親鸞における機の問題
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(2) 吉. ノ ‖ 正. 三. =23. 発 す べ きの機有 り,故 に射 る者之を発 す。 之を発 すれ ば則 ち箭動 じ,発 せ ざ れ ば則 ち前 ま ざるが如 し。衆生 に生 ず べ きの善有 り,故 に聖応 ずれ ば則 ち 善生 じ,応 ぜ ざれ ば即 ち生 ぜ ず。故 に機 は微 な りと言 う。 二 に古注 の『 枡 伽経』 に云 は く,機 は是 れ 関 の 義 な りと。何 となれ ば衆生 に善有 り悪有 り て聖 の慈悲 に 関は る , 故 に機 は是 れ関 の 義 な り 。 三 に機 は是 れ宜 の 義 な り。無 明 の苦 を抜 かん と欲せ ば,正 し く悲 に宜 し く,法 性 の楽 を与 えん と 1). 欲 すれ ば,正 し く慈 に宜 しきが如 し。故 に機 は是 れ宜 の 義 な り。」. と。 これ によ ると,機 の語 義 に微 ・ 関・ 宜 の二 つ があ る。微 には「 かすか」 とか「 ひそか」 とか 「 きざ し」 の意 味が あ り,熟 語 と して機微 の語 が あ るよ うに,か す か に動 くきざ しが 機 で あ る。 したが って機 は可能性 として 内 に蔵 されてお り,そ れ は決 して静 的 な もので はな くて,そ れがな ん らか のはず み で 外 に発す る性 を もつ もので あ る。 したが って その可能性 が現実性 とな るた め には,外 部 か らな ん らか の力 が加 わ らね ばな らな い。 そ こに箭 と射手 ,衆 生 の善 と聖 との対応 ・威応 が あ る。 ゆえ に機 は. ,. 2). 「 可発 の義。す なわ ち縁 にあわ ば発動す る可能性 を有す る意。」. といわれ る。 親鸞 が『 教行信証』 の総序 において「 浄業 ,機 あ らわれ て,釈 迦 ,葦 提 を して安 養 をえ らば しめた まへ り。」とい うときの意 味 は,こ れを あ らわ した もので あろ う。 これを教育 の面 か ら言 え ば, 自発性 と非 常 に近 い意 味 を もつ もの と思 われ る。 また機 が関 の 義 を もつ とは,機 関 とい う熟字 が あ る こ とによ って も うかがわれ る。 関 は「かかわ り」 で あ り「 関係」 で あ って, 自 と他 が あ い 関 わ りあ うこ とで あ る。人 間 は いな衆生 は間柄 的存在 で あ ると 考 え られ るが,仏 教 の場合 ,衆 生 の善悪 の機 は聖 の慈悲す なわ ち聖法 にかか わ るもので あ る。 も し受 くべ き衆生 の機 がな けれ ば,聖 法 も用 い る こ とはで きな い。 ここに機 がな けれ ば法 はな く,機 は常 に法 にかかわ るもの といえ る。 ここにいわゆ る機法一体 の 関係 が考 え られ ると思 う。第 3の 宜 につ いて は. ,. 1)昭 和新纂国訳大蔵経 聖典部第11巻 自277頁 至278頁 2)望 月信享編「仏教大辞典」第 1巻 昭和35年 491頁.
(3) 124. 親鸞 における機の問題. 機 宜 の こ とばが示す よ うに,機 の宜 しきに従 が う ことで あ る。 それ は人生 の 苦 を抜 かん とす るものが 悲 で あ り,反 対 に衆生 に楽 しみを与 え るものが慈 と いわ れ るよ うに,慈 悲 は常 に衆生 の抜 苦与楽 に相応 じて,衆 生 を宜 しきよ う に 導 くもので あ る。親鸞 が『 教行信証』 中 に お いて,善 導 の 3). 「仏教 多門 に して 8万 4な り。 まさし く機 の不同 な るがためな り。」. を 引用 してい る意味 も,仏 教 が衆生 の機 の不 同 に従 って,そ の宜 しきよ うに 導 くこ とを示 した もので あ る。 このよ うに宜 の 意味は機 と教 とが相応 じ相か な う こ と,あ たか も丸 い 箱 には丸 い蓋 ,四 角 の 箱 には四角 の蓋 を要す るに似 て い るので,函 蓋相応 ともた とえ られ てい るので あ る。 以上 の よ うな ことか ら,仏 が機類 に応 じて宜 し く教 えを説 くことを対機説 法 といい,教 が 機 にか な うの を逗機 といい,機 が教 を説 くため の縁 にな るの を機縁 とい って い る。 このよ うに機 は常 に聖法 と相応 し関係 して相離れ な い 一 体 不離 の もので あ り, したが って機 が教育 的宗教 的意味 を もち,人 間存在 の深 い在 り方 と関係 してい る こ とを知 り得 るで あろ う。哲学者 の三 木清 はそ の 遺稿『 親鸞』 に お いて 「機 とは 自覚 され た人 間存在 で あ る。 かか る 自覚 的存在 を実存 と呼 ぶ な ら 4). ば,機 とは人 間 の実存 にほかな らな い。」. と述 べ てい る。 これ は機 につ いての最 も深 い適切 な表現 で はな いで あろ うか。 したが って機 のはた らく相す なわ ち用相 は,天 台大 師 の解釈 に お いてみ られ るよ うに,微 ・ 関 ・宜 のすが たを とるので あ るが,そ の体相 は人 間 その もの の 本質 的 なすがたで あ ると思 う。 しか しなが ら機 の普通 の解釈 と しては. ,. 「 仏 の教法 を受 け,そ の教化 を家 るものの素質能力,ま たは教 の対象 とな るもの」. 5). と考 え られ てい るとみて よいで あろ う。 これ は仏 教 で い う性 得 の機 と,受 法 の 機 の両方 の意 味を簡単 に表現 した もの と思 われ る。. 3)金 子大栄編「 親鸞著作全集」 法蔵 殿 昭和39年 138頁 4)三 木清著作集第 16巻 岩波書店 昭和26年 520頁 5)多 屋 。横超 ・船橋編「仏教学辞典 」 法蔵 館 昭和 30年 74頁.
