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旧ソ連領被抑留者における「収容所の親鸞」

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はじめに   井上善右衛門は「法の相続」と題された文章に次のように述べている。

京極逸蔵師が『明るい仏教』で次のように言つておられる。「先徳の心の中に咲き出た美しい法悦の花を摘み採つて自分の胸に飾ることは容易である。しかし切 花の悲しさ直ぐに萎んでしまう。切花には生命の根が断たれている。生きた美しいこの花は土を耕し、種をまき、水をそそぎ、その幾年の苦心をへて今ここに咲き出ているのである」と。この例話は適切である。

  引用されている京極逸蔵は、アメリカ・トパーズの日系人収容所に抑留された経歴をもつ。井上もまた敗戦後、旧ソ連領に抑留された後に帰国し得た人物である。場所も状況も異なるが、先人の言葉を「胸に飾る」のみでは切り抜 ()1

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《研究論文》

旧ソ連領被抑留者における「収容所の親鸞」

──西元宗助と石原吉郎をめぐって──

親鸞仏教センター研究員

          

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けられない危機を経た者として、共感するところがあったのだろう。

  一九四五年八月、ソ連による対日参戦の後、約六〇万の人々が旧ソ連領など、各地の収容所に連行され、場合によっては一〇年を超える強制労働を課された。いわゆる「シベリア抑留」として知られる出来事であり、その過酷さによって被抑留者のおよそ一割が落命した。本稿では、この「シベリア抑留」を経験した西元宗助(一九〇九―一九九

〇)と石原吉郎(一九一五―一九七七)の書をひもとき、極限状況下で受けとめられた親鸞の言葉を通して、被抑留者における信仰の一端を明らかにしたい。

  「シ

ベリア抑留」については、これまでに膨大な数の体験手記が刊行され、その実態は様々に伝えられてきた。現在は公文書の探究によって手記の記述が裏づけられるなど、さらなる研究が進められつつある。しかし、今なお十分に解明されていない点は多く残されており、本稿であつかう被抑留者の信仰という課題もそのひとつである。「ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会」による『捕虜体験記』には、次のように述べられている。 『捕虜体験記』には、捕虜の屈辱感、強制労働の苦痛、寒さと飢え、望郷の想いなどが縷々綴られており、これらは、共通体験として一般化することができる。

〔……〕それ以上の精神的側面については、一般化できるような記録が『捕虜体験記』ではあまり語られていない。ドイツの捕虜などでは宗教的信仰のことが問題であったようだが、日本人捕虜の場合にはそのことは語られていない。他方、体験の内面的・精神的側面には、本来、概括になじまない事柄が多いことも考慮せざるをえない。

  『捕 虜体験記』は様々な体験手記を地域ごとに集録し、「事実を事実として歴史的に正確さを求めつつ記録し、将来に残す」ことを課題としており、そもそも信仰といった個々人に密着する事柄は内容としてなじまない面であった。しかし、「日本人捕虜の場合にはそのこと〔宗教的信仰〕は語られていない」というのは、必ずしも事実ではない。たとえば、後に確認するように西元の抑留体験記には部分的ではあるが、信仰に関する記述を見出すことができる。あ ()3

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るいは西元は『歎異抄的世界』といった著作に、みずからの抑留時の信仰を語っている。ただでさえ「概括になじまない」側面であるうえに、抑留に関連する語が題に冠されていない書などは個人に注目されないかぎり、見落とされてしまうのだろう。

  しかし、抑留体験の手記において信仰に関する記述がそれほど多く見受けられないことは事実であり、その理由については様々に検討される必要があると考えられる。そもそも被抑留者たちがみずからの体験を語ること自体、被抑留者を「アカ」として嫌厭した戦後日本の状況下では受容されがたい一面を有したことに加えて、まして抑留時の信仰について社会が聞く耳を果たして有していたかどうか、まずは問われなくてはならないだろう。あるいは、体験手記などに伝えられる状況の深刻さ、繊細さを認めるゆえに、非当事者が正面から言及することを回避してきたという点もあるのではないか。被抑留者たちは危機のなかで従来の信仰が崩壊したとしばしば語っている。上記の状況に鑑みても、そういった体験は容易に語り難いうえに、当事者たちの語りには抑留を経験した者のみが想像し得るような機 微が込められていよう。しかし、それでも西元や石原のような当事者たちは語ることによって、極めて貴重な証言を遺してきたのであり、そのことにあらためて思いを致すべきである。むしろ、敗戦からすでに七〇年を経過した現在においては、非当事者がこの問題をある種の真摯さから回避することは、不可避的に忘却や無関心に加担する場合さえある。そのように考えられるため、ひとまず本稿を現時点における報告としたい。したがって、この重大な課題について、筆者がその端緒を見出そうとしているに過ぎないことはあらかじめ断っておかなければならない。  本稿ではまず、ここであつかう問いがいかなるものかを検討したい。次に西元と石原の略歴を確認し、両者の抑留体験を概観する。そのうえで最後に、収容所のなかで読まれた親鸞の言葉を通して、いかなる思索がそこで展開されたのか、若干の考察を試みる。

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一  「収容所の親鸞」という問い

 

  「収容所のプルースト」について

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  本稿の題における「収容所の親鸞」という言葉は、ポーランドの画家であるジョゼフ・チャプスキ(一八九六―一

九九三)による『収容所のプルースト』という書に触発されている。チャプスキは一九三九年にソ連軍の捕虜となり、一九四一年までいくつかの収容所に抑留された。おどろくべきはチャプスキなどの被収容者が、「毎回テクストを事前の検閲に出すという条件で」、お互いの知識を糧に収容所内で講義し合ったということである。

いまでも思い出すのは、マルクス、エンゲルス、レーニンの肖像画の下につめかけた仲間たちが、零下四十五度にまで達する寒さの中での労働のあと、疲れきった顔をしながらも、そのときわたしたちが生きていた現実とはあまりにもかけ離れたテーマについて、耳を傾けている姿である。   講義のテーマは「書物の歴史」、「イギリスの歴史、それに移民の歴史」、「建築の歴史」「南米のこと」など、担当する者によって様々であった。チャプスキは「フランスとポーランドの絵画について、そしてフランス文学についての一連の講義を行なった」。もとよりこういったテーマの書が収容所のなかにあるはずはなく、講義の内容はすべて被収容者の、収容以前の記憶にのみ依拠する。すなわちチャプスキはマルセル・プルースト『失われた時を求めて』について、記憶のみをたよりに講義したのである。たとえば、チャプスキは『失われた時を求めて』における登場人物、ベルゴットの死について次のように述べる。

ベルゴットは、死ぬ前にもう一度フェルメールを見たいと思い立ち、美術館へ行くのは健康に差し障りがあることをわかっていながら出かけることにします。

〔……〕「小さな黄色い壁面、小さな黄色い壁面、とベルゴットは小声で繰り返した。私はこんな風に本を書くべきだったのだ、この壁面のように、同じフレーズに何度も立ち戻り、書き直し、膨らみをもたせ、何 ()8

