来 日したザクセン関係者
松
尾
展
成 目 次 (1) 初 め に (2)来 日したザ クセン関係者 (3) 注引用文献 目録(4)Namenverzeichnisvon50''Sachsen"inJapan,1649-1998
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)
初 め に 本稿 の 目的は ,日本 とザ クセ ンの文化交流史(1)を解 明す るための基礎的作 業 の一つ として ,来 日したザ クセ ン関係者 の氏名 と経歴 ・業績 を ,簡潔 に紹 介す ることである.本稿 において 「ザ クセ ン」 は,1815年 の ヴ ィ-ソ会議 に よって領土 の縮小 したザ クセ ン王 国,両大戦 間期 のザ クセ ン邦 ,第二次大戦 後 の ドイ ツ民主共和 国時代 の ドレースデ ソ,カルル ・マル クス ・シュタ ッ TL とライブツィヒの3県 ,お よび,1990年 の ドイ ツ再統一 以後 のザ クセ ン州を 指 し,1815年 以後 のプ ロイセ ン王国ザ クセ ン州 の領域 (お よび ,その後継行 政 区域) を含 まない .また,1649年 に 出島蘭 館 に着 任 した 医師 シ ャムベル ガーを最初 とす る,「来 日したザ クセ ン関係者」は ,来 日 ドイ ツ人 の中で ,吹 の3
条件 の一つ以上に該 当す る人を指す .第1
は ,ザ クセ ンで生 まれた人 , 第2は,来 日前にザ クセ ンで職業活動 を行な った人 ,第 3は ,離 日後 にザ ク セ ンで職業活動 を行 な った ,あるいは ,現に行 な っている人であ る(2). した が って ,ザ クセ ンの教育機 関に在籍 ,あるいは ,そ こで学位 あるいは教授資 格を取得 しただけの ドイ ツ人は除外 され る. -117-来 日したザ クセン関係者は,日本側資料 あるいは先行業績におけ る表記法 に従 って,その姓の五十音順に配列 され る.場合に よっては,生没年の後に 私の表記法が ( ) 内に示 され る.武 内
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5に記載 され てい る人物 の経 歴 ・業績 ・参考文献については,同書を参照 されたい.また,来 日ザ クセン 人の著作 も,日本に関連す るものに限定 され る. 本稿 の意味におけるザ クセン関係者を確定す ることは,私に とって容易で なか った .邦語文献では 「ドイツ生 まれJ
,ない し,
「ドイ ツ人」 と一括 され る場合が ,きわめて多いか らである.また ,本稿で取 り上げたザ クセン関係 者の生地 ・生年 ,没地 ・没年 ,経歴 ・業績についても,多 くの不明な事項が 残 っている.とくに,テンツラーについては名ばか りでな く,姓の原綴 も確 定できなか った .さらに,私の調査が不十分であるために,本稿 に含 まれて いないザ クセン関係者 も,少な くないであろ う.そのために私は先学 ・同学 諸氏の教示を切望 している.そ して,コル シェル トに関す る加茂詮 ,藤原隆 男両教授の,また ,シャムベルガ-とマイスターに関す るヴォルフガング ・ ミヒェル教授の,伝記研究の一層 の進展を期待 している. 本稿の作成に際 して数多 くの教示を与えられた, ミヒャ-ル ・ラウック助 教授 ,荻慎一郎教授 ,高橋輝和教授 と日本 の多 くの個人 ・機関に,そ してま た,ザ クセン州立中央文書館 ,ザ クセン州立 ライブツィヒ文書館付属 ドイツ 系譜学センター, ドレースデ ン市立文書館 ,ケムニ ッツ市立文書館 ,フライ ベル ク鉱業大学文書館 ,テ ユービングソ大学図書館 ,バイエル ン州立図書館 な ど, ドイツの諸機関に,さらに,文献の検索 と収集に配慮 された岡山大学 経済学部資料室に,心か ら感謝す る.これ らの教示に よって,従来知 られて いたザ クセ ン関係者数人について,生地 ,没年な どが明確にされ ,また,従 来紹介 されていなか った相当数 のザ クセン関係者の氏名が解 明された.ちな みに,本稿で取 り上げたザ クセン関係者5
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人の うち,武 内1
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所収は2
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人で ある. (注 1) ライブツィヒ大学 は19世紀 末か ら第二次大戦 直後 まで 日本学講座 を設置 しており,1996年に再興 した(1932年か ら45年 までは 日本学研究所 で,所長は初代 ユーバ ーシャー ル ,次いで- ミッチ ュであった). ドレースデ ン工業大学は.日本 とザ クセ ンお よび ドレー スデ ン市 との関係の改善に寄与 した元佐賀県知事鍋 島直紹 (1981年没)を記念 して, ドレ一 スデ ソ大公園の傍 らにあって,水道設備を研究 してい る-建物を,1982年に鍋 島館 と命名 し た.83年には鍋島家 旧蔵 の江戸時代の工芸品 (漆器な ど)が同大学に寄贈 された (ドレース デ ン工業大学文書館回答). ザ クセ ンにある日本美術工芸品の コレクシ ョンで,最 も著名な ものは ,ドレースデ ソ磁器 博物館の近世肥前磁器である.これは現在では,18世紀前半のアウダス ト強健侯当時 と比較 す ると,その数を減 じた として も,世界有数の,そ して,ヨーロッパ最大の,近世肥前磁器 コレクシ ョンである.シ ョイベの民族学関係 コレクシ ョンはライ ブ ツ ィヒ ・グ ラ ッシ工 芸 博物館に収め られている.ズスマ ンがグラ ッシ博物館に寄贈 した ものは ,現在 どの よ うに な っているであろ うか .私の質問に対 して同博物館か らは回答がない.ドレースデ ソ銅版画 美術館は小沼隆一郎画伯の現代版画12点を所蔵 している, ザ クセンに関係のある ドイ ツ人の蔵書で,日本に請来 された ものは ,私の知 るかぎ り,吹 の とお りである.生計費のエ ンゲル係数で知 られ る,ザ クセ ン,後にプ ロイセ ン統計局長エ ンゲル(ErnstENGEL)の蔵書は東大経済学部にあったが ,関東大震災に よって灰憶 に帰 し た (高野 1961,pp.7,ll,112-113,115,130).歴史派経済学 の巨匠 ,ライブツィヒ大学 教授 ビューヒャ- (KarlBtJCHER)の蔵書は京大経済学部に ,ライブツィヒ大学 の植物 学 教授で,留学生 ,後の東大教授三好学を指導 した プフ ェッファー(Wilhelm PFEFFER)の それは,岡山大学資源生物科学研究所 (大原孫三郎創設の大原農業研究所 の後身)に ,ライ ブツィヒ大学法学部教授 「ワッ-」(AdolfWACH)のそれは東大法学部にある.この ヴァッ ノ、については,シュ ミッ ト1995,pp.46,81,147を参照 されたい. 日本 とザ クセンとの関係を示す事例を,さらに挙げてお く.第1は,1979年 に佐賀県有田 町 とマイセン市が姉妹都市の関係を結 んだ ことである.有田は 日本におけ る磁器生産 の,マ イセ ンは ヨー ロッパにおける硬質磁器生産の ,発祥地である (ドレースデ ソは製作突抜成功 の地).第2は, ドレースデ ソ中心部か らェルべ河をす こし遡 った所に ,ピル ニ ッツ宮殿 が あるが ,そ この庭園に誓える日本種椿 (cameliajaponica)の古木である.これは,オランダ 東イ ン ド会社か ら長 崎 ・出島に派遣 され た ス ウ ェーデ ンの植 物学者 トゥソベル ク(Carl PeterThunberg)が,1776年に ヨー ロッパに持ち帰 った4本の中の 1本で あ る .他 の3本 (ロン ドンのキ ュー植物園 ,ヴィーン,- ノーファー) は次 々に枯 れ てい った の で , ピル ニ ッツの椿は ヨー ロッパの樹木 の中で貴重な ものである.この椿は ,当初は鉢 に植 え られ , 冬には温室に移 されていたが,1801年に現在地に定植 され ,冬にはガラス製 の覆いで保護 さ れ るようにな った .今では高 さ9メー トルに近 い大木 とな り,毎年約2万5千 の花を咲かせ ている (ザ クセン州大蔵省城館管理部回答). (注2)以下の人物を来 日ザ クセ ン関係者 とす る見解があるが ,誤 りである. (a)ベル ゲ ィヒ(ChristianBERWIG,177711777).1739-45年に長崎 ・出島蘭館の医師助 手であった彼は,ザ クセンのヴィーゼ ンフェル ト(Wiesenfeld)出身 とされてい る (Kraas 1992,S5).しか し,この名前の集落 はザ クセ ンには ない.VglBlaschke1957,S59*. Wiesenfeldは,1803年 までマイ ソツ大司教領 (以後 プ ロイセン)に属 したテ ェー リングソの -119
-村である.Berwig とい う姓の家族は,現在では この村 と周辺 にいない .- イ リグ ソシ ュ タ ッ 7.市立文書館回答 .