(4) 吉 川 正 三. ヨ 25. 親鸞 の著作 を通 してみ るとき,こ の機 とい う こと ばは非 常 に多 く用 い られ て い る。殊 に彼 が 自 らの領解 を 図表 的 ・ メ モ 的な文体 で も って述 べ た もの と して知 られて い る『 愚禿抄』 の 中. 6)に. お いて,彼 は衆 生 を善機 と悪機 に分 け. ,. その善機を さ らに定機 と散 機 ,浄 上 の傍機 と正 機 の お の お の 2種 に分 け,悪 機 につ いて は十悪 ・ 四重 ・破見 ・破戒 ・五逆 ・謗法 ・閏提 の 7種 の機を あ げ て い る。またかの F教 行信証』 においては,こ の語 の 用語例 は非 常 に多 い。 そ の お もな ものを あ げてみ ると,「 信巻」 の最初 に 出 て くる正 定 衆 の機 と,「 化身 土巻」 の最初 に 出て くる邪定来 の機 と不定来 の機 の 3機 ,「 行巻 」の終 りの と ころにでて くる念仏 の機 と諸 善 の機 につ いての11項 目にわた っての比 較一― ヽ これ は 『 愚秀抄』. lこ. お いて は他 力 と自力の機 の比 較 と して 18対 を あげ てい. る。― 一 同 じく「 信巻」 の末巻 に 出て くる難化 の 3機 な どで あ ろ う。 これ ら の 機 の 用法 は表面 的 には,教 えを受 ける衆生 の性質 。能 力 ,仏 の教化 の対 象 と して教 えを受 ける相手 と して,普 通 の解釈 に従 って機 を と らえ てい るよ う に 考え る こ とがで きると思 う。 また『 正 像末和讃』 な どに ときどき使 われて い る時機 とい う こ とばは,明 らか に時代 と人 とい う意 味 が あ る。金子大栄 師 が 「機 は期で あ り,ま た器で あ る。 その人 と時 とを得 ざれ ば,真 実 の法 も現 行 しない。弦 においてか その機 として顕 は され しものは,即 ち この『 観無 7). 」 量寿経』 で あ る。. と述 べ てい るのは, この意 を 示 した もので あろ う。 しか し これ らの 著作 に用 い られ てい る機 の と らえ方 は,そ の根本 において,三 木清 のい う人間 の 自覚 的 存在 ,す なわ ち人間 その ものの本質的 な在 り方 ,そ の根機 のいかんを その 根 源 において と らえ よ うと してい ると思 われ る。 この意 味 において,親 鸞 に お け る機 の 問題 は機 の根源 的 自覚 が中心 で あ るとい って よいで あろ う。. 6)金 子大栄編「親鸞著作全集」ニ法蔵館 昭和39年 自370頁 至71頁 7)金 子大栄著「観無量寿経講話」 著作刊行会 昭和12年 序文 1頁.
(5) 親鸞における機の問題. 2。. 機. の. 自. 覚. 日本仏教 にお ける機 の 自覚 は聖者 と して の 自覚 よ りは,凡 夫的 自覚 か ら出 発 した とい ってよ い。 それ は「 和 国 の 教主」 と して親鸞 が敬慕 した聖徳太子 の『 17条 憲法』第 10条 にみ られ る「 共 に是 れ凡夫 のみ」 の こ とば,ま た 日本 天台宗 の 開祖伝教大 師 が,若 き 日に作 った非 常 に感 銘 の深 い彼 の発菩提 心 の ,. 記録 で あ る『 願文』 中 にみえ る 「 愚が中 の極 愚,狂 が中 の極狂 ,塵 禿 の有情 ,底 下 の最澄 ,上 は諸仏 に違 し,中 は皇 法 に背 き,下 は孝礼 を開 け り。謹 んで迷 狂 の心 に随 ひ,三 二 の 8). 願 を発 す。」. の文章 によ って, うかが うこ とが で きるで あろ う。 この伝統 は親鸞 が「 よ き 人」 と して絶対依 憑 の ま こ とを つ くした法然 に も受 けつ がれ て,「 愚痴 の法 然房 」,「 十悪 の法然房 」 の 自称 とな った。 また親鸞 が越後流罪後 か ら常用す るよ うにな った「 愚禿」 の 出典 は,伝 教大師 の この『 願文』 で あ るとは,赤 松俊秀氏 の述 べ てい ると ころで あ る。. i. 9). 一 般 に宗教 の 真実性 が問題 とされ るとき,そ の宗教 の人生 に対 す る論 理 の 深遠性 や実践 の程度 が 問 われ る前 に,人 間性 の把握 い かんが問題 とされ るべ きで はな いか と思 われ る。いわゆ る人間 の現実 的 な在 り方 ,機 の 自覚 の深浅 が 問 われ な けれ ばな らな い。親鸞 の宗教 においては,実 に この点 が徹底 中 に追 求 され た ので あ った。彼 自身 において は『 歎異抄』 に 出 てい る「 親鸞 一人 が. 1. ためな りけ り」 の 自己 自身 が,何 よ りの 出発点 で あ り,ま た最後 の帰着点 で. :. もあ った。彼 においては人間 その ものが,人 間 の本質 と しての機 が問題 とな り,そ の 自己の人 間的現実 を追求 しなが ら法 と対 決 し,そ こに 自己の生 きる` 道 を発 見 しよ うと した。彼 に と って人間生活 に お ける問題 よ りは,人 間生活 ′ その ものが 問題 とな った ので あ り,こ こに本質 的 自覚 と して のいわゆ る機 の. 8)叡 山学院編 伝教大師全集第 1巻 9)赤 松俊秀著「親鸞 」 吉川弘文堂. 昭和 2年. 2頁. 昭和36年 132頁.