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層にも重ねて。〔……〕ほとんど誰だかわからない画家が、ほとんど目に見えないような細部に、これほど熱心に取り組んだというのは、一体どういうことなのだろうか。おそらく誰も気づかず、理解できず、奥底までは見ないであろう目標に向けて、これほど絶え間ない努力を捧げることに、何の意味があるのだろうか。それはまるで、私たちが、調和と真実の別世界で作られた法則のもとで、正義と絶対的真実と完璧な努力を追求して、生きているかのようだった。その世界の反映が、私たちまで届き、私たちを地上で導いているのだ」。〔……〕

  ここで突然ですが、連想のせいで、別の偉大な作家のことを思い出しました。その作品群の最初から最後まで、神と不死というたったひとつの問題に取り憑かれた作家です。「人生の多くの事柄が、私たちの目には隠されている」と、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の口を借りて、ドストエフスキーは言っています。「しかし、その代わりに、私たちには別の世界との生きた関係をもっているという内的な感覚が与えら れている。それはより高い次元の世界であり、私たちの思考や感情の根っこは、ここではなく、別の世界に下ろされているのだ」。

  チャプスキはあくまでもプルーストについて講義するのだが、このようにドストエフスキー等にも連想が及び、しかも「引用」さえ為される。この講義においてチャプスキは、収容所のなかで、収容所を超えた真実の世界と言葉によって対峙し、その他界との内的なつながりによって人間としてのみずからに踏み留まろうとしている。講義のひと時を「わたしたちには永遠に失われてしまったと思われた世界を生き直したあの時間」とチャプスキがあらわすのはそれゆえである。

 

 

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生死を超える言葉

  訳者である岩津航は同書の解説「プルースト、わが救い」を、「無人島に一冊持っていくとしたら、どの本にしますか」という、平易な問いから書き起こしている。岩津 ()12

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はこの問いを次のように展開する。この問いは「あなたの人生にとって欠くことのできない本」とは何かを尋ねるものであり、さらにいえば「どんな書物にも触れることができないとき、人は自分を支えてくれる言葉を失ってしまうのだろうか」という問いなのである。つまり、ここでは「本」が問題になるのではない。私たちがいかなる言葉によって支えられているかが問題とされるのである。

  「無

人島に一冊持っていくとしたら、どの本にしますか」という言葉には、二つの問いかけが含まれていると、真宗研究者である杉岡孝紀は述べる。一つにはいかに私たちが孤独を想起し得るかという問いであり、二つには「死を予期せざるを得ない極限の状況にあっても迷うことのない本物の言葉にあなたは出遇っていますか」という問いである。

死を自覚せざるを得ない絶体絶命の状況の中で、私の、あるいは私たちの心の空腹を満たしてくれる真実の言葉、本物の言葉――仏教的にいえば、生死を超える言 0000000

0との出遇いというものを探し出すことは、私という 存在が孤独でありながらも、今ここにこうして因縁によって生起している存在である限りにおいて、とても大切なことになると思います。

  収容所のなかでは多くの人々が「生死を超える言葉」を求めた。ある者は和歌などの文学に、ある者は芸術や宗教にそれを見出そうとしたのである。シベリア抑留研究者の長勢了治は収容所のなかでの文化活動について、次のように述べている。

作家の米原万里はあるソ連女囚の興味深い話を書き留めている。女囚曰く、ラーゲリで最も辛かったのは重労働でも、酷寒でも、貧弱な食事でもなく、「ラジオ、新聞はおろか肉親との文通にいたるまで外部からの情報を完全に遮断されていたこと、そして何よりも本と筆記用具の所帯を禁じられていたこと」だった。女囚たちが見出した解決法は、かつて読んだ小説やエッセイや詩を思い起こし、朗読(デクラマーツイヤ)して再現することだった。そうして『オセロ』から始まって ()14

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『戦争と平和』『白鯨』などを「読破」したのだという(米原万里「監獄は人を文学者にする」)。それが生きる励みになった。人間にとっての読書の根源的な意味を示すものであろう。〔……〕

  エラブガで一つの仏像が彫られた。「エラブカ仏」である。作者は東京美術学校彫刻科出身の山本稚 わかひこだった。エラブガで亡くなった戦友を弔うため彫った阿弥陀仏。自動車のスプリングなどから彫刻刀をつくり、白樺を材にして四七(昭和二二)年春につくった。仏像は三国浄春が苦心の末四八(昭和二三)年八月に持ち帰り東京の雲照寺に安置した。

  「抑

留者の中には大学教授や諸種の専門家がいたので、それぞれの得意分野で講義や勉強会が行われた」ことも、長勢は指摘している。みずからの生命が危機にさらされるとき、それでもなお人が表現を求め、なかでも言葉を糧とするということは、たとえばヴィクトール・E・フランクルが記した、妻との対話における聖書の言葉、あるいは同じくナチスの収容所で記憶のみをたよりに隣人にダンテ 『神曲』の一節を伝えようとする呻吟を記したプリーモ・レーヴィの著作からも窺われる事柄である。あるいはアメリカの日系人収容所では、収容所内で「正信念仏偈」(「正

信偈」)や『仏説阿弥陀経』などの講座が開かれ、または石に経典の言葉が一字ずつ記されたのだった。これらを概観すると、チャプスキのように講義という形式が採られずとも、また置かれた状況はそれぞれ別であるにせよ、私たちが生きるとき、そこに言葉が求められているということは通底する。

  私たちは自らの生死に堪え得る言葉と出会っているだろうか。危機が問うてくるのは、まさにそのことである。仏教においては、出家した釈尊から比叡山を出でた親鸞に至るまで「生死を超える言葉」が求められてきたのであり、その問いに仏教徒たちは応答し、教法を伝統してきたといえる。ならば、真宗者においては「収容所の親鸞」が問いとなるのではないか。それは、親鸞の思想が「生死を超える言葉」として、一人の人間において、いかに聞きとられるのかという問いとして見出されてくる。チャプスキやフランクル、レーヴィと近い時代にソ連領の収容所でその問 ()17

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いは実際に問われている。西元宗助はある時期、収容所内で『歎異抄』を講義しており、その講義は石原吉郎の要請によって始められたのであった。

  西元は一九五三年に抑留体験記『ソヴエトの真実』を出版する。ただし、この時点では収容所内での講義について言及はない。しかし一九八〇年に出版された同書の改訂版『ソビエトの真実』には次のような加筆を確認することができる。

