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連 合 国 は 東 京 裁 判 で 何 を 裁 き 、 何 を 裁 か な か っ た か

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史苑(第七一巻第一号)  A級戦犯を「殺人罪」で裁きたかったマッカーサー――東京裁判は一九四六年(昭和二一)五月三日に開廷され、一九四八年一一月一二日に判決、七名の死刑執行が同年一二月二三日になされました。今年は、判決から六二年を迎えますが、現在から東京裁判を考えるとき、「東京裁判」「A級戦犯」という単語は知っていても、では具体的な裁判の進行についてきちんと理解している人は少ないのではないかと思います。そこで、長年、アメリカからGHQによって集められた資料の発掘を続けられてきた東京裁判研究の第一人者である粟屋憲太郎先生に、六〇年経ったいま、東京裁判をどのように理解し、向かい合えばいいのかお聞きします。 まず、お聞きしたいのですが、アジア太平洋戦争後の戦後処理の方法として、それまでなかった裁判方式という形がなぜ採られたのでしょうか。 粟屋 連合軍の対日占領政策の基本は「非軍事化」と「民主化」でした。東京裁判は「非軍事化」、要するに軍事指導者を裁くという形ですから、前者に入ります。それと連合国は枢軸国の戦争犯罪を裁くと戦争中からしきりに言っています。日本についてもカイロ宣言とポツダム宣言で規定されているわけですが、結果的には対日戦争犯罪処罰政策というのはドイツに一歩遅れてニュルンベルク裁判を見習って進められました。それと、これに対して日本側ではどう対応したかというと、自主裁判なんですけれども、これは結局できなかった。ほかにもあったかもしれませんが、一部だけ自主裁判の草案があります。木戸幸一が言っていますが、「天皇の名で戦争を始めているのに天皇の名で戦争犯罪人が裁けるわけない」と。だからできなかった。これはドイツの戦後との大きな違いですね。 ドイツの場合は国内刑法にナチス殺人犯の処罰というの

   連合国は東京裁判で何を裁き、何を裁かなかったか

粟  屋  憲 太 郎

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連合国は東京裁判で何を裁き、何を裁かなかったのか(粟屋)

があり、戦後ずっと戦犯を追ってきたわけですね。そこが日本との違いで、日本の場合は、GHQが自主裁判を禁止するんですよ。日本側で裁くことはないと。 また、前史としては、第一次大戦後のヴェルサイユ会議があります。ドイツの皇帝ウィルヘルム二世を訴追するということと、ほかの戦争犯罪で裁くということでドイツ側に何百人かのリストを送ったんですが、結局はドイツ自身でやったわけです。 ウィルヘルム二世はオランダへ亡命しており、オランダが身柄を渡さなかったからできなかった。ドイツ側は自分のところで裁きたいとライプツィヒ裁判をやったのですが、結局は竜頭蛇尾で、非常に低い結果で、有罪といってもたかだか二年といった具合でした。ほかにもドイツ潜水艦の無差別攻撃などが取り上げられたりはしたんですが、結局裁判は茶番劇であったというのがだいたいの通説になっています。 要するにその失敗があって、連合国としては今度は自分たちが裁くと。日本が自国で裁きたいといったが自主裁判を認めなかった。 つまり第一次大戦の失敗のうえに、ドイツの先例というのがあって東京裁判・BC級裁判はあったと考えられます。 ――東京裁判に先行する形で、ドイツでニュルンベルク裁判が行われましたが、二つの裁判の違いはどういった点でしょうか。 粟屋 ニュルンベルク裁判の最初の起訴状は訴因が四つしかなかったのに対し、東京裁判では五五の訴因がありました。これがまず大きな違いです。 とくにオーストラリアとソ連がマッカーサーがやることに批判的でしたが、これはあまり知られていないのですがマッカーサーはああいう裁判に反対だったんです。むしろフィリピンにおける開戦時の本間雅晴、終戦時の山下奉文、両比島方面軍司令官それと真珠湾を攻撃した時の東条内閣の閣僚だけを裁けと。それも「米国市民に対する殺人罪」で裁けと言っていたんです。またマッカーサーは占領政策全体で外国から関与されるのを嫌っていました。アメリカだけで裁きたいと。(オランダ代表判事の)レーリンクも言っていますが、略式裁判の軍法会議のような形で裁けばいいんだというのがマッカーサーの考えでした。マッカーサーとアメリカ本国とも対立があったのですが、しかしニュルンベルク裁判が先行してあり、国際裁判を開かざるをえない。だけども彼は殺人罪を適用しようとします。ニュルンベルク裁判にはそんなものはないんですが、東京

