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明治初期琉球台湾事件と左院

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(1)

著者 安岡 昭男

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 35

ページ 1‑24

発行年 2009‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00007268

(2)

(1) 左院は明治五年~八年の間、太政官一二院制(正院・左院・右院)における立法機関であった。本稿 (二)左院議官の台湾出兵反対建議(三)左院議官の征台不可再議 (ご正院の琉球処分下問と左院の両属策答議(四)宮島誠一郎議官と周辺(五)顧問仏人の征台評価

明治初期琉球台湾事件と左院

おわりに 安岡昭男

1明治初期琉球台湾事件と左院

(3)

は左院の琉球問題・台湾事件との関わりを、左院議官の動向に即して再検討し、前稿の内容を補訂す2(2) るものである。

明治五年六月二日正院は左院に対し琉球施策に関して次のように下問した。(琉球処分、球案起草)

琉球ノ儀ハ、従来薩摩二附属シ、観礼ヲ脩メ、幣帛ヲ献セリ、而シテ彼又支那ノ正朔ヲ奉シ、封

冊ヲ受ク、我亦其携弐ノ罪ヲ問ハス、因循数百年ノ久ヲ過ク、今ャ名義ヲ明一一シ綱紀ヲ張ルノ時

一一方テ、如斯暖昧ノ事、匡正セサルヘカラス、之ヲ処分スル如何シテ可ナラン、審議上陳スヘシ、壬申六月二日正院

文中に「処分」の語が見えるこの下問は、前年岩倉大使一行を海外に送り出した留守政府で、大蔵大輔井上馨が五年五月三十日「琉球国ノ版籍ヲ収メシムル儀」について「内地一軌の制度」に改めるよう正院に建議したのに応ずろ諮問であった。

正院の諮問に対する左院の答議「琉球国使者接待併其国ヲ処置スルノ議」(明治五年六月)は九章から成り、前記の井上大輔建議、正院の左院に対する下問と共に、明治十二年十二月、内務大書記官松田道之が伊藤内務卿の命で編纂した『琉球処分』の第一冊に載せてある。同書には左院答議に関わっ 二)正院の琉球処分下問と左院の両属策答議

(4)

た左院議官の名を示していないが、少議官の宮島誠一郎が起草していた。宮島の筆記「球案起草」に「明治五年、壬申六月、正院より琉球処分の儀、左院へ推問相成り、余時に左院に少議官を辱ふし、(3) 右推問に対して、答議する処あり、」と明記している。宮島によれば、正院へ琉球処分の議案八ケ条(以下Aと称す)を審議上陳した。正院の下問には「琉球国使者接待」の語句を含まないが、すでに維新慶賀使上京へと方策が進められていたのである(五年六月鹿児島県官から琉球当局者に内達)。上記のように、『琉球処分』(内務省発行)は第一章~第九章から成る左院の答議「琉球国使者接待併其国ヲ処置スルノ議」を載せており(以下Bと称す)、宮島が上陳したという八ケ条より一章(’条)多い。ここに宮島の「球案起草」(内題「琉球事件」)に記載する答議Aを掲げ、A(8項目)・B(9項目)両者を比較してみろ。読点は原文。[]内はBの記述。

A「球案起草」に見る左院答議(全8条)B『琉球処分」に載す左院答議(全9章)

琉球国使者接待併其国ヲ処置スルノ議(A)

明治初期琉球台湾事件と左院

(5)

第一条一琉球国ノ我ト清トー一両属スルハ、従前ヨリ其国ノ形勢二的然シ、更二論スルヲ族タス、(Bと同文)第二条一琉球国ハ明ヨリ始マリ、清二至リテモ其封冊ヲ受ケ正朔ヲ奉ス、然ルーー其名ハ封冊ヲ受ヶ正朔ヲ奉スレトモ、其実ハ島津氏累世之ヲ支配シ、士官ヲ遣ハシ、其国ヲ鎮撫セシ而已ナラス、使臣ヲ率テ来朝セシムルコト、旧幕府ヨリノ制タリ、由是観之ハ、琉球ノ我二依頼スル、清二勝レルハ、清一一ハ其名ヲ以テ服従スレバナリ、[我ニハ実ヲ以テ服従スレハナリ](Bは[]を加える)第三条一琉球国ノ両属セルヲ以テ、名分不正トナシ、若シ之ヲ正シ、我力一方二属セシメントスレハ、清ト争端ヲ開クーー至ラン、縦令争端ヲ開クニ至ラサルモ、其手数紛[紛転]ニシテ、無益一一掃セン、抑々[何トナレハ]名ハ虚文ナリ、実ハ要務ナリ、情ノ封冊ヲ受正朔ヲ奉セシムルハ、虚文ノ名ニシテ、島津氏ノ士官ヲ遣ハシ、其国ヲ鎮撫スルハ要務ノ実ナリ、我其要務ノ実ヲ得タレハ、其虚文ノ名ハ、之ヲ清二分チ与ヘテ、必シモ之ヲ正ササルヘシ、