O君は、たえず小声で南無妙法蓮華経と、お題目をとなえていた。それに唱和するように、私もまた、ひそかにお念仏申してくらした。クリスチャンの石原吉郎君は、ひそかに神に祈りをささげていた。その石原君があるとき、私に歎異抄の講義をせよという。そういわれても、そのときは歎異抄の原本がなかったので、私の記憶をたどって、ウロ覚えの第一条、第二条を秘蔵の紙に書き、それをテキストにして、毎日曜の午後、ひそかに石原君ら二、三の人々に歎異抄の講話をさせていただいた。   それは、捕虜の境涯にあるだけに深く身に沁みた。なかでも第二条の最初の「おのおの十余か国の境いを越えて、身命をかえりみずして、たずねきたらしめ給うおんこころざし、ひとえに往生極楽の道を、問い聞かんがためなり云々」の親鸞のお言葉は、切々としてわが身にひびくものがあった。もっともこの集いも、シベリア民主運動のたかまりと共に、中止せざるをえなくなったのは残念なことであった。

二  西元宗助と石原吉郎の道のり

 

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西元宗助の略歴

  一九〇九年、西元は鹿児島に生まれた。父母ともに仏縁は深く、特に母は「かくれ念仏」の土徳のもとに育った篤信の聞法者であったという。第七高等学校時代の西元は『歎異抄』に遭遇する。はじめて読んだ仏典であった。暁烏敏『歎異抄講話』に親しみ、一九二七年の秋には、暁烏敏その人とも会っている。

  一九二九年、京都大学文学部哲学科に入学、教育学を専 ()22

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攻し、ペスタロッチを研究する。京都大学時代には、西田幾多郎、田邊元、波多野精一などのもとで学びつつ、京都大学仏教青年会に参加し、精力的に活動している。そのなかで足利浄圓や池山栄吉から感化を受ける。西谷啓治と終生の交流がはじまるのも、この頃からか。当時、西元は学道舎(川畑愛義、長谷顕性、宮地廓慧、東昇など。命名は久松真

一による)を拠点に活動していたが、金子大榮・曽我量深の異安心問題を受けて成った興法学園(安田理深、松原祐善

など)と関わりをもつようになる。西元は西田幾多郎の講義へと安田理深を案内するなどした。

  一九三二年に京都大学を卒業するが、結核を病み、郷里にもどり静養する。郷里では師範学校の教員を勤めるなどしたという。一九四〇年、森信三に福島政雄の学風を推されて、満洲建国大学の助教授となる。一九四五年の敗戦以降、捕虜となり一九四九年まで抑留生活を経る。帰国後は京都府立大学で教鞭をとり、定年退職後は京都産業大学で教員生活を過ごした。一九九〇年一二月一三日に西元はその生涯を終える。暁烏門流の道場での法話「よき人の仰せ 幸福に死して真実に生きよ」が遺稿となった。   西元の書には様々な人名があらわれ、そのことは西元の学びの広さと深さを証している。京都大学哲学科の名だたる人々、真宗の教学者たちも東西を問わず、さらに高野山大学の学僧たち、禅(沢木興道)、静坐(小林信子)、唯識

(佐伯定胤)、仏教学(長尾雅人)など、数多の学びの場に実際に足を運び、道を求めた聞法者であった。

 

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石原吉郎の略歴

  石原は一九一五年一一月一一日、静岡県に生まれた。語学の才能に長けており、一九三八年に東京外国語学校を卒業する。キリスト教への関心から教会を訪ねるなかで、カール・バルトに師事したエゴン・ヘッセルと出会い、洗礼を受けている。

  神学校への進学を決意し、その準備のために退職するが、一九三九年一一月に召集を受ける。ヘッセルから召集拒否を勧められるも応召し、翌年に大阪歩兵連隊の陸軍露語教育隊へ派遣され、一九四一年には関東軍のハルビン特務機関に配属される。 ()23

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  敗戦後、捕虜として各地の収容所に抑留された。一九四九年には反ソ連・スパイ行為の罪で重労働二五年の判決を受けるが、一九五三年三月のスターリン死去による特赦を経て、同年一二月に帰国した。

  一九五四年、詩「夜の招待」が谷川俊太郎と鮎川信夫により「特選」に選ばれ、『文章倶楽部』に掲載される。喪失していた日本語と再び出会い、若い詩人たちと共に詩作にはげむ日々が続く。一九六三年、第一詩集『サンチョ・パンサの帰郷』を出版した。

  一九五九年、石原は「肉親へあてた手紙」を執筆する。親族への義絶状であり、戦後日本がいかに被抑留者を迎えたかについて、怒りと悲しみとを記すものだった。いつか石原論を書こうと考えていた詩人の大野新は、石原からみずからの思索を綴ったノートを借り受ける。そこに「肉親へあてた手紙」は挿み込まれていた。一九六七年に大野がノートに綴られていた思索と共にこの手紙を詩誌に公表すると、大きな反響を呼ぶことになった。大野に私淑していた正津勉は「発表の媒体を持っている大野さんにノートを託したらどうなるか、石原さんはわかっていたと思う。自 ら退路を断って、〔シベリアについての〕散文を書かざるを得ないと思っていたのではないか」と推測する。後に石原の全集を編むことになる詩人、粕谷栄一も「石原さんは公表を望んではいなかったと思う。〔……〕他動的ではあったけれど、肉親への手紙が発表されてしまったことが、石原さんがシベリアのすべてを書くきっかけになった」と語る。親族についての私的な文書が公開された心痛を一因として、夫人の健康状態が悪化した。また、こうした状況のもと、シベリアについてエッセイを書き進めていくなかで、石原の酒量が増えていくことになった。  一九六九年、抑留についてのエッセイ「確認されない死のなかで」、「ある〈共生〉の経験から」などを発表する。一九七二年、抑留体験のエッセイを集めた『望郷と海』を出版した。  一九七七年一一月一五日、自宅にて死去しているのを発見された。 ()26

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旧満洲・建国大学について

  西元のシベリア抑留は、満洲建国大学の教員であったことに起因する。そのため、ここではその成立から閉学までを概観しておきたい。

  一九三一年九月、中国東北部を占領した関東軍は、皇帝溥儀を執政として、一九三二年三月に満洲国の建国を宣言した。満洲国は日本による大陸侵略の軍事的・経済的基盤として機能し、日本の敗戦を経た一九四五年八月一八日、皇帝溥儀の退位をもって崩壊した。

  一九三六年、辻政信は満洲に大学をつくるという構想を官僚に提起した。石原莞爾の亜細亜大学構想に由来し、着想を得たものである。関東軍参謀長であった板垣征四郎はこれに賛同し、具体的な立案は辻が担うことになった。一九三七年、国民精神文化研究所の助手であった筒井清彦は、辻から相談を受けて西晋一郎(広島文理科大)、作田壮一

(京都帝大)、平泉澄(東京帝大)を紹介したという。この三人に筧克彦を加えた通称「四博士」が建国大学創設にお ける主要人物となり、一九三八年五月、満洲国首都である新京(現長春)に建国大学は開学した。

