高
野
山
鎌
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建
築
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構
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ま え が き 高 野 山 上 に は、 周 知 の と お り 鎌 倉 期 造 営 の 建 築 遺 構 と し て 金 剛 三 昧 院 多 宝 塔 ・ 経 蔵 金 剛 峯 寺 不 動 堂 の 三 棟 が み ら れ る。 こ れ ら に つ い て は、 在 来 多 く の 叙 述 が 公 に さ れ た が、 管 見 の 及 ぶ と こ ろ 殆 ど は 興 味 本 位 に な る 建 築 細 部 の 皮 相 な 解 説 か、 伝 説 的 通 説 の 繰 返 し に 過 ぎ な か っ た よ う に み う け ら れ る。 筆 者 は い ま、 こ れ ら 遺 構 に つ い て 史 学 的 研 究 方 法 と、 建 築 様 式 論 の 考 察 を 総 合 し た 多 面 的 な 視 角 か ら 再 検 討 を 試 み た い と 思 う。 忌 悼 な き 江 湖 の 御 批 判 を ま つ。 一 金 剛 三 昧 院 遺 構 の 史 的 展 望 A 源 氏 と 高 野 聖 源 氏 と 高 野 山 と の 関 係 は、 早 く 鳥 羽 上 皇 の 覚 鍵 へ の 信 頼 と 宗 教 的 御 帰 依 に も と つ い て、 上 皇 の 篤 い 信 任 を え て い た 源 氏 (1) の 統 領 源 為 義 が 覚 鍵 へ の 帰 依 に は じ ま る。 し か し こ の 覚 鍵 と 為 義 と の つ な が り は、 保 延 六 年 ( 二 四 ○ ) 十 二 月 の、 覚 鍵 が 高 野 を 追 わ れ て 去 っ た こ と と、 そ れ 以 後 高 野 山 学 侶 方 が 覚 鍵 に 対 す る 反 感 か ら か、 源 氏 に も 快 し と し な か っ た こ と、 さ ら に 保 元 の 乱 ( 二 五 六 ) に よ る 為 義 一 派 の 壊 滅、 平 治 の 乱 ( 一 一 五 九 ) に よ る 源 氏 が 京 よ り の 完 全 敗 退、 そ れ に と っ て 代 っ た 平 氏 の 中 央 進 出 と い う こ と が、 い う ま で も な く 後 白 河 院 最 高 唯 一 の 忠 臣 藤 原 通 憲 ( 信 西 入 道 ) の 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論密 教 文 化、 謀 計 が 背 後 に あ っ た と は い え、 高 野 山 と 源 氏 を 完 全 に 断 絶 さ せ て し ま っ た。 そ れ よ り 先、 久 安 五 年 ( 二 四 九 ) 五 月 十 二 日 の 天 火 に よ る 大 塔 の 炎 上、 そ の 折 の 累 焼 に よ る 金 堂 ・ 潅 頂 堂 の 罹 災 は 高 野 一 山 を 震 骸 せ し め、 同 月 二 十 八 日 満 寺 の 梱 請 で 先 ず 大 塔 再 建 の 宣 旨 を 受 け、 七 月 九 日 始 工 と な っ た。 奉 行 は 平 忠 盛、 こ れ を 助 け て 時 の 太 宰 大 弐 平 清 盛 と い う 役 割 が み ら れ る (﹁ 高 野 春 秋 ﹄ )。 鳥 羽 法 皇 の 院 政 下、 し か も 源 為 義 未 だ 健 在 の と き、 源 氏 が 高 野 山 に 迎 え ら れ て い な い の は、 前 述 の 覚 鍵 の 問 題 に 根 拠 の い く ぶ ん か が あ っ た と は い え、 伊 勢 平 氏 の 忠 盛 が、 白 河 院 落 胤 の 清 盛 を 立 て て す る 中 央 進 出 野 望 の 手 懸 り の 一 つ と し て、 財 力 の 北 具 凧 を 要 す る 大 塔 再 建 を も っ て し た の で あ る。 忠 盛 は 仁 平 三 年 ( 二 五 三 ) 卒 し、 以 後 清 盛 に よ っ て 大 塔 再 建 は 宰 領 さ れ、 保 元 元 年 ( 二 五 六 ) 四 月 落 慶 供 養 を 済 ま せ た。 平 氏 が 一 ノ 谷 で 敗 れ、 屋 島 に 遁 れ た 元 暦 元 年 ( 一 一 八 四 ) 五 月、 高 野 山 は 寺 領 阿 且 川 庄 が 京 都 法 勝 寺 の 末 寺 寂 楽 寺 に 押 領 さ れ た こ と を 源 頼 朝 に 訴 え、 そ の 七 月 頼 朝 は 寂 楽 寺 の 横 暴 を 認 め て そ の 寺 領 安 堵 の 文 書 を 下 し て お り、 さ ら に 文 治 二 年 ( 二 八 六 ) 五 月、 足 利 義 兼 入 道 鍵 阿 の 強 請 に よ っ て、 後 白 河 法 皇 の 院 庁 宣 で 備 後 太 田 庄 を 大 塔 領 に 寄 せ ら れ た あ と、 七 月 か ら 当 年 一 杯 に か け て 頼 朝 は こ の 庄 の 安 堵 に 努 力 し て い る (﹁ 高 野 春 秋 ﹄ )。 即 ち さ き の 高 野 山 と 源 氏 と の 断 絶 は、 武 力 で 海 内 を 制 し た 頼 朝 の 威 光 に 対 す る 高 野 山 の 態 度 か ら 再 開 を み た の で あ っ た。 文 治 五 年 ( 二 八 九 ) に、 突 然 入 道 し た 源 氏 の 武 将 佐 々 木 高 綱 の 蓮 華 谷 へ の 登 山 結 庵 が 次 に 注 目 さ れ ね ば な ら な い で あ ろ う。 高 綱 は、 も と も と 道 心 の 篤 い 人 物 で あ っ た が、 ま た 頼 朝 (2) の 信 頼 篤 い 忠 臣 で も あ っ た。 そ の 高 綱 が、 突 然 頼 朝 の 下 を 離 れ 高 野 の 聖 群 に 投 じ る に 至 っ た 原 因 は 一 体 何 に あ っ た の で あ ろ う か。 俗 説 は 彼 の 功 績 に 対 し て、 頼 朝 の 与 え た 恩 賞 が 軽 か っ た の に 憤 慨 し て 頼 朝 の 下 を 離 れ た と も い う が、 高 綱 の 人 柄 や 彼 の 忠 勤 ぶ り を 知 っ て い る 者 に と っ て は こ の よ う な 話 は 信 ず る に 足 ら な い。 む し ろ こ の よ う な 俗 説 が 流 布 す る 原 因 こ そ、 彼 が 頼 朝 の 下 を 離 れ ね ば な ら な い 秘 さ れ た 必 然 性 が 潜 む と 察 し な け れ ば な ら な い。 文 治 五 年 ( 二 八 九 ) 六 月 四 日、 頼 朝 か ら 長 期 に わ た る 周 防
で の 忠 勤 と 精 励 を ほ め ら れ て 以 後、 ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ で は 高 綱 が 同 月 九 日 の 鶴 岡 八 幡 塔 供 養 に 頼 朝 参 向 の 供 に 列 し て い る の を 最 後 と し て、 頼 朝 の 傍 か ら 永 久 に 彼 の 姿 が 消 え て い る。 殊 に、 七 月 十 九 日 に、 頼 朝 が 全 主 力 軍 を 挙 げ て 出 動 し た 奥 州 征 伐 に、 彼 が 参 加 し て い な い の は 既 に 頼 朝 の 傍 に 彼 が い な か っ た こ と を 裏 付 け る も の で、 即 ち 高 綱 は 六 月 四 日 か ら 七 月 十 九 日 の 聞 に 頼 朝 の 元 を 去 り 出 家 入 道 し て い る。 こ の 高 綱 突 然 出 家 の 原 因 は、 彼 の ひ た む き な 武 人 と し て の 性 格 を、 頼 朝 側 近 中 の 野 心 家 が 巧 み に 利 用 し た も の で、 そ う い う 者 達 が 彼 を こ の よ う な 追 詰 め た 立 場 に 陥 い れ た と し か 考 え よ う が な い。 つ ま り、 周 防 か ら 帰 還 し た 彼 を 待 っ て い た の は、 頼 朝 側 近 の 野 望 家 の す る 彼 排 撃 の 企 て な の で あ っ た。 高 綱 が 鎌 倉 か ら 向 っ た の は、 周 防 で 協 力 し た 重 源 の 師 明 遍 を 頼 っ て の 高 野 聖 の 群 で あ る。 法 名 を 了 智 と し た 高 綱 は、 明 遍 の 元 で 高 野 聖 と し て の 修 行 に 入 っ て い る が、 源 家 に 仕 え て い た 頃 の 所 領 は や は り 保 っ て い た ら し く、 そ の 資 力 で 蓮 花 三 昧 院 を 自 ら 建 て て 住 坊 と し 行 脚 中 出 雲 富 田 の 光 明 寺 で 没 し た と い う。 後 に 高 綱 の 甥 信 綱 も 入 道 し て 虚 仮 阿 弥 陀 仏 と 称 し、 仁 治 元 年 ( 二 西 ○ ) 蓮 花 三 昧 院 を 明 遍 に 寄 進 し て い る ( ﹃ 金 剛 三 昧 院 文 書 ﹄ )。 次 い で 源 家 の 家 臣 で は 熊 谷 直 実 の 入 道 ( 蓮 生 ) が 著 名 な 事 実 だ が、 彼 は 高 野 聖 の 系 列 に は 入 ら な か っ た ら し い の で 本 稿 (3) で は ふ れ る 要 が な い と 思 う。 次 に は、 小 考 に 深 い 関 係 の 実 朝 の 忠 臣 葛 山 五 郎 景 倫 ( 入 道 願 性 ) と、 源 家 々 臣 安 達 盛 長 の 子 秋 田 城 介 景 盛 ( 入 道 覚 智 ) が 登 山 す る の で あ る が、 そ れ に つ い て は 次 項 で 述 べ る。 B 禅 定 院 ・ 金 剛 三 昧 院 の 創 立 景 盛 と い う と、 早 く 正 治 元 年 七 月 に、 妾 女 を 頼 家 に と ら れ そ う に な り、 さ ら に 討 た れ よ う と し た の を 頼 朝 未 亡 人 政 子 の は か ら い に よ っ て 救 わ れ た 二 事 が あ り、 後、 承 久 元 年 ( 一 二 三 九 ) 正 月 二 十 七 日、 源 家 の 三 代 将 軍 実 朝 が 鶴 岡 八 幡 宮 に 社 参 の 折、 実 朝 乗 用 の 車 に 続 く 随 兵 二 列 の う ち に 黒 糸 威 の 甲 冑 に 身 を か た め た 景 盛 が 従 っ て い る。 こ の 社 参 が 済 ん で、 実 朝 は 帰 途 に つ こ う と し た と き、 石 階 の 際 に 潜 ん で い た 公 暁 の 兇 匁 に 倒 さ れ た。 翌 二 十 八 日、 実 朝 夫 人 以 下 家 臣 百 余 人 が、 荘 厳 房 行 勇 を 戒 師 と し て 入 道 す る の で あ る が、 こ の う ち に 景 盛 が 含 ま れ て い る (﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ )。 入 道 し た 景 盛 は、 法 名 を 大 蓮 房 覚 智 と 称 し、 当 時 武 士 が よ 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論
