唐代挽歌詩研究
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(2) . 唐 代 挽 歌 詩 研究. 第 一部A)第四十五巻 第二号 北海道教育大学紀要 (. 序. 平成七年三月. 「 隣 に喪有 れば、春 く に相 せず。里 に蹟す る有 れば、巷 に歌わず 。 礼記 」(. 吉. 後. 川. 藤. 雅. 秋. 樹. 正. 「 中国文 学報」第十 二冊) があ る 文 選挽歌詩考」 ( 心 と じた、 一海知義氏 の 「. が、唐代 の挽歌 に ついての研究 はほと んどなされ て いな い。 本論 は唐代 の挽歌を中心 に、挽歌 が作 られた背景 、及び挽歌 の形式と内容 ‐ の変化 に検討を加え ること により、挽歌がなぜ歌 い続 けられ てき た のかと い. う問題 に迫 ることを目的 とす る。なお、印刷 の都合を考慮 し、常 用字体 のあ. .. 檀弓上). るも のは こ れ を 用 いた 。. 標) の注 に、起 源 に ついての諸説 の根拠とな る四 つの事 柄 が詳 しく述 べられ. 話を集 めた 『 世説新語』任 誕篇 の、張 駿 の故事 に つけられた梁 の劉 峻 ( 劉孝. 挽歌 の起源 に ついては諸説 があり明 らか ではな い。醜晋 の代表 的人物 の逸. の 挽歌 の始ま り. えな がら検討を加え る。. が六朝 期を経 てど のよう に唐代 へと つなが って いく のか、従来 の研究を ふま. ここ では、唐代 の挽歌を考え るために、漢代より歌 い続けられ てき た挽歌. 一 歌い続けられてきた挽歌. 喪 」 に お け る基 本 的 な 考 え の中 で 「 歌」 ( 詩 )や 「 音楽」 古 く か ら 、儒 家 の 「 音 楽 」は、 は哀 し み を 表 す も のと し て は と らえ ら れ て いな い。「歌 L ( 詩)や 「. 生き ている人間 の成長 のためにこそ必要と され、生き た人間 に対 し て己 の心 詩 に興 り 、 を 伝 え る た め に こ そ 用 いら れ る べき も の であ った 。 そ の こ と は 「. 論語 泰 伯 篇)、 あ る いは 「 辞 は達 す る のみこ ( 同 礼 に立ち、楽 に成 る。 」( 衛霊公篇)と いう孔 子 の言葉 によく現れ て いる。 挽 歌 」 が 葬 送 の際 に歌 い続 け ら れ てき そ の 一方 で、 少 な く と も 漢 代 よ り 「 た と いう 事 実 が あ る 。 そ こ に、 儒 教 的 精 神 と いう 一面 だ け では は か る こと の でき な い、 「 詩 」 や 「歌 」 の本 来 持 つ根 源 的 な 力 を 感 じ 取 る こと が でき る 。. なぜ挽歌 が歌 い続け られ てきた のかと いう問題を考え ることは、人間が死 をど のよう にとらえ てき た のかを問 い、 ひ いては文学と死と の関わりを考え る こと に連 な って いく 。. 「 挽歌」 に関す る代表的 な研究 にはへ 『 文 選』 に収 める五首 の挽歌詩を中. 1←.
(3) . 樹 雅. .. 吉 正 秋. 藤 後. とき、 ( 帝 に仕え ること を潔 しと せず)自殺 した田横 に対 し、 そ の従者 が哀. ており、特 にそ の中 の晋 の護子 の 『 漢 の高祖) の 法 訓』 か ら引 く、 「 高帝 (. かなも のにし て いく。. もせばかもす ほど、 そ の不吉 なイ メージとは裏腹 に、文学と し ての位置を確. し み にたえず 歌を作り哀 し い響 き に思 いを こめた。 」 と いう 田横 の挽歌 にま 巻 五百五十 二に引く、劉宋 の何承 天 の 『 纂文』 にも見え 、六朝期 には既 に、 田横 の門人 の故事 を挽歌 の起源とす る説が 一般的 であ った こと がう かがわれ. 章)日、蓮上朝 蕪上之露易蹄減、亦謂人死魂精帰乎嵩里。故有二章、 一 (. 薙露、嵩里並喪歌。出 田横 門人。横自殺、門人傷之、為之悲歌、言人命如. 先 の晋 の荏豹 の 『 古今注』 には、挽歌 に関す る次 のよう な記述 があ る。. 六朝期 の挽歌 の展開. る 。 も と よ り 、 こ れ だ け の こ と で挽 歌 の起 源 は特 定 でき な いが 、 少 な く と も. 露何易蹄 :::、其 二章 日、嵩里誰 家地 :::。至孝武時、李延年 、乃分為 二. の. 普代 に至 って 「 挽歌」と いう言葉 が定着 し、 そ の由来 に ついて文人達 があ る 種 の関心を寄 せ て いた ことは間違 いな い。そ の文 人達 の関心 の背 景を考え た. 曲 :::。 世 呼 為 挽 歌 也 。. つわ る話 は 、 晋 の穫 豹 の 『 古 今 注 』、 梁 の沈 約 の 『 宋 書』 楽 志 、 『 太平御覧』. とき 、次 の応 勘 の 『 風俗 通』 に載 せ る挽歌 にま つわ る逸話 に注意 し ておく必. し て魂 精 の嵩 里 に帰 るを謂う。故 に二章有り、 一章 に日く、蓮上 の朝露何. 要 が あ る。. 風俗 通日、時京師賓 婚嘉会、皆作魁編、酒 酎之後 、続以挽歌。. ぞ味 き 易 き と :::、 其 の 二章 に 日 く 、 嵩 里 は 誰 が 家 の地 ぞ と :::。 孝 武 の. 薙露 、嵩 里は並び に喪歌 なり。 田横 の門人 に出ず 。横目殺 し、門人之を傷 み、之 が為 に悲歌 し、人 の命 の蓮 上 の露 の如 く蹄減 し易き を言 い、亦 人死. 風俗通 に日く、時 に京師 の賓婚嘉会 に、皆魁福を作 し、酒酎わな る の後、. 時 に至り、李延年、ー 乃ち分かち て二曲 と為す :::。世 に呼 び て挽歌と為す。. も挽歌と し て歌わ れ ていた ことを意味 しな い。しかし、晋代以降 の文 人達 が、. 「 蕪露」 と、 「 嵩 里 」 の歌 が 挽 歌 の源 流 と 考 え ら れ て いた こ と は 、 必 ず し. 続 ぐ に挽 歌 を 以 てす と 。 (『 続 漢 書』 五行志 注 引 ). これは、酒宴 の席 で挽歌が歌われた ことを示す記事 だ が、後漢末 、挽歌が. 薙 の葉 の上 の露 の如 き はかな さ」 を歌う 一章 と、 「 死後、魂 が嵩 里 へと帰 っ. こ の 二 つ の歌 を 挽 歌 の源 流 と 考 え 、 そ の 二 つ の歌 が 、 も と も と は 「人 命 の、. 後漢 の王逸 の 『 楚辞章句 』 でも指摘 され て いるが、中国文学 の機能 の 一つ. て行く」 ことを歌う 一章 の、 二章 一曲 であ ったことを意識 し挽歌を作 った こ. 葬 送以外 の場 面 でも歌われ て いた ことを私たち に伝え る。 とし て、愁 い、憤り、煩悶 など の感情 から の解放と い った効 用 が漢代 より認. 向 へと展開し て行く。. を悼 ん で作 られた挽歌 であ る。. 劉宋 の江智 淵、北醜 の温子昇 、北斉 の直諭祖 へと つながる、特定 の個人 の死. へと つな が る 、 広 く 人 間 の死 一般 を 対 象 と し て作 ら れ た 挽 歌 であ り 、 一つは. 文選』 に収 められた醜 の謬製 、西晋 の陸機 、東 晋 の陶淵 明 そ の 一つは、 『. と は事実 であ る。 このよう な文人達 の意 識 のもと に、挽歌 は大きく 二 つの方. められ ている。挽歌が葬送以外 の場面 で歌わ れるよう にな った背 景 には、王 逸 の言う 「 払骸 の念 を得 し、傷 み懐 う の心 を救う 。 」 と いう 働き を挽 歌 の中 に認 め て いた状況が考 えら れ る。 こ の働きは、挽歌 が本来 、人 の死と いう悲 哀 の現実 に直面した時 に歌 われたと いう事 実と呼応 し て いる。 挽歌 は、 「 坐中 に聞 く者 、皆 た め に沸を掩う」 と いう 、悲 哀 の感情 を共有 しよう とす る享受 者 のもと、哀 しければ哀し いほど、周囲 の人 々が物議を か. 8 1.