(b)ホエルべ (AntonHermanHORDE,1881-177?)(--ルベ).陸軍雇独逸人 ,個人略 歴 (中村 1973,p236)に よれば,彼 は 「サ クセ ソ州 ライ- ェソバ ッ-市」に生 まれ ,ボン 大学を卒業 し,1906-09年に陸軍砲工学校 ・語学教師 とな った,とされている.ボン大学文 書館回答に よれば,彼はオース ト1)ア国籍 ,ボ- ミアのデルフ ェル(Dorfel)生 まれで ,ボ-ミアの ライ ヒェソベル ク(Reichenberg)の高等学校を卒業 している. (C)ジェニン(AlexisJANIN,1877-1897)(ジャニソ).招聴 されて,1873-76年に佐渡金 山の技術改良に尽力 した米国人のジェニン(JANIN)は ,フライブル ク大学の助教授であっ た ,との説がある (吉 田1968,pp.136-137).ただ し,武内 1995,p.174では ,ジ ェニ ソ (JENIN)紘-イデルベル ク大学助教授 とされている.ジャニソ (JANIN)が優秀な成蹄で フライベル ク鉱業大学を1868年に卒業 したのは,事実 であるが ,卒業直後 に彼は米国に帰 っ た .Schiffner1935,S.289.なお,植 田 1990,p.10を参照 . (d)レ-デブール (AdolfLEDEBUR,1837-1906)(レ-デブ-ア).フライベル ク鉱業大 学冶金学教授の彼 は,多 くの 日本人留学生を指導 したばか りでな く,官営八幡製鉄所 の建設 にも協力 した.彼については,東大を訪問 した,とい う説 (佐 々木 1985,pp38-39)と,日 本には来ていない,とい う説 (吾妻 1974,p.152;上村 1984,p75)がある.フライベル ク 鉱業大学文書館の回答に よれば ,彼 は来 日していない. そのために,上記 の4人は本稿では取 り上げ られない.ただ し,本稿には
,
「ザ クセ ン生 ま れ」 とのみ記 されていて,正確な生地が判明 しない ドイ ツ人2人 (ェ クスネル ,ユ ンカー. さらにオーヴァ-カンプ,フラツケを加えると4人),お よび,ザ クセンで活動 したが ,生地 不明の ドイツ人3人 (テンツラー,-ルテ ィヒ,マルテ ィン) も,含 まれている. なお, ドイツ人以外では,私の知 るかぎ り,次の2人がザ クセ ンか ら日本に来ている. (A)バ クーニン(MikhailAleksandroicvhBAKUNIN,181411876).ロシア人の彼は1848年 か らザ クセ ンに住んで,三月革命末期,49年5月には ドレースデ ソ蜂起を指導 した .蜂起鋲 圧後 ケムニ ッツ市で逮捕 され ,ロシアに引 き渡 された .彼 は流刑地 シベ リアか ら61年 に脱出 して,函館に着 き,W.-イネ (本稿参照) と同 じ船で横浜か らア メ リカに渡 った .ただ し,彼 は この時に 日本人 と接触 していない.木村 1979,pp.22-24,35-38. (B)プ ロムシュテ ッ ト(HerbertBROMSTEDT,1928-).ス ウェーデ ン人で ,1975-85年 に国立 ドレースデ ソ交響楽団主席指揮者であった彼は,86年か らNHK交響楽団名誉指揮者 である.音楽辞典 1991,p.1689;NHK 交響楽団回答 .(
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来 日したザ クセ ン関係者
(1) アルノルト (W idoARNOLD,1965- ) 彼は文芸評論家の子 として ドレースデ ンで生 まれ , ドレースデ ソ工業大学 卒業後,1993年に岡山大学大学院修士課程 (土木工学専攻)に入学 した .95年か ら博士課程に在学 している(1). (注 1)本人回答 . (2) ヴ ェンチ ッヒ (HeinrichWANTIG,1870-1943) (ヴ ェンツ ィヒ) 彼 は,ザ クセ ン宗教省局長 を父 と して ,西 南ザ クセ ンの ツゲ ィ ッカ ウ (Zwickau)市 で生 まれ ,1893年にライブツィヒ大学で学位を取得 した .グ ライフスヴァル ナ大学教授 (1899年)などを経 て,1904年に- レ大学教授 と なった.09年東大法学部に招かれ ,経済学 と財政学を講義 し
,
「東京帝国大学 二於 ケル経済学教授法改良意見」を各方面に提出 した .この意見書は,東大 法学部か らの経済学部の分離 ・独立に相当の役割を果た した .14年に- レ大 学教授に復帰 し(27年 まで),21-28年 にプ ロイセ ン邦議会議員 (社会民主 党),27-30年にプ ロイセ ン弗ザ クセン州長官,30年に半年余 りオ ッ トー ・ ブラウン内閣でプ ロイセ ン邦 内務大臣 となった.31年に社会民主党を離れ , 西 ドイツのバーデ ン ・バ ーデ ンで没 した(1). (注 1)武内 1995,p.46;高野1961,pp8-9,122-130;東大 ・経 済 1976,pp.15, 616,620;Reichshandbuch1931,S.1967-1968:Kosch1963,S.1170. (3)エキスネル (OttomarEXNELL,1849-17??)(エクスネル) 彼は鍛冶屋の子 としてザ クセン (詳細不明)で生 まれた .京都府営 「梅津 パ ピール ・ファブ リ-ク」 の技師に招かれて,1875年か ら77年 まで (あるい 紘,73年か ら76年 まで)滞在 し,洋式製紙技術 の導入に尽力 した .来 日前の 経歴 と帰国後 の消息は不明である(1). (注 1)青田1968,pp.195-197;宮永 1993,p.412:Meissner1961,S.48. (4) オーヴ ァーカンプ (ChristianHendrikOVERKAMP,1777-1???) 1781-84年に長崎 ・出島蘭館の上級医師であった彼は,ザ クセ ンのダー レ ン (Dalen)出身 とされている(1).それ以外は不明である.しか し,ザ クセン にはDalen とい う集落はない (2).私は,ダー レンが北ザ クセンの Dahlen市である可能性を考慮 して,同市立文書館に照会 したが,回答がない.
(注 1)Kraas1992,S.6.
121-(注2)Vgl.Blaschke1957,S.11*. (5) ゲスナー (GesineGOSSNER,1961-) 彼女は北ザ クセ ンの リーザ (Riesa)市で肉屋の子 として生まれ ,同市 の高 等学校を経て,ライブツィヒ大学で学び,1992年に現代 オランダ女性文学に 関す る論文に よって ライブツィヒ大学哲学博士 となった .91年か ら同大学で 現代オランダ文学を講義 した後,92年に来 日した .それ以来 ,九州工業大学 工学部で ドイツ語を担当 している(1). (注 1)大学職員鐘 1996(1),p.947;本人回答 . (6) 高 へテ ィ (旧姓 ヴ ェー ケル)(HedyKOU,geb.WEKEL,1908-) (高 へデ ィ) 彼女は ライブツィヒで生 まれ ,同市の歌劇場のバ レリーナ とな った .ライ ブツィヒ音楽大学でチ ェロを学んでいた高勇吉 と1927年に出会い,帰国す る 勇吉に伴われて,翌年に来 日し,東京で結婚 した .彼女は間 もな くバ レエを 教 え始め ,また ,勇吉 とともに 日本各地で,さらに,アジア諸国で コンサー トを開いた.第二次大戦が始 まると,二人はスパイとして監祝 されたので, 勇吉は満州国に移 り,放送局で音楽 の仕事に従事 した .敗戦後 ,勇吉は家族 とともに,音楽教育のために国民党政府に よって北京に移 された .49年に 日 本に帰国 して間 もな く,勇吉は没 した .その後-デ ィは非常に苦 しい生活を 送 った .午前中は ドイツ人のための幼稚園で教え,午後はジーメンス社のた めに働 き,夜は 日本人に ドイツ語を,週末には知人宅の洋間でバ レエを教え た(1). (注 1)Foreignwives1996,pp.8-9,17-19. (7) コルシェルト (OscarKORSCHELT,1853-1940) 彼は小学校教師の子 として東 部ザ クセ ンのベル テル ス ドル フ (Berthels -dorf)村で生まれた.1871-75年に ドレースデ ソ工業専門学校 (ドレースデ ソ工業大学の前身) で,その後76年 までベル リーン大学哲学部な どで化学を 学んだ .短期間 ドレースデ ソとライブツィヒの ビール工場で化学技師を勤め
た後 ,来 日した.彼は1876年か ら東京医学校 ,次いで東大医学部で化学を教 授す るとともに,日本酒の化学分析を行ない,北海道におけ るビール醸造を 指導 し,防腐剤サルチル酸 の効用を解説 した.80年に内務省地理局地質課分 析係長に転 じ,精力的に調査 ・研究を行なった .彼は,数 カ所 の土壌の化学 分析に基づいて,西欧農法の移入ではな く,在来農法の改良を提案 した (「日 本農業 ノ目途上 『地質調査所年報』,明治15年第1号,1882年 .農林省農務局 (蘇),『明治前期勧農事蹟輯録』,下巻 ,長崎出版 1975に復刻).「日本海塩 製造論」 (『地質調査所報告』,明治16年第2号,1883年 .『日本塩業大系 資 料編 近 ・現代2』,日本専売公社 1975に復刻)は,後の塩業に大 きな影響 を与えた .「日本陶業」は,日本陶磁器 とその原料に関 して非常に多 くの資料 を分析 している.この論文は後に 『窯業協会誌』,38-41号 (1930- 33年) に,さらに,『窯技』,15- 22号 (1965-68年)に公表 された.彼は1884年に 日本を離れ ,帰国 した .85年に香港で事業を計画 したが,成功 しなか った. ライブツィヒで太陽エーテル光線器具の販売に よって,あるいは,化学技師 として長 く生活 し,そ こで没 した.滞 日中に囲碁を習い覚え,『碁 .チ ェスに 対 抗 す る 日本 と中 国 の遊 技』Dasjapanisch-chinesischeSpielGo.Ein concurrentdesSchach,Yokohama1881(1)を著 した(2).藤原隆男教授の示唆
に基づいて,ツィッタウ市立文書館 とライブツィヒ市史博物館に質問状を出 した ところ,回答があった .それに よれば,コル シェル トは東部ザ クセ ンの ツィッタウ (Zittau)市で1887年に工場の建設を計画 し,1900年 まで同市 の 刊行住所録に記載 されていた .他方では彼 は,1892年にライブツィヒの刊行 住所録に初めて記載 された .この時の職業は工場主 (Fabrikant)であった .