密 教 文 化 く 行 っ た よ う に、 ほ ん ら い の 僧 に な り 切 っ て し ま 5 出 家 で は な く 単 な る 入 道 で あ る か ら、 以 後 も 彼 は 各 地 の 地 頭 や 預 所 に 任 じ ら れ て い た。 入 道 覚 智 の 伝 で 最 も 一 般 に い わ れ る の は、 彼 が 高 野 山 に 登 り 小 田 原 谷 に 一 草 庵 を 結 ん で そ れ を 禅 定 院 と 呼 ん だ と い う。 こ れ は ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ 金 剛 三 昧 院 の 条 の 中 か ら 適 当 に 按 配 し て 作 っ た 伝 で、 実 は ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ を 一 見 す れ ば わ か る よ う に、 こ の 書 で は 禅 定 院 の 根 本 的 な 改 造 と 拡 張 さ れ た も の が 金 剛 三 昧 院 で あ る と 確 認 で き る も の の、 両 院 の 願 主 ・ 開 基 ・ 施 主 に っ い て、 さ ら に 甚 だ し い こ と に は 両 院 創 立 の 目 的 か ら 院 号 に 至 る ま で 錯 綜 し て い て、 こ の 記 文 の み で は 全 く 両 院 創 立 の 経 緯 は 釈 然 と し な い の で あ る。 と も か く、 最 も 一 般 に 流 布 し て い る 通 説、 即 ち 覚 智 が 登 山 結 庵 し て こ の 禅 定 院 を 創 立 し た と い う こ と で は、 そ の 頃 の 客 観 状 勢 が 許 さ な い。 禅 定 院 や 金 剛 三 昧 院 の 創 立 の こ と に 関 し て、 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ が 極 め て 釈 然 と し な い 記 述 を し て い る と い う こ と は い ま い っ た と お り で あ る が、 そ の う ち に ま た 奇 妙 な 記 載 が あ る。 そ れ は、 ﹁ 帝 王 編 年 記 に は、 建 暦 元 年 鎌 倉 二 品 禅 尼 為 故 右 大 将 高 野 山 内 建 干 金 剛 三 昧 院 云 々 ﹂ と い う も の で、 こ れ を ﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ に み る と、 そ れ の 巻 廿 四、 文 暦 元 年 ( 一 二 三 四 ) の 条 に、 今 年、 鎌 倉 二 品 禅 尼 頼 朝 卿 後 室、 頼 家、 実 朝 母 儀、 為 故 右 大 臣 高 野 山 内 建 立 金 剛 三 昧 院、 奉 行 城 入 道 大 蓮 盛 長 々 子、 俗 名 景 盛、 本 尊 正 観 世 音、 御 身 被 籠 実 朝 公 遺 骨 云 々、 と あ り、 ﹁ 故 右 大 臣 ﹂ を 実 朝 と す る 傍 註 が 施 さ れ て い る。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ の 転 載 と、 ﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ そ の も の の 記 事 と、 い ず れ に 合 理 性 が あ る の か を 考 え て み た い。 両 記 共 に 当 然 禅 定 院 で な け れ ば な ら な い 院 号 を、 金 剛 三 昧 院 に 統 一 し て い る の な ど は、 両 院 創 立 の 伝 に、 覚 智 の 人 柄 か ら し て 意 外 に 早 く 彼 自 身 で、 彼 を 有 利 な 立 場 に す る 工 作 の 手 を い れ て い た か も 知 れ な い こ と を 示 す よ う で あ る。 ( と い う の は、 覚 智 が 創 営 に 関 係 し た の は 金 剛 三 昧 院 で、 禅 定 院 の 創 営 に は 無 関 係 の は ず で あ る。 こ れ を、 禅 定 院 の 創 営 に も 関 係 あ る よ う に 第 三 者 に 見 せ る た め の 工 作 と 思 う ) ま た ﹁ 右 大 将 ﹂ と ﹁ 右 大 臣 ﹂ の 違 い は、 右 大 将 と い え ば 明 ら か に 頼 朝 で あ り、 右 大 臣 で あ れ ば 傍 註 の と お り 実 朝 で な く て は な ら な い。 こ の 場 合 真 実 は ど ち ら の 人 物 を 指 し て い る の か と い う 問 題 は、 創
-4-立 を 建 暦 元 年 ( 二 三 二 ) と す る の と、 文 暦 元 年 ( 一 二 三 四 ) と す る の と の 違 い と か ら み 合 っ て、 こ の 両 記 の 記 載 を 正 す ポ イ ン ト に な る で あ ろ う。 建 暦 で は、 正 治 元 年 ( 一 二 九 九 ) 正 月 の 頼 朝 の 嘉 か ら 十 二 年 を 経 て は い る が、 後 述 の 理 由 か ら こ れ は 不 都 合 で な く、 ま た 二 品 禅 尼 ( 政 子 ) が こ の 院 創 立 の 本 願 に な る 要 件 は 充 分 備 っ て い る。 し か し 文 暦 元 年 ( 一 二 二二 四 ) で は、 そ れ ま で の 嘉 禄 元 年 ( 一 二 二 五 ) に 檀 主 で な け れ ば な ら な い 政 子 が 既 に 没 し て い る の で 全 く お 話 に な ら な い。 結 局 こ れ は、 ﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ が 採 材 に 当 っ て 建 暦 を 文 暦 と 誤 写 し、 こ れ を 文 暦 の 項 に 入 れ て し ま っ た の で あ る。 し か も 文 暦 と し た も の だ か ら、 右 大 将 ( 頼 朝 ) を 承 久 に 暗 殺 さ れ た 右 大 臣 に 改 め て い る。 そ の 点 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ の 編 者 は 賢 明 で あ っ た。 ﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ か ら ひ く に 当 っ て、 建 暦 ・ 文 暦、 右 大 将 ・ 右 大 臣 の 誤 り を 観 破 し て ほ ん ら い に 復 原 し た の で あ る。 つ ま る と こ ろ は 政 子 が、 建 暦 元 年 か そ の 直 前 頃 に、 頼 朝 の 菩 提 所 を 高 野 山 上 に 造 立 す る こ と を 誰 れ か に 託 し た と い う こ と に な ら ざ る を え な い が、 当 時 の 鎌 倉 の 状 況 や 政 子 の 信 仰 か ら す る と、 葉 上 房 栄 西 か 荘 厳 房 行 勇 で し か な い の で あ る。 行 勇 は 早 く か ら 鶴 岡 入 幡 の 供 僧 に な っ て い た が、 頼 朝 に 見 出 さ れ て 以 来 源 家 一 族、 幕 府 の 篤 い 帰 依 を 受 け、 幕 府、 源 家 に 常 に 出 入 り す る よ う に な っ て い た。 正 治 元 年 ( 二 九 九 ) 一 月 十 三 日 に 頼 朝 が 嘉 じ、 四 月 二 十 三 日 の 百 ケ 日 忌 の 折 の 導 師 は 行 勇 で あ っ た が、 九 月 二 十 六 日、 か ね て か ら 奈 良 で 造 ら れ て い た 不 動 明 王 像 一 体 が、 幕 府 で 供 養 さ れ た と き の 導 師 は 栄 西 で あ っ た。 こ れ が 史 上 で み る 栄 西 の 鎌 倉 で の 初 登 揚 で あ る。 こ こ で い ま 詳 論 す る こ と を 省 く が、 栄 西 を 鎌 倉 に 送 っ た の は 醍 醐 寺 座 主 勝 賢 で あ る。 栄 西 は、 奈 良 で 慶 派 仏 師 の 手 で 造 ら れ て い た 不 動 明 王 像 を 携 え て、 勝 賢 の 源 家 へ の 紹 介 の も と に 東 下 し た の で あ る。 や が て 翌 正 治 二 年 ( 二 三 二 ○ ) 正 月 の 頼 朝 一 周 忌 の 法 会 は、 源 家 遺 族 ・ 家 臣 二 同、 北 条 氏 等 幕 府 要 人 が 参 列 し、 栄 西 が 導 師 を つ と め た。 行 勇 は 頼 朝、 栄 西 は 頼 朝 な き 後 の 幕 府 と 北 条 氏 と い う の が 北 具 鳳 で あ っ た。 鎌 倉 で は こ の よ う に 栄 西 よ り 先 輩 格 で あ る 行 勇 が、 一 転 し て 栄 西 の 資 と な っ た の は 正 治 二 年 閏 二 月 の、 政 子 が 亀 谷 の 地 に 草 堂 程 度 の も の で は あ っ た が、 寿 福 寺 を 創 立 し て 栄 西 に 寄 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論
密 教 文 化 せ た 頃 で あ る と み ら れ て い る。 こ れ は、 政 治 的 な 策 略 を 嫌 っ た 行 勇 が、 北 条 氏 を 背 景 に 鎌 倉 で の 急 速 な 地 位 の 確 保 に 成 功 し つ つ あ る 栄 西 に 座 を 譲 っ た 姿 で あ っ た と 思 う。 政 子 は 寿 福 寺 を 栄 西 に 与 え た。 し か し こ れ は 時 の な り ゆ き で あ っ て、 少 く と も 亡 夫 頼 朝 に 関 し た こ と は、 栄 西 よ り も 行 勇 に こ そ 託 す る 心 裡 が あ っ て 当 然 で あ る。 そ れ に、 高 野 山 は 当 時 既 に 死 者 鎮 霊 の 場 と し て 霊 山 視 さ れ て い た。 政 子 は 行 勇 に こ そ、 頼 朝 の 菩 提 所 を 高 野 山 上 に 創 立 す る こ と を 委 託 す る 機 会 を 待 っ て い た。 東 大 寺 大 勧 進 と し て 同 寺 の 七 重 東 塔 再 建 を 宰 領 し て い た 栄 西 は、 承 元 三 年 ( 一 二 ○ 九 ) の 後 半 に、 勅 命 と い う こ と で 京 法 勝 寺 九 重 塔 の 再 建 宰 領 の た め 法 勝 寺 に 転 じ た ( こ れ は 任 務 が 転 じ た の で あ る。 ま た 建 仁 寺 住 持 も そ の ま ま で あ る )。 栄 西 は そ の あ と へ、 鎌 倉 に い る 資 の 行 勇 を 大 勧 進 の 留 守 居 役 的 立 場 で 配 し た の で あ る。 行 勇 は こ れ 以 後、 屡 々 鎌 倉 か ら 東 大 寺 へ 赴 い た よ う だ が、 行 勇 が 鎌 倉 に い る と き の 記 録 は ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ に 散 見 す る け れ ど も、 彼 が 関 西 に 上 っ た と き の 記 録 は ﹃ 五 旦 妻 鏡 ﹄ に な く、 東 大 寺 に も 詳 し く と ど め て い な い。 