ドイツ人法律家カール・フォークトが見た久留米俘虜収容所
─真崎所長によるドイツ俘虜将校殴打事件の周辺─
上 村 一 則
一.はじめに
二.日独戦争と久留米俘虜収容所三.真崎所長就任前後の久留米俘虜収容所の状況
四.真崎所長によるドイツ俘虜将校殴打事件の発生五.殴打事件の事実関係をめぐる経緯と諸見解
六.「気風の衝突」の背景と「激情家Hitzkopf」七.活発な音楽活動
八.終わりに
論 説
一.はじめに
第一次世界大戦時に「軍都」久留米の俘虜 (1)収容所に約一三〇〇名のドイツ人が約五年間生活して、後のブリヂストンにつながる産業育成など多くの影響を残したことは、久留米市では第二次世界大戦後長らく大きな関心を持たれず、ようやく一九九七(平成九)年の展示会を契機として本格的な研究が始まった (2)。従来の諸研究 (3)では、久留米俘虜収容所は、施設や待遇に対するドイツ兵の不満が多かったり、所長によるドイツ俘虜将校殴打事件が起きたりしたことが強調された。特に、鳴門市の板東俘虜収容所が人道的で「模範収容所」と称賛されることと対比されて、「日本のKZ (4)」と称され、暴力的で非人道的な収容所とされてきた。しかし、近年、ドイツ兵俘虜収容所を「日独交流」史観で「日独両国間の美談」として終わらせることなく、「日本各地の収容所の特性というローカルな視点と、ヨーロッパの民族問題や階級問題、植民地主義やオリエンタリズムといったグローバルな視点の双方から分析し、比較検討していく作業」の必要性が説かれている (5)。特に、収容所の所長や衛兵、俘虜たちのパーソナリティの研究も欠かせないとされ、その中でも最も規模が大きかった久留米俘虜収容所の個別研究は大変重要である。ところで、久留米俘虜収容所には、ドイツ兵将校が七四名いて、その将校の一人にカール・フォークト博士(
Dr. Karl Vogt
:18 78 -19 60
)がいた。フォークトは、いわゆる職業軍人ではなく、外交官を務めた後、一九一〇(明治四三)年一〇月にドイツ人として日本で最初の弁理士資格を取得した法律家である (6)。横浜を中心として法律特許事務所(Crosse, Heath & Vogt
、現在のSonderhoff & Einsel
)を開き、日本の文化や法律に精通して、日本の民法、商法を独訳した本を数冊自費出版している。単なる実務家ではなく、日本におけるドイツ人法律家の草分け的な存在として、シーメンス事件、青島要塞陥落交渉など日独間のさまざまな歴史的事件に弁護士や通訳として立ち会った歴史の生き証人でもある。フォークトは、一九一四(大正三)年七月に第一次世界大戦が始まるとドイツ本国から召集を受け、当時アジアにおけるドイツの拠点であった青島(チンタオ)に、情報局予備少尉として従軍した。日独戦争が勃発して、日本軍によって青島要塞が陥落し敗れた後は、熊本俘虜収容所を経由して、久留米俘虜収容所(一九一四―一九二〇年)に、一九一五(大正四)年六月九日から、一九二〇(大正九)年一月一六日まで、俘虜として収容された。久留米俘虜収容所では、一九一五(大正四)年一一月に、二代目の真崎所長によるドイツ俘虜将校殴打事件が起き、後に久留米俘虜収容所の人道的評価を落とす象徴的要因になっている。フォークトは、この事件の現場にも立ち会い、単なる通訳以上の活躍をしている。他方で、若い時から音楽的な素養があったフォークトは、収容所内でオーケストラを作り、ベートーヴェンなどのドイツ古典音楽を数多く演奏したり、自ら作曲したりするなど活発な音楽活動を行い、日刊情報誌発刊や通訳として日本と俘虜との間を調整する役割を果たした。一九六〇(昭和三五)年五月一四日に日本において八二歳で没した後、自伝的な記録『ある日本在住ドイツ人の人生記録から』(
Aus der Lebenschronik eines Japandeutschen, Tokyo, 19 62
以下「記録」と略し、適宜訳出する)が出版された。この本は、フォークトが自ら立ち会った時代を、日本文化に精通した法律家として冷静に語っており、シーメンス事件や青島要塞陥落交渉などをドイツ側から見た貴重な証言記録でもある。本稿は、近年の研究の潮流を踏まえ、陸軍省資料等 (7)を基礎として、主に、これまであまり光が当てられなかった日本通の法律家フォークトの回想録を、強硬派の意見を代表するブーヘンターラーの記録等と比較しながら、ドイツ俘虜将校の中にあった意見の対立について明らかにし、今日も大きな国際的課題となっている捕虜に対する待遇の在り方について、若干の考察を試みたい。論 説
二.日独戦争と久留米俘虜収容所
(1)ドイツは、一八七一(明治四)年にドイツ帝国が成立して統一国家になると、遅れて植民地獲得競争に乗り出した。保護領として獲得した南西アフリカや東アフリカでは植民地経営がうまく行かず、アジアの重要拠点として清国の獲得を狙った。そのため、ドイツは、一八九四(明治二七)年に日本が日清戦争で勝利すると、ロシア・フランスとともに三国干渉をして遼東半島を返還させた。その後、一八九七(明治三〇)年に、ドイツ人宣教師殺害を口実として、山東半島の青島・膠州湾を無血占領し、翌年の独清条約締結によって、青島周辺を九九年間租借することになり、青島に計画的に街と砲台を建設し要塞を築いた。日本は、一九〇二(明治三五)年に日英同盟を締結し、一九〇四(明治三七)年に日露戦争を戦って勝利し、翌年日露講和条約を締結した。ヨーロッパでは、一九一四(大正三)年七月二八日に第一次世界大戦が勃発した。この戦争は、人類が初めて経験する近代兵器を駆使した総力戦となった。イギリスと同盟を締結していた日本は、「中国周辺海域からのドイツ艦艇の退去」と「膠州湾租借地を中国に返還するために無償無条件で日本に引き渡すべきこと」を一方的にドイツに要求して拒絶され、日独戦争が勃発した (8)。戦闘は、約五〇〇〇名の守備隊がいた山東半島の青島要塞を巡って行われた。日本からは、久留米第一八師団を中心とする独立第一八師団等約八万名が派遣された。諸説あるが、日本側戦死者は、一〇一四名ほどとされる。日独戦争では、一一月七日にドイツ軍が降伏し、約四七〇〇名のドイツ兵俘虜が日本に次々と移送され、最初に設置された久留米俘虜収容所を始めとする日本各地計一六カ所(後に一二カ所、六カ所と集約が進んだ)の収容所に収容された。他方で、ヨーロッパ戦線は、当初短期間での終結が予想されたが、膠着状態のまま長引き、一九一八(大正七)
