親鸞の人間観 : 惡人正機の思想史的考察
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(2) 親. 驚--の. 人. 間. 13. 観. (二). 悪人正磯と払-一般的人間をして救済の対象たらしめるに対して,其の人間の恵の規 定に於いて救済の対象たらしめることを意味し・親鷺に於ける特異の主張として・後世 に至る迄,多くの議論を生んだ所であるo勿乱観驚自ら斯る・言責を用いたので紘な. く,叉何^が斯る言葉を用い始めたか明白でないo港普通にこの思想の根拠として,教具 妙が挙抄られるが,款異妙に示されるが如き表現其物軌親驚の諸著に昧見られないo 尊家永三郎菅,中世仏教思想研究p6参照。. 家永博士に依れば,この事臥斯る所詮が誤解せられたり,叉鍵会的珪境が顧慮せら れた結果であろうと指摘せられる.親鷲の著作の申に昧,斯る推測を裏付けるが如き 記述が見ぇる.. 「わるきもののためな少とて,ことさらに,ひがごとを,こころにお. もひ,身にち口にも患うすまじ」と注意せられているo既に念仏静の禁止も行わわ. (蒜So*年)た事でItbり,この新しい教団が其の宗教思想宣布の上て たのでもあろう。. 教具静其物昧親鷲の教詮を正しく伝えるこ.とを以って其の任捗としておb・これを唯・ 教団内外の諸事情の考察に拠って一概に斥けることも安当で絃ないと考えられ,当然其 処に数異紗其物の内容と親鷲の諸著作内容との比較が為されねばならないo教具紗の問 題の箇所に昧,. 「善人なをもて往生をとぐ,いわんや悪人をやo. しかるを,世のひとつ. ねにい披く,要人なを往生す,いかに,い昧んや善人をや,この条一且,そのい昧れあ. とあり,更に「よて善人だにこそ, (望七雲) 鼓して悪人昧とおほせさふらひき」 (望七雲)と'.bるoこれが所謂悪^正. るに似たれど本願他力の意趣にそむけ歩」 往生こそすれ. 横森の拠る文であるが,欺異妙に拭猶,同様の旨趣を詮く箇所がある.摘陀の囲は「ぎ巨. 憩探重,煩悩焼盛の衆生叡たすけんがたやの頗にてまし患す」と説かれるo (蛋裏芸七三) 「滴陀の御かちひ昧煩悩具足のひとのためなりと信ぜら. 翻って親鷺の著書を見るに,. (冠雪克詣・*竺)とあり,叉「知といふ昧しると 煩悩藍真の乗組みちぴきたまふとしるなり」 (竺憲歪表芸壷). れさふらふ昧めでたきやうなわ」. 叉顕浄土真実信女類に拭,. 「遇獲浮信者是心不顔倒是心不虚偽是以極意深重衆生得大. 慶菩心獲諸聖尊重愛軌(浮雲芸芸旨讐)此等の支柱如,表現昧異るが. 異で,煩悩具足の凡夫の救済が頗陀誓願の本質を為すという一点二於て相一致してい. るo正に翠驚にあって昧酔同異足の悪人の救済が肝要の課題であったこと杜撰を容れな い所T:.参るo煩悩具足の凡愚救済が尤も肝要とせられたるの意義に於て凱歌異妙の悪 ^正機の旨趣に一致するo葬Sるに,歎異紗の支柱善意逆転の避詮的表現脅強く印象つU' これが従って極めて強い影響を与A_,斯る表現其物をめぐって思想史的,産卵勺探求が なされた。従って此の点に就いて触れねばならぬ。即ち先づ期る所謂悪人正横詮,善意 相野せt,あて,窓正傍善の立場が法然に帰せられる立場で蕗これも吉野して妊家永博士昧 南紀論文に於いて詳轟削こ論評し, -,二の例証を以って,右の主張な成立せしめるに妊' 冶他に幾多の反証榊が創チられるとなして,患正傍善の所謂恋人正墳の立場が直ち7・,I.
