」(同上、832
(二一中)
(9) 對 座 す る『阿 毘曇毘 婆 沙論』の一一節を 掲げ れ ば 、 以 下 のご とく で あ る。
「雖 多 布 施 終身持 成廣學 多聞。而不 能 種 解 脱 分善根。有 近有 遠。近膏 前 身巾種。
此身成熟 来 身 解 脱。遠 者 曾 種 解 脱 分善根。紅 那 由他 世受身。而 不 能 生達分 善根。」(大正蔵28 、25中)
「間 口。云 何得 霊 智 時 名 所 作 已 竟。答目。或 有 説。解 脱 障 是 下 無知。或 有 説。是 於 諸定 不 自 在。或 育 説。是 不得定 者。若作是 説。解 脱障足 下 無 組 者。
‑ 137
(65)
世 尊 得 霊智 時。断一切無 知。得 一切 彼對治 智。若 作是説。解 脱 障。是 於 諸 定不自 在 者。世尊 得霊智時。於mm 定 解脱三昧。出 入皆 得自在。若作是説。 解 脱障 是 不 得定 者。世 尊 得霊智時。得一切定。是故 得 霊智時。所 作 已竟。」(同 上、337上一巾・)
(10)『涅槃 経宗要』の文章は 次 の 通 りであ る。
「如 婆 娑云。或有 説 者。有 除 身涅槃 界 足 善 是 道果是 諦禍。無 節 身 涅 槃 界 是無 記非 道果 非諦禍。、」(大正 蔵38 、243下)
「若准 婆 沙 第 四十 巻。以音聾総数優 者 是佛 陀 提 婆義。以名 句味鳥教殼 者是和 須 蜜義。」(同 上、254下)
そし て 、これ に 對 吉する『阿 毘曇毘 婆 沙 論』の 文章は 次 の通りで あ る。
「復 有説イ'除 身 涅 槃 界有但。加除身 涅 槃 界 無 優。復有説有 除身涅 槃 界 址善。
無 除 身 涅 槃 界是無 記。復有 説有除 身 涅槃 界是 道 果。無 除身涅 槃界 非道 果。
復 有 説 有 除 身涅 槃界是諦 所 損。無 除身涅槃 界 非諦 所撮」(大 正 職28 、126 ヒ)
「問「レ[峠が 拒・義 諦。総"I町施段別匿 不。雑合耶。答目。可 得#‑ 軒 和 煩 蜜 説[]。 名是世諦。帽 折願義。是第 一義 諦。復 次隨 順 世 問 所 説^.。是世諦。随 順賢 聖 所 説 名。足 第 一義諦。尊者 佛 陀 提 婆説日、。若 説 衆 生如其 所 念相吃 之飛 地 名 世 諦。=若説縁起等法 如其 所 念相悠之言。地乍,第 一義 諦。」(IfTj上、298ト )
(川r 韓國佛教全 書J1 、791 巾。これ は、玄 奘 詳r 蝸 大 乗論本』巻 中 の「晰 知 意 識 見 能 遍 計」(大 正 蔵3i 、139巾)、あるい は 、玄 奘 謬 日長人 乗 論 祥』巻 第│JL│の 「意 識遍 計 者。副 即意 織。説 名 遍計」(人iiミ裁3i 、341ヒ) の引 用と 認め う る。
㈲ 『韓國佛数 全書j1 、792.し これ は、玄 奘 詳『損 人 乗 論 憚』巻 第二のト、レ1無 記拒、是不 可記 極 香 臭義」(大 正蔵3i 、329下 )の引 用であ る。(13)
『韓 國佛教 全 書j1 、796下。これ は、酉諦 詳『損 大乗 論 鐸J 巻第二の[若 無 片下 川 明。諸 行不生。片 行已生 無 修 道 無明。諸 行 不 熟 ](大正蔵31 、167 中一下)
の 引 用 で あ る。
㈲ 福士 慈 稔『新羅元暁研 究J (人東出版社、2004年)173 頁。ただし、福王氏は 、 既に 李平 束氏が「大乗 起 信 論 研 究(:: )一 新 羅 元 暁 の 大乗起 信論疏 を 中 心 とし
て」(「駒深 大學 大學院 佛 教 學 研 究会年報」14 、1980年)に お いて 、こ の黙を指 摘 してい る と す るが、そ の 論文 にはそ うし た記述 は見 え ない。
(15) 前掲『新 羅元 暁 研究.1172−173頁。(15)
『新 羅 元 暁 研 究』には、『阿 蝿 陀経 疏』にも『倶 舎論』の 引 用がある と説 く 箇 所 も見ら れる が(173 頁 )、これ は 何 かの 誤 りで あ ろ う。何とな れば汀阿 彊 陀経疏』
にはi 倶 合 論』の 引 用 は 見えない し、福士氏 自身 、『阿 爛 陀経疏』を「著 述 中期 」、
(66)
即 ち‑! 肌舎 箇』が 傅 わ る 前の著作と し ているか らであ る。