(4) . 唐代挽歌詩研究. 千鵠、そし て白居易ら の手 により新たな展開を見せ る。後者 は六朝期 にはま. 以後 二百年 近 い空白期 間を置き 、中唐期 に至 って、沈千 運、孟 運卿、道微明、. 文 選』の挽歌を越え るも のではな い。 表現、内容 、構 成等 の面 から比較 し て、『. 前者 は、淵明 の挽歌以後、劉宋 の飽照 や北斉 の祖 挺ら の作品 が見 られるが、. むために作 られた挽歌 の比較的初期 のも のと見 ることが可能 であ る。. 内容的 にも故人 に即 し て具体性を持 たせよう とす る意図 がうかがわ れること 宣貴妃 挽歌」 と は個人 の死を悼 を考 え合 わせ ると、 「 相 国清河王挽歌」と 「. 後 の北斉 の慮諭祖 や晴 の慮 思道 ら の挽歌が五言 八句と句 数も増え、 容 であ る。. 題名 がなければ、個 人 のため に作 られたと判断す ることがためらわ れる内. と ころで、 こ のような新 たな展開と広 がりを見せ る挽歌 に対す る六朝期 の. ◎ 挽歌 に対す る評価. ら の こと であ る。. 個人 のため の挽歌 が作品 とし て充実 した姿を見 せ るのは、唐代 に入 ってか. だ作品は少 なく、晴、唐 に入り質的な変化 を伴 いながら、量的 にも かなり多 く な る。. 挽歌が特 定 の個人 の死を意識 し て作 られ るよう にな った のは、残 され て い る記録 によ る限り、人 間 の死 一般を対象と して挽歌 が作 られるよう にな って 以 後 の こと であ ろう 。. 挽歌 が個人 のため に作られたと いう記録 は、作品 そ のも のは現存 しな いが. 評価 は、必ずしも明確 ではな い。. て三十 七類 の文体を収 め る。 そ のうち詩 のジ ャンルは二十三 の細 分 類がなさ. 階 の慮思道 の伝 記 に見え る、 文宣崩 、当朝文士、各作挽歌十首。. れ ており、 そ の中 の 一つとし て挽歌を取り上げ、醜 の謬製 の挽歌 詩 一首、晋. 六朝期 の唯 一現存 す る文体別総集 『 文選』 三十巻 には、賦、詩 を始 めと し 文宣崩 じ て、当朝 の文士、各 お の挽歌十首を作 る。. の陸機 の挽歌詩三首 、東晋 の陶淵明 の挽歌詩 一首を載 せ る。 こ のよう に、 『 文選』 が嬢晋 の挽歌 に対 し文 体と し て 一定 の評価 を与え て 文心 雌龍』 では、全 五十 いる のに比 べ、 ほぼ同時代 の文学 理論書、劉編 の 『. 『 北史』巻三十六底思道伝) ( と いう記事 が最も早く、それ以前 の記録 は単 に挽歌を歌 ったと いう記録 であ. 章 中 の第 六章から第 二十 五章 にお いて約三十 三 の文体 に ついて言及す るも の. ただ、 やや時代 は下るが、晴 の虞世南撰 の類書 『 北堂書砂』 や初唐 の徐堅 撰 の類書 『 初学記』 にはそれぞれ に挽歌 の項 目が設けられ、具体 的 な作 品も. 嬢 晋 の挽 歌 の内 容 に つ い て は 触 れ よう と し な い。. の、挽歌 に関し ては 「 軒 、岐 の鼓吹、漢 の世 の鏡挽 に至 っては、戎 喪事を殊 にすと錐ども総 べて楽府 に入 る。 と、わず か に触 れ る のみ であ る。具体 的 」 、 な作 品 に関し ても 「 謬襲 の制 る所も、亦 た算う 可き有り。 」と述 べるだ け で. り、声 辞 が哀 切 であ った ことなどを伝え る のみで、個人 のた め に挽歌を作 っ た と いう 記 録 では な い。. 現存 す る特定 の個人 の死を悼 んで作られた挽歌とし ては、劉宋 の江智淵 の 「 相国清河王挽歌」 が最も古 い。共 に五言 宣貴妃挽歌」と北嬢 の温子昇 の 「 四句 の作品 であり、「 相国清 河王挽歌」 は次 のよう に歌う 。 高 門訴改轍 高 門も訴 ぞ轍を改 めん. 数多 く引用 され て いることから考え るなら、挽歌が類書 と いう文 章 制作 の際 尚 余波 あり. 曲沼尚余 波 曲沼. え る。 つまり、挽歌は六朝期を経 て、詩と いう文体 の中 で 一定 の位 置を占 め. の実用 の書 にお いては取り上げ る べき価値 の有 るも のと判断 され て いたと言 翻 って蓮露 の歌を成 さんと. 何言吹楼下 何ぞ言わん 吹楼の下 翻成薙露 歌. QJ .
(5) . 樹. 雅 . .. 藤 後. るよう にな ったと考え て良 いだ ろう 。 これ ま で見 てき た よ う に 、 本 来 、 死 者 のた め に歌 わ れ て いた 挽 歌 は 、 人 の. 死を歌うと いう挽歌 の特殊性 から、詠 み手 や作り手 の思想感情を表 出す るた め に歌わ れたり作 られたりす るよう にな る。 『 文 選』 に収 められた、広 く人 間 の死 一般を対象と し て作 られた挽歌 はそ の頂点 に位置す る。しかし、死者 のため に歌わ れ ると いう本来 の目的が忘 れ去 られたわけ ではな い。それは特 定 の個人 の死を悼む挽歌と し て、文人達 の新 たな創作 の対象とな る。 それ では次 に、 こ の特定 の個 人 のため の挽歌 が作品とし て充実 した姿 を見 せ る唐代 に論を進 めよう。. 及び そ の夫人など、王族と そ の周 辺 に限 られ て いる。 ここ では、成立事情 を. 把握 し やす い、歴代 の皇帝 の挽歌を中心 に、挽歌 の成立 の背 景を検討す る。 皇 帝 の死を悼 ん で作 ら れた挽歌 は、 『 唐詩類苑』 に収 めら れた百九 篇 の個 人を悼む挽歌 のうち、十七篇 三十 六首を占 め る。ただ し、 こ のうち歴代 の皇. 帝 を対 象とす るも のは十 四篇 三十 三首 であり、 「 孝 敬皇 帝 挽歌」、 「 譲皇 帝 挽 故斉 王贈 承 天皇帝挽歌」 の三篇は死後 に追註 した皇 帝 の挽歌 であ る。 歌」、 「. 唐代 の皇帝 の挽歌十 四篇 の中 で最も早 い時期 のも のは、四代 中宗 のた め の 「 孝 和皇帝 挽歌」 であ る。以 下、 五代 の容宗 、十 二代 の穆宗、晩 唐期 の十 六. 代から 二十代 の皇 帝を除く十 人 の皇帝 のため の挽歌 が残 る。 五代審宗ま での. うち 囚人 の皇帝 の挽歌を欠く ことは、挽歌 の制度 が唐初 は葬送 の制度と し て. 宋 の王薄撰 『 唐会要』 には挽歌 に関す る次 の記事 が見 られ る。. 確立 し て いなか った ことを示唆 す る。 二 唐代 の、個人 の死を悼む挽歌. 元和 三年 五月、京兆 ヂ鄭元、修奏王公士庶喪葬節 制 :::、六年 十 二月 、係. 元和 三年 ( 八○八)五月、京 兆 労鄭元、王公士庶 の喪葬 の節制を修奏す :::、. 特定 の個 人 の死を悼 む挽歌 は、唐代 に至 って多 く制作 される。 明 の張之象撰 によ る テー マ別総集 『 唐詩類苑』 二百巻 は、三万首近 い唐代 の詩 を 三十九 の大 項目と千九十三 の小項目 に分類す る。 そ の礼部 に 「 挽歌」 の項目があり、百十 四篇、 二百八首 の挽歌を収 める。 そ のうち、個人 の死を. 六年十 二月、文武 の官 及び庶人 の喪制 を条流 し、 三品以 上、 ・ ::・ 挽 ( 歌). 大唐 元陵 の制 に、 ・ ::宜ハ の百官 の制、鴻臆寺司儀 署令掌 ど ろ。挽歌 は三品. 人、六品以上 四行十 六人。. 大唐 元陵之制 、 ・ ::・ 其 百官 制、鴻臆寺司儀署令掌 。挽歌 三品以上六行 三十. 撰 『 通典』 には次 のような記述があ る。. ま た、 これより少 し遡 った、徳宗 の貞 元十七年 ( 八〇 一) に成立 した杜佑. 『 ( 唐会 要』巻 三十 八 「 葬」). 三 十 六 人 と し :::、 五 品 以 上 、 ・ ::・ 挽 歌 一十 六 人 と す 。. 歌 一十六人 。. 流 文 武 官 及 庶 人喪 制 、 三品 以 上 、 ‐ ::・ 挽 三 十 六 人 :::、 五品 以 上 、 ・ ::・ 挽. 、 悼 む 挽 歌 は 百 九 篇 、 二百 一 首 であ る 。. 作者 には、初唐 の上官儀、賂賓王、荏融、宋之問、沈栓期、張説、盛唐 の 王維 、儲光義 、銭起 、杜甫 、琴参 、中唐 の韓愈、劉鴇錫、白 居易 、元槙 、晩 唐 の李商隠 、温庭鮪等 、唐代 の各時期 を代表 す る詩人が名 を連ね る。形式、 内容 にお いても広 がりを見 せ、特定 の個人 の死を悼む挽歌 の創作と いう 行為 が、唐代 の文人達 の創作意欲 の対象と なりえ た ことを示し て いる。 次 に、対象 、形式 、内容 の三 つの面から、唐代 の挽歌を具体的 に考 察す る。. の 唐代 の挽歌の対象 現存す る唐代 の挽歌 の対象 は、多 く皇帝 、皇后、諸王、公主 、宰相 、諸侯. 0 2.