第四条一別紙大蔵省申立ノ如ク、琉球使人ヲ待遇スル、西洋各国ノ使節ヲ待遇スル如ク看倣スヘカラサルハ、勿論ノ事ナレトモ、又国内地方官ノ朝集スルト、同日一一談スヘカラス、維新後、今般始テ来朝スレハ、其事ハ地方官ノ朝集スルョリ、重大ニセスンハ

(6)

権リニ其事ヲ掌ル、寧ロ大蔵省一一テ掌トルョリモ便利トス[便ナリトス]、第五条|外務省ニテ、琉球使人ヲ待遇スルーー限り、内国事務ノ心得ヲ以、欧米各国ノ特派

第六条

華族宣下ノ不可ナル所以ハ、国内形勢沿革ノ自来ルー一従テ、人ノ族類ヲ区別シテ、皇族華族士族ト称謂ヲ定メタルハ国内人類一一於テ、自然二斯ク名目ヲ設ケサルヲ得サルノ勢二立至リシ者ニシテ、今般更二琉球国主一一華族ヲ宣下スヘキ謂レァラス[琉球国主ハ乃チ琉球ノ人類ニシテ国内ノ人類ト同一ニハ混看スヘカラス](Bは[]を加う)琉球王[トカ又ハ中山王トカ]一一封スルハ可トス、琉球藩主ニテハ藩号穏当ナラス、内地ハ廃藩置県ノ令ヲ下シ、琉球ノミ一一更二藩号ヲ授クルハ、名義ヲ以テ論シテモ、前 使節トハ格別ノ事ト為シ、両[為サシムルヲ可ナリトセン]カラン[較々可ナリトスヘシ]、琉球ハ四方輻湊ノ孤島ナレハ、長ク此禁ヲ守ル能ハ

アルヘカラス、故二各国ノ応接一一熟シ、且其官員ヲ始メ、諸事全備シタル外務省ニテ、

サル必然ナレハ、姑ク之ヲ度外二置ク、旧幕府ノ例二徴フヘシ、其他華族並琉球藩王ノ宣下二於テモ[ハ]異議ナキニ非ス、左二褐クルカ如シ(Bは 外務省申立、 Pヲ可ナリトセン]旧幕府接待ノ式ヲモ、参考スルヲ部分を削る)申立、琉球取扱三箇条ノ中、外国ト私交ヲ停止スルハ、 両国匹偶ノ礼[敵国ノ礼]ヲ用ヒス、属国ノ扱ヲ為サシメ、

参考スルヲ可ナリトセン

恐ラクハ行ハレ難

部分削る)

' ̄、

明治初期琉球台湾事件と左院

(7)

第七条第八条一琉球ハ従来島津[氏]ヨリ士官ヲ遣ハシ、鎮撫シタレハ、其例二循上、我官員ヲ遣ハスノ外、九州[ノ]鎮台ヨリ番兵ヲ出張セシムヘシ、我力同盟ノ東西洋各国二於テハ、我ヨリ信義ヲ以テ公然タル交際ヲ為セハ[スレハ]、彼[し]モ亦[其]信義ヲ段リテ我力所属タル土地ヲ犯スヘキノ道ナシ、故二番兵ハ外題ヲ禦クノ備[へ]一一アラス、琉球国内ヲ鎮撫センカ為メナレハ、必スシモ多人数ヲ要セサルヘシ、(Bでは第九章)右八ケ条、琉球処分ノ議案ヲ正院へ上陳セリ テ、我二服従セル一島トノミ為シテ然ラン(圏はl部分削る)|皇国ハ東西洋一般二知ル所ノ帝国ナレハ、其下一一王国アリ侯国ァ鋤ニテ、琉球ヲ封シ王国ト為スモ侯国卜為ストモ、我力為ント欲スル所,号ヲ除キ、琉球王トノミ宣下アリテモ、我帝国ノ所属タルーー妨ケナシ、 令ト相応セス、且琉球ハ兵力単弱ニシテ、皇国ノ藩屏タル一一足ラス、[能ハサルハ世6ノ知ル処ナレハ]実際ヲ以テ論シテモ、藩号ノ詮ナシ、故二藩号ヲ除キ、琉球王ノ宣ノ知ル処ナレハ]実晦下アルヲ可ナリトス、国力ヲ量り、姑ク之ヲ置テ言ハサルヘシ(Bは 然しトモ今日処置ノ方略ヲ以テ着レハ、先シ此度ハ懇二優待シ(圏はl部分削る)、其下一一王国アリ侯国アルハ、当然ノ事‐モ、我力為ント欲スル所ノ侭ナレハ、藩