㈲ 『無量 壽紅宗要』に『成唯識 論j か ら の引 用があると い う 説 は 、章 輝 玉氏 の「 元 暁 の 傅 記− その 再 検 討」( 鎌田茂 雄博 士 還 暦 記 念 論 集 『巾 川 の 佛 教 と 社會』大 蔵出版、1988年)763 頁 、774 百に も見 るこ とがで きる。章氏 によ れ ば 、『無量 壽 経 宗 要 』では 「或石説 者」 として 引川されて い ると いうこと であ る が 、 そ う し た 事 宵 も確 認 できなかっ た。(18)
前 掲『新 羅元 暁研究』、173−174百、177−180頁。ただ し 、『中 迦 分 別 而 疏 』 につ い て は 、173頁 で はF 成唯 識 論』を引く とし てお きなが ら、178 −179頁 では 著 述 後川T に分類して お り、 叙 述 に 混 乱 が 見 ら れ る。(19)
そ れぞれの文章は 、次 のご と くであ る。
「倶舎論 中元出足二。tW界 品 云。有 諸師 執 佛正 放言音篤 性。於 彼 人 色 陰 獅。 石諸 師 執 文 句鶏性。於 彼師入行 陰撮。有 人説言。肌 舎 論中 有三師 説。第三 師義通 取行 啓 名句鴬 首。如法 界 品 下 文 説言。」(『涅 槃纒宗 要』、 大 正 蔵38 、254
下)
ト・者。如倶 舎 論述除 義 云。有除師 説。不 破 次 第。於 見 道 巾。俯 習 見 分。於 見 道脩道 中。脩聖道 分故」(『中漫 分別論疏』、『韓國佛教 全 書』1 、820 中)
(20) そ れらに對 心 す る 艮 諦 詳『阿 毘達磨倶 舎 謬 論』の 文 章を 掲 げ れ ば、 以 下 の 通 りであ る。
「石 講師執佛正 教言">''"‑焉性。於 彼 師 大 色陰価。復 有諸師 執文句寫性。於 彼 師 人 行 陰 掃。」(:大正 職29 、166中)
「 於 見道 中 修豊 分。於 見 修道中 修聖道 分。」(同十‑.、284 中 )(21) そ れぞれの 文章は 、 次の如くである。
「 唯識 論云。業魚 習 識内。執 果 生於 外。何因 薫習 處ノ於 中 不 説 米。」(『無量 壽紅 宗 要』、大 正 蔵37、127上 )
「如唯 識 論云。由 仙 人 我眼心故。」(r梵 綱紅 菩 薩戒 本 私 記』、『韓 國 佛 教全 書』1、595 下 )
(22) それ ら に 對 当する億 諦 謬[大 乗唯 談 論]の文章を 掲げ れ ば 、以 下の通 り で ある。
「業 風習 識 内。執 呆 生於外。何 囚皿習 處。於中 不 説 果。」(大 正 蔵31 、74 )こ)
「由 仙 人肌心故。」(同上、73 中)(23)
梯 伴 暁「元 暁の 浄 十 敦 思 想 につ い て ー 『雨谷無量 壽経 宗要 』を 中 心 と し て 且三 崎良 周編川 本・中 國 佛 放 思 想 と その 展開j〈山 喜房佛書林、1992年〉所 収)186頁。(24)
常 時 、 玄 奘のmm には、圓 測 、智 仁(智 忍)、 神 防 ら の 新 羅 僧が い た (こ れ に ついて は 、前 掲の 章輝子 「元暁 の傅記− その再 検 討」765−766百 を 參照)。従 っ
−135 −
(67)
て 、そ うし た 人 脈 に よって √玄奘 の 新謬は 、翻 謬 後 、そ れ ほ ど の 時 間を 措 か ず に 、 新 釈 に 貴 さ れ た ので は ない か と推 測 さ れる。(25
) 従っ て 、654 年 翻 騨 の『倶 舎 論』を 元暁 がr 金 剛三昧 経 論』な ど で 用 い て い な い の は、 常 時 、 ま だ傅 わっ て い な かったの で は な くて 、 新 謬 を 用い る 必 要 を 感じ な かっ た た め で あ ろ う。こ の 黙 は 、『川 人 乗 論』や『蝸 大 東 冷 科 』 に つ い て も同 様 であ る。(26
) 大正 蔵9 、370 中一下。i27
) 矢 吹 慶 輝 『三階 教 之 研 究』(岩 波書店、1927 年)395 −427 頁。ま た 、 前 掲 目i^
瞰‑'S想 の 研究 』370 頁、382 −383頁 も參 照。(28
) 大正 蔵34、989 中 一下。
四 洪 在 成 「三階 教 の 影 響 一 元 暁 と 行 基 を 考 え る」(「印 度學 怖 教 學 研 究」50 −2、2002 年)815 頁。(30)
大 正 蔵12、574 ド。(31