と も か く、 建 暦 元 年 ( 三 二 ) の い つ か、 彼 が 関 西 に 上 っ た 折 高 野 に 登 山 し て、 政 子 か ら 委 託 さ れ て い る 政 子 宿 願 の 一 草 庵 を 小 田 原 谷 に 設 け、 こ れ を 禅 定 院 と 名 付 け た の で あ る。 承 久 元 年 ( 一 二 一 九 ) 正 月 二 十 七 目、 実 朝 が 兇 匁 に 倒 れ た 翌 日、 即 ち 二 十 入 日 行 勇 は 実 朝 未 亡 人 以 下 家 臣 多 数 の 戒 師 と な っ て 入 道 さ せ、 そ の 後 暫 く し て、 お そ ら く 今 度 彼 が 戒 師 と な っ て 入 道 さ せ た 源 家 々 臣 筑 後 入 道 西 入 ( 本 名 不 詳 ) に 実 朝 の 遺 骨 を も た. せ て 鎌 倉 を 発 し 高 野 禅 定 院 に 向 っ て い る ( こ の と き、 覚 智 は 同 伴 し て い な い と 思 う。 そ れ は、 覚 智 に は 同 伴 の 必 要 が な い し、 後 述 の 西 入 が 由 良 湊 に 景 倫 を 訪 れ た と き 覚 智 の 同 行 が 認 め ら れ な い 故 で あ る )。 ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ に 見 る 限 り に お い て は、 そ の 後 同 三 年 ( 三 二 一 ) 正 月 の、 鎌 倉 法 華 堂 に お け る 政 子 の 沙 汰 に よ る 実 朝 三 回 忌 に 行 勇 は 導 師 を 勤 め て お り、 そ れ ま で の 約 二 年 間 彼 は 鎌 倉 の 地 を 踏 ま な か っ た よ う で あ る。 ま た こ れ は、 後 述 で わ か る よ う に、 彼 の 足 を 鎌 倉 に 向 わ せ る 意 義 も 理 由 も そ の 間 に 生 じ て い な い。 実 朝 が 倒 れ る 前 後 の 行 勇 の 心 情 を の ぞ い て み よ う。 頼 朝 の 薙 後 執 権 職 の 北 条 氏 の 野 望 は 急 速 に 積 極 化 し、 行 勇 に し て み れ ば 決 し て 快 い も の で は な く、 源 家 の 忠 臣 は 続 々 と 北 条 氏 の
魔 手 に か か っ て 失 わ れ た。 師 の 栄 西 は 建 保 三 年 ( 三 一 五 ) 寂 し、 彼 は 寿 福 寺 の 住 持 と 同 時 に 東 大 寺 大 勧 進 を も 正 式 に つ い で い た が、 い ま ま た 三 代 将 軍 実 朝 の 倒 さ れ た の を 同 じ 鎌 倉 の 地 で あ い、 彼 に は 源 家 の 挽 歌 が 耳 に 聞 こ え た の で あ ろ う。 彼 に は 鎌 倉 の 地 に 不 快 を 感 じ て い た の で あ る。 話 は 僅 か 湖 る が、 実 朝 は 早 く か ら 北 条 氏 の 陰 謀 を 感 知 し て い た。 こ れ は い ま で は、 多 く の 史 家 の 常 識 と な っ て い る の で い ま さ ら そ の 根 拠 を 語 る 要 は な い と 思 う。 実 朝 は ま た 信 仰 の 篤 い 人 物 で、 彼 は 当 時 の 信 仰 風 潮 の 一 つ で あ っ た 宋 阿 育 王 山 の 舎 利 奉 拝 に こ よ な い 憧 れ を 抱 い て い た 一 人 で あ っ た。 北 条 氏 の 謀 略 か ら 身 を 避 け る た め と、 舎 利 奉 拝 と い う 多 年 の 憧 れ を 満 足 さ せ る 目 的 と で 彼 は 渡 宋 を 計 っ て い た。 し か も 北 条 氏 か ら 受 け る 身 の 危 険 を、 殊 に 北 条 氏 が 公 暁 を 関 東 に 呼 戻 し た こ と だ け で は な い が、 遠 く な い こ と を 洞 察 し て い た と 思 わ れ る。 彼 が 公 暁 に 倒 さ れ る 承 久 元 年 の 前 年 に 当 る 建 保 六 年 ( 一 二 二 八 ) に は、 側 近 の 葛 山 五 郎 景 倫 に 秘 命 を 与 え て 潜 か に 近 畿 に 上 し ( こ れ を 九 州 に 遣 し た と い う 話 は 信 じ 難 い )、 そ の 十 二 月 景 倫 は 紀 州 由 良 湊 に 実 朝 入 宋 の た め の 渡 航 船 を 準 備 し て 実 朝 の 来 着 を 待 っ て い た。 実 朝 が 倒 さ れ た の は、 彼 が 何 等 か の 方 法 で 鎌 倉 を 脱 出、 計 画 の 入 宋 を 実 現 さ せ よ う と し た 寸 前 だ っ た わ け で あ る (﹁ 法 灯 国 師 年 譜 ﹄ )。 北 条 氏 は ま た 実 朝 の こ の 秘 計 を 察 知 し、 公 暁 に よ る 暗 殺 の 実 施 を 早 め た の か も 知 れ な い。 行 勇 が 伴 っ て 東 海 道 を 西 上 し て き た 実 朝 の 遺 骨 を 携 え た 西 入 は、 由 良 湊 に 実 朝 の 来 着 を 待 つ 景 倫 を 訪 ね、 実 朝 の 非 業 の 最 後 を 語 っ た。 景 倫 は 西 入 と 共 に 同 年 三 月 (﹁ 高 野 春 秋 ﹄ ) 高 野 の 禅 定 院 に 登 り、 行 勇 を 戒 師 と し て 入 道 し 願 性 と 称 し た。 入 道 願 性 の 禅 定 院 へ の 登 山 と 入 道 を 知 っ た 政 子 は、 願 性 の 忠 勤 に 賞 で て 彼 を 彼 の 住 ん で い る 由 良 の 地 頭 職 に 任 じ、 そ の 得 分 を 以 て 禅 定 院 に 彼 が 住 山 の 折 の 資 に 当 て し め た (﹁ 高 野 春 秋 ﹄ )。 入 道 覚 智 が、 行 勇 の も と 禅 定 院 に 登 っ て き た 時 期 は 明 ら か で な い。 そ の 上 限 は 実 朝 が 倒 さ れ た 直 後 で あ り、 下 限 は 後 述 の 金 剛 三 昧 院 造 営 着 工 ま で で な け れ ば な ら な い。 前 述 の、 承 久 三 年 ( 二 二 二 ) 正 月 実 朝 の 三 回 忌 に 政 子 の 沙 汰 で 久 々 鎌 倉 に 下 っ た 行 勇 は、 た ぶ ん 政 子 に 禅 定 院 を 根 本 的 に 改 築 拡 張 し て、 在 来 の 頼 朝 菩 提 の た め の も の か ら 鎌 倉 将 軍 三 代 の 菩 提 を 弔 う も の へ と 展 開 さ せ る 話 合 い が 成 立 し た の で あ 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論
密 教 文 化 ろ う。 三 回 忌 の 法 要 が 済 ん で 再 び 近 畿 に 戻 っ た 行 勇 が、 次 に 鎌 倉 へ 下 っ て い る の は、 例 の ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ に み る と こ ろ で は 元 仁 元 年 ( 一 二 一 西 ) 六 月、 執 権 北 条 義 時 が 没 し た 折 で、 そ の 夫 人 落 錺 の 戒 師 と な っ て い る。 さ ら に そ の 七 月 の 十 一 日、 二 十 三 目 と 故 義 時 に か か わ る 仏 事 に 彼 は 導 師 と な っ て い る か ら、 暫 く 鎌 倉 に い た よ う で あ る。 こ う い う 行 勇 の 関 西 に 止 っ て い た 時 期 を、 経 過 の 上 か ら み る と、 金 剛 三 昧 院 の 造 営 創 立 は 承 久 三 年 ( 二 一 一 二 ) 正 月 か ら、 元 仁 元 年 ( 一 二 二 四 ) 六 月 ま で の 間 に 絞 ら れ、 準 備 期 間 を 考 慮 し て 貞 応 二 年 ( 一 二 二 三 ) 完 成 と い う と こ ろ が 適 中 し て い そ う で あ る。 こ れ は 偶 然 に も、 そ う 古 い 頃 の 編 と も 思 え ぬ ﹁ 金 剛 三 昧 院 旧 記 ﹂ ( ﹁ 金 剛 三 昧 院 文 書 ﹂ 三 八 ○ )、 ﹁ 金 剛 三 昧 院 紀 念 誌 ﹂ ( 同 上 文 書 三 八 二 ) の 記 載 と 一 致 し、 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ が 掲 げ た 数 例 の 当 院 創 立 年 代 中 に も こ の 貞 応 二 年 と い う 年 紀 が み え る が、 そ の 根 拠 と な っ た 史 料 は 何 で あ っ た か わ か ら な い。 造 営 に 当 っ て 入 道 覚 智 は、 自 ら が 任 じ て い る 各 地 地 頭 職 の 得 分 を 寄 進 し て 施 主 と し て の 立 場 を 確 保 し よ う と し、 政 子 は そ の 頃 高 野 に 上 っ て い た 頼 朝 の 庶 子 貞 暁 の 寂 静 院 造 営 と、 こ の 禅 定 院 改 築 拡 張、 即 ち 金 剛 三 昧 院 造 営 の 資 を 同 時 に 寄 せ た ( ﹃ 金 剛 三 昧 院 文 書 ﹄ )。 ﹁ 金 剛 三 昧 院 文 書、 五 七 ﹂ の、 ﹁ 鎌 倉 将 軍 家 ( 時 宗 ) 御 教 書 ﹂ は 弘 安 四 年 ( 一 二 八 一 ) の 文 書 で あ る が、 こ の 当 院 創 立 の と き 覚 智 が ま か な っ た 建 物 と し て、 堂 二 宇 塔 二 基 護 摩 堂 二 宇 経 蔵 一 宇 鐘 楼 二 宇 鎮 守 社 一 宇 が 記 さ れ て お り、 現 存 遺 構 の 多 宝 塔 ・ 経 蔵 は、 概 括 的 に み た そ の 様 式、 最 古 部 材 の 経 年 度 か ら し て、 こ の 塔 二 基、 経 蔵 一 宇 の 中 に 含 ま れ て い る も の と し て よ い。 ﹁ 金 剛 三 昧 院 文 書、 三 七 九 ﹂ の、 ﹁金 剛 三 昧 院 住 持 次 第 ﹂ の う ち 二 十 四 世 弘 尊 上 人 の 条 に、 応 永 三 十 四 年 正 月、 乾 の 所 化 寮 に 放 火 が あ っ て 伽 藍 が 回 禄 し た 折、 塔 二 基、 経 蔵 一 宇 と 子 院 遍 照 院 一 宇 が 類 災 を 免 れ た と い う の は 現 存 遺 構 の 多 宝 塔 ・ 経 蔵 が、 貞 応 二 年 完 成 の も の と 認 め て よ い こ と を 積 極 的 に 語 っ て い る。 さ ら に、 北 条 泰 時 の ﹁ 関 東 下 知 状 ﹂ (﹁ 金 剛 三 昧 院 文 書 ﹄ 二 ) は 貞 応 三 年 ( 二 一二 四 ) 九 月 十 八 日 付 で、 泰 時 が 当 院 の 多 宝 塔 領 と し て 筑 前 国 粥 田 の 本 ・ 新 両 庄 を 寄 進 し た と き の も の。 元 仁 元 年、 即 ち 貞 応 三 年 六 月 鎌 倉 へ 義 時 の 没 の た め 下 つ た 行 勇
