ファン・デル・レーウにおける宗教現象学方法論の
形成過程
著者
木村 敏明
雑誌名
東北宗教学
巻
15
ページ
29-46
発行年
2019-12-31
URL
http://hdl.handle.net/10097/00127436
ファン・デル・レーウにおける
宗教現象学方法論の形成過程
1木村 敏明
キーワード 宗教現象学 ファン・デル・レーウ 構造心理学 エポケー 本 質直観 はじめに 20世紀前半から中盤の宗教学で一世を風靡しながら、後半には多くの批判を 浴びて表舞台から退場していったかに見える「宗教現象学」とは何であったの か。この問題を捉え返そうとする場合に、ヘラルドゥス・ファン・デル・レー ウ Gerardus van der Leeuw(1890 1950)の業績を無視することはできないで あろう。レーウが宗教学を学んだのは、ライデン大学に設置されてまだ間もな かった宗教学講座であるが、草創期の同講座ではティーレ、ソーセイ、クリス テンセンらによって個別宗教史や神学とは違った新しい体系的宗教学が模索さ れている最中であった。特にシャントピー・ド・ラ・ソーセイ Chantepie de la Saussaye(1848 1920)は、1887年から1889年にかけて出版された『宗教史教本』Lehrbuch der Religionsgeschichteに「宗教現象学の部」を設け、自ら執筆してい る2。レーウはそのソーセイやクリステンセン Brede Kristensen(1867 1953)の もとでエジプト宗教に関する博士論文を執筆し、その後オランダ改革派の牧師 を経てフロニンゲン大学で教鞭をとった。
しばしば「宗教現象学」というジャンルで一緒に括られるルドルフ・オットー Rudolf Otto、フリードリヒ・ハイラー Friedrich Heiler、ミルチャ・エリアーデ Mirchea Eliadeらとレーウとの最も大きな違いは、レーウが自ら宗教現象学者
1 本研究は JSPS 科研費16H03554(代表者 藤原聖子)による成果の一部である。
2 ソーセイがどこから「宗教現象学」なる言葉を着想したかについては Molendijk の Edward von Hartman説などがあるが(Molendijk 2005: 120)、決定打を欠き、未解明の課題 である。ソーセイ自身は同書の第二版以降宗教現象学の部を撤回してしまい、その他の著作 や論文の中でも宗教現象学について述べることはほとんどなくなっている。
であることを自認し、その方法論的確立やそれを用いた諸宗教現象の分析に務 めた点であろう。詳しくは後述するがレーウは1924年に体系的に宗教現象学を 論じた最初の著作『宗教史入門』(翌年に『宗教現象学入門』というタイトル で独訳)を刊行した後、1933年にはそれを拡充し主著『宗教現象学』を著した。 これらは内容的にも、また学史上も、自覚的に行われた「宗教現象学」の金字 塔といって差し支えないであろう。 しかしそれにもかかわらず、これまでファン・デル・レーウの「宗教現象学」 の内容については、「現象学」という語のイメージに引きずられた印象論や部 分的引用による歪んだ議論があふれ、テキストや社会的背景の厳密な検討に基 づいた研究はまだ少ない。70年代以降の「神学的」とか、90年代以降の「本質 主義的」といったレッテルも、あたっている部分はあるが、いかなる部分がい かに神学的あるいは本質主義的であるのか、またそれにはどのような背景があ るのか、冷静かつ実証的な議論が必要である3。またレーウの現象学の思想史的 な位置づけを行う際にも、このような基礎的研究の不足が大きな足かせになっ ている。例えばフッサールやシェーラー、ヤスパースなどの哲学的あるいは心 理学的現象学とレーウの宗教現象学の関係だけをとっても、様々な見方があっ て結論をみていない。近年の研究をみてもモレンダイク Arie Molendijk(2005) のように哲学的現象学との関連を否定的にみる見方がある一方で、ターキット Johanes Tuckett(2016)はレーウの宗教現象学は本来、純然たる哲学的現象学 に属する学問であったが、死後の増補や偏った英訳によってゆがめられたのだ と主張している。 このような異なった解釈が成り立つ原因の一つとして、レーウの宗教現象学 方法論がもつ重層的な性格をあげることができるであろう。レーウの様々なテ キストに見られる宗教現象学方法論を比較してみると、版を重ねる度古い説明 3 もちろんレーウのテキストに即した研究も進展している。例えば、レーウの『宗教現象学』 におけるエピレゴメナを詳細に分析した華園聰麿の研究をあげることができる(華園聰麿 (2016), 『宗教現象学入門─人間学への視線から』(平凡社)。ただしここでもレーウの『宗 教現象学入門』については「現象学についての彼の原理論と方法論を解するのに向いた内容 のものではない」(p. 116)として考察の対象から外されている。
