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Shakespeare und kein EndeにみられるGoethe

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Academic year: 2021

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(1)Title. Shakespeare und kein EndeにみられるGoethe. Author(s). 永沼, 更始郎. Citation. 北海道教育大学紀要. 第一部. A, 人文科学編, 17(2): 108-114. Issue Date. 1966-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3914. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第1 7巻. 昭和41年12月. 北海道教育大学紀要 (第一部A). 第 2 号. “ Shakes eare und ke in p. 永. 沼. Bnde” に み ら れ る Goethe. 更. 始. 郎. 北海道教育大学岩見沢分校 ドイツ女学研究室. ’ ”shakes eare und kein Ende’ P K0shi r6 NAGANUMA : Von Goethes Aufsatz :. “Shakes eare und ke in EI 1de” 論に祖述 しつつ, そこにあらわれて p この小論は Goethe の l e 自身の自然観, 人間観等をその つどとりあ げ, 考察 してゆこうと試みる も の で あ くる Goeq. ) る1 。 Goethe は, 多く の 人 々 に い つ も い つ も 論 じら れ て き て い る Shakespeare. をさらにとりあげて. 論ずるのは, 精神の特性が他の精神を永久にふるいたたせるにあるからであり, 問題となるのは Shal ‘espeareの 作 風 が 一 般 に 何 を 影 響 しう る か と い う こ と な の で あ る, と は じめ に 論 拠 と 問 題 の 所 在 と を あ き ら か に して い る, ’ ”Shakes eare a ls Di iberhaupt, chter t p. Goe the に よ れ ば, 人 間 の な しう る 最 高 の こ と は 自 己 の 認 識 で あ り,. そ れ が 他 人 の心v ー青を も 内. 的に体験する導きを与えるのである, このための自然的素質を生まれもち, それを経験によっ て 実際の目 的へと錬成 している人があるのだが, この錬成するということによっ て世の中と諸事件 とからより高い意味で何かを得る能力が生ずる. 詩人もこのような素質を生まれもっ てはいるが 一般的目的のため しかし詩人は, それを直接的地上的目的のためではなくて, より高い精神的,- に構成するのである. Goethe はさらに続けて次のように 主張する, Shakespeare は最大の詩人である。 もっ とも楽 々と世界を認識 し, もっ とも楽々と内的直観を 語り, 最高度に読者を世界の意識の中へと移すか らで あ る. ま た そ れ に よ っ て 世 界 は, 我 々 (Shakespeare 読者) にとっ て見通しのきくものとな り, 世 界 の す べ て が, そ れ 以 上 の こ と が, も っ と も 単 純 な 仲 介 に よ っ て 我 々 に 親 しい も の と な る e の作品 が肉体の目にではなく, 内的な感覚に語りかけるというもっと か らで あ る, Shakespear. も単純な仲介によっ て. 最高の, 一番はやい伝達は, 言葉によっ て内的な感覚に達する. 目によ っ て把えられたもの が, それだけと しては親 しみなく我々の心を深くゆり動かすことのない場合 に は, 言 葉 は時 に 実 り を も た ら す も の だ か ら で あ る. Shakespeare は ま っ た く そ の よ う に 我 々 の. 内的な感覚にむ かっ て語りかける. また我々読者の側からいえば, その内的な感覚を通 して想像 力の形象 界が生きてくる. このように して完全な効果 が生ずるのである. それ故にこそ Shake s- peare の 作品 を 読 む 場 合 に す べ て が 我 々 の 目 の 前 で 起 っ て い る と 感 じら れ る の で あ る, Shake. が効果をあげているのは, 生きた言葉によっ てであり, それは読んでもらう場合にもっ と もよく伝達される, と Goethe は 述 べ, 続 け て 次 の よ う に 主 張 す る. 我 々 は 読 ん で も ら う こ と に peare. -108一.

