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明治ー大正 北海道商業史 : 空知篇

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(1)Title. 明治ー大正 北海道商業史 : 空知篇. Author(s). 藤波, 信成. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 7(1): 165-181. Issue Date. 1956-07. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3580. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第7 巻 第1号. 北海道学芸大学紀要 (第一部). 明治-大正 北 -- 空 藤. 海 知. 道. 商 業 史. 1 篇 ( } -- 信. 波. 昭和31年7月. 成. 北海道学芸大学岩見沢分校商学研究室. i FUJINAMI: The History of Co1m merce in Hokka Nobunar i do , 1868 --1926 .. 次. 目 北海道商業史. 岸. 三期の産業開拓並びに発展の 原動力とその影響(以上本号). 第一章 明治初期の商業政策 -. 第二章 商業経営の発展と商業資本. 空知の開拓とその端緒 1. 北海道開拓概況. 2. 村落の発生と殖産興業. 商業の変遷と商業組織 金融機関と商業資本 第三章. 結. 論. 序 北海道の開拓は明治維新を契機と して国家的中央集権の強力なる近代的拓殖経営によ る日本経済 全体としての資本蓄積拡大即ち資本主 義化発展の原動力 となり得べき資源の開発に大なる力を及ぼ す植民政策の一環として行われたのである。 即ち当時の開発政策の中心 ・は専ら原始産業の農漁に依. 存せしめこれを推進せしめたが、 本道の産業の後進性は本州に較べ甚だしく劣り、 こ に於いて政 府は近代的国家企業により此等を補填し、 着々と生産様式を近代化する事に成功したの であるが 、 国家的財政の貧困はやむなく官営企業を民営に切換えざるを得ない現状に至らしめ遂に明治14年民. 間払下げと共に独占資本家の手に委ねてしまったのである。 この為本道資本の発達は道外の巨大資 本に圧せられ、 資本支配下に於ける開発は特定の資源 のみに集中 し本道全般の開発に顧みる事がな かった、 故に北海道開発は狭められ、 原始産業に終始 し昭和の時代に移ったのである 。 こ に於て本研究が明治より大正迄とした所以は本道の資本主義的商 業発展過程を明確 に把握し 得る事と、 本道の第一期拓殖計画が大正末まで強力に推進され、 各産業の生産様式が近代化された この二つによるのである。 然し空知管内の明治、 大正間の資料に乏しく それが為誤りて史実に残 、 らざる様綿密なる現地調査は勿論開拓資料の蒐集によると共に空知の商業 史の研究が未だなされて. 居らざりし為、 その時代に主力を注いだのである。 即ち商業史の中心課題は資本主義経済の発達過 程であって、 商業の時代的変遷殊に商業資本と商業組織並に商業経営の発展について批判検討しな. ければならず、 ために本道の綜合経済の抽象的研究の立場より一歩進ん で空知を主体とする個別経 済社会の具体的研究に主眼を置く事はその分析を明確にするのみならず事実的経過を如実に示すも 65- -1.

(3) . 藤. 波. 信. 成. のである。 故 にその成果は挙げて今後の北海道綜合開発に如何に重要なる資料となり寄 与するかは 過言ではない。 この研究は昭和29年度文部省科学研究助成金による研究である。. 第一章 明治初期の商業政策 空知の開拓とその端緒. 北海道開拓概況. 明治維新の大業なり、 明治政府の蝦夷地開拓案 は、 一度函館裁判所の開立によ りその実現が明る い望みとなったが、 奥羽戦争はこれを中断し遂に挫折のやむなきに至った。 その後北辺蝦夷地の開 拓の急を痛感するに及び此辺 に政府は蝦夷地開発の大方針を計画したのである。 その機に至り廟議 1 決定するや明治 2年 6月 4 日蝦夷開拓督務に中納言議定鍋島直正が任ぜられ勅語註) を賜り翌月 8. 5日免官となり、 代って東久世通蔭長 日開拓使設置され同13日初代長官に鍋島督務任ぜられ、 8月2 官となる迄僅 かに 2カ月であるが蝦夷地開拓の諸計画の大綱は殆んど決 定していたのである。 ・皇威隆替ノ 関スル所一日モ忽ニス可ラ ズ汝直正深ク国家ノ 重ヲ荷ヒ身ヲ以テ之二任 ズル 註1 ) 蝦夷開拓ノ ラ請フ其憂国済民ノ 至情朕嘉納二堪′ヘス独恐汝高年選二殊方二趣ク事ヲ然しトモ朕之ヲ汝二委シテ 始メテ北顧ノ憂 ナシ依テ督務ヲ命ス他日皇威ヲ北彊ニ宜ル汝力方寸ノ間ニアルノミ汝直正懸ヲ哉 (竹内運平. 北海道史要 p.293). 1国86郡に分割し行政確立と相侯って拓殖移民 蝦夷地は開拓使設置と共に北海道と改名し本道を1 6 の実を挙げんが為、 嘗って徳川幕府の安政 年の北方政策と同様武装的開拓経営の土地分与を行わ んと明治 2年7月22日大政官布告を以て諸藩以下の分与の出願を慾通したのである。 然るに水戸藩 以下数藩のみが進んで嘆願書を提出 しこれに応えたが、その他は殆んど顧みるところがなかった。そ. れ故大政官は次の布達を発している 『北海道開拓の儀は兼て被仰出候通即今の急務にて追々御手を 彼為者著候処何分全国の力 を用いずんば成功無覚束依之別紙地所其藩へ支配開拓被仰付』(同上P . 357 )と斯様な強制的分 与を行い、 その結果- 省一府25藩8士族2寺院に分割管轄せしめたのである。 0人各募集し岡本判官 明治 2年9月東久世長官及役人の函館赴任に伴って、 東京にて農工移民約 30. 00名を移民せしめ、 更に開拓 は樺太 (現在ソ聯領) に、 松本判官は根室、 竹田判官は宗谷に各約 1 使は移民の保護奨励の為明治 2年9月 の達註)にて従来の宿弊たる場所請負制度を廃止したのである が、 之等の急措置は各種の支障を生ずる故漸次変革する事となし、 一方福山、 江差に於ける沖口役 所を廃し函館、 幌泉、 寿都、 手宮の四港に諸船の運上坂立の事を定めたのである。 斯様な移民愛護 政策は、 移民にとって非常に有利となり、 前述した移民のほか募集によらざる自由移民も大い 、に歓 迎され、 之等の中には商人、 漁業者、 士族、 帰農者等が多く、 益々その成果を挙げるに至った。 然 1月 「移民扶助規則」 を仮制定 るに開拓使は更に計画的拓殖移民を推進する目的をもとに明治 2年1 したのである。 今その移民規則に於ける移民を大別すると四つの種類があり、 即ち募移農夫、 目移. 農夫、 募移工商、 目移工商である。 叉これ等を助長推進せしめた基因は、 何と言っても国情の変化 及国民経済の破綻である。 即ち明治維新による郡県的政治組織の統一、 国民皆兵制及び士族の禄制 の廃止、 藩札の通用の停止等は国の貨幣を流通せしめ、 諸藩の関門は廃せられ、 その結果商品の自. 由流通は益々高まり江戸時代に見られた領域経済の残存は見られず、 国民経済の樹立と共に資本主 義経済組織を確立したのであるが、 王政復古直後の政治的動揺並に明治元年より2年に亘る恐慌は 国民経済の破綻となり、 商業活動は全く停滞 し日本の前途に暗い影を与えたのである。 此機に臨み 北海道の新天地は何人にも清新なる希望を与え、 これが為開拓使の募集移民に率先して加わり渡道 を願出るもの形多に及んだのである。 然し中には未知な北海道に不安を持ち、 渡航を渋る者も あっ たが、 諸藩団体中旧幕府時代より北海道の沿岸警衛と屯田的生活に馴致した仙台藩特にその麦 藩た -166-.