に新しい説明が追加され、地層のように積み重なっていく様子を見いだすこと ができる。そのように積み重なったどの層に注目するかによってレーウの宗教 現象学のイメージは大きく変わってくることになる。 本稿ではまず、ファン・デル・レーウの『宗教現象学』および『宗教現象学 入門』の諸テキスト間の関係を整理し、相互の時系列的連関を明らかにした後 に、それらのテキストに見られる宗教現象学の理念や方法に関する議論を比較 してその特徴を明らかにするとともに、今後の研究課題を示すことを試みたい。 1.4つの「宗教現象学」文献群 レーウが宗教現象学を体系的に論述している著作として、主著『宗教現象学』 と、そのコンパクト版ともいえる『宗教現象学入門』の二つがあるが、この両 著作はそれぞれ翻訳や増補が行われており、複雑な関係をもった多様なテキス トが存在している。まずはその関係を図1によって整理してみたい。 最初に登場するテキストは1924年にオランダ語で書かれた Inleiding tot de Godsdienstgeschiednis(『宗教史入門』)である。これが翌年ドイツ語に翻訳され、 In leid ing to t d e Go dsdi ens tgesc hi edeni s 1924年 Ein fü hru ng in di e P hän ome no log ie d er Re lig ion 1925年 Ph än ome no log ie de r R elig ion 1933年 In leid ing to t d e P hae no me no log ie v an de G ods die nst 1948年 Ein fü hru ng in di e P hän ome no log ie d er Re lig ion 1961年 La re lig ion dan sso n essenc e e t ses man ife sta tio n, p hé no mé no log ie de la reli gio n. 1948年 1956年 Ph än ome no log ie de r R elig ion 翻訳 翻訳 増補 翻訳 増補 翻訳 Re lig ion in E sse nc e and M an ife sta tio n 1938年 翻訳 『入門A』 『入門B』 『宗現A』 『宗現B』 図1. 「宗教現象学」諸テキストの関連
その際にタイトルが Einfürung in die Phänomenologie der Religion(『宗教現象学 入門』)と改められた。これらをここでは『入門 A』4 と呼んでおく。次に書か れるのが主著 Phänomenologie der Religion(『宗教現象学』)の初版でこちらは 1933年に出版されている。『入門 A』の4倍以上にあたる650ページ超の大著で あり、この書をもってレーウ宗教現象学の全貌がはじめて姿を現したといって よい。1938年に刊行された英訳 Religion in Essence and Manifestation はこの初 版を底版としたものである。これらのテキストを『宗現 A』としておこう5。 『入門A』と『宗現A』は同じ1948年にそれぞれ増補改訂された。『入門A』は 内 容に大きく手を入れた上で Inleiding tot de Phaenomenologie van de Godsdienst として出版され、1961年にドイツ語に翻訳されている。これらを『入門B』と呼 ぶことにする6。『宗現 A』はフランス語に翻訳されるに際して内容の増補改訂 が行われ、La religion dans son essence et ses manifestation, phénoménologie de la
religionとして出版された。この内容をもとにレーウの死後1956年にドイツ語 版が増補改訂されている。これらをここでは『宗現 B』とする7。以上をまとめ ると1924年の『入門 A』に続き1933年の『宗現 A』が出版され、そして1948年 に『入門 B』および『宗現 B』の増補版が出されるという順番になる。 これらの諸テキスト間において「宗教現象学」の理念や方法に何らかの違い はあるのだろうか。本稿では上記のテキストに述べられた宗教現象学方法論を 比較することを通し、特に『入門 A』と『宗現 A』の間でその理念と方法に関 し一定の相違、ないしは展開が存在していることを指摘したい。またこのこと が特に哲学的現象学との関係を論じるにあたって決定的な重要性をもつ可能性
4 『 入 門 A』 に つ い て 本 稿 で は Einfürung in die Phänomenologie der Religion (1925, Ernst Reinhardt) を用い、以下で引用する際には(EPR 1925)と表記する。
5 『宗現 A』について本稿では Phänomenologie der Religion (1933, J. C. B. Mohr) を用い、以 下で引用する際には(PR 1933)と表記する。
6 『入門 B』について本稿では Einfürung in die Phänomenologie der Religion (1961, 2 Aufl., Gerd Mohn) を用い、以下で引用する際には(EPR 1961)と表記する。なお引用にあたっては、 田丸徳義・大竹みよ子訳(G. ファン・デル・レーウ『宗教現象学入門』、東京大学出版会、 1979年)を参照した。
6 『宗現 B』について本稿では Phänomenologie der Religion (1956, 4 Aufl., J. C. B. Mohr) を 用い、以下で引用する際には(PR 1956)と表記する。