が、 七 ・ 八 月 を 経 て 九 月 ま で 鎌 倉 に と ど ま り、 こ の 下 知 状 を 受 け て 戻 っ た の で あ ろ う か。 そ れ に し て も、 貞 応 三 年 六 月 ま で に 多 宝 塔 の 竣 成 を 語 る 傍 証 と し て よ い。 宝 治 二 年 ( 二 一四 八 ) 四 月 六 日 付 の ﹁ 大 井 太 郎 源 朝 光 寄 進 状 ﹂ (﹁ 金 剛 三 昧 院 文 書 ﹄ 九 二 ) は、 朝 光 が 承 久 の 乱 に お け る 勲 功 の 賞 と し て 給 地 し た と い う 伊 賀 国 虎 武 保 の 地 頭 職 の 得 分 を、 実 朝 菩 提 の た め に 政 子 が 宿 願 と し て 建 立 し た 金 剛 三 昧 院 の 多 宝 塔 灯 油 料 と し て 寄 進 す る と い う も の で あ る。 金 剛 三 昧 院 ま た そ の 多 宝 塔 が 実 朝 在 世 中 に 頼 朝 菩 提 の た め の も の で な く、 実 朝 の 麗 後 で、 願 主 が 政 子 で あ る こ と を 明 ら か に し て い る 点 に 注 目 す べ き 文 書 で あ る。 C 建 仁 寺 工 匠 建 仁 二 年 ( 二 一○ 二 ) の、 将 軍 頼 家 を 大 檀 那 と し て の 栄 西 が 京 に お け る 建 仁 寺 創 立。 こ れ は 確 か に 栄 西 が 宿 望 の 京 へ の 進 入 で あ っ た。 し か し な が ら、 鎌 倉 幕 府 と し て は、 京 進 出 の 橋 頭 保 工 設 置 で あ っ た。 栄 西 は、 中 心 伽 藍 の 配 置 を 明 ら か に 宋 の 禅 刹 の 規 式 を 模 し て 計 画 し た が、 そ れ に 天 台 ・ 真 言 の 設 け を 注 意 深 く 付 加 し て い る こ と は 周 知 の と お り で あ る。 こ れ は 当 然 叡 山 よ り す る 宗 教 的 弾 圧 に 抗 し う る 構 え で は あ る が、 ま た 栄 西 自 身 の 宗 教 的 遍 歴 を 物 語 っ て お り、 彼 に す れ ば こ の 場 合 三 宗 併 立 は 試 行 的 な 作 業 で あ っ た か も 知 れ な い。 古 来 か ら 社 寺 の 造 営 施 主 は 朝 廷 ・ 貴 族 を 中 心 と し、 施 工 は 建 築 工 匠 を 主 体 と す る 木 工 寮 工 匠 が 中 心 を な し て い た。 幕 府 の す る 栄 西 の 建 仁 寺 創 立 は、 道 元 の ﹃ 正 法 眼 蔵 随 聞 記 ﹄ に よ っ て も 察 知 で き る よ う に 決 し て 都 に 輪 奥 を 競 う も の で は な く、 仏 堂 と 僅 か 僧 堂、 僧 房 が 数 宇 設 け ら れ て い る 程 度 で あ っ た ら し い。 幕 府 も 栄 西 も、 ま だ 試 行 の こ の 段 階 で は そ れ で よ か っ た。 し か も 京 の 大 衆 の 宗 教 的 信 望 を こ こ に 収 携 し よ う と す る 新 意 図 や 当 然 予 測 さ れ る 叡 山 か ら の 圧 力 や 妨 害 は、 旧 習 の 木 工 寮 工 匠 乃 至 そ の 系 統 を 用 い ず、 ﹃ 延 喜 式 ﹄ で そ の 内 容 が 知 れ る よ う に、 厨 子、 須 弥 壇、 天 蓋 な ど の 荘 厳 具 を 意 匠 造 作 す る 内 匠 寮 工 匠 を 中 心 と し た。 従 っ て そ の 作 品 の 造 形 理 念 ・ 技 巧 の 精 緻 は 当 然 工 芸 品 的 感 覚 と 技 術 か ら 生 れ て い た。 こ の 建 仁 寺 工 は、 新 鮮 味 を 求 め る 旺 盛 な 進 取 の 気 性 に 燃 え て い て、 作 品 が マ ン ネ リ ズ ム 化 に 陥 っ て い た 当 時 の 木 工 寮 系 と は 廓 然 と 作 風 上 に 二 線 を 郭 し た も の で あ っ た こ と を 紹 介 し て お く。 後 年 鎌 倉 期 建 築 の 優 作 と 称 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論
密 教 文 化 え ら れ る も の の 殆 ど が、 こ の 三 派 ま た は そ の 直 流 の 工 匠 の 手 に な る も の で あ る と い う 業 績 を も た ら し た の で あ る。 故 関 野 貞 博 士 は、 こ の 系 列 の 実 態 を 遂 に 把 ま ず し て 世 を 去 ら れ た が、 博 士 の 鋭 い 感 覚 は こ の 系 列 を ﹁ 和 様 新 派 ﹂ と し て 実 在 を 認 め ら れ て い た。 博 士 の 燗 眼 実 に 驚 く べ き も の で あ る。 内 匠 寮 系 の 建 仁 寺 工 一 座 に 強 い 刺 激 を 与 え た の は、 建 暦 元 年 ( 三 二 二 ) 宋 か ら 帰 朝 し た 律 僧 俊 茄 を、 栄 西 が 建 仁 寺 に 迎 え 入 れ て 止 宿 せ し め た こ と で あ っ た ( ﹁ 泉 涌 寺 不 可 棄 法 師 伝 ﹂ )。 俊 彷 は も と も と 帰 朝 後 寺 院 創 営 の 志 が あ り、 そ れ で 在 宋 中 に は 素 人 な が ら 努 め て 彼 地 の 伽 藍 規 式 に 注 目 し、 そ れ を ス ケ ッ チ し た り ノ ー ト し た よ う で あ る。 建 仁 寺 に 止 宿 し た 新 帰 朝 の、 し か も 宋 寺 院 の 観 察 に 努 め て き た 俊 彷 の、 彼 地 寺 院 の 建 築 に 関 し た 知 識 を、 進 取 の 気 性 に 富 む 建 仁 寺 工 が 吸 収 に こ れ ま た 努 め ず に は お か な か っ た。 一 方 俊 蕩 は こ れ ま た、 機 会 を 得 て 一 寺 創 立 に 際 し て は、 こ の 三 座 の 工 を 活 用 し よ う と 考 え て い た の で あ ろ う。 後 年 俊 彷 は 泉 涌 寺 造 営 に あ た り、 こ の 建 仁 寺 工 を 用 い て い る よ う で 、 俊 栃 と 建 仁 寺 工 と は、 早 く 俊 彷 が 建 仁 寺 で 止 宿 中 に 結 ば れ て い た の で あ る。 こ の 建 仁 寺 工 か ら 分 れ て 東 大 寺 新 座 工 が 成 立 し、 そ れ が 先 か ら の 東 大 寺 工 で あ る 本 座 工 と 合 同 で 施 工 し た 東 大 寺 鐘 楼 の 様 式 要 素 に 天 竺 様 と は 別 種 の 宋 式 が 入 っ て い る の は 俊 茄 か ら 受 け た 知 識 の 現 わ れ な の で あ る。 D 建 仁 寺 工 と 行 勇 東 大 寺 大 勧 進 を か ね て い た 建 仁 寺 開 山 住 持 栄 西 は、 東 大 寺 で は 同 寺 の 七 重 東 塔 再 建 を 宰 領 し て い た。 栄 西 は 周 防 の 杣 を 再 開 し て そ れ か ら 用 材 を 供 給 し、 か っ て 重 源 大 勧 進 が そ の 末 期 に 再 建 東 塔 を 設 計 さ せ た 東 大 寺 の、 物 部 ・桜 島 の 両 大 工 座 を 督 し て 工 事 を 進 め て い た の で あ る。 と こ ろ が、 承 元 二 年 ( 一 二 ○ 八 ) に 天 火 で 焼 失 し た 京 都 法 勝 寺 八 角 九 重 塔 の 再 建 を、 西 園 寺 公 経 が 勅 命 を 受 け て い る に も か か わ ら ず 工 が 捗 ら ぬ と あ っ て、 翌 承 元 三 年 ( 三○ 九 ) の 後 半 年 に 入 っ て か ら、 鎌 倉 は 強 引 に も そ の 再 建 を 栄 西 に 宰 領 さ せ る こ と を 改 勅 で も っ て し た。 い ま 評 論 す る 暇 は な い が、 栄 西 を 東 大 寺 大 勧 進 に 幕 府 が 宛 て る と い う こ と そ の も の も、 実 は 当 時 の 社 寺 造 営 ル ー ル に 反 し た 事 で あ っ て、 目 的 は 京 で 建 仁 寺 と い う 幕 府 の 京 進 出 拠 点 を 先 に 設 け た が、 さ ら に 栄 西 を 奈 良 に 進 出 さ せ て 新 し く 拠 点
を 確 保 し よ う と し た に 他 な ら な か っ た。 と こ ろ が 法 勝 寺 塔 の 天 火 焼 失 続 い て 再 建 と い う 突 発 的 な 事 態 が 起 り、 東 大 寺 七 重 塔 の 造 営 に 現 在 携 っ て い る 工 匠 を 握 り、 用 材 供 給 源 も 確 保 し て い る 栄 西 を 法 勝 寺 塔 再 建 の 宰 領 に 転 じ、 も っ て 朝 廷 に 接 近 し 朝 廷 へ の 発 言 干 渉 力 の 拡 張 を 図 っ た 幕 府 の 謀 計 で あ っ た こ と は 見 え 透 い て い る。 従 っ て 栄 西 は、 法 勝 寺 塔 の 再 建 工 事 を 宰 領 す る た め に 東 大 寺 か ら 離 れ た が、 東 大 寺 大 勧 進 の 職 名 と 職 権 を も っ た ま ま で、 し か も 東 大 寺 大 工 物 部 ・ 桜 島 両 座 の 木 工 寮 出 身 有 力 工 匠 を 伴 っ て 転 じ た。 そ う し て、 東 大 寺 大 勧 進 の 留 守 役 的 な も の と し て、 そ れ ま で 鎌 倉 に と ど ま っ て い た 行 勇 を 東 大 寺 に 配 し た の で あ る。 行 勇 に し て み れ ば、 用 材 供 給 源 も 有 力 工 匠 も い な い 東 大 寺 で、 栄 西 が 三 層 ま で 組 立 て た 七 重 東 塔 工 事 を 継 続 す る こ と は 不 可 能 で あ っ た。 彼 は 用 材 供 給 源 の 確 保 も さ る こ と な が ら、 先 ず 工 匠 陣 の 整 備 を 図 ら ね ば な ら な い と し た。 東 大 寺 か ら 栄 西 に 伴 わ れ て 去 っ た 工 匠 は、 い ま 法 勝 寺 塔 の 造 営 に 活 動 中 で、 い ま さ ら こ れ を 引 戻 す わ け に も い か な い 。 彼 は 栄 西 と 談 じ て、 建 仁 寺 工 の 二 部 を 東 大 寺 工 の 座 に 転 ず る こ と に し た の で あ る。 栄 西 に つ い て 法 勝 寺 へ 転 じ な か っ た 残 り の 東 大 寺 工 匠 は、 こ の と き 二 座 を 成 し て ﹁ 本 座 ﹂ と 称 し、 こ ん ど 行 勇 に よ つ て 新 た に 東 大 寺 へ 導 入 さ れ た 建 仁 寺 工 の 三 部 は、 ﹁ 新 座 ﹂ と 称 し て 東 大 寺 木 工 座 の 中 に、 本 ・ 新 二 座 の 併 存 が こ の と き か ら は じ ま る。 行 勇 と 建 仁 寺 工 と の 直 接 関 係 は、 こ の と き に 生 じ た の で あ る。 本 座 は 前 述 の よ う に 木 工 寮 系 で あ る か ら、 官 衙 風 の 古 式 な 作 風 を も っ て い た。 そ れ に あ る 必 然 (6) か ら 宋 建 築 の 皮 相 な 要 素 を と り い れ て い わ ゆ る 天 竺 様 を 開 発 し た 工 匠 達 で あ る。 そ れ に 引 か え、 新 座 は さ き に 述 べ た よ う に 内 匠 寮 系 の 工 芸 家 の 系 統 で あ る 上 に、 俊 栃 か ら 宋 建 築 様 式 の 示 唆 を 受 け た 新 進 気 鋭 の 一 派 で あ る。 自 ら 作 風、 様 式 に 本 ・ 新 座 は 異 っ た も の を も っ て い た こ と が こ れ で 理 解 で き よ う (7)。 さ て、 話 を 本 筋 に 戻 そ う。 貞 応 二 年 ( 二 一二 三 ) を 中 心 に、 そ の 前 後 に 造 営 の 金 剛 三 昧 院 と 後 述 の 寂 静 院 を 行 勇 の 沙 汰 で 施 工 す る 木 工 の 座 は、 東 大 寺 の 新 座 と 建 仁 寺 木 工 座 の 二 座 が あ っ た の で あ る。 と こ ろ で 行 勇 は、 金 剛 三 昧 院 の 造 営 に ど ち 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論