(6) 吉. 川 正 三. 127′. 深 信 が あ った の で あ る。 tこ. の機 f/D深 信 について,す ぐ想起 され るものは,彼 が『 教行信証』 の「 信. 巻」 の最初 の方 において,真 実信 の説明文 として深い感動 をもって引用 して いる善導 の『観経正宗分散善義』中の三心釈,特 にその第二深心釈 に示 され た,機 の深信 と言われるもので あろう。 この機 の深信は法 の深信 とともに. ,. 真宗 の世界 においては周知 の ことが らであるが,そ れは 「決定 して深 く, 自身は現 にこれ罪悪生死 の凡夫,砿 劫 よりこのかた,つ ねに没 し,つ ね に流転 して,出 離 の縁あ る ことな しと信ず る」. '. 10). とい うもので ある。 この機 の深信は法 の深信 と合 して三種深心 といわれ,善 ― 導 の 信仰 の核心を示す もので あるが, これが親鸞 に決定的な影響を与えたと いわれ る。 たとえばかの『 歎異抄』 の結 びの述懐篇 といわれ る中において. ,. 唯円が親鸞 の常の仰せ としてあげている 「弥 陀の五劫思惟 の願 をよ くよ く案ずれ ば,ひ とへ に親鸞一人がためな りけ. り。さればをくばくの業をもちける身にてありけるを,た すけんとおぼし め したちける本願 のかた じけな さよ」. ‖). との こ とばは,,ま こ とに善導 の この機 の深 信 の 「 金言 にす こしもたがはせ おは しまさず」 と唯 円を して心か ら述懐 せ しめた もので あ った。 このよ うに「 そ ・ くば くの業 を もちける親鸞一人 がため」の語 と,善 導 の この機 の深信 とは深 い 関係 が あ るもの と考え られ よ う。 しか しこの機 の深信 の 相 は,法 の深 信 に照 らされ ては じめ て 明 らか に され るもので あ って,い わゆ る絶対者 た る如 来 と. の 出会 いにおいて見 出だされた人間の本質的な相 とい うことができる6し か・ もそれは如来 との一対一め関係において見 出だされた 自己であることは,「 自 身は」,「 親鸞一人がため」 の ことばがその ことをはっきりと示 している。 そ こに善導や親鸞 が絶対者 たる如来 の前 に立 つ とき,彼 等 が常没流転 ・煩悩熾. :. 盛 の凡夫なる ことを痛 切に反省 した ことをあ らわ している。 このことは法 は 普遍 であ り,` 十方衆生 のための もので あるが,機 は私一人 のためとい う特朱. 10)可 西・ 上杉校訂「真宗七祖聖教」 破塵閣書房 11)金 子大栄校訂 岩波文庫 「 歎異抄」 74頁. 昭和 8年 292頁.
(7) ■2∂. 親鸞 における機の問題. の 相 を もつ こ とを 示す もので あろ う。 しか しこの機 の深信 は今述 べ たよ うに, 出 世 間的・ 絶対 的立 場す なわ ち個人 個人 が絶 対者 に直面 した場合 に生 じるも の で あ って,い わゆ る倫 理 的 ・ 相対 的立 場 とは質 的 に相違 してい る。 しか し 親鸞 にお ける絶対 的立 場 につ いての機 の深 信 に 関 して は更 に後述 す る こ とと し,機 の 考え方 につ いての も う一 つの面す なわ ち相対 的立 場 に おけ る機 の相 の 問題 につ いて, さきに簡単 に述 べ る こ とに したい。 彼 は『 教行信証』 「行巻」 の侶前 の文 の と ころにおいて「 その機 はす なわ ち一切善悪大小凡 愚な り」 と言 い,ま た 同 じく「行巻 」最後 の「 正信 掲」 で 1ま. 「 一切 善悪 の凡夫人 ,如 来 の弘誓願 を 聞信すれ ば」 と述 べ て,教 えを受 け. る相 手 と しての機 には,善 人 も悪人 もあ り,賢 者 も凡 愚 のノ、もあ るとい う世 間 的相対 的立 場 を示 して い る。 この こ とは『 愚禿抄』 に お いて,さ らに詳細 、 に分類 して,次 の よ うに述 べ て い る。 「 また 2種 の機 につ いて,. 2種 の性 あ り。 2機 は一 には善機 ,二 には悪機. な り, 2性 は一 に善性 ,二 には悪性 な り,ま た善機 につ いて, 2種 あ り. ,. また傍 正 あ り。― には定機′ 二 には散機 な り。 また傍正 あ りとは一 には菩 薩 ,二 には縁 覚 ,三 には声 聞 ・辟支等 ,浄 土 の傍機 な り。 四 には天 ,五 に は人等 な り。浄土 の正 機 な り。 また善性 につ いて 5種 あ り。一 つ は善性. ,. 二 には正性 ,三 には実性 ,四 には是性 ,五 に は真性 な り。 また悪機 につ い て 7種 あ り。一 には十悪 ,二 には 四重 ,三 に は破見 ,四 には破戒 ,五 には 五逆 ,六 には謗法 ,七 には聞提 な り,ま た悪 性 につ いて 5種 あ り,一 には 12). 悪性 ,二 には邪性 ,三 には虚性 ,四 に は非性 ,五 には偽性 な り。」. これ につい ての一 々の説 明 は省 略す るが,こ れ によ ると,彼 は常識 的世 間的 な 考え に したが って,人 間 の機 に善悪 の両種を認 め,さ らにその 善機 を定 散 の. 2機 ,浄 土 の傍 正 の 2機 に分 け,悪 機 を ば 7種 に分 け,ま た善性 ・悪性 を も それぞ れ 5種 に分 けて,そ れ らの 中 に あ る種 の順序段 階を認 めてい るよ うで あ る。彼 は この 中 で 特 に善機 の定散 の 2機 と悪 機 の最後 の 3機 い わゆ る難化. 12)金 子大栄編「 親鸞著作全集」. 法蔵館. 昭育139年. 自370頁 至371頁.
(8) カ9. 吉 川 正 三. の 3機 につてい は特 に 関心 が深 か ったよ うで あ るが,こ れ につ いて iま 次 の第. :. 3節 にゆ ず る ことに したい。 この よ うに彼 に お いて は人 間 の機 に賢 愚善悪 の 1. 別 あ る こ とを認 め, これ に あ る種 の順序段 階 の あ る こ とを 示 してい るが, こ の こ とはま たす べ ての これ らの機 の救済 され る趣 きを述 べ んがための方便 の 説 と も考え られ るよ うで あ る。. 以上の ことは親鸞が「 その機は即ち一切善悪大小凡愚な り」と言っている よ うに:機 を相対的・倫理的立場がらみたのであるが,彼 における機の 自覚 の本質 は機を絶対的立場か らすなわち如来 に対向し,そ の光 に照 らされた人 間に映し出された影を, 自己の機の本質と反省 し内観する立場 においてあら われている。 この立場は前述のよ うに,善 導の機の深信の思想から大きい影 響を受けたものであるが,客 観的には彼が肉食妻帯を敢行 して,非 僧非俗の. 立場に徹し:越 後流罪の苦悩の生活や,関 東における下層民との生活におい ― て,彼 が『唯信抄文意』中に表現しているよぅな:「 いし0か わら・つぶて」 とよぶ「れうし。あき人」のごとき 「屠浩の下類」と深く交わることにおいて, これをわが 身 にひ きあてて,い わ ば彼の 内観 の世界 に お いて感得 した もので あ ろ う。 それが吏 に「 内観 の極 限 に お いて感得 さるる もの と しての如来」. 13). の前に対向したとき,如 来の絶対の光,無 限の大慈悲の光に熊破されて,ぁ たかも影が光 に照 し出されるごとくに反省されたものであろう。親鸞は一切 の人間を,人 間の本質的な在 り方を罪悪的存在として,『 歎真抄』第 1条 に. 言うように,「 煩悩熾盛,罪 悪深重」の凡夫としてとらえている:こ のこと につ いて,さ らに考究 を進 めてみ たい。 親鸞 は越 後流罪 の 頃か ら愚禿 の号を常用 し,彼 の著作 の大部分 に この語 を 使用 して い る。 この 愚禿 の語 は彼 が『 教行信証』 「 化身土 巻」 の後序 に おい て在 りし日を思 い 出 し, 14). 「 す で に僧 に あ らず 俗 に あ らず, この ゆ へ に禿 の字 を も って姓 とす。」. 13)金 子大栄著「教行信証の研究」 岩波書店 昭和31年 2頁 14)金 子大栄編「 親鸞著作全集」 法蔵館 昭和39年 340頁.