(4) . 明治-大正. 北海道商業史 -空知篇-. る伊達邦成の引卒士族団の一団が明治 3年 4月 胆振の有珠郡に、 同じく佐賀藩士民は釧路、 厚岸二 郡及びその他の藩士族の移民があり、 中でも邦成の開拓使上の功績は実に偉大なるものである。 明 治4年4月開拓使長官は石狩平野の中心札幌に移り、 こ に翌月開拓使本庁を置き、 北海道経営の 大本の基礎を固め着々とその緒についたのである。 然るに当時の空知は人跡未踏の醤蒼たろ大原始. 林で、 罷熊や狐狸の跳梁阪雇にまかせ、 旧土人すらも定住出来ず一部河川の流域及び平野の一部に その足跡を残すのみであった。 現今の空知管内は明治 2年 9月石狩国樺戸郡、 雨竜郡の二郡は山口 1月亘理元太郎の三氏叉石狩国夕張 0月石狩国空知郡は伊達英橋、 伊達勝三郎、 同年1 藩、 明治 2年1. 郡は同年8月高知藩にそれぞれ管轄され明治 4年 8月札幌本庁の管轄になる迄約 2ヵ年殆んど開の 特に明治 2年12月の本道最初の大凶作は農業移民をして只生きる為に 自覚しさは見られずに終り、! 拓辛苦疲弊し徒に病魔と斗って来たのである。 斯様な結果に至った原因は矢張り農業恐慌に基因す るところ大であるが責務として開拓使の行政措置の失敗に帰さねばならぬ。 註) 『従来商人の身として諸場所土地人民を始請負支配致し居候鏡名分に於いて不 宜』(新選北海道史第 三巻通説二、 p ) .94. )を廃止し、 改めて戸長、 副戸長を置き役所を戸 叉一方行政面も明治 5年4月に従来の町村役人註 1 4 9 長役場となし、 同年 月 日には札幌開拓使庁を札幌本庁と改め、 函館、 根室、 宗谷、 浦河、 樺太 3日には屯田兵制が北海道に布かれ、 北海道の警備と開 の五支庁を置いたのである。 明治7年6月2. 拓の一石二鳥を計ったのである。 同12年7月 には郡区町村の編制確立し、 同13年7月全道に郡役所 01村、函館 5年 1月には開拓使本庁管内86町3 戸長役場を開設し、 郡長、 戸長、 郡区総代人を置き同1 12町1 31村、 根室支庁管内1 4町112村に増加し、人口も年毎に増加し北海道開拓の実、 漸次 支庁管内1. あったが三県一局制となって、 開拓使時代と異なり拓殖事業を主体とする殖民及山林の事 6年には農商務省中に北海道事業管理局を置きてす 務等はすべて農商務省及工務省に届せしめ明治1 べて管理したのである。 その為開拓使時代の拓殖成績より劣り事業半ばにして挫折せざるを得なか 上りっ. った。 それ等は各庁の方針、 連絡に統一性がなく拓殖政策の無計画化によるのである。 こ に於い 3年に北海道1 0年計画として議会に版上げられる事 て拓殖の計画化が叫ばれ、 その後園田長官の同3. となった。 即ちその計画の骨子は、 本道の経費を国費、 地方費に分け、 前者を以て行政費と拓殖費 に分け、 後者は本道の地方税其他によって賄い、 総べての節約資金は拓殖経費に当てんとしたので ある。 これらは同34年より10ヵ年拓殖費総額弐千百四拾余万円、 行政費壱千八拾九万余円となした 2年を以て打 が、 か〉る計画の不完全と当 時勃発 した日露戦争の為財政貧困の悪影響と共に遂に同4 切りのやむなきに至り、 予算の大半を支出したのに拘らずその成果は小樽築港の事業のみとなった のである。 これ等は拓殖計画案の脆弱性によるものであり、 拓殖の遠大な理想と級密なる包括的計. 3年以降第一期拓殖計画を以て継承するに至ったのである。 画の必要性が認められ、 遂に明治4. 註) 町村役人はなお維新前の旧制度に依って更に五人組制度を奨励し町村自治に当らしめた。 町には官選 の町年寄があり、 町会に於いて市政を掌り数名の名主がこれを補佐し、 更に町には町代があり其下に組 合頭を置き五人組の事務を取扱わせ、 村に於いては名主年寄の百姓代の三役があり (これを村の三役と 呼ぶ) 名主を上役とし概ね村中協議によって人望あるものが選ばれてその職につき、 一村乃至数村の 長 として村役場 (自宅を充つ) に於いて執務したのである。. 2. 村落の発生と殖産興業. 空知の開拓は明治元年石狩村の木村吉太郎が小樽本願寺用材伐採の為 「ポロ ナイ」 (現在の幌 内の近傍の山) にて偶然にも炭層の露出面を発見、 然しそれが何であるかわからず同 2年下山 の時. にその一塊を特帰り人に之を見せたのであるが、 その時鳥松駅の猟人紺野松五郎これを見て煤炭な るを知り、 同4年特にその山に行き炭塊を採取して開拓使庁に呈出したのである。 その後明治 5年 札幌村の住民早川長十郎幌内煤田を調査 して本庁に報告すると共に、 その炭塊を分析して肥前高島 一167一.

(5) . 藤. 波. 信. 成. 産に伯仲するを開拓使四等 出仕榎本武揚に述 べたのである。 翌年榎本武揚、 大塚、 甘利両吏員外傭 人15名を伴って幾春別川を遡航し、 幌内幾春別煤田を実地調査 して炭塊を分析し、 その良 質なる事. 7日には開拓使庁雇米人鉱山地質学者ベン ジャミン・スミス・ライマソに幌内該地方 を認め同年8月2 を 巡 視 せ しめ、 ライ マ ン叉 「ポロ ナイ」 を 見 て 開 坑 適 当 の 地 と認 め、 明 治 7 年 4月 ライ マ ン再 び 助. 手ヘンリ←・エス・ムソロ←等数名をつれ煤田炭層位置及び層間の石層性質等を調査及炭塊の分析 を行ったのである。 同 8年5月開拓使五等出仕大島圭介巡検して報告書を出し、 開坑開始の地域を 定め、 同年5月叉ライマソは幌内煤田の埋蔵量を推測 し、 幌内より幌向大間の石炭輸送の為の鉄道. 設計をなしたのである。 斯様にして北海道開拓の殖産に空知の資源が如何に重要であり、 この地の 開発の必要性が如 何に大なるも のであったかは同 8年 6月の黒田清隆長官の幌内炭鉱巡検及び同9. 年 8月大政大臣三条実美北海道巡視の際に伊藤博文、 山形 有朋両参議の幌内煤田の巡遊を見てもわ かるのである。 同 8年 6月の黒田長官幌内炭鉱巡検の際に幌内、 幌向大間の8里の道路開璽を決定 し同年9月竣工、 漸く にして空知と札幌、 小樽間の往来も繁くなり、 空知に開拓の明るい槌音が木 0万 霊する様になったのである。 同11年3月黒田長官は幌内炭田の開発及びその改良を上申し経費15. 33万円、 茅沼炭山(北海道で最 円を交付され、 該金の用途は幌内炭山の分は鉄道船舶の経費を合せ1 古の炭坑後志管内) の分は17万円である。 即ち幌内炭田の開発は愈々軌道に乗り同12年12月18日開 3年 1月には幌内炭山の開発を主眼とし、 札幌を中心とする交通路の確立並に石狩平 坑に着手、 同1 1月に開通したのである。 丁度その年に工部省 野の開拓の為手宮、 札幌間の鉄道工事が着手され同1 御用掛島田純一、 山際永吾両氏は幾春別、 奔別両炭鉱を発見し、 翌同14年には工部省三池鉱山分局 の鉱山師英人ボッタ←氏幾春別炭鉱を実地踏査して益々開拓の歩が進められたが同15年6月開拓使. 5 00 抑 頃を産出したのみで一頓 廃止後残務整理して工部省に帰属する事になり、 企業も14年度採炭 1 , 挫を来したのである。 叉一方明治13年 7月刑法改定され、 北海道に監獄設置の必要を認め、 場所選定は開拓使と交渉す 3年4月18日東京 る事として内務省御用掛月形潔集治監建設地選定の為、 海賀直常外 6名と共に同1. を出発し4月30日に札幌に着き、 休む暇もなく 石狩川を舟にて遡航して石狩国須倍都川口に 5月 4 日到着、 土地選定して草葺の堀立小屋を造り集治監の仮事務所を設けその地を復命したのである。 その後樺戸集治監建設の議熟し同14年敷地を須倍都川北岸高燥の地に建築費10万円を計上、 融雪期. 0名同年 4月この地につき数カ月後には竣工し、 に至り工を起したのである。 その時東京より囚徒4 4年8月10日石狩国樺戸郡に既決監を設置、 その名称を樺戸集決監と定め同年9月 2日内務省 明治1. の許可を得て 「スベッ ブト」 の地を月形村となし、 空知管内最初の村として誕生すると共に同年 9 月 3 日集決監開庁の式を挙げ、 同年9月17日内務省権少書記月形潔を典獄に任じ同二等属桜木保 叉 を副典獄に任じ、 囚徒39名を収容する事となり、 市街漸く 繁栄し札幌との交通も大となった。 明治 15年2月 8 日開拓使庁の廃止により三県分治の制度は本村をして札幌県下に属せしめる事になった の で あ る。 一 方 同14年 8月 4 日内務省権少書記渡辺惟精氏は、 集治監建築御用として- 幌内太 (三笠. 町) に来り調査の上復命し、 翌15年6月25日市来知村を開村 し空知第二の村の誕生と共に同年 7月 1月1 3日幌内鉄道全通 し翌14日始めて幌内炭を手宮に輸 15日この地に空知集治監設置され、 叉同年1. 送 したのである。 斯くて11月18日札幌、 幌内閲鉄道の運転式を札幌にて挙行し、 愈々空知開拓の基 5日岩内、 幌内両炭山並びに鉄道管理局を煤 田並びに鉄道管理局 礎が確立したのである。 同年12月2 と 改 称 し、 翌16年 1月 6 日大書記官山内隈雲を管理局長に叉1 8日権大技長松本荘一郎を管理局副長. )を以て 「貨物運賃表小荷物賃銭表及乗車賃銭表」 を公 に任命、 叉同年2月 2 日大政官第三号布達註 9 1 5 1 0 示した。 (明治 年 月 日手宮、 幌内貨物運賃銭表、 小荷物運送賃銭表、 乗車賃銭表制定) 註) 「工部省所轄札幌県石狩国幌内炭山鉄道手宮ヨ 阿児内迄建築落成二付キ工業ノ余暇一般人民便利ノ為 -168一.