密 教 文 化 ら の 木 工 座 へ 沙 汰 し た の で あ ろ う か。 東 大 寺 新 座 は、 も と も と 建 仁 寺 座 か ら 出 た も の で は あ る が、 天 竺 様 の 環 境 に 浸 っ た。 そ こ に 東 大 寺 新 座 と 建 仁 寺 座 の 作 風 ・ 様 式 に は 既 に 相 違 が 生 じ て い た。 我 々 は い ま、 金 剛 三 昧 院 の 遺 構 が、 ど ち ら の 座 の 特 性 に 合 致 し て い る か 観 察 す れ ば い い の で あ る。 E 金 剛 三 昧 院 遺 構 の 作 風 と 様 式 金 剛 三 昧 院 そ の も の が 広 大 な 敷 地 に 大 伽 藍 を 設 け よ う と 計 画 し た の で は な い か ら と は い う も の の、 多 宝 塔 ・ 経 蔵 共 に 大 き さ か ら い え ば 普 通 二 般 よ り は 小 さ い の で あ る。 多 宝 塔 は 初 層 一 辺 ( 柱 芯 々 ) 二 尺 四 寸 二 分 ( 中 の 問 -六 尺 八 寸 五 分、 脇 の 間 -五 尺 七 寸 八 分 ) 経 蔵 は、 桁 行 方 向 校 木 内 々 長 二 四 尺 七 寸 五 分、 梁 行 方 向 校 木 内 々 長 九 尺 六 寸 こ れ ら 二 棟 共 工 芸 的 な 繊 細 さ で、 行 届 い た 感 覚 の 工 匠 に よ っ て 造 ら れ た ら し く、 愛 ら し い 高 い 気 品 を も ち、 典 雅 と も 評 せ る 作 品 で あ る。 そ う い う 造 形 上 の 効 果 は、 不 必 要 な 木 割 の 太 さ を 避 け、 建 物 全 体 の 外 観 比 例 が 実 に よ く 整 っ て い る と こ ろ か ら 生 れ て い る の で あ ろ う が、 外 観 で 装 飾 的 な も の と い え ば、 多 宝 塔 初 層 の 小 壁 部 分 に は め 込 ん だ、 そ れ も 繰 物 を 脚 内 に 付 け な い 極 め て 単 純 な 墓 股 ぐ ら い で あ っ て、 こ う い う 意 匠 感 覚 の 清 純 な こ の 建 築 は、 軽 妙 な 桧 皮 葺 の 屋 根 の も つ 独 特 な 清 爽 感 と 相 ま っ て 建 物 の 気 晶 を さ ら に 高 め て い る。 こ こ ま で い え ば、 金 剛 三 昧 院 の 創 営 に 当 っ た の は、 建 仁 寺 工 で し か な い と 判 断 が つ く で あ ろ う が、 観 察 を も う 少 し 進 め て み よ う。 多 宝 塔 の 内 部 は 極 彩 色 が 施 さ れ て い る が、 こ れ は 多 宝 塔 と い う も の の 性 質 上 当 然 斯 く あ る べ き 規 式 な の で あ っ て、 あ え て 近 世 の 工 匠 が 過 飾 に 陥 っ た の と は 意 義 が 異 っ て お り、 し か も こ の 塔 内 部 の 装 飾 は、 不 必 要 さ が な く 手 法 も 美 事 で、 決 し て 当 多 宝 塔 の 品 位 を 傷 つ け る も の で は な い。 た だ 須 弥 壇 が 後 修 で あ る の は 惜 し い。 隅 木 端 の 下 面 を 少 し 膨 ら ま せ て 厚 味 を 持 た せ て あ る の が、 故 天 沼 俊 一 博 士 の 興 味 を 大 い に そ そ っ た よ う で あ る。 こ れ は、 隅 木 の 先 端 に 宝 鐸 を 吊 る た め の 補 強 工 作 に 過 ぎ な い の だ が、 故 天 沼 博 士 も 指 摘 の よ う に、 同 様 な こ の 珍 ら し い 手 法 が 大 阪 府 下 の 孝 恩 寺 本 堂 ( 通 称 釘 無 堂 ) に 施 さ れ て お り、 そ の 堂 が 筆 者 の 考 察 で は 東 大 寺 新 座 系 特 有 の 要 素 を も っ て い る か
ら、 新 座 系 の 作 品 に 誤 り な い。 軽 少 な こ と で は あ る が 隅 木 に み る こ の 手 法 は、 ほ ん ら い 建 仁 寺 工 の 誰 れ か が も っ て い た 手 法 と 認 め る べ き と 思 っ て い る。 経 蔵 は、 が ん ら い が 倉 庫 建 築 で あ る か ら、 こ う い う も の を デ ザ イ ン す る と 往 々 粗 野 な も の に な り 易 い。 し か も 近 世 で は そ れ を 脱 け よ う と し て 今 度 は 過 飾 に 陥 り 易 い の で あ る。 こ の 経 蔵 は そ の 点、 校 木 の 美 し さ を 充 分 に 生 か せ、 そ れ に 巧 み な 軒 の 処 理 で 成 功 し て い る。 経 蔵 の 構 築 や そ の 梁 端 を 軒 に 挺 出 し て 軒 桁 を 受 け る 方 法 は、 古 く か ら 校 倉 に 行 わ れ る 一 般 的 な も の で 何 等 特 異 と す る も の で は な い。 し か し 軒 下 へ 平 ・ 隅 共 に 挺 出 し た 梨 端 を、 細 い 肘 木 の 形 に し た の と、 積 ん だ 最 上 の 校 木 と で 簡 単 に 軒 桁 を 受 け さ せ、 軒 こ れ ま た 垂 木 の な い 板 軒 と し て い る 実 に 清 々 な 軒 さ ば き は 賞 嘆 に 価 す る。 な お、 奈 良 地 方 の 古 い 校 倉 に み ら れ る 上 ほ ど 長 い 校 木 の 積 重 ね は、 こ の 経 蔵 で は 全 く み ら れ な い。 建 仁 寺 工 は 金 剛 三 昧 院 で、 彼 等 が 長 年 練 磨 し て き た い わ ゆ る 繊 細 な 和 様 の 技 巧 を 遺 憾 な く 示 し た。 そ こ に は、 俊 茄 に 示 昌唆 を う け た 宋 建 築 の 様 式 は 微 塵 も 姿 を 見 せ て い な い。 お そ ら く そ れ は、 高 野 山 と い う 場 所 柄 を 考 え て の こ と で あ ろ う。 さ ら に 新 座 衆 の 仕 事 で な い と い う こ と は、 天 竺 様 の 要 素 が ど こ に も 見 当 ら な い と い う 点 で で も 断 定 で き る。 二 金 剛 峯 寺 不 動 堂 の 考 察 A 不 動 堂 創 立 に 関 す る 通 説 壇 上 伽 藍 地 の 東 部 で、 一 段 低 い と こ ろ の 南 隅 に 現 存 す る こ の 不 動 堂 は、 明 治 四 十 三 年 に 山 内 三 心 院 谷 か ら 解 体 移 建 さ れ て き た も の で あ る こ と は 事 実 で あ る。 ま た こ の 堂 の 本 尊 不 動 明 王 像 は、 い ま も 堂 内 須 弥 壇 上 に 安 置 さ れ て い る が、 春 属 の 伝 運 慶 作 と い う 入 大 童 子 の 群 像 は、 周 知 の と お り 霊 宝 館 に 出 陳 さ れ て い る。 こ れ だ け の 条 件 は、 こ の 堂 が ほ ん ら い か ら 三 心 院 谷 の 不 動 堂 で あ る と 鋳 躇 も な く 人 々 を 納 得 さ せ る も の で あ っ た ら し い。 そ う し て、 一 心 院 谷 の 不 動 堂 は、 建 久 入 年 ( 二 九 七 ) 陰 明 門 院 の 御 願 に よ っ て 行 勝 上 人 の 建 立、 ま た は 建 久 九 年 ( 二 九 八 ) 八 条 女 院 の 御 願 に よ っ て 行 勝 上 人 の 建 立 と い う、 奇 妙 に も 二 様 の 通 説 が 生 れ 流 布 す る 結 果 と な っ た の 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論
密 教 文 化 で あ る。 こ の 通 説 の 根 拠 に な っ た ら し い 三 応 の 史 料 を 列 挙 す る と、 ○ 同 ( 建 久 ) 八 年 丁 巳 五 月 廿 八 日、 高 野 山 一 心 院 不 動 堂 供 養、 陰 明 門 院 藤 麗 子、 土 御 門 院 后、 太 政 大 臣 頼 実 公 女、 御 願、 行 勝 上 人 建 立 也、 (﹁ 帝 王 編 年 記 ﹄ 巻 廿 三 ︺ ( ﹃ 歴 代 編 年 集 成 ﹄ 十 三、 は 同 文 ) ○ 月 日 (割 註 略 ) 行 勝 上 人 来 自 吉 野 笙 窟、 結 住 草 庵 於 一 心 院 谷 住 山 也 (割 註 略 )、 五 坊 結 構 而 後 靱 造 伽 藍 如 左、 不 動 堂 願 主 八 条 女 院、 不 動 明 王 者 上 人 自 作、 二 童 子 運、 慶 作、 八 大 童 子 亦 同 刻 也 ( 註 以 下 略 ) 清 涼 台 置 十 二 人 之 時 衆、 為 仏 餉 人 供、 永 寄 附 紀 浜 南 部 庄、 又 三 人 供 僧 置 之、 附 進 山 東 床 中 村 ( 以 下 略 ) ︹ ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ 建 久 九 年 の 条 ︺ ○ 不 動 堂 大 塔 を 距 る こ と 凡 八 丁 許 北 方 に あ り、 表 行 京 間 六 間 余、 裏 行 五 間 二 尺 一 寸 五 歩、 口 碑 に は 今 堂 四 面 の 屋 形、 方 こ と に 状 を 異 に す、 是 は 四 人 の 工 匠 飛 弾 内 匠 放 縦 に 斧 造 り て 結 構 な れ ど も、 毫 螢 も 穴 坪 に 違 は す し て 一 の 仏 寵 と な り ぬ。 こ れ 千 古 希 代 の 妙 工 な り と か や、 本 尊 不 動 明 王 行 勝 上 人 自 作、 脇 士 の 二 童 子 並 八 大 童 子 共 に 運 慶 の 彫 刻 は 八 条 女 院 鳥 羽 院 皇 女 の 御 願 に 依 て、 明 寂 上 人 の 所 創 な り、 建 久 九 年 の 冬 落 慶 す。 導 師 は 行 勝 上 人 な り、 院 御 所 頼 朝 公 に 命 せ ら れ、 若 干 の 荘 園 を 寄 賜 て 灯 供 の 料 と す 其 料 今 は 廃 絶、 寄 附 状 今 尚 存 す (山 史 意 ) 文 明 院 家 記 に は、 不 動 堂 明 寂 建 立 安 置 上 人 骨 と 云、 是 も 五 院 の 例 に 徴 ふ て 知 る へ し、 院 跡 考 に、 旧 史 云 願 主 八 条 女 院 鳥 羽 院 皇 女
頼