  学生は日本、中国、朝鮮、モンゴル、ロシアから選ばれた。前期三年、後期三年の計六年間、「塾舎」での共同生活のなか、午前中は教室での座学、午後は軍事訓練、武道訓練、農事訓練、精神講話が行われた。たとえば沢木興道

(一九三九年三月二〇日)、倉田百三(同年一〇月三一日)、伊藤証信(一九四一年六月一一日)などが来学し、指導、訓話をしている。

  先述したように、西元は一九四〇年に建国大学に赴任している。たとえば他の教員には、宮沢賢治研究で知られる天沢退二郎の父である天沢不二郎、学生には映画監督である森崎東の兄、森崎湊などがいた。森崎湊は一九四二年三月二二日の日記に、「入学前訓練」の一環として設けられた講話の概略を記している。

朝、紀平先生のお話。先生は熱烈真摯の碩学、われわれのために特にわかりやすく興味あるようにと念じられてお話したもうもののごとくみえる。〔……〕日本 ()27

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に英雄はないのである。さらにいえば一億国民ことごとくが英雄である。一人一人その分を守って使命を果たしゆくのである。したがって「一億一心」を実現することが可能なのである。

  「紀

平先生」とは、国民精神文化研究所で中心的な存在であった紀平正美と推測される。「一人一人その分を守って使命を果たしゆく」といった講話の内容は、紀平が編集に関わった『国体の本義』における次のような内容に則している。

我が国の和は、理性から出発し、互に独立した平等な個人の機械的な協調ではなく、全体の中に分を以て存在し、この分に応ずる行を通じてよく一体を保つところの大和である。

  紀平との交流も深かった金子大榮もまた、一九四〇年以降『国体の本義』に則した仏教理解を「和の世界観」という題において語っていた。西元は学生時代から交流があっ た金子を一九四三年五月一三日に建国大学に招聘している。金子はまさに「和の世界観」と題して講話しており、建国大学の教育の一端を窺うことができる。  歴史学者の山室信一は、「主観的心情」として当時の日本人が「新しい国づくりに参加せんとする純粋な心持」を有していようとも、その「主観的善意が必ずしも結果における善行を保証するものではない」と述べて、「善を行わんと欲しながら悪を為すこともまた政治の世界の避けがたい宿業」であると指摘している。満洲国も建国大学も「政治の世界」から免れがたく、当然この宿業を抱えている。  実際、この問題を西元自身が建国大学の崩壊にあたって体感せざるを得なかった。西元は一九四五年八月一七日の出来事として、次のように証言している。

わたくしは、あの終戦の日につづく数日のことも、一生忘れることができない。終戦の翌々日に私宅に訪れた鮮系学生は、別れの挨拶をのべたあと、先生はご存知なかったでしょうが、済州島出身の一、二のものを除いて、われわれ建大の鮮系学生のほとんどが朝鮮民 ()28

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族独立運動の結社に入っておりました。しかし先生、朝鮮が日本の隷属から解放され独立してはじめて、韓日は真に提携できるのです。わたくしは祖国の独立と再建のために、これから朝鮮に帰 えりますと。

  さらに満系の学生もきた。彼は憲兵隊に昭和二十年の春、逮捕され取調べられていたもの。以前にわたくしの塾生であった因縁で、彼の拘留中には私も時折は差入れなどしていたのであるが、そのGが、とつぜん官舎に豚肉をたずさえて訪ねてきたのである。ところで、彼が最後にいった言葉は、先生、東方遥拝ということが毎朝、建大で行なわれました。あのときわれわれは、どのような気持でいたか、ご存知でしょうか。われわれは、そのたびごとに帝国主義日本は要敗――必ず敗けるようにと祈っておりました。それから黙祷という号令が、かかりました。あの黙祷

と要敗と同じように殆んど同じ発音なのです。 っておりました。中国語では、黙祷と磨刀とは、遥拝 義日本を打倒するため刀を磨け、磨刀の合図とうけと

は、帝国主

  先生、わたくしたちは、先生たちの善意は感じてお りました。それだけに申訳ないと思っております。しかし、先生たちの善意がいかようにあれ、また東亜連盟の理想がいかように遠大であれ、満洲国の実質が、帝国主義日本のカイライ政権のほかのなにものでもなかったことは、遺憾ながらあきらかな事実でしたと。わたくしは、これらの言葉をききながら、わが〝建国大学〟のもろくも無残に崩壊していく轟音をきく思いがした。

  西元が語るように、「善意」や「理想」がいかなるものであろうとも、満洲・建国大学には「帝国主義日本」が深く食い込んでいた。西元のそういった思惑が崩壊した時点から、抑留は始まる。

 

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西元と石原の抑留体験

  西元は一九四五年一二月に新京で連行され、チタ、ノヴォシビルスクを経て一九四六年一月二〇日に捕虜として、アルマ・マタ(現カザフスタン共和国アルマトイ)の「第四 ()31

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〇地区第三分所」に到着する。この収容所は『捕虜体験記』では次のように証言されている。

収容者の前歴をみると、憲兵、警察官、特務機関およびこれらに関連した人たち、満鉄通信情報関係者、電信電話局関係者、外交官、官庁の人から市中で拉致されたり密告された一般民間人といったぐあいに、じつにバラエティに富んだ職業の人たちの集まりであった。そして、これらの人たちの約二割近くの者がこの年の夏ごろまでの間に故国をしのびながら消えていったのである。〔……〕夜、隣りあわせて話をしていた者が朝になって声をかけても返事がないので、よく見ると冷たくなっていたといった程度のことは、抑留者はおそらくだれしも経験していることだろう。

  一九四六年一月つまり同年同月、石原もまた、この「第三分所」に収容されている。石原は「関東軍情報部」に配属されていたため、先の引用における「特務機関およびこれらに関連した人たち」ということになるだろうか。零下 二〇度を超える極寒のなか、毛布も与えられず寝起きし、規定量の半分の食糧を得ながら、屋外での建築工事、農場作業、工場など室内での作業といった労働が課された。石原は一九四六年から翌年にかけて「最初の淘汰」が起こったと記している。「長途の輸送による疲労、環境の激変による打撃、適応前の労働による消耗、食糧の不足、発疹チフスの流行などによって、八年の抑留期間中、もっとも多くの日本人がこの期間に死亡した」。西元と石原はここで約二年半を過ごしているが、捕虜のなかで分けられた班によって作業内容には異なりがあったようである。石原の場合、屋外での建築作業が主のようだが、西元には「アルマ・マタ映画撮影所」での作業なども課されている。

  西元は一九四八年五月にアルマ・マタを発ち、翌月にカラガンダの「第九九地区第二四分所」に到着する。西元はここで帰還の内示を受け、同年一〇月には帰還命令が出されて帰途につくが、紆余曲折を経、最終的に日本へたどりついたのは一九四九年九月末であった。

