明治中期における北海道の中等教育機関設置をめぐる住民要求 -小樽中学校設置過程における教育要求をとおして-
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(2) 北海道教育大学紀要(教育科学編)第59巻 第1号 JournalofHokkaidoUniversityofEducation(Education)Vol.59,No.1. 平成20年8月 August,2008. 明治中期における北海道の中等教育機関設置をめぐる住民要求. 一小樽中学校設置過程における教育要求をとおして−. 坂 本 紀 子 北海道教育大学函館枚数青学教室. TheDemandsofthePeopleinHokkaidoabouttheEstablishmentof InstitutionsofSecondaryEducationintheMiddleoftheMeijiEra. −ThroughtheEducationalDemandsabouttheEstablihmentofOtaruMiddleSchool− SAKAMOTO Noriko. DepartmentofEducation,HakodateCampus,HokkaidoUniversityofEducation. 概 要 本稿では,1900年(明治33)前後における北海道の小樽において,中等教育機関の設置をめぐり人びとに よって交わされた議論の内容を整理する。そしてそれら意見の教育的,社会的背景を分析し,北海道の人び とが中学校および商業学校の設置に何を期待し求めていたのかを明らかにする。分析にあたり,当該時期の 新聞,北海道会議事録,雑誌史料等の地方史科を活用した。史料の引用にさいしては,原史料中の漢字の旧 字体は常用漢字に改め,適宜読点を付した。 なお本研究は,平成19年度科学研究費補助金交付による共同研究(課題番号:18330152 研究課題:近代 日本における教育情報回路としての中央・地方教育会の総合的研究)の一部をなすものである。. はじめに. 北海道における地方自治制度は,不完全なかたちではあったが府県におくれて1900年(明治33)以降に実 施される。1901年(明治34)に「北海道地方費法」および「北海道会法」が公布された。1901年(明治34) に開催された第1回の北海道会において教育予算編成とその執行にあたり議論の的になったのが,小樽にど のような種類の中等教育機関を設置するか,ということであった。中学校の設置か,それとも商業学校の設 置を優先するべきかの議論である。. 府県ではすでに中学校が先行して設置され,実業教育機関がそれに続き設置されようとしていた。大谷奨 は,そのような府県の状況とは異なり,いわば白紙の状態から両者の設置について同時並行的に議論する北. 241.
(3) 坂 本 紀 子. 海道の特徴を指摘し,それを研究対象にすることの重要性を述べている1。大谷が分析対象にしたように北 海道では1900年(明治33)以降,中等教育に対する人びとの教育要求が高まり,その種の機関が急速に増設 されていく。本稿では,人びとのそうした教育要求の始発の議論に焦点をあて道会での議論の分析にとどま らず,小樽という地域においてどのような議論が人びとによってなされ,どのような運動が行われたのか, その過程および内容を整理する。さらにそれらの議論や運動の背後にある教育的,社会的状況についても分 析し,北海道の人びとが普通教育機関としての中学校と実業教育機関としての商業学校に何を期待し求めた のか,小学校卒業者にどのような教育機会を提供しようとしていたのか明らかにすることを目的とする。そ してそれは同時に,北海道開拓という政策下にあった北海道の当該時期における人びとの中に底流して,教 育への期待や思いを形成する基軸になっていたと思われる意識を浮き彫りすることでもあると考える。. Ⅰ 中等教育機関をめぐる論争の契機 北海道では師範学校の設置以降,函館に商船学校と商業学校,札幌に農学校といった官・庁立の実業学校 がおかれ,札幌と函館それぞれに庁立の尋常中学校が設置されていた。地方自治制度実施以前,北海道の庁 立の中等教育棟開設置に関する要望は,府県とは異なり道庁をとおして内務省に送られる。そしてその必要 経費については,内務省所管の北海道庁本庁費から支出されていた。日清戦争後,府県から北海道に移住す る人びとが増加して1897年(明治30)に至り,小樽は函館および札幌に次ぐ人口密集地となった。これを契 機に小樽では中学校の設匿要求が高まり,総代人会および小樽教育会が中心になって北海道庁長官にその設 置を繰り返し要望していた。/ト樽の総代人会は校舎建設のための敷地を買収し道庁に寄付して,速やかに中 学校を設置することを要請した2。しかしその要請は受け入れられず,そのため小樽教育会は中学校に代わ る夜学あるいは補習科の設置を模索するまでに至っていが。当該時期,小樽の人びとが中学校の設置を切 実に要望していた実状が,『小樽新聞』に明記されている。 小樽港に於ける教育制度の不完全なるは今更ら言ふ迄もなく小学校の設備さへ未だ整備を見る能はぎる のみならず,年々高等小学校を卒業せる生徒も少なからざるの今日,尋常中学校設立の事遂に本年の予 算に編入せられずして帝国議会も将さに閉会を告げんとするに至れり,蓋し七万の人口を有するトシに して尋常中学の設備なきは全国に類例なく当局者の無頓着言語道断と云ふの外なけれは,区は小学制度 の完備を期すると共に今より当局者に迫りて是非とも次年度に於て中学設立の目的を貫徹せさるべから ず,元来区が既に中学の必要を感じ校舎敷地を買収して設立の一日も早からんことを期待し居るに当局 者が其設置費を本年度予算に編入せざりしか如き不親切の極ならずや4, 1901年(明治34)に「北海道地方費法」が施行され北海道会が開設されることになり,北海道も自治制の 一歩を踏み出すことになった。「北海道地方費法」は財源の3分の1を国庫補助に依存しており,府県に比 して北海道を政府の制約下におぐ性格の強いものであったが,これによって中等教育棟開設置の費用は北海 道地方費から支出されることになり,どのような中等教育機関を設置するかは北海道会の議論の場で決定さ れることになった。同年10月31日に開催された第1回北海道会通常会において,当時の北海道庁長官であっ た園出安賢は教育に関する方針を次のように述べている。/ト樽が繰り返し要望した中学校の設置が実現に至 らなかったのは,園田の次のような意向があったからなのかもしれない。 内地府県は普通教育に偏しているが,本道はかかる傾向はない。国家の福利を増進し国家の基礎を筆固 にするには実業教育を盛大にしなければならない。内地の如き弊に陥らぬ先に実業教育を盛んにしたい と中学校設立予定を商業学校に改めた。高等学校に入学する階梯としての中学校としては現状に不足は ない。更に中学校中退の多き現状を見て始めから実業教育をした法がよいと考えるに至っが。. 242.