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史苑(第七一巻第一号) 裁判の起訴状には入った。パールハーバーも殺人罪で裁こうとしていたんです。とにかく長期化してはだめだということで、即断即決、つまり本間裁判・山下裁判の拡大版をやろうとしたんですね。ただそれだとドイツとの違いが出すぎちゃうんで、それが結局はワシントンの判断でああいう形になった。 そうしてマッカーサーとワシントンとは違ったんですが、一部はマッカーサーの意見が入ったんです。殺人罪は入れた。まったく自国本位で、アメリカ市民に対するそれさえやればいいということです。それと国際検察局のキーナン(首席検察官)もマッカーサーに頭が上がらないところがあった。それで妥協的に殺人罪を入れた。しかし、結果的には判決では殺人罪は全部削除されました。  アメリカとマッカーサーはなぜ昭和天皇を訴追しなかったのか

―― 粟屋先生を中心に、この六〇年の間で、とくにアメリカを中心とする連合国の動向という点で東京裁判がどのように進められたのか明らかにされつつあると思いますが…。

粟屋 最近では英文資料を多く使った研究が出ています が、(裁判長だった)ウェッブの文書などを使っている日暮吉延さんの『東京裁判の国際関係』は、アジアのことは描かれていなかったのですが、英文資料を使って今まで知られてなかったことを明らかにしていますね。 資料の公開という点では、だいぶ出てきているんですが、インドとフランスだけは進んでいません。インドは資料があることはあると思いますが、まだ十分に究明はなされていません。また、フランスの文書館に行くと、東京裁判の資料をまだ公開していないんですよ。最近になってベルナール判事の資料は見られることになったらしいということはちょっと聞いたのですが。 それとソ連については、以前NHKとやった「東京裁判への道」の取材班がよく探してきたと思うんだけど、ソ連には東京裁判委員会というものがあった。ところが、この資料はKGB所管で、ロシア人しか見られない。NHKでは見せてもらえなかったんです。 ソ連でいえば、戦後すぐ天皇と財閥を裁けと盛んにプロパガンダをやっていたんですが、実際に持ってきたモロトフ(外相)の指令には、昭和天皇についてはほかの国が賛成したら賛成しろと書かれていました。結局、昭和天皇を訴追しろといったのはオーストラリアだけで、ソ連は当然言うだろうと思っていたのに言わなかった。財閥に関して

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連合国は東京裁判で何を裁き、何を裁かなかったのか(粟屋)

もアメリカが反対したらひっこめろという立場でした。東欧のことは自分たちでやるが、日本は事実上、アメリカにやらせようというスターリンの意思があったのではないでしょうか。 少し後ですが一九四九年に行われた、ソ連に抑留されている七三一部隊のハバロフスク裁判で、あのときまた、昭和天皇を裁けという声明が出されたのですが、もうとても冷戦も始まっていて実現するような状況ではなかったわけですね。 一時期は、中国・ソ連・ニュージーランドなどが昭和天皇の訴追を要求したという記述が多くみられたんですが、私は国際検察局の執行委員会の議事録を見ていてわかったんです。正式に天皇訴追を提訴したのはオーストラリア一国です。