  石原は一九四八年八月にアルマ・マタを出発し、カラガンダに到着している。西元とは対照的なことに、石原はこ ()33

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こで反ソ行為の罪によって起訴され「重労働二十五年(死

刑廃止後の最高刑)」の判決を受ける。過酷な条件下での労働を課される日々が続くが、一九五三年六月にナホトカへ移送される。半年の待機を経て舞鶴港へ入港したのは同年一二月であった。

三  収容所で読まれた親鸞

 

 

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宮城顗の証言と「仏典二冊」

  これまで確かめてきたように、西元と石原の抑留体験は、一九四六年から一九四八年にかけてアルマ・マタからカラガンダへと同じ道のりをたどっている。西元は一九五三年に体験記をあらわし、石原も一九六〇年代末より抑留体験をもとにしたエッセイを世に発表していく。しかし、二人の書が直接的に交差することは石原の生前にはなかった。二人が同じ収容所にいたことを証するのは管見の限り、石原が逝去するひと月ほど前の宮城顗の証言(「具体的なるも

の」、一九七七年一〇月一六日の講話)、そして先に引用した西元の『ソビエトの真実』の加筆部分である。   宮城は次のように述べている。

最近若い人から紹介されまして読みました本が非常に強く印象に残っているのですが、それは詩人であり評論家であります石原吉郎という方の『断念の海から』と『望郷の 〔ママ〕海』という二冊の書物でございます。この石原吉郎という方は戦争中関東軍に招集されておられまして、終戦後戦犯の名を着せられて、シベリアに無期懲役で抑留されておられた方であります。実は皆さんも御承知かと思いますが、西元宗助という先生がいらっしゃいますが、あの方とシベリアで御一緒だったそうです。そしてそのシベリアに抑留中、西元先生が思い出し思い出しして書き留められた『歎異抄』をその石原さんと二人で読んだ仲なんだと、そういうことを後でお聞きしました。

  宮城は、西元が石原と同じ収容所にいたこと、『歎異抄』を記憶のみをたよりに書きつけ、読み合ったことなどを語っている。宮城が西元から直接に抑留時の出来事につ ()41

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いて耳にしたのか定かではないが、少なくとも一部の近しい者に西元は石原との交流について語っていたのだろう。

  こういった証言をもとにあらためて確かめてみると、石原は「仏典二冊」というエッセイを遺している。ここでいう「仏典」とは『般若心経』と『歎異抄』である。ここでは『歎異抄』に限って考察したい。石原は次のように文を始める。「歎異抄と私との邂逅は、文字をとおしてではなく、直接口移しで与えられたものである」。

敗戦の翌年、ソ連領中央アジヤの一収容所での出来事である。敗戦につぐ抑留によって、かろうじて私の内部へささえて来た価値観はことごとく崩壊していた。混乱と無力感のなかで、「新しい」言葉を私は、這いまわるようにして探し求めた。たまたま同じ収容所に、親鸞に傾倒している哲学者がいるのを知って、すがりつくような気持で彼を訪ねてみた。

  Nと呼ぶその哲学者は、一面識もない一人の男の、「親鸞について、なんでもいいから教えてほしい」という性急な言葉をだまって聞いたあとで、「説明はど うでもいいから、歎異抄をおぼえなさい」と答えた。N氏は歎異抄をほとんどぜんぶ暗記していた。  翌日から私は、労働から帰ると、待ちかねるようにしてN氏を訪ねた。N氏はまず、「弥陀の誓願不思議にたすけ まいらせて」に始まる冒頭の一章から、噛んで含めるように私に暗唱させた。ひきつづいて「おのおの十四 〔ママ〕ヶ国のさかひをこえて」という有名な二章から、「善人なをもて往生をとぐ」の三章までを、私は祈るような思いで暗唱した。記憶力がすっかり弱っていた当時の私にとっては、それが精一杯であったが、それだけでも充分すぎるほどであったといえる。思考の大きな飛躍を強いられるはずの、独特な背理も、追いつめられた状況のなかでは、ほとんど抵抗なしに受入れられた。N氏は私にとって、かけがえのない恩師となるはずであった。

  「ソ

連領中央アジヤの一収容所」とはアルマ・マタの収容所のことだろう。また「N氏」という「哲学者」が哲学科出身の西元をおそらく指している。石原より先に帰国が ()43

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決まった「N氏」が「教育に従事したい」と語ったということからも、この「N氏」が西元ではないかと推測できる。実際に西元は帰国後、教育に従事し『教育と宗教のあいだ』といった書もあらわしている。また、石原が帰国後に立ち寄った書店で「N氏の抑留手記」を目にしたと記されており、この「抑留手記」は西元の『ソヴエトの真実』と考えられる。石原が帰国したのは一九五三年一二月であり、西元の著書は同年の一月に出版されている。

  宮城の証言では「思い出し思い出しして書き留められた『歎異抄』」といわれていたが、原則としては文具などの所持は収容所内で認められておらず、口伝による暗唱という石原の書き方には迫真性がある。ここに記されている『歎異抄』も、たとえば第二条の文言「十余ヶ国」が「十四ヶ国」となっているところなど、いかにも口伝の空気感をかもしだしている。もっとも文具の所持については認められずとも調達する者はいたようだから、書きとめるということも為されたようである。「N氏」は暗唱の終わった章について「懇切をきわめた講解」を行い、その講義は数ヶ月にわたって続けられた。石原は収容所のなかで「新し い」言葉を求め、『歎異抄』と遭遇したのである。

 

  「歎異抄的出来事」と「歎異抄的世界」

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  西元の著作『歎異抄的世界』にも石原と等しく懊悩があらわされ、この「講義」についても記されている。

要するにもがけばもがくほど、どうしてもこうしても、なにもかもが悪くなっていき、ただ業火に身を焼く自分があるだけ。

  そうなると、いまや、仏智を疑惑するという言葉すらも私には相応しなくなって、むしろ無仏というべき、いや無仏という言葉すらもまだ上等すぎる。まさしく法を罵るどん底の世界。こうなると、いままで自分にいいきかせてきた、たとえば「このような愚かな罪の深いものをこそ、み仏は特にあわれみ給うて、そのやるせないお慈悲でもって、どこどこまでもお見捨てなくお助けくだされるのである」という信仰の想念は微塵にくだかれてしまって、全身ただこれ悲鳴の、救わ ()45

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れぬ私という一個の人間が屍のように横わってあるだけ。

  そこには奇跡も神秘もなにもない、なにもおこらない。ただ私が私であるだけ。しかし、ひとこと、ふたこと、思わずお念仏申してみて気のついたこと、驚いたこと。それは、大地の根源から、このわたくしと全く一体となってささえているかたのあること。しかもそれは念仏となって私にいたり届いていられるかたであった。まことにそれは、救われぬ身にしみとおるみ名の声であった。