(6) . 明治-大正. 北海道商業史. -空知篇-. メ当分別紙賃銭表 二従ヒ乗者叉ノ ・荷物運輸共之ヲ許ス、 但乗客減貨物運送心得ノ ・当分明治1 4年開拓使 第三号布達手宮札幌間鉄道仮規則ノ通タルベ シ」 北海道鉄道史 梅木通徳著 昭和22年1 0月20日 p.49 、. 同16年 2月炭田及鉄道は工部省から農商務省所管に移り同年 2月 2 日札幌に北海道事業管理局を. 設置 し、 これを炭鉱鉄道事務所と改称し同年3月農商務省大書記官山内隈雲所長同権大枝長 公本荘 一郎副長となり9月17日札幌に於て鉄道開通式を盛大に挙行し 彰仁親王 農商務卿代理 大山陸 、 、 、 軍脚、 曽我参謀本部次長、 井上鉄道局長外官民約5 00名会合する事になり、この1 幌内鉄道の全通は空 知に於ける炭 田の開発のみならず沿線産業発展移民奨励及本道中心部の開発促進に重大なる意義を. もったのである。 即ち幌内鉄道は手宮、 住吉、 銭函、 琴似、 札幌、 白石、 江別、 幌向大、 岩見沢、 - 幌内太、 幌内の11駅は鉄道 開通による移民団の入植と共に市街を形成するに至った。. 特に岩見沢村の開村は明治15年市来知村及集治監の設置によりこの地に僅かに同監用の日用品を. 運搬する人馬の通行と開拓使庁が 旅客保護の為の官設休憩所一棟あるのみであったが、 幌内鉄道開 通と共に明治16年先に在住 していた岩手県人狩野末治卒先してこの地に来り 同休憩所を借受け、 旅 人宿を開業 したのである。 これより先明治1 )及概 5年5月内閣顧問黒田清隆氏の北海道開発の建議註 調査資料の提出により政府は三県 (札幌・根室・函館) に令して綿密なる調査後15年度より貧窮士 族を移住せしめる事と し、 向う8ヶ年間毎年函館、 根室県は50戸、 札幌県1 5 0戸を限り移住させる事. となり 「北海道送籍移住渡航手続」 による渡航補助の外、 食料、 農具、 牛馬種子料、 仮家作料、 陸 路荷揚運賃等合せて一戸札幌県330円、 函館県3 1 3円5 0銭、 根室県363円を超えざる額を程度と して 1 貸付 し一人宛未開地一万坪を割渡し3ヶ年に開墾せしむる事にした。 ) それ故三県は周到な計画の. 下に16年6月 「移住士族版扱規則」 を公布し、 先ず函館県では木古内、 根室県では釧 路附近鳥飯村 札幌県は岩見沢に移住開墾に従事させた。 註). 「士族授産は彼等を適当な地に土着せ しめ、 資本を補助 して農業、 牧畜に従事せしむるに如くはな し 北海道は土地肥沃未開地広漠計るべからず、 近時開拓の道拓け移住容易なり、 渡航を決心 して土着せ ば数年を経ず して繁栄、 子孫1 00年の基をなすべ し」 岩見沢郷土誌、 岩見沢市立教育研究所 昭和25年. 5月10日. P.11 .. 即ちこの地に山口、 鳥取両県を主として7県の士族が17年に83戸入植 し漸くにしてこの地にも市 街を形成するに至 り17年10月岩見沢村と称したのである。 続いて18年1 82戸、 1 9年12戸、 計227戸即 4 0 8 ち1 人が集団 移住し市街は日増 に繁栄したのである。 叉岩見沢村は現在の北村、 栗沢、 幌内、 , 美唄各村の一部を以て区域となし、 戸長役場の設置並に警察署勧業課派出所を設けられ 空知開拓 、 の第三の村として 誕生するに至った。 其後明治19年に三県を廃止し、 北海道庁の設置は開拓事業の 計画と共にその大綱確立し着々 とその緒につくと共に空知、 上川方面の道路開塞竣工並に交通の便. 年年発達し、 道路沿線に於ける町村の数漸く数えるに至った。 明治2 9年6月、 空知、 夕張、雨竜、上 川、 樺戸郡役所を交通の要衝たる岩見沢に設けるに至り翌30年7月上川郡、 空知郡の一部(富良野) を分割し其他を空知外三郡役所にて管轄する事になり今日の区域となったが同年1 1月郡役所を廃止 して支庁を置き、 岩見沢は実質的に空知に於ける政治、 商業の中心となったのである。 1) 北海道拓殖史. 高倉新一郎. 昭和22 20 9~1 pll .3 .15 ‘ p , .. 三期の産業開拓並びに発展の原動力 本道中最も困難視された中央部の開拓は年月浅く して今日の偉大なる足跡を残し 他の支庁管内 、 に優るとも劣らない空知の開拓は言語に絶するものがある。 その開拓の起因を分析し 原動力とな 、 った多くの要因を発見し、 それ等が時間的連結があるにせよ、 三時期に亘ってそれぞれ独自の要因. となり得る条件を有し、 この三種の要素それ自体波紋の如く次 第に拡大して附帯的因子と結び大な る原動力と見誤り、 その本質を見失う恐れがある。 故に三期の原動力を挙げるならば 第一期 幌 、 、 内炭田の開発と幌内鉄道及び月形集治監、 空知集治監の設置に伴う囚徒による道路開墓 第二期 、 キ 叫169一.

(7) . 藤. 波. 信. 成. 華族組合農場の開拓及屯田兵の移住と開墾、 夕張炭田の開坑と空知線及室蘭線の 開通、 第三期、 道 中央部の鉄道の延長 と支線の増加等である。 第一期の開拓は全く 先人未踏の天然資源開発時代であ り、 本道中央部開発第一の布石であった。 特に囚徒による道路開墾は交通網を拡大し、 史上空前の この成果は厳然と今日に輝いている。 集治監囚徒による拓殖事業成績 (北海道開拓秘録第三巻 若林功 p.p174~180). 樺戸集治監 次 年 5年 明治1 〃. 17年. 〃. 19年. 〃 20年 〃 21年 〃 21年. 空知集治監. 摘. 名 月形 当別間山道開墾工事 月形 川波撲工事 峯延 石狩間石狩 忠別間仮道路開墓工事 滝川 忠別間道路開墓工事 月形 当別間道路開蟹工事 月形 増毛間道路開墾工事 称. 要. 月形より札幌への道路延長6里 30里 船路流木波漠延長 峯延より忠別 (旭川) 迄23里 (仮道) 2里余 (本工事) 滝川・忠別間延長1. 県道延長 4里余 5里余 月形・増毛間1 22 124人 (延人員) ,. 幌内大道路開璽 工事 市来知・ー 〃. 22町34間. 〃 17年. 市来知より農 道. 11 32. 18年. 32 02. 〃 20年. 市来知・岡山間 市来知・樺戸間. 〃 21年. 幌内大・幌内炭山. 〃 22年. 樺戸・空知太間 市来知・樺戸間. 16 19 8里1. 7 949 , 10 166 , 177 6 .60. 34 29. 670 44 ,. 岩見沢・角田間. 23 163 5里2. 神屋・石狩川間. 5里33 26. 明治16年 〃. 〃 23年. 16 64 34 32. 〃. 13 772 , 14 368 ,. 42 337 ,. 此時代に於ける産業は主に農砿に従事するもの みで工商に属する稀に見られ、 中でも駅逓、 旅 人宿或は雑用品販売を兼営するのみで、 他は土着による自 給自足の形態にて使用し得る家内工業の みに止 り生活様式は全く限定されていたが幌内鉄道開通による貨物輸送の便は移住人ロの大幅な増. 加即ち需要の増大となり、 いやが上にも発展し、 生活様式の改良と共に商業的色彩の影を認める様 )六 に な/ ;o. 然しこれ等は本州の商業組織の発達と異なり、 明かに植民地的開発方策に近代的商業組織が追従 したの であるが、 その確立は第二期の時代を経なければならぬ。 第二期に於いては幌内鉄道沿線の計画的募移民による移 住の強化と農業政策の推進による拓殖計 画は逐次その成果を 挙げると共に囚徒による道路開禦中峰延より忠別 (旭川) 迄23里の開通は道中 央部の開発に一曙光を癒すに至ったの である。 叉北空知の開拓の中心、 雨竜原野の開発は組合農場 即ち華族組合農場である。 明治22年三条実美が国富開拓の主旨を以て一億五千万坪 (5万町歩) を. 貸下げ大谷、 戸田、 菊亭、 秋元、 蜂須賀候等と共に欧州式農業経営を計り、 本道開拓による国富振 3年三条公の死の為遠大なる理想の実現は崩れ、 同2 4年遂に 興を樹立、 着々その緒につく時、 明治2 じ雨竜は蜂須賀 秋元及戸田に分けられ 秩父別は大谷 農場は分散のやむなきに至り出資額に応 、 、 、. 深川は菊亭とそれぞれ所有する事になり経営を続けるに至った。 特に蜂須賀は最も大きい配分を受 9年以後その大農経営の非を悟り、 小 0町歩の開墾をなしたが経営に支障を来たし同2 け5年間年々5 500町 歩 の 濯 徹 工 事 に 10万 円 を 投 じ同37年 に 竣 工 す る に 作開墾に改め、 同30年に造田計画を立て 1 , 75 0町 至った。 各華族もこれに倣い農場を続けたが、 菊亭は同25年経営不振に陥り東武に無償にて1 ,. 6年両年に100戸を移住させる事を契約 したのである。 こ に於いては東は郷里 5年2 歩を譲渡し同2 6年4月に100戸を移住せしめ百戸団体と称す るに至った。 そ より住民を募集し一戸 3万坪宛とし同2 -1 70一.