(9) Jθ θ. 親鸞 における機の問題. と言 ってい るよ うに,弟 1髪 し染 衣 して いなが ら,し か も在家生活 を してい る意 味 を述 べ てい る。 しか し愚禿 の よ り深 き内面 的意 味 は,自 己 こそは 愚悪 の凡 夫 で あ り,煩 悩熾盛 ・ 無慧無愧 の人 間 で あ る こ とへ の強 い 内省 で あ った。 し た が って親鸞 にお ける機 の 自覚 は この 愚禿 の徹底 的 自党 で あ り,絶 対的 な 自 ‐ 己否定 の人 間観 で あ った とい う ことがで きよ うQ彼 においてはノ、間 の現実 は 人間が真 に 内省 的 自覚 的 で あれ ば,そ れ は如来 と対 向す 煩 悩 的存在 で あ った。 る ことによ り, 自己を愚禿 的存在 ・煩悩 的存在 と して 自覚 せ ざるを得 ぬ もの が あ ったよ うで あ る。事実 ,宗 教 は人 の賢 愚老若を問 わず, 自 らの 愚を知 る と ころに,そ の 門 は開かれ るとい われ る。 愚禿 ・ 愚悪 の 自覚 は如 来 とい う絶 対 者 の前 に立 って, 自己を 内観 した とき に到 達 せ られ る自覚 で あろ う。 親鸞 は この 自覚 の上 にた って, 自己を凝視 しつづ けた。 それ はあ くな き執 拗 な 自己凝視 とい って よい。実 際 に彼 ほ ど率 直 に大胆 に 自己の 愚悪 性 を語 っ ・ た 人 は少 な いで あろ う。 い ま彼 の著作 の 中 か ら,愚 悪的 自己 罪悪的衆 生 と して表現 されて い る ことばを 拾 ってみ ると , 次 の よ うな ものが あ る。 『 教 ヽ L :行 信証』 の 中 には,「 愚悪 の 衆 生 ,煩 悩 ・ 悪業 ・ 邪智 の群 生 悔 ,常 没 のり 夫 ,流 転 の群 生 ,濁 世 の群萌 ,濁 世 の庶類,機 悪 の群生 ,煩 悩成就. の凡 夫. ,. 生 死 罪濁 の群萌 」等 の こ とばが あ り,『 浄土文類 衆抄』 の 中 にはそのほか に ・ 市 転輪 廻 の凡 夫 , 機 濁 の凡 愚, 薄地 の凡 夫 「 愚鈍 の衆生 ,流 転 の愚夫 に 底 下 の群生 j雑 染 ・堪 忍 の群生 ,具 縛 の群萌」等 が あ り,そ の他『 和讃』 ぉ ぃては「 常没流転 の凡 愚,流 転輪 廻 のわれ ら,濁 世邪見 の 衆生 ,凡 愚底下 ,. の つ み び と,一 生造悪 の 衆生 ,極 悪深重 の衆 生 ,虚 仮不実 のわが 身」 な どと ・ うた ってお り,『 歎異抄』 において は,「 罪悪深 重 煩悩熾盛 の衆 生 ,煩 悩 具足 の凡 夫」 の ことばが 特 に 目につ くので あ る。 ま ことに これ らの ことばの 多種 多様 に して,徹 底 的 に人間性 の底辺 を掘 り出 して い る ことに,驚 きの情 禁 じ得 な い ものが あ る。 このよ うに親鸞 は 自己を含 めた衆生 において,衆 生 の 根本相 を以上 の よ うに表現 して い るが,そ れ はあ くまで も如来 の光 に照 ら され ,如 来 に対 向 した宗教 的 立 場 にお けるす がたで あ って,世 間的倫 理 的 立 場 に お けるすが たで な い ことは言 うまでいな い。.
(10) 二 31;. 吉 川 正 三. 彼 が『 教行信証』 「信巻 」 の末巻 において,真 の仏弟子 の い かな るものな る か につ いて,相 当 に力を い れて説 明 したあ とにおいて,ひ るがえ って 自己 を かえ りみて. 1. 1. 「 ま こ とに しんぬ。 かな しきかな愚禿 ,愛 欲 の広悔 に沈没 し,名 利 の大 山. に迷惑 して,定 来 のかず に入 ることをよろ こばず,真 証 の証 にちかづ くこ 15). とをたの しまざることを。はづべ し,い たむべ し。 」. と,悲 痛な自己告 白のことばを悲歎述懐 として述べ ている ことは,親 鸞 を語 る者 の誰でも知 らぬものはない ところで ある。 ま ことにこの悲歎 は 自己の赤 裸 々な相に直面 しての驚 きであ り, 自己の全体を技 げ出 したところの懺悔 で あ り,人 間性 に対す る絶対否定であ るとい ってよい ものであろう。 また『 一 _念 多念文意』 においては,. 「凡夫はすなわちわれ らな り。云 々 凡夫 とい うは,無 明煩悩,わ れ らが み にみちみちて,欲 もおほ く,い か り,は らだち,そ ねみ,ね たむ こころ. ,. おほ くひまな くして,臨 終 の一念 にいたるまで,と どま らず,き えず,た ぇず」. 16). と,こ れまた凡夫 としてのわれ らのあさま しい相が臨終の一念 にいたるまで 消 えないことを述 べ ている。 なおまた『 正像末和讃』中の「 愚禿悲歎述懐和 1讃 」 において は,. 「 以上16首 ,こ れは愚禿 がかな しみなげきにして,述 懐 とした り」. 17). と述 べ ているよ うに,全 篇 これ 自己及び当時 の僧侶の愚禿 の様子を限 りな く :悲 歎 した和讃 によって綴. られている。 これは読む者を して親鸞 の深 い 内省 に. よる悲歎を強 く感ぜ じめるものである。 しか し親鸞 において特 に感 じられ ることは,こ れ らの凡夫性,愚 悪性 の悲 歎 の底か ら限 りなき喜びの声 の間えて くるもののあることである。例えば こ の『 正像末和讃』 において. ,. ■5)金 子大栄編「親鸞著作全集」法蔵館 ■6)金 子大栄編「親彎著作全集」法蔵館 ■7)同 上 9頁 “. 昭和39年 昭和39年. 自139頁 至140頁 自529頁 至530頁.
