博士(生命科学) 中橋徳文 学位論文題名
Stereochemical analysis of conformationally fiexible bioactive molecules
(フ レ キ シブ ル な構 造 を 有す る 生理 活 性 分子 の 新規 立 体 解析 法 の構築 )
学位論文内容の要旨
生理活性分子のキラリテイーはその活性に極めて大きな影響を及ばす。グルタミン 酸ナトリ ウムのL体 がうま味 、D体が苦 味を呈す ることは生 体による 不斉識別 の良 い例であ る。1960年代 には、鎮静剤 サリドマイド の光学異性体が胎児に奇形を もたらすとの報告がなされ社会問題化した。以後の研究でサリドマイドの不斉と催奇 性の因果関係は疑問視されるようになったが、本薬害が薬物キラリテイーの重要性を 広く認知 させるき っかけになったことは確かである。事実、過去50年間に一方の光 学異性体を選択的に合成するための不斉合成技術が飛躍的に進歩し、現在多くの医薬 品が光学活性体として市場に投入されている。
上記のように生体は分子の不斉を厳密に認識するため、生命科学研究において、生 理活性分子の立体化学決定は避けて通れない問題である。しかしその決定法は意外に も少なく、主にBijvoet法(X線結晶構造解析)、励起子キラリティー法(円二色性)、
Mosher法(NMR)等 そ れぞ れ に適 用限界 のある手 法に限定 されてきた 。結果、 いず れの手法を用いても立体決定が達成できない場面にしばしば遭遇する。特にフレキシ ブルな構造を有する分子群は、リジッドな分子と比べ結晶化が困難な傾向にあり、発 色団、Mosher試 薬導入の 足がかりとなる官能基が存在しない場合、立体決定は多段 階の誘導化を伴った極めて繁雑なものとなる。
本研究では赤外円二色性(VCD:Vibrational Circular Dichroism)に活路を求めるこ とに し た 。VCDは 、一 般 に よく 知られ た円二色 性(CD)の赤外版 であり、 従来のCD が電子励 起遷移を 基本とし ているの に対し、VCDは振動モードのキラリティーを観 測する。従って、発色団を持たない化合物からも容易に立体化学情報を抽出できる利 点がある。また、振動遷移は分子軌道法などの理論計算によって高い信頼性でシミュ レーショ ンできる ため、理論計算の併用による非経験的な絶対配置決定も可能であ る。本論文では生物学的にも極めて重要で、フレキシブルな構造を有する@シアル酸、
◎ヘキシルイタコン酸、◎スフィンゴシンを標的に、新規立体解析法の構築を行った。
本化合物群はいずれも従来法による立体決定が困難であり、簡便かつ信頼性の高い立 体 解 析 法 の 開 発 が 望 ま れ て い る 。 以 下 に 、 各 立 体 解 析 法 の 概 要 を 示 す 。
@シアル酸
シアル酸 は動物の 体内に広 く分布す る炭素9個 の骨格からなる単糖であり、生体 内におい て酵素や ウイルスの認識部位となるなど、非常に重要な機能を発揮してい る。現在、シアル酸含有糖鎖を対象とした研究が盛んに行われているが、天然から得 られる試料はごく微量であるため、それらの研究には合成糖鎖が大きな役割を担って いる。しかし化学合成の際には、天然型として知られるQグリコシドの他に、非天然 型のログリコシドが副生するため、両者の識別が不可欠となる。一般に糖のa,ロを 識別する手法としては、iH‑NMRのカップリング定数(ゾ値)が用いられるが、シアル
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酸 は ア ノ マ ー 位 に 水 素 を 持 た な い た め 、 こ れ を 適 用 す る こ と が で き な い 。 実 際 に い く つ か のa, ロ モ デ ル 化 合 物 を 合 成 しVCD測 定を 行 っ た とこ ろ 、Q, ロ 間 に お い てVCDス ベ ク ト ル 全 体 が 顕 著 に 異 な る と い う結 果 が 得ら れ た 。 特に 、 カ ルボ ニ ル のC=O伸 縮 振 動 に 由 来 す るVCDが 、d,8間 で 大 き く 異 な る こ と を 見 出 し た 。 こ の 特 徴 は 単 糖 及び 二 糖 のモ デ ル 化合 物 双 方で 観 察 され た こ とか ら 、C〓0伸 縮 振動 に基づくVCDのパターンがa,ロ識別の指標となることが示された。
