排中律とは何であるか
−ヘーゲルを手がかりに−
Was ist Satz vom ausgeschlossenen Dritten?
―angeleitet von Hegels Logik―
山田 有希子
YAMADA Yukiko
§1 はじめに 評判の占い師
排中律(Aであるか、または、非Aであるかのいずれかである)について思いを巡らせていると、 学生時代、親友と二人でよく当たると評判の占い師に、自分の将来の結婚相手について占ってもらっ たことをふと思い出した。「う∼ん。<あなたの結婚相手は、サラリーマンか、または、自営業者で ある>と出ていますよ。」 さて、この占いはいかに評価されるか。たしかに、これはかなりの確率で当たるであろう。という のも、通常、結婚相手が「有職か、無職か」といえば、無職ということは考えにくく、何らかの職業 についているはずであり、そして、一般に職業といえば「サラリーマン(会社員)か、または、自営 業者(非会社員)である」他はない。 占い師のセリフにある「結婚相手は、サラリーマン(会社員)であるか、または、自営業者(非会 社員)であるかのいずれかである」という命題を形式化するなら、論理学の論理法則として同一律、 矛盾律等と共に、「Aであるか、または、非Aであるかのいずれかである」として知られる排中律とな る。排中律の例としては、その他にも、「明日の天気は、晴れであるか、または、晴れでないかのい ずれかである」「この切除手術は、成功するか、または、成功しないかのいずれかである」などの命 題として具体化される。これらは論理的には正しいが、トートロジー(同語反復)として、現実世界に ついての新しい知識や情報を何らもたらさないものとされる。 しかし、先の占い師の占いの場合は全く情報がないかというとそうではない。結婚相手となる男性 について「有職者であるか、または、無職であるかのいずれかである」という命題について、後者を 否定し前者を選択している限りにおいて、一定の情報が盛り込まれ、その限りで占いが外れる可能性 がないわけではないのである。しかし、そもそも<よく当たる>との評価がたつ占いとは、本来、占 いの内容がより具体的であるので、当たりそうにないように思われるにもかかわらず、それが当たっ た場合の占いであろう。すなわち、結婚相手として「サラリーマンであるか、または、自営業者であ るかのいずれかである」について、例えば、さらに後者を否定して「サラリーマンである」と占う場合であり、さらに、その職種について「A関係の職種であるか、または、非A関係の職種であるかの いずれかである」について後者を否定する、さらに、A関係の職種の下位区分のうち「Bであるか、 または、非Bであるかのいずれかである」について後者を否定していく等々というように。 こう考えてみると、たしかに排中律は、日常生活においてもわれわれの思考を規定していると思わ れる。排中律は、形式論理学の基本論理法則の一つであり、同一律、矛盾律と共に、論理的に全く正 しい法則とされる。そこで、同一律、矛盾律についても、併せて確認しておこう。 同一律:AならばAである。 A ⇒ A 矛盾律:Aであり、同時に、非Aであるということはない。 ¬(A∧¬A) 排中律:Aであるか、または、非Aであるかのいずれかであり、第三者はない。 A∨¬A 排中律は、それだけを単独で論じることはできないのであって、同一律、矛盾律などと併せて考察 することによって、「排中律とは何か」という問題の所在が見えてくる。この問題を体系的に論じた 哲学者として、ヘーゲルの考察をたどってみよう。
§2 ヘーゲルの排中律 と 矛盾の概念
ヘーゲルは、排中律を矛盾や同一性という概念とともに論じており、その主著『大論理学』おける、 第二巻 本質(Wesen)論にその直接的な考察がみられる。ここで登場するのは、矛盾の概念の他、 「反省規定」(Reflexionsbestimmungen)と呼ばれるカテゴリー、すなわち、「同一性」(Identität)、「区別」 (Unterschied)、および「根拠」(Grund)であり、伝統的論理学においても、その基本原理に関わるカテ ゴリーが、本質論、すなわち、アリストテレス以来の<何であるか>という本質への問いに関わるカ テゴリーとして考察されている。