(11) lθ. 2. 親鸞 における機の問題 F無 意無愧 の この 身 にて 、. ま こ との心 はな けれ ども. 弥 陀 の廻 向 の御名 なれ ば. 功徳 は十方 に満 ちた まふ」. 慈小悲 もな き身 にて 「 ヽ. 有情利益 はお もふ ま じ. 如来 の願船 い まさず ば. 苦 海 を いかでかわた るべ き」. 「 蛇 蝿奸詐 の こころ にて. 自力修善 はかなふ ま じ. 如来 の廻 向を たの まで は. 無懸無愧 にて はてぞせ ん」. /」. ` と うた って い るごときは, 自己の無意無愧 ,小 慈小悲 もな き身 ,蛇 蝿奸詐 の. 心を悲しみつつも,そ こに弥陀の廻向・如来の願船をたのみ,そ れに乗じて 救 われ てゆ く喜 びの心 ,彼 の言 う に 「 大悲 の願船 に乗 じて光 明 の広海 に うか びぬれ ば,至 徳 のかぜ しづか ,. 18). 衆禍 のなみ転 ず。」. の心 境 をかた って い るので あ る。親鸞 にお け る宗教 生活 の特長 は, この悲喜 の感 情 の非 常 に高揚 してい る ことで あ る。 これ は善導 の二 種深信 の信仰 内容 に相通 じるもので あ るが,機 の徹底 的 自覚 ,絶 対 的 自己否定 の彼 の考 え方 が, まさに 180度 の転換 を して,弥 陀 の絶対 的救済 の前 に絶対否定 の 自己を抜 げ 出 して い るので あ る。 したが ってそ こよ り生 れて くるものは,限 りな き悲喜 の感 情 で はな いで あろ うか。 ま こと彼 に と って信心歓喜 せ じめ る契機 とな っ た ものは,現 実 生活 に悲泣す る機 で あ ったよ うで あ る。 ` ` 親鸞 の機 の 自覚 は さ らに有名 な「 三 心一心 の 間答」 中 の「 仏意釈 」 におい て,徹 底 的 に述 べ て あ るので あ る。 この「 仏意釈」 は『 教行信証』 の 中 で非 常 に難解 に して重要 な と ころ とい われ てい る。 この釈 において,彼 は第 18願 ` に 信楽 して , 我 が国 に生 れん とお もひて , 乃至十 念 せ と にあ らわれ た 「 至 ノ ん」 と阿弥 陀仏 が因位 の法蔵菩薩 の ときに,世 自在王仏 の前 において誓 われ た浄土往生 のための最 も重要 な三心す なわ ち至心 ,信 楽 ,欲 生 がわれ等衆生 の根 機 には全 く無 い とい うこ とを ,難 解 な こ とばを も って くりかえ し叫んで い る。す なわ ち至心釈 において. 18)金 子大栄編「親鸞著作全集」. ,. 法蔵館 昭和39年 106頁. :.
(12) 吉 川 正 三. ・. 3g. 「 一切 の群生悔 ,無 始 よ り この かた,乃 至今 日今時 にいた るまで,1械 悪汚. . 」1) 染にして清浄の心なし。虚仮講偽にして真実の心なし。 `るが, これは一切衆生が無始から今 日まで,す なわちそlの 本来的 と言ってし 意味において,機 悪汚染,虚 仮講偽で清浄真実の心なしとして,彼 らには至 心の全 くなきことを述べたものである。また信楽釈においては 「 しかるに無始よりこのかた,一 切群生悔,無 明海に流転 し,諸 有輪に沈 iの. 迷 し,衆 苦 輪 に繋縛 せ られ て 清 浄. 信楽 な し。法雨 として 真実 の信楽 な し。. ここを もて無上功徳 ,値 遇 しがた く,最 勝 の浄信 ,獲 得 しがた し0-切 凡 小 ,一 切時のなか に,貪 愛 の心 も ねによ く善心 を けが し,瞑 憎 の心 つ ね に よ く法財をや く:急 作急修 して頭燃 を は らふが ごと くすれ どもぅ す べ て雑 毒雑修 の善 となづ く。 また虚仮諮偽 の行 となづ くg真 実 の行 となづ け ざる な り。 この虚仮雑毒 め善 を もて ,無 明光 明土 にむ まれ ん とす る,こ れかな 20). らず不可 な り。」. と述べて,衆 生 に具わるものとして,「 流転無明海 ・沈迷諸有輪・繋縛衆苦 輪」の二つあ相 をあげ,こ のよ うな流転 ・沈迷 ・繋縛 の衆生 の相 だか'ら 清浄 の 信楽はない。 いな法雨 としてすなわち人間 の本性 として,真 実 の信心がな く, 人間は本来的 に信心が獲 られないよ うにできているとまで極言 している。 だ か ら人間はい くら頭燃を払 うが ごと くに急作急修 し奮闘努力 して も,そ れは 雑毒雑修 の善 ・虚仮諮偽 の行 で あ り,真 実 の行 ではないとまで,は げ しいこ とばを もって表現 している。 さらに欲生釈 において も 「 しか るに微塵界 の有情,煩 悩界 に流転 し,生 死海 に漂没 して,真 実 の廻 21). 」 向心な し,清 浄 の廻 向心な し。. と述べているよ うに, この世 の一切衆生が煩悩生死の海 に流転漂没 し, この 現実世界 に埋没 して しまって, この現実を超 えた高次 の領域である彼岸 の世 界を求 めるとか,人 間 の愛憎を解消す るところの場所を求 めるような真実清. 19)金 子大栄編「親鸞著作全集」 20)金 子大栄編「 親鸞著作全集」 21)金 子大栄編「親鸞著作全集」. 法蔵館. 昭和39年 106頁. 法蔵館. 昭和39年 109頁. 法蔵館. 昭和39年 115頁.