(8) . 明治-大正. 北海道商業史. -空知篇-. の後同33年加賀の団体50戸入植し経営の維持に 努めたのである。 斯様にして雨竜原野は潤沢豊富な. 土地となり、 秋の黄金の色に映える穂波は空知の生産をいやが上にも湧き立たせたのである。 故に この組合農場の設立は北空知に一大農村地帯を作り今日の雨竜村、 新十津川村、 深川町、 妹背牛町 一己村、 北竜村、 秩父別村の7 ヶ町 村 を 開 い た の で ある。 3日に屯田兵制度が北海道 に布かれたが、 当時本道1 叉一方明治7年 6月2 1州は未だ人口密度少く. 徴兵令を布き一鎮台の軍隊を置く事は時機尚早なる為、 辺防と開拓は一に士族授産の途となる所以 にて全国に募兵する事になった。 明治 8年5月 札幌郡琴似村に於いて奥羽地方の旧藩士 19 8戸が入 植 した のを 噛 矢 と し、 明治17年 の76戸345人、 明 治18年 の213戸 1 150人、 この 兵員 を 以 て 既 成 兵 村 ,. の補充と江別、 野幌二兵村の基礎をつくり同二兵村は同19年の増員により完成したのである 明治 。 17年の募集は奥羽六県であり、 同1 8年には佐賀、 石川、 鹿児島、 鳥取、 熊本の五県で 同1 8年の屯 、 田兵の所在地は琴似、 山鼻、 新琴似、 篠路、 野幌、 江別、 篠津の7ヶ所で総戸数7 97戸 総人口4 061 , 人に達したのである。 空知に於ける屯田兵の移住は明治2 2年より同2 9年間に滝川、 美唄、 江部乙 秩父別 一己 納内 、 、 、 の各村に移住 したのである。 屯. 国. 名. 石狩国. 郡 名 空知郡. 田. 〃. 配. 備. 移住戸数. 滝 川 町. 南 滝 川. 歩兵 222. 北 滝 川. 〃. 美 唄 市. 美. 唄. 騎 兵 160. 高 志 内. 砲 兵 120. 茶 志 、内. 工 兵 120. ″. 南江部乙. 歩兵 200. ″ 27年. 北 江部 乙. ″. 西 秩 父. 〃. 200. 東 秩 父. 〃. 200. 秩父別村 一 己 村. 〃. の. 兵 村 名. 江部乙町 雨龍 郡. 兵. 町 村 名. 納 内 村. 218. ″ 23年 ″24、 25、 26、 27年 ″. 200. 南 一 己. 〃. 200. 北 一 巳. 〃. 200. 内. 〃. 200. 納. 移住の年 明治22年23年. ″ 28、 29年. 〃. 〃. 以上の中、 滝川屯田兵は明治2 2年12月 奈良県大和国十津川移住団の 616戸の中9 2戸が応募し翌2 3年 7月山口、 山形、 福岡、 佐賀、 熊本、 鹿児島の6県より 34 8戸移住し、 歩兵第五大隊第一中隊第二 中隊及大隊本部 が置かれ、 美唄は四期に亘って行われ第一期は明治24年5月屯田騎兵4 0戸、 砲兵30 戸、 工兵30戸計 100戸第四期迄同様移住したのである。 叉屯田兵の農耕地の給与は創設以来明治11 000坪 で 明 治11年 よ り 明 治23年迄 は10000坪 とさ れ 明治23年 以 降は 15000坪 与 え られ 下 士 年 迄 は5 , , 、 ,. 0 00坪の増給がなされたのである 此等屯田兵制度は明治36年4月屯田歩 官に昇進した場合は更に5 , 。 兵第四大隊を解除 したのを最後に屯田兵現役及予備役皆無となり 明治37年9月屯田兵条例廃止さ 、 れ、 すべて其地に土着するに至った。 かくて中空知地区に於ける町村が屯田兵の開墾による発展と 前述した組合農場と相侯ってあるものは農産物 の集産地叉は交通の要衝たる農村都市と して大 なる 足跡を残すに至った。. 南空知の開発即ち前述せる= 県内炭山、 幾春別炭山及岩見沢のみで夕張郡の開墾は殆んど見られな かった。 明治21年当時本庁技師坂市太郎により夕張炭山発見され急速にその地の発展を考うるも明 3年村田堤の一部試堀許可ありたるも実行されず同年10月北海道炭砿鉄道株式会社の所有となり 治2 施設の整備に忙殺せるも運営 に支障を来た していたが、 北海道産業開発即ち炭鉱開発計画推進の下 71- -1.

(9) . 藤. 波. 信. 成. に北海道炭鉱鉄道株式 会社創設に先んじ同22年新設鉄道工事の大要工費及予算等に関して予め道庁 五等技師友成仲にその調査を託し、 工事設計その他の実施に際しては道庁一等技師工学博士松本荘 3日北海道庁に願出でて許可を得、 先に鉄道敷設願書に添附進達 一郎の指導監督を希望し同年1ー月2 0日松本荘一郎を監督として室蘭方面より線路の調査を開始し敷設工事は した予測調査に基き12月2 全線を二区に分ち、 室蘭・岩見沢間本線及夕張炭山支線を第一区 (室蘭線) 、岩見沢・空知太間本線及. 3 空知炭山線を第二区 (空知線) と定め、 工事の順序は炭砿の開発計画に従い、 第二区を先とし同2 0日第二区空知線美唄方面より工を起し5月2 0工事施行の為岩見沢及室蘭に出張所を設け、 年 5月1 0日第一区蘭室線の工 同29日道庁二等技師工学博士平井晴二郎に鉄道技師長を嘱託し、 叉同年10月2 事に着手したのである。. 30哩7 1鎖) 次いで同2 5年2月 1日 翌24年 7月 5 日第二区の岩見沢・砂川及歌志内間 ( .砂川・空知. 太間 (2哩68鎖) それぞれ開通し空知線の全通をみた。 停車場は峰延、 美唄、 奈井江、 砂川及終点 の空知太、 歌志内を合して 6箇所とし、 その他岩見沢には機関庫及倉庫を設け第二 区全線に亘って 電話線を架設し同年4月前記の岩見沢出張所を廃止するに至った。 此等路線の開通は道中央部鉄道. 敷設の橋頭隼となると共に歌志内炭山の開発は勿論、 砂川、 奈井江、 美唄の各炭山の開坑の端緒と なり得たのである。 然るに夕張炭田の開発は一にか って第一区 (室蘭線) の鉄道開通にまたねば ならなかったが、 同25年室蘭 (現在輪西) 幌別、 登別、 白老、 苫小牧、 追分、 由仁の各停車場落成. 8鎖) 開通して11月室蘭出張所を廃止し11月 1日追分、 紅葉 83哩4 し同年 8月 1日室蘭・岩見沢間 ( 2 6哩4 9鎖) の開通を見るに至った。 かく して夕張線の竣工と共に採炭の実績上昇し自 山、 夕張間 ( 覚 しい発展をみた。 即ち夕張炭山の開発はこの時代を以て創始となし此時代より同39年10月同鉄道 の国有まで競争者なく、 会社独占時代を形成するに至った。 同鉄道国有後の夕張は鉄道売収金によ. る多大の利益配当及び日露戦争の恩賜金等に浴 したので炭山は一躍全道は勿論海外雄飛の感あって 全山の繁栄は例えようのないものであった。 特に同39年前後に於ける各炭山の発見及開坑に当って. 1年、 同 難渋を示していた運賃問題が国有鉄道に帰してより一挙に解決の運びとな り明治40年、 同4. 42年度にして夕張は名実共に海外に知られるに至った。. 第三期は道中央部鉄道の延長並に支線の増加である。 第二期末にや 部分的に敷設された交通網 5年岩見沢・空知太間の の整備と拡張に あり、 此等による産業開発計画の推進策の骨子となし明治2. 鉄道の開通は道中央部の拓殖政策に確固たる基盤を与え沿線の産業開発及拓殖移民の実を挙げ、 叉 一方に於ては組合農場の農産物の輸送に多大の影響を癒すと共に農鉱生産を益々発展せしめ経済的 安定の一大原動力となった。 然し北海道拓殖の成果は一にか って中央鉄道の完成、 即ち上川線の 開通であり、 これこそ空知は勿論北海道開拓の鍵であり、 支柱であった。 ここに於て斯様な重要性 5年 2月渡辺千秋長官は北海道 を有する上川線の完成に至る由来を見究めなければならない。 明治2 1 ) 中央鉄道敷設計画を樹立 し、 その推進に力を尽す時、 5月に政府は法案を提出し共に特別委員に. 附託委員会はこれを併合して鉄道敷設法案となし、その第二条に、九州線の次に 「北海道線 (殖民鉄 ) と して 掲 げ 6 月 4 日衆議員薬袋義一の反対に会い採決の結果削除されるに至った 其後1 道)」2 0月 。 2 5日北海道炭鉱鉄道会社々長高島嘉衛門は空知太・上川 間鉄道の重要性について北垣国道長官に内 願 した。 長官は直ちに11月 2日逓信大臣に具申し翌12月枢密顧問官井上毅は北海道巡視の北海道意. 見書を刊行、 その総論の一節に空知太・上川間、函館、札幌叉は小樽間を除くのほか、 すべて急速敷 )更に同26年1月内務大臣井上馨は第四回帝国議会に於ける質問に対し、 北海 設を要 しないと論じ3. 6年3月2 5日には北海道庁長官北垣国道は北海道開拓意 道開発上鉄道の利益の顕著な事を力説し同2 見書を草し内務大臣に進達したのである。 それは14項目からなり、 なかでも鉄道敷設を以て本道事 業中の最大急務とし、 次いでこれを内閣総理大臣及び他の各省大臣にも上申 した。 同年12月22日同 一172一.