(4) 明治中期における北海道の中等教育機関設置をめぐる住民要求. 園田安賢は1898年(明治31)から1906年(明治39)までの間,北海道庁長官を務めた。欧米諸国を視察し て「ドイツその他北欧諸国の隆盛が,実業教育の振興による」ものであるとの認識を強く持っていたといわ れている6。この頃は,府県ではすでに多くの中学校設置をみており,日清戦争前後における日本の近代産 業の発展と共に文部省が実業教育振興に乗りだした時期であった。園田の演説は,全国的な実業教育重視の 形勢に乗じて自身の方針を強調したものである。園田のいうように,当時全国的に中途退学者が多かったこ とが中学校の抱える大きな問題であった7。しかし中学校が抱えていたそうした問題を克服するためといよ りも,開拓事業を促進しようとする明治政府の意向に歩調を合わせ,文部省の実業教育振興方針を論拠にし て,商業学校の優先を強力に打ち出したものであったといえよう。 園田安賢が既述の演説をする前の1901年(明治34)9月に,商業学校優先案を持って当時の視学官であっ た大窪実(もと北海道師範学校長)が小樽に赴いている。その商業学校優先碇案に対して,小樽区会の「理. 事者は年来の希望なりとして頗る之に賛成し」8,当時小樽区長であった金子元三郎の主導で「殆んと討論を 用いずして」充分に議論を尽くさないまま商業学校の設置を区会で決定した9,と『小樽新聞』は報道して いる。大窪は商業学校設置を受け入れた小樽区会の返答を持ち帰り,したがってこれにより翌月31日の北海 道会には,小樽商業学校の設置が盛り込まれた予算議案が提出されることになったのである。これを契機に して,小樽では中学校の設置が優先か商業学校の設置が優先かをめぐる議論が白熱し,大窪の帰札から道会 開催までの間,両派は連日『小樽新聞』紙上においてそれぞれの持論を戦わせていった。. Ⅰ 中学校設置派の意向 1.小樽教育会の見解 小樽において中学校の設置を積極的に推進してきた小樽教育会とは,「教育上ノ進歩改良ヲ謀ル」10ことを 目的にして,1888年(明治21)8月に量徳小学校内に創立された私立の教育会である11。会長に小樽区会議 員であり学務委員を務めていた山田吉兵衛,副会長に量徳小学校長の住吉貞之助をおいて公私立学校教員や 塾経営者および小樽政財界の有力者を会員とする,会員数231人の教育会である12。入学希望者が多いにも かかわらず道内に中学校は札幌と函館にしかなく,小樽中学設置の要. 望も受け入れられないため,当会は予. 備中学校やそれに代わる夜学,若しくは補習科設置案を検討するなどの試行錯誤を続ける途上にあった13。 当時の『小樽新聞』に掲載された,中学校設置の優先を説く小樽教育会の意向を山田吉兵衛と,会員であ り道会議員でもあった高野源之助の談話にみてみよう。山田は,「自己の性格を自覚して」進むべき職業を 決めるのは二十歳前後のことであって,「/ト学教育を終わりたる一四五歳の幼年子弟」に「悉く商業教育を 施さんとす」るのは誤りであると述べている。さらに, 小学卒業生には普通中等教育を施し,他日其の思想長じ其の志好走まりたる後其好む所に従て職業を選 択し得るの余地を与へんには普通教育は名の如く普通一般の教育なり,(略)商業学校を先きにせんと する者は小樽全区の子弟を駆りて悉く商人たらしめんとするものなり,商人の外小樽に居住せしめさら んとするものなり14, と言及している。高野は, 目下の問題は実業学校必要不必要の問題あらずして中学校と商業学校との先後問題也,此に就て道庁が 中学校を後にしてまでも商業学校を先きにせんとするは実業教育を以て中等普通教育に代へんとするも の,文部省が実業教育を奨励するの旨意を誤解したるものなること明白也15, との見解を載せている。両者が強調しているのは,実業教育としての商業学校を優先させるのではなく中学 校を設置することの必要性,すなわち義務教育としての小学校卒業後に続く,実業教育ではない普通教育と. 243.
