• 検索結果がありません。

大正期親鸞文学における「人間親鸞」像の変容

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2022

シェア "大正期親鸞文学における「人間親鸞」像の変容"

Copied!
29
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

序     親鸞没後の三十三回忌を契機とし、本願寺第三世覚如

(一二七〇〜一三五一)によって『親鸞伝絵』(以下『伝絵』)が制作された。親鸞を賛仰することを目的にその行状を記したこの『伝絵』が基礎となり、真宗教団内における親鸞聖人像を定着させてきたのである。

  一方、時代ははるかに下るが、教団外における親鸞イ メージを創出した重要な作品が、倉田百三(一八九一〜一

九四三)による『出家とその弟子』(一九一七年刊行)である。末木文美士(二〇〇九a:一一九)も指摘しているように、本作品は真宗における宗祖としての親鸞聖人ではなく、親しみやすい「人間親鸞」のイメージを定着させてきた。また福島和人(一九七三:二二三)は、「太平洋戦争後に大きく修正されるまで、学生、知識人の親鸞像は本書の影響にあったといって過言ではない」と断言しており、『出家とその弟子』は近代的な親鸞像の形成においても欠かす事 1

《研究論文》

大正期親鸞文学における「人間親鸞」像の変容

──倉田百三から石丸梧平へ──

親鸞仏教センター嘱託研究員

          

(2)

のできない作品である。

  文芸界においても本書は、「親鸞文学の盛行の源流」(辻 橋三郎 一九七三:一八九)となり、大正後半期の数年間に親鸞を扱った文芸作品(「親鸞文学」)が立て続けに発表される。それら親鸞文学の多くは、一九二二年から二三年

(大正十一年〜十二年)に集中して登場し、「親鸞ブーム」

(鈴木範久 一九七三:五五三)と呼ばれる現象となったのである。

  その「『親鸞』に明け暮れの数年間」(福島 一九七三:二 二一)の最初期に登場し、ベストセラーとなったのが石丸梧平(一八八六〜一九六九)の親鸞文学である。石丸による『人間親鸞』と『受難の親鸞』(共に一九二二年刊行)は、東西の朝日新聞への連載を経て出版され、石丸はこの「親鸞ものによって一躍流行作家に伍した」(瀬沼茂樹 一九六

五:一四一)のであった。

  しかしながら、石丸を含め大正期における親鸞文学の流行とその作品群は、現在ほとんど知られておらず、近年では千葉幸一郎(二〇一一)がその流行の背景及び作品の著者について触れたものの、ここにおいても、それらの作品 においていかなる親鸞像が提示されたのかについては詳しく論じられていない。倉田を先駆とした親鸞文学の流行を取り扱うならば、そこで提示された親鸞像がいかなるものであり、またそれが倉田のそれとどのように異なっているのかをまず明らかにする必要があるだろう。  本稿で注目する石丸の親鸞文学は、この親鸞ブームにおいて最も早く登場した作品の一つであり、言い換えれば、倉田が描き出した親鸞像に対してさらに新しい親鸞像を真っ先に提示したのが石丸であるということでもある。特に石丸の作品は、新聞・雑誌などのメディアが大規模化する大正期後半期に新聞小説として発表されており、真宗教団外の不特定多数の読者に読まれた親鸞像という点においても注目に値する。  石丸の描いた親鸞像は、倉田が描いたものとどのように異なるのか、そして親鸞を描き、語るメディアがマス・メディアへと移行したことで、親鸞像はいかなる変貌を遂げたのか。本稿では、石丸による親鸞文学の代表作である『人間親鸞』および『受難の親鸞』に注目することで以上の点を明らかにする。 2

3

(3)

一.倉田百三による    「人間親鸞」イメージの創出   一―一.『出家とその弟子』の概要   まず、倉田百三による『出家とその弟子』の概要とその主題を確かめる。

  一九一七年に刊行された本作品は、序幕と六幕十三場から構成される戯曲である。この物語は、親鸞とその弟子・唯円を主な登場人物として展開され、親鸞の入滅までが描かれている。親鸞が登場するのは第一幕からで、序幕では「顔蔽ひせる者」と「人間」との問答がなされる。ここでは「人間」が死の運命に直面し苦悩するが、その中でも生きることを「善いもの」として肯定していくというやりとりが展開され、生の問題に焦点が当てられている。

  幕が開き、第一幕に常陸国を旅する親鸞一行が登場する。親鸞一行は狩猟を生業とする日野左衛門へ一夜の宿を乞うが冷たく断られ、雪の降るなか戸外で石を枕にして寝る。一方左衛門は夜半悪夢に苦しみ目覚めてしまう。親鸞一行 への対応を後悔した左衛門は、思い直して一行を家に迎え入れ、親鸞は、自らを悪人として絶望する左衛門に対して仏の愛を説いていくのである。  続く第二幕はその十五年後、舞台は西の洞院御坊、親鸞は七十五歳となり、一幕で登場した左衛門の子は唯円と名乗り、親鸞の弟子となっている。この場面では師弟の会話が展開され、その中で唯円は人生の寂しさと恋の苦しさを訴えるのである。それに対して親鸞は、「私の淋しさはもう何物でも癒されない淋しさだ」(倉田[一九一七]一九九

四:七六〜七七)と告白し、「恋は信心に入る通路だよ」(倉

田[一九一七]一九九四:七九)と説く。この第二幕は、倉田によって創作された、恋の体験や淋しさを訴える親鸞が注目される場面である。

  第三幕では、不義の恋によって身を落とした親鸞の子・善鸞が中心となる。憤りと諦めのなかで悶々とし、放蕩生活に走る善鸞は、親鸞に会いたいのだが親鸞はそれを許さない。ここには、義絶された子・善鸞と父・親鸞それぞれの葛藤が描かれている。

  次いで第四幕と第五幕では、唯円の恋愛をめぐる問題を 4

(4)

中心に物語が展開されていく。唯円は遊女かへでに恋をし、二人は互いにひたすら相手を思い慕う無垢な恋に身を焦がすのである。

  そして第五幕においてその逢い引きが発覚し、僧たちは唯円の恋を非難する。それに対し親鸞は、僧たちに赦し合うことを説き、唯円には、「仏様み心ならば二人を結び給へ」(倉田[一九一七]一九九四:二一八)と祈るよう説く。

  最後の第六幕は、そこからさらに十五年後の親鸞入滅の場面である。死を目前にした親鸞は、生への執着に迷いながら葛藤し、最終的にはそれに打ち克つ。そして駆けつけた善鸞へ阿弥陀仏の赦しを説きつつ息を引き取るのである。

  以上のように、本書は若い唯円と師である親鸞を主な主人公として構成され、末木(二〇〇九a)や子安宣邦(二〇

一四:一五四)も指摘しているように、特に第二幕から第五幕で展開される恋愛の問題が本書の中心となっている。

  青年・唯円の人生や恋の悩みに対して、老師・親鸞は真の恋とは何かを次のように語る。

  聖なる恋は恋人を隣人として愛せねばならない。慈 悲で憐れまねばならない。仏様が衆生を見給うような眼で恋人に対せねばならない。自分のものと思わずに、一人の仏の子として、赤の他人として──

(倉田[一九一七]一九九四:二二二)

  末木(二〇〇九a:一二〇)も注目しているように、ここでは唯円の恋が隣人愛へと転換されている。この作品において恋愛は、「個別的な恋愛を超え『恋』を否定した隣人愛へと向」(末木二〇〇九b:六四〜六五)い、普遍的・宗教的な愛が理想とされるのである。親鸞は、「恋人を愛するが故に他人を損うようにならないことだ。恋の中にはこの我儘がある」(倉田[一九一七]一九九四:二一九)と唯円に諭し、唯円と恋をした遊女・かへでも、出家して彼と共に親鸞に仕えることとなる。このように恋という個人的なものを宗教的な愛へと昇華させる点は本書の大きな特徴であると言えよう。