年一一月一一日にドイツが敗戦するまで収容は五年余りの長期にわたった。この点は、俘虜収容所の在り方を考える上で特に重要な点である。一九一九(大正八)年六月二八日にヴェルサイユ講和条約が調印され、翌年一二月二五日~一月二八日に、日本国内のドイツ兵俘虜のドイツ本国への送還が行われた。(2)ところで、久留米には、一八九七(明治三〇)年に、歩兵第四八連隊 (9)、第二四旅団司令部、衛戍病院が設置された。一九〇七(明治四〇)年には通称「菊兵団」と呼ばれる精鋭部隊の第一八師団が設置され、久留米はいわゆる「軍都」になった。第一八師団には、第四八連隊を母体として第五六連隊、第一四八連隊等次々に新しい部隊が編成された。兵士は、主に佐賀県、福岡県の南部地区、長崎県の一部から軍隊に入った農民の出身であった。日独戦争には、この第一八師団が、神尾光臣中将を指揮官として久留米から出征して勝利に貢献したが、戦死者の中には地元出身者も少なからずいた。久留米の俘虜は、しばらく市内の神社などに手分けして収容されたが、急遽、現在久留米市国分町にある久留米大学医療センターの敷地付近に俘虜収容施設が作られた。これは、一三一九名を収容し全国最大規模のものであったが、元々青島戦争での日本軍負傷者を入院させる施設に手を加えたもので、戦争が長引くことを想定しておらず、決して快適なものではなかった。(3)久留米俘虜収容所には、歴代五名の所長が就任した。全国最大規模の収容所体制になったときの所長は、二代目(一九一五年五月二五日~一九一六年一一月一五日)の真崎甚三郎中佐であった。真崎所長は、佐賀出身で後に教育総監・陸軍大将となり、皇道派頭目の一人として二・二六事件に関与したとされる。この時期は収容所が急激に悪化した多難な時期で、最初の俘虜逃亡事件等さまざまな問題が起きた。天皇陛下臨席での陸軍大演習を控え、細かな規則違反にも厳罰による厳格管理を行った反面、オーケストラの
論 説
設置など生活面での改善も行われた。なお、三代目の所長は、後に第三三代内閣総理大臣となった林銑十郎中佐であった。歴代所長の顔触れを見ると陸軍全体における久留米の重要性が見てとれる。フォークトは、二代目の真崎所長のとき、一九一五(大正四)年六月九日に、熊本から久留米俘虜収容所に移管された。フォークトによると、「久留米での私たちの新しい宿舎について持った第一印象は、まったく思わしくなかった」(「記録」一一〇頁)。悪い印象の要点は、三つある。①久留米収容所は、収容人数に対して狭くてスポーツなどのスペースがほとんどなく、周囲は板塀で囲まれて圧迫感があった。②建物も、青島戦での日本兵傷病兵の病院を補う応急的なバラックを増改築したものであったため、造りが粗末で内部が狭かった。さらに、③青島戦に実際に参戦した軍事施設に隣接していたので、軍からの反感と警戒が大きかった。日清戦争・日露戦争・日独戦争の戦勝国である日本は、欧米諸国から文明国として認められるように、国家の方針として国際法を遵守しようとした。収容所当局から俘虜に強制されたことは、基本的に朝と晩に各一回行われる点呼くらいである。ある俘虜は日記の中で、「収容所での最大の敵は退屈であった」と記している。収容所では、俘虜によるさまざまな活動が行われた。真崎所長は、三年間のドイツ留学の経験があり、「ドイツ人にとって音楽は日本人にとっての漬物のようなものだ )(1
(」と考え、音楽を奨励した。そのような中、フォークトは、「最初の一週間の非友好的な印象は、ドイツ人に生まれつき備わっている極度な勤勉さ
Bienenfleiß
によってすべてなくなった」(同書一一一頁)と記す。後には、収容所内に、オーケストラ・演劇会や教養講座などが次々と立ち上げられ、さらには、工作物展示即売会、筑後川での水浴び、高良大社への散策、ボクシングなどの各種スポーツ大会も行われた。三.真崎所長就任前後の久留米俘虜収容所の状況
( 1 )フォークトによる真崎所長の印象
フォークトは、日本文化に詳しく日本語も堪能であったので、熊本から久留米に移転してきてすぐに通訳を依頼された。真崎新所長と俘虜代表者との初会合で、通訳として接した。当時俘虜側の代表は、最先任将校であり、所内最高級指揮官であったアンデルス(
Ernst Anders
)少佐らであった。フォークトは、真崎所長に対する印象として、「とても感覚の鋭い」真崎所長は、ドイツ将校の拒絶的な態度を感じるや、本来の「硬い軍隊調の態度ではなく、偏見のない友好的な話し方」をしたと記している(「記録」一一三頁)。アンデルス少佐らは、大規模化した収容所における待遇悪化の改善要求をたびたび出していた。ただ、それをお願いする形で行うことを避け、「はっきりと証明することができない俘虜の諸権利を主張できる」(同書一一四頁)と考えて、強硬姿勢を崩さなかった。フォークトは、真崎所長が、所内の改善に意欲的ながらも、俘虜側の代表であるアンデルス少佐らの頑迷な態度に非常に悩み傷ついていたことを記している。「真崎氏は、一度私に、彼が将校たちの態度について何をなすべきかを尋ねた。私は、寛容と忍耐を示すことをお願いし、彼と士官たちは俘虜の取り扱いに悩んでおり、
・・・
私は、彼が軽蔑した私たちの代理人の頑迷さによっていかに深く傷ついていたか気づいた。・・・
私は、真崎中佐が、一度生じた状況下で収容所のために最善のことを欲する、極めて聡明でやる気のある司令官であるとの印象を強くした。」(同書一一四頁)論 説
( 2 )強硬派将校が記した印象
これに対して、久留米俘虜収容所の俘虜が残した記録の中でもっとも否定的な記述とされるのは、ブーヘンターラー(
Heinz Buchenthaler
)陸軍大尉が残した軍への報告書 )(((である。真崎所長に対する評価もフォークトと比較すると対極にある。ブーヘンターラーは次のように記している。
「この所長は中佐で、たいていの所長には言えることだが、参謀本部員であった。彼は、かつて命令によって派遣された先のドイツの軍隊で何年も手厚くもてなされたことがあり、しばしばドイツの事情や考え方についての知識を自慢さえした。それにもかかわらず彼は、
・・・
個人的にわれわれの状況をできるだけ困難なものにしてやろうと努めたのだ。この小さな威張り屋は、ヨーロッパ文化に接した日本人層にありがちな完全な人種的優越感とうぬぼれに浸っていたのが、ドイツで無意識のうちに一再ならずその虚栄心を傷つけられたのだろうか。そして、身を守るすべのない捕虜たちに八つ当たりして鬱憤を晴らしたわけだが、それを恥じる気持ちもなかったのだろうか。それは、許すことを知らず、復讐の手段を選ばない、日本人の執念深い性格と少なくとも相反するものではないと考えるべきであろう。」文面からは、かなり感情的な攻撃と蔑視の意図を感じることができる。真崎所長もブーヘンターラーの日本人に対する蔑視には気づいており、記録に残している。すなわち、ブーヘンターラーは後に秘密通信を理由として重謹慎三〇日に処されており、真崎所長は、この件を報告した一九一六(大正五)年一〇月三〇日付け報告書 )(1
(の中で、
ブーヘンターラー大尉は、久留米俘虜収容所に収容されて以来「やむを得ざる外日本人とは決して語らず、然れども頗る陰険にしてかつやや能力あるもののごとく内部に在りて、大に日本人を蔑視しすべての悪事の計画者なることは兼ねて偵知し在りて本人の通信の検閲は特に注意を払いおりし」と記している。ブーヘンターラーの見解は、強硬派将校の認識を示すものと考えてよいであろう。
( 3 )真崎所長による将校殴打事件に至るまでの状況
