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日本統治下の台北帝国大学について(上)

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Academic year: 2021

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(1)日本統治下の台北帝国大学について(上) 陳鍮. はじめに.  日本の旧制帝国大学は9校あり、その7番目にできたのは当時の植民地である台湾 に設立された台北帝国大学であった。.  日本では初めての近代的な大学といえば、1877年4月に開成学校と東京医学校の 両校を合併して誕生した東京大学である。1886年に初代文部大臣森有礼時代に公布 された「帝国大学令」により、東京大学は帝国大学として改造され、大学は分科大学と. 大学院で構成されるが、分科大学には、法・医・文・理のほかに、工科大学そして 1890年に農科大学も加えられた。ヨーロッパではユニヴァーシティはアカデミック な学問と教育の場であり、工学や農学そのほかの近代的応用技術学を教えるところで はないとされていた。この違いは当時の殖産興業の国是に立つ明治政府の実用主義的 大学政策の大胆な表現とも言えるだろう。帝国大学大学令の第一条には、大学の目的 を「帝国大学ハ国家ノ須要二軍スル学術技芸ヲ教授シ及其薙奥ヲ放究スルヲ以テ目的 トス」と定めた。この規定から見ると、日本の旧制帝国大学は国家機関的性格が強か ったことが明確になる。.  1894年8,月1日、日清戦争が勃発し、清朝の敗戦により日清講i和条約が1895年4 .月17日に調印され、19日に台湾と膨湖列島が正式に日本に割譲され、台湾は日本に よる51年間の統治の歴史が始めた。.  最初の植民地教育は後藤新平などが「教育は諸刃の剣」と言っていたように、消極 的であった。しかし、産業の発展と共に、台湾人を近代産業の労働者、下級官吏、中 堅技術者として育成する必要に迫られ、学校教育の充実を図らなくてはならない状況 になってきた為、各地に国語伝習所(後の公学校)という初等教育機関が設置され、台. 北には国語学校を設置した。国語学校は中等教育を施す国語部と教員養成の師範部の. 二部構成であった。1899年には台湾医学校が設立され、その後各地で中学校、専門 学校が続々と開校した。1919年の「台湾教育令」と1922年の改正「台湾教育令」の 公布により教育の創始、整備の前期が終えて、確立と終結の後期を迎えた。台湾教育 令は内地延長・同化教育を推進するため、高等教育機関の充実が見られ、日本「最初. の南方大学」である台北帝国大学は1928年に創設された。本稿では台北帝国大学の 設立の経過と運営情況について考察したものである。. 、台北帝国大学設立経過.  最初に台湾に大学を設立することを提議したの阪谷芳郎男爵であった。彼は1899 年の『台湾協会会報』 (第5号)に「台湾大学設立二関スル意見」を発表した。阪谷 一66一.

(2) 氏はその文章に先ず教育の重要性、大学の重要性について「国家統治の基礎を定むる は教育にあり」「大学は国家の原動力たるへき人才を養成する所にして開明発達の源 泉たり」と述べた。また、ドイツ、イギリス、フランスなどの国が植民地占領後直ち に大学を設立し、大学を重視したことを述べた。台湾で大学を設立すべきことについ て彼は次のように述べていた。.  余は台湾経営上同地に大学を設立するを一大急務なりと信ずるものなり諸般 の行政を整理し殖産興業をカめ軍防を厳にすることは素より怠るべからずと錐 も教育制度を布き就中大学を創するは最も急ならざるべからず是実に一日後く るれば一日の損一月後くるれば一月の損あればなり然しながら余は大学大学と. 称すれども其組織は必ずしも初より我帝国大学と同等に高尚完備なるを要せず 初は簡易の方法を以てし漸次完全を期すべし…….  余が台湾大学の設立を冊望するに付 尚ほ弦に一の最も熱心なる原因あり其 は他にあらず余は実に台湾大学を以て故北白川宮殿下の御記念となして或は社 殿を造営すべし或は公園を造るべし等種々の訂画を聞く所なるも最も壮大にし て最も公益あり世界の有ん限り不滅の御記念物は大学創立の右に出つるものあ るべからず殿下の神霊も必ず幽界に於て満足に思召さるること決して疑あるこ となし(1).  即ち、阪谷氏は台湾に大学を設立することは台湾経営上の急務であり、北白川宮殿. 下を記念するためであると唱道されていた。1920年の頃に至っては設立の機次第に 熟し、その秋台湾大学期成同盟会が「台湾大学設立論」を編纂発行し、当地各方面の名 家が何れも熱心に開設を主張していた。(2).  1921年台湾総督府より中央政府に台湾教育令改正案に、教育の制度は内地と同様 となり、随って高等学校も設立することになり、其の卒業生を収容すべき大学は自然 の結果としても必要となり、高等学校及大学に関する規定を加へ、七年忌の高等学校 の学生の卒業に合わせ、1928年より大学を設置することを予定した。1922年改正「台 湾教育令」を田健治郎総督(任期1919.10.29−1923.9.2)の時、勅令第20号として公. 布し、初めて台湾における大学教育の諮るべき所を規定された。(3)  台北帝国大学の設立は1925年の伊澤多喜男総督(任期1924.9.1−1926.7.16)によ. り具体化し、その年度の総督府予算には「帝国大学準備費」が計上されていた。1926. 年度より大学新営費を夫々予算に計上して教官の外国派遣、校地の買収、校舎の建築 等点々準備の歩を進めた。伊澤多喜男の後任の上山満之進総督(任期1926.7.16− 1928.6.16)の時、台北帝国大学は愈々開校を迎えた。もとは「台湾帝国大学」と名付. ける予定であったが、日本内地の帝国大学名称と一致するため「台北帝国大学」と改 称した。(4). 一67一.