朝 公 被 寄 附 庄 園 建 久 九 戊 午 年 再 営 之 落 慶 導 師 行 勝 上 人 務 之 云 々、 ︹﹁ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ 三 心 院 谷 の 項 ︺ な ど の よ う で あ る ( ﹃ 大 日 本 史 料 ﹄ 四 編 の 五、 建 久 八 年 の 条 に ひ く ﹁ 歴 代 編 年 集 成 ﹂ で は、 ﹁ 陰 明 門 院 御 願 ﹂ に 続 い て 割 註 で 編 者 が、 ﹁ 陰 明 門 院 ハ 八 条 院 ノ 誤 リ ﹂ と 註 入 し て い る の は い ま で 考 え れ ば 軽 卒 で あ る )。 上 述 列 挙 の 史 料 を 通 覧 す る と、 ﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ ﹃ 歴 代 編 年 集 成 ﹄ は 不 動 堂 そ の も の の 願 主 を 陰 明 門 院 と し 堂 供 養 を 建 久 八 年 と す る の に 対 し て、 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ は 建 久 九 年 に 行 勝 上 人 が } 心 院 谷 に 住 山 し た と し、 そ の 後 八 条 女 院 を 願 主 と し て 不 動 堂 が 建 立 さ れ た と 解 せ る 記 し 方 で あ っ て、 こ れ で は 建 久 九 年 以 後 に 不 動 堂 は 創 営 さ れ た と い う こ と に な る。 次 に、 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ に 記 さ れ た 不 動 堂 は、 そ の 大 き さ 寸 尺 が 現 不 動 堂 と 一 致 し ( 現 不 動 堂 は 桁 行 ( 全 長 ) 四 二 ・ 八 四 五 尺、 梨 行 全 長 三 四 ・ 七 二 三 尺 )、 し か も 建 物 の 形 式 が 現 不 動 堂 を さ し て い る こ と に 間 違 い な い。 そ う し て 脇 士 の 二 童子 を 含 め 八 大 童 子 像 が 八 条 女 院 の 御 願 で 明 寂 上 人 が 建 久 九 年 の 冬 落 慶 さ せ、 そ の 時 の 導 師 が 行 勝 上 人 で あ っ た と い う。 要 す る に 入 大 童 子 造 立 の 願 主 が 八 条 女 院 で、 建 久 九 年 に 堂 も 像 (8) も で き た と い う よ う な 記 し 方 で あ る。 再 び、 い ま 挙 げ た 史 料 を 見 直 す と、 一 心 院 谷 の 不 動 堂 が、 現 不 動 堂 で あ る と 判 断 で き る 要 件 が、 少 く と も ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ の 記 文 以 外 に 見 出 し う る で あ ろ う か。 ﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ ﹃ 歴 代 編 年 集 成 ﹄ ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ な ど い ず れ も、 一 心 院 谷 の 不 動 堂 と 現 不 動 堂 と の 問 を 結 ぶ 何 の 脈 絡 も な い。 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ に 至 っ て は、 一 心 院 谷 の 顕 著 な 建 造 物 と し て、 当 時 実 存 の 有 無 を 考 慮 な く 不 動 堂 と 清 涼 台 と を 紹 介 し た ま で で あ る。 こ れ が、 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ 一 心 院 谷 の 項 で は 先 述 の よ う に、 ﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ ﹃ 歴 代 編 年 集 成 ﹄ に 記 し た 不 動 堂、 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ 建 久 九 年 の 条 に い う 不 動 堂 の 由 緒 を 現 不 動 堂 に 当 て て し ま っ て い る。 現 不 動 堂 が、 古 記 に い う 一 心 院 谷 の 不 動 堂 と ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ の 編 者 が 決 め つ け た 拠 り ど こ ろ は、 そ れ が 編 纂 の 頃 既 に、 現 不 動 堂 を そ こ に 安 置 の 八 大 童 子 像 に 八 条 女 院 御 願 造 立 の 所 伝 が あ っ た こ と で、 そ れ に 対 し て ﹃ 帝 王 編 年 記 ﹄ ﹃ 歴 代 編 年 集 成 ﹄ の 陰 明 門 院 堂 御 願 の 史 料 を 無 視 す る 傾 向 に あ っ た こ と に よ る は ず で あ る。 従 っ て、 い ま も し も 現 不 動 堂 が 通 説 に い う よ う に、 二 心 院 谷 の 不 動 堂 で は な い と す る と、 現 不 動 堂 に 関 し た 通 説 の 所 伝 は 根 底 か ら 覆 り、 新 た に 思 考 を 起 さ ね ば な ら な く な る。 B 寂 静 院 清 涼 台 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ に は、 先 掲 の よ う に 一 心 院 谷 の 五 坊 と い う と こ ろ に ﹁清 涼 台 ﹂ と い う 建 物 の あ っ た こ と を 紹 介 し て い る。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ の、 一 心 院 谷 の 項 の う ち に ﹁ 五 坊 又 名 寂 静 院 ﹂ と あ り、 清 涼 台 は 寂 静 院 の う ち に あ っ た こ と を 語 る。 さ き に 少 し ふ れ た が、 頼 朝 の 庶 子 で 三 男 に な る 貞 暁 法 印 は 政 子 に 妬 ま れ た と 伝 え ら れ、 そ の 理 由 は と も か く と し て、 幼 少 か ら 仁 和 寺 へ 入 寺 さ せ ら れ、 鎌 倉 の 幕 府 な り 源 家 と は 一 応 無 縁 の 間 に お か れ た。 と こ ろ が ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ は、 仁 和 寺 に 在 る 頼 朝 の 血 を ひ く 貞 暁 に、 執 権 北 条 義 時 の 圧 力 が か か り だ し た の で、 貞 暁 は そ の 難 を 避 け る の と、 高 野 で 五 坊 を 開 い た 行 勝 上 人 を 慕 っ て、 承 元 二 年 ( 二 二 ○ 八 ) 三 月 高 野 に 登 り、 五 坊 に 蟄 居 し た と 語 っ て い る。 義 時 が 執 権 に な っ た の は 元 久 二 年 ( 一 二 ○ 五 ) で 将 軍 が 実 朝 の と き で あ る が、 実 朝 が 暗 殺 さ れ た 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論
密 教 文 化 の が 承 久 元 年 ( 二 二 九 ) で あ る か ら、 承 元 二 年 と い え ば そ れ よ り 九 年 も 前 で あ り、 執 権 義 時 が、 鎌 倉 を 離 れ 遠 く 京 に あ る と は い い な が ら 頼 朝 の 血 を ひ く 貞 暁 に、 早 や こ の よ う な 頃 に 圧 力 を か け て い る の か と 驚 か さ れ る が、 い ま の と こ ろ ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ の い う 貞 暁 の、 承 元 二 年 三 月 高 野 登 山 説 に あ え て 否 定 的 な 材 料 は な さ そ う で あ る。 そ の 年 の 十 月、 熊 野 参 詣 の 途 次 に 政 子 が 高 野 山 麓 の 天 野 社 に 立 寄 り、 こ こ で 貞 暁 と 会 っ た と い い、 さ ら に 建 保 六 年 ( 三 二 一 八 )、 政 子 は 熊 野 詣 の 途 次、 今 度 は 貞 暁 に 会 っ た と は 明 記 し て い な い が、 再 び 天 野 社 に 立 寄 っ た と ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ は 記 し て い る。 し か し な が ら、 ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ の 記 事 に よ っ て そ の 頃 の 政 子 の 動 き を み る と、 こ の 二 度 共 政 子 は 貞 暁 と 会 っ た と す る に 充 分 な 裏 付 が あ る。 承 久 二 年 ( 二 三○ 八 ) 十 月 十 目、 政 子 は か ね て か ら の 熊 野 参 詣 を 果 さ ん が た め 当 日 朝、 鎌 倉 を 出 発、 二 十 七 日 入 洛 し て い る。 政 子 が 鎌 倉 に 帰 着 し た の は 十 二 月 二 十 日 で あ っ た ( ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ )。 ( こ う い う 日 程 か ら し て、 天 野 社 で 貞 暁 と 会 っ て い る の は、 事 実 は 十 月 中 で は な く 十 一 月 に 月 が 越 し て い た か も 知 れ な い。 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ は、 ﹁ 十 月 の 政 子 の 旅 行 ﹂ と い う 意 味 で 記 し た と 解 し て お け ば よ か ろ う ) 建 保 六 年 ( 二 二 八 ) の と き の こ と は、 正 月 十 五 日 に 政 子 が 南 山 ( 一 般 に は 高 野 山 と 解 す べ き で あ る が、 高 野 山 は 女 人 禁 制 で あ る か ら、 こ の 場 合 山 麓 の 天 野 社 と 解 し て よ い ) 参 詣 の こ と を 発 表 し、 翌 二 月 四 目、 政 子 熊 野 参 詣 と 称 し て 京 に 向 け 鎌 倉 を 発 し、 四 月 二 十 九 日 南 山 に は 奉 幣 せ ず、 京 に ず っ と 滞 在 し て い た と 称 し て 鎌 倉 に 帰 着 し て い る (﹁ 吾 妻 鏡 ﹄ )。 政 子 が 鎌 倉 に 帰 着 し た と き の 態 度 を ﹃ 吾 妻 鏡 ﹄ が 記 し て い る と こ ろ で は、 こ と さ ら 南 山 に 赴 か な か っ た こ と を 吹 聴 し、 京 に 滞 留 中 の ゴ シ ッ プ を 語 っ て 京 か ら 遠 く に は 出 向 か な か っ た 装 い を し て い る 風 が み え、 ま た 正 月 十 五 日 に は 天 野 社 参 詣 を 目 的 と し た 旅 行 と 発 表 し て お き な が ら、 い ざ 出 発 の 二 月 四 日 で は 熊 野 参 詣 と 改 め て い る こ と な ど と 併 せ 考 え て、 ど う も 政 子 の こ の た び の 近 畿 旅 行 は、 貞 暁 と 会 う の を 目 的 と し な が ら、 貞 暁 と 会 っ た こ と を 人 々 に 秘 し て い る ら し い。 こ の 建 保 六 年 ( 二 一 一 八 ) の 翌 承 久 元 年 ( 二 二 九 ) 正 月 に、 実 朝 が 暗 殺 さ れ て い る こ と を 思 え ば、 政 子 の こ の た び の 貞 暁 と の 面 会 に は 北 条 氏 の 野 望 が 積 極 的 に 動 き だ し た こ と に 深 い 関 係 が あ り そ う で あ る。