(10) . 明治-大正 北海道商業史 -空知篇-. 長官は北海道炭鉱鉄道株式会社に対 し次の如く内達したのである。 「空知太炭鉱鉄道終点ヨリ延長 シテ上川郡旭川二至ル鉄道敷設二就 テハ曽テ申立ノ趣モ有之候処該線路ノ地方ノ ・開墾耕作二適シ大 小地籍貸下ヲ出願スル者多々有之数年ヲ出ズシテ将二寸地ヲ乗 リサザラントス叉屯田兵村ノ如キモ石. 狩方面二於テハ漸ク全備ヲ告ソトスルニ由り、 各地交通利便ヲ図ルノ必要且急ヲ感ズル折柄果シテ 右鉄道布設ノ見込有之義二候ハバ急速計画ノ方針ヲ確定申出ベシ」 (鉄道史 梅木通徳 p.164) と 、 会社はこれにより鉄道敷設に関する計画書類を提出して、 空知太・上川間32哩の興業費 即ち昨年 、 10月内願の額を再審して 12 0万円とし営業費は5万5千円、 収入3方7千円の見込で一箇年 1万 8 千円の損失を生ずべき事を具申 した。 北垣長官はこれにより計画を定め予定幹線略図に基き空知太 ・上川間を35哩半その工費を 130万円と し、 これを私設の経営に任ずるの策を立て翌年5月 5 日を. 以て進達し、 財政多端の際これが 敷設を政府事 業とする事は望み難いので これを民間事業に付 し 、 1 0箇年間その資本に対 し相当の利子を補 給する様要請したのである 同2 7 年5月内務大臣井上 馨は 。 北海道巡視についての意見書を発表して、 漁業、 農業道 路及鉄道 港湾地方制度 囚徒に関 し意見 、 、 を述べ、 特に本道開発上並びに交通の幹線としての鉄道敷設の重要性を力説した 同27年7月北海 。 道庁は田辺朔郎工学博士に委嘱して鉄道、 港湾 疏水、 運河等を調査させ 叉庁中に委員を設け広 、 、 井勇、 佐藤勇両技師を以てこれに任じ鉄道敷設の調査を命じ 8月14日調 査 の一 部 と して 空 知 太 ・ 旭. 川 間鉄 道 敷設 計 画 をな し工 費 は 木 橋 仮設 の 見 込 を 以 て116397040銭 と し 本橋 架 設 に は132321850 , , , 、 , , .. 銭を必要 額とした。 同28年 1月第7回帝国議会に於て衆議院議員百万梅治は北海道の鉄道その他 重 要事項に対する政府の施政方針に関して質問書を提出 し これに対して内務大臣 野村靖は2月 6 日 、 附を以て 「施政の方針は大体一定して 変更せざるも拓殖の方法施政の順序等は前内務大臣の計画を 遵守せん事を期する」 (北海道鉄道史 梅木通徳 p 166 ) 旨を回答 し、 この回答書には第四回帝国 . 議会の質問に対する井上元内務大臣の意見書を添付 した 更に同月上川郡旭川村武市清外 11 3名は 。 貴族院議員近衛篤麿外二名の紹介を以て空知太・上川間に鉄道を敷設される様にと第七回帝国議会. の貴族院 に請願し2月 9 日貴族院はこれを採択決議し政府に送付 したのである 同28年7月に は田 。 辺技師による全道鉄道調査終了 し、 幹支線鉄道調査及幹線図作成 これを北垣長官は内務大臣に進 、 達しその線路は小樽 ・函館間14 6哩余、 空知太以東厚岸・網走間352 1 里余、 旭川・宗谷間18 0哩、 奈 67哩合計84 与呂大・網走間1 5 - 哩余と雨竜・増毛 間4 0哩、 利男 U川口・相内間8 9哩、 厚岸湖畔・根室間 56哩、 合計185哩の支線を合せ総延長 1 0 3 0 哩余 これ 3 3 938 752円 と な し北 垣 長 に要する工費概 算 , 、 , ,. 官は右線路中急速施工を要 するもの327哩に対する工費10 7 35 10 6円を同2 9年度以降5箇年度間の継 , , 続事業として支出されるよう要請 したのである。 これに対し政府は空知太・旭川間35哩余のみの敷 設 を 可と し、 そ の 他 の 2 92哩について は後日に保留したので北垣長官はその趣旨により空知太・旭. 178 川間鉄道敷設費1 3 31円を29年度以降2箇年度の継続事業として7月2 6日予算書を内務大臣に進 , , 達し政府はこれを第九帝国議会に提出同2 9年2月 3 日衆議院予算委員会は政府が北海道 に於ける全 部の鉄道敷設計画を樹立せず僅かに空知太・旭川間35哩の短線を敷設しようとするのは姑息の措置. なりとの理由を以て当該区間の鉄道敷設費を削除、 然るに同日同院の本会議に於いて委員会の削除 金 額を復活 して政府原案通り可決 し、 次いで貴族院これを可決同29年5月1 4日法 律第9 3号北海道鉄. ) は公布され6月22空知太・旭川間の鉄道建設工事に着手し 同区間を二監 道敷設法4 督区に分けて 、 空知太及旭川に監督詰所を設置 し同年7月北海道庁は技術長田辺朔郎を各地に派遣 し 北海道鉄道 、 敷設法による第一期、 第二期線の区分及び工事費を定める為鉄道予定線を調査する事にした 同30 。 年5月25日深川、 旭川、 永山、 美瑛に監督区を置き、 深川監督区は空知太・旭川間の工事を監督し 他の三監督区はそれぞれ北海道鉄道第一期線の工事を分担したのである その後9月 拓殖務省廃止 。 され北海道に関する政務は内務大臣の管掌に移され、 1 1月 2 日勅令第392号を以て北海道庁官制を -173-.