部分削る) 去レトモ、我

(8)

『琉球処分』Bの第八章は以下の通りで、「球案起草」Aには含まれない。第八章「右ノ如ク我ヨリ琉球壬一一封シタリトモ更二清国ヨリモ王号ノ封冊ヲ受クルヲ許シ分

明二両属ト看倣スヘシ」

第九章は「球案起草」では第八条にあたる。どのような経緯で、両属策を明記した第八章が挿入され、『琉球処分』Bでは全九章となったのか審かにしない。なお第六条にある「外務省申立」などは、当時機密として卿より大臣に直接上呈され、

「今書類無之卜云う」(Bの注記)

しかるに正院への上陳後、副島外務卿が左院に来て内談するには、すでに琉球中山壬は我朝より封爵を受けるのを悦ぶという内情があり、これを承認すれば、今また左院で異議あっては、施政上すこぶる損害があるという。これに対して左院は議政局であり、事の可否を議するのみで、もとより行政

上には関係せず、左院決議の後は、正院の決行に帰すろ、と答えた(球案起草)。政府は左院答議の、要務の実をとり、虚文の名は与える、という日清両属策を当面採用した。五年九月尚泰を琉球藩王となし華族に列した。琉球藩王でなく琉球王でよいとし、また華族宣下に反対した左院の意向には沿っていない。清との関係には変化は無かった。「外国と私交を停止する」ことを、「おそらくは行われ難からん」(A)から「やや可なりとすべし」とBでは改めたが(第六章)、清国

明治初期琉球台湾事件と左院

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明治七年二月六日、明治政府は大久保・大隈参議上陳の「台湾蕃地処分要略」により、台湾出兵を閣議決定した。四月四日陸軍中将西郷従道を台湾蕃地事務都督に、同日設置の台湾蕃地事務局長官に

参議大隈重信を任命した。西郷都督は四月六日正院で天皇に拝謁、全権委任の勅書を受け、九日軍艦日進・孟春を率いて品川湾を発し長崎に向かった。その前日の八日に左院議官らが出兵反対の建議を提出しており、首唱者は宮島誠一郎議官であった。

宮島の見る所では、大久保の佐賀から帰るに先立ち、大隈が岩倉に入説し征台の議を起こしたのは、|は鹿児島激徒の怒りを弛め、一は東京軍人の人望を収攪して我胸壁となす政略に他ならない。すなわち一時一身の利害より国家全体の政理を失い、清国との事端を開き、不測の禍害を来たす、征韓より甚しきものあらん。しかるに政府の議すでに決す。「数日沈吟」、黙視するに忍びず、左院に出頭して発論したという。左院では、すでに時機を失い論ずるは無用とするものと、たとえ時機を失っても建言し不可を陳べようとするものと、議論が分かれ、ついに同意の議官の連署による建議とした。廟算は天裁(天皇の との通交差し止めは、台湾征討の翌年(明治八年)に至って指令される。

(二)左院議官の台湾出兵反対建議

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裁可)の筈で本院(左院)職務の敢えて与る所でないが、黙止し難いとし、「台湾生蕃出兵不可ノ議」(演舌之覚)が伊地知正治副議長まで進達された(四月八日)。

連署者は次の七名。宮島誠一郎(三等議官)・海江田信義(四等議官)・丸岡莞爾(四等議官)・三浦安(四等議官)・戸田――一郎(四等議官)・北沢正誠(五等議官)・村田保(五等議官)

(4) この建白では条理上と、利害上との一一点から出兵不可を論ずろ。[条理上あきたらぬ点]琉球は藩王という恩典を受けながら、なお清国の封冊を返上することもなく、依然両属の形である上は、内国の人民と同一に見倣せるものではない。まして台湾での遭害は藩王

未封の以前のことで、このため「追問ノ兵ヲ挙クル」のは条理上もやむをえない「義挙」とも一一一一口い難い。今外邦の践雇(開港地在留の洋人その兵隊で自ら守り、我が法律の支配を受けず、独立の国