  しかしそれは、かつてのようなエクスタシイ的なものではなく、いたって寂かな、ちょうど東の空がかすかに白んできて、夜のいつのまにか明けていくような、まことに自然なこと。そしてそれは、仲間の俘虜の一人一人のになっている人間業苦の前にひざまずきたいような、そのようなもの。事実、わたくしはこのときほど、一切苦悩の群生海――宿業ということを痛切にわが身に感知したことはない。

  ともあれ、わたしは吐息をつきながら俘虜生活をつ づけた。しかしその吐息は、ともすると自ら念仏になってはねかえりこだましてくるのであった。それはありがたいことであった。そしていつのころからか、数人の俘虜仲間から頼まれるままに、記憶をたどりながらウロ覚えの歎異抄の文を紙片にかき、歎異抄の講義をシベリアですることになった。これは私にとって感銘の深いことであった。  わたくしは、このご縁によって、あらためて歎異抄を拝読、いや拝聴する機縁がめぐまれた。しかも俘虜生活という特異な境遇にあっただけに、その教えは切実にわが身にひびくものがあった。たとえば、聖人においては、極重の悪人とは、三千世界において、ただこのご自分のことであられたこと、そのことに気づかされたのも、このときであった。そしてそれにつけ、異なれるもの、歎かれているもの、とはほかならぬこの私のことであることを教えられた。しかし、なにしろ歎異抄の原典をもたない俘虜の身のウロ覚えの私にとっては、すべてが覚束ないことであった。しかしまた、俘虜の身の耳底にとどまるところの歎異抄は、そ

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れだけに一層痛切でもあった。

  今までの信仰が崩れ去り、「全身ただこれ悲鳴の、救われぬ私という一個の人間が屍のように横わってある」ことを西元は自覚する。そして、その嘆息のなかで「かつてのようなエクスタシイ的なものではなく、いたって寂かな」念仏の声に気づいていく。西元も石原と同じく新たな言葉を求め、模索していたのである。そしてその頃から、数人の仲間と共に『歎異抄』の文言を紙片に書きとめ、講義したと述べている。

  この講義では、西元自身が講者であると同時に教えられる者でもあった。「異なれるもの、歎かれているもの、とはほかならぬこの私のことであることを教えられた」と西元が述べるとおりである。講義の内容については記されていないが、このように自身が教えられるところを語っていったのだろう。如来から「歎かれている」悪人を自身として受けとめることが講じられていたと考えられる。

  このように、西元は『歎異抄』第三条「善人なをもて往生をとぐ。いはんや悪人をや」における「悪人」としての みずからを一人の自覚において受けとめていく。そしてまさにこの一人は救われぬ悪人であるがゆえに、阿弥陀仏の本願がはたらく機である。これこそ石原のいう「独特の背理」だろう。この一人に「大地の根源から、このわたくしと全く一体となってささえているかた」「念仏となって私にいたり届いていられるかた」、すなわち法蔵菩薩が共なっていることも西元は述べている。法蔵菩薩は念仏において感ぜられるのである。

シベリアの大地を円匙をもって、ナンマンダブツ・ナンマンダブツと無我夢中に掘り起こしたのですが、そのナンマンダブツにおいて感ぜられたものは、いわば法蔵菩薩の精神――魂でありました。

  こういった西元の文言は『歎異抄』ではなく、『顕浄土真実教行証文類』(『教行信証』)中に記される偈文「正信偈」に由来している。

それにつけても、正信偈のあの始めのところの帰命無 ()47

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量寿如来、南無不可思議光、法蔵菩薩因位時のお言葉が、しきりに思われてくる。そして、もとよりわたくしは法蔵菩薩ではないが、しかし法蔵菩薩を離れて私はないということ、いや、ともかく、私という人間をうごかしている法蔵菩薩の躍如たる大生命を仄かにも感得しないではおれなかった。

  法蔵菩薩は一人の信仰に感知されるのであり、この自覚をもって西元は現実と対峙している。ただし、西元自身は法蔵菩薩ではない。西元は念仏に法蔵菩薩の魂を感じつつ、次のようにも記している。「私は遂に法蔵菩薩ではありえなかつた。殊に惨憺たる俘虜の境涯に負かされて、一時は殆んど人間性を喪失し、この世ながらの餓鬼畜生道に陥つた」。

  先に「N氏は私にとって、かけがえのない恩師となるはずであった」という石原の言葉を引いた。『歎異抄』の講義が数ヶ月続いた後、石原は「N氏」との一切の交渉を断つことになる。「N氏が隣人のパンを盗んで営倉へ入れられ」、「一切のよりどころを一挙に奪い去られたような衝 撃」を受けたゆえである。石原は次のように述べている。

ずっとのちになって、その事件の意味をすこしずつ考えはじめたとき、私はそれがまさしく歎異抄的な出来事であったことに気づいて、居たたまれないような悔恨におそわれた。その頃から、私はまたすこしずつ歎異抄を暗唱しなおすようになった。

  先に見たように、西元は悪人としてのみずからということをおそらく講義のなかで語っていたのだろう。そうであるならば、「N氏」はみずからの行為によって、結果として図らずも『歎異抄』の言葉を証している。対照的に「N氏」から遠ざかった「私」は自身を善とし、「N氏」に自身も抱える悪を投影したことになる。つまり、悪人の自覚ということを耳にしながらも、善悪でもって他者を断じたのであり、まさにこのような「善悪の字しりがお」こそ「歎かれているもの」であって、「独特の背理」のはたらく機なのである。

  石原は「仏典二冊」を「帰国後一と月ほどして、たまた ()50

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ま立寄った書店で、N氏の抑留手記をみつけて読んでみたが、パン泥棒の一件はどこにも書いてなかった」という文で終えている。この文は様々に解釈することが可能である。「仏典二冊」における石原の『歎異抄』との遭遇については、これまでも言及されてきた。たとえば多田茂治は「N氏」の人間性が崩壊した一例として、あるいは細見和之は、石原における「裏切り」について考察するなかで、このエッセイを解釈している。しかし、果たしてそうだろうか。

  石原は特務機関の同僚であった林秀夫に次のように語ったという。

  帰国から数年後のことだが、石原はある日林秀夫宅を訪ねて来て酒を飲み、酔いつぶれて横になり、うつらうつらしていたとき、ふと洩らしたという。「おれも、一番苦しいときは、人を売ったからな」

  林秀夫が耳にした、石原吉郎の最もいたましい言葉だったという。

  このとき石原は、バムのラーゲリで起こったさまざまなことを語ったそうだが、林が語る。 「彼の話のなかには、到底筆に出来ないようなこともありましたよ。ええ、彼も書いてはいませんが……」