(3) 14. 和. 田. 仁. 雅. 法然に帰せられるに紘無理があると論評し,反面で礼法然が如何に,五濁未軌汚稜 の衆生の救済に,其の宗教的情熱を傾けていたかを榊港「拾遺和語歴録」其他(D消息等を 引証して論L:・五濁末世の汚稜の衆生,悪人の救済の宗教的情熱に於て親鷺妊正に法然 を継ぐものなることを論i;,この悪人正磯詮の直積の源流を(法義家懇によれば著者睦 寛とせられる)後世物語開音轍終瀬の影響に帰せられている. 港醸臥ヒ人伝記「善人簡以往生祝意人手事口伝有之」 柵1・和語燈録巻第四「大胡太郎実秀が尊堂のもとへつか昧す御返事」. 「三宝城壷の時なりといへども,一念すれば,なほ往生す,いかに,い妊んや,≡ 宝の世に生息れて五逆を作らざるわれら摘陀の名号を唱へんに往坐,うたがふべ からず」 2・-. 拾遺和語燈録奄下. 念仏往生義. 「しかれば罪障のをもき妹念仏すとも往生すべからずとはうたがふペから丸文 すなわち,無上の功徳を待ととけり,いかにい紘んや,念々に相続せんをや,し. かれば善根なればとて,念仏往生をうたがふペからず」 3・. 「漢語燈録」. 搬非1.. 「念仏三帆重罪錦城,何況軽罪哉」. 「拾遺和語燈録」. 「貧践煩悩のかたきに,しばられて三界の奨範にとめられたるわれちを瑚陀悲母 の御心ざし,ふかくして名号の利剣をもちて,生死のきずなをき少,本願の要胎. を苦海のなみに浮へてかのきしにつけたまうべしとおもひ候杜んうれしさ妊歓菩 2・. のなみだ,たもとをしぼり,渇仰のおも.ひきもにそむへきにて候 「ある人のもとへつか昧す御楓邑」 「善根すくなしと,い昧んとすれば.十念十念もるることなし,罪障をもしと言昧 んとすれば,十患五逆も往生を途ぐ,人をきら壮んとすれば,常没流転の凡夫を まさしき,うつ昧ものとせD」. 柳瀬「い昧ゆる・滴陀の本朝臥すへてもとより罪悪の凡夫のためにして,聖人賢人 のためにあらずと,こころえつれば,-我が身のわろきにつけても,さらに,うた がふおもひのなきを,信心と披いふなり」. 豪永博士は悪人正機思想の形成に払1F安中末期の沙蘭の者俗信仰が往生をさまた抄 ぬといふ思想の影響が・あろうとせられ, 1F安中末期数多く存在した往生伝が,悪人正機 劉'ま一歩にして肯定する如き思想を示しているとなし読本朝往生伝,拾遺往生伝上, 後拾遺往生伝等を挙抄叉今昔物語,倭漠朗詠集等の歌論に至る迄,斯る内容が盛られて いるとなし,不安定なる政会を背景と・Lて,恋人正機叉昧これに掛、思想が一般に淳熱 していたとせられ親鷲に至る以前に,凡ゆる意味に於いて斯る思想彪威の準備がせも れていたと見られている。 「窓人正磯認の成立」. テこに苧意すべき蹄最近発表せらわた田村円澄氏の論文である. (史学雑誌六-篇--. 号)氏姓頓人なほもて往生をとぐ,いはんや恋人をや」なる連壷;・蒜.
(4) 親. 驚. 人. の. 間. 観. 15. 口伝抄遵法然上人伝記(警醐)の三種にしか見られぬ,tし,鎌倉,窒町 じて:悪人正磯設に言及した事実娃ないとし,夫が一個の飛立した思想である点に注意 せねばならぬとし,更に法然の専修念仏が天台教団の弾圧を受U,其の理由として「十 窓五連なほ極楽の妨に・あらず」が拳抄られているが,.この「十恵五逆往生」の意義昧1. は聖遭門に対立する意味,. 2.には浄土教田内部に於ける諸種の立場に於ける自己教義の. 正統付U,このふたつ'P意味に取られるとし,あたかも歎異紗申の「世の人」とある0)紘 この第二の場合に於ける対者を意味しているとし,. 「聖蒐,許容などの浄土教団の指導. 者を非難していた覚如が,斯る前提に立って「世の人のつねに日ふ」ところの,いわゆ. る常数化した善正傍悪の立場を研簸せしめ, ′逆説的な患正傍善の立場を提起しても不思. )と言っていられる.即ち田村氏によれば問題の逆説的 議娃ない」.(莞義歯文, 新しい教団内部に於ける諸事情に本つくとし,有名な逆説を単純に宗教哲学的立場から. 