――昭和天皇は東京裁判で免責されるわけですが、最近でも田島道治元宮内庁長官のところにあった謝罪詔勅草稿が話題になるなど、関心の高いテーマですが、免責に至る経緯というのは具体的にどのように進んだのでしょうか。 粟屋 最終的にはマッカーサーの判断待ちになるわけです。マッカーサーは昭和天皇との第一回の会談(一九四五 年九月二七日)以来、天皇を裁くべきでないという意見になりました。治安上の問題からも、もしやるなら百万の軍隊が必要だと。これはかなりハッタリ臭いですが、マッカーサーは占領統治を天皇の権威を借りてやりたいと思っていたから訴追に反対するわけです。 ドナハイという、最近まで生きていたアメリカの検察陣の一人がいるのですが、ワシントンを出るときは検事たちは皆、天皇は有罪だと思っていたと言っています。僕は国際検察局文書を見たんですが、天皇免責の文書には出てこないので、おそらく口伝えで指令がいったのだと思います。 そしてマッカーサーは、一九四六年一月二五日、アイゼンハワー陸軍参謀総長宛てに電報を送り、天皇の犯罪行為の明白な証拠は発見されなかったとして、戦犯として訴追すべきではないと通告しました。 アメリカ本国も結局は占領統治の観点から、うまくやったほうがいいとなったんだと思います。百万はオーバーかもしれませんが、(天皇の逮捕ということになれば)混乱はしたでしょうからね。 それと昭和天皇に関しては、アメリカは日本軍兵士に対して投降を呼びかける心理戦でも、当初は天皇を攻撃していたのですが、それだと投降してこない。だから軍部と、天皇・国民を離反させるプロパガンダをやるわけです。そ

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史苑(第七一巻第一号) れと同じことが兵士の海外からの復員にもいえます。皇族なんかが現地に行って、非常にスムーズに進みます。中国大陸には何百万の完全武装の部隊がいたわけですからね。おそらく世界でも類はないでしょうね。あれだけの軍隊をひとりの命令でおさめたというのは。だから、戦闘を止めるというのは驚きだった。ここでも占領軍・マッカーサーは昭和天皇を利用するべきだとなったのでしょう。 また日本の国民が昭和天皇を支持しているというのが当時の世論調査でも明らかですしね。ですから東京裁判で昭和天皇が免責されたことは非常に大きな影響を与えたんだけれども、最近言われているのは、最低限退位すべきだったんじゃないかという人がいますね。木戸幸一は、講和のときに退位すべきという考え方だったわけです。皇室だけが戦争責任を負わないのは将来のために良くないと。もしあそこで退位していたら、今でも皇室が好きな人は多いですが、もっと象徴天皇制は強固な基盤を得たのではないかと思います。 天皇ははじめ、その気があったのではないかと思うんですが、吉田茂あたりがそんなの必要ないといったのが継続していると見ていいのではないでしょうか。そして最近、明らかになった資料では、天皇は裁判後、東京裁判を支持するとマッカーサーに述べています。  運と不運がつきまとった被告選定と量刑判定

―― 木戸幸一のお話が出ましたが、連合国によってA級戦犯二八名とそこから外れたものと、日本の指導者層が二手にわかれるわけですが、国内の指導者層への影響という意味では、どういったことがあったのでしょうか。

粟屋 証人の問題がありますが、米内光政、岡田啓介なんかが証人に立つわけですが、興味深い人物に田中隆吉がいます。 田中隆吉は評判が悪いのですが、尋問段階ではいろんな人の責任を言っている人がたくさんいたんですが、実際に法廷に立ってそれを発言したということは評価できると思います。もちろん誤りも多いですが。武藤章にも開戦責任があると思いますが、もっとも強硬派だった参謀本部の田中新一なんか全然尋問されていない。日本の統帥権の独立という問題を裁いた側はしっかり理解できていなかったんです。 それとそこまで理解していなかったのと、田中隆吉は私怨もあって、武藤とか佐藤(賢了)の被告選定は、田中の影響が出ていますよね。悪いのは軍務局なんだと。 また、石原莞爾はいまでもファンが多くいますが、石原の場合は最後に名前が出てきたんです。だけど石原は当時