(3)  台北帝大の設立には伊澤多喜男総督が大いに貢献した。伊澤多喜男の兄修二氏は初 代総督樺山資紀氏に招かれ、台湾総督府学務部長心得を務めたため、伊澤多喜男は台 湾に特に関心を抱いていた。彼が総督に就任してから最も力こぶを入れたのは台湾に おける教育問題であった。それは兄修二氏の遺志を継ぐことであった。前総督時代か ら懸案になっていた教育問題のうちで、最も大きいのは台湾大学創立のことであった。. 彼はこれを引き継ぎ実現の為心血を注いだ。日本内地では、台湾に大学を置くことは 早いというものが多かった。彼は着任と同時にこの問題を研究し、設置遂行の決心を した。そして親友の幣原坦氏に依頼して設立準備を進めた。従来台湾に設置する大学 は、実業大学、即ち医学部、農学部の程度に止めたいという意見が多かった。彼は実 業大学はもちろん、真に台湾の文化の発展の中心になる大学を創らなければならぬ、 それが為には、人文科学の部門をも設けるという主張を強く持った。法学部、文学部、. 理農学部を設け、台湾大学は文科系等と自然科学系統の二つを備えた総合大学とする ことに決定した。文科系等の部門を設けることには、内地のほうで非常に反対があっ たが、彼はその理想を実現したのであった。次の手記は、幣原坦氏の当時の報告書の 一部であるが、これによると、伊澤多喜男がいかに東洋文化の理想に異常な憧憬をも っていたかが分かる。.  大正十四年十月九日、総督公室二於テ大学創立会議アリ、伊澤総督ハ学問ノ基 本トモイフヘキ文学部ト理学部トヨリ開始シテは如何ト提侶セラル、皆イフ、本 質ヨリ論スレハ総督ノ所説誠二理アリト錐モ、台湾ノ現状ヨリ観察スルトキハ、 文理両学部ノミヲ以テシテハ、学生卒業後ノ需要モ少ク、差向キ大学建立ノ効果 ヲ薄弱ナラシムルニアラサルカ、カクテ種々検討ノ結果、文科二期フルニ法科ヲ 以テシ、理科に加フルニ農科ヲ以テスルコトニ大体ノ帰結ヲ得タリ。.  翌十日及十一日、総督等トノ会談ニヨレハ、総督ノ意向ハ、法科トイツテモ法. 律屋ヲ養成スルニアラスシテ儒学的道義的政治学ヲ根幹トスルモノ宜シカラン トイフニアリ、依テ更二議ヲ重ネ、法律ノ中ニモ文科ト共通二東洋道徳学ヲ必須 科トシ、又其他ノ文科ノ科目ヲモ兼修セシメテ、既設大学ノ法科トハ趣ヲ異ニス ルヤウ内容ヲ定ムルニ至レリ。.  右に因テ取極メラレタルハ、文法学部二十四講座、理農学部亦二十四講座ニシ テ、文法学部ハ、哲学科、史学科、文学科、政学科、法学科ヨリ成り、理農学部 ハ、生物学科、化学科、農学科、農芸化学科ヨリ成ルモノトセリ、後文法学部ヲ 文政学部ト改称シ、従テ法学科ハ削除セラレタリ。医学部ハ当初考慮セラレツツ アリシコト前陳ノ如クナリシカ、其経費ノ負担ノ\当時ノ総督府財政ノ困難トス ル所アリ後年二延期シタリ。.  台北大学ノ特色トシテ見ルヘキハ文政学部ニシテ他ノ大学二類例ナキモノ、南 洋史学土俗人種学ヲ以テソノ最:ナルモノトシ、心理学ノ如キモ、民族心理学二重 一68一.