(5) 坂 本 紀 子. しての中等教育機関である中学校設置を優先させることであった。 両者が「普通教育」という用語を使用して中学校設置を強調したのには,当時の北海道師範学校長であり 北海道教育会副会長でもあった横山栄次の講演内容が影響していたと思われる。北海道には,小樽教育会の ように各地域(区,郡,町,支庁管区)を単位にした教育会が設立されると共に,札幌に全道を対象にした 北海道教育会が1891年(明治24)に設立されている。北海道教育会とは,会長,副会長に道庁学事関係課の 長あるいは北海道師範学校長をおいて,教育理論,教育方法等を刊行雑誌をとおして会員に提供し道庁の教 育諮問にも答申しながら,学校教育普及のための啓蒙活動をおこない道内教育を主導しようとした教育会で ある。師範学校教員,札幌の有力者および学校教員等を主要メンバーとしており,各地域単位の教育会会員 の多くがこの会の会員も兼ねていた。この時期の北海道教育会の雑誌には,小樽の中等教育機関をめぐる動 向が報告されており,小樽在住の会員の中学校を優先させる意義を説く論説も掲載されている16。 横山は1901年(明治34)7月6日に小樽教育会常習会に赴き,「普通教育卜実業教育トノ関係ヲ論ス」と 題して, 余ノ本間題ヲ論究シタル要旨ハ凡ソ左ノ如シ,云ハク普通教育モ実業教育モ共二真正ナル教育ノー部ニ シテ各其本領アリ,普通教育ノミニテハ教育ノ全体ヲ終りタルモノト云フコト能ハス,完全ナル教育ニ.  ̄し■ ̄し■ ハ十分ナル普通教育ヲ行ヒタル後更二高等ナル特種教育就中術行教育ヲ授ケサルヘカラス17, と結論を述べた。その内容は,普通教育である中学校に対して商業学校を「特種教育」と位置づけ,学校教 育の系統的順序性を強調するものであり,充分な普通教育の後に「特種教育」を授けるべきであると述べて いる。/ト樽における論争に関連させ言及したわけではないが,中学校の設匿を後押しする内容の演説であっ たといえよう。 小樽教育会は役員会および評議員会で中学校設置について検討し,同年10月30日の臨時総会において,中 学校の設置を小樽区長および北海道庁長官に建議することを決議した。そして以下のような建議書を碇出し た。. 北海道庁長官男爵園田安賢閣下,本道中等教育ノ為メニ中学校増設ノ急務ナルハ夙二本会ノ唱導シ長官 ノ是認セラレタル処ニシテ,特二我小樽区ハ敷地ヲ献納シテ其設立ヲ求メタリ爾来玄二数年政府財政ノ 許サ、ルカタメ未夕其設立ヲ見スコト能ハサルハ実二本道人民ノー大不幸ニシテ本会ノ嘆息置ク能ハサ ル所ナリ,然ルニ今ヤ地方制度施行セラレ第一道会将二開カラレントス,吾人ハ道庁力必ス中学校増設 ノ予算案ヲ碇出セラルヘキヲ確信セリ,何ソ図ラン之二代フルニ商業学校ヲ以テスルノ計画アラントハ 之レ本会ノ大二道憾トスル所ナリ,願フニ本道中等教育機関ノ設備上中学校増設ノ最急務ナルト共二商 業学校設立ノ必要ナルハ何人モ争ハサル所ナリト雉モ,普通教育ヲ先キニシ特種教育ヲシテ之二伴ハシ ムルハ教育ノ本義ナルカ故ニ,之レカ横急先後ヲ論スレハ既二数年以前二設立セラルヘクシテ未夕其設 立ヲ見サル中学校ヲ先ニシ,以テ多年入学ノ途二迷ヘル学生ノ志望ヲ充タシ相尋キテ商業学校ヲ設立シ テ以テ実業教育ヲ振興スルノ順序二依ラサルヘカラス,是レ本会力道庁ノ計画二賛同スル能ハサル所以 ナリ,閣下願クハ本道人民希望ノ存スル所ヲ察シ吾小樽教育会ノ議ヲ採納シ速二中学校増設ノ挙アラン コトヲ変二総会ノ決議ニヨリ建議二及ヒ候也18, ところで『小樽新聞』には,人口が増加し年々多数の小学校卒業者が中学校進学を志すため競争試験が激 化しているにもかかわらず,中学校が2校しかないのは不十分であるとの記者の論説も掲載されている。文 部省はこれまで「新開北海道の施設に対して」「内地府県に施行されし学校系統」とは異なり実業教育の普 及に努めよとの意向を示してきたが,此の「変則的学校系統」は「果たして教育施設の順序を得たるものと なす乎」との疑問をなげかける内容である19。「変則的学校系統」ではなく,系統的順序に位置づく普通教 育機関の設置を記者も強く望んでいたことがうかがえる。『小樽新聞』は1891年(明治27)から日刊新聞と. 244.