(11) . 藤. 波. 信. 成. 改正して北海道庁各部中に鉄道部を加え鉄道の敷設、 保存及運輸に関する事項、 鉄道の会計に関す 1月 5 日北海道庁事務官坂本 る事項を処理する事にし臨時北海道鉄道敷設部官 制を廃止 し、 依って1 俊郎を鉄道部長に補 し、 同日北海道庁特別訓令を以て、 鉄道の技術及運輸に関する事項は首席技師 1 2月 2日技師長に改む) に合議すべき事を通達 し北海道庁技師田辺朔朗を鉄道部首席技師 (後技 ( 7日北海道庁処務細 則を改正して- 鉄道部の分課を監理、 建設、 計理、 倉庫、 運 術長) に任命、 同2 輸、 工務、 汽車の七課としたのである。 同31年3月 1日鉄道営業線路従事諸員服務規程を制定し、 4月 2 日停車場内出店及呼売業人規則を制定してこれらの営業を許可制とした。 4月 6 日鉄道貨物. 版扱人営業規程を制定してその営業を許可制となした。 明治31年5月10日旭川機関 庫及滝川機関 庫 を設置、 6月25日内務省告示を以て北海道官設鉄道営業哩程及旅客乗者賃金を制定した。 その賃率 4割増となし、 同月30日北海道庁告 は三等 1哩に付 1銭 4厘で2等は三等の7割増、 一等は三等の1. 50号を以て鉄道貨物運送補則、貨物運送賃金、 手荷物及小荷物その他運賃等 を制定同日北海道 示第1 炭鉱鉄道株式会社との間に車鋼使用料遅滞料及貸借料 規程を定め7月 9 日内務省告示を以て北海道 0哩以上の乗者の場合 移住民汽車賃を無料とした。 (同28年 1月これを改正して移住民に対 しては6 1 5 2 1 1 運賃5割減、 農産物については運賃の四分の一を収受すること し3 年 月これを廃止す) 7月 7鎖開 日大量貨物及遠距離行貨物に対して運賃の割引をなす事にし、 7月16日空知太・旭川間36哩1 通 し、 本区間は上川線と称し北海道炭鉱鉄道線空知太停車場に起り、 空知川及石狩川第一仮橋を渡 って雨竜郡に入り、 神居古撞を経て上川平野に出て再び石狩川第二仮橋を渡り旭川に達するもので 1日旭川に於て上川 1年 8月2 その間滝川、 江部 乙、 妹背牛、 深川、 納内の五停車場を設置し、 明治3 3 5 海道庁官制 0 2 2 1 令第 号を以て北 0 線空知太・旭川間の開通式を盛大に挙行したのである。 月 日勅 を改正し道庁各部中 から鉄道部を削除し、 別に勅令第306号を以て北海道鉄道部 を置き、 北海道に 於ける官有鉄道 の建設保存及運輸に関する事務を管 理せしめる事に して11月 1日から実施するに至 5号を以て逓信省官制を改正し北海道官設鉄道は逓信大臣の監督に属する事になった 9 り叉勅 令第2. 9年前述した北海道鉄道敷設法発布し留萌線沿線の拓殖状況は急設を要せずとの理 のである。 明治2 由にて第二期線に入れられて、 その後沿線の拓殖は漸次発展し叉留萌港の修築に伴い関係町村の運 動は著しく、 明治33年11月北海道炭 鉱鉄道株式会社 は雨竜原野から増毛に至る線路中深川・留萌間 2 9哩余の敷設免許方を申請 した。 これに関し北海道庁長官園田安賢は次の意見を附して逓信大臣に 上申 「小樽及室蘭 ・其位置一方二偏シ其運輸二於テモ余力ナ カラントスルノ状態ニシテ十勝線連絡. ・之 シテ釧路二通 ズルモ亦東方二偏シ天塩石狩方面ニハ之ヲ利用スルニ由ラナケ レバ、 深川留萌線ノ 1年度二至ル7箇年度二分割シ毎年度 2万円ハ35年以降4 ヲ第一期二繰上ゲソコトラ要 ス、 其工費約14. 20万 円 ヲ支 出 ス レ バ 可 ナ リ 然 し ドモ 事 若 シ 此 ニ出 デ 難 シ ト セ バ 第 二 期計 画 ニ委 セ ソ ョ リ 寧 ロ之 ガ私. 182 ) 明治34年 1月逓信大臣は北海道炭鉱 設ヲ許可スルニ若カズ」 (北海道鉄道史 梅木通徳著 p . 鉄道会社から申請の深川・留 萌間を検討し同線は北海道官設鉄道の首部に属するを以てこれを私設 するのは鉄道 網構成上得策でなく、 北海道拓殖上にもまた遺憾であるとの意見を付して内務大臣に 2名は深川から留萌に至る鉄道敷設の免許申請をなし 移 した。 その後4 .月叉東京市芝区加藤万助外2 当地方の住民は官私を問 わず鉄道急設の処置をとるよう政府に請願 したのである。 然るに政府は明 ・炭鉱鉄 治35年5月逓信・内務両大臣の協議の上次の如く意見の一致をみた。 「北海道官設鉄道線ノ 道株式 会社ノ長距離私線二拠テ纏二海陸ノ連絡ヲ得ルラ以テ運賃多額二上 り鉄道経済ノ不得策ナル ハ多弁ヲ待タ ズ且ッ該線ガ自家鉱業ノ運搬ニ忙殺 セラ レ殆ソ ド他ヲ顧ルノ余地ナク往々官設線ノ農 産貨物ヲ転輪スルニ苦シムハ遍ク人ノ知ル所ナリ故ニ若シ私設ノ申請ヲ容 し会社ノ営利事業二放委 ス ル トキ ・該既設線小樽二於テ全権ヲ占有シ自己営利ノ外他ヲ顧慮セザルノ結果今尚ホ石狩国内ノ. 諸鉱業萎微振ハザル如ク亦 抜ニ再ど轍ヲ同クシ沿道ノ富源ヲ開発セシムル能ハザルノミナラ ズ官設 一174一.

(12) . 明治-大正 北海道商業史 -空知篇- 全線ノ貨物ヲ渋滞シ延テ拓殖事業ノ発達ヲ阻遇スルニ至ルベシ依テ留萌深川間ノ鉄道敷設費及留萌 4 9万円ヲ要スルガ故二今日ノ 国庫財政上斯 4万円港湾ニ於テ2 港湾修築費ヲ調査スルニ鉄道二於テ14 カル多額ノ費用ヲ投与シ急遮工ヲ起シ能ハザル ベシト雄モ敷設法ノ精神ヲ採り時機ヲ見テ宜シク官 設鉄道一期中二追加スベキハ今日二於テ予メ決定シ置カザル可ラズ」 (北海道鉄道史 梅木通徳 p,185) と 閣 議 の結 果 同35年 7月 9 日北海道敷設法第二条に規定する雨竜原野から増毛に至る線中. 深川・留萌間は私設鉄道敷設の申請を却下 し、 他日機を見て北海道第一期中に追加するに至った。 然し該町村のこの熱心なる要望は遂に明治38年第22回帝国議会に於て留萌線は第一期に編入され明 1月2 3日深川・留萌間の運輸営業を間始しその間に築紫、 沼田、 恵 0年4月より工を起し同4 3年1 治4. 比島、 峠下、 幌糠、 藤山及大和田の各停車場を設置し、 深川機関庫及留萌機関庫を開設したのであ る。. )は北海道炭鉱鉄道株式会社線の最終駅で即ち滝川町以北旭川方面 上川線開通前に於ける空知太5 に於ける物資の需要は、 すべて滝川からの供給により、 為に滝川は古くより人馬の往来繁く、 叉市. 街は頓に繁栄 し、 中空知以北唯一の繁華街を形成するに至った。 然し明治31年 8月16日上川線工費 1 17 33 1円35哩開通し、 上川開発の基礎なり当町に於ける商人及農業生産者は甚大なる打撃を蒙り 8 , , 供給需要共にその道を塞がれ、 市街の不況は著しく、 更に明治31年9月及同37年9月の石狩川 o 空 1年の水害は宮中に達し、 片岡侍従御差遣され御内密金を 知川氾濫の大洪水は言語に絶し、 特に同3. 下賜される。 斯様な惨禍は市況完全に沈滞し、 最早当町を回復せしめぬかに見えその振興策すらな く困窮の度その極に達したのである。 こ に於て空知川沿岸資源の開発は町の発展否寧ろ危険を脱. すべく、 空知川沿岸鉄道線の敷設を基盤に町民死力を尽して輿論の喚起に 努め着々その運動を展開 1年前後の滝川開村当 するに至った。 即ち下富良野線 (滝川・下富良野間) 鉄道敷設の萌芽は明治2 時よりあり北海道拓殖鉄道として将来何れ敷設されるべき計画にあった。 然し実際の運動として軌. 0年後の明治4 0年鉄道院技師古川板次郎初めて下富良野線の実地踏査をなした。 そ 道に乗ったのは2 の時滝川在住大竹康造、 江藤恭太郎は札幌にて古川技師を訪れ、 速成の件を陳情するに至った。 然 8年 8月 るに砂川・滝川何れを分岐点とするかの問題が既にこの時より起っていたのである。 明治4 逓信大臣兼鉄道院総裁後藤新平及鉄道院技監野村龍太郎の一行は本道の運輸交通の事情を視察の為 来道その時叉大竹・江藤両氏は再び札幌に趣き一行札幌より旭川に至る車中に同乗して下富良野線 敷設の重要性とその急務を詳細に陳情、 滝川下車を願って実地検分を懇請したが容れられず、 一行 旭川を出発する時江藤恭太郎・三浦庄作再度滝川下車を願ったが矢張容れられず代理として野村技 監を下車せしめた。 野村枝監は鉄道院建設事務所長稲垣平太郎と共に来町し、 人力車にて幌倉種 牛 牧場附近及一の坂上滝川神社境内より遥に実地検分し叉町村の陳情を聞き帰って総裁に復命したの である。 叉一方当町に於ては空知川沿岸鉄道期成会を組織し、 会長大竹廉造、 副会長江藤恭太郎選 任きれ目的達成に努力するに至った。 叉鉄道院総裁後藤新平は空知川沿岸鉄道敷設を政府案として 6議会に提出せんとしたので好機逃かさずと大竹廉造・江藤恭太郎・今井勇吉上京し該案 の通過 第2. 3年1月27日議案を第2 6議会に提出、 議案は委員附託となり綿密に審議 に努力させた。 政府は明治4 されたが四国、 山陰、 山陽方面の急務なる線ありとの意見あって該案は不利となり委員会の採択は. 困難視された。 然し一方上京委員浅羽靖、 東武、 白石義郎、 高橋直治等本道選出代議士及応援の為 3年2月28日衆議院通過同日貴族院へ廻 上京した道会議員松実喜代太等東奔西走、 その効なって同4. 8日貴族院を通過即日裁可を奏請し叉可決の旨を衆議院に通知 送同月 216日貴族院第一議会同2月2 3号を以て同法改正の件公布され、 多年の宿望は遂げられるに至った。 そ して同年3月25日法律第2 )にて滝川の優位性につき述べ明治4 3年10月2 6日の空知 こで空知川沿線鉄道分岐点に関する陳情書6 7 ) 川沿岸線鉄道分 岐点に関する請願書 にて北海道 拓殖計画の大なる観点に立って滝川の分岐点に適 -175-.