◎ヘキシルイタコン酸
ヘ キ シ ルイ タ コ ン酸 は 、 天然 よ り 両 エナ ン チオマ ーの単離 が報告 されてい るユニ ー クな化合物である。生理活性も興味深く、(十)体はレタスの根の成長促進効果、(―)体 はp53‑HDM2相 互 作 用 の 阻 害 活 性 を 有 す る 。 し か し そ の 絶 対 立 体 化 学 に 関 し て は 、 強 度 の 極 め て 弱 いCDコ ッ ト ン 効 果 を も と に 決 定 し た 報 告 例 が 唯 一 あ る の み で 、信 頼に足る絶対配置の決定が行われていない。
ヘ キ シ ルイ タ コ ン酸 を ラ セミ 体 と し て化 学 合成し 、光学分 割によ り両エナ ンチオ マ ー を調 製 し た。 本 化 合物 は カ ルボ ン 酸 に 特有 の会 合体を形 成し理 論計算が 繁雑に なる と 予 想 さ れ た た め 、 始 め に メ チ ル エ ス テ ル 体 のVCD解 析 を 行っ た 。 結 果、 計 算 スベ ク 卜ル は 、 完全 な 一 致で は な いも の の 実 測ス ベク トルと定 性的な 一致を示 した。 ここ で 著者 は 、 不完 全 な 一致 が 「 コン フ ォ メ ーシ ョン の多さ」 に起因 するもの と考え 、次 に 環 化 誘 導 体 のVCD解 析 を 行 っ た 。 環 状 構 造 に す るこ と で 分子 は よ ル リジ ッ ド にな り 、配 座 数 の大 幅 な 減少 が 期 待で き る 。 予想 通り 、環化体 の両ス ベクトル は完全 な一 致を示し、ヘキシルイタコン酸の絶対配置を(IO ‑(一),(勘・(十)と決定することに成功し た 。本 結 果 は上 記 報 告と 逆 の 立体 配 置 を 与え るも のであり 、これ により本 化合物 の絶 対 配置 を 初 めて 明 確 にで き た と同 時 に 、 ここ で用 いた方法 論は、 近年単離 された 類似 化合物群の立体解析にも有用と考えられる。
◎スフィンゴシン
ス フ ィ ンゴ 脂 質 は、 ス フ ィン ゴ イ ド 塩基 を 共通骨 格に、ア ミド結 合型脂肪 鎖、極 性 頭 部基 を 有 する 脂 質 の総 称 で あり 、 細 胞 膜の 主要 な構成成 分とし て幅広く 知られ てい る 。し か し 近年 は 、 膜の 構 成 成分 と し て より 生理 活性分子 として の注目度 が高い 。代 表 的な ス フ ィン ゴ イ ド塩 基 で ある ス フ ィ ンゴ シ ン のプ 口 テ イン キ ナ ーゼC阻害活 性、
ス フィ ン ゴ シン‑1‑リ ン 酸 のシ グ ナ ル 伝達 関 与 等が 好 例 であ り 、 疾患 と の関 連も期 待 さ れる だ け に精 力 的 な研 究 が なさ れ て い る。 本脂 質群は共 通骨格 部位にニ つの不 斉中 心 を有 す る が、 相 対 配置 な ら びに 絶 対 配 置決 定の ための簡 便な手 法が無い ため、 立体 化学と生理活性の相関研究は大きく立ち遅れている。
は じ め に 、 全 ス フ イ ン ゴ 脂 質 の 共 通 骨 格 で あ る スフ イ ン ゴシ ン に 関 してVCDに よ る 立 体 識 別 が 可 能か 検 討 した 。4種の 全 立 体異 性 体 を合 成 しVCD測 定 を行 っ た 結果 、 二 重結 合 由 来の 特 性 吸収 、 及 び指 紋 領 域 にお いて 極めて特 徴的な スベクト ルが観 察さ れた。 これら ,はニつ の不斉中 心の立 体化学を 鋭敏に 反映して おり、 スフィン ゴシン立 体 識 別 の マ ー カ ー と し て 利 用 で き る こ と が 明 ら か と なっ た 。 次にVCDの感 度 向 上を 指 向し た 環 化反 応 の 検討 を 行 った 。 結 果 、ス フィ ンゴシン は室温 、中性の 穏和な 条件 下 グル タ ル アル デ ヒ ドと 反 応 し、 リ ジ ッ ドな 三環 性化合物 へと変 換される ことが 明ら か に な っ た 。 環 化 体 のVCDは 強 度 が 増 大 し 、 理 論 計算 と の 良い 一 致 も 見ら れ た 。さ ら に本 研 究 では 、 上 記環 化 反 応を ヒ ン ト に、 グル タルアル デヒド 構造を固 定化し たレ ジ ン の 開 発 を 行 った 。 固 体IR解 析に よ り 本レ ジ ン はス フ ィ ンゴ シ ン を 捕捉 す る こと が 明ら か と なり 、 生 体内 に 微 量に し か 存 在し ない スフィン ゴシン を濃縮、 分析す るた めのツールとしての用途が今後期待できるものと考えている。