(3) . 永. 沼. 更 始. 郎. よ っ て Sh ake s r e がさまざまの出来事を織りなすもと の糸をた どることができる pea. , 性格の描写 に従っ て我々は一定の姿や形を思い描くのであるが, また同時に, 内部で起っ ていることは言語 章 句 のクリリ に よ っ て 知 ら ね ば な ら な い. Shakespeare の作品においては 劇中のすべての人物が , 一 点 と い え ども 我 々 を 暗 が り に 迷 い 残 して は お か な い,. ど ん な こ と で も 語 られ る し, 一 つ の 心 が. 小心翼々とおし隠 していることさえも自由に白日に晒される. それによっ て我々は人生の真実を ) 体 験 す る の で あ る2 .. では. Shakespeare. とは?. l tge i t の仲間である, と Goethe は 言 う, Shakespeare は Goethe に よ は We s , i t の よ う に, 世 界 を 貫 き 通 る。 何 も の も こ の 二 者 に は 隠 さ れ て い な い tge s れば, Wel . さ て, We l i tge t の任務が秘密を保持することであるな らば, その秘密を我々に語り 打ち明けてくれ s Shakespeare. , るのが詩人の意義である. たとえ石がそれを告げなければならないと しても秘密はあ らわれねば ならぬ. それ故 Shakespeare の 作 品 で は 無 生 物 さ え も お しせ ま っ てく る。 下 居 さ せ られ た 一 切 の ) ものが共に語る, 一切の自然物が声をあげ, 毎度 共演している3 , l i tge t と は 何 を 意 味 して い る の で あ ろ う か. Goethe はそれに関 と こ ろ で Goethe の い う We s. してある時次のように言っ ている. 「我々が何千年以来の人間の行動を眺めるならば, 全 国民な らびに個々の人間につねに一種の魔力を及ぼしてきたいくつかの一般的な 方式が認められる。 永 遠に回帰 し, 無数の多彩な装飾の下にありなが ら永遠に変らぬこれらの方式は, より高き力から 生に与えられた不思議な贈物である, もちろん各人がこれらの方式をそれぞれ独自の言葉に翻訳 し, 種々の方法で各自の狭められた個人的状況に適用 し, そのため時に は多くの不純物を混入す るので, それらの方式はもはやそ の本来の意味においては殆んど認識されなくなっ ている. しか しそれにもかかわらずその本来の意味は, いつも思いがけない時に, 或いはこの民族に或いはあ l i の 民 族に 浮 び上 る. そ して 注 意 深 い 研 究 者 は か よ う な 方 式 の 中 か ら We t t の一種 のアルフ ァ s ge 4 ) W l i t の こ の ア ル フ ァ ベ ッ ト を Goethe は精神的世界の 「原理」 と ベ ッ トを 組 み 立 て る .」 etge s. して措定せ ず, 自然的世界の 「原現象」 の中に眺め, 世界歴史についても試みられ る か ぎり こ れ l i tge t と は 自 然 的 世 界を 深 く 知 悉 して い る を 試 み て い る. で あ る と す れ ば, Goethe の 言 う We s he t 精神という意味内容を有するのではあるまいか. Goe. は Shakespeare の Goe the 自 身 と の 共. 通点 に ス ポ ッ トを あ て て 語 っ て い る ごと く 思 わ れ る。. の自然観は, 自然を世界の精神的事象の単なる自然的舞台とみなす Hege1 と は 対 立 し て, 自然を世界の精神的事象の理解の鍵とみな している, すなわち Goethe は 植 物 や 骨 格, 岩 石 や色彩に親 しみ, あらゆる現象において真実で堅固 で規則的だと感 じた自然を研究することによ Goethe. っ て, 皮の あ の 忍耐 と 注 意 力 と を 養 っ た の で あ る が, そ の 際 Goethe は自然を怒意的に構成した. り, 本質の認識を強行したりすることをせず, 現象そのものの方から現われてきても のを言うよ う に も っ て ゆく の で あ る. 現 象 そ の も の の側 か ら 現 わ れ て き て も の を 言 う - - そ の 言葉を聴きと l i tge t と 名 付け て い る の で は あ る ま い か さ らに は ま る 能力のあるもの, それを Goethe は We s . た. Shakespeare. にその能力を, ならびに聴きとっ た言葉を表現する能力をみているのではある ま. . さ て 以 上 の よ う に Shakespeare を自然界に結びつけて論じた Goethe は 次 に Shakespear e の. he によれば t 非自然界との関連を考察 している. Goe 使 用 して い る.. Shakespeare. は文明社会の宝もまた十分に. そ れ は 祖国イ ギ リ ス -- い た る と こ ろ 光 栄 あ る 偉 大 な 時 代 のイ ギ リ ス -- を 通 し. て で あ る. Shakespeare は そ の 正 当 な文 化 だ け で なく, ゆ が ん だ 文 化 を も 偉 大 な 明 瞭 さ で 示 して -109-.