(6) 明治中期における北海道の中等教育機関設置をめぐる住民要求. して発行されるが,発行に際して,山田吉兵衛からの出資金を受けている20。そのため,山田寄りの立場か らの論調で報道されているという危惧は拭えない。しかし,小樽教育会や記者が系統的順序を強調し,中学 校設置運動に力を入れてきたのには,どのような背景があったのか,さらに探ってみる必要がある。. 2.北海道開拓と教育政策 明治政府は,立憲体制へ移行するため1885(明治18)年に太政官制を廃止し内閣制を創出した。同時期, 北海道開拓の見直しが求められ,1886年(明治19)から翌年にかけて開拓政策は大きく転換される。これま での三県(札幌,函館,根室)一局(北海道事業管理局)体制から,札幌に北海道庁をおき,函館と根室に 支庁をおく一庁制に移行することによって開拓をすすめやすい体制にかえた。この政策転換の基本資料に なったのが,当時太政官大書記官であった金子堅太郎の「北海道三県巡視復命書」であったといわれている。 この復命書には行改組織の転換に関する内容と共に,「北海道ノ普通教育法ヲ改正スルノ議」と題した道の 教育政策の改正を求める記述もある。それによると,「欧米諸邦ノ其殖民地二対スル」政策は「専ラ実利勧 業的ニアリテ智育ノ点ニアラス」とし,北海道の教育は「高尚ノ学二流レ願ル実利ノ業二疎ク所謂殖民的ノ 教育二適当セサルモノ多シ」と報告されている。そのため,「目下必要ナキ虚飾ノ学問ヲ去り,専ラ拓地殖. 民二緊急ナル実利勧業的ノ教育ヲ」授けなければならないと指摘している21。また,一農夫に尋ねたところ, その子どもは官吏になることを望んでおり,「拓地殖民ノ事業」を継続することを望めるような状況ではな いと金子は述べている。「内国殖民地」として,開拓事業を最優先させる教育政策の必要を説いた内容であっ た。. 1886年(明治19),政府の北海道政策転換の意向を持って北海道庁長官に就任した岩村通俊は,困窮状況 にある移住者のために教育費による負担を軽減し開拓事業を推進するため「教育ノ程度ヲ低フス」22ること. を掲げ,1887(明治20)年に「/ト学校規則及小学簡易科教則」を施行した。簡易科は森有礼が設けた課程で, 尋常科・高等科を基本としながら「土地ノ状況二依リテハ」「尋常小学科二代用スルコト」ができるとして 貧民を対象に設けられ,当時の府県全小学校数の約45%を占めたといわれている。修業年限が4か年の尋常 科に対して,簡易科は3か年であり1日の授業時間が2時間以上3時間以内とされ,学科目は読書・作文・ 習字・算術に限定されていた。北海道ではこの簡易科の課程をほとんどの小学校で実施させ,全道における 高等・尋常科併置の小学校を3校,尋常小学校を7校までにおさえ,実に残り245校すべてを簡易小学校に したのである。/ト樽では,量徳小学校がこの時尋常小学校に指定されるが,その他の小学校はすべて簡易科 とされた。そして北海道の簡易科においては学科目の4科目に実業演習が加えられ,それを「時間外二於テ ー週三時」間諜すとされたのである23。これにより,教育費の負担は軽減し子どもの労働力も確保され,授 業をとおして実業に対する意識を子どもたちに形成することが可能になった。しかし,3か年のみの修業年 限と半日のみの授業は,高等科そして中学校への進学を制限することになる。そしてそれは当然,「官吏に なる」ための高等教育機関への接続も困難にした。 北海道教育会発行の雑誌には,府県には見られないこの規則が北海道に実施されたことによって道内教育 関係者は落胆し教育に対する意識が低下したと記述されている24。北海道教育会は,実業教育も重視するが, 簡易科のみでよしとせず尋常科設置,高等科併置へと進んでいくことを奨励した。道内の教育関係者の多くも 開拓事業に伴った実業教育重視の教育政策を受けとめながらも,他方で府県と同様の学校体制の確立を希望し ていたと思われる。実際,一般の人びとの多くが「簡易科ヲ嫌ヒ高等科併置」を望み,小学校を簡易科から 尋常科へ変更し,さらに高等科を併置するに至ったとの報告が北海道教育会雑誌に多く寄せられている25。 小樽では,量徳小学校を除き公立の小学校はすべて簡易小学校であった状況から,1897年(明治30)に至 ると,全小学校中,公立の尋常高等小学校を2校,4か年の尋常小学校を3校,そして私立の尋常高等小学. 245.