解釈し,或い昧叉これ巌以って,法然と親驚との宗教思想の璃探と迄解する如き傾のある 雇来の見方紘極めて皮替であると言うのであって,在来の解釈が言菓の上の皮瞥な解釈 に経りがちであるのに対して,右の如き見方昧極めて有意義であると言わねばならない. (≡). 所謂,悪人正磯詮として,今日至る迄,多くの問題を投じた最大の因妊,歎異妙にあ. ろう.そこで拭,救済の対象が善悪のこに分別せら申,救済の滑象が,恵の側に移された 傾が.あり,逆説的教詮が成立しているo勿論,この間潜昧,ひとり教具妙のみで紘なく, 九奄伝,其他にも同様の旨趣をのべたものがあわ,且文法然に杜,救済の対象に関して, 歎異妙と拭逆の立論ななしたるかの如き論述が・あり,従って,救済の対象が善悪何れを正 磯とするかという問題を取上Ull,従来,多くの検討のなされたの昧決して無意義で(,i:なか ったo然し乍ら,法然に於ても親驚に於ても五濁末世なる現実の悲歌がなされ,叉悲痛 な人間悲歎がなされ,斯かる濁意中に沈没せる衆生の済度こそが頗陀の本願たるペしと の確寝たる-宗教的確信が存したことは何人も疑を容れ得ぬ事実であり,さらばといって, 善意二者を分明に対立せしめ,善人正横を予想せしむる悪人正横の立場として,.患を善 ●. ●. ●. ●. ●. ●. ●. に対して強調せしめることが其本旨で・あったかどうれを哉J&紘野間とするo特に親監 に於いて(歎異砂の右の箇所埠親鷲の言責とせられている)欺異妙以来,意が特に強調 せられた観があり,それが後世に与えた影響昧決して砂しとしない2)であって,′問題と せら申るのである.他の著作はともあれ親驚の教詮に直結しているとせられる歎異妙に. 於て示されている準詮と親撃の教笹との聯琴に於中、て革々昧問題を撞超したい.余りに も後単に大なる影響を与えたこの問題が.,親驚の本旨として後世を羊誤解を与え考こと紘 ないれの問題で率る.豪永博士の指摘せらるる如く,悪を救済の対象とするという点 を強調する教詮が当時の世界に与うる影響が親驚に憂慮せられたとすれば,そのこと昧 現今の鉦会に於いても変化培ない0. 月然自勺軍場に於いて,社会的通念に於いて,即ち道徳的,倫理的立場於いて,人娃相互 に彼恋し,此善とし呼んで杜ばからないo. 「善人なをもて往生をとぐ,いかにいわんや恵.
(5) 和. 16. 田. 仁. 雅. 人をや」なる言葉が極めて異常に.・我々の耳に響き,今日に至るもぎ乱反響を呼び,叉 宗教信仰にも誤解を生ずるに至るのも,実妹斯る一般的,倫理的通念が,この言葉其物 に直ちに対置せられ,或昧叉共通念が信仰の立場に直ちに対置せられた結果に外ならな いo ●. ●. ●. 威樫,斯かる社会的,倫理的通念からすれば悪人が往生の如き書き果を得るものなら ●. ●. ●. ば,善人が往生たる書き泉を得るは当然のことであり,其の逆性,理解し難い。一休, 善人とは,悪人と抹,果して何であらうか,親驚昧これを,どう見ているであろうかo 親鷲の諸著書を見るに,善悪の言葉を用いている箇所昧砂くはないが,其の意義,内 容を仔細に検討してみると,必しもー棟で紘ないo親驚は「唯信砂文意」申「不簡破戒 罪根深」を詮明して次の様に詮く「-「罪根深」いふは十患五逆の悪人誘法間接の罪人お ほよそ手放すくなきもの善心・あさきもの恋心ふかきものかやうのあさましきさ皇さ真の っみふかきひとを探という,ふかしといふことばなり・・・」. (謂あ安芸五)ここに示され. る十患五逆,誘捷間接の罪人といふ昧,一般的,社会的意義と仏教的意養に於ける悪人 の両意義を有している。叉,未燈妙に於ける「放逸元噺のものどものなかに,慈はお もふさ皇にふる皇ふべしとおほせられさふらふ昧,かへすかへすあるべくもさふらW.. 丸(票書芸八二・)叉「そのしるしも鮎-らんひとひとに悪くるしから めゆめあるペからすさふらふ」 (冥真筆)とある如き悪とは一般的,社会的意義に られた通念上の惑の意義であろう。 -りとなれ-」. 「ひがごとをことさらにこのみて念仏のひとびとの. 「ひがごと「惑乱の意義にして一 (窒悪文o^i・*)という如き.. 