真崎所長による将校殴打事件に至るまでの間に、所内では大小さまざまな事件が積み重なって、ドイツ兵の不満が高まっていた。一九一五(大正四)年一〇月二日、ついに初めて俘虜逃亡事件が起き、俘虜四名が逃亡した )(1(。そのうち三人は同日佐賀県三養基郡で捕まり、福岡の雑餉隈まで逃げた一人は五日に戻った。同月十六日に、先に捕まった三名は禁固八年の判決が出され、残りの一名は重営倉の処罰を受けた。一〇月四日に、久留米衛戍司令官による一〇月一二日付報告書 )(1
(によると、数回の兵舎燈火の増加願いや、軍事以外の学校組織の開設を許可しなかったことで、不平がたまり、この日の午後の水汲みのことで小使二名と俘虜一名が争闘したため、二三の衛兵が多数の俘虜の眼前で殴打した。その後、一四個兵舎の者が整列を拒んだため、所長は第四八連隊の七〇余名を出兵させた。しかし、衛兵の努力で増加兵到着の際には、静粛に整列していた。所長は、関係した俘虜に対して、郵便物の分配と発信を当分停止して懲戒した。一〇月二〇日には、俘虜の一人フランツ・ラウ(
Franz Lau
)が衛兵に煉瓦を投げつけ負傷させ、後に懲役五年の判決を受けた )(1(。翌日から、俘虜に威圧を加えるために収容所の衛兵を増やした。一〇月三一日には、オーダーマン(
Albert Odermann
)少尉が、消灯後の蝋燭点灯を注意した宿直将校らを愚弄したと受けとめられてもめた。真崎所長によると )(1(、将校らは消灯時間を正確に守らず、しばしば消灯後に蝋燭を点灯するようになり、「消灯の不確実なる点のみに於いても将に堪え兼ねんとする状態」にあった。特にこの日のオーダーマン少尉の蝋燭点灯では、宿直将校らに不動の姿勢を求められても直ちに服従せず、懲罰令規定に従って三〇日の謹慎を命じられ、真崎所長は「将校全般の感情を若干害したものと認められる」としている。
論 説
久留米市報告書 )(1
(は、この時期の「真崎所長の管理は全収容所で行われていた管理の一形態に過ぎないが、最も厳密に適用した収容所」とし、翌年秋の特別大演習 )(1
(の失態を恐れる気持ちが俘虜を抑圧する厳しい管理になったと推測している。
四.真崎所長によるドイツ俘虜将校殴打事件の発生
(1)日本は、ドイツ兵俘虜に対して国際法遵守の精神で対応しようとした。国際法とは、いわゆるハーグ陸戦条約である。この条約は、戦時国際法の一つで、一八九九(明治三二)年の第一回万国平和会議で採択された多国間条約であり、俘虜の保護を図る目的であった )(1
(。「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」と同付属書「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」からなる。一九〇七(明治四〇)年に第二回万国平和会議で改定された。この条約は、直接批准国の軍の行動を規制せず、条約批准国が制定した法律に基づいて規制した。日本は、この条約を一九一一(明治四四)年一一月六日に批准し、翌年一月一三日に「陸戦ノ法規慣例ニ関スル規則」(以下「ハーグ陸戦規則」と略する)として公布した。この規則は、俘虜に関する基本的な立場を規定しているが、より具体的なことについて、日露戦争時に国内で制定された規則集が適用された。「大正三年乃至九年戦役俘虜取扱顛末」には、「俘虜取扱規則」の他、「(陸軍)俘虜取扱規則」「(海軍)俘虜取扱規則」が記載されている。また、俘虜の犯罪行為と懲罰に対しては、日露戦争の時に俘虜が共謀逃亡を企てたり、俘虜収容所職員に犯行暴行をしたりする者がいたことを考慮して、別途「俘虜ノ処罰ニ関スル件」を規定し、場合によっては軍法会議で、帝国軍人に関する国内規定を準用するとしている。ところで、ハーグ陸戦規則には、第二章「俘虜」に、第四条「俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ」という条項がある )11
(。久留米俘虜収容所では、この条文がしばしば問題とされた。ただし、第四条に規定する「人道」の意義は、条文上はそ
れほど判然としたものではなかった )1(
(。(2)殴打事件は、一九一五(大正四)年一一月一五日に起きた。この数日前、真崎所長は、大正天皇即位の大典(天長節)の際に、贈り物として、俘虜にビール一本とリンゴ二個を特別に与えたが、日独両国が交戦中であることを理由に、特にベーゼ(
Robert Boese
)中尉、フローリアン(Paul Florian
)中尉の両将校が拒否した。この日、これに立腹した真崎所長が二将校の頬を殴打した。俘虜の虐待を禁じたハーグ陸戦規則四条違反を根拠に、俘虜たちは所長の行為に激しく抗議し、当時まだ中立国だったアメリカ大使館書記官サムナー・ウェルズ(Benjamin Sumner Welles
)の調査派遣を要求する問題に発展した。フォークトは、日本通であることからスクリーバ(Emil Scriba
)予備少尉とともに真崎所長と代表将校のアンデルス少佐の会談に列席し、事件の打開に尽力した。ウェルズ書記官の調査の際も同席した。五.殴打事件の事実関係をめぐる経緯と諸見解
( 1 )中立国アメリカのウェルズ書記官による報告 書
)11(
日本に駐在していたアメリカ書記官であるウェルズは、一九一六(大正五)年三月二日から一五日までに、全国の一一カ所の収容所で調査を行い、その報告書の中で久留米に関しては、収容所自体やバラックの狭さ、寒暖の差がある施設の劣悪さ、郵便物の遅延などについても低い評価を下し改善を求めている。ただし、ドイツ政府に報告書が手渡されたのは、一一月三日でかなり遅延している。その後二度目の調査が行われ、久留米はあまり改善がなされていないと述べている。
論 説
ウェルズ報告書は、所長が将校の「顔面を殴打してたたきのめし、彼らが床に横たわっていると、足蹴りをした」とし、「ドイツ人将校達が天皇家に対して何らかの不敬を意図していたと彼は理解したため、自制心を失って述べたような行動に出たのだと弁解」したのに対して、所長の語学力のなさによる誤解が原因ではないかと推測し、収容所の悪化は「担当将校たちの人格に主たる原因」があるとしている。俘虜に違反行為があれば殴打してよいとの命令が存在したかについては、俘虜と所長の間に意見が対立していることを指摘しているが、俘虜側の意見を支持しているように読める。
( 2 )現場に立ち会ったフォークトの記述
これに対して、フォークトは、この事件の事前の経緯から記述している。一〇月に久留米俘虜収容所で初めての俘虜逃亡事件が起き、その後初めて実施された遠足の数週間後、一一月三日の天長節の祭事前に、フォークトは、上官の命令で上官に大祭の意義を詳しく講じ、贈答があった場合の日本人将官の前での振る舞い方を説明したという。その際、「
・・・
私は将官会議においてこの祭事の意義を正確に述べ、日本人の愛国的な感情への特別な遠慮と配慮の必要性を述べ、・・・