(注1)GV(1),Bd.79,S.154.英訳本はTheTheoryandPyacticeofGo,translatedby SamuelP.KingandGeorgeG Leckie,Rutland/Tokyo1966.
(注2)武 内 1995,p.153;橋本 1970,pp.539-543;友 田 1978,pp.24-38;平 田 1983,pp24-27;加茂 1993,pp240-247;藤原 1994,pp.2-6, 9-ll;藤原 1995,pp,95-110;太 田1996,pp.41-51.
-(8)サイモン (EdmundSIMON,1882-1947)(ジーモン) 彼は商人の子 として ドレースデ ソで生 まれた .ベル リー ン大学 な どで法 学 ,日本語を学び,1908年に ドイツ帝国外務省か ら日本に派遣 され ,神戸 , 次いで長崎駐在の ドイツ領事 となった.11年か ら14年 まで長崎高商講師 とし て ドイツ語を教えた .『外国人への 日本の土地の無期限譲渡に関す る1904年 5月22日付け-ーグ常設裁判所 の判決 の本質 と国際法 的意義』Naturand vblkerrechtlicheTragweitedesUrteilsdesHaagerPermanentenSchieds -gerichtshofesvom22.05.1904betreffenddiezeitlichunbegrenzteUber -lassung yon Grundstiicken inJapan an Fremde,Diss.JUT.Greifswald 1908に よって法学博士 ,『琉球諸島に関す る研究』BeitrdgezuKenntnisder Riekiuイnseln,Diss.Phil.Leipzig1913(- Beitrage之urKultur-undUni -versalgeschichte,Bd.28)に よって哲学博士 となった .琉球については後年 , 別の著書 ,『琉球 .古代 日本の鏡』Riukiu.EinSpiegelfurAltjaPan,Ber -lin1923も発表 した.14年末か ら ミュソヒェン ・南バイエル ン商工会議所 に 勤務 し,22年か ら没す るまで,その法律顧問ない し専務理事であった(1). (注 1)武 内 1995,p.162;長崎大 1975,p.340;GV (1),Bd.135,S.56;GV (2),Bd. merfurMunchenundOberbayem)回答 . (9)シャムベルゲル (CasparSCHAMBERGER,1623-1706)(シャムベル ガー) 彼 は商人の子 としてライブツィヒで生まれ,1637年か ら同市で理髪外科を 学び,40年に修業 の旅に出た .43年にはオランダ東イ ン ド会社の理髪外科医 とな り,アジア各地 で同会社船の船医 として勤務 した.オランダ東イ ン ド会 社 の 日本商館には1630年か ら医療関係者が駐在 していたが,シャムベルガー は4人 目の ドイツ人 として,49-51年に長崎商館に滞在 し,商館長の江戸参 府に二度同行 した.第 1回 目には彼は 日本側の要請で江戸に長期滞在 して, 患者を治療 し,日本人医師を指導 した .これに よって彼 は,彼 の名 カスバル
に因むカスバル流外科 (ポル トガル系南蛮医学に続 くオランダ系紅毛医学の 最初の流派)の祖 となった.私の知 るかぎ り,彼が,来 日した最初のザ クセ ン関係者である.彼は相当の財産を蓄えて,55年に帰郷 し,ライブツィヒで 羊毛商人 とな り,58年にその市民権を取得 した.彼は,当時 としては稀な長 寿に恵まれ,莫大な遺産を残 して,同市で浸 した(1). (注 1)Michel1990(1),S.4ト51;ミヒェル1990(2),pp.1-6;ミヒェル1991,pp.143 -151;Michel1993,S.137-154,171-180;Michel1994,S.149-186:Michel1995(1),
S.111,116-119;ミヒェル 1995(2),pp.3-26;ミヒェル 1995(3),pp.85-92;ミヒェ ル1996(1),pp.4ト48.なお,宗田1989,pp.123-127を参照 . 80) シャールシュミt・J卜 (ClemensSCHARSCHMIDT,1880- 1945) 彼は西南ザ クセンのライヒェソバ ッ- (Reichenbach)市に紡蹟工場主 の 子 として生まれたが,1899年か ら自活 しつつ,ライブツィヒ大学で学んだ. 1902年か ら11年 まで彼は,六高 (岡山)の外国人教師 として ドイツ語を担当 しながら,日本語を学習 し,日本の工芸品を収集 した.帰国後 ライブツィヒ 大学でさらに日本史を研究 した.出雲守明衝の 『明衡往来』 の翻訳 と注解 ,
『藤原 明衝 の雲州消息 . 日本 最 古 の書簡 文 範』Unshu-Shosokuyo nFu-jiwaraAkihira.DeraltestejapanischeBriefsteller,Diss.Leipzig 1917に
よって哲学博士 となった.第一次大戦で負傷 し
,1
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年か らベル リーンの東洋 語研究所に勤務 して,夏 目擬石,『三四郎』,第 1章を翻訳 し,
「東京朝 日新聞 の ドイツ論」などを発表 した.戦後は同研究所の日本語担当教師代理,21年 教師,24年教授,34年にベル 1)-ソ大学名誉教授 となった.日独防共協定の 成立 とともに日本史の科学的研究 と教育は不可能 とな ったけれ ども,彼 は 「芥川龍之介 と西洋文学に対す る彼の関係 .現代 日本精神史 の一研究」 (35 午)などを発表 した.40年にベル リーン大学外国学研究所の設立に伴 って, 彼は日本学教授に任命 された.しか し,彼はナチスに入党せず ,ナチスと天 皇制の思想に影響 されない著作を発表 した.彼はナチスの監視を受けたが, ヒ トラーの日本語通訳を勤める時 もあった.44年に彼はついに研究所から罷 免 され,週3回の豚小屋の清掃を命令 された .その後 ,彼 は 「天皇制 の歴 - 1 2 5-史 .歴-史偽造の解 明」に関す る著作を完成 させたが , ドイツ敗戦 の2週間前 にベル リーンの自宅で殺害 され ,あの原稿は兵士たちに よって持ち去 られ , 失われた .その他の著書 として,『日本』Japan,Berlin1942; 『日本語にお け る重 要 漢 字』 Diewichtigsten chinesischen Zeichen im Japanischen, Berlin1938,3.Auf1.,1943な どがある(1). (注 1)六高 1980,p26;Goch1980
,
S.
312-317;GV(2),Bd.113,S.39. (ll)シャンツ (MoritzSCHANZ,1853-1922) 彼は,商人の子 として西南ザ クセンの トロイェソ (Treuen)市 で生 まれ た.父 とともにケムニ ッツ市に移 った彼は,1874年 まではケムニ ッツの-商 会の従業員であ り,75年に南米ブラジルに赴 いて, リオデジャネイ ロで ドイ ツ系の商会の支配人 とな った .88年か らさまざまな国を旅行 し,多 くの旅行 記を書いた .そのために彼は研究旅行家 ・植民政策論著 と見な されている. 96-97年に ドイツ帝国 ・プロイセン王国な どの政府 ,お よび,い くつかの商 工会議所がアジアに派遣 した通商使節団のザ クセン繊維工業代表 とな って, 来 日した .それに基づ く著書 と して ,『東方 - の旅』EinZugnachOsten. Reisebilderauslndien,Birma,Ceylon,StraitsSettlements,Java,Siam, Korea,Ostsibirien,Japan,AlaskaandCanada,Hamburg1897が あ る. 1900年にケムニ ッツに帰 って,引退生活を送 り,同市で浸 した(日. (注1)Rauck1988,S.245-246;DBJ1930,S.446;ケムニ ッツ市立文書館回答 . (12) シ ュテ ヒャー (GeorgWalterSTECHER,1874-1977) 彼 は ドレースデ ンで生 まれた . ドイ ツ皇 帝 は , 日本 陸軍 少佐 「ク二親 三m」のプロイセ ン陸軍部隊-の配属を認め,その交換条件 として , 日本陸 軍部隊-の ドイツ陸軍士官の配属を求めた .1907年 4月 にザ クセ ン陸軍省 は,中尉 (第4
野戦砲兵連隊) のシュテ ヒャ-を大尉に昇進 させ ,プロイセ ンの 4人の士官 とともに彼 とバイア- (下記参照)を 2年間 ,日本に派遣す ること,を決定 した.シュテ ヒャ-ほ 9月初旬に東京に到着 し,07年11月に 静岡の,08年9月には東京 ・世 田谷の部隊に配属 された .彼の配属期間は09年 8月末 で切れ るが ,そ の部隊が09年 9月か ら11月 まで実施す る予定 の演 習 に参加す るために ,彼 は3月間 の配属期 間延長 を要望 し,それを認 めたザ ク セ ン陸軍省 は08年 11月に , 日本政府 との交渉 を ドイ ツ帝 国外務 省 に対 して要 請 した .彼 は1909年 の 『ザ クセ ン国政便覧』 において , ドレースデ ン駐屯第 4野戦砲兵連隊所属 ,日本派遣 中 ,1913年 には ピル ナ (Pirna)市駐屯第 5野 戦砲兵連隊 の大尉 と記載 され てい る.1913年 以後 の消息 は不 明であ る(2). (注 1)これは,1873年生まれ,1904年少佐,07-09年 ドイツ派遣,29年没,元帥となった 久遷宮邦彦王を指す.Rauck1994,p.210;日本人名 1979,p432;日本軍 1971,p 27;華族 1996,p.37. (注 2)SAD,Nr.4733;SHB1909,S.465:SHB1913,S.468;ザクセン州立中央文書館回 答 .