(7) 坂 本 紀 子. 校を1校,4か年の尋常小学校を1校抱えるほどになっていた26。そして小樽近隣地域からの中学校進学志 願者も考慮し,小樽教育会と総代人会が中心になって中学校の設置を要求していたのである。実業教育であ る商業学校よりも普通教育の中学校設置を優先させることを望む教育会メンバーを中心にした人びとの中に は,開拓事業を優先することによって府県とは異なる教育体制にあることへの不満が強くあったといえる。 中学校設置を望む一般の人びとの要求も引き受けながら,中学校設置を優先させようとする小樽の人びとの 見解の根底には,府県同様の高等教育機関につながる初等,中等の段階的な普通教育機関の設置を強く志向 する意識が共有されていたといえよう。. Ⅱ 商業学校設置派の意向 1.小樽区会理事者等の見解 小樽では,総代人会と小樽教育会が中心になり中学校の設置を強力に要求してきたが,区会においては商 業学校の設置を受け入れ道庁に返答した経緯から,中学校よりも商業学校の設置を望んでいた人びともまた いたことは明らかである.商業学校を優先させようとする人びとの見解とはどのようなものなのだろうか。 園田安賢の意向を持って小樽区会を訪れた大窪実は,「中学校は中等教育の一部に過ぎず」「商業教育も,農 業教育も,工業教育も,皆設備せられてこそ初めて完全したるものと云はさるべからす」として,全道に中 学校は2校あるが商業学校は1校しかないことを強調する。札幌には農学校があるが,札樽間に必要なのは 商業学校であると『小樽新聞』で述べている27。中等教育機関の種別とその設匿数を比較しての商業学校優 先論ではあるが,何故小樽に商業学校が必要なのかの説明を欠き説得的に述べられていない。. では,積極的に商業学校設置を支持した金子元三郎の見解はどのようなものなのか。金子は,「今日の急 務は一日も早く国力を充実せしめ国富を増加せしむる」ことであり,そのためには通商貿易を盛んにしなけ ればならず実業教育を盛んにすることが必要だという。そして北海道の今後,「/ト樽港将来のためには一日 も早く」実業教育を盛んにする必要があると強調している28。さらに,中学校は「種々雑多のことを広く教 授する」ので卒業しても役に立たず,「高等の学校に入るものは極めて僅少で」ある。しかし商業学校を卒 業した者は「其学横に広くはありませんが縦に深くありますから直に実地に応用することができるのであり ます」と述べ,「本道のため小樽のため大きく云へは国家のために」,「忠ならんと」したとの談話を『小樽 新聞』に載せた29。当該時期,中学校への進学希望者は増加しその競争は激しさを増していたが入学したと しても,金子がいうように経済的理由,疾病,落第等の理由で途中で退学する者が多く,高等教育機関へ進 学できる者はごく限られていた。実際,札幌および函館中学校への進学競争は激しかったが,中途退学者が 多いことも問題になっていた。しかし金子の商業学校優先の理由は談話にあったように,「/ト樽港将来のため」 という地域商業の発展,通商貿易の拡張を望む立場からの見解であったといえる。 こうした地域商業の発展と学校を結びつけ商業学校設置の優先を説く見解は,道会議員であった寺田省帰 の談話によって説得力を増す。寺田はいう, 国民をして実業の貴ぶべく金銭の軽んずべからざるを知らしむるは根本的急務にあらずや,而して之を なすこと唯実業教育の奨励振興あるのみ(略),小樽は商業地なり将来益々商業を発達せしめさるべか らず,今日小樽の商業盛なりと云ふと錐も唯だ内地と本道との貨物集散地たるに過ぎず,行く行く西伯 利亜鉄道完成して浦潮斯徳か世界貿易の中心たるに至るの時は,是れ小樽港が大に発達して小樽商人が 盛んに其の快腕を振ふべきの時也(略),区民の気風を陶冶し素養を深くし好機一たび前に来るとき一 躍これに来して産興致富の大功を奏するの地をなすを務めざるべからず30, と。/ト樽は国内市場を対象にした商業地として発達してきたが,今後は国内での交易に限らずシベリア鉄道. 246.