以 上本 論 文 は、 従 来 法に よ る 立体 決定が 困難な 生理活性 分子群 に対して 新たな 立体 解 析 法 を提 供 す るも の で あり 、 今 後当該 分野に おける立 体化学 研究を加 速するも のと 考 え ら れる 。
学位論文審査の要旨 主査 副査
副査 副査
教授 教授 教授 特任教授
門出 出村 西村 五十嵐
学 位 論 文 題 名
健次 誠 紳一郎
靖之(先端生命科学研究院)
Stereochemical analysis of conformationally fiexible bioactive molecules
( フ レ キ シ ブ ル な 構 造 を 有 す る 生 理 活 性 分 子 の 新 規 立 体 解 析 法 の 構 築 )
分 子 の 立 体 構 造 は 生 理 活 性 と 密 接 に 関 連 す る た め 、 生 理 活 性 分 子 の 立 体 決 定 は 生 命 科 学 研 究 に お い て 必 須 の 命 題 で あ る 。 し か し 従 来 の 分 析 法 に は 制 約 が 多 く 、 立 体 決 定 不 能 な こ と も し ば し ば で あ っ た 。 特 に フ レ キ シ ブ ル な 構 造 を 有 す る 分 子 は 結 晶 化 に 難 が あ りX線 解 析 の 適 用 外 と な る ば か り か 、 円 二 色 性 (CD)、NMR法 を 指 向 し た 誘 導 化 が 不 能 な 場 合 、 立 体 化 学 決 定 は 極 め て 困 難 な も の と な っ て い た 。 本 学 位 論 文 は 「 赤 外 円 二 色 性(VCD)に よ る フ レ キ シ ブ ル な 分 子 の 立 体 解 析 」 に 主 眼 を 置 い て お り 、 新 規 手 法 VCDの 適 用 可 能 性 を 詳 細 に 検 討 し た 結 果 が ま と め ら れ て い る 。 第1章General Introductionで は 立 体 化 学 の 重 要 性 及 びVCDの 理 論 的 、 実 験 的 側 面 が 端 的 に 論 述 さ れ て い る 。
第2章 で 著 者 は 、 シ ア ル 酸 のa, ロ 識 別 と い う 困 難 な 課 題 に 挑 戦 し て い る 。 一 般 に 糖 のa,p識 別 に はiH‑NMRの カ ッ プ リ ン グ 定 数 ( ゾ 値 ) が 用 い ら れ る が 、 シ ア ル 酸 の ア ノ マ ー 位 に は 水 素 が 無 い た め 、 こ れ を 適 用 す る こ と が で き な い 。 著 者 は シ ア ル 酸 のa, ロ モ デ ル 化 合 物 を 合 成 しVCD測 定 を 行 っ た 。 結 果 、C:O伸 縮 振 動 由 来 のVCDに よ り 容 易 にa,D識 別 が 可 能 な こ と を 明 ら か に し た 。
第3章 で は へ キ シ ル イ タ コ ン 酸 と 呼 ぱ れ る 天 然 有 機 化 合 物 の 絶 対 配 置 決 定 に つ い て 論 述 さ れ て い る 。 本 化 合 物 は 、 天 然 よ り 両 工 ナ ン チ オ マ ー が 単 離 さ れ て お り 、 ( 十 ) 体 は レ タ ス の 根 の 成 長 促 進 効 果 、 ( ― ) 体 は p53‑HDM2相 互 作 用 の 阻 害 活 性 と い う ユ 二 一 ク な 生 理 活 性 が 報 告 さ れ て い る 。 し か し そ の 絶 対 立 体 化 学 に 関 し て は 、 強 度 の 極 め て 弱 いCDコ ッ ト ン 効 果 を も と に 決 定 し た 報 告 ( 本 研 究 に よ り 誤 り で あ る こ と が 判 明 ) が 唯 一 あ る の み で 、 信 頼 に 足 る 絶 対 配 置 の 決 定 は 行 わ れ て い な か っ た 。 著 者 は こ こ でVCDの 理 論 計 算 に よ る ア プ 口 ー チ を 試 み て い る 。 始 め に 、 カ ル ボ ン 酸 の 会 合 体 形 成 を 阻 止 す る た め 、 メ チ ル ェ ス テ ル 誘 導 体 に 関 し