があることも明らかにしたい。なお、宗教現象学の方法論については『宗教現 象学入門』では「序文」、『宗教現象学』では「エピレゴメナ」にまとまった記 述がなされており、ここでは専らそこに注目して考察を進めることにする。 2.宗教現象学方法論の諸論点 レーウの宗教現象学方法論の展開を検討するため、以下のような方法を試み てみたい。まず、レーウ宗教現象学のいわば完成形ともいえる増補改訂版の『宗 教現象学』(『宗現 B』)の「エピレゴメナ」をとりあげ、それを分析して方法 論を構成する諸論点をキーワードとして抽出することを試みる。また、それぞ れの論点を論じるにあたってレーウが依拠している主な先行研究者を明らかに する。その上でその諸々の論点について、その他のテキストにおける議論の有 無を検討し、一覧表にまとめてみる。これらの作業を通して、どの論点がいつご ろのテキストから現れたのかを明らかにすることができるだろう。ただし「エピ レゴメナ」を構成する109章、現象と現象学(Phänomen und Phänomenologie)、 110章、宗教(Religion)、111章、宗教現象学(Religionsphänomenologie)、112章、 学説史(Geschichte der Disziplin)のうち学説史を扱った112章は、今回は方法論 に焦点をあてるため取り扱わないこととする8。 「109章、現象と現象学」では、大きく分けて「1. 現象とは何か?」と「2. 現象学の方法とはどのようなものか?」という二つの問題を取り扱っている。 このうち「1. 現象とは何か?」ではまず現象の定義「自らを示すもの was sich zeigt」から説き起こし、それが顕在化していくプロセスとしての体験、理 解、証言に触れる。そこから話を原体験そのものの到達不可能性に転じると、 自己のものであれ他者のものであれ理解可能であるのは原体験そのものではな く、再構成された体験に過ぎないと論じる。その再構成は意味を通してなされ る。我々は混沌とした現実を意味によって分節し、そこに構造を見出し、それ 8 本稿の目的はレーウの宗教現象学方法論の詳細な説明ではないため、ここでの記述は最低 限度のものにとどめたい。方法論の詳細については華園(2016)、Waardenburg(1972)な どを参照のこと。また人間学的宗教論については木村(1991)(1992)を参照のこと。
を理解する。しかもその構造は個別の体験にとどまらず、意味の類似性によっ て他の体験、他者の体験と関連付けられ、より大きな意味連関に分類される。 こうして個別の体験は類型において把握される。ここでは以上の議論を以下の ような論点の系列として整理してみたい。 1. 現象とは?:1 1. 現象 → 1 2. 体験・理解・証言 → 1 3. 原体験とそ の再構成 → 1 4. 構造と意味理解 → 1 5. 理解可能な関係と類型 また「エピレゴメナ」全体にいえることであるが、レーウの方法論の記述は、 様々な先行研究から自説の展開に利用できる部分を切り取ってつなぎ合わせる いわば「学説のパッチワーク」とでも言えるようなスタイルをとっている。本 稿では、レーウの学説の形成に注目するため、それぞれの論点で主に引用され ている先行研究にも注目したい。この部分ではシュプランガー、ビンスワンガー、 ワッハなどの著作がその材料として用いられている。 「2.現象学の方法とはどのようなものか?」では、上の認識論をふまえて 方法的に類型を導き出す方法について論じている。まず多様な現象に「供犠」 「浄め」など名前を与え分類を行う。しかしそれを単なる分類に終わらせない ためには、その現象に浸りこむことで追体験しつつ、エポケーの態度をもって 『入門』A (1924) 『宗現』A (1933) 『入門』B (1948) 『宗現』B (1948) §109 現象と現 象学 1-1. 現象 × 〇 × 〇 (M. Heidegger) 1-2. 体験・理解・証言 × 〇 △ 〇 (W. Dilthey) 1-3. 原体験とその再構成 × 〇 〇 〇 E. Spranger 1-4. 構造と意味理解 × 〇 〇 〇 E. Spranger, G. Wobbermin
1-5. 理解可能な連関と類型 〇 〇 〇 〇 E. Spranger, K. Jaspers, J. Wach, L. Binswanger
2-1. 現象学の手順①命名 × 〇 〇 〇 W. MacDougall
2-2. 現象学の手順②追体験 〇 〇 〇 〇 H. Usener, W. Dilthey, K. Jaspers, L. Binswanger, 2-3. 現象学の手順③エポケー × 〇 〇 〇 M. Scheler, M. Heidegger, (E. Fusserls)
2-4. 現象学の手順④明瞭化 × 〇 × 〇 (W. Dilthey) L. Binswanger, E. Spranger
2-5. 現象学の手順⑤理解 × 〇 △ 〇 M. Heidegger, W. Dilthey, K. Jaspers, H. Usener
2-6. 現象学の手順⑥実証的再検証 × 〇 〇 〇 J. Wach,
2-7. 現象学の手順⑦証言 × 〇 〇 〇 M. Heidegger, L. von Ranke, E. Brunner
§110 宗教 3-1. 水平線上の宗教 × 〇 〇 〇 E. Spranger 3-2. 垂直線上の宗教 × 〇 〇 〇 R. Otto §111 宗教現象 学 4. 宗教現象学 × 〇 × 〇 E. Spranger, E. Przywara 5-1. 関連諸分野①芸術 × 〇 × 〇 E. Utitz 5-2. 関連諸分野②宗教史 〇 〇 〇 〇 J. Wach, 5-3. 関連諸分野③宗教心理学 〇 〇 〇 〇 E. Spranger, 5-4. 関連諸分野④哲学 〇 〇 〇 〇 J. Wach, 5-5. 関連諸分野⑤神学 × 〇 × 〇 表1. 主要論点に関するテキスト間比較