(13) 親鸞 におけ る機 の問 題. ゴθ4. 浄 の廻 向心 がな い と, 自己を反省 しつつ述 べ て い るので あ る。: 以上述 べ たよ うに,親 鸞 は この三心 の「 仏意釈 」 において,徹 底 的 にわれ この ら衆生 には至心 も信楽 も欲生 もな い こ とを強調 して い る。 そ こに は彼 が はか りがた し, しか りといえ ど 「 仏意釈 」の は じめ に言 って い るよ うな「 仏意 し も ひそか に この こころを 推す るに」 の精神状況 において,如 来 と対 向 ,絶 い って よい も 対 者 め前 に■1っ て ,苦 悩 の群生海 の無底 を 内観 した機 の深信 と ので あ る。 しか し この機 の深信 が法 の深 信 によ って裏 づ け られ,真 実 の法 に の三 照 らされ て , ここに機法 一体 の境 地 の 出て くる様相 が, この「 仏意釈 」 心 のそれぞれ の釈 には っき りと出て くるので あ る。す なわ ち至心 も信楽 も欲 ・ ・ し 生 もわれ らにはない。 それが全然無 い こ とを如来 は「悲憫 悲憐 衿哀 」 て ,そ の至心 も信楽 も欲生 もみな仏 の修行 によ って成就 し,そ れをわれ らに こ は三心釈 のそれぞれ において 「 廻施」 した ま うた。 この とを彼 の一 切 「如来 一 切苦悩 の 衆生海 を悲憫 して ,… … 如来 の至心を もて,諸 有 ,. 煩 悩 ,悪 業 ・邪智 の群生海 に廻施 した まへ り。」 「 如来苦悩 の群生海 を悲憐 して ,無 優広大. の浄 信 を もて ,諸 有海 に廻施 した. まへ り。」 て 有 「 如来 一切苦悩 の群生海 を衿哀 して,… …利他真実 の 欲生 心を も ,諸 海 に廻 施 した まへ り。」 と述 べ てい るので あ る。 この意 味 にお いて に われ らには この三心 はな い。 しか し如 来 の修行 によ って成就 し,わ れ ら それを与えた ま うので あ る。 したが って与 え られれ ばあ るとい うかた ち に な るで あろ う」. 22). と金子大栄師 は述 べ てお られ る。 したが って機 の 自覚 の上 か らは,至 心 も信 され て 衆生 に 楽 も欲生 もわれ らにはな い。 な いがそれを 仏の上 において成就 も欲生 与 え られ た ので あ り,与 え られ た意 味 にお いてわれわれ に至心 も信楽 ここに い もす なわ ち真実 の信 心 はあ るの で あ ると,親 鸞 は言 わ うと して る。. 22)金 子大栄著「 教行信証総説」. 百華苑. 昭和39年 257頁.
(14) ゴθ5. 三. 川 正. 吉. 彼 ,事 要 な廻向の思想 があるbl,え に彼 にぉいて 信心 け 21). 、. 「. 「如来 よ りたまわ りたる信心」. で あ って,自 分は信心をもっているとはいえない ものがある。 しか し自分 に は信心がない ともいえない。 なぜかな らば大悲の光は常 に倦 む ことな く我を ´ 照 らすか らである。 ここに親鸞 にお ける信心 の境地 があ りち 二種深信 も一つ のた まわった信心その ものの両面 で あることを うかがい しる ことができるで あろう。. 3.三. つ. の. 機. 親鸞 は F教 行 信証』 の「 信巻」 の 冒頭 において 「 至心信 楽 の願. 正 定衆 の機」. と標 挙 してい る。 これ は「 信巻」 の前半 の本巻 が真実 の信 心す なわ ち至 心信 :楽 の願 の心 を明. らか に し,後 半 の末巻 は正定来 の機す なわ ち真実 の信楽 を得. た人 のす がたを説 い た もの とい われ て い る。 また『 教行信証』「 化身土 巻」 の 冒頭 において は 「 至心発 願 の願 至心廻 向 の願. 邪定衆機 ,雙 樹林下往生. 元量寿観経 の こころな り。. 不定来 の機 ,難 思往生. 阿 弥 陀 経 の こころな り。」. と列記 し標 挙 して い る。 これ はいわゆ る三 願 二 経二機 二 往生 とい われ ,. F教. 行信証』前 5巻 の所説 と照 らしあわ してみ ると,い わゆ る三 願 三 経 三 機 三 往 生 とい う三 々四科 の法 門 とな り, ここに親鸞 によ って一切 の教法 が批判 され. ,. 彼 の思 想信仰 を明 らか に知 る こ とがで きるもの とされ て い る。 しか しなが ら ここで 問願 と した いのは, この うち の正 定衆 の機 と邪定来 の機 と不 定 来 の機 につ いてで あ る。 元来 この三 つ の機 は三衆 または二 定衆 な どとい われ て,一 切衆 生 を この 3 種 類 に分類 した もので あ る。 この三 衆 は印度 仏教 の 時代 か ら取 りあげ られ. 22)金 子大栄校訂. 岩波文庫 「歎異抄」 44頁.
(15) ヨ θ 6. 親鸞 にお け る機 の問題. て,『 倶舎論』をはじめとして『智度論』や『起信論』等々にこれの解釈が な されて い るよ うで あ る。 この三 来 の一 般 的 な解釈 は 「 正 定衆 とは必 らず証悟 す るに定 まるもの,邪 定衆 とは畢 党証悟す る こ と な きもの。不定衆 とは 2者 の 中間 に あ りて,縁 あれ ば証悟 し,縁 な けれ ば 証悟 せ ざるもの」. 24). と釈 されてい る。 これ に対 して 親鸞 は以上 の 各論 の解釈 を参 照 しなが ら,本 願名 号 の立 場 か ら特殊 な解釈 を して い るので あ る。 この彼独 自の解釈 の具体 的な例 は,彼 が 隆寛 の著 した『 一念 多念分別事』 の要文 を抄 出 して,こ れ に 丁寧 な註釈 を施 して門弟 に示 した『 一 念多念文意』 の 中 の熟語 の左訓. 25)と. し. て 示 されてい るもので あ るが,こ れ は要 を得 て説 明 された もので あ る。 それ によ ると,正 定衆 とは「 わ うじよ うす べ きみ とさだ まるな り」 と左 訓 され. ,. 邪定衆 とは 「 じりきざふ ぎよ うざふ しゆの ひ とな り」とあ り,不 定 衆 とは「 じ りきのねむぶ ち しやな り」 と左訓 されてい る。 この正 定衆 の「 往生す べ き身 と定 まる」 とは,真 実信 心を 得 た人 は この世 において 仏 に必 らず な るべ き身 と定 まると ころの不退の位 に住す るとの意味 で あ って,親 鸞 が 「 往相廻 向 の心 行 を うれ ば,す なわ ち の ときに大乗正定来 のか ず にい るな 26). り。」. と『 教行信証』 の「 証巻」 のは じめ に述 べ て い る こ とと同 義 で あ る。 これを 『 末灯妙』 において は一 般庶民 に わか りやす く釈 して. ,. 「 真実信心 の行人 は摂取不捨 の ゆ へ に正 定来 の くらいに住す。 この ゆ へ に 臨終 まつ こ とな し,来 迎 たのむ こ とな し。信心 の定 まるとき往生 また さだ 27). まるな り。来 迎 の 義則 を またず。」. とい われ るもので あ る。 この考え は「現 生 正 定来 の思想t」 とい われ,親 鸞独 自の もの として注 目されて い るもので あ る。一般 に浄 上教 で は浄土 に往生 す. 24)織 田得能著「仏教大辞典」 大倉書店 大正 6年 25)親 鸞上人全集刊行会編「親鸞上人全集」第 3巻 26)金 子大栄編「 親鸞著作全集」 法蔵館 昭和39年 27) 1司. _L. 5801頁. 637『 護. 昭和44年 176頁. 自128頁 至 129頁.