建 保 五 年 ( 一 一 二 七 ) 五 月、 貞 暁 の 師 行 勝 上 人 が 経 智 坊 で 寂 し た (﹁ 高 野 春 秋 ﹄ )。 経 智 坊 と い う の は、 一 心 院 谷 に お け る 行 勝 の 住 坊 で さ き に い っ た 五 坊 の 三 つ で あ る。 貞 暁 は 六 月、 そ の 経 智 坊 の う ち に 千 体 地 蔵 尊 を 造 立 し、 か つ ま た 丈 六 堂 を 創 造 し て 不 断 念 仏 と 四 季 陀 羅 尼 講 を 始 行 し、 師 恩 に 報 じ た と ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ は い う。 経 智 坊 に あ っ た 貞 暁 は、 政 子 と 面 会 す る 以 外 は 一 応 鎌 倉 と は 無 縁 の 状 態 を 装 っ て き た が、 承 久 三 年 ( 二 一二 一 ) 八 月 に 源 義 国 が 讃 岐 中 村 郷 を 一 心 院 経 智 坊 貞 暁 へ 寄 附 し て お り (﹁ 高 野 春 秋 ﹄ )、 貞 暁 は こ れ に よ る 収 入 に 政 子 の 鎌 倉 よ り す る 後 援 を 加 え て、 貞 応 二 年 ( 二 三二 三 ) 二 月 以 後 今 月 已 後、 鎌 倉 法 印 貞 暁 師 或 名 三 位 僧 都 又 土 砂 阿 闊 梨 又 千 阿 上 人、 是 頼 朝 卿 之 庶 子 也 詳 子 国 史 奉 為 三 代 将 軍 追 薦、 経 営 阿 弥 陀 堂 及 三 基 五 輪、 是 以 従 二 位 如 実 尼 公 之 檀 助 也 と ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ が 記 す よ う に、 行 勇 の 禅 定 院 と は 別 に 鎌 倉 将 軍 三 代 の 菩 提 の た め に、 積 極 的 な 活 動 を は じ め る。 そ う し て、 奥 院 廟 新 拝 殿 の 再 建 に 当 っ て も 壇、 経 巻 な ど の 寄 進 を 行 う 財 力 が で き て き て い る。 嘉 禄 元 年 ( 一 二 二 六 ) 貞 暁 の 後 盾 で あ っ た 政 子 ( 尼 如 実 ) の 入 寂 が あ り、 そ れ 以 後 も 安 貞 二 年 ( 二 三二 八 ) の 二 夏 貞 暁 は 明 恵 上 人 高 弁 を 高 野 に 嘱 請 し て 一 心 院 に 留 め、 [寛 喜 元 年 ( 一 二 二 九 ) 冬 に は、 奥 院 南 庵 の 傍 に 護 摩 堂 を 創 造 し て 不 動 明 王 を 安 置 す る と い う 活 躍 を し た が、 寛 喜 三 年 ( 一 二 三 一 )
二
尋
二
日、
鎌
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寂
干
経
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坊、
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逝
と あ る よ う に 入 寂 し た ( 以 上 ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ )。 ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ は、 そ の 二 心 院 谷 の 項 で ﹁ 五 坊 一 心 院 の 名 は 行 勝 上 人 の 時 よ り 称 号 と し、 寂 静 院 の 名 字 は 貞 暁 法 印 創 建 の 御 り よ り 始 号 ﹂ と し、 他 の 史 料 か ら み て も こ れ は 肯 け る。 貞 暁 は 一 体、 い つ 何 を 根 本 仏 堂 と し て 寂 静 院 を 興 し た の で あ ろ う か。 ﹃紀 伊 続 風 土 記 ﹄ の、 例 の 五 坊 の 項 に 収 載 の ﹁鎌 倉 法 印 貞 暁 ﹂ の 伝 記 の 中 に、 貞 応 二 年 年 三 十 八 営 構 寂 静 院 干 三 心 院 池 上 安 置 弥 陀 三 尊 深 契 安 養、 具 造 丈 六 堂 納 右 大 将 髪 髪 於 本 尊 躯 中 資 其 成 覚 也 と あ る の に よ っ て、 貞 応 二 年 の 二 月 以 降 に 貞 暁 は 阿 弥 陀 三 尊 を 本 尊 と す る 三 堂 を 一 心 院 内 に 創 営 し て い る。 こ の 文 の 記 し 方 か ら し て、 丈 六 堂 は 頼 朝 菩 提 の た め の も の で あ る と 解 し て お く の が 最 も 妥 当 な 判 断 で、 仁 和 寺 か ら 高 野 に 登 っ た 貞 暁 に、 第 二 回 政 子 が 会 っ た の は こ の 頼 朝 菩 提 の た め の 丈 六 堂 建 造 の 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論密 教 文 化 こ と で あ っ た ら し い。 し か し そ れ は 貞 暁 の 師 行 勝 が ま だ 在 世 中 で あ り、 貞 暁 は 行 勝 ( 貞 暁 と 一 緒 に 政 子 に 会 っ て い る ) と 共 に 経 智 坊 の 中 に 丈 六 堂 を 設 け た の で あ る。 清 涼 台 は、 貞 暁 が 鎌 倉 へ 十 二 人 の 時 衆 を 求 め、 仏 餉 人 供 と し て 紀 州 南 部 庄 を 付 さ れ、 さ ら に 彼 が 山 東 庄 の 中 村 を 付 し て 三 人 の 供 僧 を 付 加 し た 建 物 で、 不 断 念 仏、 常 行 念 仏 三 昧 を 行 う も の で あ る。 貞 応 二 年 の 二 月 以 降 に 貞 暁 が 造 っ た 阿 弥 陀 三 尊 を 本 尊 と す る 三 堂 と は、 寂 静 院 の 本 堂 ( 中 核 仏 堂 ) と も い う べ き も の で あ り、 こ れ が 即 ち 清 涼 台 で あ る と 判 断 し て 客 観 (10) 的 に 何 等 不 合 理 は 存 在 し な い。 即 ち 建 保 五 年 ( 二 二 七 ) 一 心 院 の 経 智 坊 で 師 行 勝 の 入 寂 に あ っ た 貞 暁 は、 師 の 菩 提 の た め に 千 体 地 蔵 を 造 立 し、 不 断 念 仏 と 四 季 陀 羅 尼 講 を 始 行 し、 貞 応 二 年 ( 二 二二 三 ) の 二 月 以 後 に お い て 鎌 倉 将 軍 三 代 菩 提 の た め に、 弥 陀 三 尊 を 安 置 し た 本 堂 に 相 当 す る 清 涼 台 ( お そ ら く 当 初 か ら そ う は 呼 ば な か っ た で あ ろ う が ) を 建 て、 こ れ に 不 断 念 仏、 三 昧 の 行 を 移 し、 貞 暁 は こ こ に は じ め て 自 坊 寂 静 院 を 開 い た と 察 し て、 造 営 順 序 に 不 合 理 は な い。 清 涼 台 の 造 営 時 期 は こ れ で 明 ら か に な っ た が、 先 に 掲 げ た よ う に、 少 く と も ﹃ 紀 伊 続 風 土 記 ﹄ が 編 ま れ た 頃 で は 清 涼 台、 つ ま り 現 不 動 堂 に 本 尊 と し て の 不 動 明 王 や そ の 春 属 の 八 大 童 子 が 既 に 移 入 安 置 さ れ て い た。 こ の 状 態 は、 同 じ 寂 静 院 の 地 に あ る 古 い 不 動 堂 か ら の 移 入 で あ ろ う と す る 推 測 か ら、 そ の 不 動 堂 や 入 大 童 子 像 に か か わ る 由 緒 が 清 涼 台 に 受 け 継 が れ、 遂 に は 現 不 動 堂 の 由 緒 と な っ て 通 説 が 生 じ た の で あ ろ う。 こ の 八 大 童 子 像 は、 伝 え ら れ る よ う に 運 慶 の 作 で あ る と い う 確 証 は な い ら し い が、 慶 派 の 優 作 と 認 め て い い こ と は 彫 刻 史 専 門 家 の 等 し く 述 べ る と こ ろ で あ る。 と こ ろ が、 こ の 八 大 童 子 像 が 清 涼 台 と 同 じ 寂 静 院 の 地 内 に 早 く か ら あ っ た 八 条 女 院 御 願 の 像 で あ ろ う と い う 推 測 は 同 じ 院 内 と い う こ と や 慶 派 の 優 作 で あ る と い う こ と に お い て か な り 強 い 条 件 下 に は あ る (11) が、 と い っ て 断 定 的 な 確 証 が こ れ ま た ど こ に も な い。 も し 現 不 動 堂 の 八 大 童 子 像 や 本 尊 不 動 尊 像 が、 八 条 女 院 御 願 の も の で は な い と す る と、 現 不 動 堂 造 営 年 次 に つ い て の 通 説 が 砂 上 楼 閣 的 な 不 健 全 さ を こ こ で も 暴 露 す る。 清 涼 台 造 営 の 時 期 を、 貞 応 二 年 ( 三 二 二 三 ) の 二 月 以 降 と し た。 し か し こ の 典 拠 に な る ﹃ 高 野 春 秋 ﹄ の 記 文 か ら す る と、 貞 応 二 年 中 で は あ る が 二 月 以 降 の、 時 期 に あ え て 制 限 が あ り