(4) . ‘ ’ に み られ る Goethe ‘Shakespeare und ke in Bnde’. い る. 彼 は そ の 時 代 に 同 化 して い る の で 我 々 を こ ん な に も 動 か す の で あ る. ま た Shakespeare は 人 間 の心 の 衣 裳 を よ く 知 っ て い る.. そ う して こ の 心 の 衣 裳 と い う 点では万人平等である. それ故. 彼 が ロ ー マ 人 を す ぐ れ て 描 い て い る と い っ て も, そ れ は 肉 付 け さ れ たイ ギ リ ス 人 な の で あ り, そ. れはまたなによりもまず人間そのものなのである, 1akespeare の個々の作品の根 底には, 常に異った観念が存在しているし, 最後に Goethe は SI しかもそれが全体と してりっ ぱな効果をあげているのはた ぐいまれである, と実例 を あ げ て, “Shakes eare al iberhaupt“ を 論 じ お え て い る s Dichter 【 p , ’ ”Shakes eare vergl i i ten und Neuesten’ t den A1 chen nl p ,. heによれば, この世界のうちに t の偉大な精神を活発に動か している関心は, Goe ある. 彼の実人生の真実と 有為こそ彼の作品を支えている大きな基礎 だからである, それ故, 彼 の書いたものはすべてあのように真実に, また本質的にみえるのである. そうして彼の価値は本 来 現 在 の 上 に 置 か れ て い る. しか し詳 しく 観 察 す る と, Shakespeare は決定的と近代の詩人であ Shakespeare. り, 古代人とはとほう もない大きい溝によっ て隔てられている. それも単に外的形式によるので はなくてもっ とも内的な, もっ とも深い意 義によっ てである, と Goethe は主張する, では古代と近代ということを Goethe はいかに考えているのか. he は古代と 近代とのあいだに古代的と近代的, 異教的とキリスト教的, 必然と自由, 当為 Goe t と意欲という対照を計えている, 人間 がこおむり得る最大かつ最多数の苦 しみは, 最後の二項の 不釣合から説明せられる, そこから生ずる困 惑が容易に解決できる些細なものである場合には, 滑稽 な局面の素地ができあがり, それが解決のできない最高のものである場合には, 悲劇的局面 が生ずる. 古い作品の中 で主と して支配 しているのは当為と実行の不釣合であり, 新 しい作品で は, それは意欲と実行の不釣合である, 当為は人間に負わされたものであり, その実行の不可能 は恐ろしい, 意欲は人間 が自分自身に負わすものであり, 人間の意欲はその天国である. 一方で は一切が運命であると 思われ, 他方では一切が自由であるように見える. 古代の悲劇は避け られ ぬ当為に基 づいている, この不可避の当為はそれを阻まんとする意欲によっ て, 却っ て鋭くされ 促進されるばかりで, それは古代の道徳法や法律並 びに宇宙の法則に具偽ヨヒされている, それは 全体の福祉を目的と している, これに反 して意欲は自由であり, 個々人に力を添える. それは新 時代の神である. そ して我々の芸 術や意向 が古代人のそれと永遠に区別される理由は そ こ に あ the は こ の よ う に 古 代 と 近 代 の 対 立 を 大 悲 劇 に つ い て 考 え て い る の で あ る が, そ れ の み な る. Goe. らず日常生活についてもこの古代と近代の対立を明瞭に 考えていたことは, 次のようにカルタ遊 びに よ っ て そ れ を 説 明 して い る こ と か ら も 明 ら か で あ る,. 