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連合国は東京裁判で何を裁き、何を裁かなかったのか(粟屋)

逓信病院に入院していたため、証拠が少ない。彼も柳条湖で爆破したのは中国兵だと言っているんですよ。だから石原が「なぜおれを逮捕しないか」といったといわれますが、あれは「神話」ですね。やっぱり被告になんかなりたくないですよ。それと石原の場合には、柳条湖事件の際の上官の板垣(征四郎)が被告に入ったので免れたというのもあるかもしれません。そういう点では岸信介もそうですね。彼には星野直樹が上にいましたし。 そういう意味では連合国はいくつかのタイプを考えていたんではないでしょうか。それぞれの代表的な人物を被告にすると。

――裁判の結果では、七名が絞首刑とする判決が出るわけですが、この七名についてはいかがでしょうか。 粟屋 ニュルンベルクは判事の三分の二にならないと死刑にならない。だから全員一致なんです。けれど日本の場合は単純過半数なんです。だから広田弘毅は六対五の一票差で死刑になってしまう。城山三郎さんは『落日燃ゆ』で広田を高く買いすぎていますが、僕も死刑はおかしいと思いますね。彼は、虐殺があったのを知っていたのにそれを止めなかったということで、南京事件時の外相としての責 任を取らされました。これは国際法ではコマンド責任という言葉があるんですが、一、二度抗議はしたんでしょうが、当時の外務大臣はそんな力がないですよ。広田の場合はコマンド責任ということで訴因の五五ですが、あのとき広田は法廷ではアレインメント(罪状認否)で無罪といったんですが、それ以外は何も言っていないんです。多量の尋問調書がありますが、広田の尋問調書を見ると「とるべき責任は取る」と言っている。そういう被告はほかにはいないですよ。そういうことが逆に裏目になって死刑になったと言えるのではないでしょうかね。(軍司令官の)松井石根が責任をとらされるのはしょうがないとは思いますが、(外相では)現地軍に対して指令することができないですよ。だから不条理ですね。 あとは自決した近衛文麿の責任を負わされたところもあると思いますよ。

 かなり親日的だったインド代表のパール判事

――判決については、少数意見を提出したパールが根強い人気がありますが、東京裁判ではパールを含め、四人の判事が少数意見、別個意見を提出しました。それぞれ意味合いは違うと思いますが、裁いた側の判事団についてどのように考えられていますか。

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史苑(第七一巻第一号) 粟屋 ニュルンベルク裁判の場合には、(米英仏ソ)四ヵ国の判事がいたんですけれども、判事が欠席のときに対応できるようにと、判事補がついているんです。 ところが東京裁判の際には、同じようにワシントンが判事補をおけといった際に、マッカーサーは東京は空襲で焼けたので、それだけの人を泊めるホテルがないと言って断った。そのマッカーサーの意向が通るわけです。たしかに一一人増やさなければいけないし、判事は将官待遇ですから。だから裁判官も中途欠席するものが多かったんです。 パール判事は日本では評判がいいんですけれども、たしかに奥さんが病気でインドへ帰ったということもありましたが、ところが帝国ホテルで最初から判決を書いているんですよ。裁判に出ないで、帝国ホテルで書いているときもあるんですよね。だから僕は全面的には評価できないですよ。 また、パール判事でいえば、中島岳志さんの『パール判事』が言っているように、けっして日本無罪じゃないんだ、と。パールは南京事件などについても日本を批判しているんですが日本では無視されている。そういう意味でパールの再評価という点で実像が出ていますね。 そのほかの判事でいえば、レーリンク(オランダ)、ベルナール(フランス)、ハラニーリャ(フィリピン)、パー ル(インド)の四人が多数派判事に対して意見を出すのですが、少数意見は最初、公表しないということで連合国は一致していたんですが、インドから遅れて到着したパールがそんなものには従わないと反対し、ひっくり返してしまうんです。 パールは法実証主義の立場に立っていて、それなりにわかるんですが、歴史認識はかなり親日的ですよ。これはパールと一番仲が良かったレーリンクが言ったことなんですが、(パールは)アジア太平洋戦争が起きたときに日本によるアジアの解放ということで非常に感動した、と。インド国民軍にも一定程度関与していたと言っているんです。 だから僕は、歴史をとらえる場合にパールは全面評価できない。インドは最初判事が抜けていたわけです。しきりにインドの側が我々はアジア太平洋戦争で貢献したんだといった。それなのに、これはインドでも分かっていないのですが、なぜパールが選ばれたのか。裁判開始後、英連邦諸国も批判的だったんです。パールはガンジーを崇拝していたんですが、最初の判事に入れてしまう交渉のときにはさっき言ったことなんですね。だからチャンドラ・ボースは枢軸国の力でインド独立を果たそうとしていたが、彼の考え方はそれに近いのではないかと思っています。