(8) 明治中期における北海道の中等教育機関設置をめぐる住民要求. が完成してウラジオストクが世界貿易の中心になる時には,当地域はさらに発展し小樽商人が活躍しなけれ ばならない。そのためには,商業学校が必要であるとの見解だった。. 小樽は,小樽商人を介して主に石狩,天塩,北見および胆振からの産品を港から府県に移出し,道内で消. 費する品々を府県から持ち込み需要地に供給する商業地として発展してきが1。海外への輸出は1889年(明 治22)から始められていたが,1899年(明治32)に至り外国貿易に本格的に力を入れている32。商業学校設置 を優先させようとする人びとの見解は,地理上ロシアに近接する小樽の環境を考慮して外国貿易を盛んにし, 海外への商権拡張を展望したものであったといえる。外国を相手にした地域商業の発展にはこれまでとは異. なる教育が必要で,それは商業学校で行われる教育であるという地域政財界指導者としての立場からの見解 であった。それは国家繁栄という視点から実業教育振興の全国的傾向に歩調を合わせる園田の見解とは異な. り,小樽という地域に暮らしその利害を考慮する立場から,地域の利益を商業学校に期待しその設置の優先 を説くものであった。先の中学校設置を優先する人びとの意識が,開拓政策下にあって制約されたが故に府 県同様の教育体制を望んだものならば,商業学校設置を優先する小樽の人びとの中には,府県とは異なる開 拓地であるが故に開拓が促進されることによって期待できる地域社会の利益,発展の可能性への志向があり.. それを確実にする機関として商業学校の設置を望む意識が根底にあったといえよう。 ところで,『小樽新聞』の記者は,小樽の人びとの年来の希望であった中学校を後回しにして商業学校を 設置することには疑問を持つが,「/ト樽は函館に譲らさる商港にして本道の商権を一手に握り将来に活躍す 可き有望地点」であると述べている。そして「商家子弟に切要なる教育を施し文明的商人を作出すとの急務. たるは言ふ迄も」ない,と言及している33。「文明的商人を作出す」との文言や,先の金子元三郎の,商業 学校を卒業すれば「直に実地に応用することができる」といった談話にあったように. ,地域商業の発展を確. 実にするには商業学校が必要である,という考えは何を論拠にしていたのだろうか。. 2.商業学校と地域社会の発展. 明治政府が本格的に実業教育に力を入れ始めた日清戦争前後は,繊維工業部門を中心に近代的工業が伸長 し,日本の繊維製品の海外輸出が増加していく時期であり鉄道,海運等の事業も伸長していった。この頃の 北海道からの海外輸出品は昆布を中心にした海産物ではあったが,その輸出量も増大していく傾向にあった。. このような国内状況に呼応して,1894年(明治27)に産業教育を奨励するために実業教育費国庫補助法が, そして1899年(明治32)には実業学校令が制定される。同令第三条には「北海道及府県二於テハ実業学校ヲ 設置スル事ヲ得」とあり,国内の資本主義経済の発展のために実業教育が奨励されていったのである。/ト樽. に商業学校設置を優先させようとする人びとは,そうした日本の経済,社会状況の中にあって,周辺地域か ら産出される品々を集積して国内のみならず海外市場へ向けて輸出する拠点地としての小樽を展望し,その ために必要な商業教育を要求していたといえる。. では,資本主義社会の中にあって海外を相手にする近代的な商業教育が,何故商業学校に結びつけられ期 待されたのか。それは,すでに商業学校を設置して『小樽新聞』のいうところの「文明的商人を作出」して いた函館の実状があったからだと思われる。安政元年(1854)に開港場となり早くから国際競争の中に投じ られ,経済的後進性故に外国資本に庄迫され外国商人によって商権が独占されていた函館には,地域の有力 商人層や函館の教育会が推進する私立の商業学校が1885年(明治18)に設置されている。そして1887年(明 治20)には,庁立の商業学校(現北海道函館商業高等学校)が中学校に先んじて設置された。函館商業学校 では,語学を重視し校内に「/ト売仲買卸売問屋及貿易廻漕鉄道保険ノ諸会社銀行」等を擬設して「各業ノ実. 地営業取引ノ方法及通商貿易ノ状ヲ演習スル」授業が実施されていた34。1900年(明治33)4月の『函館新 聞』には,. 247.
(9) 坂 本 紀 子. 当地の商店銀行会社の役員の四分の一は該卒業生を以て充たされ上流の地位にあり,市内商店の如き之 が為大抵新式の記帳法を実地に応用し大に旧風を一新せるものゝ如きは,皆学校教育の与りて力ある所 にして35, と記されている。函館では,1900年代に至り,近代的商業知識,技術を身につけた商業学校出身者によって, 大福帳から洋式簿記による商品,経営管理の形態への移行が可能となり,地域商業の構造が前近代から近代 的なそれへと転換されようとしていた。函館商業学校への入学希望者は函館のみならず道内各地域からあり, 当校出身者は札幌や小樽,釧路の会社,銀行にも就職していが6。