現象の背後ではなくそこに現れる意味に目をこらす必要がある。こうすること で諸現象は組み合わされたり分離されたりして明瞭化する。これら全体を通し て解釈学的な理解が達成されるが、その成果は実証的資料によって再検討され ねばならない。このようにして現象学は自らに示されたものについて証言をす る。これらの議論をここでは以下のようにまとめたい。 2.現象学の方法とは?:2 1. 命名 → 2 2. 追体験 → 2 3. エポケー → 2 4. 明瞭化 → 2 5. 資料による再検討 → 2 6. 証言 この部分では表にある通り、「1. 現象とは?」で引用されていたシュプラン ガー、ビンスワンガーらに加えて、2 2. ではウーゼナーが、2 3. などで シェーラーやハイデガーが用いられているのが目立つ。これらの先行研究との 関連については、特に重要であるため、後に改めて取り上げる。 次の「110章、宗教」では目を転じて「3. 宗教とは何か」という問題が取り 扱われている。宗教は水平面上において人間の現象として見ることもできれば、 垂直線上において理解不可能な啓示として見ることも可能である。まず、人間 の現象として見た場合の宗教について、レーウは独特の畳みかけるようなパラ フレーズをもって次のように述べている。 宗教とは、人間が自らに与えられた生をそのままでは受け取らないことを 意味する。人間は生の中に力0 Machtを求める。人間がこの力を見つけら れないとき、あるいは彼が満足できるほどには見つけられないとき、彼は 自らの生の中に進み入ると彼が信じる力を求める。人間は自らの生を高め、 強め、自らの生により深く、広い意味を見出そうとする。しかしその際、 我々は水平線の上にいる。すなわち宗教とは、生を、そのぎりぎりの限界 まで広げようとすることである。宗教的人間はより豊かな、より広い、よ り深い生を欲しいと願う。彼は力を欲しいと願うのである。言い換えれば、 人間は自らの生の内や外に卓越したものを求める。彼はその卓越したもの を操作してやろうと思うこともあれば、それを崇拝しようと思うこともあ る。(PR 1956: 778) 人間の現象として見た宗教とは、所与の生をそのままでは受け取らず、それを
できるだけ高め、強め、それにより深く、広い意味を見いだそうとすること、 そしてそのために力 Macht を希求することに他ならない。そして脚注におい てレーウは「この点において宗教と文化は本質的に一致する。あらゆる文化は 突き詰めれば宗教的であるし、あらゆる宗教は(水平線上では)文化である」 (PR 1956: 778)とも述べている。この部分は『宗教現象学』のエピレゴメナ の中でも例外的にほとんど他の研究者の学説が引用されておらず、レーウのオ リジナルな宗教観が表明された部分である。 他方で垂直線上に、すなわち啓示として宗教をみることもできるとレーウは 述べる。レーウの神学的な宗教理解がここでは示されることになる。この啓示 としての宗教そのものは、完全に体験されることはなく、現象学的に理解する ことはできない。「われわれが現象学的に理解するのは、体験という鏡に映っ たその姿に過ぎないのである」(PR 1956: 779f.)。生の中に力を求める人間は、 その途上で、何者かが自らの道に歩み入ってくることに気づく。 彼は、疑いの余地なく何者かが自分の道に歩み入っている0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 0 Etwas ihm in den Weg trittと分かる。それは目の前に現れて安全な道を案内してくれる 天使かもしれないし、輝く剣をかざし道に立ちはだかる天使かもしれない。 しかし人間が自分自身の力を求めて道を進んでいくと、何らかの見知らぬ ものがそこに横から入ってくるということだけは確かである。(PR 1956: 780) この何者かの考察に注力したのがルドルフ・オットーであり、否定を通してし か近寄れない「全くの他者」と見ぬき、「ヌミノーゼ」と名付けたのは正鵠を 射ていたとレーウは指摘している。このように人間的な力が限界に達するのに 応じて神的な力が動き出すとき、救い Heil が生まれる。これらの議論を下の ような論点にまとめたい。 3.宗教とは?:3 1. 水平面上の宗教 → 3 2. 垂直線上の宗教 「111章、宗教現象学」では、上における現象学方法論と宗教観を総合して 宗教現象学とは何かを論じている。まず、上で論じた通り我々の理解を越えた 限界体験、啓示という側面をもつ宗教を、いかに学的に理解することができる