(5)

  一―二.『出家とその弟子』における       新しい親鸞像   『出

家とその弟子』では、愛や償い、赦し、念仏、祈り、調和した世界といった言葉が雑多に使用され、真宗の教義の枠には収まらない世界観において親鸞が表現されている。

  唯円に対して発せられる次の親鸞の言葉には、本作品独自の世界観が如実に表れている。

  法蔵比丘の超世の祈りは地獄に審判されてゐた人間の運命を、極楽に決定せられた運命に変へたではないか。「仏様み心ならば二人を結び給へ」との祈りが仏の耳に入り、心を動かせばお前達の運命になるのだ。

(倉田[一九一七]一九九四:二一八)

  福島は、ここで描かれる親鸞を、「黒衣の上に十字架を下げ、善意の祈りをささげる念仏者親鸞」(一九七三:二五

四)と評した。この指摘のように、本作では真宗僧侶のイ メージと西洋近代のキリスト教的なイメージとが重なり合った親鸞像が描かれているのである。  鈴木範久(一九七〇:九二)によれば、倉田百三は本作品を執筆する以前の一灯園入園前に大須賀秀道の『歎異抄真髄』を何度も読んでいたとされ、一灯園にいる間にも暁烏敏(一九七七〜一九五四)の『歎異抄講話』を妹から借り受けている。しかし、本作については倉田自身も、「あの作は眞宗の或は一般に宗教の教義を説明する為に書いたのではない」(倉田[一九二一]一九九四:二二九)と述べており、また、「この作品における宗教的世界観は、倉田の作る世界であって、『歎異抄』の絶対他力的な信仰世界でないことははっきりしている」と子安(二〇一四)が結論づけているように、本作で説かれる思想は『歎異抄』とは大きく異なっている。  この点は、本作品中に『聖書』の言葉が多く引かれていることからも明らかである。例えば序幕で登場する「顔蔽ひせる者」は、『旧約聖書』の「神は背く者に向かって顔を隠す」(申命記三二・二十)に拠った表現と思われ、朝下桂宇(一九五二:三十)も、序幕とヨハネ黙示録との関連性 5

(6)

を指摘している。その他、「滅びの子」(倉田[一九一七]一

九九四:一〇九)や「仏さまのみゆるしなくば」(倉田[一九

一七]一九九四:二一七)などは『新約聖書』の言葉を用いていることが鈴木(二〇〇三)によっても指摘されている。その中でも特に臨終における親鸞の言葉には、『新約聖書』からの引用が多く確認でき、親鸞の台詞、「隣人を愛せよ」、「旅人を懇ろにせよ」(倉田[一九一七]一九九四:二五

三)は、『新約聖書』の「マタイによる福音書」(十九・十

九)および「ロマによる福音書」(十二・十三)の言葉と酷似しており、その他の箇所にも福音書に登場する表現が見られる。特に物語のクライマックスである親鸞臨終の場面に福音書の言葉を多く引用している点からは、倉田がキリスト教を強く意識していたことがうかがわれる。

  史実や真宗の思想とかけ離れた親鸞を描いた本書は、発表当初より高楠順次郎(一九二二)や梅原真隆(一九一八)、松原至文(一九二二)などによって批判を受けた。それらの議論の根本となっていたのは、ここで描かれた親鸞像が、倉田のあまりに自由な創作によって表現されたものであるという点であった。福島(一九七三:二六二)、が指摘して いるように、大正期の個人主義的、自由主義的、人間主義的な傾向が強まる中で、真宗教団内においても親鸞は、宗祖としての崇高さを保ちつつも人間的で親愛感を持つ人物として描かれはじめる。その中では、「黒衣をまとい、群萌と共に凡夫生活をする御同朋同行の本願の生活者」(福

島 一九七三:二六二)が親鸞の理想的イメージとされたが、倉田の親鸞像は、それからも逸脱したものであった。

  序幕で主題となっている生存の問題を福島(一九七三:

二三七)は、倉田の一高在学当時に政治家を志した時の精神であり、モチーフとなっている男女を倉田の恋の経験、子どもへの望みを、わが子への愛着であると指摘しており、倉田自身も本書の執筆について次のように述べている。

  其時私の心は切實な青年期の悩みの終り頃、殊に二人の姉の相ついだあまりに早き死の直ぐ後、一燈園から帰つたばかりの、人生の悲哀と無常の心持に満ちて居る時に書いたものである。

(倉田[一九二一]一九九四:二二九) 6

6

7 8

9

(7)

  のちに倉田は、「私の青春の悩みと宗教的情操とが一ぱいあの中に盛られている」([一九五三]一九六七:一〇二)とも述べており、『出家とその弟子』は、「人生の悲哀と無常の心持に満ちて居」た、若き倉田自身の個人的問題や苦悩が投影されたものであると考えられるのである。

  また「淋しい」と告白し、恋の経験を語る親鸞は、それまで『伝絵』で語られてきた親鸞とはあまりに異なる「人間臭い親鸞」(末木 二〇〇九a:一一九)である。本書における親鸞は、「恋の苦しさも悲しさもわかる 000老師」(福島

一九七三:二四七)であり、その人間性が表現されている。末木(二〇〇九a:一一九)が言及しているように、当時は真宗教団内においても近代的な視点から親鸞における罪や悪の自覚が注目されるようになっていたが、本書のように迷い、淋しさを訴え、恋の経験を語る親鸞像は、そうした解釈とも異なったものである。

  本書で描かれた親鸞について倉田は、次のように述べている。

  此作は厳密に親鸞聖人の史實に拠つたものではない。 …(中略)…私の書いた親鸞はどこまでも私の親鸞である。私の心に触れ、私の内生命を動かし、私の霊の中に座を占めた限りの親鸞である。随つて此作に表はれた私の思想も無論純粋に浄土眞宗のものではない。

(倉田[一九二一]一九九四:二二八)

  この言葉から分かるように、倉田は宗祖としての親鸞聖人ではなく、あくまで文芸作品として親鸞を取りあげ、そこへ自己の思い描く独自の「『人間親鸞』のイメージ」(末 木 二〇〇九a:一一九)を創り上げたのであった。

  一―三.倉田百三による親鸞像の射程   『出

家とその弟子』は、一九一六(大正五)年十一月から六月まで同人雑誌『生命の川』に第四幕第一場までが連載され、翌一九一七(大正六)年に単行本として岩波書店より刊行された。本書は、刊行されるやたちまちベストセラーとなって大正年間に百数十版を重ね、「岩波の出版物として長くドル箱になった」(瀬沼 一九六五:一三〇)。 10

11

12

13

(8)

  一九二二(大正十一)年に東京市社会局の行った「職業婦人に関する調査」(近現代資料刊行会編[一九九五]二〇〇

四:一五一)においても本書は、愛読書の第一位に選ばれており、同じ年に職業婦人と女学生を対象として行なわれた『女学世界』誌上の「私の愛読書」調査(一九二二:一

〇〇)でも、十四人中九人が倉田百三の著作を挙げている。また一九四三(昭和十八)年に行なわれた旧制第一高等学校の調査(一高自治寮立寮百年委員会編 一九九四:三四三)においても、学生たちが愛読した書物の第一位が倉田の『愛と認識との出発』、第二位が阿部次郎の『倫理学の根本問題』、そして第三位が『出家とその弟子』であり、倉田の作品が長らく青年達に読まれたという点も見逃せない。

  倉田は、一九二一年に刊行された『愛と認識との出発』において、青年期の「ゆれ動く自我の思考と心情をなまの形で告白し」(小田切秀雄 一九六四:四二)ているが、『出家とその弟子』も、「切実な青春期の悩み」(倉田[一九二