体立たざること)を「容忍」して国民の保護を尽くさず、琉人の汚辱を雪ぐため、野蛮孤島に出兵する条理如何、緩急如何、局外の公論も顧みなくてはならぬ、とする(局外とは外国を指す)。[利害上まだ審かでない所]台湾の住民人種一ならず、多くは野蛮なりとも、ほぼ開化せる者および他国人の来寓雑居するものもあり、生蕃・熟蕃の境界、人民各種の所住など探知は行届く筈だが、討伐の際に誤って無罪の他国人に災禍が波及し、別に構難の端を開かないよう注意が必要と説く。

明治初期琉球台湾事件と左院

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以上、条理と利害の観点から征台の不可を論じ、先に内決した征韓の議を、時勢を考慮し改議した条理は今もって変らない筈で、ことにその後佐賀の暴発もあり、民心一定せざる勢いの時に、この役を興すは天下益々疑惑を生ずとし、万々一の「御一挙御延引」を願った。建議一一一日後の四月十一日、三条太政大臣に呼ばれて参上した宮島議官は次のような内諭を受けた。台湾処分建言書は篤と熟覧に及んだ。一応条理もっともだが、すでに決定し今さら中止し難い。かつ米人リゼンドル(李仙得)は台湾島を十八回経歴し、実地の形況熟知の者で、このほど政府に雇い、験討のため遣わしたので、気遣いは無い。征台の議は、先年廟議決定し、この機に運ばれたもので、今日突然の事ではない。この旨を心得るように。そこで宮島は左院に出頭し、連署した議官にこれを報告した。 また出兵に費用を要して戯っても、水草煙璋の地に「植民拓地」には運び兼ねよう。欧米各国は野蛮未開の地を発見すれば必ず開拓植民する。今に至るも台湾蕃地を残すのは、土地を取って益のないためか、その土人の人理をもって治め難いかの故であり、今日までどの国の版図にも入らないのは、このためにほかならないであろう。今これを察せず、距万の財を耗し幾千の人を労せば、恐らく得失償わざるのみならず、いたずらに国債を増益し人民を疲弊せしめ、笑を各国に取るのみである。

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三条大臣の一一一一口う米人リゼンドル(ルジャンドル○・三・田の囚のロ号の李善得)は四月八日付で外務省准二等出仕から台湾蕃地事務局准二等出仕に転じていた。四月十三日、佐賀の乱の江藤新平ら処刑。江藤は四年八月から五年四月まで左院副議長であった。十六日各府県に台湾処分が布告された。十八日参議兼文部卿内務卿木戸孝允は内治を重んじ征台を非として辞表を提出した(五月十三日免官)。征台準備が着々進められていた時、英米両国が日清関係に局外中立を唱え出した。英国公使パークス(四・m・勺日丙のの)が四月十三日に英人・英船舶の雇使につき抗議を寄せ、十八日には米国公使ビンガム(』し・切旨囚冨目)も寺島外務卿に、米人と米船舶の参加を拒絶してきた。この事態に、四月十九日大臣・参議らが協議し、まず清国政府に照会してのち事を決定するに一致し、西郷都督の進発延期を長崎の大隈長官に電命した。四月二十日宮島は左院に出勤し、台湾事件危急の勢いに、今後の策略をどう定めるかを諸議官らと評議した。一一十三日、正院より左院に対して内密に、台湾事件の調書が廻付された。これを一読した宮島は次のような所感を記している。

堂々タル帝国ノ御処分トモ不相見、実二同盟国二対シテ信義ヲ失フノミナラス、其挙動頗ル権謀術策一一出テ、之ヲ和志ノ所業卜申スモ、恐ラクハ其責ヲ免レス、誠二廟堂ノ謀ルモ、危難極ルト言フヘシ(「清国」を抹消し「同盟国」としてある)

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続いて清国総理衙門の日本外務省への照会(同治十三年三月二十六日)の全文を掲げている。一部皿(5) を以下に抄出す。「昨年ハ責副島大臣使ヲ奉シテ来清サレ本大臣卜諸事談合シ、情意頗ル懇敦タルモノァリ」「貴国鄭翻訳官ヲ経テ回答有リタル処二拠レハ(略)台湾生蕃地方ノ如キハ只人ヲ遣ハシテ爾後日本人ノ赴キタル際優遇センコトヲ告知スルノミニテ其意皆兵ヲ用フルノ意一一非ス等ノ趣ニシテ」「此次突然貴国ノ師ヲ興シ台湾二赴ク由ヲ聞込ミシモ」「若シ貴国ニシテ真二此挙有ラハ何故二先