(13) シ ュピー ス (Gustav SPIESS,1833「 1900)
ライ ン地方 デ ュースブル ク市 で高等学校 上級教師 の子 と して生 まれ て ,卸 売商人 とな った彼 は ,プ ロイセ ンのオイ レンブル ク使節 団(1)にザ クセ ン商業 会議所全権代表 として同行 した . この体験 に基づ いて ,『1859- 62年 の プ ロ イセ ンの東 アジア遠征』DiePreuJ3ischeExpeditionmachOstasienwdhrend derJahre1859-62.Reise-SkizZenauSJapan,China,Siam undderi n-dischenlnselnwelt,Berlin/Leipzig 1864 (日本 関 係 部 分 の 翻 訳 は 小 沢 敏 夫 ・訳 ,『シ ュピースの プ ロシアー 日本遠征記』,奥州 書房 1934) を書 いた . 彼 の ライ ブツ ィヒ居住 が初 めて刊行住所録 に記 載 され た の は ,1863年 で あ り,最後 は82年 で あ った .1882年 にノ\ソブル クに移 り,そ こで投 した(2). (注 1)-イネの項を参照.この使節にはザクセン国王も全権を与えていた.シュピース 1934,p.340. (注 2)中井 1969,pp.371-372;今宮 1971,pp.58,84(シュピースはオランダ語に習熟し ていたので,日本では通訳として予定されていた.しかし,-イネの項で記すように, 通訳の任務を果たしたのは,ヒュースケンであった) ;宮永 1993,p.67;Gesch -1echterbuch1926,S.36ト362:-ソブルク州立文書館回答 :ライブツィヒ市史博物館回 答 . (14) シ ュプ ランガー (EduardSPRANGER,1882- 1963) 彼 はベル 1)- ソ市郊外 で商人 の子 と して生 まれ ,ベル リー ン大学 で1905年 -1271
に学位を取得 した .
1
9
11年か らライブツィヒ大学に勤務 し(
1
2
年か ら教育学 教授),20年にベル リーン大学に転 じた.3
6
年に来 日し,各地で学術講演を行 なった.それ らは 日本語に翻訳 されて,出版 された.彼は,1
9
4
4
年7
月20日 の ヒ トラー暗殺計画に関連 して,逮措 された .第二次大戦後 ソヴィニ トの介 入を避けて,彼はテ ユービングソ大学に移 り,同市で没 した(1). (注1)武内1995,pp.194-195;長井 1957,pp.3,18-19. 85) シュミーデル (OttoSCHMIEDEL,1858-1926) 彼はザ クセン王立炭鉱所長の子 として, ドレースデ ソ近郊 ツァウッケp-デ (Zauckerode)村 に生 まれ ,ライブ ツ ィヒ大学 な どで神学 を学 ん だ . 1887年に ドイツ福音教会の宣教師 として来 日し,独逸学協会学校 (独協学園 の前身) と新教神学校 (東京) で教え,また,邦訳 された著書に よって 日本 キ 1)ス ト教界に影響を与えた .92年 に帰国 し,ヴァイマル近郊 グ ッテルで牧 師 とな った .著書 として,
『日本 の ドイ ツ人』DieDeutscheninJapan,Leipzig1920がある(1).ただ し,私は,ヴァイマル近郊 に ゲ ッテル はな く, グ ッテルソ (G6ttern)村だけがあることまでは突 き止めたが,そ こを管轄す る教会官庁か らは,シュミ-デルに関す る回答が得 られなか った . (注 1)武内1995,p.195;キ 1)ス 71教 1988,pp.664-665;GV(2),Bd.115,S412. (16) シュー リヒ (ArndtHermannSCHURIG,1860-177?) (シ ュー リヒ) 彼は 「ザ クセン ・ワス ワイン府」在籍 の染 色技 師 で,1888年 か ら92年 ま で,陸軍省の管轄に移 った千住製紙所の招聴技術者であった(1).しか し
,
「ワ ス ワイン」 とい う都市は,ザ クセ ンに存 在 しない(2).中部ザ クセ ンの ロス ヴァイ ン (RoL3wein)市 と考えて,同市に照会 した ところ,同市ル ター沢教 会の1860年6月10日の洗礼記録に,上記綴 りの人物が同市 の染色工の子 とし て記載 されているが,それ以外は不明である,との回答があった . (注 1)千住1928,p.36;中村 1973,p.219. (注2)Vgl.Blaschke1957,S.58*.4や ショイベ (BothoSCHEUBE,185311923) 彼はプロイセン王国ザ クセン州 ツァイツ (Zeitz)市で工場主の子 として生 まれ,ライブツィヒ大学医学部を卒業 して,1876年に学位を取得 し,同大学 内科 ヴンダー リヒ教授 (KarlWunderlich,1815-77)の最後の助手 (ベルツ の弟弟子に当た り,ベルツか らも指導を受けた)を勤めた後,77年に京都府 療病院 (京都府立医大の前身)医学教師に招かれた.
4
年間在職 し,寄生虫 病の研究な ど京都地方の医学の発展に貢献 した.脚気について彼は,ベルツ と同 じように伝染病説を主張 した.81年に療病院は洋風建築を新築 したが, この建物はライブツィヒ大学 (病院の意味であろ うか)を摸 した ものであっ た.日本内外の西洋食推賞論に対 して,彼は論文,「日本食」"DieNahrung derJapaner",in:ArchivfurHygiene,Bd.1,1883において,米食を擁護 し た.81年に彼は 日本を離れ,「日本脚気論」で教授資格を取得 した83年か ら, 85年 までライブツィヒ大学医学部講師 として教えた後 ,故郷に近いグライツ (Greiz)の市医兼郡医 とな り,同市で没 した.彼の民族学関係 コレクシ ョン は1909年にライブツィヒ民族学博物館 (ライブツィヒ ・グラッシ工芸博物館 の前身)に収められた.著書に,
『アイヌ』DieAinos,Yokohama1882;『脚 気』DieBeri-Beri-Krankheit,Jena 1894,論 文 と して,「脚 気 の歴 史」 "BeitragezurGeschichtederKak-ke",in:OAGM,H.24,1881;「日本食 論」"BemerkungenuberdieNahrungderJapaner",in:OAGM,H.27,1882;「日本人 の腸 の長 さ」"DieLangedesDarmesbeiJapanern",in:
OAGM,I127,1882;「日本の脚気」"DiejapanischeKak-ke(Beri-Beri)",
in:DeutschesArchivfiirklinischeMedizin,Bd.31132,1882T83;「日本人 の疾 病 の臨床 的考 察 」"KlinischeBeobachtungen uberdieKrankheiten Japans",in:ArchivfiirPathologischeAnatomieundPhysiologieundfiir klinischeMedicin,Bd.99,1891;「脚 気 」"Kakke.Collectionsofsome foreignopinionsonpathologicalmatterspeculiartoJapan",in:Set+kwai medicaljournal,Vol.14,1895な どがあ り,『脚気病論』,江坂秀三郎 ・ほか
-釈 ,京都 ,若林茂助 1884;『脚気論』,賀鼻隆書 ・訳 ,東京 ,南江堂 1897な どが邦訳 された(1), (注 1)武内1995,p.197;横 田 1956(1),pp.27-30;横 田1956(2),pp.2001204;横 田 1957(3),pp.130-134;京都医史1980,pp.857-860,916,1016-1017;武智 1997,pp. 5.46-47;
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1985,S.1801185.8
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) ショルツ(
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lSCHOLZ
,18891 1944) 彼はライブツィヒで音楽家の子 として生まれ,-ンブル ク,次いで,ベル リーンの音楽大学で ピアノを学び,1911年に コンクールでメンデルスゾーン 賞を獲得 した後,12年に卒業 した.13年 に東京音楽学校教 師 として来 日し て,ピアノを教授 し,22年 まで在職 した .その後 も没す るまで東京 にあ っ て,個人教授や演奏活動を続け,日本の音楽界に大 きく貢献 した(1). (注 1)武内1995,p.200;高野 1974,pp.109-110;音楽辞典 1991,p.909. 8g) スッスマン(
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tSUSSMANN
,18431 1921)(ズスマン) 彼は靴工の子 としてライブツィヒで生まれ,1859年に同市の商業学校を卒 業 し,73年に妻の父(
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)
か らヴァイノル t商会 (皮革取引業) を引き継ぎ,事業をさらに拡大 して,同市屈指の富豪 となった.95年,1903 午 ,そ して,08年の計3回,来 日し,日本の風土 と風俗に心を動かされた. 彼は帰国後 ,日本で購入 した美術 ・工芸品をライブツィヒのグラッシ博物館(
Gr
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ライブツィヒ ・グラッシ工芸博物館の前身)に寄贈 した. また,演説あるいは新聞-の寄稿によって , 日本 お よび 日本文化 を紹介 し た.日露戦争に際 して彼は傷病 日本兵のために同市で募金を行 い,3,000マ ルクを 日本赤十字社に寄付 した.05年以後は毎年5月27日に,在留 日本人 と 同市の名士を招いて,日本海海戦戦勝記念祭 を行 な った .08年 の来 日の際 に,日本赤十字社に1,000円を寄付 し,同社か ら有功賞を贈 られた.- 彼は 1880年前後か ら,あらゆる日本人を私宅に招いて供応 し,あるいは,集会に 伴 って名士に解介 した.そのために,彼の厚意を受けた 日本人は,1908年頃 まで㌢こ数百人に逢 した.08年に彼は日本政府か ら勲五等を贈 られた.なお,彼は同 じ
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年にザ クセ ン国王か ら商業参事官の称号を授与 された .彼はライ ブツィヒで殺 した(1).-1
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年か ら2
年間 ライブツィヒ大学に留学 した新 見善治 (後に広 島文理大歴史学教授)の回想に よれば,親 日家 の老富豪ズス マンは,日本人の 「父 (チチ) さん」 と自称 し, 日本人 を ,誰 で も 「我 が 子」 と呼んで歓待 した .新見 も,到着す るとす ぐに昼食に招かれ ,さらに, 3日間のシュレ-ジエ ソ族行に招待 された.新見はその後 もズスマ ンに しば しば手厚 くもてな された(2). (注1)外交資料1
2
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号 ;梅渓1
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1
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.