一]一九九四:二二九)を背景に、恋愛をその中心的な問題として扱っている。本書が「大正期が生んだ典型的な青春の文学」(亀井勝一郎:[一九四九]二〇〇五:二七九)として 広く読まれたのも、作品に反映された倉田の心情が青年たちの共感を呼んだからに他ならない。  また、本書が新たな親鸞像をここまで広められたのは、その作品形態も大きな要因であろう。本作は、『伝絵』や『正統伝』に代表されるような親鸞伝でも親鸞の研究書でもなく、作者による創作が可能な文芸作品である。さらに倉田自身は、真宗門徒の家に生まれてはいるが、教団における指導者的立場であったわけではなく、「親鸞からも、真宗思想からも自由な一知識人に過ぎなかった」(福島 一

九七三:二五五)。そのため倉田によって提示された新しい親鸞像は、批判はされても排斥されるまでには至っておらず、倉田自身が思い描く親鸞像を提供しえたのである。

  こうして『出家とその弟子』は、「親鸞を素材にした作品としては初めて近代文学史上に一つの位置を占め」(福 島 一九七三:二五〇)、大正期の大ベスト・セラーとして、後の宗教文学の流行を誘発した。瀬沼(一九六五:一四一)が、「この時代の宗教文学を特色づけるものは、『出家とその弟子』の傾向をひいて、親鸞文学の流行である」と結論づけているように、本作品は文芸界における「親鸞ブーム 14

15

16

(9)

を招く因」(一九七三:五五三)となり、一九二二年から二三年(大正十一年〜十二年)にかけて親鸞を扱った文芸作品が立て続けに発表された。

  本稿で注目する石丸梧平の親鸞文学は、その「親鸞大流行」(福島 一九七三:二五七)と呼ばれる数年間において生み出された作品である。倉田によって提示された新しい親鸞像が、石丸の親鸞文学ではいかなる変貌を遂げたのか。こうした点を主眼とし、次からは石丸の作品における親鸞の表象およびその位置づけを考察する。

二.石丸梧平の親鸞文学とその位置づけ

  二―一.石丸梧平の位置づけ   石丸梧平(梅外)(一八八六〜一九六九)は、大阪府豊中に生まれた評論家、小説家である。早稲田大学卒業後は大阪府今宮中学の教師となり、家庭雑誌『団欒』を主宰した。

  その後一九一七(大正六)年に小説家を志して再び上京。大阪船場の少年を主人公にその放蕩生活の結末を描いた処女作『船場のぼんち』(一九一九)を自費出版し、これが中 央公論編集長・滝田樗陰(一八八二〜一九二五)に認められたことから小説家として文壇に第一歩を踏み出した。  つづいて「東京朝日新聞」に『山を降りた親鸞』、「大阪朝日新聞」に『吉水の崩壊』を連載。それらがそれぞれ『人間親鸞』(一九二二)、『受難の親鸞』(一九二二)として世に出ると、当時のベストセラーとなった。倉田百三の作品でふれた一九二二(大正十一)年の「職業婦人に関する調査」([一九九五]二〇〇四:一五一)においてもこの二作が愛読書の上位に挙げられており、特に『人間親鸞』は、「爆発的なベストセラーとなり、当時としては最高の四〇万部を突破した」(石丸元康 二〇〇四:三三)という。

  このように、「親鸞ものによって一躍流行作家に伍した」(瀬沼 一九六五:一四一)石丸だが、彼の文筆活動はその後、主に個人雑誌へと移行する。

  その理由を石丸は、次のように述べている。

  当時の世相は、経済的にも社会的にも、極めて暗く、青年達は、わが身一つの置き所もなく悩んでいたので、親鸞を書いたわたしを、何か、偉い宗教家とでも勘違 17

(10)

いしたのか、私信を寄せてその苦悩を訴え、解決を望むのであった。小説を書くどころか私は、そのような私信に返事を書くことに忙殺された。わたしはとうとう小説家たることをやめて「個人雑誌」を出したのである。

(石丸[早稲田文学「道」Ⅶ]=石丸元康二〇〇四:三〜四)   このような事情で創刊された個人雑誌が『人生創造』であり、その「創刊号一万部は忽ち売り切れて、二万部、三万部と上昇して行った」(石丸[早稲田文学「道」Ⅶ]=石丸

元康二〇〇四:四)。この雑誌は四十七年間発行され続け、石丸はそこで「彼一流のヒューマニズムに立つ人生論文学論を展開」(川合道雄 一九七七:一一六)していったのであった。

  明治以降における親鸞文学年表の作成を試みた土井順一ら(一九九八:六十)の共同研究によれば、倉田の『出家とその弟子』の次に親鸞を扱った文芸作品は石丸が最初である。また、親鸞文学が流行した一九二二年からの数年間において、親鸞の名を冠した主要な小説・戯曲として土屋詮 教(一九二五:六九四)が挙げたものの中でも、石丸による『人間親鸞』(一九二二、一月)が最も早い時期に発表された作品とされている。  一九一七年に発表された倉田の『出家とその弟子』によって起こった「親鸞ブーム」(鈴木一九七三:五五三)において石丸の作品は嚆矢であったと言える。言い換えれば、倉田が描いた親鸞像に対してさらに新しい親鸞像を真っ先に提示したのが石丸であったということでもある。

  二―二.新聞小説としての親鸞文学   石丸梧平の親鸞文学は、大新聞へ連載された新聞小説である。倉田百三の『出家とその弟子』の支持層として福島は、「都市を中心とする青年、学生、知識人、インテリ僧」(一九七三:二五五)を挙げているが、石丸の作品は大新聞を媒体としてより広範囲な読者層へ発信されたという点で倉田と大きく異なっている。

  一九二二(大正十一)年一月刊行の『人間親鸞』は、第一篇の「戀の歌」が雑誌『大観』に掲載され、後半の二篇 18

19

(11)

が『東京朝日新聞』の夕刊に一九二〇(大正十)年十一月二六日から翌年一月九日までの三六回連載されている。本作品の後半、第三篇の後半から第四篇は、「山を下りた親鸞」として連載されていたものに「百五十枚ばかり」(一

九二二:二)を新たに書き加えて完成した単行本である。

  一方、一九二二(大正十一)年六月に刊行された『受難の親鸞』は、第二篇の「親鸞の結婚」が雑誌『表現』に掲載され、第三篇の「信の世界」が『報知新聞』に、第四篇の「吉水の崩壊」と第五篇の「受難」とが『大阪朝日新聞』に連載されたものが単行本として発行された。『報知新聞』夕刊に連載された第三篇「信の世界」は、「叡山と鹿谷」と題して一九二二(大正十一)年四月二十日から六月十日まで連載され、第四篇と第五篇は『大阪朝日新聞』夕刊に「吉水の崩壊」として同年五月二一日から六月三十日まで連載されており、『人間親鸞』と『受難の親鸞』はどちらも、日刊紙への連載を経て発行されたものである。

  新聞を代表とするマス・メディアの発達と大衆文学との関係を論じた浅井清(一九九〇:五九二)が指摘しているように、新聞や雑誌の多様化と発行部数の激増を背景に、大 正期においてはじめて文化の大衆化現象が生じた。第一次大戦を境に新聞各紙は増資による大型化を図り、一方では雑誌の創刊という多様化が起こったのである。朝日新聞の資料(朝日新聞百年史編修委員会編一九九五:一四、三二〇)によれば、『東京朝日新聞』が株式会社に改まった一九一九(大正八)年の資本金は百五十万円であるのに対し、三年後の一九二二(大正十一)年には四百万円と飛躍的に増大しており、発行部数も約五六万部から約八三万部へ大幅に増加している。このマス・メディアの発達を背景に起こったのが文化の大衆化であり、作家たちは不特定多数の大衆読者を想定した作品を発表していくこととなる。  近代における大衆文学の新たな出発点は、中里介山(一