(16) 川. 正. 」θ7. 三. る ときに正定衆 に住す ると考 え られ,ま た聖道 家 で は現生 で 仏 にな る こ とが で きると唱えて い るが,親 鸞 において は現生 において,死 ね ば必 らず仏 にな る こ とがで きるとい う地位 につ くと考 えたので あ る。 この正 定衆 の機 の とる す がたを「 信巻」 の末巻 において 彼 は横超 断 と真 の仏弟子 のすが た と して く わ し く説 明 してい る。要す るに正定来 の機 は他力 の念仏者 と して,死 ね ば必 らず往生す るに定 ま った位 に現生 に お いてつ くと ころの人 々で あ る。 つ ぎに邪定衆 とは「 自力雑行雑修 の人 な り」 と左訓 されてい るよ うに, 自 らの力をた のんで 諸善万 行一一 親鸞 は これを本願 の行信 か らみて雑行雑修 と 指 摘 して い るので あ るが一一 を修 して 浄 土 に生 まれ よ うとす るが,真 の浄土 に生 まれ る こ とがで きず にlly慢 界 に生 まれ るとされ る。彼 の著書 中 に よ く で て くる「定善散善 の機」 は邪定来 の機 の代表 的 な もの とい って よい。 この 定 善 の機 とい うのは精神統 一 によ って観想を凝 らす に適 した もの,い わゆ る 息 慮凝心型 の もので あ り,散 善 の機 とは 日常生活 に お いて 悪 をやめ善 を修 し よ うとす るもの,い わゆ る廃悪修 善型 の もので あ る。 この 2機 は親鸞 に とっ て は定 善 は息慮凝心 のために不可能 で あ り,散 善 は廃 悪修善 のために容易 に 徹底 せ ぬ こ とを,善 導 によ って 教 え られ,ま た彼 自身叡 山時代 にぉぃて す で に体験 していたよ うで あ る。 しか し世 間的な見 方 によれ ば, この 2機 は最 も 健 全 な行 きか た とみ られ るために,一 般 の人 々は この定散 の心 か ら容易 には なれ ることはで きなか った。 したが って 彼 は 『 教行信証』 の 中 において, 「 末代 の道俗 ,近 世 の宗 師 ………定散 の 自心 に まどひて,金 剛 の真 心 に くら し」 と批 判 して い る。 この こ とは親鸞 に と って畢寛 真 に 自己の罪悪生死 の凡 夫 で あ る こ との機 の本質 的 自覚 のいた らざる こ とをを示 した もの と思 う。 さ らに不定衆 の機 とは「 自力 の念仏者 な り」 と左 訓 されて い るよ うに, 自 力 によ って称 え た念 仏 の徳 で 浄 土 に生 れ よ うとす る人 々で あ るが,往 生 がで き るかで きな い か,ど ち らとも定 ま らぬか ら不定 とな ず け られて い るといわ れ る。 なぜ な らば如 来 の名号 を つ とめて称 え はす るが, この名号 の徳を 自 ら の 善根 とす るがために, 自力 の 根切 れが してお らな いので,い わゆ る他 力 の 中 の 自力 とい われ るもので あ る。親鸞 は『 教行信証』 の 中 で. ,.
(17) 138. へ 「大 小聖人 ,一 切善人 ,本 願 の嘉号 を もておのれが 善根 とす るがゆ に 信 を生 ず る こ とあたわず。 仏智 を さと らず,か の 隊│を 建 立す る こ とを了知 ,. 28). す る こ とあたわ ざるがゆへ に,報 土 にい る こ とな きな り。」. とい って い るよ うに, この機 の人 々は念 仏を も ってお の れ の善根 とす るがゆ え に報 土す なわ ち如来 の本願 に報 われ て建設 された真実 の浄 土 に生 まれず に, 浄 土 の辺 隅 にあ る辺地界 に生 まれ ると考え られ て い る。 これ は一般 に 自己否 定 と自己1甘 定 の入 り交 った相 で あ って,い わ l)る 半 自力半他 力の 自力念仏者 で あ るとい われ る。 この三 衆 は親鸞 において は浄 土往生 を願 う願生者 の宗教生活 にお ける三 つ の型 ,三 つの機 を示 して い るもの と考 えて よいで あろ う。親鸞 は この 3機 につ いて 経典 の上 か ら,ま た当時 の教界 か ら,さ らには 自己 自身 の上 に この 3機 を認 めて ,深 い反省 と批判を行 な って い る。 まず経典 の上 か らみ るとき,正 定衆 の機 は『 大無 量寿経』 の精神 を体得 した人 々で あ り,邪 定衆 の機 は『 観 無 量寿経 」の13観 3福 ・ 9品 を修す る人 々で あ り,不 定来 の機 は『 阿弥 陀 経』 の こころを体 した人 々を指 して い る。 さ らに『 大無 量寿経』 の第 18願 と第 19 願 と第20願 は,そ れぞれ ]i定 衆 ・邪定衆 ・不定来 の機相 を示 した もの と考 え ll・ 真 門 にわ ける こ とがで きる。 られ , これを 3門 にわ けて弘願 門 ・要「 さ らに彼 は『 教行信証』「 信巻 」 の序文 において,当 時 の教界 を批判 して の を貶 「 しか るに末代 の道俗 ,近 世 の宗師, 自性 唯 心 に しず みて浄土 真証 す。定 散 の 自心 にまどいて金 剛 の真 心 に くらし。」 と述 べ て,邪 定来 の機 が天下 に多 い こ とを なげ き,さ らに「化身 土巻」 にお いて は. ,. 「 諸寺 の釈 門,教 に くら して ,真 仮 の 1戸 を しらず。」 │‖. と述 べ ,彼 らが 自力 の念仏 に走 り,弥 陀 廻 向 の他 力念仏 を さと らぎる ことを な げ いて い る。. しかしこれらの外的なことよりも,親 鸞においては自己内心の機の展開が 28)金 子大栄編「親鸞著作全集」. 法蔵館. 昭和39年 278頁.