(4) キヲ置キ、言語学モ教材ヲ東洋南洋二取リ、倫理学モ、西洋倫理ノミニ偏スル従 来ノ型ヲ破りテ、二二東洋倫理ヲ配セリ。又他ノ大学二三テ支那哲学、又ハ支那 文学ト称スルモノヲ盛ク東洋哲学、東洋文学ト改称シ、眼ヲ東洋一三二注クヲ期 セリ。政治学、経済学、法学三二至リテモ亦同然ニシテ、教材ヲ西洋二三ルヨリ モ寧ロ東洋ノ事例二着目セシメ、又東洋倫理学ハ政学科ノー学科ヲナセリ。理農 学部二至リテハ、総テ台湾ヲ中心トスル、熱帯亜熱帯ノ対象ニヨリテ講究ヲ進メ、 内容力他ノ大学ト差異アルハ言ヲ侯タス。(5).  上記のように、1925年(大正14)のとき、伊澤多喜男と幣原坦らにより、台湾大 学の学部、学科、講座などについてほぼ決定された。大学は実用性を考慮して、文科 系は文科と法科より構成され、文政学部と称され、哲学科、史学科、文学科、政学科. の四学科を設置し、24講座を開設する予定であった。其の特色としては、南洋史学 土俗人種学などの講座を開設し、心理学では民族心理学を重視し、倫理、哲学、政治 学、経済学、法学では西洋より東洋と南洋に着目、重視することであった。自然科学 系統は理科と農科より構成され、理農学部と称され、生物学科、化学科、農学科、農. 芸化学科を設置し、24講座を開設する予定であった。其の特色としては、台湾を中 心に熱帯亜熱帯を研究対象とすることであった。医学部は財政困難のため後年に延期 して開設することになるということであった。.  1926年度より大学新営費を継続費として計上し、其総額290万円、初年度諸設備 の為に約60万円を要する見込みであった。(6)その用途は主に教授派遣費と土地買収. 費であった。(7)教授養成の目的で1925年11名、1926年20名在外研究員が派遣さ れた。(8).  大学の立地については、最:初は大学創設の精神から台湾文化の発祥地である台南に したがったが、情勢により台北に設置することになった。(9).  1927年11月大学官制其の他勅令案説明のために文教局長が上京し、1928年1月文 教局長が再び上京し、同.月総務長官も上京した。(!0)一部の反対により再度延期を重. ねた台北帝大設置に関する諸勅令案は2月28日閣議に上程可決して其の一部は三下 に諮詞の手続きを取ったのであるが、愈々3月14日枢密院定例本会議において御三 詞案.ヒ程別段の異議無く原案通り可決されたので政府は直ちに上奏御裁可の手続き を取った。(11).  台北帝大設立の意義については、本島在住者の向学心の向上は一つであるが、また、. 学徒の便宜や、一種の二面問題上で、米領フィリッピン、布畦、英領香港、其他対岸 諸州に大学があるのに対し帝国南端の本島(台湾)が大学を所有せんとするのも其意 義の一である。更に学術は世界の公有財産であり、此の財産に何等かの二三をなすべ きは先進文明国の当然の義務である。東南洋及び太平洋方面に関する学術界の宝庫は 無限で未だ人類の触れていないものが少なくない。此宝庫を開き其の内容を詳にする 一69一.

(5) のは台北帝大の使命であると世論は評価されていた。(12).  1928年3,月17日に「台北帝国大学官制」が公布された。上山総督は『台湾時報』 の雑誌で’「台北帝国大学官制公布に当って」と「台北帝国大学開設に関する宣明書」. との文章を発表し、台北帝大の設立目的、方針、特色などについて次のように述べて いた。.  台北帝国大学には、文政、理農の二学部を置き、その何れにも台湾の特色を帯 びしむべきである。.  即ち文政学部に於ては東洋及び南洋に関する学術の研究に特に重きを置き、理 農学部に於ては、熱帯、亜熱帯に関する研究に主力を注ぐことにしなければなら ない。台北帝国大学の特色は実にここに存する。(13).  台湾を統治すること已に三十余年……百般の施設亦漸く整ひ今や最高の学府 を籾立し以て島民生活の向上充実に資すへきの機運既に熟せり而して我が台湾 は東南官兵の自然的事象蚊に人文を研究するに適す故に此の地に大学を設くる は独り統治上の全功を収め国運の進展に寄与する所以のみならす東洋の先進文 明国たる帝国の責務を全ふするの途なり.    抑大学の使命たる大学令第一条の所定の如く国運の進展に最も必要なる学理   及ひ其の応用に関する緬奥を究むるを以て其の目的と為し兼ねて学徒の人格を   陶冶し国家思想を酒養するに在り故に以て本大学の経営も亦当に之れを以て第   一義と為すへきや復言ふを須たす加之本島今日の事情に鑑むるに此の根本主旨   に湿て指導しっっ攻究の歩を進め学徒の人格を琢磨し以て忠良なる国民を玉成   するを急務とす然れば則ち本大学の責任は己れを内地の各大学に比し更に重且   大なりと謂ふへし.    本大学は固より一般科学を研鎭するを目的と為すと錐東洋南洋に関する特色   を発揮するを要す留れを以て台湾の地位と沿革を審らかにし人文科学は特に東   洋道徳を骨髄として文明の顕微閲幽に勉め、自然科学は熱帯亜熱帯における特異   の事象を講究するを以て其の使命と為ささるへからす(14).  実は台北帝国大学の設立は植民地である台湾を統治経営する日本人人材の育成と、 植民地のエリート青年を日本内地或いは海外留学を阻止し、反日或いは共産主義の影 響を受けさせない様にする目的もあった。(15). 二、台北帝国大学運営情況. 1、開設 一70一.