八八五〜一九四四)による『大菩薩峠』とされるが、この作品は一九一三(大正二)年に『都新聞』に連載されたものが一九二五(大正一四)年に『東京日日新聞』、『大阪毎日新聞』に再連載されてから爆発的な評判となっており、マス・メディアの発達が大衆文学の発展に拍車をかけたまさにこのような時勢において、石丸の親鸞文学は登場したのであった。 20

21

(12)

  石丸の「山を下りた親鸞」が連載された一九二一(大正

十)年の『東京朝日新聞』の発行部数は、二九万一千九五七部、「吉水の崩壊」の連載された一九二二(大正十一)年の『大阪朝日新聞』の発行部数は五六万二千七百部であり、石丸の作品は新聞がマス・メディアとして大規模化していく中で発表されたことが分かる。特に『報知新聞』に連載された「叡山と鹿谷」は挿絵入りで第一面に掲載されており、この作品が多くの人に読まれる事を期待されていたことが想像できる。

  そしてそれは単に大量消費された文学ということを意味していない。尾崎秀樹(一九六四:七)は、大衆文学において最も優先されるべきものを「作中人物論」だと述べ、その理由が「読者との結びつきが直接的で、作中人物が読者のイメージのなかで勝手に生きつづける性格を備えているからだ」と断言する。尾崎の指摘のように、石丸の作品も、大規模化したメディアの読者としての大衆が、そこで描かれた親鸞の人物像を容易に想像できなければ、日刊紙への連載という形で作品を掲載し続けることは困難であったろう。   ここにまず、『伝絵』で描かれる親鸞像との違いがある。親鸞の徳を偲び賛仰することを目的に制作された『伝絵』では、門徒以外の不特定多数の読者に読まれることをさほど想定せずに親鸞像を展開することができる。そこではむしろ宗祖である親鸞の権威を高めることに比重が置かれており、大衆の関心に合うような親鸞は描かれる必要はほとんどない。  それに対して新聞小説として親鸞を扱う場合には、不特定多数の読者がイメージしやすい親鸞像を設定する必要がある。その読者は、『伝絵』や『正統伝』など真宗関連のメディアではなく、大新聞の一部に掲載された小説において親鸞に触れるのであって、信仰としてそれを読むのではない。石丸の作品において描かれた親鸞像は、真宗教団から離れた新聞というマス・メディアにおいて展開された親鸞像として注目すべきであろう。

  二―三.倉田百三と石丸梧平との相違点   石丸梧平以前において、文芸作品として教団から離れた

(13)

新たな親鸞像を提示したのが、先にふれた倉田百三であった。しかし倉田は、「親鸞からも、真宗思想からも自由な知識人」(福島一九七三:二五五)ではあったものの、自身は真宗寺院の寺の門徒総代をつとめる家で育ち、真宗的教養が身に付いていたと考えられる。また熱心な真宗門徒であった叔母の家で五年間過ごした経験があり、この作品の執筆前にも『歎異抄』の思想に触れている。こうしたことからも、倉田にとって宗祖としての親鸞聖人像や、真宗の思想は比較的身近なものであったと考えられるのである。

  また倉田には、『出家とその弟子』の執筆に至るまでに、キリスト教と西田天香の一燈園での宗教生活があった。それが本書では強く反映されており、この作品が親鸞の思想を西田とキリスト教の思想から独自に解釈したものであることは鈴木(一九七〇、一九八〇)や辻橋三郎(一九七七:一

八九)によっても指摘されている。

  ところが石丸には、『人間親鸞』まで親鸞やその他宗教との接点が見られず、さらに石丸自身は、「他力教の教義を信ずる信者ではない」(石丸一九二三a:三九八)とさえ断言している。石丸が、特定の宗教的背景もなく文芸作品 として親鸞を扱ったという点は、倉田との相違点としてまず挙げられる。  さらに倉田と石丸の親鸞文学は、その作品形態でも大きく異なっている。両者は同じく文芸作品として親鸞を扱っているものの、倉田は戯曲として親鸞を登場させ、石丸は小説という形で親鸞を扱った。劇としての上演を前提とする戯曲に対して小説は、登場人物の心情を描くことに大きな特徴がある。倉田が台詞という外面的な要素によって親鸞を表象したのに対し、石丸は、親鸞に台詞を持たせると同時にその心情をも随所に細かく描写しているのである。  新聞小説として人気を博した中里介山の『大菩薩峠』においては、「ます」調の口語体で独自の語りかけが織り込まれ、事件や描写の展開へ緩急をつけることで魅力ある語り口となっていた。新聞に連載された石丸の作品も、不特定多数の読者を物語に引き込むにあたっては、主人公である親鸞の心情を読者へより容易に想像させることが求められるため、心情の細かな描写は軽視できない重要な手法である。

  以上の点をふまえ、石丸による親鸞文学の二つの代表作、 22

23

24

(14)

『人間親鸞』と『受難の親鸞』に注目する。

三.石丸梧平における「人間親鸞」像

  三―一.石丸梧平の親鸞文学①―『人間親鸞』   一九二一年に単行本として発行された『人間親鸞』は、第一篇「戀の歌」、第二篇「救はれる道はないか」、第三篇「暴風」、第四篇「黎明」の全四篇から構成される。

  第一篇の「戀の歌」は、比叡山で修行する若き親鸞(範 宴)がその生活に絶望し、山を下りようと決心する場面である。親鸞は僧たちの破戒行為に憤りを感じつつも、自分も他の僧たちと同じように欲があり、女を想わずにはいられない身を悩む。そのような生活の中で親鸞は「戀の歌」事件をきっかけに、はかない立身栄達の人生を憂い、煩悩を断つことを理想とする生活の矛盾を痛感してついに「山を下ろう!」(石丸 一九二二a:七一)と決意するのである。

  ここでの親鸞の心情を、石丸梧平は次のように記している。   範宴は、さて、どこに行くべきかについてはまるであて 00がなかった。けれども斯 うした叡山の禁欲生活が自分の精神生活に全然矛盾したものであることだけは明らかだつた。のみならず、出世の最後のものにもいよ〳〵愛想が尽きた。

(石丸 一九二二a:七一)

  このように石丸の作品では、起こった出来事に対する親鸞の心情までもが記述され、親鸞の苦悩が具体的に何であって、それに対して親鸞がどう感じたのかを随所に描写している。後に石丸は、「親鸞上人の人間的自覚」(一九二

三:三二三)として、「理想と現実との矛盾葛藤、そこに人間の苦悩が発生するのである」(同:三二五)と述べているが、石丸はその矛盾を親鸞が抱える苦悩と設定し、その心情を丁寧に記述していくのである。

  こうして山を下りた親鸞は、出家したいと訴える知人に対して「自分の煩悩を語らないでは居られな」(一九二二

a:九九)いほど自らの欲に悩み、一方では自分の周囲の人々が抱える生死や業の苦しみを目の当たりにしてさらに苦悶する。また、出家したいと願う貴族の娘(玉日)に出 25

26

(15)

会っても、若く美しい彼女によってさらに自分が悩まされることを恐れ、彼女との接触を避け続ける。石丸はこの作品中において、比叡山時代には八瀬の女、山を下りた後には玉日という二人の女性を登場させるが、彼女たちは読者へ親鸞の煩悩と葛藤とをより具体的に伝える効果的なモチーフでもある。

  そうした日々の中、「私は今、迷ひきつて居ます」(石 丸 一九二二a:一九〇)と告白する親鸞はようやく、煩悩ある凡夫であっても救われるという法然の教えに出会う。この時の親鸞の様子を石丸は、「悶 なやみに悶 なやんで居た昨日迄の自分と、救はれてやすらかな今日の自分とを思ふと涙なしには居られないのであつた」(一九二二a:一九九)と記し、深い悩みから脱却しえた親鸞の姿を表現する。