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;ライブツィヒ市戸籍部回答 (生没年はこれに 従 う);ザクセン州立ライブツィヒ文書館付属 ドイツ系譜学センター回答. (注2)
新見1
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,p2
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.
CZO) ゾンダ-マン (PeterSONDERMANN,1
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-)
彼は ドレースデ ンで生 まれ,1
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3
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年 か ら3
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年 まで同市 の邦立交響楽 団 (シュクーツカペ レ)付属音楽学校で学んだ .3
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年か ら同校在籍 のまま同交 響楽団の打楽器奏者 とな り,大戦従軍の後,4
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年か ら8
5
年 まで同交響楽団の 主席打楽器奏者 とな った .同時に ドレースデ ソ音楽 大学 で打楽器 を教授 し た .8
8
-9
3
年にNHK
交響楽団の客演団員 とな り,9
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年に も来 日した(1). (注 1)NHK交響楽団回答.倒
) テンツレル (
TENZLER
(?),名は不軌1
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7
-1
?
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) (テンツラー) 生地不明の彼は,ケムニ ッツ市の 「セキジセ ・マシーネ ン ・フアブ 1)キ」 あるいは 「ゼクジツシ- ・マシーネソ ・ファブ リック」の技師で,内務省 ・ 千住製紙所 の創業 ,紡毛枚 と織機 の据 え付 け のために 日本 に派遣 され ,1
8
7
8
-7
9
年に雇用 された(1).ヶムニ ッツ市立文書館の回答に よれば ,彼 の姓 と名を刊行住所録で確定す ることも,その後 の彼 の消息を同市で辿 ることも できない.マルテ ィンの項を参照 . (注1)千住1
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,p
p4
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岡本1
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.
磨) ナウマン(
Ed
mu
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dNAUMANN,1
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5
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-1
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2
7) 彼は中部ザ クセンのマイセ ン市で,同市建設技師長の子 として生 まれた . - 1 3 1-ドレースデ ソ工業専門学校を経て,1874年に古生物学 の論文に よって ミュン ヒェソ大学哲学博士 となった .75年に 日本に招噂 され ,文部省金石取調所勤 務,76年か ら開成学校 (東京),さらに東大理学部地質学教師 とな った .79年 か ら内務省地理局地質課 (82年か ら農商務省地質調査所)技師長に転 じて, 日本列島の地質調査に従事 した .まず ,調査担当者に調査 の指針を与えるた めに,彼は 「東奔西走」 して,大 まかな 日本地質図を作成 し,その解説 とし て 「日本列島構造 ・起源論」を書いた .彼は85年に帰国 して,87年に ミュソ ヒェソ大学講師 とな り,98年に退職 し,い くつかの鉱山会社に関係 した .彼 の指導の下で作成が開始 された 日本地質地図は,100万分 の- の ものが よ う や く98年に完成 し,1900年のパ リ万国博覧会に出品された.それ よ り前,86 年か ら87年にかけて彼は 日本人論について, ドイツ留学中の森鴎外 と論争 し た .彼 の 日本列島構造論に関 しては東大教授原 田豊吉 (画家原 田直次郎 の 兄)が87-90年に批判 し,ナウマンは90-93年に厳 しく反論 した .彼はフラ ンクフル ト・アム ・マイソで没 した. 日本 の地質 に関す るナ ウマ ンの業績 は,ナ ウマン (山下昇 ・編訳)
,
『日本地質の探究』,東海大学 出版会 1996に まとめ られている(1).ナウマン関係資料 の多 くは現在 ,糸魚川のフ ォ ッサマ グナ ミュージアムに展示 されている(2).なお,1943年 (!
)に も日本鉱業会名 誉会員 とされているE.Naumannは,彼であろ う(3). (注 1)武内1995,p.278;山下 1991(1),pp.57-59;山下 1992(2),pp.48-56;山下 1992(3),pp.51-54,63;山下 1992(4),pp37-49;池守 1993,pp.48-52:山下 1993 (1),pp.209-226;山下 1993(2),pp.48-49;山下 1993(3),pp.937-939,942-948;山 下 1995,pp.245-267;小堀1969,pp.185-293;五十嵐 1986,pp.147-159;山崎 1989,pp.151-174. (注2)竹之内 1995,pp.67-69. (注3)鉱業会 1943,p.10. C3) ナホ ・tJド(OskarNACHOD,1858- 1933)(ナーホ ト) 彼は商人の子 として ライブツィヒで生 まれ,1876年に商業学校を卒業 し, 2年 あま り欧米各地を旅行 した後 ,家業に従事 した.94年にベル 1)-ソ大学 に入学 して,-ーグでオランダ東イ ン ド会社の文書を研究 し,ロシュ トック大学哲学博士 とな った .1926年 に来 日し,金銀 島探 険につ いて講演 した .著 書 として,『17世紀 のオ ラ ンダ東 イ ン ド会社 と日本 の関係』DieBeziehungen der Niederldndischen Ostindischen KomPagnie zu Japan im 17. Jahrhundert,Phil.Diss.Rostock1897(富永牧太 ・訳 ,『十七世 紀 日蘭 交 渉 史』,義徳社 1956- 『天理 図書館参考資料 5』) ;『未発見 の黄金 国』Ein unentdecktesGoldland.EinBeitragzurGeschichtederEntdeckungenim nordlichenGroBenOcean,Tokyo1900;『日本史』GeschichteyonJapan,
Bd.1,Gotha 1906 (Urzeitbis645 n.Chr.)(1);Bd.2,Leipzig 1930 (Die Ubernahmed.chimes.Kultur645bisca.850);『日本帝 国関 係 欧 文 文 献 目