ここでは、「A 同一性」から「B 区別」へ、そして区別から「C 矛盾」へと展開がなされ、最終的に、矛盾が「自ら解消する」(sich auflösen)ことによって「根拠」へ と至るという展開、すなわち、へーゲル独特の言い回しによれば「概念の自己運動」という展開が叙 述されている。 ここで注目されるのは、他のテキストの箇所よりも「注解」(Anmerkung)の分量1がかなり目立って いることである。へーゲルは、伝統的論理学(悟性論理学)を意識しながら、みずからの論理学(思 弁論理学)とそれとの関係を説明しようとしており、前者の基本原理とされる同一律、矛盾律、排中 律を順次とりあげながら、それら基本原理の真実態(Wahrheit)を、へーゲル的矛盾律―「すべて のものは、それ自身において、自ら矛盾している」2「世界を動かすものは矛盾である。」(EnzyⅠ 8.247.§119,Zuzatz2)などの命題―として明らかにし、それを「真理」の原則3 として位置付ける のである。ここでは、通常の「悟性論理学」が「忘れてしまっている」(vergessen)、「意識できないでいる」(nicht zum Bewußtsein kommend)、それゆえ「隠されている」(verhüllt) 実態が明かにされる、 といった想起説的なスタンス、言い換えれば、形式論理学の基本原理そのものの「真実態」が「矛盾」
として「隠れなきさま」にもたらされるという回顧的な展開が繰り広げられていく。ところが、へー ゲル矛盾論に向けられる典型的な批判―とくに、第三者を許容する反対概念と矛盾概念との混同4な ど―は、この注解における叙述をとりあげたものに多く、そこからへーゲル論理学への誤解が生まれ ていると思われる。 ここで、予めヘーゲル論理学の体系的なイメージを先取りしておくならば、それは、ヘーゲル以前 のカントやアリストテレスらの伝統的な論理学を破壊するものでも、また、それとはまったく別の論 理学として構築されたものでもない。伝統的論理学が、われわれの健全な、曖昧性のない世界理解に ついて、その構造を事後的に抽出した<静態的論理学>(「諸法則の静かな国」 Phaeno.3.120)で あると言えるのに対して、ヘーゲル論理学は、いわば<動態的論理学>と呼べるものであり、これは 前者の世界がそもそもいかにして成立しうるのか、あるいは、なぜそれが常にすでに成立しているの か、その生成の瞬間を、それゆえ、彼自身の言葉によれば「世界の創造」の瞬間を、独自の「矛盾」 の概念に定位して、遡及的に明らかにしようとしたものであると言えよう。
1 同一性と区別
(1) 同一性 さて「A 同一性」においては、まず「すべてのものは自己自身に等しい、A=A」(WLⅡ6.36) という命題、すなわち、「第一の思考法則として取り上げられるのが常である同一律」から「詳しい 注釈」が加えられる。そこでは、例えば「植物とは何であるか」という本質をめぐる問いに対し、 「植物は植物である」という答えが与えられるなら、それだけでは、本質は「没規定態」、「空虚なト ートロジー(同語反復)」以上のものではない、と指摘される。ウィトゲンシュタインの言葉を待つ までもなく、それは「何事も語らない」(WLⅡ 6.74)「抽象的同一性」であると言える。しかし、へ ーゲルの指摘は、ここに留まるのではなく、そこに潜在する「抽象的同一性以上のもの」(WLⅡ 6.44)を顕在化することにその眼目がある。 「われわれが同一律という思考法則にしたがい、海は海である、空気は空気である、月は月である、 等々という場合、これらの対象をわれわれは相互に無関係なものと考えているのであり、したがって、 われわれが[同一律において]みているのは、[一般的にいうところの同一性ではなく]、区別である」 (EnzyⅠ8.240ff.§117 Zuzatz)。同一律が「すべてのものは自己自身に同じである」と主張するもの だとすれば、それは「すべてのものは異なっている」ということを含意している(WLⅠ 5.270)。こ うして、本質の「本来の規定」(WLⅡ 6.23)として、「A 同一性」から「B 区別」への展開がは たされる。