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連合国は東京裁判で何を裁き、何を裁かなかったのか(粟屋)

 「勝者の裁き」は何を裁かなかったのか

―― 東京裁判というと「勝者の裁き」という見方をしがちになってしまうのですが、そうした見方と違う観点での問題点についてはいかがでしょうか。 粟屋 ニュルンベルク裁判に比べると意図的に多くのことが免責されました。 昭和天皇がまず第一ですけれど、毒ガス戦も起訴状の付属書には入っていたんですが、なぜか日中戦争段階で検察側は立証しなかったんです。これについては中央大学の吉見義明教授が、マッカーサー記念館で資料を見つけて、アメリカの化学戦関係者が、今後もアメリカがやるのに自らの手を縛りたくないと、それが化学戦のトップからアイゼンハワーのところにいってアイゼンハワーからキーナンのところに来るわけです。 それと七三一部隊。これも日米合作みたいなもので、東京裁判は「勝者の裁き」で一方的に裁かれたといわれますが、じつは裁かれなかった重要な問題に関しては、日米の合作があったわけです。 あとは植民地の問題。東京裁判では「人道に対する罪」は裁かれなかったんですが、植民地の「従軍慰安婦」「強制連行」はまさに人道に対する罪といえます。ただ植民地 を持っている国が判事をやっていることが少なくなかったわけですから。自分のところに跳ね返ってくるわけですからね。小磯国昭も本来だったら朝鮮総督の時のことを追及してもいいんだけれども植民地支配の視覚がまったく抜けていたんです。それが現在までいろんな問題が起こる原因になっていると思います。 ――「勝者の裁き」と同じように、否定的な見方として「東京裁判史観」ということも言われますが、これについてはいかがでしょうか。

粟屋 東京裁判は関心が高く、「語る」人は多いのですが、専門的に研究テーマにする人が少ないんです。やはりイデオロギーと見られてしまう。政治的性格をまとった論争なので、研究者になじまないと、若い人は特に業績主義というか(笑)、あれやると危ないということがあるんだと思います。だから一方で、アメリカから今度、日本人の女性なんですがハーバード大学の出版会から東京裁判の本を出します。このように海外の眼というか、日本の外で東京裁判に着目する人が出てきている。日本内部では「勝者の裁き」ですが、むしろ吹っ切れたところで出てきています。アメリカでも日本人の研究者は二、三人はいますよ。

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史苑(第七一巻第一号)  国内でも本はいっぱい出ているんですが、ほとんどが東京裁判の弁護側の主張を繰り返しているだけですしね。 東京裁判において、連合国の側は悪いのは軍部であると。「犯罪的軍閥による侵略戦争の共同謀議」であるとした。そうすると軍だけが悪かったということになって、天皇制国家全体を問うたわけではなかったということです。二つに分けて穏健派と軍部だと。そういう二元的な歴史認識なわけです。だから「東京裁判史観」という言い方で、日本のやったことを悪く言っているという話ですが、じつは連合国は日本の指導者すべてが悪かったという立場ではないんですよ。アメリカにしても検察局にしても。悪いのは犯罪的軍閥であると。ですが日本の国家の一五年戦争期の政策決定過程というのは、もちろんそれだけでは説明できないのですが、あえてそういうことをやった。だからむしろ東京裁判史観というのはそういうものを言うべきなんです。そうした部分をしっかり見ておかないといけないのではないかと思います。 だからA級戦犯容疑者二八人についてもそれぞれケースがあるんですが、ドイツの場合はナチス、それに相当するのが軍閥としたわけです。だから免責される人が結構多くなったのですが、僕は財界人も戦争責任を問われて当然だと思いますけどね。  これからは東京裁判を国際的観点から見よう