「カルタ遊びを一種の詩作と してみよ. これもまたかの二要素 (当為と意欲) から成り立っ て いる. この遊びの形 式は, 偶然と結びついていて, ここでは古代人が運命の形と して知っ ていた のと全く同 じ当為の地位を占める し, 意欲は遊戯者の能力と結びついていて, 当為を阻もうとす る. この意味で私はホイ スト (トラン プ遊びの一種) を古代的と呼びたい. この遊びの形式は偶 然を, 否意志そのものを制限する, 私は, 味方と敵 が与えられると, 私は手に入っ た札をもっ て 次々と偶然を支配するが, もちろん偶然から身をか わすわけには行かない. オン ブル (トラソフ 遊びの一種) やオ ン ブルと 似た遊びでは, 反対のことが起る. これらでは, 私の意欲や冒険に多 くの扉が残されている. 私は私の手に入った札を否認 することも, 違った意味に使うことも, 半 分叉は全部を棄てることも, 僕倖のたすけを呼ぶことも, それどころか逆の手で最悪の札から最 -11 0-.

(5) . 永. 沼. 更 始. 郎. 大の利益を引きだすこともできるので, この種の遊びは近代的思考様式及び詩作様式とまったく )」 同 じで あ る5 .. 古代と近代を. Goethe は 以 上 の よ う に 把 握 して い る の で あ る .. では以上のように把握した古代と現代とに対比した場合の. Shakespeare は い か に あ る か.. Shakespeare は Goe e the に よ れ ば, 古 代 と 近 代 と を 極 度 に 結 合 して い る, Shakepear ,. の人物. は当為を課せられている, すなわち制限を受けるある特殊なものと して定められている, しか し 人間と して彼等は意欲する, すなわち制限を受けず普遍的なものを要求する, 個人の力を超える 意 欲 は 近 代 的 で あ る, こ こ に 内 部 の 闘 争 が 生 ず る,. しか し Shakespeare は こ の 止 ま る と こ ろ を. 知らない意欲を内面から生ぜ しめず, 外面的動機によっ て発動せ しめることにより, 意欲と当為 の 合 一 に 成功 して い る, そ れ に よ っ て 意 欲 は 一 種 の 当 為 と な り, 古 代 的 な も の に 近 づ く, Shakes- peare. は当為と意欲を個人の性格において平衡せ しめることによ っ てこのように古代と近代 を 極. 度 に 結 合 して い る, こ こ に Shakespeare が 他 と 比 較 に な ら な い ほ どす ぐれ て い る 点 が あ る の で あ る. Shakespear e が そ の 作 中 の 人 物 に お い て 古 い 世 界 と 新 しい 世 界 を 結 びつ け て い る さ ま は 我 々 楽 しい 驚 を に き お ぼ え さ せ る ほ ど で あ る, こ こに こ そ 我 々 が Shakespeare に 学ぶ べ き 点 が 存 在 す ‘Romant i k“, す な わ ち 近 代 性 を 過 分 に 賞 め 揚 げ す ぎ る こ と なく, 一 る の で あ る, 我 々 は 我 々 の ‘ 見 して 結 合 し が たく 思 わ れ る 対 立 で も, Shakespear e という偉大にして無比なる巨匠がすでに実. - 際この奇跡を成 しとげているのだから尚更我々のうちで結合することに努力すべきである. Goe the は 以 上 の よ う に Sharkespeare に古代と近 代を結合する者を見ているのである. 最後に Goethe は, Shakespeare は適当な収穫期に生まれ, 生命に充ちた新教国に活動でき, そ こ で は 信 心 ぶ っ た 狂 気 が 久 しく 沈 黙 し, Shakespeare のような 真の自然敬度者に, 何らかの特 e ea r sp 定の宗教とは無関係に, おのれの純粋な 内心を宗教的に発 展せ しめる自由があったとShake “ の有利な点を挙げて, ” Shakespeare, verglichen mit den A1ten und Neusten 論 じお え て い る. 