シ我方卜商議致サレサリシャ」前年副島外務卿は清国に使し、同治帝賀婚の礼を畢えて、琉球の藩王冊封および征台問罪の事を告げると、清国政府曰く、台湾南部は政令教化の及ばざる地であり、貴国その罪を問うも、討するも我政府もとより異議はないと。副島は帰朝してその旨を復命したと伝聞し、朝鮮なり台湾なり皆これを清国に告げ、ここに至ったように想像していた。今清国政府よりの来書を一読して、実に樗然とした。清国に対して、かくの如き凌蔑を極め、また今日各国公使の局外論(中立政策)を為すに及んで、我

在廷諸公も初めて論議紛転、廟堂の形勢、支離単弱を免れない、と宮島は評する。そこで断然征蕃の事を止めるのが今日の急務であり、そうせず中途で彌縫すれば却って前途の大害を来たすと考えて、宮島は一一十一一一日左院に出頭し、海江田、三浦、尾崎らと議し、再び征蕃不可を諸議官連名で建言することになった。

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明治七年四月一一十三日一一一等議官宮島誠一郎ほか議官六名は「台湾生蕃出征不可ノ再議」を伊地知副議長に提出し、同人より一一十四日三条太政大臣に上申した。連署の議官は宮島をはじめ海江田信義・

丸岡莞永・三浦安・戸田三郎(以上四等議官)・村田保(五等議官)で、四月八日の七名と比べて、(6) 北澤議官を脱している。この建議は十行罫紙六頁半にわたる。冒頭「臣誠一郎等謹テ惟ミル一一治国ノ要ハ実ヲ挙クルー在リーーーーロヲ立ルー在ラス」と起筆し、外国の異議により廟議中途に変じ、発遣の軍艦を召し旗すという事態に対応するのに甲乙二論を掲げ、評論

を加え、甲の論を排し、乙の論を採る。[甲の論]征蕃の事は理勢やむなく、群臣にも諮詞せず、「天裁」に取り、従事するほかない。今、

外臣異議のため中止せんとす。独立の国体として、廟堂は初論を守持すべし[乙の論]征蕃の挙には当初より驚樗嘆息せざるなく、廟議もし衆心に従い轍を変るのに今日行なって、いささか失態に近いのと、他日「兵連禍結」の時に収拾すべからざると、いずれが国家生民のた

めか。外人の議でも道理あれば従うに倍かでない。「天裁」を辱しめるを加えるならば、関係の閣臣

自ら朝野に謝する道もあろう。 (三)左院議官の征台不可再議

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甲の論ずろところは、憾慨義烈、愛国の衷情に発すといえども、要するに執勧事を誤るの害を免れ

ない。この説を納れ、彌縫を加えて、ついに前策を遂げんと計ろは、噛りを各国に招き、難を中外に醸し、善後の計無きに至らんとす。

乙の謂うところは、真誠に国家を憂える忠実の論で、当路者の心を留むべき所である。

和戦は国の大事である。朝鮮の拳なり、台湾の役なり、その議は一に内閣に成る。左院は太政官の一部議政局なるに、なおかつこれを知らず、況んや他省をや。和戦の決は聖上の特裁に在るべし、和戦の議これを群臣に下さざるの理あらんや。征韓の内決は前日反覆し、征蕃の明裁は今日に蜘厨す。伏して望む。廟議しばらく外事に馳轄せず、まず内国の経理を主とし、地方官会議のごときを第一着手として、百事民情輿論の帰する所に遵い、天下の全力を合わせ全勢を拡張あらんことを。すなわち「万機公論に決する」を空言に帰せず、「上下心を一にして盛んに経輪」を謀るの実を挙げる、という。結局、前年韓国遣使の内決と中止を顧みた、内治優先の台湾出兵反対論であった。

しかし左院議官らが征台反対一色だったのではない。五等議官馬屋原彰は単独に建言書「台湾策一道」を伊地知副議長に呈しており(四月二十五日)、征台の中止に反対し、清国との再交渉を先にす(7) ろ献策であった。馬屋原は一月に左院について「本院更張ノ議」を上陳していた。当時、左院は建白を受理する役所でもあった。明治七年は一月の民撰議院設立建白をはじめ左院に

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提出された建白は約四百九十件にのぼったという。四月二十五日金井之恭(権少内史)は急派先の長崎に到着、大隈長官に進発延期の朝命を伝達した。翌日大隈は西郷都督に朝命を伝えたが肯じない。