(13) . 藤. 波. 信. 成. すべき理由を述べ私心のなき事を表明するに及んで、 明治4 3年11月 6 日下富良野線の分岐点は滝川 町に決定、 翌44年2月 7 日直ち に工を起し大正 2年10月竣工するに至った。 この鉄道開通は乗客並. に貨物輸送 に犬なる影響を 高し、 本道輸出入増大及商品価格の低下に一層拍車をかけ商業政策上犬 なる利点となり得た。 即ち下富良野駅より旭川経由小樽行と、 滝川経由小樽行の二つの農産物一噸 )によれ ば~ に対する運賃比較表8 哩程に於て37哩運賃47銭の差異がある。 更に此沿線に於ける石炭鉱 0箇所程あり、 すべて優良品質にして撫順炭に匹敵しその埋蔵量は他に優れ多くの試堀者が出 区は4 たが運輸の便なき為すべて企業経営の失敗に帰したのであるが、 此鉄道開通と共に、 芦別川沿岸辺. 渓、 班渓、 赤平、 幌倉等続々と開坑するに至った。 即ち明治4 3年平岸鉱開坑、 大正 2年三菱鉱業株 式会社芦別鉱区を設定、 石炭試堀し同4年には芦別炭鉱及久原鉱業辺渓磐の沢にて石炭採堀に着手 し、 大正7年芦別炭鉱茂尻炭鉱開坑同 8年久原鉱業開坑及次郎島に豊田炭鉱着業したのである。 その他北空知の開発政策の一環として雨龍川沿岸にその焦点が向けられ無尽蔵な農、 林、 鉱産資. 源の開発を目指し、 本道拓殖の見地から速かにその成果を期待 したのであるが、 特に鉄道の急設な く しては不可能なりとの結論に達し、 早くより雨竜線の鉄道敷設が叫を れたがその機至らず、 その. 後北空知の中心深川町はこの鉄道敷設による当町の利益発展の重要性に鑑 み同5年一己・多度志・. 幌加内り深川の各関係町村と連絡し統一的運動の下に期 成同盟を組織し帝国議会並中央の関係当局 に請願の為大正8年深川町長山本彦大・堀江頗信・桂猶吉、 多度志村笠原元治、 幌加内村井尻久吉. 青木善一郎、 同9年深川町川上和平・山本彦太、 一己村萩原藤太、 多度志村佐々木佐市郎、 幌加内 村井尻久吉等 と二回に亘って上京し、 一方中央に於て東武代議士等建議案の提出及請願等す べて に 奔走され、 当時として予定線編入は容易ならざる状態にあり非常に困難視されたが同9年軽便鉄道 敷設法により計画され、 大正11年度より着手するに至り工程次 の如く である。 3年11月2 5日 第一次深川・多度志 間開通 大正1 大 正15年11月 3 日. 第二次多度志・鷹泊間開通 4 8 1 1 昭和 年 月 日 第三次鷹泊・幌加内間開通 昭和 6年9月16日 第四次幌加内・添牛内間開通 5日 朱鞠内線に全通幌加内線と改称 昭和7年10月2 昭和16年10月10日. 名寄・深川間全通. 留萌線開通し雨竜線の工事着手されるや深川、 一己、 多度志、 幌加内各町村の移住は高まり、 深川 は明治31年百数拾戸同35年には約参百戸を算するに及び当沿線の産業発展は自覚しく深川は単に農 産物の集散地 たるにとどまらず、 交通の要衝として文化的にも勝れ特に商業の飛躍的発展は北空知 随一と称せられたのである。 留萌線開通の前年即ち明治42年の商工業者並に深名線開通の翌昭和17 年に於ける商工業の業種別区分を挙げ当時の隆昌一途の深川商業を見るならば、 年 度 明治 4 2年度. . 業. . 名. 物品販売業 運. 送. 員数. 133人. 業. 3. 料 理 店 遊 技 場 湯 屋 時 計 店 製 造 業 業 亘 屋 根 葺. 12. 旅人宿業. 計. 17. 29 3 8 216. 工. 業 者 名 業 金銭貸付業 請 負 業 印 刷 業 飲 食 店 理 髪 業 洋服仕立業 呉 服 業. 調 員数 8人 6 I 20 巧 2 7 29. 大. 工. 木. 挽. 18. E 奈 I 計. 業. 61 167. - 176 -. (深川町役場調) 薬 銀 写 貸 待 代 周 酒 桶 鍛. 行 真 席 合 書 旋 造. 名 業 業 業 所 業 業 業 工 工. 員数. 1人. 20. 42. 合計 425.

(14) . 明治-大正 北海道商業史 年 度 昭 和 17 年. 業. 名. 食料品店 皮革履物商 自転車商 魚莱果実商 時計電気商 下 其. 計. 宿 業 他. 員数 5 8人 12 12 =. 20. 業 繊 維 菓. 子. 洋 服 物 古 ′. -空知篇-. 名 商. 員数 25人. 商. 22. 商 ▲ 商. 12. 薬種玩具商 料理飲食店. 21 20 35. 業 米. 名 穀 商. 燃 家 旅 理. 料 商 具 商 館 髪 業. 金物陶器商. 員数 20人. 13 11. 135 64 計 計 合 計 326 以上の如く 深名線開通後に於ける深川商工業者の減少は当町の不振を思わせしめるけれ ども 昭 、 和12年以降日麦事変により企業の縮少及軍需工業の拡大傾向にあり すべて統制経済下 にあった為 、 商工業者の自由な商魂は阻止され逐次業者は整理統合されたのである 。 各期の産業開拓につき大要述べたのであるが 第一期 (明治元年-同2 り年) は開拓の基礎であり 、 資源開発と殖産移住即ち狭義の生産に集中し、 逐次民間企業に切 換えられ叉官有地の払下げ 道路 、 開璽による駅逓の交通の確立及本庁の開拓行政の整備 に万全を期し 移住民の経済生活の安定と繁 、 栄に重点を置き、 天然資源の調査と起工にその力を結集し 商業の介在は許されず 駅逓兼旅人宿 、 、 及飲食業その他万屋式商店のみであり、 未だ空知管内の商業の発達は絶無といっても過言ではなか った。 斯様な状態は産業資本の乏しき事を表明するに外な らず 前述した民間企業への転換はこの 、 窮地を救うべく 民間の産業資本に依存し、 本州よりの資 本の導入により開拓資本の不足を補い速か なる開発推進を期待 したのであるが、 此等はすべて可とならず多く の独占企業を許す事になり 空 、 知はもとより本道に於ける国民生活に大なる弊害を喬すに至ったのである 第二期に於ては第一期 。 の成果の充実と更に各生産相互の連繋発展の為に交通網の拡大とそれに伴う沿線開拓である 然し 。 第一期に於ける民 間企業の重要性は本庁企業運営と異り、 大資本による未開地の投資はその地の開 発に大いに寄与したのであるが、 前述した如く行政上から見てすべてその成果を得られず 或る種 、 のものにとっては却って開発を阻害するものが出るに及んだ。 即ち鉄道敷設 炭山開坑 土地買収 、 、 127. 等に於ては第三期に入って益々その被害を及ぼし、 北海道開発に一大汚点を残す結果となり 第二 、 期は即ち第一期の政策を踏襲しその骨格を表明したに過ぎないのである 第三期に於ては第二期の 。 行政的欠陥を指摘し、 計画的拓殖経営の実を挙げんと10箇年拓殖計画の樹立を見たが日露戦争の為 己むなく 9箇年にて止め、 改めて明治43年より第一期拓殖計画を立て為に本道開拓の成果は頓に上 り交通網は完成し、 本道は勿論本州との取引急に増大し、 近代商業の確立を見るに至った と りわ 。 け北海道行政機構の改革及民間鉄道の国有化は本道開発の偏向性を打破し 画一的企業 拡張並に商 、 業経営発展に更に拍車をかける事になり、 叉外的条件と しての港湾施設の整備と新開港は本州並 に 外国貿易を推進せしめ本道の農、 エ、 鉱生産を向上させると共に、 本道金融は次第に強力となり商 業 立 地を 完全 な も の に す る に 至 っ た ので ある。. (次 号に続 く). 註 1) 北海道中央鉄道敷設計画は空知太を起点として一は上川郡永山村に至り 一は空知川に沿って遡り 、 十勝川支流の字ペ ンケシットクに出て河西郡を経て大津に至り海岸に沿って釧路に達 し 更 に標茶 、 に至り二線に分 れ、 一は根室に達 し、 一は既成線である釧路鉄道 により跡佐登硫黄山を経て網走に 達するものであり、 総延長34 3哩余、 工費6 9 81 2円と した (北海道鉄道史 梅木通徳著 p.158) 76 , , 2) 北海道線 (殖民鉄道) は空知太・網走間、 網走て釧路間 標茶・根室間 上川・釧路間 雨龍大・ 、 、 、 留萌間、 上川・稚内間及び小樽・函館間の鉄道を掲 ぐ。 3) 意見書 『北海道 ヲ開拓スル着手ノ順序二付ニノ 方法ノ同カラザルァリ 甲ノ 、 ・日ク先ヅ第一着手二従 横ノ鉄道 ヲ敷設シ四隅二通ゼ シムベ シト、 乙ノ ・日ク先 ッ沃地ヲ開墾シ逓次二部落 ヲ成シ人民生活ノ 基礎ヲ固クスベ シト、 此ニノ方法二共二要用ナラズト蚤 雀国庫経費ノ 許ス所如何ヲ計量ス ベキガ為ニ ハ何 レカ其ノニラ撰 ビテ先 ヅ之ヲ行ハザルベカラズ果 シテ然ラバ予ノ ・第一ヨリ寧口第二ヲ撰 ビテ先 ヅ之ヲ行ハ ソコトラ望マザルラ得 ズ……第一ノ方法二依り先 ヅ鉄道ヲ敷設 シ全道ヲ縦横シ経路貫穿 -177-.