昼の一二時に全国民が京都の方向にうやうやしく黙礼するので、私たちも同じように振る舞い、日本人の感情を傷つけたり怒らせたりするきっかけを与えないようにしなければならない」(「記録」一一六頁)と念押しをした。しかし、当日「・・・
私の説明は残念ながら完全な成果を挙げなかった。・・・
残念なことに二人の激情家Hitzköpfe
の将校が祝祭の贈り物の受け取りを拒絶した。」翌日一一月四日に二人は呼び出され、「私が通訳しなければならなかった。」真崎所長は、贈り物の返還は「侮辱」にあたると「正確に、急ぐことも脅すこともなく話した。」これに対して、両将校は翌日五日に再度返還して呼び出され、「敵からは受け取れない」と述べた。所長は、敗戦して俘虜となっている状況で使用された「敵
Feind
」の言葉に激怒してサーベルを抜きかけたが、日本人通訳に制止され、二人に平手打ちをした(同書一一六頁)。フォークトの見解は、一見して、ウェルズ報告書とは印象が異なる。まず、真崎所長は日にちをおいて冷静に手順を踏んでいる。その中で受領拒否は「侮辱」に当たると直接警告もした。二人の将校は、降伏した俘虜でありながら日本軍に対して「敵」という言葉を使っており、日本側から見れば人道的に取り扱うべき理由が見いだせないであろう。真崎所長は、この言葉に激高して、サーベルを抜きかけたが制止され、平手打ちをした。しかし、倒れたところを足蹴りしたとは書いていない。ドイツ語の理解については、フォークトらドイツ人通訳や日本人通訳がいたし、ドイツ留学経験がある真崎所長は、あえて話さないだけで「ドイツ語をとてもよく理解した」(同書一一五頁)ので、それほど問題であったとは思えない。ドイツ将校等の行き過ぎた反抗的態度に対して、我慢の限界を超えてつい感情的になってしまったという印象である。なお、ウェルズ報告書に見られる、常日頃俘虜を違反があれば殴打することが許されていたという記述は見られない。フォークトの記述には、将校らがたびたび「激情家Hitzkopf
」という言葉で短気で怒りっぽい存在と記され、殴られた将校側にも問題があったことが窺われる。( 3 )真崎所長が陸軍に提出した報告書
真崎所長は、一九一五(大正四)年一一月二七日付け「俘虜米国大使館ト連絡ノ件ニ関シ報告 )11
(」として、陸軍次官宛に報告書を提出し、その付属文書で殴打事件について詳しく説明している。この付属文書によれば、「日本官憲と俘虜との関係が良好でなくなった」のは、一〇月頃の俘虜ヘルトレーをめぐる
論 説
事件以降であることが明記されている。ヘルトレー事件とは、ポーランド人兵らに対するドイツ兵の暴行事件である。タデウス・ヘルトレー(
Thaddaeus Haertle
)は、現在ポーランドのポーゼン出身のポーランド人であった。この地は、当時ドイツ領とされたため、ヘルトレーは第一次世界大戦にドイツ側兵士として参戦して、俘虜になった。久留米収容所には、ポーランド人やアルザス・ロレーヌ出身の兵等、さまざまな地域の出身者がいた。特にヘルトレーは革命的な気質の持ち主であったようで、連合国寄りの発言で孤立して、迫害も受けた。その中で、「ドイツ人将校に反抗して三ヶ月の重傷を負った」ので、所長はヘルトレーら三人 )11(を衛戍病院に入院させ、生命を保護した )11
(。所長が、アンデルス少佐以下各舎長を集めて事情をきくと、「ドイツ人は不都合なる者を殴打できるが、ドイツ人を他人が殴打することはできない」と主張し、「俘虜間の出来事は俘虜相互の制裁にて秩序を維持すべきである」と主張したので、所長は「大いに怒り」、それでは「当収容所に小ドイツ帝国あること」になり、所内で争いが絶えず、血が流れるので、放置することはできないとした。
日本官憲がヘルトレーを擁護し、他の俘虜の取締を厳格にしたと即断され、相互の感情が良好でなくなったという見方に、所長は、ヘルトレーらのような「特別の価値なき者」のために、全体の取締方針を変更することはなく、取締の厳格化は、先述の将校等の消灯をめぐる度重なる規則違反に基づくとする。これによれば、所長は、積み重なった感情悪化がヘルトレー事件で決定的となり、殴打事件の原因となる増給品拒否行動につながったと解しているようである。ヨーロッパでの支配民族と被支配民族間の問題は、感情的に複雑で対応が難しく、ドイツ兵俘虜の心に澱のように暗い影を落としたことは察しうる。
次に、報告書付属書の後半は、殴打事件の説明になる。前年のクリスマスにならい、一一月三日の天長節でともに祝おうと考えて増給したビール一本りんご二個を二人の将校が「俘虜たる境遇上本国政府の許可なく外国政府よりの贈物を受領する」ことができないとして返還したので、「この一事を以てその事例と形式の如何に関せず、事実においては
わが官憲を大いに侮辱したるものと信じ」た。しかし、「軽挙」とならないように、アンデルス少佐に受領拒絶の命令があったのかどうかを問うと、これを否定した。そして、将校二人を呼んで「懇ろに諭した」。すなわち、今回の天長節は、日本の「古今未曽有の大慶事」のため、天皇陛下は外国人に対しても特赦減刑の勅令を出し、慶福の一端をともに祝うものであり、「普通の贈物ではない」し、ドイツ政府も受領拒絶を命令していない。従来は類似の場合に異議なく受領してきたのであるから、受領拒絶は日本官憲への「侮辱」ではないかと述べた。その上で、「諸君がもし監獄中にあり、陛下より出獄の恩典を同じく拒絶するか」と聞くと「無論受けず」と答え「皇室に対し奉り頗る敬意を失していた」。さらに将官らは「日本とドイツとは目下戦争中であり、ゆえにわれらは敵国人たる貴官等より物品を受けることなし」とした。そこで所長は、「汝は予等を敵と見て相対しつつあるが、予は汝等をハーグ条約に基づき人道を以て取り扱い、豪も敵として取り扱っていない。しかるに汝が我等に敵として相対するにおいては普通の取り扱いをなすことはできない」と言うと同時に「飛びかかり、これを手を以て打ち伏せた」が、特にドイツ将校等は負傷するには至っていないという。翌日、アンデルス少佐がアメリカ大使館に館員の派遣を望む電報発送を請求してきたが拒否した。
一一月一六日に俘虜将校一同が抗議書を提出したので、所長は対応を迫られた。そこで、「従来日本側に非常の存意を有せし」フォークトとスクリーバに頼り、特にフォークトは付属書に名前が六回出てくる。
まず、フォークトとスクリーバが所長のところに内密に来て、「ドイツ将校は面目─形式を重んじるので、無為にとどまるのは、本国に帰った後面目がないと考えて、単にこのようなものを提出したにすぎない。一片の反故にすることもできる」と言ったが、「事の順序理非を考えず単に自己の都合のみを主張する」のは不都合であると考えて、アンデルス少佐を呼び、フォークトとスクリーバ列席の下で説明すると、少佐は「大いに激昂した」。その後の偵察によれば、「アンデルス少佐は既に久しく以前よりしばしば彼が日本側になすこと宜しきを失っていたので、俘虜将校の信頼
論 説