  石丸(一九二二a:四)によると、雑誌『大観』に「戀の歌」が掲載されたとき、若き親鸞の恋の追憶やその他人間性の醜悪に対して、親鸞自身の経験をもっと深く書くべきだとの批評を受けたという。

  しかし石丸は親鸞について、次のように主張した。   実はどんな悪いこともしたことのない人だと思はれる。それほど自己を見つめ、自己を攻めることの強い人だつたのだ。なるほど親鸞自身が、自己の罪業を認めて居られるのだから、悪をどんなに具体化して書いても好いのだが、しかし親鸞が強姦したり強盗して、その悪からの体験が、あの信仰を生んだのだとは書かれない。

(石丸 一九二二a:四)

  ここで述べられているように、石丸は、若き親鸞の煩悶とそれに対する内省を作品の根幹としている。それは本書の構成からも明らかで、本書のプロットは、範宴(親鸞

が)比叡山を下り、法然と出会って念仏の道を歩み始めるというものである。これらは史実として語られている親鸞の生涯としては初期の出来事であり、本書における親鸞の名も、一貫して法然に弟子入りする以前の「範宴」のままである。

  また、親鸞が法然の教えに出会うのは最終篇の「黎明」においてであり、法然との対面の場面もここに至ってようやく描かれる。倉田が老師・親鸞を扱ったのに対し石丸は、

(16)

若い親鸞(範宴)がひたすら悩み抜く様子を中心に物語を展開しているのである。法然に対面した親鸞は、「たゞ上人の前に跪いて涙ながらに礼拝」(石丸 一九二二a:二二 一)し、「どうぞ迷へる私をお救ひ下さいませ」(石丸 一九

二二a:二二二)と訴えるが、ここには煩悶し続けた若き親鸞の苦しみと、そこから救われたいという切実な願いが的確に描写されている。

  また本書には、六角堂に毎日欠かさず参籠する親鸞の姿が描かれながらも、救世観音から夢告を受ける場面は登場しない。親鸞が煩悩に苦しみ、そこから脱する様子を表現するのであれば、「宿報のために女犯をしてしまっても極楽へ引導する」と説くこの夢告がかなり重要になってくるはずである。だが石丸はそれを描かず、阿弥陀仏が救ってくれると説く法然の教えによって親鸞が新たな道を歩み始める場面まででこの物語を終わりにしている。

  このことからも明らかなように、本書で描かれているのは、法然の教えによって親鸞が己の煩悶から脱却できたという単なる宗教的救済の物語ではなく、信仰を得た上でさらに深く煩悩と向き合い、自問し続ける若者の姿なのであ る。石丸は、この作品中において親鸞に友人・法善との問答を何度も行なわせることで、親鸞に信仰を深めさせ、自問自答を繰り返させる。  この苦悩する親鸞について石丸は、次のように論じている。

  親鸞の信仰は、その欲望の肯定の上に成り立つのであるから、信仰を得たからとて決して永遠の極楽に入るのではない。苦しみはいつまでも繰返される。だが、その苦しみに絶望し切って、自暴自棄になるのでは無論ない。

(石丸 一九二三a:二六四〜二六五)

  ここに述べられているように、法然に出会った後の親鸞は戒律という外部的な規制との葛藤ではなく、自らの欲望と真正面から向き合いながら生きていく。それは、戒律という外部的な規制との葛藤ではなく、「ほんとう 0000の人間性を掘って行く」(一九二三a:二六五)生き方でもある。「親鸞が叡山を下らうとした前後の、自己内省の血みどろな生命そのもの、それが『人間親鸞』に描かうとしたテーマで 27

(17)

ある。」(石丸 一九二三a:二六一)と石丸は述べているが、本書には若い親鸞の内省が何度も繰り返し記されているのである。

  この作品における宗教観や真宗の教理的な部分について石丸は、「『他力』と云う言葉、『地獄』と云う言葉なども、作者は決して、単なる伝統のまゝの意味で使用しては居ない」(一九二二b:十一)と強調し、「私の書くものは、決して『所謂宗教もの』として書いているのではない。どこまでも唯一つの生きる道だ」(一九二三a:一五〜一六)と強調する。倉田が真宗やキリスト教、ほか様々な思想を用いて作品中の宗教的世界観を創り上げたのに対し、石丸は独自の視点から阿弥陀仏の力に身をゆだねる宗教観を描きつつ、その先の人生をいかに生きるべきか、という問いを突き詰めていくのである。

  三―二.石丸梧平の親鸞文学②       ―『受難の親鸞』

  『人

間親鸞』に次いで、同年六月に出版されたのが『受 難の親鸞』である。本書は「叡山の動揺」、「親鸞の結婚」、「信の世界」、「吉水の崩壊」、「受難」の全五篇より構成される。本書について石丸梧平は、「近頃に於ける私の思索と體験と、その凡てをこの『受難の親鸞』のうちに云ひつくした」(一九二二b:一)と述べており、「煩悩の人間生活」(石丸 一九二三a:一四二)をいかに生きるべきかという問いが本書を貫く主題である。  本作品は、親鸞が法然門下となった後、比叡山が念仏停止を求める動きを始める場面より始まり、『人間親鸞』では「範宴」となっていた親鸞の名も、法然門下となった後の「善信」となっている。この物語は、念仏と共に親鸞の結婚までもが比叡山によって非難され、最終的に法然の吉水禅房は崩壊、法然と親鸞は流罪となり、越後へ向う道中で友たちと別れるというプロットで構成されている。  ここで描かれる親鸞の受難を石丸は次のように述べている。

  人間の生活が一度は通り抜けねばならぬ道、一人の人間が是非考へなければならぬ問題、それを私は親鸞

(18)

上人の生活の上に見た。見ることに努めた。

(石丸 一九二三a:三〇七)

  本書では、人間が生活する上で行き当たる諸問題が親鸞の人生に重ねて描かれていく。ここで表現されているのは、『人間親鸞』において法然に出会い、妻を持ち、煩悩を肯定して生きる新たな生活を始めた親鸞が、より多くの困難に遭遇し、さらに自問自答を繰り返して生きる姿である。

  本書の第二篇では、『正統伝』にもある、親鸞が法然のすすめでふみきった結婚生活を中心に物語が展開される。結婚が比叡山による非難の好材料とされた親鸞は、友人・法善によっても、妻が美しい女性であること、公家の貴族であることなどを羨望されるのであった。

  それに対する親鸞の心情は、次のように記されている。

  この二人の結婚は、さうした反対の聲によって、二人の愛の上にも、更に人間性の底にひそんで居る煩悩の根づよさ──そこから出発したこの信仰、ありがたい宗教にも、いよ〳〵深く浸み入るやうな氣がするの であった。

(石丸 一九二二b:四七)

  本作において親鸞は、自分の結婚が単なる性欲でもなければ名誉欲ではないことを主張し、阿弥陀仏のありがたさを説いていくのだが、ここでの文言からも分かるように、本作品では『人間親鸞』よりも阿弥陀仏への信仰心により、焦点が当てられている。それは、『人間親鸞』では登場しなかった六角堂での「女犯偈」が登場し、この夢告を親鸞の性に対する悩みへの解決の糸口としている点からも明らかである。

  ところが親鸞は、この夢告を「ありがたい佛のお慈悲」

(石丸 一九二二b:一〇三)と感じつつも、それが自分の心理作用ではないかと疑ってしまう。石丸は、夢告という宗教的な啓示によって親鸞の苦悶を取り除くという単純な描き方をせず、そのどちらであっても自ら新しい生活を歩もうとする親鸞の姿を克明に描いていくのである。