(6) . 唐代挽歌詩研究. 以上 は六行 三十 人、六品以上は四行十 六人とす。 『 ( 通典』巻 八十 六礼 四十六 「 挽歌」). あり、唐代 におけ る個人 の死を悼む挽歌 の起源を考え る上 でも注意 す べき作. 品 であ る。 そ の作られた背 景 に ついて、史書 の記録 から考察 し てみた い。. 景龍四年六月壬午、帝遇毒崩千神龍殿、年五十五。秘不発喪、皇后親総庶. 『 旧唐書』 中宗本紀 は、中宗 の死を次 のよう に記す。 れた徳宗 の始 め に定められた制度 であ ろう。先 の 『 唐会要』 の記事 と考え合. 景龍四年 ( 七 一○) 六月壬午、帝 ( 中宗)毒 に遇 いて神龍殿 に崩 ず、年 五. 元陵 は八代皇帝代宗 ( 七六 ニー七七九) の陵 であり、代宗 が元陵 に埋葬 さ わ せ ると、八世紀末 の徳宗 の代 には挽歌は制度と し て定 着し て いたと言え る。 こ のことは、徳宗 以降 の挽歌が、単 に廟号だけ でなく 「 徳宗神武孝文皇帝 挽. 十 五。秘 し て喪を発 せず、皇后 庶政を親総す。. 唐書』蓉宗 本紀 には、次 のよう に記 され て いる。. 『 旧唐 書』 は、中宗 が毒 をも られ て死 んだ事実 のみを記 す。 し か し、 『 新. 政。. 歌 」 と 訟 を 続 け て題 名 と し て いる こと か ら も う か が わ れ る 。. それ では、葬送 の制度とし て定着す る以前 の挽歌 は、誰 が何 のために作 っ た のだ ろう か 。. 徳宗以前 に作 られた挽歌は七篇、 そ のうち皇帝 のため の挽歌は四篇 で、あ. 景雲 元年 六月壬午、牽皇后 中宗を試す。詔を賭 め て温王重茂を立 てて皇太. と は皇帝を追詑 された人物 のため のも のであ る。皇帝 の挽歌 四篇 のう ち、鄭 丹 の作 であ る 「 玄宗挽歌」と 「 粛宗挽歌」 の二篇 に関 し ては、作られた際 の 事 情がは っきり し ている。 この二篇は共 に唐 の高 仲武編 の 『 中興間気集』 に. 子と為す。. 景雲元年六月壬午、岸皇后獄中宗。騎詔立温王重茂為皇太子。. 収 められ ており、次 の様 な説明 が付 され て いるから であ る。. た直後、甥 の李隆基 ( 玄宗) に謀殺 される。. 中宗 は葦皇后 によ って毒殺 された のであ る。そ の草皇后は中宗 の喪を発 し. 事参 軍。今選尤者、列於此集 。. 宝応中、献 二帝 両后 挽歌三十首 。詞旨哀楚。 :::朝廷嘉之、解褐任前 州録 宝応中、 二帝 両后 の挽歌三十首を献ず 。詞旨哀楚なり。 :::朝廷之 れを嘉 し、褐を解き て蘇州録事参 軍 に任ず。今尤きも のを選び、此 の集 に列す。. 皇帝 挽歌」 と註を明示す るこの作品は、貰曽 が李隆基 の太 子舎人 と な ってか. と ころでそ の直後、李隆基 は春宗 の即位 に伴 い、 二十 六歳 で皇 太 子と な っ て いる。中宗 の死を悼 む 「 孝和皇帝挽歌」を作 った買曽 は、李隆 基 が皇太 子 と な ったとき に、選ば れ て吏部員外郎 より太 子舎人とな った人物 であ る。中. そ の行為 が当時とし ては稀 であ った ことを示す が、皇帝 の死 に際し て文 人達. ら作られたも のであ る。決断力 に劣 ると され る春宗 のことを考え ると、 こ の. 宗 が孝 和皇帝 と註 され定陵 に埋葬 さ れた のは こ の年 の十 一月 であ り 、 「 孝和. が詩を献ず る慣行 の始 まりを予感 させ る。何 よりも、個人 の死を悼む挽歌を. 朝廷 が挽歌 の献 上を喜 び、 無官 の者 に官位を与えたと いう記録を残す のは、. 作 ると いう行為 が、文 人達 の文学的関心 の対象とな って いた ことがわかる。 粛宗、玄宗 に先立 つ中宗 の挽歌は、成立 の事情 を明確 に示す記録を残 さな. 挽歌を買曽 が作 った背景 に、太子李隆基 の影響を考え ることが でき る。 つま り、「 孝和皇帝挽歌」は、中宗 の篭谷心の死 に対 し、岸皇后を謀殺した李 隆基 が、 当時太子舎 人 であ った買曽 に作 らせた作 品 であ る可能性 が高 い。. い。 し か し 、 こ の作 品 は 現 存 す る皇 帝 のた め の挽 歌 と し ては 最 も 古 いも の で. 1 ← .
(7) . 樹. 雅 = = ”. 吉 .. 正. 秋 藤輸. 後. 夢遊長 不返 夢 に遊 び て長く返らず 何国是華 膏 何 れ の国か 是 れ華 膏なら ん. 太子を寵愛 した高宗 は、詔を 下し て孝敬皇帝 と註 し、天子 の礼を用 いて葬. 劉律之. 儀を行う。 そ の太子 の死を、挽歌 は次 のよう に歌う 。 孝敬皇帝 挽歌. 戒著虚屡轄 著を戒 め て屡轄 を虚 しくし. 華 膏 」 の国 に遊 ぶと いう 『 列 子 』 の黄 帝 乱 れ た 天 下 を 憂 い、 夢 に理 想 の 「. 孝和皇帝 挽歌」 のこ の句 には、中宗 の死後 の魂 の安息 の故事を典故とす る 「. 錫号紀鴻名. 号を錫 いて鴻名 を紀す. を願う李隆基 の特別 な思 いを読 み取 ること が でき る。. 重照 寒色 を掩 い. 途経紫衆城 途は経 紫衆の城. 地叶蒼梧 野 地 は叶う蒼梧 の野. 重 照掩寒色. 最楓. 生き て いる時 に皇帝 となれなか った者達 の挽歌 が作 られた背 景 には、 これ と同様 に、あ る いはそれ以上 に劇的 な要素 が存在 す る。. 震隣 断曙声 一随仙慶遠. 霜雪 愁陰 に生ず. 一たび仙麟 に随 いて遠ざ かり. 儲副 天下公器、時平則先嫡 、国難則先功、重社穣也。. べきか迷う容宗 に、李憲 は死を決意 し てこう言う 。. の春宗 であ る。嫡子 であ る李憲と大 功 の有 った李隆基 のどちらを皇 太子とす. 課殺した時 から状況は 一変す る。 こ の時帝位 に ついた のは李憲 と李隆基 の父. が毒殺 された後 、臨猫王隆基 ( 玄宗) が兵を率 いて宮 中 に乱 入し、毒皇后を. かな期間、 一度 は皇太 子 の位 に ついて いる。 しかし、再び帝位 に ついた中宗. 春宗 の長子李憲 会議皇帝) は、武后 が中宗を廃 し て春宗を皇帝 と したわず. の語 には、太子 の心 の潔白と盗みかの死 に対す る作者 の共感 が投影 し て いる。. 第 一、 二句 は祖載ま でを、第 三、 四句 は葬送を、第 五、六句 は墓所を象徴 霜雪」 的 に表 し て いる。末句 中 に用 いられ る、後漢 の禰衡 の故事 を ふまえ た 「. 霜雪愁陰生. 曙声 を断 つ. 死後 に帝 号を追註 された者 は五人 いる。 『 唐詩類苑』 には、そ のう ち先 に 故斉王贈承 天皇帝 挽歌」 の三人 の 譲皇帝 挽歌」、 「 示した 「 孝 敬皇帝挽歌」、 「 挽 歌 が収 め ら れ る。. 孝敬皇帝弘 は、 三代皇帝高宗 の第 五子 ではあ るが、武后 の生 んだ最初 の男 六五六) に五歳 で皇太 子とな るが、 二十 四歳 の若 子 であ る。彼 は顕慶 元年 ( 新 唐 書 』 に は 次 のよ う な 記 録 が残 る。 さ で帝 位 に つく こ と な く 死 ぬ 。 『. 上元 二年 、従幸合壁宮、遇猷亮 、年 二十 四。天下莫 不痛之。 上元 二年 、合壁宮 に幸す るに従 い、猷 に遇 いて費ず、年 二十 四。天 下之 れ を痛まざ る無 し。. 『 ( 新唐書』巻八十 一孝敬皇帝弘伝). 皇太 子を殺す。 」. 本伝 は太子 の毒殺を言うも のの、 そ の死 の原因 に深く言 及し ては いな い。 だが、同書 の高宗本紀 には 「( 上元 二年)四月 :::己亥 、天后. る に つれ て武后 の行 いに批判的と なり、武后 にと ってはしだ いに疎ま し い存. 儲副 は天下 の公器 にし て、時平 らかなれば則ち嫡を先 にす るも、国難 けれ. と記 し て いる。李弘 は聡明な太子 であり、皇帝 の寵愛も深 か ったが、成長す 新 在 と な って い った よ う だ 。 「 武后 怒り、 ・ ::白疋れ よ り 愛 を 失 う 」 と いう 『. ば則ち功を先 にす るは、社 楼を重 んず ればなり。. 『 新唐書』巻八十 一譲皇帝憲伝) (. 唐書』 の孝敬皇帝弘伝 の記述は、太 子李弘 の死 の原因を間接 的 に表 し て いる よう に読 め る。. 2 2.