のかという問題提起がなされる。レーウはそれを、そもそも「理解」を成り立 たせる究極的基盤についての哲学的・神学的議論に求めようとする。すなわち 人間の理解という営みの内に既に究極的基盤として「理解されること」という 契機が含まれている。エポケーとは冷たい傍観者の態度ではなく、自らを愛し てくれた対象に対する、愛に満ちたまなざしである。ここに宗教理解への道が 開ける。レーウは主にシュプランガーやプシュワラに依拠しながらこれらの議 論を進めている。 続いてレーウは関連諸分野と宗教現象学の違いについて論じる。宗教現象学 はデータに基づいて議論を行う点で芸術とは異なり、個別のデータを越えた意 味連関を考察する点で宗教史と異なる。宗教心理学とは重なり合う部分も多い が、心理に限定されない人間生活の全般を取り扱う点が宗教現象学の特徴であ る。宗教哲学が取り扱う哲学的、形而上学的問題に関し、宗教現象学は直接に 取り組むことはせず、宗教史の素材を体系的にまとめることで宗教哲学に材料 を提供する。また、神学は現象学が取り扱わない啓示や神そのものについて取 り扱う点が異なっている。これらの諸学との関連を論じた部分においては、レー ウは主にヨアヒム・ワッハの議論を参照しながら論を進めている。これらの部 分を以下のようにまとめてみたい。 4.宗教現象学とは?:5. 関連諸分野との違い:5 1. 芸術 → 5 2. 宗教 史 → 5 3. 宗教心理学 → 5 4. 宗教哲学 → 5. 5. 神学 3.「宗教現象学」と哲学的現象学との関係 方法論そのものの展開を検討する前に、まずは哲学的現象学との関係の変化 をうかがわせる箇所を『入門 A』と『入門 B』に指摘しておきたい。1924年と 1948年のレーウは、著作中で展開しようとする新しい学問分野の呼称として 「一般宗教史」や「宗教観念の形態論」(『入門 B』では「先験心理学」「形相論」 も加えられる)といったものも考えられるとしたうえで、次のように述べる。 差しあたって、我々は「宗教現象学」という名称を保持しようと思う。こ の呼び名は歴史的な複合に対して個々の現象を際立たせるものである。
(EPR 1925: 4)(EPR 1961: 5) 宗教現象をその歴史的前後関係ではなく、個々の現象自体の意味に注目して研 究する自らの立場について「差しあたって」「宗教現象学」を名乗ろうという、 いわば「宗教現象学」宣言ともいえる一文であり、ここまでは1924年と1948年 のテキストに違いはない。問題はその後である。まず、『入門 A』では、その 文章に以下のような註釈がつけられている。 「差しあたって」というのは、別の知の領域において「現象学的に」作業 をしようとする新しい方法が現れつつあって(哲学におけるフッサール、 精神分析や心理学におけるヤスパースの方法)、それらが似通ったところ が多少あるにしても本質的に異なった目的を持っているがゆえに、言葉の 混乱が生じてしまうことが考えられなくもないからである。(EPR 1925: 4) ここからは、1924年の段階でレーウはフッサールやヤスパースの名前をあげて 「現象学」を名乗る諸学が台頭しつつあることを把握しつつ、それらとの関係 については警戒心をもっていたことを窺うことができる9。 他方、『入門 B』では、上記の註釈が消去され、代わって本文中に以下のよ うな文章が追加されている。 さらにはわれわれの研究を、この数十年間人間学や芸術学などに実り多い 形で適用されているような現象学と同一線上に並べるばかりか、フッサー ルやヤスパースやシェーラーによって基礎づけられ、シェーラーによって すでに宗教にも適用されたような現象学的方法のより広い視野とより深い 土台をもわれわれの研究に与えるものである。(EPR 1961: 5) すなわち、1924年のテキストで警戒しつつ「差しあたって」保留していた他の 「現象学」運動との関係について、1948年のテキストでは自らの宗教現象学を むしろ積極的にその運動に結び付け、それによって広い視野と深い土台を獲得 9 この点についてはモレンダイク(Molendijk 2005: 38)を参照。そこでも指摘されている ように、同書の編者序文においては、フリードリッヒ・ハイラーがまるで念を押すかのよう にここで用いられている「現象学」という言葉は「フッサールやシェーラーの哲学における 意味ではなく、ティーレ、シャントピー・ド・ラ・ソーセイ、エドヴァルト・レーマンのよ うな比較宗教史学者のいう意味で用いられている」と述べている。(Heiler 1925)
しようと試みているのである。ここには当然、レーウの宗教現象学の方法論的 展開、あるいは深化がともなっていた。 4.構造心理学の諸概念の導入 このような哲学や心理学における「現象学」運動との距離感の変化は、当然 ながらその方法論そのものにも反映している。表1. を一瞥していただければ 自明な通り、レーウ宗教現象学方法論上の論点のほとんどは『宗現 A』におい て出そろい、その後は大きな変化をしていない。とりわけ『宗現 A』と『宗現 B』では方法論を扱ったエピレゴメナの内容はほとんど変わっていない。一方 『入門』の方をみると『入門 A』の序論の内容は『入門 B』版で大幅に増補さ れている。すなわち、レーウの方法上の展開において最も大きな変化は、『入 門 A』と『宗現 A』の間の10年に起きているのである。 その中でも最も顕著であるのは、主にシュプランガーやディルタイの生の哲 学あるいは構造心理学に依拠した「原体験とその再構成」「構造と意味理解」 といった認識論的概念である。『入門 B』では以下のような説明がなされるが、 この部分は『入門 A』にはない。 体験というものは隠されたものである。われわれはマホメットがメッカか らメディナへ逃れた時に彼が体験したことをもはや正確に知ることは決し てできない。しかしわれわれ自らの体験を完全に再現することも、同様に 不可能である。われわれ自らの体験は、それを捉えようと努めても、常に もう過去のものとなってしまっている。(略)換言すればわれわれは自身 の体験を再構成しなくてはならない。(EPR 1961: 8 9) このような体験の再構成は、理念的構造、図式を通してなされる。レーウによ れば、そのような構造を理解し、証言することこそ宗教現象学のなすべきこと であるという。 他者のものでも、我々自身のものでも、体験されたものの再構成をわれわ れは把握と呼ぶ。われわれは実際に体験されたことをつかみ、それを理念 的構造、図式として捉えようとするが、それは何ら抽象物ではなく、把握