を失っており、彼の言は行われず、すこぶる苦境にあるので、個人としては所長と相談する意思を有しながら拒絶している」とのことであった。そこで、俘虜側に責任を帰させるために、アンデルス少佐との問答録を書面にまとめて、最後に少佐が解答に窮したので、フォークトが他の将官と相談すべき猶予を求め、将官らのもとで「熱心に日本の習慣を解き」、二二日に「予は幸いに大部分の将校を説得したが、将校には現役あり予備役あり老人あり成年あり各人各様の意見を有し、容易にまとまることもない。アンデルス少佐はもちろん各意見をまとめることができる状態ではない」との報告を受け、遠からず以前の状態に戻るだろうとされ、事態は収まりかけた。
しかし、二六日に「将校中第一の傲慢なる」ホーフェンフェルス(
Hermann von Hofenfels
)少佐が、アメリカ大使あての書簡を、物品差し入れ拒否に不満を持ち「口を極めて日本人の悪口」を言っていた妻に渡して、今回の騒動に至った。書簡には、「抵抗力がない俘虜に対するこのような侮辱はハーグ条約に違反する」と書かれていた。最後に、諸事件の原因について、真崎所長は「気風の衝突」を挙げている。すなわち、ドイツ人に向かって何か言うことができる者がいるのかとの「傲慢なる気風」と、日本人として「外国人の愚弄に甘んずる者にならんやとの気風」との衝突が諸場面にいろいろな形式で現れたに過ぎないとしている。
( 4 )陸軍省法務局の判 断
)11(
陸軍省法務局の結論は、所長の行為はやや失態であるが、大いに汲むべき事情がある。他方、俘虜将校らの言動は直ちに不敬罪などの犯罪行為に当たらないというものであった。法務局文書では、真崎所長の行為は、増給した酒菓を、大典の恵みとして喜んで受け取ってくれるものと考えたので、失当ではない。良かれと思って行ったことが、意外にも受領拒絶され、恩赦も受けないと言われたことを「非常の
無礼」とし、「憤怒のあまり威圧しようと挙動した」ことを、「やや失態」ではあるが「大いに汲むべき事情がある」として、擁護している。ただし、堂々と反論すればいいものを、所長が自ら行き過ぎたと「悔いて」、穏便に解決しようとしたり、俘虜少佐らに仲介させたり、大臣公使への陳情を遮ろうと試みたことは、「惜しむべきである」としている。ここには潔くなかったとの評価がにじんでいる。これに対して、俘虜将校らの行為について、まず「軍衙の要求する規律秩序に服従する義務がある身分で、あえてこの種の言動に及ぶことを規律違反として相当の制裁を加えるのは妨げない」との認識を示す。しかし、俘虜将校らの行為は、直ちに天皇への不敬罪 )11
(に当たるとまでは言えないとする。仮に「所長の威圧打擲に対して、侮辱として激昂したのみならず、数名連署の抗議書を作ってその筋に陳情訴告したこと」をあえて有罪にしようとすれば、俘虜処罰ニ関スル法律(明治三八年法律第三八号)第一条 )11
(に当たると論じることもできようが、この事例は、帝国軍人が服従の本分を忘れて結党などの行為をあえてして陸軍に反する場合に相当する程のものではないので、「犯罪の価値なきもの」としている。当然俘虜は何をしてもいい訳ではない。ハーグ陸戦規則第八条等 )11
(にあるように、国の陸軍現行法律、規則及命令に不従順な行為をすれば、必要な厳重処分を受ける。今回の事件以前も、天長節の贈り物は配給されていたし、ドイツやオーストリア皇帝の誕生記念演奏会さえ認められていた。キリストの生誕祭に同じように贈り物をしており、その時は受け取っていた。事件のとき、将校らは、恩赦で解放されることさえも拒むと答えた。日本側にとっては天皇への不敬罪という当時の大罪に当たりかねないと感じてもおかしくない状況であった。これらを考えれば、「人道的な立場からは」「失態」かもしれないが、法的な観点から行われた法務局の判断は、事情を考えれば、比較的公正でやむを得ないものではなかったかと思われる。ちなみに、真崎所長は翌年一一月に、天皇直隷の機関である陸軍教育総監部第二課長に転出した。
論 説
大切なのは、今回の事件の前後に、「気風の衝突」がもたらした収容所内の不穏な空気の分析ではないだろうか。以下フォークトらの証言に基づいて若干検討したい。
六. 「気風の衝突」の背景と「激情家 Hitzkopf 」
( 1 )ブーヘンターラーの報告 書
)11(
まず、ブーヘンターラー大尉は、強硬派将校たちの側からの見解を示す。
殴打事件については、一向に改善されない俘虜待遇の悪さに抗議することを考えて、予め意図的に「冷淡な態度」を取ろうと決心していたことが記されている。
「将校と官吏は、ひどい辱めを受けたり難癖をつけられたりすることをまぬかれたが、五つの件に関しては正真正銘の暴力が行使された。
・・・
一九一五年夏以来のさまざまないじめのため、とりわけわれわれの兵卒たちに対して計画的におこなわれた不当な虐待のため、われわれ将校と官吏は、日本人たちに対して、できるだけ冷淡な態度をとるようにしようと決心した。」「一九一五年一一月、ミカドのいわゆる即位式のときに大きな国民祭が催された。彼らは、この機会にわれわれに贈り物をしたいということをひそかに知らせてきたが、われわれはそれに対して、現在の状況ではこれに同意できないことを悟らせてやったのである。われわれはすでにドイツと戦争をしている国の元首への敬意のために贈り物を受け取らせようとすることを、それ自体無神経なことと考えていたが、上に略述したような捕虜待遇があり、またそれに対する抗議が何の成果ももたらさないことを鑑みると、このことはまったく不適切なことのように思われた。」また、収容所内の暴力について、日本兵が日常的に上官から殴られており、ましてや俘虜たちに対しては当然である点も指摘している。
( 2 )フォークトの見解
フォークトは、殴打事件の後、事件を収束させるために、意図的に頑なな態度を取り続ける俘虜将校らに対して、「日本の事情」を説明して説得しようとしているが、結果はうまく行かなかった(「記録」一一八頁)。フォークトは、殴打事件後の経緯について真崎所長の報告書に見られるような詳細を記していないが、「将校の名誉」が侵害されたことに対する怒りに直面し、将校らから「日本通で功利主義者と非難されて、人々は私のいうことを聞こうとしなかった」(同書一一八頁)と記している。結果として、一九一五年末から一九一六年初めにかけて、俘虜と収容所との亀裂は日々大きくなるばかりで、起床・消灯などの規則がいっそう厳格になり、二度目の「クリスマスとドイツ皇帝誕生日」には初回のような華々しい祝賀は見る影もなく、そこではもはや祈祷以外の一切の催しや余興が禁じられた。将官たちのもたらした結果は、俘虜全体の不利益と犠牲であった。フォークトは、俘虜将校たちが、やみくもにプロイセン風の高圧的な態度で交渉したことの思慮のなさを、繰り返し指摘している。中でも、郵便検閲遅延の件に関連して、アンデルス少佐らの頑固な態度に対して、「交渉」の必要性を説いている。
「私は俘虜先任将校の不動の戦略についていろいろと熟考した。優位な交渉相手に要請をしようとする者は、予め、どのような方法でその目的に到達できるかをよく考えるだろう。もし疑う余地なくよく基礎づけられた論拠をもちだ