(2) 区 別 ① 差異性と対立 同 一 性 の 「 本 質 的 契 機 」( WLⅡ 6.46) と し て 顕 在 化 さ れ る 区 別 に お い て は 、 「差 異 性 」 (Verschiedenheit)および「対立」(Gengensatz)がその下位概念として位置付けられている。同じ 「区別」でも、「差異性」と「対立」とはどのように区別されるのであろうか。 たとえば、「ペン」と「ラクダ」という二つの概念は、「ペン」は「ペン」だけで「ラクダ」とは無 関係に、「ラクダ」は「ラクダ」だけで「ペン」とは無関係に理解されうるものであり、こうした 「相互に無関心的」(WLⅡ 6.48)な区別の場合は、さしあたり「差異性」と呼ばれる。これに対して、 たとえば、「ペンと剣」という二つの概念が並べられたとき、両者は、まったく対極的な価値を形容 する概念として、相互に無関心に理解されうるものではない。そういう二者(一対)の場合が「対立」 としての区別となる。対立的区別については、それゆえ、その典型として、「善悪」「男女」「上下」 など、通常、不可分離的な区別のもとに理解される対概念が念頭に置かれている。へーゲルは、「同 一性」のなかに、差異的区別よりも、むしろ、そうした対立的区別を「本来の区別」(EnzyⅠ 8.243. §119 Zuzatz)として見ようとしている。ここで再びヘーゲルの叙述を引いておこう。 対立は「それぞれが、他者を映し出すものであり、他者がある限りで自らもある。したがって、本 質のうちに生じる区別は、区別されたものが他者一般・ ・ ・ ・としてあるのではなく、自分の・ ・ ・他者として対す るような、対立 ・ ・ の関係である。つまり、それぞれは他者との関係の中でしか自らの規定をもたず、他 者のうちに映しだされる限りで、自分で自分を映し出す。そして、他者も同様である。それぞれは、 自らの・ ・ ・他者の他者である」(EnzyⅠ 8. 243.§119)。 しかし、そうであれば、差異性と対立の区別についてもまた、差異的に(無関心的に)区別される のではなく、対立的(関心的)に区別されなければならない。すなわち、「差異性」と「対立」とは、 差異性の真実態として対立の構造が顕在化するという関係にある。その転換点は、<「観点」による 「比較」5>である。 ② 差異性から対立へ 差異性と対立の区別は、形式的に整理しておくならば、①前者は<A、B、C、D…>等々という形 式で示される並列的、無関心的な区別であり、それに対して②後者は<Aと非A>との対立形式にお いて示されるように、もはや無関心であるわけにはいかず、相互に他なしでは成立しえない区別であ る。そして、①差異性と②対立とを区別できる根拠は、「観点」(Rücksichten)や「側面」(Seiten)による 「比較」(Vergleichen)によるとされる。 例えば、リンゴ、ナシ、ペン、バラ等々という諸概念が、「食用という観点」、「色という観点」か ら「比較」されるならば、リンゴは、「食用という観点」において、ナシと「相等性」(Gleichheit)も
ち、バラと「不等性」(Ungleichheit)をもつが、「色という観点」においては、ナシと「不等性」を もち、バラと「相等性」をもつ。つまり、こうした諸「観点」の設定において、リンゴとナシ、リン ゴとバラは互いに無関心な状態から、関心のある関係におかれる。ここで成立した両者の関係は、と
はいえ、先の「上下」「善悪」等におけるそれとは異なり、それぞれにとって、恣意的あるいは「第
三者的観点」からのもの、ヘーゲル特有の言い回しでは、「疎外された反省」(die sich entfremdete Reflexion)「外的な反省」(die äußere Reflexion)(WLⅡ 6.56)によるものとされる。というのも、 例えば、南極と北極は、地球の方位という<特定の観点>以外において関係づけられることはなく、 かつ、その特定の観点を離れ、南極それ自体、北極それ自体の意味が成立することはないであろうが、 それに対して、例えば、差異性の関係にあるペンとラクダについては、あらゆる観点設定が原理的に 可能であり、かつ、そうした諸観点抜きにもそれ自体として成立しうるものと考えられるからであ る。 しかし、へーゲルは、この「相等性と不等性」の本性は「両者の否定的統一」(WLⅡ 6.51)にある という、にわかには理解しがたい説明を施す。