―― それでは、東京裁判が行われたことの一番の意義とは何でしょうか。

粟屋 僕は裁判のあり方自体には全面評価していないし、批判的なところもありますが、歴史への貢献という目で見たとき、裁判という形をとれば証拠が必要になるわけですから。それが明らかにされたということがあります。東京裁判がなければ、一五戦争の実像は解明されなかったのではないでしょうか。 日本は敗戦からマッカーサーが来るまでの約二週間で、重要資料をボンボン燃やしてしまった。それでも占領軍の力で残っている資料を集め、裁判に使用したという点では評価できます。ドイツの場合は、ベルリンにソ連とアメリカが突入して焼く暇がなかったんです。だからニュルンベルクの場合は中枢的な資料が使われています。日本はほとんど燃やしてしまった。新聞社なんかもそうです。戦後、朝日や読売も写真なんかを焼いてしまった。 新聞社の戦争責任もようやく最近になって朝日や読売が自分たちの責任を認めてきていますが、ドイツの場合にはナチ時代の新聞は戦後全部廃止された。日本の場合はそうではないわけです。そういった意味では、二八人以外のA

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連合国は東京裁判で何を裁き、何を裁かなかったのか(粟屋)

級戦犯容疑者は、戦後の日本を牛耳っている。 それと国民自身の戦争責任というものを同じレベルでは言えないけれど、戦後の国民意識は被害者意識が強いですが、国民が戦争を熱烈に支持したということは東京裁判は裁かなかった。 はじめは一時期、国際検察局では判事と検事を日本から出すのはどうかという議論があったんです。要するに日本の戦争指導者は国民を非常に抑圧したんだと。けれど、アメリカやイギリスの世論が許さないということで、そういうものがキャンセルされた。実現できていれば、もっと東京裁判に関する考え方が深まったのではないかと思います。

――最後になりますが、六〇年たったいま、東京裁判から何を学べばいいとお考えでしょうか。 粟屋 東京裁判もニュルンベルク裁判も国際法を進展させた意味は否定できないわけです。「人道に対する罪」はたしかに事後法ですが、国際法と国内法は違うんです。当時の時点では、国際法で事後法を押しつけてはいけないということは確定されていない。国内刑法では民衆の人権のために必要なんですが、国際法の場合はどうだったのかということが究明されるべきだと思い ますね。 それと、今回、国際刑事裁判所(二〇〇三年オランダ・ハーグに設置。日本は二〇〇七年一〇月に加盟)ができましたが、現在進行形の人道に対する罪や戦争防止とか、そういうものが解決するというふうに進めばプラスに評価できるのではないか。そういう点ではまさに今後の問題だと思います。冷戦のときにはとてもできなかったのですから。アメリカは今回入っていなかったけれども、今後の世界平和を明らかにするために長いスパンで見る必要があるのではないかと思います。 東京裁判の全面否定論者たちは、国際的にはたして説得力を持つのか。韓国は入っていないけれども中国は裁判をプラス評価していますしね。そういうことをどう考えるのか、東京裁判を国際的にみていくということが今後、必要なんだと思います。――本日はどうもありがとうございました。※(本インタビューは『別冊歴史読本 東京裁判はなにを裁いたのか』(新人物往来社、二〇〇八年)において掲載されたものに、筆者が加筆・修正を施したものである。快く転載をご許諾頂いた新人物往来社に改めて感謝の意を表する)。(本学名誉教授)

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