(6)  !928年3月17日に台北帝国大学に関する件(勅令第30号)、台北帝国大学官制(勅 令第31号)、台北帝国大学学部に関する件(勅令第32号)、台北帝国大学講座令(勅. 令第33号)、台北帝国大学高等官俸給令(勅令第36号)、台北帝国大学事務官、台 北帝国大学司書官及台北帝国大学司書特別任用令(勅令第38号)が公布され、同日 幣原坦大学総長に任命し、台北帝国大学総長職務規程(訓令第19号)が発布された。 (16).   「台北帝国大学に関する件」には、「台北帝国大学二関シテハ帝国大学令二依ル但 シ同湯中文部大臣ノ職務ハ台湾総督之ヲ行フ」と定められ、また、「台北帝国大学官 制」第二条に、「総長ハ台湾総督ノ監督ヲ承ケ台北帝国大学一般ノ事ヲ掌り所属職員 ヲ統督ス 総長ハ高等官ノ進退二関シテハ台湾総督二具状シ判任官二関シテハ之ヲ 専行ス」と定められ、これにより台北帝国大学は台湾総督府の支配下にあり、旧制帝 国大学と植民地大学の二特色を兼有することがその特徴であることが分かる。  同日認可された「台北帝国大学通則」は学年・学期・休業日、入学・授業、休学・ 退学・除籍・懲戒、試験・称号、受験料・入学料・授業料、服装、選科生、聴講生、 外国人学生、大学院学生、特選給費学生などについて規定した。.  大学は4月1日より10月31日迄の第一学期と11,月1日より翌年3月31日迄の第 二学期の二学期に分けられ、入学資格は高等学校高等科を卒業した者(学習院高等科 を卒業した者は高等学校高等科を卒業した者に山高す)で、学部が行われた入学試験 (時により高等学校に委託する場合がある)に合格した者であると規定した。.  学位については大学令の規定による試験に合格したものは証書を授与するが、文政 学部生は文学士または法学士、理農学部生は理学士または農学士を称されるのである。.  入学料は10圓、授業料は毎年120圓、各学期60圓徴収することと規定していた。  服装については学生は学校が定めた制帽制服を着用すべきと規定していた。.  大学院生については学部の卒業者で履修した科目と関連ある事項を研究したい者 で、当該学部教授会の評議をへて、学力を検定し入学許可可否を判断し、在学期間2. 年以上5年以下で、研究料は一年75圓前納すべきであるが、特に奨励する事項を研 究する者は評議会の検討により研究料の免除または研究に必要な費用を給与するこ とができると規定していた。(17>.  同日「台北帝大総長以下任命」が発布され、任命された教授は次の通りであった。 台湾総督府中央研究所技師 大島金太郎 兼任 台北帝国大学教授 補理農学部長 東京帝国大学教授     藤田 豊八 任  台北帝国大学教授 補文政学部長                       東洋史学講座分担 台北高等農林学校教授   工藤 温温 任  台北帝国大学教授 台北高等農林学校教授 兼 東北帝国大学助教授              早坂 一郎 任  台北帝国大学教授 台北高等学校教授     安藤 正次 任  台北帝国大学教授 一71一.

(7) 台北高等学校教授     務台 理作 任  台北帝国大学教授. 台北総督府属   松島音次郎任 台北帝国大学事務官 奈良女子高等師範学校教諭 兼 奈良女子高等師範学校教授 青木 茂則 任. 台北帝国大学司書官. 台北高等農林学校教授. 平坂 恭助 任. 台北帝国大学教授. 台北高等農林学校教授. 三宅  捷 任. 台北帝国大学教授. 台北高等学校教授. 土橋友四郎 任. 台北帝国大学教授. 台北高等学校教授. 井上 孚麿 任. 台北帝国大学教授. 台北高等学校教授. 小山田小七任. 台北帝国大学教授(18).  当時の新聞記事は「台大教授概観」を連載し、一部の教授を紹介した。.  植物学講座教授工藤i蚕包教授は秋田生れで、1912年(明治45)7月度京帝国大学 理科大学を卒業、専攻は植物分類学、次いで翌8月北海道大学に講師として赴任し 24年間も勤続した。2年間の洋行を終え台北帝大に選ばれ転任した。就任の時42歳 であった。東大に植物分類学ができるまでは植物学は全く欧米人に握られていたが、 開設によって始めて日本人が日本の植物を自己の掌中に収めることができ、工藤氏は その第一回の卒業生である。彼は植物研究について「私は第一に台湾の植物界を完全 に調査する。第二に南支南洋に手を伸ばして本島との関係を閲明したい」と述べ、そ の大抱負の一端をもらしていた。(19).  地質学講座早坂一郎教授は仙台生まれで、小学も中学も高等学校も大学も仙台で修 めた。1915年(大正4)卒業と同時に母校東北大学の講師に抜擢され次いで教授に進. み1920年学位を得て2年間の洋行を終えて30年間余り住み慣れた冬の仙台を離れ南 国の台湾にきた。台大教授就任の時38歳であった。早坂教授は大学教授は学生に教 授するよりも研究をするのが第一義だと確信していた。また地質学と言えば世人は直 ちに石炭や石油、金銀鉱など人生に利害関係の近い物質方面を想像するが、もちろん これもその一部には相違ないが地質学の目的はもっと高遠なところにあると説き、教 授らしい理想の一端を灰めかしていた。(20).  動物学講座の平坂恭助教授は1911年(明治44)東大動物学科を卒業後直ちに農商 務省水産局に入り、約8年間大いに水産業の為に研究を重ねた功績が認められ、世界 の真珠王御木本氏に懇望されその養殖所主任に抜擢された。その後、五年間真珠の増. 殖に没頭したが根が学究的な人だけに宝玉に埋められる生活を断って八高教授にな り水産業の完備したノルウェーをはじめ欧米を歴遊して学理と実際を詳らかにした。. 台湾本島の海洋は他の施設より一歩遅れた憾みがあり、地上動物よりも洋々たる海中. 調査の困難を思うとき台大にこの権威者平坂教授のあることは大いに意を強くする に足るものがあると期待されていた。(21).  化学講座の松野教授は石川県出身で、1915年(大正4)東大卒業の理学士で、卒業. 後大学院助手になり1920年から3年間英国に留学して帰国後は東京理化学研究所に 一72一.