そうした函館の状況を身近に見ていた小 樽の人びとが,商業活動に果たす商業学校の役割の重要性を受けとめて地域商業の発展,利益拡大には商業 学校の設置が必要不可欠であることを認識し,それ故に商業学校の設置を強く望んだと考えられるのである。. Ⅳ 北海道会での決着過程 小樽教育会の会長であった山田吉兵衛は他2名の教育会会員と共に道庁を訪れ,Ⅲに記した中学校設置を 要求する建議書を提出した。しかし小樽区会がすでに商業学校設立の意向を返していたため,商業学校を中 学校に修正する建議が高野源之助を中心にした議員によって議会に碇出された。そこには,商業学校および 中学校共に中等教育機関として必要だという意見に異論はないが,小学校を卒業して,商業学校よりも中学 校への進学を望み,中学校の不足故に「進学ノ志ヲ遂ケスシテ不幸ヲ被ムルモノ」が多い,とある。また商 業学校に入学するのは「商業家ノ子弟ニシテ中学校ハ即チ全般二渉」つている。このような本道の現状を考 慮すれば中学校の設置が切要である,と明記されていが7。この建議書の末尾には,高野を含めた3名の提 出者とそれに賛同する12人の道議会議員名が記されており,すでにこの時点で14名の賛同者が確保されてい る(遺憾ながら,それら賛同者が確保された過程については明らかにすることができなかった)。 道会での議論の内容を議事録でみてみよう38。議会では,大窪実が先ず中学校卒業者の状況について「中 学校ノ卒業シテ更二高等ノ学校二進ムモノハ少ナ」く中途退学者が非常に多いと述べた。その中途退学の理. 由は「父兄ガ他二転任スルガ為」,「又ハ家事ノ都合二依」るもの,「多クハ実業家ノ子弟力実業二従事スル ノ目的ヲ以テ退学スルモノテ」あると主張した。次に32番議員の友田文次郎が,今後の中等教育棟開設置の 予定を大窪に尋ねたが,決まっていないため答えられないと大窪は返答した。すると25番議員である入山裕 治郎が中学校にせよ商業学校にせよ,道内小学校卒業生数を把握し卒業生の何人をもってすれば中学校の設 置が必要なのかなどの目安を示し方針をたてるべきであると意見を述べた。そして既に「中学校ヲ立テルト 云フコトテ小樽区民二迫ツテ敷地ヲ寄付サセタ」にもかかわらず,変更するのならば「如何ナル目安ヲ以テ 増設スルノ御見込デアルカソレヲ詳シ説明ヲ承りタイ」と迫っている。また26番議員の松井弁次郎は,先の 大窪の説明によると「中学校ハ役二立タヌヤウナ」ことだったが,中学校と商業学校が共にある函館のその 「両者ヲ比較シタ成績ハドゥ」なのかと大窪に尋ねた。それらの質問に対して大窪は,中学校を増設すべき 事は認めており,それを「何処二置クカト云フコトニ付テハ,地方ノ最モ発達シ最モ人口ノ多クアル処二設 クルト云フノハ」「位置選定方ノ基礎デアロウト思ヒマス」と答えている。「最モ人口ノ多クアル処」の函館, 札幌には中学校が既に設置されているのだから,中学校を増設するとすれば,それに続く小樽が候補地とい うことになる。また桧井の問いに対して,函館の商業学校卒業生の就職状況については述べるものの,中学 校に比して商業学校を優先させるべき説得的内容は,大窪の発言にはみられなかった。 採決は翌日,出席議員32名そして欠席議員2名の中で行われが9。高野源三郎は冒頭,近年文部省が実業 教育に力を入れているのは理解でき,各府県の実状を見れば「普通教育トシテノ中学校ハ比較的沢山アリマ シテ,少キ所二二三,多イ地方ハ五六」もあるが,実業教育を行う学校は非常に少なく,「国運ノ進歩発達. 248.
(10) 明治中期における北海道の中等教育機関設置をめぐる住民要求. ヲ計ル上カラ」は実業教育に重きをおくのはやむを得ないことだと前置きした。しかし,. 翻テ北海道ノ現況ヲ視察致シマスレハ,中等教育ハ勿論国民教育トシテ欠くクヘカラサル普通教育サヘ 十分発達シテ居リマセン,語ヲ換ヘテ言ヘハ寧口凡テノ教育ノ機関ハ不完備ナノデアリマス,先ツ近キ 例ヲ以テ見マスレバ,(略)函館中学校ノ如キモニ百二十九名ノ入学志願者二対シテ百三十名ノ入校ヲ 許可セシト云フ話デアリマス,(略)之ヲ以テ見マスルモ,普通中学校ノ必要ナルコトハ充分二澄拠立 ツルニ足リマス40,. と強調した。そして,小樽ではすでに中学校設置の急務を認め総代人会合議のもとに敷地を買収し寄付した ことを付け加え,修正建議案を認め原案を否決することを求めた。商業学校設置の原案可否の採決が行われ,. 議員17名の賛成をもって原案は否決された。これにより小樽では,中学校(現北海道小樽潮陵高等学校)の 設置が優先されることになったのである41。. むすび. 1900年(明治33)前後の北海道では,小樽に中学校を設置するかあるいは商業学校の設置を優先するかの 議論が紛糾していた。中学校設置を主張する人びとは,府県同様に高等教育機関に接続する普通中等教育機 関としての中学校設置を望み,系統的段階的な教育機関の体制を北海道に確立させることを強く要望してい た。「学制」頒布以降,文部省は学校教育普及のために立身出世を強調し,身分制から解放された人びとが「官. 吏になる」ことも可能にする新しい教育体制を力説した。府県同様の,そうした新しい教育体制の確立を望 む一般の人びとの要求も引き受けながら,中学校の設置が要求されたのである。