(8) . 唐代挽歌詩研究. 失 った と いう 。翌 日 に は 制 を 下 し 、譲 皇 帝 と 註 し て いる。異 例 の こと であ る 。. れた。開元 二十九年 ( 七 四 二 六十 三歳 で死去 した時 、玄宗 は号泣 し て声 を. 彼 は弟 の李隆基 に、皇太子 の位を譲 った のであ る。李憲 はそ の後も玄宗 の信 頼厚 く、太 子賓客 と し てそ の生涯を終え る。 「 長 い枕と大 きなね 長枕大会」 ( まき)と いう兄弟 の相愛を言う成語も 、李憲 と玄宗 が親 しんだ故事 から生ま. 遣使 、喪を彰原 に迎う 、既 に城門 に至 る に、喪 輯動かず。帝泌 に謂 いて日. 因進酪、輯乃行。観者皆為 垂泣 。. 白朕意。且卿及知僕銀難定策者 。泌篇 挽詞 二解、追述僕志、命 挽士唱。泌. 遣使迎喪彰 原、既至城門、喪楯不動。帝謂泌 日、豊有恨 邪、卿往 祭之 、以. 『 新唐書』 は次 のよう に記す。. 慮撰 の 「 譲皇帝 挽歌」 にあ る、. く、貴 に恨 み有 ら んや、卿往 き て之 れを祭 り、以 て朕 の意を自 ら か にせよ。. 且 そも卿 は僕 の銀難 の定策を知 るに及 ぶ者なりと。泌. 挽詞 二解 を為 り、. 一朝空 しく. 万化. 万化 一朝空. 倭 の志を追述 し、挽士 に命 じ て唱わ しむ。泌 酪 を進 む に因り、輯乃ち行 く 。観 る者皆為 に垂泣す。. 此 の路同じ. 西園 名月有り. 哀楽 此路 同 哀楽 西園有名月. ここ では、挽歌は明らか に死者 の恨 みを鎮 めると いう特定 の目的 のため に. 『 新唐書』巻八十二承天皇帝僕伝) (. 「 万物 は変化 し てあ る日突然 にそ の姿を消滅 させ、哀 し みも楽 しみも、行く. 歌われ て いる。挽歌が死者 の恨 みを鎮 めるために歌わ れたと いう事 実 は、制. 悲風韻く. 先 は 同 じ 一つ の路 。 西 園 に明 る い月 が か か り 、 悲 し げ な 風 が 竹 林 に響 く 。」. 度と し て定着 す る以前 の挽歌 の性格を考え る上 で極め て象徴的 であ る。. 修竹韻悲風 修竹. と いう句 に詠 み込ま れた心情 は、残 された玄宗 の心情 の代弁だ った のであ る. に儀礼的 に歌われたも のではなく、作 った者あ る いは作 らせた者 の死者 に対. 以上 のことから、葬送 の制度 とし て定着 す る以前 の挽歌は、単 に葬送 の際. さら に、承天皇帝 僕 の挽歌 にま つわ る記録 は、挽歌 の歌われた目的を考え. す る極 め て強 い思 いが こ め ら れ て いた と 言 え る。 そ れ は 、 こ こ で 取 り 上 げ た. 、 ( /o. る上 で象徴的な意味を持 つ。承天皇帝僕と は、粛宗 の第 三子 の建寧 王侯 のこ. 文徳皇后 挽歌」 に歌わ れる 例えば、現存 す る唐代 の挽歌 のうち最も古 い 「. 皇 帝 の挽 歌 だ け に言 え る こと で は な い。. 留ま る ことを進言 し、自 ら の身を省 みず先陣を切 って戦 った人物 であ る。し. と であ る。彼 は、天宝十 五載 ( 七 五六)安禄山 の乱 の時 、父 の粛宗 に漢 中 に かし、粛宗 の霊武 で の即位 の後、時 の寵臣李 輔国 の 「( 帝 に対 し) 異志有 り」. 左 に掲 げたと いう し、 「 貞 謙皇 后挽詞」 に歌 われ る貞 譲皇后独 孤 氏も ま た代. 文徳皇后長孫氏 は 『 女則』十篇を著 した聡明な女性 であ って太宗 の寵愛 は深 く、 三十 六歳 で死去 したとき に太宗 はひどく哀 しんで、自 ら表序 を著 し て陵. と の議言 により、死を賜 わる。皇嗣を意 のまま に動 かそうと願う李輔国 にと って、 李俵 の誠実 で公平な性格と そ の行動力 は疎ま し いも のであ るばかり か、. 宗 の寵愛を受 けた。代宗 の追悼 の思 いは尋常 ではなく、内殿 に覆 したまま三. に し よう 。. 次 に、 これら の挽歌を、作 品 の形式と内容 に沿 って具体的 に考 察 す ること. 年 を 過 ご し た と いう 。. 自 ら の身を危うくす る存在 であ った のかも しれな い。 粛宗 の後 に帝位 に ついた のは、安禄山 の乱 のとき に李僕と行動をとも にし た粛宗 の長子広平王 つまり代宗 であ る。代宗 は、無念 の死を遂げた李僕 の功 に報 いようと承天皇帝と追号 し、順陵 に改葬 しようとす る。そ の時 の様 子を.
(9) . . 吉 川 雅 樹 後 藤 秋 正. 唐代 の挽歌 の形式 と内容. 魯忠王挽詞 三首 宋之問 同盟会 五月. の 六朝期 に作 られるよう にな った、特定 の個人 の死を悼 む挽歌は、唐代 に入 って形式と内容 の面 で変化を見 せ る。それま での北朝 の温子昇 の 「 相国清河. 帰葬出三条 帰葬 三条 に出ず. . 楽平長公主挽歌」など のような 一首 一連 の形式 王挽歌」 や、階 の慮思道 の 「. 日惨成陽樹 日は惨たり威 陽 の樹 さえず. 五月 に会 し. だけ でなく、 二首 一連 あ る いは三首 一連 の形式を と るも のが現 れ る。 それぞ. 天寒清水橋 天は寒 たり清水 の橋. 二首 一連. 8. 3. 8. 三首 一連. 0. 2. 2. 0. 四首 一連. 0. 0. 1. 1. 五首 一連. 寂寂泉台恨 寂寂 たり泉台 の恨 み. 遂裂山河地 遂 に山河 の地を裂き. 存没貴忠良 存没 忠良を貴 ぶ. 内容 に ついては、 一連 の中 に二首 、三首 、あ る いは四首 、 五首を含 む作品 は、 『 文 選』 に収 め る人間 の死 一般を対 象 と し て作 られた挽 歌詩 の三首 一連. 人悲椀里月 人 は悲 しむ梶 里 の月. 馬踏樺原霜 馬は踏む樺 原 の霜. 別向天京北 別 れ て天京 の北 に向 か い. 悠悠此路長 悠悠 と し て此 の路長し 三. 樹羽迎朝日 羽を樹 てて朝 日を迎え. 撞鍾望早霞 鐘を撞きて早霞を望む. 故人悲宿草 故 人 宿草を悲 しみ. 気有衝天剣 気 に衝 天 の剣有 るも. 中使惨長篇 中使 長茄を惨む. 次 に、連作 と し て意識 された唐代 の挽歌 の変化を、各時 期 の代表 的詩人 の. 唯余孔公宅 唯だ孔公 の宅 を余 し て. 星無犯斗楼 星 に犯斗 の桂無 し の三首 一連 の挽歌を見 てみよう 。. 作品 により具体的 に検討す る。先ず、初唐 の詩人、宋 之問 ( 六 五六 七 一三). た と 言 え る。. 七六 八) のこと であ るか の意 であ る。承 天皇帝と追註 した のは、大暦 三年 ( ら、晴代 には 「 挽歌十首」 と、 一首ず つ独立 した作品と考え られ て いたも の が、中唐期 には既 に 「 挽詞 二解」と連作 と し てと らえら れるよう にな って い. 。 「二解 は 「二 つ の楽 章 挽 詞 二解 を 為 り 、 依 の志 を 追 述 す 。 」 」 」 と記録 す る. こ の唐代 の挽歌 の変化を考え る上 で、注意 す べき資料 があ る。先 に示した 『 北史 階史 の慮 思道伝と、 『 新唐書 巻 八十 二、承天皇帝僕伝 であ る。 』 』 、 挽歌十首を作 る。 泌、 鹿 思道伝 の 「 」と いう記述 に対 し 承 天皇帝 俵伝 は 「. 面 に分 け て歌う と いう形式を意 識 し て作 られ て いる。. 追尊父子王 父子に王を追尊す. 邦家錫寵光 邦家 寵光を錫 い. 二. 尚識紫鰭賭 尚 お紫 鰭 の賭 ぶるを識 る. 一首 一連. 1. 従弦罷玉簾 弦 より玉簾 罷 ら ん. 稽看朱鷺転 稽く朱鷺の転るを看. 同盟. れ の時期別 の作 品数 は次 のよう にな る。. 初唐 盛唐 中唐. 3 10 7 12. 埋 葬 」 の三 つ の場 祖 載 )」、 「 葬 送 」、 「 の形 式 に か な り 近 い。 つま り 「 葬儀 (. 晩唐. 0 17 10 24. 4 2.