(15) . 藤. 波. 信. 成. セシムルニハ札幌・函館間、 空知太・網走間、 網走・釧路間、 釧路・根室間、 空知太・稚内間二布 線セザルベカラズ、 而シテ根室、 網走及其他ノ諸港ヲ改築スルニ非ザ レバ鉄道亦航路ト聯絡スルニ 、之ヲ改築ス 由ナシ此説ノ主張者ノ設計二依 レバ大約三千有余万円ヲ要スト云フ夫し東北海岸諸港ノ ・日本海二於テ海陸ヲ聯絡スル安全ノ国港ダル二足ルカ、 此 し容易二肯定 ルトキハ果シテ太平洋叉ノ シ難キノ疑問ナリ若前二良港ヲ控ヘ ズシテ空漠ノ 野二先ヅ鉄道ヲ通ゼ ソカ, 此ノ鉄道ハニウョルク ・サンフランシスコ間ニ比ス ルノ鉄道タラズシテ却テ族及沙漠ノ鉄道タラソモ未 ダ知ルベカラズ独 り建築費ノ利息ヲ見ルノ難キノミナラ ズ其運転費二於テモ亦何ヲ以テ給足セントスルヤ、 況ヤ建築 ・之ヲ外国二仰 グ所ノ物料二投ズベキガ故二必正貨ヲ要スルモノ ナリ、 現在内地ノ鉄道敷設 費ノ半ノ 、正貨ヲ要スベキニ当り此 法案議定ノ結果トシテ十二年間二六千万円ヲ麦費スベク、 而 シテ叉其半ノ 大工事ト麹行シテ北海道縦横線ノ鉄道工事ヲ短日月間二施行セ ソコト果 シテ国家経済ノ許ス所ナル ・未 ダ必シモ正貨ノ巨大ナル輸出二供給スルニ便ナラ 乎縦令資金吸収ノ容易ナルニセョ紙幣ノ募集ノ ・小樽間ノ鉄道ト函館・室蘭 両港ノ改築トラ以 ノ ・空知太・上川間 函館・札幌叉 ザルナリ、 故二予ノ 、 テ急ニス ベキノ 工事 トス ルラ除ク外、 其ノ 他ノ巨費ナル工事ヲ近年期内ニ企ツルコトニ同意ヲ表ス ルコト能ハズ、 而シテ之ヲ将来部落団栗シテ適ヨリ遠ニ及 ブノ目二譲ラソト欲ス此 し予ガ第一方法 ヲ措イ テ第二方法ヲ撰 ブ所以ナリ』(同上書 pp.159~161). 4 ) 北海道鉄道敷設法. 第一条 政府ハ北海道二必要ナル鉄道ヲ完成スル為漸次予定ノ線路ヲ調査シ及敷設ス ・左ノ如 シ 第二条 北海道予定鉄道線路ノ ー、 石狩国旭川ヨリ十勝国十勝大及釧路国厚岸ヲ経テ北見国網走ニ至ル鉄道 一、 十勝国利別ヨリ北見国相ノ 内二釧路国厚岸ヨリ根室国根室二至ル鉄道 一、 石狩国旭川ヨリ北見国宗谷ニ至ル鉄道 一、 石狩国雨龍原野ヨリ天塩国増毛二至ル鉄道 一、 天塩国奈与呂大ヨリ北見国網走二至ル鉄道 一、 後志国小樽ヨリ渡島国函館二至ル鉄道 ・実地ノ緩急二応ジ各線ヲ数区二分チ毎区ノ 工事ヲ継続事業トス 第三条 北海道鉄道工事ノ ・公債ヲ募集シテ之二充ッ 第四条 北海道鉄道事業二要スル費用ノ 第五条 北海道鉄道公債ノ利子ハーカ年百分ノ五以下トス 第六条 北海道鉄道公債二関シ本法ニ規定ナキモノハ総テ明治十九年勅令第六十六号整理公債条例 二拠ル 第七条 北海道鉄道敷設二充ツル為金三千三百万円ヲ限り明治三十年度ヨリ工事ノ緩急ト財政ノ都 合ヲ図り漸次公債ヲ募集ス ・鉄道線 路ヲ実測 シ毎区ノ 工費予算ヲ定〆帝国議会ノ協算ヲ求ム ベ シ 第八条 政府ノ. 5). ・本法二適用ス 第九条 明治二十五年法律第四号鉄道敷設法第十四条第十五条ノ. i buto) に て So とは滝の意にして r ・蝦 夷 語 ソ ー ラ ッ プ チ ブ ト (So‐ i とは水の ‐ 空 知 太ノ rapch apch 上よ り落ちる形容をい この二語合 して滝のiHなるを意味 し buto とはiHの合流する意味にて即ち 石狩川と空知川の合流している為旧土人は斯様に呼んでいるが現在滝川町字空知太なり。. 6 ) 空知川沿岸鉄道分岐点に関する陳情書. ・北海道二於ケル鉄道ノ系路及拓殖上ノ必要二因り北海道鉄道 敷設法中改正法律案ヲ帝国 今回政府ノ ・既二 議会二提出セラレ同第二条第一号ノ次二砂川近傍ヨリ下富良野二至ル鉄道ヲ追加セラ レ議会ノ ・紘 達成セントシテ転夕欣躍ニ堪へサル 之二協賛シ将二本年ヨリ起工ヲ見ソトス某等多年ノ宿望ノ ・慎重調査ヲ遂 ゲラ レ適切ナル設計ラナシ 次第二之アリ候固ョリ其敷設方法等二開シテハ政府当局ノ ミリト雛モ尚ホーノ憂慮二堪ヘザルハ分岐点設置ノ 起工セラル ベキハ信 シテ疑ハサル処二之 レアリ匁 個所二有之候 某等永ク沿線附近二居住 シ利害関係ノ最モ浅カラサルノミナラス其 地理ニ暗熟シ其状 況ヲ知悉罷在間敢テ減二尊厳ヲ冒潰シ潜越ヲ顧ミス左二卑見ヲ披涯シ清蛙ヲ奉仰候 ・七八哩ニシテ叉同所ヨリ砂川二接続シ更二留 一、 新線下富良野ヨリ滝川ュ接続シ留萌二至ル距離ノ ・八七哩ナルラ以テ滝川ヲ分岐点トナスハ砂川 ヲ分岐点ト為スニ比シ実二九哩ノ短縮 萌二至ル距離ノ ・三六哩半ナ レバ其分岐点ヲ滝川 ・三十二哩ニシテ下富良野砂川間ノ ヲ為 ス而 シテ叉下富良野滝川間ノ 二設クルトキハ砂川二設クルニ比シ新綜ニ於 テ四哩半ヲ短縮セシムルラ得ルノミナラズ下富良砂川 ヲ連絡ス レハ徒ラニニ哩半余ノ無益ナル並行線ヲ布設セサルヘカラサルノ 不利ヲ免 しサル事瞭ラカ ナル義ト考ヘラレ候 二、 更二現在ノ旭川線 トラ ,比較スルニ下富良野ヨリ滝川ヲ経テ留萌二至ルトキハ前記ノ如ク七八哩 ニシテ之 レラ現在線下富良野ヨリ旭川ヲ経テ留萌二至ル八五哩ニ比ス レバ七哩ヲ短縮ス之二反シテ ・之 レラ旭川ヲ経テ留萌二至ル現在線ニ比ス レノ・却テニ 下富良野ヨリ砂川ヲ経テ留萌二至ル八七哩ノ 哩ノ延長ヲ来タスガ如キ異観ヲ呈スル義二有之候 一1 78-.

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