  この証言によれば、石原自身が言葉にできない過去を抱えたまま戦後を生き、それでも抑留について言葉を遺したのであった。西元もまた自著で石原が指摘する事柄については言及しなかった。両人ともに言葉にあらわし難い宿業を抱えていたのである。石原は自身も言葉に為し得ない業の地平において、「N氏」の行為を「歎異抄的出来事」として受けとめなおしたのではないか。

  西元は抑留時の信仰を「歎異抄的世界」という題に託して語った。それはまさしく「歎異抄的出来事」が生起する世界にほかならない。すなわち人間の根源的な罪悪が現出せざるを得ない世界である。ゆえに石原は単に人間性の崩壊について述べたのでも、「N氏」の「裏切り」を非難しているのでもないのだろう。石原が「居たたまれないような悔恨」におそわれたのは、二人が抑留時に共有した歎異抄的世界観に由来すると推測できるのである。 ()55

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おわりに   チャプスキは、『失われた時を求めて』における「同じフレーズに何度も立ち戻り、書き直し、膨らみをもたせ、何層にも重ねて」という言葉を講義のなかで伝えている。西元における信仰は、罪人が救済されるという点では、抑留以前と抑留以降とで大きな変化を見出し得ないようにも考えられる。

  しかし、この場合には、抽出される論理展開よりも、既知の文言の反復によって再帰的に出会いなおされた内実の機微こそが重要である。西元は同じ言葉に繰り返し出会い、了解を深めていったのであろう。たとえば、阿弥陀仏による摂取不捨がまずもって定理のように存在するのではなく、一人の悪人において、阿弥陀仏が法蔵菩薩となって念仏に在し、あるいは信心において顕現すると記すところに西元の深化した了解の一端を見出すことができよう。チャプスキがドストエフスキーを援用して述べていたように、西元は法蔵菩薩が顕現する信心において、まさしく「真実の別 世界」たる浄土を現生において内感し、そこに思いを致していたのであろう。  キリスト者である石原がいかに西元の講義を聞いたのか、このことはなかなか判然としない。シベリア抑留研究者の富田武は次のように述べている。

およそ石原のような無教会派的キリスト者にとって聖書を持たない(持てない)収容所での信仰維持は考えにくく、ましてや「失語」状態では「神との対話」

(自己内対話)も成立しなかったはずである。

  確かに石原自身は西元と異なり、次のように述べている。

帰国後しばしば私は、シベリアで信仰が救いになったかとたずねられた。実は、信仰というものがそのような、危機に即応するようなかたちで人間を救うものではないことを痛切に教えられた場所こそシベリアであったと、すくなくとも私にかぎっていえそうな気がする。 ()58

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  しかし、この見解には再考の余地があると考えられる。少なくともアルマ・マタに抑留された時点では富田のいう「自己内対話」が石原に成立していたのではないか。石原みずからが新たな言葉を求めたと述べるとおりである。たとえ、その先に「自己内対話」が成立しない凄惨な状況が去来することになろうとも、これまで述べてきたように、危機において「生死を超える言葉」は求められていた。いかなる罪悪を抱える人間であろうと、求められた言葉のもとに阿弥陀仏の無量の光寿が発揮される。それこそが、西元が石原に伝え、両人を収容所において、たとえ一時期であろうとも支えた親鸞の思想ではないかと考えられるのである。

井上善右衛門『慈光の旅』(百華苑、一九五九年)、四七―四八頁。京極逸蔵『明るい仏教』(学風書院、一九五五年、八六頁)の取意による引用である。アメリカの日系人収容所については、

AMERICAN SUTRA

Belknap Press of Harvard University Press

、二〇一九年)を参照。トパーズ収容所については、近年でも ジュリー・オオツカ『あのころ、天皇は神だった』(小竹由美子訳、フィルムアート社、二〇一八年)といった文学作品で取りあげられている。富田武・長勢了治編『シベリア抑留関係資料集成』(みすず書房、二〇一七年)の「シベリア抑留体験記書誌」に六八頁にわたって体験手記の書誌情報がまとめられている。長勢了治『シベリア抑留全史』(原書房、二〇一三年)、富田武『シベリア抑留者たちの戦後』(人文書院、二〇一三年)、同『シベリア抑留』(中公新書、二〇一六年)など。藤田勇「序にかえて」『捕虜体験記』第一巻「歴史・総集篇」(ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会、一九九八年)、六頁。ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会『捕虜体験記』刊行委員会、「刊行の趣旨と訴え」、『捕虜体験記』第一巻、一頁。栗原俊雄『シベリア抑留――未完の悲劇』(岩波新書、二〇〇九年、五四頁)には、抑留下の飢えから他人のパンを盗もうと考えたみずからに気づいたとき、「私は餓鬼道に落ちた。信仰は壊れてしまったんです」という廣瀬杲の証言が記されている。この書の原題は

Proust contre la déchéance

であり、「堕落に抗するプルースト」といった意である。『収容所のプルースト』という題はあくまでも翻訳に際して付されたも ()

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のであるが、本稿のように、収容所での言論活動を考察する地平を開くという示唆に富む。読者各々にとっての「収容所の」言葉、すなわちみずからを支える言葉とは何かという問いを喚起させるといえよう。ジョゼフ・チャプスキ『収容所のプルースト』(岩津航訳、共和国、二〇一八年)、一五頁。『収容所のプルースト』、一六―一七頁。『収容所のプルースト』、一五―一六頁。『収容所のプルースト』、九九―一〇二頁。『収容所のプルースト』、一七―一八頁。『収容所のプルースト』、一五五―一五六頁。杉岡孝紀「無人島に持って行く一冊の本」(『真実に生きん』「りゅうこくブックス」第一二三巻、龍谷大学宗教部、二〇一一年)、一三六―一三七頁。「無人島に持って行く一冊の本」、一三八―一三九頁。傍点は引用者による。『シベリア抑留全史』、三一〇―三一一頁。『シベリア抑留全史』、三一〇頁。ヴィクトール・E・フランクル『夜と霧』(霜山徳爾訳、みすず書房、一九八五年)、一二五頁。プリーモ・レーヴィ『これが人間か』(竹山博英訳、朝日選書、二〇一七年)、一三八―一四八頁。森祖道・蓑輪顕量「新稿・全米日系人博物館所蔵の「一 字一石経」――ハートマウンテン強制収容所墓地跡からの出土品――」(『仏教文化学会紀要』第一七号、仏教文化学会、二〇〇九年)を参照。西元宗助『ソビエトの真実』(教育新潮社、一九八〇年)、八三頁。湯治万蔵編『建国大学年表』(建国大学同窓会、一九八一年)、一四三頁、二一九頁を参照。宮沢恵理子『建国大学と民族共和』(風間書房、一九九七年、二九六頁)によると、副総長である作田壮一から仏教を研究してほしいと要請されたという。西元宗助「よき人の仰せ  幸福に死して真実に生きよ」、岡本精一編『すでに道あり』(大和仏教文化センター、一九九一年)に所収。ヘッセルについては、細見和之『石原吉郎――シベリア抑留詩人の生と詩』(中央公論新社、二〇一五年、七三―七九頁)を参照。畑谷史代『シベリア抑留とは何だったのか――詩人・石原吉郎の道のり』(岩波ジュニア選書、二〇〇九年)、六三―六四頁。『建国大学年表』、七頁。森崎湊『遺書』(図書出版社、一九七一年)、三五頁。文部省編『国体の本義』(内閣印刷局、一九三七年)、五一頁。 ()