  第三篇では、親鸞が法然より『選択集』の書写を許可される場面や、弟子たちを信行の両坐に分けるといった、『伝絵』にも登場する出来事が語られていく。その後半は、 28

(19)

蓮生房(熊谷直実)によって夫(平敦盛)を殺された玉琴が、法然に拾われて育った我が子(放童)と再会を果たすという物語である。ここでは、夫を殺した蓮生房への恨みを必死に乗り越え、放童麿と三人で亡き夫・敦盛を語り合いながら信心の生活を送る三人の姿など、法然門下たちの姿が生き生きと表現されている。

  第四篇では、いよいよ法然門下の流罪が決定する。篇題の「吉水の崩壊」とは、外部からの圧力によって法然門下が解体されることと同時に、内部から崩れていく様を意味しており、ここでの親鸞は、念仏を正しく理解しない同朋二人の誤った行為に法然と共に巻き込まれてしまう被害者である。こうした事件は、他人と関わりながら生きなければならない現実の生活を表現しており、人生をいかに生きるかという主題にも繋がる印象的な場面である。

  最終篇においては、流罪となって越後へ向う親鸞が、「愚禿!さうだ、愚禿こそほんとうにふさわしい自分の名だ」(石丸 一九二二b:二五六)と自らの「愚」を自覚する。親鸞は残して来た妻子との別れを回想し、愛する者がいるがゆえの苦しさを痛感し、「この苦しみのうちから、ほん とうの生命を生かして行かう」(石丸 一九二二b:二六七)と自らの運命を積極的に受けとめていく。煩悩をもって生きるということは諦めをつけることではないと断言する親鸞は、流罪さえも「師教の恩至」(石丸 一九二二b:二八

三)と考えるのであった。

  しかし親鸞は最後の場面で、「私どものやうな凡人は、阿弥陀仏の智慧に達し得るとは云ひ切れないが、その世界を信することによつて救はれるのだ。今絶望し切つてしまつてはならぬ。生きる道がある」(石丸 一九二二b:三〇

六)と力説しながらも「煩悩の涙がはら〳〵と落ち」(石

丸 一九二二b:三〇七)てしまう。この姿は、煩悩を絶って生きることを決意した後にも、なお迷い、欲に悩みながら生きるその後の人生を暗示しているかのようである。

  三―三.石丸梧平における       「人間親鸞」像の形成   『人

間親鸞』と『受難の親鸞』に共通しているのは、人生をいかにして生きるべきか、という問いである。石丸梧

(20)

平は、『伝絵』や『正統伝』を素材としつつも、その問いを出世欲、性や家族という、読者にとっても身近な諸問題によって突き詰めてゆく。それは倉田百三が『出家とその弟子』において生や愛という主題を普遍的かつ宗教的なものへと昇華させて扱ったこととは著しく異なっている。

  特に倉田の『出家とその弟子』において恋愛や性は、個人と個人のものから離れた隣人愛へと転換され、それが理想化されていた。しかし石丸の作品において恋愛は、性欲や執着を発する欲望として扱われ、普遍的なものや宗教的なものには転換されない。ここでの親鸞は、性欲や恋愛に悩み、結婚というあくまで現実的なものによって一つの解決の道を見出すのである。「生活とは、幾多の欲望の持続する形」(石丸 一九二三a:二〇)であるとし、それをいかに生きるかを親鸞の課題とした石丸の作品は、倉田による親鸞よりもはるかに現実的で人間味にあふれる親鸞が描かれているのである。

  この点に関して注目したいのは、当時のヒューマニズム思潮との関連である。個人の人間性が重視される大正期の時代風潮については山室静(一九六一)によっても論じら れているが、そうした傾向が強まる中で、阿部次郎によっても、「人間の生活」(阿部[一九二二]一九六一:四八)において「人格の成長と発展とに至上の価値をおく」(阿部

[一九二二]一九六一:五三)人格主義が主張されていった。そこでは人間が個として尊重され、内省的・自己観察的態度が重視されていく。そのような時代背景の中で石丸の描いた親鸞は、「煩悩の人間生活」(石丸 一九二三a:一四

二)の中で成長していく一人の若者である。

  煩悩を規制する戒律や道徳といった社会的拘束力との葛藤について石丸は、「われわれは常に『個』と『全』との融和統一の上に悩み苦しんでいる」(一九二九:二八七)と述べ、次のように主張する。

  その「全」(普通)は、すくなくとも「個」の自覚によつての「全」でなければならぬ。即ち概念的な「全」ではなくて、「全」そのものに「個」としての血が通つていること、更に云ひ換へれば「個」の内部生長としての「全」でなければならぬのであります。

(石丸 一九二九:二八九)

(21)

  こう主張するように石丸は、煩悩と向き合う親鸞の、個としての成長に重きを置き、「欲望を出発点として生きる人間生活の是認」(石丸 一九二九:三〇一)としてその人生を描いていった。

  特に石丸は親鸞が突き当たる苦悩について、「現代人の生活をのみ基調とした」(石丸 一九二三a:三三四)と述べ、作品中では「生死出離」と「往生思想」(石丸 一九二三a:

三三四)の問題を親鸞が直面する問題から排除したと強調する。したがって描かれる親鸞の悩みも、阿弥陀仏への信仰という宗教的な行為によって完全に解決するものではなく、解決に向けて現実的な生活をすることに重きが置かれているのである。

  石丸は、親鸞の阿弥陀仏信仰について次のように語っている。

  親鸞が何等の自己省察もなく、たゞやす〳〵と概念的にそこに辿りついたのではない。また、信仰に入つてから後の彼れも、決して無自覚無反省な他力信者ではない。どこまでも自己──煩悩のあさましい人間の 姿としての自己を、つく〴〵と痛感し省察した上の他力信仰である。

(石丸 一九二三a:二五九)

  この言葉からは石丸が、単なる阿弥陀仏の信仰者としてではなく欲にまみれた人間として内省を繰り返し続けた人物という点にこだわって親鸞を描いていることが分かる。石丸は、自身の描写態度として、「私は、一人の人間を内面的に書くのです。その人間の性格、境遇、それ等のものを通じて必然的に発展するその人間の生活、それを内面から書くのです」(石丸 一九二三b:五五)と述べているが、作品中の親鸞においても、その内面が深く掘り下げて描かれていく。

  倉田は、『愛と認識との出発』(一九二一年刊行)において、「自己の自我意識のめざめとさまざまな動揺と知的な処理経過」(小田切 一九六四:四二)を告白しているが、『出家とその弟子』においては、恋愛に苦悩し解決の道を求めるのは若い唯円であり、親鸞はそれを理解する師である。それに対して石丸は、親鸞自身が恋愛をはじめとした諸問題に悩み、苦悶する姿を描き、揺れ動く親鸞の心情と

(22)

いったものをそのまま作品中の親鸞へ投影させている。山室(一九六一:三八)は、大正期全体を「『個人の解放』を志向した時期」と呼び、「個人の充実、伸長の方向」(山 室 一九六一:四三)が目指されたと述べているが、石丸の作品で描かれた、主体的に自己を律し、内省を繰り返し続ける親鸞には、そうした人間観が強く反映されていると言えるだろう。

  また石丸の作品は、マス・メディアとして大規模化していく新聞へ連載され、不特定多数の読者に読まれることが前提となるものであった。そこでは、消費する読者にとってイメージしやすい人物像、物語設定が求められる。また真宗から離れた場で親鸞を扱う場合、阿弥陀仏への信仰や宗教的救いを中心に親鸞の人生を語るよりも、親鸞という名の一人の若者が現実的な問題に悩み、解決の道を求め続ける姿の方が大衆読者にとってはその人物像をイメージしやすいであろうし、倉田の描いたように、人生を「淋しい」と苦悶する「人間臭い親鸞」(末木 二〇〇九a:一一