以 上 の Shakespeare に 関 す る Goethe の 論 に お い て, Goethe は Shakespeare の 自 身 と の 共 ) り あ げ て 通面 に ス ポ ッ トを あ て て 語 っ て い る ごとく 思 わ れ る6 , 私 はそ の う ちのいく つ かを と ) Goe the 自 身 の 思 考 を 考 察 し, こ の 小 論 を お わ る こ と に す る7 .. 「古代と近代を結合する Shakespeare」 と い う Goethe の主張は, Goethe 自 身 に も そ の ま ま l で さ え, Goeヒhe の偉大さは 「本質的に近代的 適用 さ れ る, ロ マ ン派 の 一 人 で あ る F,Schl ege ) なるもの」 と 「本質的に古代的なるもの」 とを結合する点にあるとみなしている の で あ る8 . は1 9世紀の歴史において古代と近代, 並びに異教とキリスト教の差異をまだ裁決す べ き 問題と感 じていない最後の人間だったのであり, 彼の天性は古代を近代的なるものの円周のうち. Goethe. に 現 前 して い る の で あ る. the 自 身 に 適用 さ れ る と い う こ と は, 「真 の自 然 敬 度者 Shakespeare」 と い う 論 も ま た Goe ’ ” We l などとは違って, 世界史の進行の中 l i tge st’ に 関 して す で に 述 べ た ご と く で あ る, Hege べ the は 変 化 の 法 則 - - す て の 生 き る も の に お い て 絶 え ざ る 形 態 に で は なく, 自 然 の う ち に, Goe. の変化, すなわち同一物の変態が行なわれているという変化の法則--を認識し, そこから得ら heは自然を出発点と し, 人間および人間の歴 t e れた世界への自然科学的洞察を堅持していた, Go 史の理解に到達 しているのである, ゲーテのかかる実証主義的性質に基 づく厳格な歴 史眼の人間 主義は次の対話のうちに如実にあらわれているといえよう, -111-.

(6) . “Shakes eare und ke in Ende“ に み られ る Goe l t le p. 「たとい貴下 (歴史家 H,Luden) が今すべての資料を明らかに してくわ しく検査することが できると しても, 何を見出されるであろうか. とうの昔に発見されていて, その確証を遠くに求 める必要のない一大真実以外の何物でもない, 即ちいっの時代にも, どこの国でも悲惨だったと いう真実である. 人間はたえず脅か し合い苦 しめあっ てきた, たがいに苛責と拷問を与えあって きた. おのれと他人の少 しばかりの生活を不愉快なものに し, .世界の美 しさと美 しい世界が与え る生存の快さをかえりみることも味わうこともできなかった, 少数の人々にのみ生活は心地よく 喜ばしいものとな った. 大低の人々は, しばらくのあいだ共に生活を送ると, 新たに始めるより む しろこの世に別れを 告 げることを欲 した. それでもまだかれを していく らかでも生に執着せ し めるものがあったとすれば, またあるとすれば, それは死に対する恐怖であ った しまた恐怖であ る, それは事実であり, 事実であった. おそらく この後も変らないであろう. それは所詮人間の 運命である. それ以上何の証言が必要であろうか, 」 それに対 して Luden が 民族を持ちだ したとき Goethe は次のように答えた. 「民族も人間と同 じことだ. 民族といっても人間から成り立つのではない か. 