東京では二十五日正院に臨幸、嘉彰親王と大久保利通が佐賀征討を復命。大久保は二十七日正院で長崎出張を乞う。一一十八日宮島は大久保家に到るが会えない。この日岩倉邸で、三条・島津久光(左大臣)・大久保が征台を議し、大久保に長崎出張の内命があった。三十日大久保出帆に宮島は浩歎するのみであった。九州より帰京し必ず何分の処置あろうと希望したのに、却って勢いが益々確定した。「昨年征韓論拒絶の際に当り、征台の策を以て之に換ゆろもの欲」と察する。大久保は五月三日夜長崎に到着した。すでに同日谷干城・赤松則良両参軍と、日進・孟春・明光・三邦の四艦が台湾社寮に向け進発していた。四日大隈・西郷と協議したが、先に領事の福島九成を有功丸で清国廩門に派遣し、閏漸総督に対する出兵通告に及んでいた(四月二十七日長崎発、五月三日

廩門着。兵二百七十余名と兵器弾薬を搭載)。西郷渡台の決意は固いので、大久保はついに遠征中止を断念し、西郷らの長崎発程を認めた。五月六日、大久保は長崎出港、リゼンドルおよび通訳平井希昌の両人が大阪まで同船。神戸で乗船、十五日横浜着港。帰京して正院で復命書を提出した。五月十七日、西郷都督以下長崎進発、一一十一一日台湾南部に上陸、六月三日までに蕃地の牡丹社をほ

月治初期琉球台湾事件と左院

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左院再度の台湾出兵反対建議が、宮島議官の主導によることは、以上の経緯にも明瞭である。なお出兵前後の宮島の動静と周辺を「球案起草」の記述などにたどってみろ。五月十三日(先月辞職を願った木戸参議が免官になった日)千坂高雅が米沢より上京。征台の非理を大久保に糺し、これを止めようと(「終夜討論」を抹消)、宮島は今春欧州より帰朝した千坂を伴い大久保と談ずろ所あった。時すでに「佐賀ノ乱起ラントス」。千坂は一旦米沢に帰り、人心を鎮撫し、政府の求めに応じて、壮士百名を精選して、東京巡査の編制に充てた。それゆえ内乱の鎮定を喜び、「外征の頓急発すろを鷲」いた。五月十八日には十五日に帰京したばかりの大久保家を訪ねる。(大久保の日記に記載なし)柳原前光が来ており、明日出発を控え、台湾生蕃談判のこと示談あり、終わって面会し、宮島は衷心を吐露

し「台事」を論じた。すでに二回建言におよんだが、廟堂の英断やむなき事情あろを察知す。昨年十月征韓論の際、内政未整に外征議すべからずとされた。内務省が創立されたが、不幸今春の乱に際し新省設置の効を見ず、また征台の事あり、昨年朝鮮の事、なおかつ不可とす。もし清国に関係し、っ ぼ平定した。

(四)宮島誠一郎議官と周辺

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いに葛藤を生じ万一「兵連禍結」の時に至らば、朝鮮の収結し易いのと比べものにならない、と熟考を促した。大久保は「黙然久之曰く、縦令ひ事今日に到るも、決して清国の争端は引き起さず、御安心ありたしとの一言ありし」という。五月十九日、討蕃事由が全国に布告された。

七月八日、千坂高雅は米沢に帰る。一は台湾の挙を憂い、|は藩士の困窮を救うための上京であったが、台湾の事は大久保の「主論」で、軽々しく傍観家より論じ難いので、ただ旧藩士民の救済を、三条大臣と大久保に内議して帰県したのである。なお七月八日に山県陸軍卿は大臣の諮問に対して将官評議の意見書を呈した。津田出ら陸軍少将七名の各意見はいずれも対清開戦に準備不足としていた。(大隈文書A162)この日、廟議は清国との和戦決裂の場合を予想して戦備を修めるに決し、九日内諭を陸海軍両卿に

下した。こうして「宣戦発令順序条目」まで定めるに至る。大久保(参議兼内務卿)は自ら渡清談判に当ることを切願し、八月一日全権弁理大臣として清国差遣の命を受け、八月五日委任状を受け、訓条により和戦の権を授けられる。同夜大久保宅での送別の宴に宮島は川路利良ら十数人と参加。翌六日新橋発の汽車に同乗、大久保全権の横浜出帆を見送る。一行は九月十日北京に着く(高崎正風議官は天津より十五日着)。

この間、九月七日宮島は左院より川村純義海軍大輔を訪い密話した。川村が一一一一口うには、電信往復で

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英国より軍艦を購買したが、極密の事で政府でも二一一一の人以外は知らない。勝安芳海軍卿は日清開戦

を恐れ、甲鉄艦の長崎航海中破損を名として辞表を進達したが、このごろ修繕できて無事海上に浮かぶ。まことに苦々しき次第なりと。大久保全権発程前、川村海軍大輔は、清国と開戦の時は直ちに各