そ う に な い。 し か し、 貞 暁 が こ の 堂 に 対 す る 十 二 人 の 時 衆 を 鎌 倉 へ す る 求 め は、 こ の 堂 が 寂 静 院 の 中 核 堂 で あ る こ と と、 彼 の は じ め て の 自 坊 創 立 と い う 意 味 か ら 考 慮 す る な ら ば、 当 然 攻 子 の 支 援 が 考 え ら れ、 工 事 に つ い て は 行 勇 が 介 入 し、 造 営 は 貞 応 二 年 ( 二 二二 三 ) の 二 月 以 降、 政 子 が 没 し た 嘉 禄 元 年 ( 三 二 二 六 ) 七 月 ま で の 問 と し て お く の が、 史 料 に 忠 実 で あ り 無 理 の な い 当 然 の 帰 結 と い う こ と に な る。 C 現 不 動 堂 の 建 築 様 式 考 察 以 上 の 考 証 で、 現 不 動 堂 の 造 営 は 建 久 八 ・ 九 年 ( 二 九 七 ・ 八 ) と さ れ て い た の が 三 転 三 十 年 余 り 降 っ た こ と に な っ た。 そ こ で、 現 不 動 堂 が、 い わ ゆ る 三 昧 堂 と し て の 建 築 的 機 能 を も っ て い る か ど う か、 果 し て 貞 応 三 年 頃 と し て 納 得 い け る 建 築 様 式 を 備 え て い る か ど う か を 検 討 し、 さ ら に 工 匠 は 行 勇 に よ っ て 導 入 さ れ た 工 匠 が 東 大 寺 新 座 か、 金 剛 三 昧 院 と 同 じ く 建 仁 寺 工 な の か を 判 断 し て み た い。 先 ず 建 物 の 平 面 で あ る が、 母 屋 は 方 三 問 の 三 昧 堂 基 本 形 式 か ら 前 後 に 一 間 延 び た、 桁 行 三 間 梁 問 四 間 の 縦 長 形 式 で、 そ れ に 来 迎 壁、 屋 内 遊 離 柱 が あ っ て 浄 土 三 昧 堂 の 定 形 で あ る。 そ れ に 庇 の 間 を 両 側 に 付 加 し て 局 を 設 け て い る の が、 寒 い 高 野 山 上 の 三 昧 堂 と し て 特 別 な 配 慮 が 払 わ れ て い る。 ま た 向 拝 を 正 面 に 付 し て い る の は、 た だ に 三 昧 堂 と い う よ り も、 や は り 仏 堂 と し て の 格 を 与 え て い る の で あ ろ う。 作 風 は、 低 平 な 立 面 で 木 割 は 大 体 に 太 い が 重 厚 な 弊 に 陥 っ て い な い。 東 大 寺 新 座 は、 先 述 の よ う に 建 仁 寺 工 か ら 別 れ て 東 大 寺 に 移 り、 木 工 寮 系 の 本 座 と 協 同 で 仕 事 を し て い る う ち に 木 柄 の 太 い 木 工 寮 系 の 影 響 を 自 然 に 多 少 う け た ( そ れ は 新 座 衆 の 後 々 の 作 品 を 眺 め て み る と、 建 仁 寺 工 と 最 も 異 っ た 作 風 最 大 の 要 点 で あ る )。 し か し 生 れ が 工 芸 家 ( 内 匠 寮 ) の 建 仁 寺 工 で あ る だ け に、 完 全 に 木 工 寮 系 の 重 厚 で マ ン ネ リ ズ ム な 作 柄 に は 巻 込 ま れ て し ま わ な か っ た。 現 不 動 堂 に は、 東 大 寺 新 座 の こ の 特 徴 あ る 作 風 が あ り あ り と 現 わ れ て い る。 母 屋 の 両 側 に 庇 を 出 し て 局 を 設 け て い る の は、 要 求 さ れ る 建 築 条 件 に 応 じ て、 自 由 奔 放 な プ ラ ン ニ ン グ や 構 造 を 按 出 す る 建 仁 寺 工 の 能 力 と 特 性 を よ く う け て い る が、 意 匠 ・ 装 飾 に も 新 機 軸 を 生 ん で、 後 年 西 日 本 の 建 築 界 で 名 実 共 に 席 巻 す る の は 東 大 寺 新 座 工 ま た は そ の 系 列 で、 そ の 芽 生 え は こ の 建 物 で も 充 分 観 取 で き る。 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論
密 教 文 化 さ ら に、 こ れ が 東 大 寺 新 座 工 で あ る こ と を 断 定 し て は ば か ら な い の は、 向 拝 の 細 部 ・ 墓 股 内 繰 物、 須 弥 壇 の 細 部 様 式 に 現 わ れ て い る。 墓 股 内 に 双 曲 線 か ら 成 る 骨 線 の 繰 物 は、 後 の 東 大 寺 新 座 の 作 品 か ら み て 新 座 衆 に よ っ て 開 発 さ れ た も の ら し く、 須 弥 壇 の 枢 の 形、 殊 に 格 挟 間 の 姿 は 天 竺 様 を 知 っ て い る 者 の 仕 事 で し か な い。 こ の 堂 の 向 拝 に つ い て あ ま り 深 く 述 べ た の を 知 ら な い。 筆 者 は か ね て か ら こ の 向 拝 を 我 が 国 向 拝 中 最 高 の 傑 作 と 信 じ て い る。 そ れ は、 正 面 観 で は 向 拝 柱 間 の 間 隔 と 向 拝 柱 太 さ と の 比 例、 側 面 観 で は、 母 屋 か ら 向 拝 柱 立 所 の 出 の 広 さ、 し か も 向 拝 虹 梁 の 太 さ も さ る こ と な が ら 母 屋 と 向 拝 と を 繋 ぐ 直 線 的 な 虹 梁 の 長 さ と 太 さ と の 比 例 は 全 く 絶 妙 で、 ほ ん ら い 軽 妙 で あ る べ き 向 拝 を か く ま で そ の ま ま に こ な せ た 設 計 技 術 は 実 に 卓 抜 と い う よ り 他 に い い よ う が な い。 こ の 建 物 は 純 和 様 と い わ れ て き た。 し か し 向 拝 虹 梁 の 両 端 が 向 拝 柱 を 貫 通 し、 い わ ゆ る 向 拝 虹 梨 を 肘 木 化 し て 根 肘 木 の よ う な 使 い 方 を す る の は、 東 大 寺 で 開 発 し た 天 竺 様 を 工 匠 が 知 っ て い る 証 拠 で あ る。 し か も そ の 上 に 連 斗 ( つ れ と ) を 並 べ て い る の は、 東 大 寺 鐘 楼 を 経 験 し た 工 匠 で あ る こ と を 物 語 っ て お り、 東 大 寺 新 座、 ま た は 新 座 系 が こ の の ち の 向 拝 虹 梁 の 扱 い に、 こ う い う 手 法 を 一 特 色 と す る の で あ る。 こ れ ら の 諸 点 は、 こ の 建 物 の 造 営 に は 東 大 寺 新 座 系 が 携 っ た こ と を 裏 付 し、 建 久 な ど い う 頃 の も の で は な い こ と を も そ (12) の 様 式 に お い て 実 証 し て い る。 行 勇 は 金 剛 三 昧 院 の 造 営 に 建 仁 寺 工 を 使 い、 寂 静 院 の 造 営 に は 東 大 寺 新 座 工 を 使 っ て い る こ と が は っ き り し た。 こ う い う よ う に 二 つ の 工 匠 座 を 使 い わ け ね ば な ら な か っ た の は、 金 剛 三 昧 院 造 営 の 頃 東 大 寺 で は 東 塔 造 営 に 大 童 で あ り 行 勇 も 到 底 新 座 の 手 が 使 え ず 建 仁 寺 工 で 行 い、 寂 静 院 造 営 の 頃 は 新 座 に 多 少 手 が す い て き た 頃 だ か ら ( 東 塔 落 成 貞 応 二 年 ) 新 座 工 が 高 野 に 行 勇 沙 汰 で 導 入 さ れ た と い う の が 理 由 で あ ろ う。 な お、 現 不 動 堂 で 附 記 し て お き た い こ と が あ る。 そ れ は、 母 屋 の 床 上 中 央 に 大 壇 が 一 基 お か れ て お り、 こ れ の 工 作 や 様 式 は 須 弥 壇 と 全 く 同 様 で、 ま た 堂 の 平 面 は こ の 大 壇 が も と も と こ の 位 置 に 据 え ら れ る 計 画 で 作 ら れ て い る こ と を 示 し て い る。 つ ま り こ れ は、 堂 ・ 須 弥 壇 ・ 大 壇 の 組 合 せ が オ リ ジ ナ ル で あ る こ と を 裏 付 け て い る の で あ る。 ひ い て そ れ は、 真 言 密
で の 梁 問 四 間 の 前 後 に 長 い 阿 弥 陀 堂 の 起 源 を 示 し て い る。 即 ち こ の 種 の 阿 弥 陀 堂 は 阿 弥 陀 本 尊 の 須 弥 壇 を な る べ く 前 後 に 薄 く し、 仏 前 に 大 壇 を 据 え て 密 教 の 修 法 を 行 い、 さ ら に 堂 内 周 辺 を 続 道 で き る 平 面 を 求 め た の で あ る。 そ の 点 天 台 系 の 方 三 問 阿 弥 陀 堂 よ り 一 歩 進 展 し た 形 態 で、 浄 密 併 修、 し か も 大 衆 信 者 を 対 象 と し て い る。 こ れ は ま た 貞 暁 の 阿 弥 陀 信 仰 の 実 態 が、 真 言 と ど の よ う な 関 係 に 位 置 し た か を こ の 堂 の 平 面 が 示 唆 し て い る と 思 う。 結 語 金 剛 三 昧 院 の 多 宝 塔 ・ 経 蔵 は、 貞 応 二 年 ( 三 二 二 三 ) に 建 仁 寺 工 の 手 に よ っ て 竣 成 し、 金 剛 峯 寺 現 不 動 堂 は、 も と 寂 静 院 の 本 堂 格 で あ る 三 昧 堂 ( 清 涼 台 ) で、 そ の 造 営 は 貞 応 二 年 ( 一 二 二 三 ) 二 月 か ら、 嘉 禄 元 年 ( 一 二 二 六 ) の 前 半 ま で の 間 に、 東 大 寺 新 座 工 の 手 に な る も の で あ る こ と を 明 ら か に し た。 高 野 山 上 に 密 禅 一 致 と し て 行 勇 が 禅 風 を 導 い た こ と は い ま さ ら い う ま で も な い が、 そ れ は 高 野 山 史 上 注 目 す べ き 一 事 項 で あ っ た。 ま た 行 勇 の 高 野 山 上 に お け る 本 拠 金 剛 三 昧 院 と、 頼 朝 の 三 男 貞 暁 の 寂 静 院 と が、 高 野 山 上 で は 源 家 と 深 い 関 係 に あ る こ と も わ か っ て は い た が、 そ う い う 因 縁 か ら 建 仁 寺 工 ・ 東 大 寺 新 座 工 が 高 野 山 上 に 導 入 さ れ て い る こ と は 在 来 誰 れ も 指 摘 を み な か っ た よ う で あ る。 建 仁 寺 工 と 高 野 山 上 と の 直 接 関 係 は、 金 剛 三 昧 院 の 造 営 で 終 っ た ら し い。 し か し、 東 大 寺 の 鎌 倉 期 再 建 が 漸 次 完 成 に 近 づ く に つ れ、 本 座 は 大 和 の 中 央 部 に 依 然 主 導 力 を 保 ち、 た め に 独 立 後 の 新 座 は 自 ら 他 地 に 仕 事 を 求 め ね ば な ら な か っ た。 こ の と き、 新 座 に 仕 事 を 高 野 山 が 与 え る よ う に な る の は、 高 野 山 側 と し て は 教 線 と 勢 力 伸 張 に 新 座 を 利 用 し た わ け で あ る が、 そ の 背 後 に は 行 勇 の 存 在 と 寂 静 院 清 涼 台 造 営 を 機 縁 と し た 高 野 山 と の つ な が り が あ っ た 故 で あ る。 こ れ は 在 来 の 日 本 建 築 史 が 見 落 し て い た 二 こ ま で あ る。 こ の 行 勇 と 高 野 山 と の 関 係 に お い て、 東 大 寺 の 新 座 工 匠 と さ て は 鎌 倉 幕 府 と の 関 係 が 展 開 し、 京 都 の 朝 廷、 摂 関 家 の 実 力 衰 退 は 京 の 木 工 寮 系 建 築 工 全 般、 奈 良 の 奉 日 。 興 福 寺 工、 ま た 東 大 寺 本 座 工 の 衰 退 を 招 い た ( 東 大 寺 本 座 工 の 衰 退 原 因 は、 良 工 の 欠 乏 と 主 導 者 間 の 内 訂 が あ っ た か も 知 れ な い )。 こ れ と は 逆 に、 新 座 の 発 展 は 遂 に 鎌 倉 時 代 末 関 西 一 円 の 建 築 界 に 最 大 最 高 の 王 座 を 築 く に 至 る の で あ る が、 そ れ ら に つ い 高 野 山 鎌 倉 期 建 築 遺 構 私 論