という行為の中でふたたびわれわれによって体験されるのである。そして、 われわれがこうした体験について語り、証言し始めるとき、われわれの方 法の目標は達成され、現象の本質をわれわれに可能な限り理解したことに なる。(EPR 1961: 9) では他者を担い手とした現象をいかにして理解にもたらすことができるのか。 その手順をレーウは上述の通り①命名②追体験③エポケー④明瞭化⑤資料によ る再検討⑥証言のステップで示す。これらの多くもシュプランガーやディルタ イから取り入れられた概念であり、『宗現1924』には②追体験を除いて見るこ とができないものである。別の言い方をすれば、宗教現象学方法論の中で、こ の「追体験」だけは1924年の時点からすでに登場している。レーウは四つのテ キストのすべてにおいてこの追体験の話をする際にウーゼナーの言葉を引用し ている。 われわれが空虚な抽象とか生命のない事実を手中に収めるだけで終わろう と思わないならば、歴史の中に見出される宗教概念を、われわれにとって 「理解可能な関係」において、すなわちわれわれの精神生活の内で全く同 じ形で存在するのではないまでも、とにかくわれわれに何かを伝え、ウー ゼナーの言によれば、同波長の弦を共鳴させるような心理複合において眺 めるというやり方で、描写せねばならない。(EPR 1925: 7, EPR 1961: 8) ここでもう一度ウーゼナーの美しい表現を引用しよう。彼は現象学につい て何も知らなかったがその意味するところは理解していた。「この過ぎ去 りし時代の精神の痕跡にひたすら没入すること…そのことによってはじめ て我々は追感に至ることができる。そのとき次第に我々の内なる同波長の 弦が共振共鳴しはじめ、我々の意識の内に古きものと新しきものを結ぶ糸 が見出されるのである。」それはまさにディルタイが「構造連関の体験」 と呼んでいるものに他ならない。このような体験は確かに科学というより むしろ芸術である。(PR 1933: 639, PR 1956: 773) しかしその他の部分はほとんど、シュプランガーの構造心理学やディルタイの 精神科学などから引用されたもので、『宗現 A』以降に追加された部分である。
5.「エポケー」と「本質直観」 より慎重な検討を要するのが、明らかに哲学的現象学に由来すると思われる 「エポケー」や「本質直観」といった概念である。 まず「エポケー」について言えば、それは『宗現 A』以降のテキストにおい て、宗教現象学の方法論上最も重要な手続きないし態度の一つとして扱われて いる。 現象学は形而上学でも経験的事実の把握でもない。現象学は留保0 0の態度す なわちエポケー0 0 0 0に注意を払い、出来事の現象学的了解はそれを「括弧に入 れること Einklammerung」によっている。現象学は現象、すなわち自らを 示すものだけに関わる。現象学にとって現象の「背後のもの」は存在しな い。(PR 1933: 640, PR 1956: 774) 現象学は、宗教現象の多くが、その内包する真理欲求をぬきにしては理解 されえないことを承知しているのである。しかし現象学は、こうした価値 や真理については判断を下さず、それを括弧の中に入れ、判断を中止する (エポケー)。すなわち、現象学はさまざまな宗教の中の何れかを選ぶこ とはせず、ましてや全宗教の中から、真の宗教であると同時に最大公約数 でもあるような一種の中核宗教、ないしは「自然的」宗教を構成しようと 試みたりはしない(EPR 1961: 2 3)。 しかしレーウの宗教現象学において「エポケー」は、上述のような価値や真 理の判断を差し控えるという研究者の学問的慎重さと客観性を担保する手段で あるにとどまらない。それは目前の現象の意味構造あるいは「本質」を明るみ に出すための方法でもある。 もともとこれは、上述のエポケーという現象学的判断中止にほかならない。 現実の理解を可能にするためには、われわれは現実から一歩退き、それを 真理でありかつ現実であるものとして「中間においておく」ようにしなく てはならない。われわれは混とんとした現実に背を向け、それに構造、意 味を与える。そしてそのようにして初めて、われわれは諸現象の「本質」 をみつける。(EPR 1961: 9)