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山室信一『キメラ――満洲国の肖像』(中央公論新社、二〇〇四年)、一四頁。『建国大学と五族協和』の著者である宮沢恵理子は、三浦英之『五色の虹  満州建国大学卒業生たちの戦後』(集英社文庫、二〇一七年、五二―五四頁)におけるインタヴューで、「祖国が対立状態にあったとしても、現状の打破を目指して必死に前に進もうと努力していた期〔年度〕もあれば、分裂が決定的になってしまい、民族間の交流があまりうまくいかなかった期もあります。「民族の垣根を越えて真の友情をはぐくめた」という卒業生もいる一方で、「共同生活によって得るものなどなかった」と否定する卒業生もいるのです」と語っている。すでに山根幸夫『建国大学の研究――日本帝国主義の一断面――』(汲古書院、二〇〇三年、二三―二四頁)に「建大の同窓生で、東北師範大学の教授だったある学者」の発言として「他国を侵略して、その民族を征服し、武力で支配しながら、民族協和を呼びかけるなんて、正気の沙汰ではない」と記されるとおりであり、山根は「日本人は安易に民族協和について語るべきではあるまい」と述べて、宮沢の見解を厳しく批判している。『建国大学年表』、五五四―五五五頁。この発言は『キメラ――満洲国の肖像』(三〇二―三〇三頁)にも満洲国を象徴するものとして取りあげられている。近年では、根津朝彦『戦後日本ジャーナリズムの思想』(東京大学出版会、二 〇一九年、二一一―二一二頁)に小林金三の伝聞としても引用されている。西元の十五年戦争末期の行動については、森文子『脱出行』(国書刊行会、一九八三年)にも述べられている(西元みずからが『ソビエトの真実』〔一四頁〕で同書の参照を勧めている)。『脱出行』(二九頁)に記される「若い心理学の助教授」「熱心な親鸞教の信者」である「西山氏」が西元であろう。西元宗助『ソヴエトの真実』(弘文堂、一九五三年)、二五頁。山本武夫「アルマ・マタ収容所」『捕虜体験記』第五巻「中央アジア篇」(ソ連における日本人捕虜の生活体験を記録する会、一九八六年)、一三四―一三五頁。石原吉郎「自編年譜」『石原吉郎全集』第三巻(花神社、一九八〇年)、五一四頁。「自編年譜」『石原吉郎全集』第三巻、五一〇頁。石原吉郎「確認されない死のなかで――強制収容所における一人の死」『石原吉郎全集』第二巻(花神社、一九八〇年)、一二頁。『ソヴエトの真実』、六三頁。『ソヴエトの真実』、九九頁。「自編年譜」『石原吉郎全集』第三巻、五一四頁を参照。「自編年譜」『石原吉郎全集』第三巻、五一四頁。 ()

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宮城顗「具体的なるもの」、『願生』第四五号(大谷専修学院、一九七七年)、一頁。石原吉郎「仏典二冊」、『石原吉郎全集』第二巻、三〇七頁。「仏典二冊」、『石原吉郎全集』第二巻、三〇七頁。「仏典二冊」、『石原吉郎全集』第二巻、三〇八頁。もっとも石原はキリスト教の信仰を棄てて親鸞の言葉を求めたのではない。あくまでもキリスト者として親鸞の言葉にふれたのである。石原は「仏典二冊」で『歎異抄』には「思考の大きな飛躍を強いられるはずの、独特な背理」があると述べているが、この「背理」は応召以前にヘッセルから勧められたカール・バルトの翻訳(丸川仁夫訳『バルト神学要綱・ロマ書』、新生堂、一九三三年)で親しんできたものである。石原はバルトについて「背理をのりこえ、のりこえして展開されるその論調」(「教会と軍隊と私」、『石原吉郎全集』第二巻、四〇七頁)と述べている。すなわち、「新しい」言葉を求めたといっても、未知の言葉を求めているのではない。既知の言葉であっても、なおも新たに受けとめなおそうとしたことをいうのであろう。石原のバルト理解については柴崎聰『石原吉郎  詩文学の核心』(新教出版社、二〇一一年、四三―七三頁)を参照。西元宗助『歎異抄的世界』(教育新潮社、一九七〇年)、三〇―三二頁。 「歎異抄」、『浄土真宗聖典全書』第二巻(本願寺出版社、二〇一一年)、一〇五五頁。『歎異抄的世界』、三八頁。『歎異抄的世界』、三二頁。「正信偈」が被抑留者の支えとなったことは、藤谷一海「シベリヤで会った仏さま」(『真宗タイムス』、真宗タイムス社、一九六二年四月一〇日)にも伝えられている。藤谷は辻一郎という人物が「もうこれ以上堪えられなくなったとき、私はふと壁に向かって、爪で南無阿弥陀仏と書いて拝みました。また子供のとき、家のお仏壇の前で親たちと一しょに読んだ正信偈の文句のところどころを思い出して、これを口ずさむことによって、自然と心も落ちつき、不思議とその場が救われました」と語ったと記している。『ソヴエトの真実』、一七五頁。「仏典二冊」、『石原吉郎全集』第二巻、三〇七―三〇八頁。「仏典二冊」、『石原吉郎全集』第二巻、三〇八頁。このように、帰国後も石原は時折『歎異抄』を暗唱していたのだろう。石原と交流のあった木村閑子は一九五七年頃に「石原氏の方から四人〔石原夫妻と木村夫妻〕で歎異抄の勉強会をやらないか、という提案があった」(『石原吉郎・椎名麟三氏に導かれて  聖母マリアの奇蹟』、文芸社、二〇〇四年、三七頁)と述べている。この会は実現には至らなかったが、石原の『歎異抄』への思い入れを窺うことができる ()

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逸話である。「正像末和讃」、『浄土真宗聖典全書』第二巻、五三一頁。「仏典二冊」、『石原吉郎全集』第二巻、三〇八頁。多田茂治『石原吉郎「昭和」の旅』(作品社、二〇〇〇年、八二―八三頁)、細見和之『石原吉郎――シベリア抑留詩人の生と詩』(一二六―一二七頁)を参照。『石原吉郎「昭和」の旅』、一二八頁。富田武『シベリア抑留者への鎮魂歌』(人文書院、二〇一九年)、一二八頁。石原吉郎「聖書とことば」、『石原吉郎全集』第二巻、四〇四頁。 ()

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参照

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