般的漬徳的意味に用いられたことが明らかであるし,叉未二階妙に於て妊,往生を願う人 柱決して師をそしった■抄してならぬ旨を戒め更に「意をこのむひとにもちかつきなんど. することほ浄土にまゐりてのち・・・」のことと之を戒めているが,この場合にも同一意義 に用いられていることが判る,然るに,善悪に園する親驚のこの様な用方について注意 してみるとそれが右の如き一般的敢会通念や道徳の範噂をこえた,仏活修道の意義に於. いて,これを用いている場合がある。彼杜「不簡多聞持浮城」を説く中 (謂あ妄壷七)といひ, 聞」と昧「聖教を?ろくおほくきき信するなbJ 「もろもろの 滅法」をたもたざる人も「他力真実の信心をえてのち」に昧,往生を遮ぐるといい「を のをのの戎善,をのをの!自力の侶,自力の善にて妊,真実の報土にむまれずとしるべ し」. (雲二雪)と述べているo自立的成幸,唱力的善払親鷲によれば往生. えない。この自力的戒善と払. 自力の諸法門に於て,その修道に不可欠の或菩であゎ,. 前記の例が-ブ投的善とすれば,これ昧仏法的善とも名付けらるべきもので・あるo 杜斯る仏法的青も斥けられている.. 「不得外現賢善精進之相」. ここで. (散善義)を説きて「遼'ら. 杜にかしこきすがた善人のかたちをふるま娃され,精進なるすがたをしめすことなか れ」. (男三雲)とも・あるoこれは上記の内容と全く相一致する.. 自力的修漬に於ける請書昧斥けられる,これらの講書紘我h凡夫の其の行年b得ないo 同書五二四. 正俊寿都讃 彼の立場より見棚「自力請書のひと昧⊥「仏智の不思議をうたがうが.
(6) 親. 真に摘花の救に阜ほい.. 驚. の. 人. 周. 観. 17. 「自力の尊貴をば,方陣q)P弓」と(聖書歪蒜壷)一言わ. この立場杜更に徹底してゐる.他力的と見え,る仏法に於ける自力をも′:斥けねばなら ぬ. 「罪両ふかく信じつつ,善本修習するひと昧」, 「庚心の善人」、なる教に「方便化土」 に止まる。. 「他力のなかに・自力と皇ふすこと乱雑行,雑防,定心念 (漂詣表・qe幡). 仏を,こころかゅられて,さふらんひとひとは,他力o)なかの自力のひとひとなD」. (票孟宗八三,)とは同旨趣をのペたるものであるo. .. 「一念多念文意」の中で「是人とい. 然らば善心又は書き行は,何で爵るか,親鷲杜,. ふ披見昧非に対することばなわ,真実信心のひとおば是人とまふす,虚仮凍惑のもの-・% ば非人別、ふo非人といふ軌ひとにあらずときらひ,わるきものといふなり,是人旺. よきひととまふす滞(竺要義歪夏豊) ‥蕗右昧「但有専念阿禰陀仏衆生照棒金雑業行者此亦是現生護念槍上篠」を註釈し串も ので為る。. R、わるきひとに対 「-仏の腰 それ故に「其巽信菓」抹是とせられ,善とせられねばならぬo. これに依れば「真実信楽のひと」が是人と言われ,書きひとであ′、D, 置せられるo. を伝ぜざる.をあらざれどもわが身のほどを,拭からふに罪障のつもれることは,おぼく. 同書七四. 八,七四 善心のおこること昧すくなし,こころつねに散乱して一心をう`畠こ 九曜 信砂 )とある.ここに「善心」と昧仏の厩を信ずるこtJ三豊ぜI-それ娃叉 還れ・ trりも触さザ滑Clで・bb,金剛心であるo.(慧毒詣三) 港「信心すな牲ち^i一心なり」叉. ・一心すな旺ち金剛心なり,金剛心昧菩鐘心,この心す紬ち他力な. すなわち,親鷲にあって昧,仏の願を信ずることこそ最も肝要であゎ,仏願凌信ずる. こころこそよきこころであ′り,金剛の心であり,これこそ親鷲がその全生産を通じて詮 き勧めたところの.ものであったo-彼昧,唯信砂に於て,碗無量詩経の「具三心者必生彼 国」とこれに対する善導の釈を釧車て改く申に■r至誠心」捻「貰実のこころ」とし「虚. 仮のこころ」をひるがえして(琵書芸甲f)ノ「仏の腰を信ずること真実 べし」 (望敷)とのペ,信心の決定を説きすすめているo真実の信心をも よきひとでなければならぬ.歎異妙にも,善人と昧是人と言われ,悪人上昧非人である とも指摘せられている。. この様に克てくると,親驚に於る完数的信仰に於て昧,一般柾金的,倫理的通念紘も とよ′り,自力的仏教修業に於ける或善の立場も叉,他力的立執土於いても,些れ. 