民族も人間と同 様にこの世に生まれ, いく らか長く, しかも同様に奇快に動き廻り, 同様に横死を逃げたり老衰 や病弱のため死んだりする. 人間の困窮全体と災厄全体はとりもなおさず民族の困窮と災厄であ )」 る9 .. じじつ世界歴史の本質はきこえのいい大事件にのみあるのではなく, ひとりひとりの人間の苦 悩にも存するの ではあるまいか. またも し我々が世界歴史において感歎 し学ぶべ き点があるとす れば, それは人類がいかなる損失, いかなる破壊, いかなる傷害の中からでも常に新たに立ち直 り建設をは じめる力であり, 忍耐であり, 粘り強さなのではあるまいか. 次 に, Shakespeare は 「何らかの特定の宗教とは無関係におのれの純粋な内心を宗教的に発展. せ しめる自由のうちに生きた」 と. Goethe は 主 張 して い る の で あ る が こ の 論 も ま た Goe the 自 ,. the 身 に 適用 さ れ る と い う こ と は, Hege l を 「底 意 あ る 神 学 者」 と み な して い る Ni et zsche がGoe )」 と み て い る こ と か ら も 提 測 せ ら れ る Goethe は 「『私は神を信ずる』 と o を 「卒 直 な 異 教 徒l . , い う のは, う つ く しい 賞 賛 さ る べ き 言 葉 で あ る”).」 と い い, ま た, 自 分 は キ リ ス トが 持 ち た い と 2 ) 思 っ てい た, お そ らく 唯 一 の 真 の キ リ ス ト教 徒 で あ る と さ え 言 っ て い る1 , か と 思 う と, 「一 体. ) 3 神の御名を口に唱えて, 『私は神を信ずる』 と告白できるものがあろうか1 」 と Faust を して . ’ “ ’ 言わ しめ, さ らに は, Prometheus 断 片 に お い て, ネ申々 に 対 して 反 逆 して い る の み な らず, キ f l リ ス ト教 的 信 仰 に 対 して 攻 撃 を 加 え て さ え い る. Goe le の キ リ ス ト お よ び キ リ ス ト教 に 関 す る. このような賛否の間の変動は, 不明瞭な動揺からくるのではなくて, 中庸と節度を具えた偉大な “ Vo l lmensch” の 二 者 選 一 に は 捉 え ら れ な い 自 由 な 立 場 に 基 づ い て い る。 4 ) 」, さ ら に は, 「こ の 俺 の 霊 で 人 「こ の 大 地 か ら 俺 の 歓 喜 は 湧く。 こ の日 が 俺 の 苦 痛 を 照 す1 .. 間の最上のもの, 深甚なものを捉えて, 歓喜をも, 若痛をもこの胸の中に積んで, この自我即人 5 )J と Faust の 口 を 生 に な る ま で 拡 大 して, 遂 に は そ の 人 生 と い う も の と 同 じく 滅 び てみ よ う1 lhe lm Meisters 通 して 語 る Goethe の 哲 学 的 思 索 は, 自 我 と 世 界 観 の 一 致 を め ざ して お り, “ Wi ’ ’ 1 6 ) Wander iahr が に お い て キ リ ス ト教 を 人 類 到 達 す る こ と の で き た, ま た 到 達 しな け れ ば な ら e な か っ た 最 後と して 最 高 の も の で あ る と 言 明 す る Goe the の宗教感情は, キリス ト教を人間性の. うちに止揚 しようとする。 それは自己を人間と して偉大に して自由なりと感 じうるところにその 7 ) であるとするならば, もはやそれは単なるキリスト教で は な く て, 意味が存するごとき宗教1 ” ”Gehe i i e 断片にも説かれてあるように, 「高められた人間的状態の永遠の持続」を意味す l nn s s -112-.