(8) 入り東大助教授を兼ねた。再度の洋行を終えて台大教授に任ぜられた。彼は本島の実 情に鑑み有機化学に重きを置く方針で、これによって本島の特産品である樟脳や砂糖 に携わる高等従業員を輩出させようとするのであった。.  生物化学講座の三宅捷教授は炭水化学の権威者であった。原籍は広島であるが北海. 道に生れ、1918年(大正7)大学を卒業して台大就任の時35歳。同大学をきっての 最年少教授で農学博士であった。(22).  西洋文学講座の矢野禾積教授は教授というよりも詩人として天分の豊かな人であ った。1918年(大正7)京大英文科卒業後大学院に3年間研鎭を重ねた後、大谷大学 や同志社大学で英文学を担当し、大いに名声を博し、広く欧州大陸を歴訪した。講座 は西洋文学であるが主として英文学を講述する。彼には所謂西洋文学に心酔している のではなく、飽く迄も西洋文学研究の中に日本固有の東洋文学や日本文学の基調を究 めようとしていた。(23).  行政法講座の土橋友四郎教授は人間の運命ほど面白いものは無いと言った。福島県 出身で、1915年(大正4)東大法科を卒業後、先生になれと薦められたが、先生にな る気がなかったので、逃げてしまったがとうとう先生になって台大に職を奉ずること になった。土橋氏は卒業後瀬官庁に入り、そして外国物の翻訳に大いに敏腕を発揮し たので勧誘されるまま官吏になった。!923年「各国憲法比較日本憲法」を公刊した。. 著述の傍ら東洋協会大学や国学院大学で憲法行政法の講述をして大いに声価を高め た。後二年間ドイツ、フランス、イタリアに留学して台大教授に奉職したもので就任. の時40歳であった。彼は憲法と行政法とは密接な関係があり憲法の知識が無い中は 行政法は講述するほうよりも聞くほうが難しいと言った。(24).  哲学史講座の務台理作教授は京都大学に入った当時東洋美術史をやろうか哲学を やろうかと迷ったが、そのとき哲学の大家西田幾太郎教授の講義を聴いてはじめて人. 生の将来に光明を感じ磁針のようにそれに吸い込まれてしまった。1918年(大正7) 京大卒業後西田教授の研究を助けること六年間の間、大谷大学などに教鞭もとった。 哲学の真諦には言うに言われない妙味があるといわれていた。(25).  経済学講座の小山田小七教授は1920年(大正9)京都大学卒業後1922年まで大学 院で研鑛し次いで三年間欧州各地を歴遊して戦後の経済思想や民族を詳らかに視察 し帰朝後和歌山高商で二年間教壇に立ち再度の外遊に殆ど世界各国特に経済戦の争 奪地を巡り台大に入ったもので就任のとき35歳、三宅教授と共に同大学最年少教授 の一人であった。(26).  台大講座特色の一つである土俗人種学を担任する移川子之蔵教授は福島出身で、海 外で育てられたジャパン天才の一人であった。シカゴ大学卒業後ハーバード大学に学 びここで哲学博士学位を得た。ハーバードでは卒業生中の逸材を選んで世界各地に留 学させることにしていたが彼は欧州に留学を命ぜられた。時恰も第一次世界大戦の最 中で彼はオランダに留まること二年間、シャム、インドを巡って帰朝し、慶大や商大 一73一.