録』BibliographieyonJapan.1906-1926.Enth.e.ausfiihrl.Verzeich. derBiichera.AufsゐtzeuberJapan,dieseitd.Ausg.d.2.Bdes.V. Wenckstern "BibliographyoftheJapaneseEmpire"bis1926 ineurop. Sprachen erschien sind,Bd.1I2 ,Leipzig 1928;Bd.3,Leipzig 1931
(1927-1929) ;Bd.4,Leipzig1935(1930-1932.Ausd.Nachlaf5hrsg. vonHansPrasent)が あ る.彼 は1930年頃に ドレースデ ソに移 った .38年 の ドレースデ ン刊行住所録 に未亡人が記載 され てい るか ら,彼 の没地 は ドレー スデ ンであろ う(2).また , ライ ブ ツ ィヒ留学 中の石橋智信 (後 に東 大 文 学 部 宗教史教授) を一時 ,助手 としていた 「ナホ ッ ド」 氏(3)は ,彼 であろ う. (注 1) ベル ツは1907年にこの書物の書評を書き,これが内容的に優れ てい るに もかかわ らず ,文章が難解すぎるために,広 く一般に読 まれないことを,悲 しんでいる. シ ョ ッ トレンダー1971,p.162. (注2)武内 1995,p.279;Nachod1897,Lebenslauf;GV(1),Bd101,S.291;GV(2), Bd93,S.154;Meissner1961,S66:ザクセン州立ライブツィヒ文書館付属 ドイツ系譜 学センター回答 :ドレースデソ市立文書館回答. (注3)新見 1969,pp.202-203. 朗 ネ ッ ト- (CurtNETTO,1847-1909) 彼 は フ ライベル ク市 で ,同地 の鉱 山監督 の子 と して生 まれ ,フ ライベル ク 鉱業大学 を1869年 に卒業 した .普仏戦争 に従軍 し,南ザ クセ ンの シ ュネ -ベ ル ク市 の染料会社 で化学技 師 と して勤務 した後,73年 に秋 田県小坂鉱 山の技 -1
33-師に招かれ,77年に東大理学部採鉱冶金学教師に転 じた.85年に帰国す るま で,多 くの優れた学生を育成す るとともに,日本鉱山業の振興策を提示 し, さらに,日本の採鉱 ・冶金学界 と母校フライベルク鉱業大学 との関係を密に した.- 帰国の途次 ,彼は,日本滞在中に預金 していた中国の銀行の破産 を知 った.彼はパ リで東京時代の友人バイア,ベアあるいはパイル (Martin MichaelBail,1841-1904.1870年から85年 まで大体において東京滞在 .一時 は東京駐在名誉領事 .バイア商会 [FirmaBai
一&
Co.]社主) とその義兄弟 ビング(SamuelBing,1838-1905)に会 った.80-81年に日本に滞在 し,ベ ルツな どとも会食 した ビングは,ネ ットーに勧められて,日本の美術 とくに 浮世絵に関心を抱 くようになっていた.優れた水彩画家でもあったネ ットー は,彼が収集 していた多数の浮世絵を,銀行破産のためにパ リで ビングに売 却 した (ネ ットーの遺品の中に浮世絵はまった くなかった).70年代 の初め か ら東洋の物産を輸入 し,パ 1)で販売 していた ビングは,86年か ら (一説で はすでに75年か ら) 日本の美術品を取 り引 きす るよ うにな った .彼 の店 に 紘,ゴソクール兄弟など多 くのジャボニザ ソが集まった.とくに画家 ゴッホ はここで浮世絵を研究 し,ビングか ら借 りた浮世絵でもって,パ リで最初の 浮世絵展を- カフェで開いた.ヨーロッパ美術に対するアジアの影響の最初 のもの,
「中国趣味 (シノアズ 1)-)」にヴァ-グナ- (後述)がい くらか関 与 していたとすれば,第2
回 目のそれ,
「ジャポニスム」にはネ ット-がなに が しか関連 しているわけである.- ところで,上記バイアは 日本軍へのク ル ップ社の武器の販売を仲介 してお り,ネ ットーをクル ップに紹介 した.こ うしてネ ットーは87年か らクル ップ社で,彼 自身の特許に基づいてアル ミニ ウムの精錬を開始 した.しか し,ネ ットーは,彼の精錬方式 よりも優れた電 解方式が開発 されると,クル ップ社を去 った.90年頃に彼は,フライベルク の恩師ヴィソクラー(ClemensWinkler,1838-1904)教授の推薦で,鉱物商 人の設立 した ,フランクフル トの 「メタル ゲゼル シ ャフ ト」MetallgeselL schaftの技術部門の責任者 とな り,97年には,この部門を分離 して設立 された会社 の社長 に就任 した .米国か らロシア まで各 地 を視 察 旅 行 して きた彼 は,1902年 に技術者 としての活動を停止 し,上記 「メタル ゲゼル シ ャフ ト」
の監査役 に就任 した .彼 は1889年か らフランクフル ト・アム ・マイ ン市に住 衣 ,同市 で没 した .ただ し,同市 の刊行住所録 に は ,彼 は1904年 か らネ ッ
トー-ノー トヴァソグNetto-Nothwangの姓 で記載 され てい る (Nothwang は夫人の旧姓).- 彼 の専門的著作 に ,今井巌 ・ほか訳 ,『日本鉱 山編』,東 大 ・刊 1880(復刻 ,三枝博音 (宿),『日本科学古典全集』,第9巻 ,朝 日新 聞社 1942) ; 「鉱業試験所設立 ノ必要」,『日本鉱業会誌』,33-34号 ,1889な どが あ る . 日本 の風 俗 習 慣 に 関 して は ,『日本 の 紙 の蝶 々[折 り紙
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,Leipzig1888(1)(水彩画を含む)(東野紅-に よる部分訳 と絵57点 は鹿 島卯 女 (編),『明治 の夜 明け- クル ト・ネ ッ トーの ス ケ ッチ よ り
』
,鹿 島出版会 1974,pp.1-88に あ る), ワ グ ネ ル[ヴ ァ ー ゲ ナ- Gottfried Wagener] と の 共 著 と し て
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,Leipzig1901(高山洋書 ・訳 ,『日本 のユーモア』,刀江書院 1971) がある(2).- なお ,上記バイアは,1879年 に小銃実 包 製 造機 械 な どを受 注 ・納入 し,80-81年 には東京砲兵工廠 の 「金属薬簡機械建設 ・運転活用」 のために雇用 された 「器具機械類 の輸入商」,「ペール社主」「ペ ール」 (陸軍 雇独通人 ,個人略歴) である(3). (注 1)これは古い日本関係文献の中で最も優れている.Meissner1961,S.47-48. (注2)武 内 1995,p.283;鎌 田1943,pp.42-59;吾妻1974,pp.134-136,144-146, 149-155;大島 1980,pp209-211,225,229-242,273;瀬木 1981,pp.510-511;池 上 1981,pp.515-516;宮島 1984,pp.3-14;植 田 1987,pp22ト222:植 田 1990, ppll-12;SchiffneT1938,S.84-87;Cu一tNetto1981,S6-ll;Rauck1988,S386 -387:フランクフル ト・アム・マイソ大学図書館回答 ;フランクフル7.1アム ・マイン 市史研究所回答.(注3)Rauck1988,S387.なお,中村 1973,pp.146-147,235ではベールとされている. 彼はそのほかに,80年に大阪砲兵工廠製砲所の建設を依頼されたが,知人を紹介した.