自力. 的修善のカが認められる場合に,それ昧雑書として斥けられるoまことの善昧,皇ごとの 信仰のみであることと成る.後世物語聞書には「元智のものも念仏だにすれば,三心具. 足して,往生するな少,ただ論ずると′ころ払煩悩具足の凡夫なれば,昧じめ七 ろのよしともあしとも・沙汰すべからず・・・」 要で,こころのよしあしを沙汰する臥. ここ,. (諾意姦詣壷)ひたすら摘陀をたのむこと. 無用である.. 「iE定衆に信心の人絶佳したまへ. りとお捲しめし侯なば行者の,昧からひのなきゆへに,義なきを義とすと他力をば申な b,善とも悪とも浮とも械とも行者の昧からひなきみとならせ給ひて候-ば澄なきを義.
(7) 1S. .和. 田. 仁. 雅. とすと昧申ことに慎′-Jとある(星亨嘉忘蒜玩欝莞息)信心の境 も稜とも行者の抜からひをこえたるところにあるoよしもあしも実妹根本的に拭信の問 同書四,≡. 題に連るo人間昧一切凡愚としてあるo.. 数行信燈 r英機者A.J一切善意*,)、凡愚軌( 一本には書窓の 雷抜れ歎異妙に昧「火宅嬢常の世鼎は,よろづのことみなもて たつ給してもて ふ)そ らごと・まことあることなきに-」 (望莞空姦表あ)と言己されるo. .これ叉同一の旨趣をのペたも0)であらうoよろづのことと軌自戯的立場の人間の通 常釧チつらう一切であ妙,自然的牡糾こ於いて,自然的立場に放て,劉車つらう善や愚昧 捻じてそらごとであると断定している,斯る立場の善意紘一応止揚せられんとし,自力 的域善昧難敵虚供の善とせられる,期る善をなすものが善人とすれば,それ昧,虚仮 の善人たらねばならぬ。. 虚位の善人昧「暁怜の心常に能く法財を焼き」. 「一心時中に貧愛の心」あゎ「頭燃紘ら. ふが如く」努力する着であわ,しかも,その行たるや「虚仮諸偽7)行」. 1=卑にすぎぬo. 「食愛の心」を昧らひつつ仏活成就に努力してもそれが完全に満されると昧衰えられて いない..この様に考察し,教具砂の問題の蔚所を見る,歎異砂の著者によれば,これ昧親 鷲の育英として考へらIYLる.然りとすれば右の考察からすれば「善人なをも往生をとぐ」 の善人が, ・某国の善人と杜な少得ない,真岡の善人とすれば「なをもて」とは意味をな さない.それ故に,この善人と昧,他の意義の(即ち一般通念上,叉昧自力的戒善を守 るもの)善人である,斯かる善人は勿論,往生の中に入るべく,い'わんや憩人と称せら れている者も往生を速けねばならぬ.然しながら,斯かる善意両者抹,某国の善人に対 置せられる異次元の存在者である.在来の仏教が指向する自力的精進牲止揚せられんと するo世間的善意を以って救済の因,不対とするが如き問題の外にある。斯かる意味に. 於いて救済の対象紘,恋人たらねばならぬ,それ故に,この言責を解するに,通常の倫 理観を以ってすること総説りである,.叉これを以って一般社会惑の許容の如く解するが 如き柱間題の本質的誤解であると言わねばならぬ。ここで紘通常の倫理観や,自力的行 妊斥けられる,. 「父母のためにとて一遍にても念仏まうしたることさふら昧ず」と拭,. あたかも-請書万行の止揚であり,出家,在家の区別に固執することを斥けるのも,本質、 にあって娃この間超と同一である.. 一心に於いて善が窮極すれば,孝養杜夫行に於てr-Jぜられるo 吾舟が既に速づた如く.親鷲の人間観杜極めて強い人間悲歎であるQ思想的にみれば, その頗本的な人間悲歌とその救済の悲願が・あの歎異砂の逆説的な言語●と怒って表明せら れたと解してよいであらうoあの逆改的な表明昧,右の如き人間観に依越しているので あってiこれを単・に言葉の表魂の上からのみ解して,これにこだわること昧安当で昧 ない.夜来これが所謂蛮人正横説として著名となり,親鷲と接然との宗教思想の対決に. 患で用いられるなど,言葉の端に拘泥し過ぎたものと言昧ねばならぬ.従ってこの表現 が単なる教団内部事情に帰せられることにも疑問がある。.