(9) で史学科人種学などの講座を担当し大いに名声を博したが遂に台大教授に選ばれ再 度欧州各地の人種学研究室を普く歴訪した。彼は土俗人種学も、亦この一部で、社会 の発生文化の起こり風俗習慣、信仰伝説、美術工芸等原始人の美的方面の一般原理を 先ず取扱い、次いで追々特殊方面に手を伸ばし台湾から南洋方面に及ぶ意向らしい、 台湾全島を研究室と心得、徹底的に調査する大抱負を示していた。(27).  憲法講座の井上孚麿教授:は1917年(大正6)東大卒業後明治大学や法政大学等私 立大学に論陣を張って官学に対抗し日本にこの憲法学者ありとして知られていた人 であった。(28).  これらの教授は日本各地の学界の権威者で著名な研究者であった。年齢から見ると、. およそ40歳前後で、若いのは35歳であり、全体的には40歳以下の若い教授陣と言 えるであろう。.  1928年3月20日に「台北帝国大学学部規定」が認可し公布された。文政学部、理 農学部学生の在学期間は最短3年、最長6年とした。文政学部は哲学科、史学科、文 学科、政学科の四学科を設置し、理農学部は生物学科、化学科、農学科、農芸化学科 の四学科を設置することが規定されていた。(29).  3月30目官制の一部が改正された。主な改正内容は、台北帝国大学の職員数を増. やし、特に教授が元の専任13人から22人、助教授は専任9人から16人、助手は専 任6人から24人に大幅に増やした。また、理農学部に附属植物園及び附属農場を置 くことを決め、元の台北高等農林学校を大学の附属農林専門部にすることを決めた。 講座令では、文政学部は五講座を増やし十二講座になり、理農学部は四講座を増やし 十講座になった。(30)(講座の詳細については表3、表6を参照)官制改正により、 一層台北帝国大学の規模が拡大、充実させた。.  愈々台北帝国大学は1928年4月20日に開校となり、(31)4,月30日に第一回入学 宣誓式が挙行され、5月5日より各部の授業が開始された。(32). 2、敷地建物  台北帝国大学の所在地は台北市の東南、富田町にある。校舎敷地は69,259坪で、 その内建物14,029坪で、運動場20,000坪である。其の他、農場用地34,279坪あり、. 演習林1,914,112坪で、その内台中州管内は916,288坪、台南州管内は997,824坪で ある。越畑用地の22,847坪を合わせて、台北帝国大学の敷地は合計2,040,517坪で ある。.  附属農場については、第一農揚と第二農場がある。第一農場の総面積は19,000余 坪で、普通作物区、特用作物区、疏菜園、標本区、花卉園、試験区に分けられていた。. 第一農場は理農学部農学科学生及び附属農林専門部生徒の実習に共用していたが、 1934年から専ら研究農場として使用されていた。第二農場の総面積は14,600余坪で、. 1929年度に耕地整理の]二事をなし、1930年度地力の平均増進を促進するため、緑肥 一74一.

(10) 作物の栽培を行った。1934年から理農学部農学科学生及び附属農林専門部生徒の実 習場として使用された。其の他2,500余坪の果樹苗圃を1930年度に設立し、各種熱 帯及び亜熱帯産果樹の種類を育成し、!934年から更に1,800余坪の果樹実習圃が設 立され、1938年に山地農場も設立された。  理農学部附属植物園としては、台北帝国大学構内に於ける分科園の外、総督府中央 研究所林業部所属植物園を共用していた。構内分科園では主として外国から取り寄せ られた種子により苗の育成に努め、また島内各地から植物を集めて之を分科に従って 移植していた。(33). 3、図書館  台北帝国大学の附属図書館は1931年4月末に本館が完成し、年末に閲覧室及び書 庫も完成した。1931年の蔵書は234,980余計で、その後下年数を増加していた。1932. 年の蔵書は263,000余冊で、1933年は284,000余冊、1934年311,000余冊、1935年 323,000余冊、1936年342,000余冊、1937年346,832冊、1938年371,638冊、1939 年391,198冊、1940年412,817冊、!941年427,436冊もあった。毎年閲覧者数は数 千人にのぼり、多い年は8千余人であった。(34). 4、教職員数  台北帝国大学も講座制をとっているため、講座ごとに主任教授一人、助教授一人、 助手は講座によって一名から三名となっているので、教員数は学部の増設、講座の増. 加と同時に増え続けていた。1931年から1941年までの教職員の数は表1の通りであ る。. (表1 台北帝国大学教職員数一覧  1931年度から1941年度) 学生主事補. 学生主事. 助教授. 総長. 事務官. 嘱託及雇. 薬局長. 司書官. 教授. 助手. 書記. 司書. 薬剤手. 看護長. 講師. 計. 年度. 1. 48. 38. 1. 1. 1. 49. 15. 1. 5. 1. 42. 31. 1. 1. 1. 44. 15. 1. 5. 1. 48. 36. 1. 1. 1. 49. 15. 1. 5. 1. 42. 33. 1. 1. 1. 45. 14. 1. 5. 1. 48. 36. 1. 1. 1. 49. 15. 1. 5. 1. 44. 31. 1. 1. 1. 47. 14. 1. 5. 1. 48. 36. 1. 1. 1. 49. 17. 1. 5. 1. 4!  31. 1. 1. 1. 45. 17. 1. 5. 1932. 1933. 1934. 工935. 一75一. 160 7. 81. 230 158. 8. 94. 246 158. 8. 112. 266 160. 8. 121. 273.