eS) バイアー (JohannesAlbert
BEYER
,1874-197?)彼 はベルギーのアン トウェルペ ンで生 まれた .1908年 8月にザ クセ ン陸軍
-省は,上記 シュテ ヒャ-と同 じように,彼 (第8歩兵連隊中尉)の大尉 (第 7歩兵連隊)昇進 と,2年間の 日本派遣を決定 した .彼は同年12月初めには 東京に到着 し,最初の
1
年間は ドイツ公使館付 きとな り,2
年 目には 日本 の 部隊 (所在地不明)に配属 され るべきである.彼は1909年の 『ザ クセ ン国政 便覧』において,上記第7歩兵連隊 (ライブツィヒ)所属 ,日本勤務 とされ ている.なお,第8歩兵連隊の駐屯地 もライブツィヒであった .彼 は1914年 には第7歩兵連隊の大尉であった.1914年以後 の消息は不明である(1). (注 1)SAD,Nr.4733;SHB 1909,S.454-455;SHB 1914,S.416;ザクセン州立中央文書 館回答 . 鍋 ハイゼ ンベルク (WernerHEISENBERG,1901-1976) ビザ ソテ ィン学者 ,後 の ミュソヒェソ大学教授の子 としてヴェル ツブル ク 市に生 まれた彼は, ミュソヒェン大学を卒業 し,1924-25年に コペ ン--ゲ ンのニールス ・ボーア教授の下で研究 した後 ,量子論を発展 させ ,不確定性 原理を確立す るとともに,27年か ら41年 まで ライブツィヒ大学物理学教授 と して,多 くの研究者を養成 した(32年度 ノーベル物理学賞受賞).彼 は社会的 にはナチスに批判的であったが, ドイツのウラン計画に参画 した .42年か ら ベル リーンの物理学研究所 の,55年か ら ミュソヒェソの天体物理学研究所の 所長であ り, ミュンヒェソで浸 した.23-28年に同 じボーアの下で学 んだ , 理化学研究所の仁科芳雄 (岡山 1890-1951)に招かれて,29年に来 日し,請 演 した (69年にも再来 日).理研の関係者な ど多 くの 日本人研究者が ,ライブ ツィヒの彼 の研究室に留学 した(1). (荘 1)朝永 1982,pp.275-276;Kleint1993,S.137-138;DBE 1995,S550-551. を7) ハイネ (Wilhelm HEINE,1827-1885) 彼は ドレースデ ンで生まれた .父は宮廷劇場所属俳優であ り,当時 ドレー スデ ンの宮廷楽長であった作 曲家 リヒァル Tl・ヴァ-グナ-の幼友達であっ た .子の-イネは同市の美術学校で学び,1845年 か ら3年 間パ リに留学 し た .パ リ二月革命か ら強烈な印象を受けて帰郷 し, ドレースデ ソ宮廷劇場の舞台装置画家 となった,ヴァ-グナ-や上記バ クーニンと同 じように,三月 革命末期の49年 ドレースデ ソ五月蜂起 に参加 したが ,蜂起が蘇圧 されたため に ,ハイネはパ リに亡命 し,さらに同年秋 ,米国に渡 った .米国国籍を取得 して,52年に米国海軍にはい り,ペ 1)-提督 の 日本派遣艦隊に,提督付 き下 士官 として参加 した (1853-55年).彼が措いた絵のい くらかは,ペ リーの公 式報告書 に収 め られ た .59年 に彼 はベル リー ンに赴 き,オイ レンブル ク
(FriedrichzuEulenburg)伯爵を全権公使 とす る,プ ロイセ ンの東洋派遣使 節団 (59-62年) のスケ ッチ画家 とな った .アメ リカ公使 - リスは通訳官 ヒュースケンを派遣 して,オ ランダ語に よるプロイセン使節団の対幕府交渉 を援助 した .-イネは,オ ランダ語に堪能であったが ,使節団に よって無視 された .また ,日普修好通商条約締結の交渉が
6
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年9
月か ら半年に も及んだ ので,この間-イネは陸上で多 くのスケ ッチを措いた .しか し,彼 の措いた スケ ッチ と撮影 した写真は,同使節団の公式報告書におそ ら く収録 されてお らず ,彼は画家 として も無視 された .61年1月に ヒュ-スケンが湊夷派の薩 摩浪士に襲撃 されて,アメ リカ公使館に担 ぎ込 まれた時 ,最初に駆け付けた ドイ ツ人が-イネであった .条約締結後の5月にノ、イネは,中国でプ ロイセ ン使節団 と別れて,長崎 ・横浜経 由でアメ リカに向か った.南北戦争が勃発 していたので,三月革命挫折後 アメ リカに亡命 していた ドイツ人の多 くと同 じように ,-イネは北軍に投 じ,最後 には准将 に まで昇進 した .戦後 はパ リ,次いで リグァプールの領事に任ぜ られた .71年 の ドイツ帝国成立後 ,彼 は故郷に帰 り,ドレースデ ソ近郊 レースニ ッツ(Lof3nitz)村で没 した .著作 として,『世界周航 日本へ の旅』Reiseum dieErdemachJapan,anBord derExpeditions-EscadreunterCommandoreM.C,Perry in den Jahren 1853,1854und1855,unternommenim AuftragederRegierungderVerei -nigtenStaaten,2Bde.,Leipzig/New York1856(日本関係部分の翻訳 :中 井晶夫,『-イネ世界周航 日本-の族』,雄松堂書店 1983) ;『日本 とその住 民』 JapanandseineBewohner.GeschichtlicheRuckblickeundethon0-gT・aPhischeSchilderungenyonI,andundL,Cute,Leipzig1860; 『北半球世
界旅行』EineWeltreiseum dienbrdlicheHemisphareinVerbindungnit derOstasiatischen EェPedition in den Jahren 1860 und1861,2 Bde., Leipzig 1864;『日本 .国土 と住民 の研究』Japan.BeitrbgezurKenntnis desL,andesandseinerBewohner,Berlin1873,3.Aufl.,unterden Titel: Japan.Wieeswirklichist,erganztvonM.Klittke,1904(これにはプロイ セン使節団時代の彼のスケッチ50点が含 まれる)がある.しか し,彼の日本 関連記述には誤 りが多い,とされている(1). (荘 1)武 内 1995,p・289;宮永 1993,pp.57-60;佐藤 1985,pp.80-99;中井 1969, pp.370-371;中井 1983(1),pp.26-45;中井1983(2),pp363-398;今宮 1971,pp. 57-58,71,210-212,216,223-225;佐藤1988(1),pp,891101;佐藤1988(2),p.87:宮 永 1986,pp.185,190.
鯛 ハース
(HansHAAS,1868-1934) 彼はバイエル ンの ドン ドルフ (Donndorf)村で建築家の子 として生まれ , -ルラングソ大学で神学 と古典哲学を学んだ.東洋話語の研修を2年間受け て,1898年に来 日し, ドイツ福音教会牧師 (東京 と横浜),また,新教神学校 (東京)校長 となった.1903年には東大文学部で ドイツ語を教えた.同年に シュ Ttラースブル ク大学か ら神学博士の学位を取得 した.09年に帰国 して, 15年にライブツィヒ大学神学部教授 となった.論文,
「天理教 .現代 日本の複 合的新宗 教上 "Tenrikyo:ein neuessynkretistischesReligionsgebilde im JapanunsererTage",in:MissionskundeundReligionswissenschaft,Bd. 25,1910(富永牧太 ・訳,『天理教』,天理図書館 1933- 『天理図書館参考資料 2』),著書 ,『日本 キ リス ト教 史』 GeschichtedesChristentumsin Japan,Tokyo1902;『日本仏教 の諸 宗 派』DieSektendesjaPanischen Buddhismus,Heidelberg1905など,日本の諸宗教 (神道 ,儒教を含む)につ いて,多 くの著作を発表 し,ライブツィヒで没 した(1).
(琵 1)武 内 1995,p.298;富永1933,pp.1-3,'大久保 1976,pp.91-93, i-ii,'NDB,
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1)彼 は ,建築家 の子 として ,そ して, ア ドル フ ・ヒ トラーの義 弟 の甥 と し て , ドレースデ ンで生 まれた .
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年か らライブツィヒ大学 で学 び,
『倭姫命世 記 』 Yamato-HimeNoMikotoSeiki.BerichtiLberdenErdenwandel lhrerHoheitderPrinzessinYamato.EineQuelleZurFr滋hgeschichteder Shinto-Religion
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に よって哲学博士 とな った .3
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年 か ら八 高 (名古屋) ドイ ツ語講師,4
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年か らライブツ ィヒ大学助教授 ・日本学研究 所所長(
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年 には同教授),大戦後 には ミュソヒェソ大学 を経 て,6
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年 か らボーフム大学 日本学教授 とな った .最後 の住所 は ヴ ェス トフ ァー レンのユ ニガ- p- (
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であ ったが ,没地 は不 明である.代表 的な著 書 と して,『茶 道 に お け る 禅』 Zen in derKunstderTee-Zeremonie,1977;7
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(これは英語 ,ポル トガル語 ,オ ランダ語 に翻訳 され た),編 著 と して,『日本 便覧』Japan-Handbuch,1
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生地不 明の彼 は ドレースデ ソの羊毛紡績工業 の代表 として,1
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年 の アジア通商視察 団 (シャンツの項 を参照)に参加 した(1).ただ し,ドレースデ ソ市立文書館か らの回答に よれば ,彼 の名は1
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年 の刊行住所録に記 載 されていない . (注1
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市 で生 ま れ,1
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年 にテ ユービング ソ大学 で哲学博士 の学位 を得 た .ベル リー ン動物 学博物館 ・館員 な どを経 て,71年に ,当時 ドレースデ ソにあった皇帝 レオポ ル ド・カルル記念 ドイ ツ自然科学院(
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-139-DeutscheAkademiederNaturforscher)の図書館長 とな り,ドレースデ ソ工 業専門学校動物学講師を兼ねた.73年に東京医学校 (東大医学部の前身)予 科教師 として来 日し,76年 まで動物学な どを教授 した .彼は74年夏の北海道 旅行 の際に ,旧秋 田藩士 に よる函 館 駐 在 ドイ ツ領 事 - -バ ー (Ludwig Haber,1843-74)の暗殺に遭遇 した.帰国後は再びベル リーン動物学博物 館 ・館員 ,80年には主事 とな り,没す るまでその職にあった .彼は93年には 教授の称号を与えられた.彼 の動物学論文のあるものは,日本滞在中に収集 した標本を基に している(1). (注1)武内1995,pp.341-342;磯野 1986,pp.25-35;上野 1991,pp.343-351;官永 1993,pp.41ト412;Weltner1906,S.卜 肌 (32) フェルマー (HelmutFELLMER,1908-1977) 彼は ドレースデ ンで生まれ ,1928年 に ドレースデ ソ音楽 大学 を卒 業 し, ヴァイマルの ドイ ツ国民劇場 ・副指揮者 ,テ ユー リングソ邦立 アルテ ソブル ク劇場指揮者を経て ,38年か ら45年 8月まで東京音楽学校教師 (指揮法お よ び作 曲) となった .帰国後は州立 カッセル劇場指揮者 ,グ ッパ ータール ・ ゾ- リンデン市立劇場指揮者 ,プ レーマ -- -フ ェソ市立劇場指揮者 を経 て,65年か ら74年 まで- ンブル ク州立歌劇場の合唱指揮者であった(1). (注1)音楽大事典 1982,p.2076;音楽辞典 1991,p.1568;高野 1974,pp.116-117 (Farmer) ;KurschnersHandbuch1956,S.1641165;東京芸術大学 回答 :プ レーマ-- ーフ ェソ市立文書館 回答 ;レーマ-- ソブル ク州立歌劇場回答 . (33) フープ リヒ ト (ManfredHUBRICHT,1930-) 彼 は電 工 の子 として ドレースデ ソに生 まれ ,同市 の高等学校 を経 て , 1949-53年にベル 1)-ソ ・フンボル ト大学 で 日本学な どを学び,53年に- ソ ブル ク大 学 に移 り
,
『正 岡子 規 の俳 論』DieHaikurPoetikdesMasaoka Shiki,Diss.Hamburg1955に よって哲学博士 となった.寺山修司の長編小説『ああ荒 野』(現代評論社 1966)の翻訳 .‥vormeinenAugen
.