『宗教現象学』では『宗現 A』『宗現 B』の両方においてこのエポケーを論じ る際にマックス・シェーラーとフッサールの名前が言及されており(PR 1933: 640, PR 1956: 774)、哲学的現象学が意識されていることは疑いがない。ただし、 『入門 A』には、エポケーに関する議論は一切含まれておらず、この概念が『入 門 A』と『宗現 A』の間、すなわち1924年から1933年の間に初めて導入された ものであることが分かる。 ところで、上の『入門 B』(EPR 1961)の引用をみると、エポケーによる諸 現象の「本質」発見が論じられており、フッサールや特にシェーラーの哲学的 現象学における「本質直観」の概念を思わせる。実際、『宗教現象学入門』の この箇所をとりあげてレーウ宗教現象学方法論の「本質主義」的性格を批判す る論者は少なくない。しかしこの点については、より慎重な議論が必要である と筆者は考える。 何よりも、上記引用のような「本質直観」に通じるような「本質」概念の用 法は、この『入門 B』以外に見出すことができない。そればかりか『入門 A』 では哲学的現象学における「本質」概念との違いを下のような脚注でわざわざ 強調している。 ここで「本質」というのは、フッサールやシェーラーの「現象学」のよう な認識論的もしくは形而上学的な意味においてではなく、純粋に心理学的 な、現象の基礎をなす最も深い体験という意味である。(EPR 1925: 7) 更に『宗教現象学』を見ると、そもそも「本質」という概念がほとんど用いら れていないうえ、数少ない使用箇所での「本質」概念の用法を見ると、それは 諸現象を理解可能な連関あるいは類型の中に収めることによって現れてくる意 味のことを指しており、むしろ他の諸現象との関係性の中で現れてくるものだ とされている(PR 1933: 637, PR 1956: 771)。このような目でもう一度『入門 B』 を見ると「この『本質』とは構造、『鋳型』であり、現実にはどこにも完全に は実現されていないが、それによって初めてわれわれが現実を理解できるもの なのである」と述べられており、シェーラーらの用いる本質や本質直観にその まま通じるものではないことが分かるのである。
おわりに 本稿ではレーウの宗教現象学の方法論について、『宗教現象学入門』の二つ の版、『宗教現象学』の二つの版をとりあげ、それらにおける宗教現象学の理 念や方法の展開を跡付け、その特徴を明らかにしてきた。その結果、以下の4 点が明らかになった。 1.レーウの宗教現象学方法論は、『入門 A』(1924年 ) と『宗現 A』(1933年) の間の時期に大きな変化をとげていること。確かにこの時期のレーウは Über einige neuere Ergebnisse der psychologischen Forschung und ihre Anwendung auf die Geschichte, insonderheit Religionsgeschichte (1926, Studi e Materiali di Storia
delle Religioni, II-1.) および Strukturpsychologie und Theologie (1928, Zeitschrift
für Theologie und Kirche NF, 9) というそれぞれ構造心理学と宗教史、構造心理 学と神学の関係を論じた論文を書いており、いわば構造心理学的転回を果たし た時期といえる。 2.『入門 A』では慎重であった哲学的現象学との関係について、『宗現 A』以 降は自分の宗教現象学に広がりと深みを与えるものとして積極的にとらえるよ うになっていること。 3.方法論の変化もしくは深化には、シュプランガーやディルタイによる構造 心理学からの影響が明確に見られること。 4.一方、従来のレーウ研究で重視される傾向にあった「エポケー」や「本質 直観」など哲学的現象学プロパーの概念については、慎重な検討が必要である こと。特に「本質」概念はあくまで類型的な意味連関において現れる構造心理 学的なものであり、フッサールや特にマックス・シェーラー的な本質概念と同 一視することはできないこと。 また、今回の研究からは、レーウの、あるいはオランダ宗教現象学の展開を 考察するうえで、次の二つの時期について更なる研究が必要であることが明ら かになった。今後の課題として記しておきたい。 1.ソーセイの『宗教史教本』出版(1887 1889)からレーウの『宗教史入門』 出版(1925)までの時期。レーウはそもそもどうして「宗教現象学」という名
称を用いたのだろうか。もちろんここにはソーセイからの影響が考えられるが、 ソーセイの『宗教史教本』出版からはおよそ35年の時を経たのちに、しかもソー セイ自身が撤回してしまった「宗教現象学」という名称を敢えて復活させたの か、明らかにする必要がある。 2.『入門 A』(1925年)から『宗現 A』(1933年)までの間。本稿の考察から この時期にレーウは構造心理学や哲学的現象学に接近し、宗教現象学の理念や 方法を確立していったと考えられ、上述2論文の他、RGG の「宗教現象学」 項目など多くの方法論を扱った論文を執筆している。また様々な雑誌にきわめ て多数の書評を執筆しており、これらを検討していくことで宗教現象学の成立 過程をより詳細に跡付ける必要がある。 参考文献 華園聰麿(2016)、『宗教現象学入門─人間学への視点から─』、平凡社。 Heiler, Friedrich (1925), Vorwort des Herausgebers, in Einfürung in die
Phaenomenologie der Religion (Gerardus van der Leeuw, Ernst Reinhardt).
木村敏明(1991)、 G. ヴァン・デル・レーウの宗教現象学における人間の問題 , 『論集』18号。
木村敏明(1992)、 G. ヴァン・デル・レーウの宗教現象学における人間の問題⑵ , 『論集』19号。
Molendijk, Arie (2005), The Emergence of the Science of Religion in the