(8) 親∴ 驚.の. 人. 間. 19. 観. (四)., (諭したが・これに 親驚の人間観に園聯する重要な間取悪人正横の問題を以上の虫h. 国聯して凄に-T,ニの問題に琴いて考察したいo親驚に刺、て払五濁末世に放ける 罪藍深重人間発見あるとのべたが,他面に於いて親鷲拭「心性もとよ少清けれど,∧この. (望悪裏表)主のJiq,人間の本革本性紘清浄な抄,, )に軌明白に「一切衆生悉有性Lt,?_I:・未燈砂 にのペてい去,翠,;碓澄( (票盃七大)とあ草・ に娃「坤むは血性なり,wd述す姦わち知新妙と仰せられ侯」 世性急こと.のひとぞなき」. 行各一乗 :海釈申. 戟驚の育英として練乳点が,あるが親驚の思想を伝えて多く誤って披いないと考みられ るo親驚が日蓮所間経,捜頼経等の本意を平易な紬執こ書き記したと言う,浄土和讃の 中で「如∋払すなわち,浬磐なり,浬磐を仏性となづけたり・ =倍心よろこぶそ申ひと軌. 国書,四九七 (静産のここる によりて腐 陀和讃九首 ) と記される,親賛の信仰払ここに充分に示紬ていると畢え. 如来ノとひとしとときたまふ大信心昧仏性な歩,仏性すな妹ち如来なり」. こ.れ昧前乱未燈砂の克と内容的に全く相一致しT_いるo ^,信心な得たる時,それ紘仏位にいたれるも.0,それ昧如来に等しい,信心昧まさ 「心性も. に仏性の爵視である,この思想が「仏性すなわち如来なサ」と表現せられ声o とよ歩,清け咋ど,この世払まことの人ぞなき」に′・これが対置せら中る・丁現巽の世 界の人間にをも. この顕現せらるべき仏性,信心は,容易に顕現せられずにある.そのこ. と牲正に軸陀の悲願に放て,成ぜられねばならぬ所であるo信心を有すべき人間杜現実 o)世則こ於て昧五濁の裡に混迷し,.その心性昧吐渡している,. 「性」をま煩悩に覆練れてい. 「不能見」であるが「到壷粂仏国即必顕t&・陸」である(雷訂墓誌. るが故に,. してそれ抜本願力の回向による.. 斯くの如く,見でくると仏教思想史上一見極めて奇異にうつる親饗の人間観の根底時,. 大乗思想潮流甲中にあると言わねばならぬ,仏性悉有の人間軌現実に払号れ尊顔現 していなむ.、・?^琴柱善にして惑・仏の子にして人の子である,斯かる矛眉軌時局・信 の一点に於て調和を見出す外昧ないであろうo (五). ^同罪慈観と人間本質清浄観との矛盾の点に?いて更に考察をす 一緒底した人間否定, すめるoこの間題の解決のために妊,仏教思想史の全休が引合に出されねばならぬであ ろうし,且叉キt)ス†数人間観との比較が便宜であらうと考えられるq. 仏教に於抄早人間観の本質をなすもの軌iE党を窮極におく,.^開成道の可能性・及 その問題が中心であらねばならず,結局は仏性諭とノも言うべきものがそれであろう.斯 や-る問題が何時起ったかを明白に決定することは困難で妊あるが,この間題の粛芽は極 めて早い時期に発したものと考えられるが,それが仏性の問題として車上ゆられ,人間 成績甲鞍めの資質の意義とらて考察せられる様になったの乱 数団発達の後のことで あろラ-a. ∴. 、.