‥eine Wildnis.../Romanを ,71年に Fischer出版社 (Frankfurt/M.)か ら出版 した.721 75年に岡山大学法文学部の,75- 80年に京大教養部の, ドイツ語担 当外国人教師 とな った .85年に京都産業大学世界問題研究所 ・教授 とな り, 87年か ら同大学法学部 ・教授 (法社会学) に転 じた(1). (注 1)文部省 1972,p.1050;文 部省 1974,p.1140:文 部省 1975,p.978;文部 省 1979,p.1250;大学職員録1985(2),p.1134;大学職員録1987(2),p.1189;大学磯貞 操 1996(2),p,1091;-ソブルク大学図書館回答 ;寺山修司記念館回答. 銅 ブラッケ (JohanGeorgFLACKE,17??- 1777) 彼は ライブツィヒ出身で,1785-86年に長崎 ・出島蘭館の上級医師であっ た(1),それ以外のことは不明である.なお,Johanは Johannであろ う.ただ し,ザ クセン州立 ライブツィヒ文書館付属 ドイ ツ系譜学セ ンターに よれば, ライブツィヒ市の教会記録簿に Flacke姓 の家族 は記録 されていない. (注1)Kraas1992,S.6. (35) フランク (LouisFRANK,1886- 1973) 彼は商人の子 としてライブツィヒで生まれ,1909年に化学に関す る論文で ベル リーン大学哲学博士 とな り,10年に同大学工芸学助教, 13年 に来 日 し て,小樽高商 ・講師 とな り,13年間 ,商品学 と商品実験を,後には ドイツ語 や英語を教授 した.彼は,我が国における商品理化学 の実質的創始者であっ た.26年か ら山梨高等工業 ・講師 とな り,17年 あま り電気化学 と ドイツ語を 教 えた.43年にユダヤ系 として実質的に罷免 され ,後には収容所に収容 され た.49年に米国に移住 して,アーカンソー州 の フ ィラソダ ー ・ス ミス ・カ レッジ教師 とな り,サ ンフランシス コで没 した(1). (注 1)武 内1995,p.380:斎藤 1985,pp.17-18;フランク先生 1986,p.52;石井 1986,p.71;鎌倉 1990,pp.46-47;Frank1909,Lebenslauf. (36) ヘ リテルあるいはヘルテル (Fritz[Friedrich]HARTEL,1877- 1940) (ヘルテル) 彼は建築家 の子 として西南ザ クセンのプラウエソ (Plauen)市で生まれ , ミュソヒェソ大学な どで法学 と医学を学び, ミュソヒェソ大学で医学博士の -1
41-学位を得た.1913年か ら- レ大学外科教室に医局長 として勤務 (17年に教授 資格取得) したのち,22年に来 日して ,大 阪医大 (阪大 医学部 の前 身)請 師 ・第-外科主任 として,多 くの優れた医師を養成 した.講義の ドイツ語は ザ クセン謙 りが甚だ しか った とい う.30年に帰国 して,ベル リーン市立 オス カル ・ツィ-テン病院 (stadtischesOskar-Zieten-Krankenhaus)外科部長 と な り, リヒテンベル グで没 した(日. (注 1)武 内1995,pp421-422;-ルテル先生 1950,pp.16-17,19,28,69;Wer1935, S.577.このリヒテンベルクは,旧東ベルリーン市の一部のLichtenberg(Brockhaus 1990,S.365)であろ うか. (38 ベルツ (Erwin(1905:Yon)BALZ,1849-1913) 彼は西南 ドイツの ビーテ ィヒ-イム (Bietigheim)市で建築家の子 と して 生 まれ,1866年にテ ユービングソ大学入学,69年 に ライ ブツイ ヒ大学 に転 じ,内科教授 カルル ・ヴンダー リヒに師事 した.72年に博士号を取得 し,ヴ ンダー リヒの助手 ,次いで,76年に誇師 とな った .そ の76年 に東京 医学校 (東大医学部の前身)教師に招聴 された .80年代後半に,東京生 まれの荒井 はつ (後に花 と呼ばれた) と結婚 した .ベル ツはル ター派 で あ った ので , 1905年,日本を離れ る直前に ,花はルター派の洗礼を受け ,ベル ツ夫妻は改 めて教会で結姫式を挙げた .これを執 り行なった牧師は,上述の--スであ る.ベル ツは東大に26年間勤務 して,日本医学 の父 と称 された,1902年に東 大を退任 したが,さらに3年間,宮 内省侍医を勤めた .彼は 日本滞在中に寄 生虫病 ,脚気 (彼は これを伝染病 と考えていた),温泉の効用 ,日本人の人類 学的特徴 などについて,多 くの著書 ・論文を発表 した.彼は外国人 としては 破格の旭 日大綬章を05年に授与 されて,帰国 し,主 として民族学者 として活 動 し,シュ トゥッtガル T.で没 した .彼 の 日本研 究 の成果 は 『ベル ツの 日 記』 (岩波文庫)に記録 されている.彼は,日本で収集 した美術 ・工芸品を, シュ tゥッ トガル トのヴユルテンベルク邦立産業博物館 とベル リーンの民俗 博物館に寄贈 した(1).なお,『ザ クセ ン国勢便覧』では,彼は1894年 まで継続
して,ライブツ ィヒ大学医学部講師 と記載 され ている(2). (注 1)武 内1995,pp.424-426:ショットレンダー1971,pp.27-34,73-82,9ト121, 124-176;ヴェスコヴィ1974,pp.12114,44-47,56,64-65,70-73,92,9と卜96, 106-109,129,144-147(著作 目錠);安井 1995,ppll-13,14-15:23-26,28-33, 35,189-198,316-318,358,361-362,367,370-421;NDB,Bd.1,S.520,Vianden 1985,S.134. (荘 2)Vgl.SHB1894.S597
(38) ベル リーナ- (Siegfried [Sigfrid]BERLINER,18841 1961)
彼 は商業学校校長 の子 として北 ドイ ツの- ノーフ ァー市 で生 まれ ,ライブ ツィヒ大学な どで数学 と経済学 を学 び ,鋳鉄 の負荷反応 に関す る論文で1906 年 にゲ ッテ ィンゲン大学哲学博士 とな り,08年 に ライ ブ ツ ィ ヒ大 学講 師 と な った .13年 に東大法学部教師に招かれた .14年 に彼 は第一次大戦 のために 帰国 したが,20年 に再 び来 日して ,東 大経 済学 部 ・国際金 融論 教 師 とな っ た .25年 に帰国 して ,ライブツ ィヒの ドイ ツ- ロイ ド生命保険 ・重役 (38年 まで) とな り,27年か らは ライブツ ィヒ商業大学教授 を兼任 した .彼 は38年 に米国に亡命 し,39年 に ワシン トン特別 区の- ワー ド大学教授 とな り,シカ ゴな どの保険会社 の重役 を兼ねた .52年 に名誉教授 とな った後 ,オ レゴン州 フ ォレス トグ ロウヴ(ForestGrove)で没 した .著書 として,『日本輸入貿易 の魁織 と経営』OrganisationundBetriebdesjaPanischenlmporthandels, Hannover1920がある(1). (注 1)武 内1995,p.428;東大 ・経済 1976,pp622-623,1123-1124:Berliner1906, Vita;Strauss1983,pp.93-94. (3g) ベ- レント (MartinBEHREND,18651 1926) 彼 はプ ロイセ ン東部 のケ一二 ヒスベル ク市近郊で生 まれ ,ライブツィヒ大 学な どで学 んだ後 , ドレースデ ソで統計実務家 として ,次 いで ,ツィッタウ 市で商工会議所書記 として勤務 した .1896年 にマ クデブル ク商業会議所法律 顧 問,1909年 にマ ン-イ ム商業大学経済学 教 授 とな った .彼 は13年 に来 日 し,満鉄 ・調査部 ・顧 問 , ドイ ツ東 アジア博物学 ・民族学研究協会
(
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- 143-会長 とな った .第一次大戦 の勃発のために帰国 して,旧職に復帰 し,同地で 没 した(1).
(注1)Who1915,p.5;Wer1922,S85186;Schott1926.S.3,5,9,ll.
¢0) マイステル (Georg [George]MEISTER
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(マイスター) 彼はテ ユー リングソのゾンダース- ウゼ ン (Sondershausen)市で生 まれ ,1
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年 か らザ クセ ンの フ ォン ・エ ー バ ー シ ュ タ イ ン (AlbrechtYon Eberstein)元帥に庭師 として仕えた後 ,77年にオランダ東イ ン ド会社船でアジアに出航 した. ドイツ人 (カ ッセル 出身) 医師 で ,植物 収集家 の クライ アー (AndreasCleyer