論 説
せず、そして訴えうる法的手段を有さない場合、推定にすぎない権利の頑固な主張は一体どういうつもりであろうか?彼は、その要望を、他の方法で達成すること、すなわち交渉にもちこむことを試みなければならない。他の者は、願いごとの口利きをお願いすることによって、これについて、とても好意あふれる黄金の橋を築こうとするだろう。しかし、彼は何もお願いしようとしない。彼は日常的に「どうぞ」「これをお願いします」としばしば十分に言っていながら、推定上の権利に固執するのである。
・・・
命令を与え受け取ることに慣れれば、将校としてのみ考える者はもっとも単純な人間的な関係を正しく見ることができないし、政治的に考えることもできないし、交渉相手の魂の中にあるものを感じないし、その容易に到達できる可能性が頑固さに衝突して潰えてしまう。」(同書一二三頁)さらに、将校らを、イデオロギーに囚われて現実の生活を見過ごしてしまうドイツの政治家にたとえ、「ビスマルクのような偉大な人物だけ」が人々を助けることができるとしている )1(
(。(3)強硬派将校に対する同じような批判は、いくつかの俘虜の回想記録等にも残されている。俘虜の一人であるエーリヒ・フィッシャー(
Erich Fischer
)予備役下士官は、その日記で久留米俘虜収容所にいた七四人の将校の内、アンデルス少佐を含む一〇人の将校の問題点を指摘している。「僕等の将校の間に、収容所でもプロイセン式の演習と規律を貫き通さねばならぬと思い込んでいる「一本気」の者が一〇人いた。そんな気風は、まもなく「自由派」と予備役将校が過半を占めた戦友の間では押し通せるものではなかったし、日本人がどんな規律も諦めてしまった「一般兵卒」の間ではなおさら無理であった。しかし、この「一本気」の二人がビールとリンゴを日本の事務所につき返したのである )11
(。」
さらに、「僕らの将校は、五年間も黄色人種に対し優越さの原則を頑固に守り続けてきた
・・・
僕らの状況が時々ひどくなったのは、少なからず当時の収容所の長老アンデルス少佐のせいでもあった。少佐は日本人と付き合うコツを理解していなかった。少佐は自分の一〇人のいわゆるまともな現役将校とともに、日本人に対しては新兵を叱るのと同じ調子で接するべきだと思い込んでいたのだ )11
(」とする。
ここでは、俘虜将校と一般兵卒の間には大きな考え方の違いがあり、俘虜将校の集団の中にも、自由派と予備役将校が多数を占め、対立があったことが窺える。問題を起こしたのは、一〇名ほどの過度に自尊心が高い職業軍人であり、次第に俘虜の中で孤立していったことがわかる。そして、フィッシャーは、もともと「日本軍では位の低い将校、つまり少尉や中尉を殴っても良い」のであるし、「明らかなのは、わが将校の行動と日本人の気分のせいで、収容所全体がつらい目にあったということだ(外出制限や郵便制限など)」 )11
(とする。
また、日記を残したエルンスト・クルーゲ(
Ernst Kluge
)上等兵も、同じく「残念ながら、日本人と我々の間のこうした悪い状況の罪は大部分我々の方にあるという事も言っておかねばならないだろう。特に一部の将校の無作法で馬鹿な行為が、我々に不快な時間をもたらした。この将校達が大袈裟な名誉心を振り回して…兵卒が結局これらの紳士方が起こした始末をさせられることになった」と批判している )11(。なお、オットー・シュテーゲマン(
Otto Stegemann
)伍長の報告書は、「待遇の悪さの主たる原因は、民族がまったく違っていることであった。この原因からドイツ人の側にも日本人たちに対して過ちがあったが、当然のことながら、被害をこうむるのは戦争捕虜であった )11(」として、民族の違いから生じた過ちがドイツ側にもあったという指摘を記している。(4)以上の検討で、俘虜将校殴打事件の背景には、さまざまな要因があり、中でも、特に収容所内で、強硬な俘虜将校約一〇名が孤立して、短気な「激情家
Hitzkopf
」として、殴打事件の背景を意図的に作り出したことが俘虜らの証言によって明らかになった。その理由について、若干考察したい。前提として、五年という長期間収容されるにしては、収容施設が貧弱で劣悪であったことは否定できない。「鉄条網病Stacheldrahtkrankheit
」と呼ばれ )11(、心理的な閉塞状況に慣れずに病んでいる状態が存在し、例えば、繰り返された
論 説
無謀な逃走劇は、この発露である。フィッシャーは、「客観的見解:捕虜はいかに良く扱われても、自分の運命には満足しないものである )11
(。」と記す。俘虜将校は個室等で優遇され、一般兵卒と比較するとやや恵まれた生活環境であった。しかし、繰り返される消灯時間の遵守などの細かな規則違反への制裁や室内では靴を脱ぐなどの文化的なすれ違いで不満が高まって、俘虜を代表して改善を要求しても相手にされず、存在根拠が揺らいでいった。当然、ヨーロッパ戦線は続いており、限定的に伝わる戦況に一喜一憂しながらも、青島戦に新興勢力であった日本に早々に敗北し、軍人として敗北への挫折感と焦燥感もあったであろう。帰国後の自分たちの処遇も気になるであろう。過剰な民族的優越感に満ちた態度は、それらの裏返しとも考えることができよう。とりわけ、同居するポーランド系俘虜らに対する民族差別的暴力は、自分たちが置かれた状況に対する根底的な絶望が噴出したものであったのかもしれない。フィッシャーが、俘虜収容所内では「何人かの将校は上流階級から崩れ落ちていった。
・・・
称号とか地位によるだけの単なる権威はごろごろと落ちて行き、認められたのは精神的な意味で戦友に何らかの貢献ができたものだけであった )11(」と指摘していることは示唆に富むように思われる。このような職業軍人である将校たちに対して、市民兵の出現を背景とするハーグ陸戦条約の「人道的配慮」をどこまで徹底して適用するべきであったか、そこに当事者としていかに深い葛藤が存在したかは察しうる。戦争が長期化するかはっきりしない見通しの中で、決して立派とは言えない施設を、戦闘に参戦した者が最も多い師団本部の近くで、もろもろの問題を抱えながら、「人道的に」運営する難しさを考えたとき、規律を厳格にして対応したことを、所長の厳格な軍人気質という人格の問題にだけ還元することには慎重であるべきであろう。確認しておかなければならないのは、当時のヨーロッパ各国における戦争俘虜の死亡率は、圧倒的に日本よりも高く、その虐待はまさに死に至るものであったことである )11
(。
七.活発な音楽活動
最後に、フォークトが力を入れた文化活動についても簡単にまとめたい。一九一五(大正四)年五月二五日に二代目所長になった真崎中佐の時期、トラブルが多かった反面、コンサートや演劇の上演は多く、体操クラブの結成、作品展覧会が開催されており(逃亡事件が起きたため、遠足は制限)、良くも悪くも久留米俘虜収容所の基礎はこの時代に作られた。フォークトが同年六月九日に久留米に移ってきた後、六月一三日には、海軍軍楽兵レーマン(