(11)  臨 P、. 55. 43. 2. 2. 1. 63. 20. 2. 6. 1. 46. .30. 2. 1. 1. 52. 19. 2. 6. 1. 60. 48. 2. 2. 1. 74. 20. 2. 6. 1. 48. 36. 2. 2. 1. 66. 20. 2. 6. 1. 71. 60. 2. 2. 1. 103. 27. 2. 6. 1. 63. 51. 2. 2. 1. 9ユ. 27. 2. 6. 1. 75. 64. 2. 2. 1. 115. 27. 2. 6. 1. 68. 57. 2. 2. 1. 90. 27. 2. 6. 1. 76. 64. 2. 2. 1. !!2. 27. 2. 6. 1. 67. 65. 2. 2. 1. 86. 27. ユ. 5. 1. 77. 65. 3. 2. 1. 104. 27. 2. 6. 1. 68. 66. 3. 1. 1. 88. 26. 1. 5. 1936. 1937. 1938. 1939. 1940. 1941. 195 18. 309. 131. 216 8. ユ4. ユ5. 14. 19. 157. 349 1. 9. 9. 294. 1. 8. 0. 615. 1. 10. 10. 316. 1. 9. 9. 708. 1. 10. 10. 314. 1. 10. 10. 749. 1. 10. 10. 309. 1. 7. 10. 713. 346. 418. 457. 416. 注 (1)上の行は定員数、下の行は現数で、数字は各年4月末のデータである。   (2)附属部門(農林専門部、医学専門部)、予科、熱帯医学研究所職員を含まない。   (3)職員には休職者、兼務者、在外研究員を含まない。   (4)嘱託及雇には、副手、看護婦、産婆を含む。.   (出典  『台湾の教育』昭和6年度から昭和16年度). 5、運営経費  台北帝国大学の経費については表2の通りである。表の通り、数百人の学生しかい ない台北帝国大学の教育費は平均として台湾全島の教育費の8%以上も占め、非常に 大きい割合であった。当時の教育費は国庫、州庁地方費と市街庄費からなるが、台北 帝国大学の費用はすべて国庫からの歳出であり、総督府によって非常に重視されてい たことが分かる。. (表2 台北帝国大学経費 1925年度∼1941年度) 年度. 合計費用(円). 経常費(円). 臨時費(円). 全教育費割合. 1925. 41,629. 0.31%. 1926. 271,357. 1.94%. 1927. 405,303. 2.76%. 1928. 1,022,818. 1,003,168. P9,650. 6.34%. 1929. 2,120,558. 1,281,821. 838,737. 12.42%. 1,260,525. 44,655. 7.59%. ”1. 1930         1,305,180. 一76一.

(12) 1931. 1,434,433. 1,336,072. 98,361. 8.40%. 1932. 1,190,006. 1,050,064. 139,942. 7.27%. 1933. 1,357,823. 1,189,175. 168,648. 8.00%. 1934. 1,420,319. 1,201,671. 218,648. 7.88%. 1935. 1,179,615. 1,091,476. 88,139. 5.55%. 1936. 2,065,807. 1,448,079. 617,728. 8.77%. 1937. 1,907,432. 1,678,189. 229,243. 6.68%. 1938. 3,089,977. 2,676,664. 413,313. 9.39%. 1939. 3,467,916. 3,014,478. 453,438. 10.08%. 1940. 4,044,954. 3,202,954. 842,000. 9.15%. 1941. 4,550,593. 3,630,593. 920,000. 8.20%. 注 (1)台北帝大附属農林専門部、同附属医学専門部の経費は専門学校の費用に含まれ.     ているため、台北帝大の経費に含まれていない。   (2)1925年から1927年の台北帝大費用は大学創設費である。.   (3)1935度の台北帝国大学医学部新設費はその他に含まれているため、台北帝大     の経費に含まれていない。.   (出典 1925年∼1930年遅『台湾総督府学事年報』大正14年度版∼昭和5年度版.      1930年∼1941年は『台湾の教育』昭和6年度∼昭和16年度). 6、歴任総長  台北帝国大学の歴任総長は次の通りである。.    任期.  総長. 1928.3 ∼. 1937.9. 幣原  坦. 1937.9 ∼. 1941.4. 三田 定則. 1941.4 ∼. 1945.3. 安藤 正次. 1945.3 ∼. 1945.8. 安藤 一雄.  初代総長幣原二丁は大阪府下の旧家の出で元外相幣原喜重郎の兄で、1893年東京 帝大文科大学国史科を卒業後、山梨県尋常中学校長や高等師範学校教授などを経て、 文部省図書局長となっていた。東洋史や植民地教育の経験があり、台北帝大創設と同 時に初代総長に就任した。(35)幣原氏は就任期間に多年要望していた医学部の開設を. 実現し、1937年後進に道を譲る決意を固め円満勇退したが、後任は三田定則氏であ った。.  三田定則博士は1911年東京帝大医学部法医学を専攻して卒業し、1918年教授とな 一77一.