港の清艦を奪い我が有となし、大治・天津などの砲台を破り、長駆して北京を衝かんのみ、何ぞ台湾の孤島を問うに暇あらんや、といった主戦論者であり、これに対して勝海軍卿は避戦論者であった。

大久保一行の随員に三等議官高崎正風(豊麿)が含まれていた。左院少議官の時、左院西欧視察団(五名)に加わっている(五年一月から六年九月まで)。清国総理衙門王大臣との北京談判は七年九月十四日に始まり辛うじて妥結の運びとなったが、背後には英国駐清公使の仲介があった。十月三十一日調印の互換条約葱単で、清国は日本の征台を義挙と認め、日本軍撤退を条件に償金計五十万両の支払を約した。妥結の報が至ると「廟堂始め全国一般安堵の思」いに浸る。政府は十一月九日院省使府県に「結約」

を布達した。大久保全権は帰路天津で李鴻章を訪問し、ついで台湾に渡り西郷都督に撤兵を告げた。十一月二十七日横浜帰着。宮島も上陸を迎え、まず平安を祝し、もし和議破裂せば、米沢から直ちに一軍を推し出す所であったという事情を談じた。

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仏人ジュブスヶ(し.。。□弓・巨のC三治部輔一八六七~一八八二在日)は仏国軍事教官団の一員として慶応三年来日。幕府瓦解後は仏国公使館付通弁官、兵部省兵式顧問を経て、明治四年左院雇いとなり、仏国諸法律制度規則の翻訳などで寄与する。ジュプスヶは征台と対清談判の首尾に関して、この事は「世界の評判と成り、貴国の品位幾等を倍加すべし、実に大久保は国家の元勲なり」と評価した。宮島議官の記載はこれにとどまるが、外国人の感想・観察の一端を示すものであろう。明治八年四月の官制改革により左院が廃止されると、彼は(8) 新置の元老院に移った。

なお同じ仏人顧問ポァソナード(の.因・国・]のの。ご&の一八七六~一八九五在日)は司法省常務のほか正院法制局にも臨時出仕したが、大久保全権の北京談判に随行、万国公法に関する大久保の質問にも応じた(七年八月~十一月)。

ポァソナードは明治八年三月十七日の意見書で、前年十月北京で日清両国が結んだ協約の結果琉球島に日本の権があることが暗に認得されたので、今や日本は琉球に一層その政権を拡張する時だとし(9) た。翌十八日には政府召命による琉球高官三名が着京し、藩王の謝恩上京などが説諭される。さらに(川〉八年六月に内務大丞松田道之の琉球派遣となり、対琉球施策の進展を見る。 (五)顧問仏人の征台評価

明治初期琉球台湾事件と左院 19

(21)

(Ⅲ) 政府部内の一部に台湾拓地植民論が唱えられ若干の動きがあった。多Cし実現していれば、宮島議官の一一一一口う通り、「海賊ノ所業」であり、「保民ノ義挙」とは決して認められない。このことを銘記すべき

である。【註】

(1)左院は政府の議事機関で、明治四年七月二十九日設置、同八年四月十四日廃止。廃藩置県(四年七月十四

日)の半月後に、正院・右院・左院から成る太政官三院制を定めた。正院は天皇が親裁する最高官庁で、

太政大臣・左右大臣・参議が政策を決定した。

左院は議長・議員(のち議官)が主として法規の制定などを扱い、正院の諮問を受けた。左院の制度は

江藤新平が後藤象二郎の賛助を得て立案し、大体フランスのコンセイュ・デタ(○・二切呂』|国旦)に倣っ

たといわれる。

右院は各省の長官・次官(卿・輔)が会同して省務を協議。のち、左院とともに廃止された。

(稲田正次『明治憲法成立史』上巻有斐閣一九六○年一○一頁参照)

左院に関する研究論文として、松尾正人「明治初期太政官制度と左院」(中央史学4昭和五六)、同 おわりに

20

(22)

編『明治国家の制作と思想』吉川弘文館 されている。 「明治初年における左院の西欧視察団」(国際政治別)がある。なお中川壽之「樺太問題と左院」(犬塚孝明

左院の人事

議長

中議官 大議官

少議官

大議生 中議生 『袖珍官員録』(明治五年二月須原屋・和泉屋)左院の項より。()を補足『袖珍官員録」(明治六年一月須原屋・和泉屋)左院の項より。

等議官

後藤元嘩(象二郎)

谷鉄臣小室信夫

横山由清 大給恒生田精 西岡邇明

後藤象二郎

谷鉄臣 伊地知正治中井弘 新田義雄 宮島吉久(誠一郎) 細川習(潤次郎)