(10) . 唐代挽歌詩研究. 長接魯王家. 長く魯王 の家 に接す る のみ. ただし、今ま で見 てき たよう な構成上 の変化を示 しながらも、ど の挽歌 に. 中宗 は己 の子よりも武 三思父子を寵愛 し、太 子重俊を殺 しそ の首を 二人 の極. 重俊 のクー デター により、神龍 三年 ( 七〇七)七月、武三思 父子 は殺される。. え ら れ て いた こ と は 、 先 に述 べた 。 そ の こと か ら す る と 、 む し ろ 、 二首 一連. 人 の命 のはかな さと魂 が肉 体から去 って いく ことを歌う 二章 一曲 であ ると考. あ る いは 「墓 所 」 の描 写 と を 骨 格 と し て いる点 では 共 通 し て いる 。 挽 歌 の源 流 と 考 え ら れ て いた 漢 代 の 「 薙 露 」と 「 嵩 里 」と が 、も と も と は 、. 葬儀L の描写と、永遠 の別れを象徴す る 「 お いても 、死を象徴す る 「 埋葬」. の前 に祭 ったと いう。 この挽歌は、 そ の葬儀 に際 し て、当時 の鴻 臆寺主簿 で. 魯忠 王と は、武后 の甥 であ る武 三思 の子 の崇訓 のこと であ る。皇太子 の李. あり詩名 も高 か った宋之間 に、中宗 が命 じ て作 らせたも のであ ろう。 帰 葬 出 三 条 」と 、崇 訓 の葬 儀 と 祖 載 を 歌 い、二首 目 、. の構成 が自然 なも のであり、葬送 の場面 は、 「 死」 と、魂 と の別 れ の場所 で 墓所」とを つなぐ間奏曲 とし て、 二次的 に詩 の中 で歌われ るよう にな ある 「. 一首 目 、「同 盟 会 五 月. った と 考 え た ほう が 良 い のか も し れ な い。. 先 の承 天皇帝僕伝 の 「 挽詞 二解」 と いう記録 や、複数 の詩 で 一連 の作品を. 「 別向 天京 北 悠悠 此路長」と、長 く果 てしな い葬送 の道 を仰ぎ見 る。 そし 中使惨長篇」 と、. 構成 す るも ののう ち、 二首 一連 の作 品 の占 め る割 合 が多 いことも、 そ のこと. て三首 目 では、 「 樹 羽迎朝 日 撞 鐘 望早霞 故 人悲 宿草. 埋葬 の朝 の墓所 の様 子を歌 い、最後 に死者 の 一族 の繁栄を願 い、 そ の詩を終. を 示 唆 し て いる と 言 え る 。. 人 間 の死 にま つわ る様 々な 感 情 を 、 葬 列 中 の旗 や馬 、 あ る いは 風 や雲 と い. の挽歌と の比較を通じ て、もう少 し詳 しく検討す る。. 次 に、 唐代 の特定 の個人 の死を悼 ん で作 られた挽歌 の内容 に ついて、『 文選』. え る。. 六 二ニー六八四) この作品 は現存す る三首 一連 の挽歌と し ては、賂賓王 ( 丹陽刺史 挽歌詞」 の次 に古 いも のであり、 これ に続 く、張説、張九齢 の の 「 葬儀←葬送←埋葬」 と いう構成 を意 識 し て作 られ 三首 一連 の挽歌もま た、 「 しかし盛唐 以降 にな ると、挽歌 の構成 にも変化 が見られるよう にな る。杜 故武街将 軍戦歌」 は、 一首目 で将軍 の死を象徴的 ー七七 ○) の 「 甫 ( 七:- に歌 い、 二首目 では、 一転 し て生前 の将 軍が剣を舞 わせ、弓を射 、遠く砂漠. 『 文選』 の挽歌 にはな い点 であり、第 二の違 いは、死者 の描写 が前者 にはな. 第 一の違 いは、故 人 の生前 の功績を讃え る描写 が、唐代 の挽歌 にはあ るが、. て いる。. の外ま でも馬を駆 る様子を勢 いのあ る筆致 で描 く。そし て、三首 目 では再び. いか死者 の心情を表 す に留 ま るのに対 し、後者 では、 そ の感覚 が失 われ肉体. った自 然 、参列す る人 々など の描写 で象徴的 に表 そうとす る方法 は、 『 文選』 に収 められた挽歌 に既 に見 られ る。ただ注意 し て比較す るなら、両者 の間 に. 将 軍 の死と いう現実 にも どり、哀 しげな挽歌 に送られ城門を去 る葬列 から、. が崩 れ滅び る様 が直接 に表 現されて いる点 であ る。. 二 つ の大 き な 違 いが あ る こ と に気 づ く 。. 埋 葬 」 と を 一首 の中 葬 送」 と 「 将 軍 の墓 に粛 々と 立 つ大 樹 ま で、 つま り 、 「. 成を取 る。 一首目 で葬儀と葬送とを歌 い、二首 目 では、夫人がただ 一人果す、. 白 居易 ( 元相公 挽歌詞」 に至 っては更 に感傷的な構 七七 ニー八四六) の 「. 味 なばかりかむ し ろそ の目的 に背くと考え られた のは当 然 のこと か では無害が. あ ろう し、不気味 な死者 の直接的 な描 写は、故 人 の死を悼 むと いう 目的 の前. 象と はし て いな いのだから、故人 の生前 の功績 を讃え る部分は必 要 な いので. これは、 『 文 選』 の挽歌 は人 間 の死 一般を対象 と し ており特定 の個 人を対. 埋葬 の済 んだ哀 しげな墓所 の様子を描き 、使う主 のな い遺品と三歳 の遺児 の. 謙 」 と の関 係 を 視 野 に 入 れ る な ら 、 も し れ な い。 た だ 、 六 朝 期 に盛 行 し た 「. で歌 い、 一連 の挽 歌 を し め く く る 。. 描写 で三首 目を終え る。. に J .