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て 実 測 及 び 理 論 ス ベ ク ト ル の 比 較 を行 った 。結 果、 完全 な一 致で はな い も の の 定 性 的 な 一 致 が 見 ら れ た 。 ここ で著 者は 、不 完全 な一 致が 「コ ン フォメーションの多さ(フレキシビリテイー)」に起因するものと考え、環 化 誘 導 体 のVCD解 析 を 行 った 。 環 状 構 造 に す る こ と で 分 子 は よ ル リジ ッ ド に な り 、 配 座 数 の 大 幅 な 減 少 が 期待 でき る。 予想 通り 、環 化体 の両 ス ベク卜ルは完全な一致を示し、ヘキシルイタコン酸の絶対配置を(切・(−),
(み.(十)と明確に決定することに成功した。本結果は上記CDによる誤っ た 絶 対 配 置 の 帰 属 を 訂 正 す る も の で大 変意 義深 い。 同時 に、 本方 法論 は 近 年 単 離 さ れ た 類 似 化 合 物 群 の 立 体解 析に も有 用と 考え られ 、今 後の 構 造活性相関研究に大きく貢献するものと考えられる。
第4章 で は ス フ イ ン ゴ 脂質 の 骨 格 部 位 を な す ス フ ィ ン ゴ シ ン の 新規 立 体 解 析 法 開 発 に 取 り 組 ん で い る 。 本脂 質は ニつ の不 斉中 心を 有す るが 、 相 対 配 置 、 絶 対 配 置 決 定 の た め の 簡便 な手 法が 無い ため 、立 体化 学と 生 理 活 性 の 相 関 研 究 は 大 き く 立 ち 遅 れ て い た 。 は じ め に著 者 は 、4種の 全 立 体 異 性体 を合 成しVCD測 定を 行っ た。 結果 、二 重結 合由 来の 特性 吸収 、 及 び 指 紋 領 域 に お い て 極 め て 特 徴 的な スベ クト ルが 観察 され た。 これ ら は ニ つ の 不 斉 中 心 の 立 体 化 学 を 鋭 敏に 反映 して おり 、立 体識 別の 実用 的 マ ー カ ー と し て 利 用 で き る こ と が 明ら かと なっ た。 本手 法は 誘導 化な し に 全 異 性 体 を 識 別 で き る 点 で 、 従 来法 にな い利 点を 有す るも ので ある 。 し か し 著 者 はVCD強 度 の 弱さ を 指 摘 し 、 感 度 向 上 を 指 向 し た 環 化 反応 の 検 討 も 行 っ て い る 。 ス フ ィ ン ゴ シ ンは 室温 、中 性の 穏和 な条 件下 グル タ ル ア ル デ ヒ ド と 反 応 し 、 一 段 階 で りジ ッド な三 環性 化合 物へ と変 換さ れ る こ と が 明 ら か に な っ た 。 環 化 体 のVCDは 強 度 が 劇 的 に 増 大 し 、 理論 計 算 と の 良 い 一 致 も 見 ら れ た 。 さ ら に本 環化 反応 をヒ ント に、 グル タル ア ル デ ヒ ド 構 造 を 固 定 化 し た レ ジ ン の開 発を 行っ てい る。 固体IR解 析に よ り 本 レ ジ ン は ス フ ィ ン ゴ シ ン を 捕 捉す るこ とが 明ら かと なり 、生 体内 に 微 量 に し か 存 在 し な い ス フ ィ ン ゴ シン を濃 縮、 分析 する ため のツ ール と しての用途が今後期待できる。
本 論 文 は 、 従 来 法 に よ る 立 体 決 定が 困難 な生 理活 性分 子群 に対 して 新 た な 立 体 解 析 法 を 提 供 す る も の で あり 、生 理活 性分 子の 立体 化学 研究 に 対 し て 貢 献 す る と こ ろ 大 な る も の があ る。 よっ て著 者は 、北 海道 大学 博 士 ( 生 命 科 学 ) の 学 位 を 授 与 さ れ る 資 格 が あ る も の と 認 め る 。