Netherlands, Brill.
Tuckett, Jonathan (2016) Clarifying the Phenomenology of Gerardus van der Leeuw, Method and Theory in the Study of Religion, 28 (3), pp. 227 263. Van der Leeuw, Gerardus (1925), Einfürung in die Phänomenologie der Religion,
Ernst Reinhardt.
Van der Leeuw, Gerardus (1933), Phänomenologie der Religion, J. C. B. Mohr. Van der Leeuw, Gerardus (1956), Phänomenologie der Religion 4 Aufl., J. C. B.
Van der Leeuw, Gerardus (1961), Einfürung in die Phänomenologie der Religion, 2 Aufl., Gerd Mohn.
Waardenburg, Jacques (1972), Religion between Reality and Idea: A Century of Phenomenology of Religion in the Netherlands, Numen Vol. 19, pp. 128 203.
Methodological Development of G. van der
Leeuw’s Phenomenology of Religion
Toshiaki Kimura
In this paper, I try to explore methodological development of phenomenology of religion by G. van der Leeuw (1890-1950) who is supposed to be a founder and representative scholar of that academic field. Compared his four texts including Einführung in die Phänomenologie der Religion (1925, Ernst Reinhardt), Phänomenologie der Religion (1933, J. C. B. Mohr), Phänomenologie der Religion (1956, 4 Aufl., J. C. B. Mohr) and Einfürung in die Phänomenologie der Religion (1961, 2 Aufl., Gerd Mohn), I conclud next three points.
1. Leeuw s methodology of religious phenomenology changed significantly during the period between Einführung (1925) and Phänomenologie (1933). The Leeuw of this period wrote several papers on the methodological issue of religious studies and examined relationship between structural psychology of Spranger and Dilthey and history of religions. His methodological description was sophisticated and philosophized during this period.
2. Regarding the relationship with philosophical phenomenology, Leew showed suspicious attitude in Einführung (1925). After Phänomenologie (1933), it came to be actively considered as something that gave the breadth and depth to his phenomenology of religion.
3. On the other hand, philosophical phenomenological concepts such as epoche and essence intuition , which sometimes overemphasized in studies on Leew before, need to be reconsidered their meaningsin Leew s methodology. In particular, the concept of essence is used in a structural psychological sense and cannot be identified with the Husserl or especially Max Scherer s concept of essence.