(11) . . 雅 樹 吉 川 後 藤 秋 正. 呼嵯此路難 呼嵯 此 の路 難 し. で歌 わ れ る 、. 両 者 の違 いは そ の 「死 」 のと ら え 方 の違 い に起 因 し て いると いえ る 。 『 文 選 』 の挽 歌 詩 に お い て、 「死 」 は 全 て の人 間 のも と に訪 れ 、 ど ん な 力. 丘陵 一起恨 丘陵. 「 序 ・出目 ・伝承 ・哀」 と いう構造 を持ち、死者 の功績を讃え る性格 を備え 誌」 が唐代 の挽歌 に影響を与え たと みることも でき る。何 よりも、 て いる 「. を も ってし ても 避 け る こと の でき な いも のと し てと ら え ら れ て いる 。つま り 、. 言笑幾時催 言笑す るは 幾時 の催び ぞ. 、 「 古 詩十九首 ( 其十三) 壁後引」、あ る いは挽歌 の源流と考え 」 や 曹植 の 「 られ て いた 「 蓮露」など の内 容 から容 易 に理解 す る こと が でき る。 『 文 選』 の陸機 や陶 淵明 の挽歌詩 は、 これら の詩 で歌 われた人生 の悲哀を、 「 死」 と. 窮泉凍不流 窮泉 凍り て流 れず. 返照寒無影 返照 寒く し て影無く. 一たび恨 みを起 こす. 可歎浮生促 歎く べし浮生促く. 有 限な生命 に対す る自覚 が作品 の根底 にあ る。 こ の人間 の死 に対す る考え方 は、中国文学 にお いて、かなり早 い時期から既 に存在 し て いる。具体 的 には. いう 一つ の テ ー マに沿 って更 に深 め た 作 品 だ と 言 え る。 そ こ に は 、 人 間 の死. 何処欲蔵舟 何処 にか蔵舟 せ んと欲す. の句 には、 人生 の有 限性 に対す る中国文学 の伝統的なとらえ方 の上 に立 った、. 居然同物化 居然と し て物化と同じく し. あ る いは 、 第 二首 で歌 わ れ る、. に対 す る深 い洞察 があ る。 一方、唐代 の挽歌 におけ る 「 死」 のとらえ 方は、人 の生命 の尽き る瞬 間を 日が沈 んで行く西方 の気 に廠え るなど、確 か に自然 の循環と対比された人生 の有 限 性 に対 す る認 識 が う か が え るも の の、「 金 精 」、「玉 厘 」、「 宝 暦 」、「 仙期」. 賂賓王自身 の人間 の死 に対す る考え が、過度 な修辞を用 いること なく素 直 に. ただ、賂賓 王以降 の挽歌 は、人間 の有 限性 に対す る直接的 な表 現は影 を潜 め、宋 之間 の挽歌 のよう に、 「 死」 に直接 触 れ ることを避 け故 人 の生前 の功. 表 現 さ れ て いる。. などと いう 用語からは、哀 し みより、むし ろ華 やかな印 象を受 け る。 しかし、唐代 の挽歌 に至 って、死 に対す る深 い洞察 が全 く消え てしま った わ け ではな い。例えば、宋 之間 に先立 つ武后時代 の詩人、賂賓王 の 「 丹陽刺 史 挽歌詞 三首」 の第 一首 の、. 人生 の有限性 に対す る自覚 は、 死とは何かと いう問 いと密接 な つながりを. 業 を讃え る傾向 を強 め ていく。. 百齢畦僕忽 百齢も嵯 僕忽 たり. 持 つ。 そ し て、 こ の死 の本 質 に迫 る 問 いは 、 「 艶 や か な 肉 体 も い つか は 蟻 姑. ああ. 一旦 山 河 に向 かう. の二句 は、先 に述 べた曹植 の楽府 の 「 盛時 は再びす べか らず、百年 は忽 ち我. 行為 が他者 の死を言葉 で飾 ると いう 行為 と結 び ついたとき、 「 死」 は現実 の. 『 や蟻 に食 われ、永遠 に朽ち果 ててしまう」( 文選』巻 二十八 陸機 「 挽歌詩」) 現実を直視す ること無 し には生ま れえ な い。 つまり、特定 の個人 の死を悼 む. 一旦向山河. 、 を過 ぐ。生存 し ては華 屋 に処 るも、零落 し ては山 丘 に帰 す。 」 や 淵 明 の挽. 姿を離 れ て美 し いも のとし てとらえ られ る こと にな る。. 唐代 の挽歌 が、人 の死 に際 し て歌 われ る詩 でありながら、人生 の有限性 に. 歌詩 の 「 死し去 れば 何 の道う 所 ぞ、体 を託 し て山阿 に同 じうす 。 L の句 を確 か に受 け継ぐも のであ る。更 に同じ作者 によ る 「 楽大夫 挽詞 五首」 の第 一首. 6 2.
(12) . 唐代挽歌詩研究. 対す る自覚 から遠ざ か ってしま った のは、特定 の個人 の死を悼 むと いう唐代 の挽歌 の持 つ性格と決 し て無 縁 ではな い。. 三 唐代の、死 一般を対象とした挽歌 『 ?ー 唐 詩 類 苑 』 に は 、 人 間 の死 一般 を 対 象 と し た 挽 歌 と し て、 沈 千 運 (. 、孟雲卿 ( 七四五ー八○六)、白 ?)、千鵠 ( 七二九 ?←、越微 明 ( 七五九). ここに述 べられる、時流 に迎合す ること のな い誠実 な道を文学 に求 めなが. らも 、世 に受 け入れら れることなく、そ の 一生を終 え た詩友沈千運等 の不遇 儀 中集』を編 んだ直接 の動 な詩 人達 に対す る元結 の強 い共感 こそが、彼 が 『. 機だ ったと言え る。何 よりも、白居易ら の新楽府運動 の先 縦とな る文学観を. 医中集』 に挽歌詩 が収 められ て いることは、注意 す べき事 示す この元結 の 『 実 であ る 。. 医 中集』 に収 め る二首 の挽歌詩 の中 から孟雲卿 の作品を引 こ 次 に、そ の 『. 首 の作 品を収 める。作品は全 て五言古詩 で近体詩を全く載 せず、唐代 に編ま. 十 二歳 の時 に編 んだ選集 であ る。先 に挙げ た三人を含 む七人 の詩人 の二十 四. 春 陵行」 など の当 時 の人 々 の苦痛と社会相 元結 は、 「 系楽府 十 二首」 や 「 七 六○) 四 医 中集』 は、そ の彼 が乾元 三年 ( をう つした作品 で知 られ る。 『. であ る 。. され る。 このうち、盛唐後期 の沈千運、孟運卿、適微 明は、同時期 の詩人 で 医中集』 にも作品 が収 められる詩人 七 一九 !七七 二) が編 んだ 『 あ る元結 (. 臨穴 頻撫棺. 此別終天地 此 の別れ 天地 に終 っ. 北都路非遥. 尽我生人意. 草草 間巷喧. 我 が生人 の意を尽くす のみ. 死者何所須 死者 何の須 いる所ぞ. 塗車偶成位. 北 都 路 は遥 か には非ざ れども. 塗車. 草草と し て間巷 喧 しく. . れた他 の選集とは趣を異 にす る。そ の序文 からは、音調 や形式 にとらわれ、. 涙 至哀 至哀 反篭m. 居易 ( 七七 ニー八四六) ら盛唐後期 から中唐期 にかけ ての五人 の作品 が収録. 流行り の形容をた っとび、管弦 の音 に合 わせ て信優妓女 ととも に歌う ことを. 爾形未衰老 爾の形 未だ衰老せずして. 猶お童稚 のごと し. 反 って涙無 し. 穴 に臨 みて頻り に棺を撫ず るも. 俄か に位を成す. 孟雲 卿. 楽 しむよう な、当時 の文学状況 に対す る彼 の批判的な考えと同時 に、次 のよ. 爾息 猶童稚 爾 の息. 古挽歌. うな編集 の意 図をう かがう こと が でき る。. 而至喪 亡。異於是者、顕栄当世。誰為弁士、吾欲問之。. 鳴呼、自沈公及二三子、皆以正直而無禄位、皆以忠信而久貧賎、皆以仁譲. 庭字為哀次 庭宇. 房雄即霊帳 房雄. 歌う こと斯く の若 し. 哀次 と為 る. 霊帳 に即き. 皇 天若容易 皇 天 若 のごとき は容易 なり. 安 んぞ離 る べけんや. 鳴呼、沈公より 二三子 に及 んでは、皆 正直を以 てし て禄位 なく、皆忠信を. 薙露歌若斯 薙露. 骨肉安 可離 骨肉. 以 てし て貧賎 に久 しく、皆仁 譲を以 てし て喪亡 に至 れり。是 に異な る者 は、. 尽く寄 るが如 し 人生尽如寄. 人生. 当世 に顕栄せり。誰をか弁士とな さん、吾 れ之を問わんと欲す。. 7 2.