(9) 2α. 和. 田. 仁. 雅. 成道資質の問題としての仏性の問題が仏教に於ける重要な課題として浮び上った結束. が大別せられると・九′ト東天々甲立執こ於ける悉有仏性と五性各別の区別であった.. 畠く牲十地籍着払党性別咽耶異物となし,一切衆生にこれを遜める一切有仏性の 立場をとり・壕伽思想に於て軌芦可郡帆虚妄の根拠とせられ党性虹阿槙耶血外 に求められるo然るに,唯識論の論者83:,阿槙耶執こ附与するに無漏の種子を以ってし, 党を得る根元的因となしたが,無漏の種子臥一切衆生に本具と昧せられるが故に,こ れが存在せぬも■の札成道への活動を開始しない理である。ここに五性各別諭の生ずる. 理由が.あるo悉有仏性と五性各別との二論払世親と無菅との対立と由るo融こ,無種痘 者の存在の意義を,仏の慈悲に府する観光の論と,これに反対す畠賢首の諭があゎ,日 本にあって乱数山最澄の一乗波と南都徳一o)三乗溌との対立となる.最澄払一切衆 生悉有仏性の立雛主張したo. 「聞詮一姫生悉有仏性変説定有無性衆生甲妄語」 (笑覧. 「苧胡生 莞芸問責芸芳tJ£莞'f2.ともの-叉・ 「云間接定不可治者・云何待言有仏性耶」. -との設問に,こたえて「答不可治者,酪束. )とも言っている。彼の立痴こあつ 政見時也欧有仏性久久乃凱(竺莞突詰莞右J啓二, ては・既に仏性を一切許す・仏性が許される限如こ於て,仏法上,最も誹藷,排斥せら るペものと錐も・久久にしても成仏への活動が開始せられねばならぬと軽く信ぜられ た。. この仏教に於ける二つの思想潮流払仏教の流れを通して;この種に日本に至る迄, 流れ続けるo一方に於いて謂娃ば現実直税の立場が仏性.Q)一分否定の立場を探抄,他面 に於て,人間内奥の声に聴こうとする者が,悉有仏性諭に耳を傾ける. 仏教に於いて軌斯かるふたつの流れがあったが前者に於て軌一切衆生各h,其D・, 横に応じて・修潰をすすめ,向上の道を辿らしめA,と欲し,後者に於いては,ニー切衆生に. 自己内奥を直税せしめ,菩提成就の素因剖膏せしめ,その白魔の下に,仏位に到らしめ んと希望する.. 1一切衆生札例外なく仏活を修し,仏位に至り得るか香れ仏位に至b. 得ぬ着払何処迄到bうるれ邑叉衆生修道妊如何に行捻れねばならぬれ成道iニ,槽程 は設けられねばならぬのでは別、れそれは,何であるれその内容昧何であるれこ こに成造を中心とする問題の追究が行われるoこれ等が阿畏達磨論者に於て詳細に論ぜ られ畠,大鹿婆抄論にあyjては羅漢を中心-とする修道の要諦が問題の根本どし・t詳細に 論ぜられている。. 仏性の問題も斯かる問題と磯関する重要な成清閑題の要素とし七神学的論争の場に上 った由で率る.本来, ■仏陀の立場は一切衆生に成覚を要請する立場で,潮る和学的論議 杜大なる問題と昧な少得なかった.成覚を中心として,神学的論議がせられ論争の重要 なテーマと成ったの軌仏陀の証示したるさと少に対する後継者の修道に於折る其撃な 反省の結果に外ならないo結局,こp由ふたつの立場払威覚を期する向上のふたつの造 に於ける人間観T<,ある,・この仏教人間観にあって軌キ.)スLF毅にみられる一如き,宿体昔. に対する人間の絶体否定の態度は,見られない。大乗語数学波の探る悉有仏性諭が,砿.