(7) . 永. 沼. 更 始. 郎. るものである. しか してかく の ごときを思考・感情を Goethe は自然探究によ て培 たのであ っ っ the は神即ち自然という観念にたつものである り, Goe . 「神 の 神 学 的 証 明 は, 理 性 の 批 判 に よ っ て 却 け ら れ て しま た そ の こ と は そ れ で い い し か っ , ,. し証明と して妥当 しないものが, 感情と しては妥当する 我々はふたたび雷電神学や風雪神学な . どから, 神を証明 しようとするすべての同様な敬度な諸努力を呼び出すのである 我々は稲妻や . 雷鳴や風雨のなかに 超大な力に近いものを, 花々の匂い, ほのかな空気のざわめきの中に や , さしく近づいてく る存在を予感 しないだろうか1 8 )J Goe heは宇宙の神的なものに触発され 人間の内部の神的なものの存在を感じ 二者がかたく t , , 結びあうことを正 しく感 じていた のである , 「キリス トに対 してうやうや しく畏敬の念を示すのが 私の本性に適 うのかと 尋 ねる人があ た っ ら, 私はまったくそのとおりだと言おう. 私はそれを倫理性の最高原理の神的啓示と してその前 に拝脆する, 太陽を崇拝す るのが私の本性に適うのかと尋ねる人があったら 私はそれにもま , っ たくそのと おりだと言おう. じじつ太陽も同 じく至高者の一種の啓示であり しかも我々地上の , 子が知覚することを許され ているもっとも強力な啓示である 私は太陽において神の生産力と光 . 9 )」 を 崇 拝 す る1 .. こ の 小 論 は, K. Lowi th の ” Von Hegel zu Ni l et sche” (柴 田 治 三 郎 訳) に 負 う と こ ろ. きわめて大きい. テ. ク. ス. ト. Goethes 駅 ′ orke i i t l an 帆ァ egner Ver s ag (Hamburg . Hamburger Ausgabe Bd .12 , Chr. l963). 註 1) Goethe の Shakespeare に関するこの考察 ”Shakespeare und kein Ende” が Shakespeare 論一 般 としてどこまで妥当するかは, ここでは, 問題としない . なお Goe the の Shakespeare 論と して は1772年 の ”Zum Shekespeares-Tag” が あ る . ・ ” 2) これに関しては um Shakespeares-Teg の 次 の 文章 を 参照 の こ と, 「Shakespeare の演劇は世界 の歴史がその中で見えない糸につながって我々の目の前を巡ってゆくひとつの美しいのぞきめがねであ. る.」 (S ,226) 3) 「Shakespeare からは自然が予言している 」 同上 (S 2 7) , ,2 hes Ge 4) Goe [ sprachei n B益nden, herausgegeben Von B1 ig1909 亘 ( edermann 楽 19) , 2 Au凡 Lepz . S一 5) テク ス ト S .292. l 6) これに関しては We t st についての個所においてもすでに述べておいた f ge . ‘Shakespear 7) Goe the は ‘ in Ende” を, “Shake e und ke l spear s Di ea cht eruberhaupt”, “Shakes-. ・Shakes eare a ん l i tden A1 chenl ni t peare en und Neus l t i en“ お よひご‘ s Theat , verg erd cht p er“ の ニ. 部に分けて論じている, そのうち前二者において特に Goe heとの共通面を語っているので, “Shake- t. l speare a t s Thea erdi cht er“ はここでは取り上げない. ich schl i 8) Fr l から兄 We he lm あて1 edr l ege 7 9 4年2月2 7日付の手紙 9) ”Gesprach“ 1, S ,434 以下 10) 『ヘ ー ゲ ルか らニ ー チ ェ へ』 k h 著柴田治三郎訳岩波現代叢書 2 t 33ページ (第1巻) . L6wi 11) ” Maxin i ・ en und Renex onen” 第1 12) “Gesprac挫’ W S ,261 tderer 13) ”Faus i l“ 第3 st e Te 4 32行以下. 1 4) 同上第1663行以下 -113-.

(8) . ’ に み られ る Goe ‘ ‘Shakespeare und ke the in Bnde’. 7 72行以下 15) 同上第1 16) 第2巻第1章 1 7) 「しかし自己を人間として偉大に して自由なりと感じ得るところにその意味が存するようなキリスト教 が, キリスト教本来の意義と合致するところ如何に少ないかについては, 〔ヘーゲルも〕 ゲーテも別段 6ペ th の主張を参照されたい. 『ヘーゲルからニーチェへ』 1 2 考え て い な か っ た,」 と い う K, Lるwi ージ. ’ 1 8) ” Maximen und Reaexione援 第 9 19) “Gesprach” Nr ,S ,441以 下. -114-.

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