Otto Lehmann
)主催の第一回プロムナードコンサートが行われ、その後、フォークトがシンフォニー・オーケストラを立ち上げ、総計約二〇〇回のコンサートが行われた )1((。フォークトは、特に、ベートーヴェンの曲を好んで演奏した )11
(。当時のコンサートプログラム )11
(によれば、交響曲は、一九一六(大正五)年二月二五日に「第八」、一九一七(大正六)年三月四日に「第五(運命)」、一九一八(大正七)年一〇月一六日「第一」、一二月四日に「第六(田園)」(一楽章)、一九一九(大正八)年三月二八日に「第七」が、収容所内で初演された。歓喜の歌で有名な「第九」の全曲演奏は、一九一八(大正七)年六月一日に鳴門市の板東俘虜収容所で合唱付きで初演(女声パートは男声で歌った)されたが、同年七月九日に久留米俘虜収容所でも部分演奏(一→三→二楽章のみ)された。一九一九(大正八)年一二月三日、久留米高等女学校で(俘虜の前ではなく)一般の日本人の前で初めて演奏(二、三楽章のみ)され、同年一二月五日には、収容所内で合唱付きで全曲演奏(女声パート抜き)された。収容所内で調整役として苦労が多かったフォークトは、「音楽は、さまざまな心配事から自分を解き放った」(「記録」一二三頁)とし、「演劇の上演とコンサートは、収容所内の精神をいつも新しく活気づけ、生活の単調さを感じる者を
論 説
気分転換させ、
・・・
戦争俘虜生活の中で無気力になっている者を一掃することに貢献した」(同書一三六頁)と記している。文化が精神的な支えとなることを明確に自覚していたことが伝わる )11(。その他、フォークトは、「カール・フォークトの四つの歌」(一九一九年)などを作曲し、自身が作曲した歌曲を歌った。ヘルトリング(
Georg von Hertling
)やツァイス(Eduard Zeiss
)とともに収容所の音楽教育も行った。久留米の市民たちによる「共鳴音楽会」の演奏指導も行った。八.終わりに
第一次世界大戦期のドイツ兵俘虜に関する基本書的存在である富田弘『坂東俘虜収容所』(一九九一年)は、大きな問題意識として、第二次世界大戦では、生きて虜囚の辱めを受けずとの戦陣訓をはじめ、俘虜に対する態度が圧倒的に非人道的であったことを踏まえ、第二次世界大戦後の視点から、「どうしてこんなふうになってしまったのか」と問う形で、ドイツ兵俘虜収容所の研究を行っている。その結果、より穏やかであった板東収容所が称賛されるのは当然のことである )11
(。しかし、戦場で殺しあった、言葉も文化も違う者を、戦争が終わったからと言っていきなり、当の軍隊が、俘虜として今日的な意味で「人道的」に取り扱うことが、当時実際にどこまでできたであろうか。そもそも、条約には制裁力が伴わず、人道的という言葉の明確な定義は当時定まっていなかった。
国策だから人道的に取り扱えと命じられても、常日頃やっていること以上のことまではできないのが通常であるし、特に初期の久留米が経験したような戦争の長期化がもたらした混乱の中における、現場のやり場のない深い当惑と苦しみは、収容する方にも、される方にも、著しいものがあったであろう。本稿では、その一端を明らかにできたと思う )11
(。
大規模収容所となって、矛盾が最も噴出した真崎所長時代の収容所の状況は、人類史上全く新しいタイプの近代型戦争に伴い、そのような困難に取り組んだ稀有な事例として多角的に研究されるべく、再構成されるべきである。その視点を持てば、他の収容所の隠された事実も浮かび上がるであろう。当時の暴力性を断罪することは簡単であるが、むしろそこにこそ人類として学ぶべき葛藤や宿命が潜んでいるように思われる。その探求の積み重ねにこそ、今日も止むことがない捕虜虐待の防止という普遍的な問題への示唆を得ることができるのではないだろうか。
(1)「俘虜(ふりょ)」とは今日の「捕虜」のことで、当時は公式の呼称であったので、本稿でも当時の状況に言及する際は、原則として「俘虜」という言葉を使う。(2)久留米市では、第二次世界大戦時に激しい空襲で大きな被害を受け、軍都のイメージを払拭したかったためか、久留米俘虜収容所の歴史が埋もれていたようである。ドイツのシーボルト博物館からの問い合わせがきっかけで、ようやく久留米市文化財保護課による調査が始められ、一九九七(平成九)年一一月久留米市役所内で展示会「ドイツ人俘虜と久留米」が行われると、大盛況となった。その後調査が多角的に進められ、久留米市教育委員会『久留米俘虜収容所Ⅰ~Ⅴ』(一九九九―二〇一一)(以下、「久留米市報告書」と略する)として、結実した。今日でも久留米俘虜収容所研究の貴重な基本文献となっている。
(4)「日本のKZ」という表現は、冨田弘『板東俘虜収容所:日独戦争と在日ドイツ俘虜』(法政大学出版局、一九九一年)三〇五 る。その後の諸研究では、主に坂東俘虜収容所との関連や比較で論じられているだけである。 (上)(下)」久留米工業高等専門学校研究報告三一―三二号(一九七九年)があり、久留米俘虜収容所のアウトラインを描いてい (3)久留米俘虜収容所に関する先駆的研究として、坂本夏男「久留米俘虜収容所の一側面:俘虜の収容、管理及び解放を中心として 念して、シンポジウム「軍都久留米のドイツ人俘虜:百年前の久留米と世界を探る」を行い、筆者が実行責任者を務めた。 千点の関係資料に基づいて、二〇一八(平成三〇)年一月二七日に、法学部創設三〇周年と、第一次世界大戦終結一〇〇周年を記 たことへの感謝とともに、ささやかながら本稿を捧げることをお許し願いたい。なお、久留米大学法学部では、現在所蔵する約二 サヴィニーを草稿にまで目を通して丹念に研究している赤松先生が、俘虜関連の貴重な基礎資料収集のきっかけを作ってくださっ の資料収集のきっかけは、赤松先生のフォークト博士に関する問い合わせが、高松基助教授に伝わったことにあると聞いている。 ところで、久留米市による最初の展示会の際には、久留米大学法学部で収集を始めていた関連資料が大いに活用された。法学部
論 説
頁の記述に基づいて、ナチスの強制収容所と関連付けられて流布した。そして、映画『バルトの楽園』(二〇〇六年日本公開)で冒頭に久留米俘虜収容所が唯一実名で出て、暴力的なシーンが描かれ、鳴門市の人道的な俘虜施設を思わせる施設と対比されたことによって、一般に定着したと考えられる。(5)今井宏昌「もうひとつの俘虜収容所─久留米とドイツ兵一九一四―一九二〇─」福岡大学研究部論集A