(10) 親. 鷲. の. 人. 間. 21. 観. 教に於抄る正統とすれば-分盤性の立場紘,抱体人間否定で娃なく,宿,成覚への不断. の努力車精進を求める向上道の-の形である.ニの様に考察すると,親驚の^間数紘仏 教思想史上異端的に見える。キ1)′ス・ト教の人間磯に・あって紘原罪思想妊其思想史.上i主 流として保持せられたのに対して,其の救済が摘陀の梼取に於て約せられる将士他力のこ. この信仰の立場にあって昧人間本質罪悪の思琴柱昆臥し難い.親驚昧青年時fも天骨の 門に学んだが,仏性論.其物に就いて昧,全署作のどこにも神学的論議をしていないし, 叉′J、乗,一分集性の立場についてほ一言も.Lていないo一三莱一分尭性の立場娃成仏を契 機として深い反省をなしたが,そこから人間悲観昧出てこずに阿羅漢主義が表面に押し 出されるo一方,親驚の場合に杜成仏のための資質の問題た竜仏性の神学諭昧なされな いo修道とその主体たる^問の資質にi突い反省をなした三乗家は結局,向上造の途を歩 み統軌 親驚の場合に旺かかる修道昧止揚し去られるoここで仏性論が重要な神学的地 位を占めないことをも. 実時自然なのであった.向上活にすこしでも止る限E),、人間自力. 杜徹底的に披捨て去られない,一分無性の立執ま,向上造に止E) 間悲観昧出てこないo. ,そこt=T昧徹底した,人 -般に仏教思想の伝承で昧棒土思想の源流ほ龍樹に迄,遡・もしめ、. られる;瀕そこで昧自力的修道に堪え得ざるものが探るべき道として易行,他力の道あり. とせられるムこの道昧難行道に対する易行道として一見,極めて容易に見えるが,それ 杜決して易い遣で昧あり得ないo港十住民婆沙論,易行品 親驚に於ても,其の宗教の根本的性格昧,自力的向上活-の徹底した悲観がなければ ならぬ.それ紘一分無性的意義に於ける(向上活を全く止揚しない)自己香定で昧なく して正にキ.)スト数的意義に於ける自己香定である.向上道な止揚せる絶体的自己香定 の造があたかも,人間として本来,罪悪に把束せられあるものとし,絶体的な示唾救済に 層依するの外,救済の道なきものとみるキ1)スト数的信仰に似るが放である. 然しここに吾々の注意な惹くの払. ここに昧原鼎均思想の基盤昧なく,人間の本性ギ. 罪悪と不可分に結合しているという思想昧なかった.斯く\して斯かる思想史的伝承の下 に於て現実の人間に重点がおかれ. あく患で人間不信が強調せられたo. ^間の本性と罪. 悪と-を結合せしめた伝承のない親驚の場合には,斯かる立場からする潮学的人間探求論 昧なされないのが当然である。キ.)スト数人間観に昧原罪恵思想がその根本に構わり,. 仏教に於ける人間悲悲観の裏付をなすもの昧,末法史観であったと言A・ようoそれ故に, かかる人間悲歌の背景をなすものとして,現実政会や敦頴の腐敗,堕落が,浮び上る.辛 1)スト教の場合にも執る場合がなく紘なかった,例えば,ルタ-当時の教団や,政治的. 権力者の実状昧,ル兵-自身の記する所に依れば港,親鷲の当時の,それらと極めて相 似ているといえよう.ルターに於て昧人間本有の罪に徹底することに依って,在来の教 団を中心とする形式や,わざ(Werke)の否定に於いて,紳と直結し,紳の恩寵による 信仰の立場に至るoこの場合に経ける現実の人間の堕落,沈毅昧,直接,人間性と罪と の結合に於いて把えら.れ. この点に於いて全くキ1)スト教の波風(バウT')に遡ると. いえる1.親驚の易合に紘前述の如く,人間罪悪のかかる根源探求昧なされ潅かった. この間題昧,ひと少親驚の場合のみに止らぬ桂である。日本の仏教の其の後の展開に.
(11) 22. 和. 田. 仁. 雅. 於ける戒律の喪失の問題,他力教団に於ける形式的人間悲歌,等,大約上述の如き仏教 思想史的背景に於て見るペき多くの問題を撞起する. 海,親驚の人間観については,更にこれと不可分離に結合している戒律の問題,信仰 の問題等があるがここで昧論及しないo 港(1)たとえば「ドイツ国民の基督者貴族に与う」 dentscher. Nation. Yon. des. cbristlichen. (An Standes. den. Besserung.. 二十七箇条の改善案に於ける教権,俗権への論述をみること, Erster. Band.. 1520)中,特に Werke,. (Luthers. S. 385-). (2)ルター杜,同諭に於いて斯る世代を称して, と言っている。. ``in dieser. letzten. virtutis. zeitぃ. ergisten. (同, S. 374) (Disputatio. (3)叉有名な「免置符の効力に閲する九十五箇粂の宣言」 ratione. Adel. christlichen. indulgentiarum.. 1517,-Luthers. Werke,. 1-,参府,共他。 (本研究に当って,文部省科学研究助成金を受けたことを附記する). Erster. pro. decba・. Band.. S..
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