(18) lθ. 吉 川 正 三. 9. る。 それが世 に「三願転入」 いわれ る有名 な彼 の信仰過程 の 重要な問題 で あ・ 0臨 終来迎 の第19願 か 告 自で ある。 これは 3願 として,発 菩提心 ・修諸功徳 ら聞我名号 ・係念我国 1植 諸徳本 の第20願 へ,こ の第20願 か ら至心 信楽 ・ `し. 欲生我国・乃至十念 の第18願 べ の展開を示す もので あるが, これを機 の相か らみれ ば,雑 行雑修 0万 善諸行 を行 な う邪定衆 の機 か ら半 自力半他力 の 自力 念仏者 の不定衆 の機へ,さ らには本願他力廻向の他力念仏者 の正定衆 の機へ の展開を示す も1の で ある。 この 3願 の転入問題 について は多 くの人が論 じて お り,私 自身 もこの機 の相 の展開 には強 い関心をもつ もので あるが,ま こと に根 は漸機であり,心 昏 く識寡 き自己の機な るがゆえに,語 り得 ることの少 なきを恥 じるも│の である。 この三衆 は前述 したように,往 生浄土を願 う浄土信仰生活者 の三つの機 と 考えてよいものであるが,そ れ に対 して反浄土教的生活者 の三 つの機 として, 親鸞 は『教行信証』「信巻」 の末巻 において,「 難治 の機」,「 難化 の 3機 」 をあげているのも注 目すべ きもので あ る。それは. :. 13‐ 人あり, 「 それ仏,難 治 の機 をときて,『 浬槃経』 にのたまわ く,迦 葉世 ヤ そのやまひ治 しがた し。 ひとつ には謗大乗,ふ たつ には五逆罪,み つには. 一閏提なり。か くのごときの 3病 ,世 のなかの極重な り, │と ごとく声聞 19) :縁 覚・:菩 薩のよく治するところにあらざるな り。 」 と述 べ て い るもので あ る8こ れ は前述 の機 の 自覚 の と ころで述 べ た 7秤 の悪 機 中 の最後 の 3機 と同種 の もの で あ る6講 大 禾 とは謗法 とも誹謗 正 法 と ヽぃ ・ ・ われ ,仏 法 を謗 るもので あ り,五 逆 は一般 に小 乗 の五 逆 として の殺父 殺 母. 破和合僧・出仏身血が用いられている。この謗法と五逆は『大無量 殺阿羅漢・ 「第18願 」において,抑 止としてすべてのものを救わうと誓われた弥 寿経』の 二 陀の対象から除かれてさえいるものである。 聞提 とは単に関提 ともいいぅ. この■う 断善根とも訳されて,仏 となるべき性の全く欠けているものである。 に この 3機 は如来 の救済 の対象 か ら除外 され てい るもので あ るか ら,難 治 の 29)金 子大栄編「親鸞 著作全集」. 法蔵館. 昭和 39年. 140頁.
(19) 14θ. 親鸞 における機の問題. 機 とか難治 の 3機 とか いわれ る。 一 般 に これ らの 3機 は特別 な例 外的存在 と 考 え られ ていたので あ るが,親 鸞 は これを一 般衆生 の上 に,ま た彼 自身 の現 実 相 の上 に見 出 した もののよ うで あ る。 ゆえ に彼 が『 教行信証』「 信巻」 の 末 巻 において, この難治 の 3機 の好例 と して『 浬槃経』 に 出て くる阿閣世王 物語 を取 りあげ,阿 閣世王 が謗法や五逆 罪を犯 す過程 と,そ れ に対 しての煩 悶 と懺悔 ,六 師外 道 の説法 ,最 後 に尊釈 の月愛 三 昧下 にお け る説 法 ,そ れ に よ る阿闇世救済 の 過程 と心境 を述 べ た長 い文章 を 引用 したのは,難 化 の 3機 を 自己及 び衆生 の上 に見 出 したにほかな らぬ と思 われ る。 とい うのは この よ うな徹底 的 な反浄土教的生活者 も,つ いには救済 され た とい う阿闇世王物語 に 彼 は非常 な感激を覚 え,阿 閣世 王物語 の結 びの 自督 の文章 において 彼 は 「難 化 の 3機 ,難 治 の 3病 は,大 悲 の弘誓 を たのみ,利 他 の信海 に帰すれ ば, これを衿哀 して治す。 これを憐憫 して療 した まふ。た とへ ば,醍 醐 の妙 濁世 の庶 類 ,金 剛不壊 の真 心を求念す 薬 の一切 のや ま ひを療す るが ごとし。 30). べ し。本願醍醐 の妙薬 を執持す べ きな り と。 じるべ しと。」. と述 べ て,極 悪深重 の 衆生 の救 われ てゆ く信仰を批握 して い る。 ここにいか な る悪人 も救 われ るとい う悪 人成仏 ,悪 人正機 のための大悲 の弘 誓 へ の信仰 「信巻」 の前半 において,真 実信心 の何 た るか の が 明 らか に表 明 され て い る。 い われ を苦心 して解 明 し,後 半 において 真実信 心 者 のすが た,す なわ ち正定 衆 の 機 のあ りか たを述 べ ,最 後 に阿閣世 王 の入信物語 を引用 して,も ってわれ わ れ衆生 が どんな形 で 信 心 の生活 には入 ってゆ くので あろ うか とい う問題 を 提 出 し, しか もそれが難治 とい われ る 3機 を根 本 に お いて,入 信 の事実 を述 べ た と ころに,親 鸞 の深 き反省 が あ り,ま た極悪深重 の人 間 の救 われてゆ く 事 例 に無 限 の感激を 覚 えた もの と思 われ る。 この よ うに親鸞 の宗教 の 根底 に は,常 に人 間 の根本相 へ のめ ざめ,人 間 の機 へ の 自覚 と懺 悔 ,そ れ に相応 じ る法 へ の法悦 と歓喜 が常 に交流 して いて,彼 の宗教 の特色 を形成 した もので あ った。. 30)金 子大栄編「親鸞著作全集」. 法蔵館 昭和39年. 自167頁 至168頁.
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