( 収容所ができ、約三〇〇〇名が収容されたが、一年半ほどの短期間であり、残念ながら詳細な記録がほとんど残っていない。 知られている。日露戦争時には、満州に兵を送り出した。一九〇五(明治三八)年四月から翌年二月まで久留米にはロシア俘虜 (9)この連隊は、「久留米の四八(ヨンパチ)」と呼ばれ、日露戦争や第一次世界大戦、上海事変などに出征して活躍し、広く世間に (同学社、二〇〇六年)等を参照。 (8)日清戦争、日露戦争、日独戦争はちょうど一〇年間隔で、起きている。日独戦争については、瀬戸武彦『青島から来た兵士たち』 ・・・優先して、原意を損なわない範囲で、適宜要約し現代語風に訳しながら引用する。中略の部分は、「」として引用する。 直ちに資料に行きつく。当時の手書きの資料も無料で容易に入手できるので、本稿では、資料の引用において、わかりやすさを ては、一二桁のレファレンスコードを記載する。このコードを使ってセンターのホームページでレファレンスコード検索すれば、 JACAR https://www.jacar.go.jpンター()」の「日独戦役」の項目でデータベースを検索して利用した。後者の資料引用に際し (7)今回、当時の資料について、法規類は国立国会図書館デジタルコレクション、俘虜関係資料は「国立公文書館アジア歴史資料セ 島と膠州で行い、東京の大使館勤務に戻った。 法務を担当した。優れた音楽的才能のため社交界によく誘われたという。一九〇七(明治四〇)年、兵役実習の義務を清国の青 弁護士資格と法学博士号を取得して外務省に入り、一九〇三(明治三六)年二月に東京のドイツ大使館勤務のために来日して、 指揮者を夢見たが、父親の勧めに従い、ベルリン大学東洋語研究所で日本語を学び、また法学・音楽史などを学んだ。その後、 構成国の一つであった。父親が学校長をしていた関係で、首都デッサウのギムナジウムに学んだ。音楽の才能があり、作曲家・ 次男として生まれた。アンハルト公国は、ドイツ北部に位置し、現在のザクセン=アンハルト州に当たり、当時はドイツ帝国の Nienburg(6)カール・フォークトは、一八七八(明治一一)年に、アンハルト公国ザーレ河畔のニーンブルク()に、三人兄弟の として、「ドイツ兵俘虜収容所は、さまざまな研究潮流の結節点となりうる魅力的なテーマであり、可能性の宝庫」であるとする。 三六頁。「俘虜収容所という一九世紀的市民的な「擬似社会」がドイツ本国の民族問題をそのまま抱え込んで」いることをはじめ 11(五)(二〇一二年)
( 10)久留米市報告書Ⅳ六頁 四九頁。この報告書の題名は、「五年の間日本に囚われて」である。同九一頁では、翻訳者はこの報告書は、知る限り久留米俘虜 11)井戸慶治「久留米俘虜収容所に関するブーヘンターラーの報告(翻訳と注解)」言語文化論究(徳島大学)一五号(二〇〇七年)
収容所に対して最も否定的という意味で「特異な」ものとしている。(
( 12JACAR: C03024709300 )大正五年「歐受大日記一二月」
( 13JACAR: C03024578100 )大正四年「歐受大日記一〇月上」、福岡日日新聞大正四年一〇月四日・五日付け記事。
( 14JACAR: C03024598900 )大正五年「歐受大日記一月」
( 15 JACAR: C08040170500)「大正三年乃至九年戦役俘虜に関する書類陸軍省」、福岡日日新聞大正四年一〇月二〇日付け記事。
( 16 JACAR: C08040217600)「大正三年乃至九年戦役俘虜に関する書類陸軍省」
( 17)久留米市報告書Ⅰ九頁
( 逃亡する失態が起きることを「恐懼」して、鉄条網の増設を申請したとする。 18JACAR: C03024695700)一九一六年九月一三日付の久留米衛戍司令官による報告書()によると、秋の特別大演習の際に俘虜が
( もちろん戦線離脱である「奔敵」は許されなかった。 19)俘虜を保護する理由として、封建的な軍制・傭兵の時代から、通常民間人が徴兵される近代市民兵の時代への移行があげられる。
( 俘虜ハ人道ヲ以テ取扱ハルヘシ 俘虜ハ敵ノ政府ノ権内ニ属シ之ヲ捕ヘタル個人又ハ部隊ノ権内ニ属スルコトナシ 第四条(取扱) 20)第二章に俘虜の規定がある。
( 虜)第一二条の規定を参照。 21)新しい一九四九年ジュネーヴ諸条約(第三条約)に至って、条文で人道の意味が具体的に表記されるようになった。第四章(捕
( 〇三年)一一頁 22)高橋輝和「サムナー・ウェルズによるドイツ兵収容所調査報告書」「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」研究創刊号(改訂版)(二〇
( 23 JACAR: C08040217600)「大正三年乃至九年戦役俘虜に関する書類陸軍省」
( ていた。 24)そのうちの一人は、同じくポーランド系俘虜であるテオフィール・ワルセウスキーであり、他の俘虜から民族差別虐待を受け
( た後、日本に戻り、晩年は兵庫県西宮市の大学で英会話の教師を務めた。 東に移される際は、ドイツ人と同じ列車に乗せられることに抵抗し、縛られて荷車で運ばれた。解放後は一度ヨーロッパに帰っ 25)その後、ヘルトレーは、丸亀と坂東の収容所に移送された。丸亀時代には日本人憲兵に反抗して、営倉に閉じ込められた。板 26)前掲注(
23)の書類の冒頭に掲載されている。
論 説
(
( 神宮又ハ皇陵ニ対シ不敬ノ行為アリタル者亦同シ 天皇、太皇太后、皇太后、皇后、皇太子又ハ皇太孫ニ對シ不敬ノ行為アリタル者ハ三月以上五年以下ノ懲役ニ處ス 27)刑法(明治四〇年法律第四五号)第七四条
( 処ス 28)俘虜監督者、監視者又ハ護送者ニ対シ反抗若ハ暴行ノ所為アル者ハ重禁獄ニ処シ其ノ情軽キ者ハ六月以上五年以下ノ軽禁錮ニ
( 不従順ノ行為アルトキハ監禁制縛其ノ他懲戒上必要ナル処分ヲ之ニ加フルコトヲ得」と規定する。 なお、俘虜取扱規則でも、第二条「俘虜ハ博愛ノ心ヲ以テ之ヲ取扱ヒ侮辱虐待ヲ加フヘカラス」とする一方で、第六条「俘虜 対シ必要ナル厳重手段ヲ施スコトヲ得 俘虜ハ之ヲ其ノ権内ニ属セシメタル国ノ陸軍現行法律、規則及命令ニ服従スヘキモノトス総テ不従順ノ行為アルトキハ俘虜ニ 29)ハーグ陸戦規則第八条(処罰)
30)前掲注(
( 11)井戸「ブーヘンターラーの報告書」六三―六四頁
( ただ熱しすぎる心情によって、誤った立脚点に立っただけだと付け加えている。 31)後にアンデルス少佐は、所長によって代表を罷免された。フォークト「記録」一三二頁は、少佐は基本的に気立てのいい人物で、
( 32)久留米市報告書Ⅳ二八頁
( 33)久留米市報告書Ⅳ五九頁
( 34)久留米市報告書Ⅳ二九頁
( 引き起こした自業自得であった。」と述べている(久留米市報告書Ⅴ九一頁)。 が多かった。もちろんかなりひどい扱いを受けたこともあったが、それは正直なところ少なくとも部分的には我々自身の行動が 知らずのドイツ人士官集団」がいたとし、「この長い期間、日本人は我々に対し兵士として折り目正しい心根を見せてくれたこと 35)久留米市報告書Ⅱ一一五頁。クルーゲの子息も、来日講演で父の言葉として「収容所内の五年の間、とても倣慢で愚かな礼儀
( 研究五号(二〇〇七年)五二頁 36・)井戸慶治「オットー・シュテーゲマン『日本におけるドイツ人戦争捕虜の状態(熊本久留米)』」「青島戦ドイツ兵俘虜収容所」
( する。 37)戦争俘虜に共通して見られる、被害者意識、仲間内での激しい口論や暴力行為、同性愛、記憶力・集中力の減退などを特徴と
( 38)久留米市報告書Ⅳ二五頁 39)久留米市報告書Ⅳ六〇頁