副議長 ○○五)には大議生宮島吉久の答議(明治五年二月)に言及

副議長

北沢正誠伊地知正治 江藤新平

高崎豊麿(正風)

丸岡長俊(莞爾)鈴木實 永井尚志

21明治初期琉球台湾事件と左院

(23)

二等議官伊丹重賢西岡邇明松岡時敏細川潤次郎高崎五六

三等議官大給垣高崎豊麿生田精永井尚志宮島誠一郎

四等議官海江田信義丸岡莞爾中井弘藤沢次謙本田親雄

五等議官新田義雄北沢正誠鈴木貫一横山由清増田長雄

中金正衡長森敬斐浅井晴文津田信弘安川繁成

馬屋原彰

(2)前稿とは、安岡昭男「明治前期官辺の沖縄論策」沖縄文化研究一○’九八三/同「明治前期日清交渉史

研究』巌南堂書店一九九五(第二章)/『明治前期日中天系史研究』胡連成・訳王暁秋・宙校福建

人民出版社二○○七(国家清史編纂委員会・編訳叢刊、)。この左院答議の起草・作成関係者について、

北沢正誠・横山由清の両議官を推定し、宮島誠一郎議官を逸していたのを、本稿で補訂する。

(3)宮島誠一郎(一八三九~一九一一)は天保九年生。米沢藩右筆役宮島吉利の長男。『一一十歳で家督を継ぎ、

明治二年勝海舟の紹介により大久保利通に面会する。翌三年下院に出仕、同四年に左院大議生、儀制課長、

同五年「立国憲議」を後藤象二郎に提出、同年三等議官、八年権少内史、九年修史局(翌年、修史館)に

移る。十四年宮内省御用掛となり、「国憲編纂起原」を岩倉具視に提示する。十七年参事院議官補に任じ、

一一十六年宮内省非職。一一十九年貴族院議員。四十四年三月十四日病没。(宮島誠一郎文書目録解題ほか)

「球案起草」を含む宮島誠一郎文書は早稲田大学図書館所蔵。

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(24)

(5)王芸生『六十年来中国与日本』、邦訳『日支外交六十年史』第一巻(建設社一九一一一三)八七~八九頁

(6)前掲『明治建白書集成』第三巻一四八「上」(台湾処分之議)明治七年四月二十五日

(7)前掲『明治建白書集成』第三巻一五○「台湾策一道」明治七年四月二十五日

(8)ジプスケ(一八三七~一八八五)については、梅渓昇『お雇い外国人明治日本の脇役たち」(日経新書

一九六五)参照。明治三年十月、陸軍は仏式(海軍は英式)を劇酌し編制する方針を定めた。二度目の軍

事教官団一六名の来日は明治五年四月。ジプスケは軍制の樹立にも貢献している。明治一五年東京で没す。

港区の青山霊園に「仏人治部輔氏之墓」。

(9)『続伊藤博文秘録』(平塚篤・編春秋社一九三○)一一一一一~三六頁(仏人ポアソナードノ意見)

(皿)明治八年段階の琉球施策に関して、原口邦紘.八七五年の琉球問題11内務卿大久保利通「琉球藩処分」 由井正臣・編『幕末維新期の情報活動と政治構想宮島誠一郎研究』(梓出版社二○○四年)に所収の勝田政治「台湾出兵と宮島誠一郎」でも、宮島議官の建議内容が検討されている。

『沖縄文化研究』における関係論文として、川畑恵弓琉球処分』過程研究に関する一試論l大久保内務

卿期を中心として「覚書」風にl」別(一九九三)、同「琉球国から琉球藩へl琉球処分の版籍奉還的意味

を中心にl」、狐(二○○八)がある。

(4)『明治建白書集成』第三巻(牧原憲夫・編筑摩書房一九八六)一二六「台湾処分之議演舌書」明治七年

四月八日

明治初期琉球台湾事件と左院 23

(25)

[付記]宮島誠一郎文書閲覧に関してお世話になった早稲田大学図書館に謝意を表します。 建議の再検討l」(南島史学六五・六六合併号二○○五)参照

(、)『沖縄文化研究』、二九九○)「明治前期官辺の台湾論策」(安岡昭男)-.4「属地殖民をめぐって」/

毛利敏彦『台湾出兵」(中公新書一九九六)、ロパート・エスキルドセン「明治七年台湾出兵の植民地的

側面」『明治維新とアジア』(明治維新史学会・編吉川弘文館二○○一)。なお宮島の所感(明治七年日誌)

は前掲勝田政治論文(二六二頁)に見られる。

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