) 大正 蔵38、252 し(32
) 木 村 清 孝 「 智 倣 ■i去職 と 三 階 教」(「印 度 學 佛 教 學 研 究 」27 −1、1978 年)100
−104 頁。
(33) 前 掲『華 厳 思 想 の 研 究J281 −285頁。
㈲ 同 上 、197 頁、216 頁 の 註(46)。(35
) 『三 國 遺 事 』 の「 元 暁 不覇」の 條 に「曾住 莽皇 寺。纂草 脱 疏。至 第叫i‑廻 向 品 。 終 乃 絶 筆」( 大正 蔵49、1006 中)とあ る 記述 を もと に 、『=帽 辰経 疏 』 を 元 暖sの 最 後 の 著 述 と する 見 解が 多 く 見受 け ら れ る。例 えば 、 本卦 信 雄「新 羅元 暁 の傅 記 につ い て」(「 大 谷學 樅」41 −1、1961年)51 頁、 鎌 田 茂 雄「新 羅 仏教 史 序説」( 入 試山│
版 、1988 年)427 頁、 前 掲『華 巌 思 想 の 研 究J294 頁 、 前 掲『新 羅元 暁 研 究 』178 頁 など が そ れ で あ る、し か し、 こ れ は 訂 し く な い。何 と な れ ば 、 こ の 記 述 を そ の まま 史 官 と 考 え る と 、『華 巌 経s.、いよ、『華 巌 経』巻:T士 二の [ 金 剛 忖 具薩 十 割 向 品 ] の 末 尾 まで 註 科 し か と こ ろ で 未完 に 終 っ た とい う こ と に な ら ざ る を 得 な い が 、賞 際 に は、 正 倉 院 文 書 等に よって 、 奈良 時 代 に 八 谷 本 ( 或い は 、 十 谷 本 ) の 完 本 が ロ 本 に 防 わってい た こ と が 知 ら れ に れ につ い て は 、 石田 茂 作氏 の「奈 良 司 現 在 一 切 経 疏 目 録」く『寫 経 よ り 見 た る 奈 良 朝 佛 教 の 研 究 』[束 洋 文 川≒ ]930 年リ 肘録〉95 頁 、 前 掲『新 羅 元暁 研 究J139 頁 な ど を參 照 )、 ま た、 義 天 (1055−HOD
の『新編 諦宗 教 蔵總 録』巻一一に、
( 疏 十 巻 超 げ ぶ 傀 詐 元 暁 述レレ人 正 蔵55 パ166 巾)
と あ る こ と か ら 、 巻五 を 分 巻 する と と も に「宗 要」を 別 出さ せ て 十 巻 本 に改 めた
(68)
形 で、11世紀ご ろ まで 流 布 し て い たこと が 知 ら れ る の で あ る。
そこ で 、今一度 、『三 國遺事』の文章を涼み 直 してみ る と、 こ の「曾住芥皇 寺。
纂華巌疏。至第 四 十 廻 向 品。終 乃 絶 筆」と い う 文 章 に 績 い て、「又嘗因訟。分 躯 於百松。故皆謂 位 階 初地矣」と 記 さ れ て い る こ とに気 づか さ れ る。修 行 の 階 位 にお いて は、トト廻 向」の 次 が 「初 地 」 で あ り、『華巌経』でも 「十 廻 向 岫」の 次 が[十 地 品]と なっている ことを考え合わせれば、この 文章は、元 暁自身、既 に 経 験 済 み である「十 廻[剛 につ いて 述 べ る こ と には何 ら 問 題 を感じ な かったが 、 い まだ白 らが至ってい ない「十地」につ いては 、 そ の 説明を躊 躇 したとい う意味
と 解す べ きであ る。恐 ら く 、 これ は、元 暁 が 初 地 に 至って いた とする傅承ができ た 後 に、それを澄明 す る 逸 話 として 創 作 さ れ た もの で あ ろ う。今 のとこ ろ、『華 厳経疏』が元暁 最後 の 著 作 で あった可 能 性 を排 除することはでき な い。しか し、
元 暁の超 越 性 を テ ーマ と する 説 話を 根姉と し て 、r華 厳 紅疏』の述 作の時 期 を定 めよう と する の は 危瞼であ る。
なお 、バ ズウェル氏 は、 上 に掲 げ た 諸氏 とは 異 な りよ 元暁は 、一一時 川 、民 衆教 化の ために學 問 生活 をいった ん 放 東 し た の だ と し 、そ の心前まで書いていたのが
『華 厳経疏』であ るとす る(RobertE.Biiswell,Jr.TheFormationofCh'mtIdeologyinChinaandKorea:The/ai