(13) . . 雅 樹 吉 川 後 藤 秋 正. のであ る。内容的 には謬襲 や陸機 、あ る いは陶淵 明 の影響を感 じ させる部分. 孟雲 卿 のこの作品 は、題名 にあ るとおり、古 の挽歌を意識 し て作 られたも. 描 写 は、 一見 あたり前 のよう ではあ る。 しか し、孟雲卿 の見方 は違う。 「 至. 、 埋 葬 に臨 み 、 棺 を 撫 で て最 後 の別 れ を 惜 し む 。 な い永 遠 の別 れ な のだ 。 」 「. 未 入室、当時古 調、無出其右 、 一時之英也 。. 工詩 、其体祖述沈 千運、漁猟陳拾遣 、詞気傷怨 。雑然模数 、総得升堂 、猶. あ る。. 孟 雲卿 は、 『 唐 才 子伝』 巻 二 の孟雲卿 の条 に次 のよう に述 べら れ る詩 人 で. 哀反無 涙」と いう表 現 には 「 死」 と いう 現実を、再度自分 の目と心と でとら え直 そうとす る姿勢が感 じられる。. が あ る も の の、 そ こ に示 さ れ た 彼 の 「死 」 のと ら え 方 は 独 特 であ る 。. 「 死者 のため に葬具 は厳 か に準備 された。だが死 んだ者 には使え るはずも 、「 な く 、 た だ 生 き 残 った 我 々 の心 を 満 足 さ せ る だ け の こ と 。 」 死 者 の眠 る 北. だ が哀 しす ぎ て ( 流 れ る は ず の) 涙 も 出 な い。L、 「君 の姿 は ま だ 若 々 し く 、. 詩を 工くす、其 の体 は沈千運を祖述 し、陳拾遺を漁猟す、詞気 は傷怨 なり。. 郡 の地 への道 のり は 決 し て遠 いわ け では な い。 だ が こ の別 れ は 遠 く 果 て し も. そ の横たわ る様 はま るで幼児 のようだ。 こ の姿がどう し て朽ち果 ててしまう. 模数 にし て、綾 に堂 に升 るを得 、猶お未だ室 に入らざ ると離然も、当時 の. に賦を用う るや、則 ち買誼 は堂 に登り、相如は室 に入 る」、梁 の鍾蝶 の 『 詩品』 の 「 故 に孔子 の門、詩を用う れば、則ち公幹 は堂 に升り、思王は室 に入 る」 など の文学的批評を ふまえ たも のであ ろう 。司馬相如、曹植 ほど ではな いが、. 「 綾得升堂 、猶未 入室」 の評 は、直接 には 郭網語』先進 篇 の、孔 子 が弟 子 の子路 の琴 の腕 前を言う 、 「 由 や堂 に升 れり、未 だ室 に入 らざ るな り」を借 りた表 現 であ るが、内容 的 には、揚 雄 の 『 法 言』 吾子 篇 の、 「 如 し孔 子 の門. 古調 にし て、其 の右 に出ず るも の無く、 一時 の英 なり。. と いう のだ 。 だ が 天 は いと も た や す く そ れ を 行 う 。」. このよう な死 のとらえ方 は、 「 蕪露歌若斯 、人生尽如寄 。 」と挽歌を終え て いること でもわかるよう に、古 くから挽歌 の原流 と考え られ てき た 「 蓬露」 浩浩陰陽移 、年命如朝露。人生忽如寄 、寿無金 石固。 や、「 古詩十 」と歌う 「 九首 ( 其 十 三 )」 に 示 さ れ た と こ ろ の 「死 」 のと ら え 方 に近 い。 し か し 、 孟. 雲卿 は この詩 で、人間 の死を見 つめる自 己を更 に客観的 に凝視す る。死者 の 。 者 の枢 を前 にした自 分 の心 を、 「 臨穴頻撫棺、至哀反無涙。 」と描 写す る 陸 機の 「 挽歌詩」 の次 の描写と比較す るなら、自 己を客観的 に見 つめようとす. 買誼 や劉樟らと肩を並 べるだ け の文学的力量を認 められ て いた こと にな る。. 、 ため にあ つらえ られた明器を前 に、 「 死者何所須、尽我生人意 。 」 と言 い 死. る孟雲卿 の姿勢 はよりは っきりと し てく る。. 念我鴫昔時 我が喉昔の時を念う. 歎息重槻側 重槻 の側 に嘆息 し. えを 、もう 一度自 分 の目と心 でとらえ 直そう とした詩人と し て の姿勢と無 縁. 学的 に高 い評価 を受 け るだけ の価値 を有 し て いた のであ ろう 。そ の文学的価 古 挽歌」 に見 られた、見 なれた現実 や当然 のことと思われた考 値 は、先 の 「. え ると、孟雲卿 の古調 の詩は、単 に時流 に乗 って評判を得 た のではなく、文. 杜甫 にも、彼 に贈 った詩と彼 の作品あ る いは人物を論 じた詩 があ ることを考. 含当 日 言嘆咽 言を含むも 嘆咽し. で は あ る ま い。. 五首 が 収 め ら れ る 。そ の五 首 に は 、先 に示 し た 「 今 別 離 」、 古 挽 歌 」と と も に 、「. 孟雲 卿 の作 品 は、 『 全唐詩』 に十七首 が収 められ、 『 医中集』 にはそ の中 の. 揮沸沸流離 沸を揮うも 沸 流離たり 「 死者を前 にしたとき 、払 っても払 っても涙 はと めどなく流 れ る」 と いう.
(14) . 唐代挽歌詩研究. 「 古 別離」、 「 悲哉行」 と いう楽府体 の作品が含 まれ る。現実を新 し い視点 で と らえ直 そうとした時 に、律詩 など の新 し い詩体 に頼 らず に 「 楽府」 と いう. の詩 の本質を訓諭 に在 りと し、復古 によ る革新を 「 新楽府」 によ って実 践し. 位置す るも のとし て、孟雲 卿も また、人間 の感情 を自然 に表出 でき る楽府体. に言う、 「 流易以 て詞を為 り、 雅正を喪」 った近世 の作者達 の作品 の対 極 に. 最光照 間巷. 素勝亦悲鳴. 丹旗何 飛揚. 挽歌 詞. 展光. 間巷を照 らし. 素鯵 亦. 丹族 何ぞ飛揚 し. た 白 居 易 も ま た 、 「挽 歌 詩 」 を 残 し て いる 。. を 考 え た か ら に他 な ら な い。 こ の こ と は 、 元 結 が 「二 風 詩 論 L で言 う 、 「 吾. 医 中 集 』 の序 古 い詩 体 を 用 いる の は 一見 矛 盾 し た こ と のよ う に思 え る が 、 『. ( 吾れ帝王理乱の道を極め、古人規調. 懐 か に行 かんと欲す. 白 居易. 欲極帝王理乱之道、系古人規調之流. 轄車儲欲行 轄車. 悲鳴す. ) と いう考えとも 一致す る。 の流 れを系 がんと欲 す。 い、 「 雅 正 を 喪 」 った 作 品 の対 極 に位 置 す るも のと し て 「挽 歌 詩 」 が 考 え ら. 妻子興弟兄 妻子と弟兄と. 借問送者誰. 哀 戟出重城 哀娩. 藷条九 月天 藷条たり 九月 の天. れ て いた点 であ る 。. 峨峨開新峯 峨峨と して新埜を開く. こ こ で、 何 よ り も 注 意 し て お く べき こ と は 、 そ の当 時 の流 行 り の言 葉 を 使. 『 署戸病 に拘 眼われ形似を喜 尚 と ぶ」 ( 薩 中集』序)と いう、内容 のな い修 辞 のため の修辞 を拒否 し、 「 古 人規 認 の流 れを系 が んと欲す」 と いう古典 回 帰 の意識 に立 ち戻 った時 、人間 の死を テー マと した 「 挽歌」を詩人達 が選 ん. 含酸 一働奥 酸 を含 みて 一たび働果 し. 送者 は誰 かと. 口を異 にし て哀声 を同じくす. 旧瀧転蕪 絶 旧騰 転 いよ蕪絶 し. 異 口同哀声. 蒼蒼上古 原 蒼蒼と して古 原 に上り. 借問す. 重城を出ず. だ のは興味 深 い。 言葉はもともと、物事 の本質を見 つめ、そ の本質を相手 に伝え るため の道 具 であ った。そ の道 具と し ての不完全 さを補う ため に、詩人達 は多 く の修辞. 春風草緑 北部山 春風草 は緑なり北 郊の山. ぐ 」 と いう こと は 、 つま り 、 物 事 の本 質 を も う 一度 自 ら の目 と 心 と で見 つめ. り な が ら 人 々か ら 遠 ざ け ら れ た も の の 一つであ った 。 「 古 人 規 調 の流 れ を 系. であ る 。 七 句 目 の 「 借 問 送 者 誰 」 の句 を ア ク セ ント と し 、 場 面 は 埋 葬 へと 移. よう に、明 らか に陸機、陶淵明、 そし て孟雲卿 の 「 挽歌詩」を意 識 したも の. 第 一句 から第六句 の祖載 から葬 送 に至 るま での描 写 は、用語 からも わ かる. 此 の地 年年 生死別 る. 日々羅列す. 上 の工夫を生 み出 した。 しかし、ひとたび生 み出 された修辞 の施 された言葉 は、結果と し て物事 の本質 を見 つめ ることから人 々を遠ざ け ること にな って. 此地年年 生死別. 直すと いう作業 に他 ならな い。詩人達 が、物事 の本質を問 い直すため に古典. 。 っ て い く、. 新墳 日羅列 新墳. し ま った 。. 回 帰 の意 識 に立 ち 戻 った 時 、 「死 」 を テ ー マと し た 「挽 歌 詩 」 を 作 った こ と. 「死 と いう テ ー マも 又 、 人 生 の本 質 を 見 つめ る上 で最 も 重 要 な も の であ 」. は 決 し て偶 然 で は あ るま い。. 旧蹟転蕪絶、新墳 日羅列。春 風草緑北郡山、此地年 年生 死別 。 最後 の四句 、「 」 で描 かれ る荒 れ果 てた古 い墓と日 々連 な る新 し い墓 、循環す る自 然と、 そ の 自 己 の歩 む べき道 と、 そ の道を示す詩 の寄り所を古人 の言葉 に求 め、自 ら.