九)よりも、現実の生活において欲望に悩む若者の方がより身近に感じられるだろう。石丸による親鸞文学は、実生 活における身近な問題に悩みながらも生きる若者として親鸞を設定することで、大量消費される文学の主人公としても耐えうる親鸞を描き出しているのである。  特に石丸の作品では、自分の周囲で起こる出来事に対して親鸞がいかに感じ、苦悶し、どのようにして解決の道を歩んでいくのかが所々に記述されており、読者が親鸞の心情を理解しやすくなっている。倉田のような戯曲形式の作品において読者は、親鸞の心情をその台詞によってでしか知ることができないが、石丸の作品では直面する事件や諸問題に対する親鸞の思いが具体的に語られ、読者を置き去りにすることなく物語が展開されているのである。  また親鸞が直面する事件が次々と配置され、読者を飽きさせない物語展開となっていることも見逃せない。例えば『報知新聞』に連載された「叡山と鹿谷」では、比叡山への七箇条の起請文の提出、『選択集』書写の許可、六角堂への参籠と結婚への回想、九ケ条の罪状の受け取り、生き別れになっていた親子の再会、玉琴とその夫を殺した蓮生房が許し合って生きる道、という実に様々な場面が展開されている。これは二ヶ月弱という連載期間から考えてもた 29

30

(23)

いへん充実した内容であると言え、読者は次々と起こる事件に向き合う様々な親鸞の一面に出会うことが可能となる。

  生き別れになった親子の再会、夫を殺した男(蓮生房)が自分たちの子を可愛がり育てたと知った時の母の衝撃、そして彼女が夫を殺した蓮生房と対面を果たし、彼に切りかかる場面は読者を引きつける展開であり、日刊紙への連載と大衆読者を前提とした物語構成として注目に値する。このように読者を物語へ引き込む語りと事件の展開とによって、読者は飽きることなく親鸞の人生を読んでいくことができるのである。

四.おわりに――変容する「人間親鸞」像

  倉田百三の『出家とその弟子』によって提示されたのは、「淋しい」と訴える「人間臭い親鸞」(末木 二〇〇九a:一

一九)であった。倉田は文芸作品として親鸞を取り上げ、『伝絵』を中心に語られてきた、宗祖としての親鸞とは異なる、自己の思い描く親鸞像を描き出したのである。

  本稿で注目した石丸梧平は、その倉田に次ぐかたちで教 団の外側からさらに新しい親鸞像を提示した。石丸は、マス・メディアの発達が大衆文学の発展に拍車をかけた時勢において、新聞小説という形態で親鸞を登場させ、若い親鸞(範宴)がひたすら悩み抜き、阿弥陀仏への信仰のさらに先にある、「人間生活」をいかに生きるべきか、と問い続ける姿を描いていった。そこで強調されたのは、煩悩から逃れられない「人間生活」を送りつつ内省を繰り返す親鸞であり、出世欲、性や家族という、読者にとってもなじみのある身近な諸問題に悩みながら生きる若者の姿である。  倉田の描いた親鸞像は、自らも迷い、苦しむ「人間臭い親鸞」(末木 二〇〇九a:一一九)ではあるが、現実の恋愛に悩むのはあくまで唯円であり、親鸞は、真実の愛とは何かを説く老師として描かれる。そこでは、恋愛の悩みに対する解決の道が、恋愛を隣人愛へと昇華することで表現されているのである。しかし石丸は、親鸞自身の課題として恋愛を扱い、それを性欲や執着という欲望そのものとして描いていくのである。ここで描かれた親鸞は、どこまでも自己の悩みを抱えたまま「煩悩の人間生活」(石丸 一九二

三a:一四二)の中で解決の道を探りながら内省していく

(24)

一人の若者であり、石丸は、人生における現実的な欲望といかにつき合い、自己を成長させていくのかという課題をそのまま親鸞に荷なわせるのである。ここで描かれた親鸞とは、内省から個としての成長を目指す当時のヒューマニズムが課題としたものを投影させた、より「人間らしい」親鸞であるとも言えるだろう。

  さらに、新聞小説として登場した石丸の作品ではそうした欲望の素材を読者にとって身近な問題によって描き出し、緩急ある物語展開、親鸞の心情の丁寧な描写によって構成することで、不特定多数の読者を飽きさせることなく彼らがイメージしやすい親鸞像を提示していることも注目に値する。こうした点は、後に登場する吉川英治の『親鸞』

(一九三八)などにも通じるものであり、石丸の作品を大衆化・通俗化していく親鸞文学における一つの布石として考えることもできるだろう。そのような親鸞イメージと物語設定によって読者は、『伝絵』や史実から離れたところで親鸞を知ることが可能となり、同時にそれは宗門外の読者が親鸞を知り、さらにはそこで描かれた親鸞の人間らしさに触れる一つの契機にもなり得る。   石丸による親鸞は、「『親鸞』を取り扱つた現代人としての作者の思想と意企」(石丸 一九二二b:十一)によって表象された、煩悩に悩み続ける「人間としての親鸞」であった。石丸の親鸞文学は、大正期のヒューマニズム思潮を物語へ巧みに投影し、大衆読者を想定した手法によって、倉田とはさらに異なる「人間親鸞」像を提示したのである。石丸の作品は、大正期親鸞文学における「人間親鸞」像の形成過程において、一つの重要な意義を持ちうると言えよう。

以  上

『伝絵』は後に詞書のみを抜き出した「御伝鈔」と絵相の部分を掛け幅形式に変更した「御絵伝」とに分離され、報恩講において拝読され絵解きにも用いられてきた。石丸梧平『人間親鸞』、『受難の親鸞』、三浦関三『親鸞』、村上浪六『親鸞』、茅場道隆『戯曲親鸞』、松田青針『人間苦の親鸞』、江原小彌太『親鸞』、山中峯太郎『親鸞』、吉川英次『親鸞』など。これらの作品はすべて一九二二〜一九二三(大正十一〜十二)年の間に刊行されている(土屋詮教、一九二五『日本宗教史』六四九頁)。 31

()

1

()

2

(25)

以降、石丸梧平については石丸と表記し、孫である石丸元康についてはフルネームで表記する。この話の原型は、先啓了雅の『大谷遺蹟録』中の「大門山枕石寺記」に見える。大正四年十二月、宗藤重子宛書簡(鈴木 一九七〇:九二)。なお鈴木(一九七〇:九二)による倉田の評伝では、清沢満之の『歎異抄講話』を求めていたとされるが、それが清沢満之ではなく、暁烏敏の『歎異抄講話』であり、鈴木による誤りであることが子安(二〇一四:一五〇〜一五一)によって指摘されている。本稿では子安(二〇一四)の説を採用し、倉田が借り受けたのは暁烏敏の『歎異抄講話』とする。「汝らの父の許しなくば、その一羽も地に落つることなからん」(マタイ・一〇・二九)、「ほろびの子はほろびたり」(ヨハネ・一七・一二)「おのれの如く汝の隣を愛すべし」(『新約聖書』マタイ一九・一九)、「旅人をねんごろにせよ」(『新約聖書』ロマ一二・一三)。「人の下僕になれ」(倉田[一九一六:]一九九四:二五三)は、「かしらたんと思ふ者は汝らの僕となるべし」(『新約聖書』マタイ・二〇・二七)、「人の足を洗ってやれ」(倉田[一九一七]一九九四:二五三)は、「汝らもまたたがひに足を洗ふべし」(『新約聖書』ヨハネ・一三・一四)と酷 似している。西田天香(一八七二〜一九六八)が京都の鹿ヶ谷へ一九〇五年に開いた宗教的施設。倉田は、一九一五(大正四)年十二月四日から二年間一九一六(大正五)年六月二二日まで七ヶ月弱生活していた。(鈴木一九七〇:八二〜九二)なお本書は、倉田が病中の作であると亀井勝一郎([一九三九]二〇〇五)は記しているが、妹の倉田艶子(一九六八年)は、「『出家とその弟子』は兄の文筆生活の中の一番健康な時に書かれた」(一九六七:二六四)と反論している。(「『出家とその弟子』が出来るまで」『出家とその弟子』角川書店)。また、同時期に執筆された『愛と認識との出発』(一九二一年刊行)収録の諸論文における彼の思想及び実生活と、本作品との関連が末木(二〇〇九b)や子安(二〇一四)によっても指摘されている。近角常観『歎異抄講義』(一九〇九)や暁烏敏『歎異抄講話』(一九一一)らにより『歎異抄』の解釈が進められていった。倉田が千家元麿・犬養健らと共に発刊した同人雑誌。一九一六(大正五)年十月から翌六月までの全七冊。(鈴木 一九七七「生命の川」日本近代文学館編『日本近代文学大事典 第五巻』講談社、二二五〜二二六頁。)『愛と認識との出発』には、倉田が一高在学中から三十歳 ()3