・rasamadhi‑S奴tra,aBuddhistApocryphon,Princeton,PrincetonUniversityPress,1989,p.64,np.68‑69)
。この よ う に 考 えれば、 晩 年に なっ て學 問生 活 に 復蹄し た後 に 未完であ っ た「華厳 経 疏」を完 成 さ せ た の だ と 説明で き な くもない が 、居 士として の民 衆教 化 と著述 活 動 とは 両立jl」能 なもの で あっ て 、元暁 の 人生に おい て 、こ の二つ を劃然 と区 別し な く ては ならない 川 山 は ど こ に も ない は ずであ る。;36
)大 正 蔵24 、1018 中。
(37)『韓 國 佛敦 全 書』1 、508 上。
擲 た だ 、『菩薩 経絡 本 業 経J に は、もう‥・箇 所、 こ れ より前 に「金 剛三昧」に言 及す る 箇 所(1012 下)があり、そ の 部分は 、今日では失 わ れてし まった『菩 薩経 絡 本業脛 疏』の 上巻 で 註 鐸 さ れて い た は ず であ るか ら 、そこで『金 剛二味 紅』に 言及し て い た 可 能性が な い わけ で は ない。(39)
元 暁 の 傅 記 を 明 ら か に し ようとする試みは、前 掲 の「新 羅元暁 の傅 記に ついて 」46
−49頁 や「元暁 の 傅 記 − その 再検 討」752−758 頁、バ ズウ ェル氏 前 掲 書 の41
−73頁、韓 普光『新 羅 浄土思 想の研 究J(東 方 出 版,1991 年)75 −95頁 など に 見 ること が できる。元 暁 の 生涯 に つ いて は 、 これら を參照 して正しい と 思 わ れるも の を 採 川 し た。 た だ 、 子 の 蔀 聴 が 生 まれ た 時 間については 、 従 来 の 説 と は 見解 を
−133 −
(69)
毀 にするので、こ こ で 、それ について 論じておく ことと し たい。 一般には、『三囚 遺 事』の、
「師嘗一川 瓜顛唱街 云。誰 許没 何斧。我ffr気 天 柱。人 皆 未喩。時 太 京 闘之ト│。
此 師 殆欲 得 貴婦産賢 子 之謂爾。國有大賢。利莫人焉。時 瑶石窟ヅ 抑砲是咀 有 寡 公主。勅官吏 覚 暁 引 人。宮 吏 本 勅 将 求 之。已 自南 山東 過 蚊 川 橋 洲│一,fffi,‑年 川 又蚊川ヽ又慎'Y.楡慎也遇 之。洋堕水 中滉 衣 袴。吏引 師 於 宮。椴衣 畷So 囚留 宿焉o 公主 果 有 娠。生前聴。哨 生 而 容 赦。博迦杯史。新 羅十賢巾一也。以 方片通會華 夷 方 俗 物t,。訓 解 六経文學。令今 海 軍業明経 者。帖 受 不 絶。](人 正 職49 、1006上 一中)
とい う 記 述 に基づいて、太宗(武烈 十)の時代(645−661) に元暁 が 公 土と 結 婚 した後、しば ら く して前哨 が誕生 し た と 見 てい るよう である (例えば 、 前掲「新 維 元 暁の傅記 に つ い て」50頁で は 、 こ れ を667年頃とし 、 バ ズ ウェル氏 の前 掲 占 の64 頁では662年 頃 としてい る)。し か し、こ れは 無 理 な 想定の よ うに 思 われる。
何と な れ ば、蔀聴の子の・前仲 業は、780年 に 日 本に使 者 と して 東てい る が 、 そ の 時 の 年 齢 を 瑕 に5o 歳 前 後と似定 す る と、そ の 誕生 は730年前後となり、その時 の 、 父 、陣ISの 年 齢 を50歳と しても 、陣聴 が 生まれ たの は680年前 後 というこ と に なっ てしまう。この 計算か らす ると 、前聴の出 生の時期 を670年以 前 に 置 く こ と はか な り 難 し く なる。
還 俗を命じられ たのは 、 ま だ元暁 が 若 か っ たため であろ うし 、661年に義湘が 人 唐 し た 折 り に 元 暁 が新 羅 に 止 まったのは 、 既 に 還 俗 し てい たこと が 川 囚と思 われ る か ら、還 俗 を 命 じた囚王 が 太 宗 であっ たこ とは信じて よいと思わ れる。だ とす れば、 公上と 結 婚 し た 後 も、/‑供(あ るい は男の子)は な か なかできな かっ たと 考え ざるを 得 な い よ うである、