(15) . 樹 雅 吉. 正 秋. 藤 後. 蓮 上露何易珠、露珠 明朝 更復落 、 人死 一去何 た 三斑露」 の詩 で歌 われ る、 「. 形式 と発想 を 『 文選』 の挽歌 に借りた唐代 の個人 の死を悼む挽歌は、始 め. こ め ら れ た 詩 人 達 の思 いに つ い て論 じ てき た 。. 、 、 時帰。 L と 同 様 に 人 間 の生 命 の有 限 性 を 歌 いな が ら も こ の句 か ら ど こ か. から単 純 に死者 の讃美 のため に作 られたも のではな い。個人 の死を悼 む挽歌 は、 そ の初期 の段階 では儀礼的 に作 らねば ならな いも のではなく、 一人 の人. 中 で生者 と別 れ て再生す ること のな い死者 の描写 が、漢代 の挽歌と考えられ. 明 る い印象を受 け る のは、病苦 や飢寒 の憂 いなく、七十 五歳 の天寿 を全う し. 六朝期 、あ る いはそれ以前 、不吉 なも の、災 いを呼 ぶも のと考え られな が. 間 の死 を 前 に、 作 ら ず に は いら れ な いも の であ った 。. このほか、孟雲卿ら盛唐後期 の挽歌詩 の作者と白居易を結 ぶ時期 の挽歌詩. ら も 、 人 々 が 挽 歌 を 口ず さ ん だ こと を 思 い返 し て み よう 。 死 は 、 一方 で避 け. た詩人 の人生 に対す る受 けとめ方 そ のも のの現 れ であ ろう。 の作者 に千鵠 がおり、挽歌詩が盛唐後期 から中唐期 に至 るま で の連続 した線. こと のな い現実 な のであ る。他者 の死を身近 に感 じたとき、人 は こ の心 の奥. て通りた い現実 でありながらも 、 一方 では人間 の心 の奥底 から決 し て離 れ る. 陸中集』 が編ま れ る五年前 の天宝 十 四年 ( 七 五五)、安禄山 の乱 元結 の 『. 底 から離 れ ること のな い生命 の有限性 と いう 現実 に目を 開かせられ る。死者. とし てとらえ ること が でき る点 にも注意 を払 っておく必要 があ る。 が起き、 そ の後 の唐 の衰退 ぶり は周知 のとおり であ る。 このよう な不安定 な. 定 す る 思 いが 大 き な も のと な って いく 。 そ の思 いが 強 け れ ば 強 いほ ど 、 「死. への思 いが強 ければ強 いほど、死を受 け入 れ て讃美 す ること よりも 、死を否. 社会状況 の中 で、 二百年近 い空白期 間 の後、 不遇な生涯を送りな がらも詩 に 挽歌 より、物事 の、そし て人生 の本質 を問 い直 そう と した詩人達 によ って 「. 鳴呼 、有名位不顕、年寿 不終 、独無知音 、不見称 頒、死而己棄 。. 歌もま た、 それが作 られた背 景 に、人間 の死 に対す る潜在的 な問 いを持 つ。. て いく魂 の行く先とを歌う 、人間 の死を問う歌 であ った。個人 の死を悼 む挽. 詩 」 が 再 び 受 け 継 が れ て い った のは 、. 鳴呼 、名位 顕 れず、年寿終 らず、独り知音無く、称頒せられず し て、死す. 人間 の死 一般を対象とす る挽歌と個人 の死を悼む挽歌とは、 そ の目的を異 に. と は 何 か 」 と いう 問 いも ま た 大 き く 深 いも のと な って いく 。 「 嵩 里 」 と いう 一組 の歌 は 、 人 の命 のは か な さ と 、 肉 体 か ら 離 れ 蓮 露 」、 「. ろ有 る の み 。. は 共 通 し て いる。. しな がらも、人間 の生命 の有 限性 に対す る自覚 に基づ いて作 られ て いた点 で 医 中集』 の序 で述 べた よう に、 限られた人生を実感 し、現実 と、元結 が、 『. た こ と は 、 有 限 な 人 生 を 自 覚 し 、 「死 」 の、 人 生 にと って の意 味 を 問 う 上 で、. 界 であ ったと言え る。人間 の死 一般を対象と した挽歌 が 二百年と いう時 を経 て、孟雲卿 ら不遇な生涯を送りながらも真 塾 に生き た詩人達 によ って書 かれ. 行く こと にな る。 これは、挽歌 の限界と いう より、唐代 の挽歌 の作者達 の限. 死」 に対す る深 い洞察 は影 を潜 め、修辞 性を 強 め て う になり、 そ の結 果、 「. 歌 は、死者 の讃美、あ る いは読 み手 を意 識 した哀 し み の描写 に重きを置く よ. しかし、同 じよう に人間 の死 に対す る問 いから出発 しながらも、両者 はそ. の目的 の違 いにより全 く異 な った方向 へと向 か って行 く。個人 の死を悼 む挽. 語. 死」 と向 き合 わなければ ならなか った詩人達 の問題と し て否応 なく自 己 の 「 が、自 分達 の人生 におけ る、 「 死」 の意 味 を問 おうと した必然 的な結果 であ った 。. 結. 以上、唐代 に至 るま で の挽歌 の流 れと、唐代 の挽歌 の変容、 そし て挽歌 に.
(16) 唐 代 挽 歌 詩 研 究 朝 期. ら に が. 及 び そ れ 以. 他 な 人. い ち ﹇付 い 記 ち 本 ﹈ 前文 中 に は. の 挽 歌. 注 記. 詩 を 考 しえ な か る っ 上 で た多 が 、 大 序 の 学 で恩 述 を 蒙 っ た 。 な お 、 本 論. べ た一 海 知 義 氏 文「 選 挽 歌. 文 は 詩 、 考 一 九」 九 か ら 四 年 は三 、 南 北 月 、. 、. ら な い 奥 で あ ろ 底 う. 。. に あ る 自 己 の. 限 性 に 対 す る 自 覚 呼 び 起 こ し 続 け る か. は 、 考 え て 。 間 その 心 本 の れ 来 は 的 な み形 、 れ こ の 陸 ば 式 こ そ、 多 機 く の 失 の 詩 わ 文 体 に れ 示 さ た が も の 生の 有 れ み 出 さ た よ 、 う 今 れ な も そ の、 言 葉 の 意 人 間 そ し て の 死 消 を え て に か か 味 は い (陸 わ っ 機 生 た 中 る 高 い き象 続 挽「 歌 で 、 け 徴 性 て 挽 歌 」) い る. し 嫌 取 か 悪 す りべ し く 、 色 死 の 本 質 と り れ ど 例 と た え 多 を 考 り 見 つ え の ば く 次 の 装 飾 、 旗 め よ そ の 。現 の そ よ う を う の 、 と な よ う 詩 逆 し 句 な に た 時 虚 に 死 い 表 と い 、 隠 飾 挽 歌 す は れ 、 た て い う 本 現 の 作め 実 る に 。 を 者 施 さ 、 朽 際 達 立 は れ ち 、 た 飾 果 た せ 死 て と い り る 道 具 で あ う く と 現 実 っを 肉 た し 。 を て. 用 振 傾 雲 悲結 流 長 族 備 物 象 平 い 駕 た 言 従 策此 指逝 風 鼓 誰 。 行 軌 為 端 霊 そ 生 れ は 丘 藷 駕 し て 言 に 此 れ 従 り 逝 か. 詩. 策 を 傾 悲 風 雲 振 は げ 流 て 霊 藷丘 を 指 を 結 ぶ 鼓 か しん. し. 長は き行 物旋軌 を を. 誰 が 為 に 締 め く. 備 え て 平 生 に 象 ど ろ も. 覆 う べ く 施 さ. か で. 挽 歌. あ っ て も ど こ か 虚 し 実い を 。 金 銀. く が の 挽 歌決 の し て そ. 巻き も の 多. 飾 ら れ る 車. 来 、. 中 の 力 で 描 写 を 失 覆さ っ れ て い でる 、 な か 葬 儀 っ 、 た こ と を 示 す 葬 送 、 埋 葬. 龍 や 鳳 の 様 を 子 描 は て いい た 、 ど 枢 ん な 、 体 そ に 華 や れ を. 。. て 本 執 学 大 学 筆 し た 学院 修 位 士 論 文課 程 国 骨 子 と 育 し 、 補 筆. を 語 教 専 修 を 修 修. 了 正 し を た 吉 加 え て 川 雅 樹 君 成 っ た が も の 、で あ 漢 文 学 る 研 究 室 後 藤 。 秋 正 の 指 導 に よ っ . .
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