()

4

()

5

()

6

()

7

()

8

()

9

()

10

()

11

()

12

()

13

()

14

(26)

頃までに書いた評論や手紙などが収録されている。一七一七(享保二)年に高田派の良空によって作成、刊行された『高田親鸞聖人正統伝』。同じく良空の作である一七三三(享保十八)年の『親鸞聖人正明伝』(『正明伝』)以降の親鸞伝のうちでこの二本の親鸞伝の影響を受けていないものはほとんどないとされる。(塩谷菊美、二〇一一『語られた親鸞』法蔵館。)瀬沼(一九六五)によれば、賀川豊彦『死線を越えて』(一九二〇年刊行)、島田次郎『地上』(第一部は一九一九年刊行)、および倉田の『出家とその弟子』を大正期の三大ベスト・セラーとするのが一般的だとされている。『団欒』は、一九一六(大正五)年に菊地寛の作品と川端康成の最初の作品「師の柩を肩に」を掲載している。この雑誌は菊地寛や川端康成らによる文芸作品や家庭に関する記事を掲載し、紅野敏郎(一九八六)によって「末尾の『社告欄』を見ると、創刊号は五千部刷ったという。それで再刊ということだから当時としては幅広く迎えられたといってよかろう」と評価されている。本雑誌については宮崎尚子が、その目次から掲載内容を調査している(宮崎尚子二〇一二〜二〇一四「石丸梧平主宰の家庭雑誌「団欒」に関する調査①〜③」『尚絅学園研究所紀要』尚絅学園大学)。宮崎の指摘するように本雑誌には、与謝野晶子や斎藤茂吉、島村抱月、折口信夫(釈迢空)、平塚明子(雷鳥)、 棚橋絢子らの全集未収録作品および他分野の著名人の文章が掲載されており、今後の活用が期待される。野崎左文は、大新聞の主な特質として、紙幅の広いこと、社説を掲げて政治を論じること、社説・雑報・寄書・その他の記事にもすべて傍訓を施していることなどを挙げている。当初、全国における大新聞は「朝野新聞」、「東京日日新聞」、「郵便報知新聞」などであったが、明治一七年以降、大・小新聞の紙面は接近していった。後年、大新聞と称したのは何よりも発行部数の多いものを指す。(西田長寿 一九七七「大新聞」日本近代文学館編『日本近代文学大事典 第四巻』講談社、一八〜一九)総合雑誌。大正七年五月〜十一年四月。はじめ大観社、のちに大隈重信主宰。実業之日本社発行。なお当時の夕刊は前日の日付である。総合雑誌。大正十年十一月〜十二年五月までの号が確認されている。編集兼発行人後藤亮一。二松堂大正十一年十一月より表現社として独立発行。主義、思想にとらわれない編集方針を特色とする。(石割透 一九七七「表現」日本近代文学館編『日本近代文学大事典 第五巻』講談社、三四二頁)倉田艶子(一九六七:二六四)は、「私の家は真宗の菩提寺の檀家総代だったから、僧侶の出入りは珍しくなく、朝夕の仏壇への礼拝、時には祖母や母に連れられて、子供の ()15

()

16

()

17

()

18

()

19

()

20

()

21

()

22

(27)

時からお寺詣りもしていたから、兄も私も短い「御文章」の文句を暗唱することはへいちゃら 00000で、説教話はたいていもう覚えこんでしまい、なれっこであった」(「『出家とその弟子』が出来るまで」(『出家とその弟子』一九六八年、角川書店)と述べており、「倉田の家の宗旨は真宗であったが、特に信心深いとはいえない」(鈴木 一九七〇:四)までも、倉田が真宗文化との関わりのある生活経験をしていたことは確かである。鈴木(一九七〇:一六)は「倉田がのちに『出家とその弟子』を著すそもそもの契機は、彼がこの家で五年間の生活を送ったことに負うている」と述べている。この家は夫婦そろって熱心な真宗門徒で、『出家とその弟子』が出版された時にその本がささげられたのはこの叔母である。倉田は大須賀秀道の『歎異抄真髄』を一灯園への入園前に何度も読んでいたとされ(鈴木 一九七〇:九二)、『出家とその弟子』の随所に『歎異抄』の言葉を引用していることからもその思想を意識して書いていることが分かる。なお一九三一年に人生創造社より刊行された『人間親鸞』は、第一部「戀の歌」、第二部「救はれる道はないか」、第三部「暴風」、第四部「黎明」によって構成されているが、本書で取り上げる一九二二年刊行『人間親鸞』(蔵経書院)の内容と大きく変更はない。またこの本の巻末には、「宗教的理想の根本考察」と題された論文が収録されている。 一方、一九六一年の『長編小説  人間親鸞』(潮文社)と、一九六二年の『石丸梧平選集第

せて証拠を見せてほしいと願ったため、法然は親鸞を指名 子の中で一生不犯の僧を一人還俗させて自分の娘と結婚さ 家者の念仏と在家信徒の念仏に違いがないというのなら弟 『正統伝』にあるこの話は、時の関白兼実が法然に対し出 ある。 終に際してはお前を極楽へと導こう、という趣旨のもので なってお前に犯されよう。そしてお前の生涯を荘厳し、臨 前が女犯をしてしまっても、その時は私が美しい女性と 頁、ふりがな省略。)というもので、たとえ宿報のためにお 編纂委員会編、[一九七八]二〇一〇年『真宗聖典』七二五    女身被犯一生之間能荘厳臨終引導生極楽文」(真宗聖典   『伝絵』にあるこの夢告とは、「行者宿報設女犯我成玉 ある。 るようなはかない立身栄達の人生を憂えるという出来事で 23逸な歌を詠んだために褒美を受けたが、歌一首で流罪にな()  丸一九二二a:三〇)と破戒を疑われてしまい、親鸞も秀 のような名歌は「戀の経験がなければ讀めない筈だ」(石 慈円が公卿たちに強いられて恋の歌を詠んだところ、そ 歌」、「山を下りた親鸞」の三幕が収録されている。   また巻末には、「戯曲人間親鸞」として「比叡山」、「戀の 造社)には、「親鸞の結婚」、「流人親鸞」が加えられている。 4巻』「人間親鸞」(人生創

()

24

()

25

()

26

()

27

()

28

参照

関連したドキュメント

      親擢における﹁極楽﹂と﹁浄土﹂

生まれない。国倫理的人間。これは詳しくいえば一面的倫理的価値に

[r]

 このように戦後韓国社会では,植民地時代の「独

This paper focuses on how the understanding of the   by members  of the Kōkōdō, especially Akegarasu Haya, is reflected in Kurata Hyakuzō ’ s  ,  which  takes 

[r]

[r]

この光号因縁釈との関連性において注意せられるのは、信巻に展開された三一問答であろう。すなわちそこには