他方,商業学校の設置を主 張する人びとは,小樽という地域の商業世界の将来を展望しそれに必要な教育を碇供してくれる学校の設置 を望んだ。府県のように中学校設置を先行させるのではなく,その意味で北海道独自の教育体制を要求した。. 両派はそれぞれの立場から学校の存在意義をとらえ,異なる学校教育を要求した。しかし両派の要求が生 まれた背後には,北海道開拓という事業が大きく横たわっていたと考える。一方は,それによって制約され る学校教育体制や教育内容が府県同様に実施されることを求め,他方は,それによって期待される地域や個々 人の利益を学校に結びつけて近代的実業教育を求めたからである。この府県同様の体制を望むいわば普遍性 と北海道の独自性を求める一見対置する意識は,北海道の人びとの中に個々別々に存在していたのではなく. 多くの人びとの中に共存していたものであったと考える。. 北海道の自由民権運動を研究テーマにした永井秀夫は,北海道会開設運動に身を投じた民権家には「北海 道開拓を積極化することが,個別地域の利害や北海道民の利益にかかわる」という信念があったと述べてい. る42。また札幌地域の民権家には,「府県なみ」になりたいという要求が強かったとも指摘している43。そ れらは,開拓という北海道だけに課された事業に期待しながらも,府県同様の扱い,体制であることを望ん でいたと言い換えることができる。おそらくそうした思いは民権家に限らず,北海道の多くの一般の人びと の中にも共存していた心情であり,それが学校設置を検討する局面において具現化されたと思われる。/ト樽 の中等教育棟開設置をめぐる人びとの要求は,当該時期に北海道の人びとの中に共通してあった,「府県なみ」. の普遍性と北海道の独自性を求める意識を基軸にして形成され,それぞれの思いが両派に分かれて顕現化さ れたものであったと考える。. 註 =\大谷奨「一九○五年第五回北海道会における中等学校増設計画とその決定過程」『日本教育史研究』第18冒▲,日本教育史. 249.
(11) 坂 本 紀 子 研究会,1999年。 (2)『小樽新聞』1900年7月13日。. (3)同上,1900年2月20R。 (4)同上,1900年2月15日。 (5)『北海道教育史』全道編一,北海道教育委員会,1961年。 (6)同上,516頁。 (7)斉藤利彦「中学校『半途退学者』とその行方」『日本教育史研究』第8号,1989年。 (8)『小樽新聞』1901年9月8日。 (9)同上,1901年9月11日。 (1¢)『北海道教育史 地方編一』北海道教育委員会,1955年。 (川 「第三回報告書」/ト樽教育会,1902年(小樽市立中央図書館所蔵)。 (1勿 同上。/ト樽教育会の主な活動内容は,講演会・音楽会・教育研究調査・教育関係者表彰・新年交流会・水泳講習会・陸上. 競技会・野球・卓球競技会・スキー会などである。後に財団法人小樽教育会と改称している。 (1う)『小樽新聞』1900年2月20日。 (14)同上,1901年9月22日。 (15)同上,1901年9月27日。 (16)『北海道教育雑誌』第百五号,北海道教育会,1901年10月。 (17)前掲「第三回報告書」。横山は,同年9月6日にも小樽教育会例会に赴き,講演を行っている。 (咽 同上。 (均 『小樽新聞』1901年9月14日。 伽)『小樽市史 第「巻』小樽市,1963年,426頁。 帥金子堅太郎「北海道三県巡視復命書」1885年(北海道立図書館所蔵)。 佃 『新撰北海道史 第六巻史料二』北海道,1936年,650頁。 錮 『北海道庁例規集 第Ⅰ期 庁令等布達編(三)明治二三年』北海道立文書館史料集 第十六,北海道立文書館,2001年。 糾 『北海道教育会雑誌』第壱号,北海道教育会,1891年3月。. 佃 同上,第六号,1891年9月。 鯛 前掲『小樽市史 第二巻』406∼416頁「 帥 『小樽新聞』1901年9月15日。 ㈹ 同上,1901年9月24日。 餉 同上,1901年9月26日。 糾)同上,1901年9月28日。 帥 前掲『小樽市史 第二巻』324貞。 囲 同上,344∼345頁。 郎)『小樽新聞』1901年9月13日。 糾)『創立四卜年記念函館商業学校沿革史』北海道庁立函館商業学校,1885年,11∼13頁。 ㈲ 『函館新聞』1900年4月26日。 郎)詳細については,坂本紀子「函館商業学校と地域商業の近代化」(『地方教育史研究』第二十九号,全国地方教育史学会, 2008年)を参照されたい。 郎)『北海道会第一回通常会議事速記録』第「号,1901年10月30日(北海道庁議会事務局図書室所蔵)。 (姻 同上。 郎)同上,1901年10月31日。. ㈹ 同上。 ㈱ 小樽ではその後,日露戦後の漁業権および市場の拡張を背景にして1910年(明治43)に官立小樽高等商業学校(現小樽商 科大学)が設置されている。そして1913年(大正2)に庁立小樽商業学校(現北海道小樽商業高等学校)が設置された。 ㈹ 永井秀夫『日本の近代化と北海道』北海道大学出版会,2007年,156頁。 ㈹ 同上,161頁。. (函館校准教授). 250.
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