(13) り、血清化学講座を開設した。1936年定年退職とともに同大学名誉教授に推され、. 同年台北帝国大学教授医学部部長となり、1937年総長に就任した。三田定則氏は老 齢の為1941年4月14日辞表を提出し、これが旧邸帝大並に総督府では後任を慎;重鐙 衡の結果元文政学部教授安藤正次に決定した。.  安藤正次氏は1898年神宮皇学館を卒業し、次いで東京帝大文学部言語学科選科を 修了し、神宮皇学館、日本女子大学、早稲田大学教授を歴任し1926年台北高校教授 に任ぜられ、欧米各国へ留学の後1928年台北帝大教授に任ぜられ、文政学部長附属 図書館長を経て1940年に勇退したが、30年余りの長い教壇生活で学界の泰斗であり、 再び総長として迎えられることになった。(36).  安藤一雄博士は元九州帝国大学工学部教授で、1943年工学部の増設により工学部 部長として来台し、1945年総長になった。.  実は台北帝国大学は1936年に医学部を増設し、!943年に工学部を増設した。四人 の学長の中、1937年に就任した三田定則氏と1945年に就任した安藤一雄氏はそれぞ れ医学部学部長と工学部学部長であった。そのため、学長の交替は学部の新設とかな り関係があることが言えよう。 注 (1). 「台湾大学設立関スル意見」『壼面面直々報』第5号 明治32.6,30 P.58 (ゆ まに書房 1987 復刻版). (2). (3). (4). (5). 「台北帝大開学式」『台湾時報』昭和11年6月号 P.167. 『台湾時報』昭和15年10月号P.54 「台北帝大の官制と枢府」 『台湾日日新報』(昭和3.3.2日刊). 伊澤多喜男伝記編纂委員会『伊澤多喜男』羽田書店1951.8 PP.155−158. (6). 「大学設置経過」『台湾教育』NO.308 1927.4 P.135. (7). 「台湾大学開設を前に続々出発する海外研究員」『台湾日日新報』(大正15.3.17 日刊). (8). 台湾教育会編『台湾教育沿革誌』青史社1982.5 台湾教育会昭和14年刊の複 製 P.955. (9). 「台湾大学は本島文化の発祥地たる台南にしたいが結局は台北」『台湾日日新報』 (大正14.10.6日刊). (10) (11) (12). 「大学設置経過」『台湾教育』NO.308 1927.4 P.135. 『台湾時報』昭和3年4.月号P.3 「台北帝大大学生る」『台湾教育』NO.308 1927,4 P.2. (!3). 上山総督「台北帝国大学官制公布に当って」『台湾時報』昭和3年4月号P.2. (14). 上山総督「台北帝国大学開設に関する宣明書」『台湾時報』昭和3年6月号P.2. (!5). 「戦前目本の帝国大学制度與台北帝国大学」『Academia一台北帝国大学研究通訊』 一78一.

(14)   創刊号 台湾大学台湾研究社 1996.4 P.5 (16)「台北帝国大学二関スル勅令・告示・訓令」『台湾教育』NO.308 1927.4. PP.121.   −128   「台北帝国大学通則」『台湾教育』NO.308 1927.4 PP.128−133. (17).   「台北帝大総長以下任命」『台湾教育』NO.308 1927.4 PP.133−134. (18) (19). 「台大教授概観 1」. 『台湾日日新報』. (日召禾03. 5. 5 日干U). (20). 「台大教授概観 2」. 『台湾日日新報』. (日召禾03. 5. 6 日刊). (21). 「台大教授概観 3」. 『台湾日日新報』. (日召禾03. 5. 8 目干り). (22). 「台大教授概観 4」. 『台湾日日新報』. (目召葦03、 5. 9 日干U). (23). 「台大教授概観 5」. 『台湾日日新報』. (昭1和3. 5. 10 日刊). (24). 「台大教授概観 6」. 『台湾日日新報』. (昭和3.5.11日刊). (25). 「台大教授:概i観 7」. 『台湾日日新報』. (日召不03. 5. 12 日干U). (26). 「台大教授概観 8」. 『台湾日日新報』. (日召1和3. 5. 13 日干U). (27). 「台大教授概観 9」. 『台湾日日薪報』. (日召禾03. 5. 14 日刊). (28). 「台大教授概観 10」. 『台湾日日新報』. (昭和3.5.15日刊). (29)   「台北帝国大学学部規定」『台湾教育』NO.310     PP.  1927.6    110−121 (30)   「台北帝大に関する官制の改正其の他」『台湾教育』NO.309    PP.152−155       1927.5 (31)    『台湾時報』昭和3年4月号P.3 (32)   台湾教育会編『台湾教育沿革誌』青史社!982.5 台湾教育会昭和14年刊の複.   製 P.958. (33)台湾総督府文教局編『台湾の教育』昭和6年度∼昭和13年度版 (34)前掲(33) 昭和6年度∼昭和16年度版 (35)「台大総長更迭 後任は三田医学部長」『台湾日日新報』(昭和12。9.3夕刊). (36)『帝国大学年鑑』昭和ユ8年度版 日本図書センターユ984年(帝国大学薪聞   社 1943年鑑の復刻) PP.244−245. 一79一.

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