その意味するところは、外的な反省における観点設定 は 、 決 し て 外 的 な も の で は な く 、 実 は 、 そ れ ぞ れ の 概 念 そ れ 自 体 の 必 然 的 な あ り 方 が 反 映 (Reflexion)したものであるということである。「リンゴがリンゴである」というだけではまったく の無内容であり、リンゴは、諸観点による他なるものとの「相当性」または「不等性」なしで、リン ゴがリンゴであるということはない。さまざまな諸観点は、単に外的な反省による外的な差異を見る というのではなく、リンゴそれ自体の成立において欠くことのできない、いわば内在的な差異を、そ のもの自身の必然的なあり方の反映(Reflexion)として見ている。これをヘーゲルは、われわれの常識 的な理解の潜在的な構造として解き明かそうとする。 すなわち、ヘーゲルが、「差異」の概念の構造において明らかにしようとこころみているのは、あ る<ひとつのもの>の「同一性」の成立に関して、当の<ひとつのもの>と他のものとの無関心的差 異であるというよりも、すでにその差異が成立するための<ひとつのもの>の「本質」をめぐる内在 的な差異、たとえば、<ひとつのものX>が、諸々の観点において、白く(A)あり、辛く(B)あ り、固く(C)ある。あるいは、<私>が、父であり、教師であり、子であり等々というような、差 異である。すべてのものは、こうした内在的な、いわば自己分裂(XとA,B,C等々)において存 在し、そして、その内在的な差異(白い、辛い、硬い等々)において、不可避的に他なるもの(黒い もの(非A)、甘いもの(非B)等々)との対立関係にあると分析されている。「無関心的な差異」に おいて端的に成立しているかのような同一性(たとえば、塩は塩である)は、常にすでに存在する 「関心」を事後的に排除することでのみ考えられる抽象的な表現でしかないととらえるのである。
2 対立から矛盾へ ∼ヘーゲルの排中律∼
以上の議論をふまえ、ヘーゲルの展開は、対立から「C 矛盾」へむかうが、この対立の概念との 関係において、ヘーゲルは排中律に注目している。ただし、常識的な排中律、言い換えれば、「悟性 的な排中律命題」6の中にある真実態として、やはりその潜在的な構造を明らかにしようとしており、 そこに排除されているはずの「第三者」が成立しているということを特に強調し、その「第三者」が 「より深く」(WLⅡ 6.74)考えられなければならないとする。 ヘーゲルは、<あるXに関して、XはAであるか、または非Aであるかのいずれかであり、第三の ものは存在しない>という排中律には、「まず・ ・、すべてのものは対立したもの・ ・ ・ ・ ・ ・であり、肯定的か否定 的かのどちらかと規定されたもの・ ・ ・ ・ ・ ・ ・である」ことが含意されていると指摘し、「同一性は差異性へと移 行し、差異性は対立へと移行するという、すべてのものの必然性が含まれている重要な命題」(WL Ⅱ 6.73)としてこれを評価する。ヘーゲルが、「より深く」考えられるべきとする「第三者」とは、 端的にここで主語Xに相当するもののことである。これを「第三者」と呼ぶのには違和感があるが、 ここにヘーゲル論理学の眼目のひとつがあると思われる。 (1) カントにおける矛盾の概念と排中律 ヘーゲルにおける矛盾の概念や排中律を考察する際には、カントの考察を無視することはできない。 カントにおいて矛盾とは、同じ対象にある規定を付与すると同時にその欠如を主張することであると される。それは、例えば、肯定判断「ある人物Ⅹは、独身者である」と同時に、否定判断「ある人物 Ⅹは、独身者でない」を主張する不可能性のことである。これは分析的対立(die analytische Opposition)(KrV. A504/B520)7とも呼ばれ、それ自身にPという述語規定を含む主語Sについて 「S(=P)は、Pでない」ということである。そして、ここには、「ある人物Ⅹは、独身者であるか、 または、独身者でないかのいずれかであり、第三のものであることはない」という排中律が成立して いる。 また、カントにおいては、コプラを否定する否定判断「Sは、Pではない」に対して、同じ否定で も、述語否定の無限判断「Sは、非Pである」が区別されている。すなわち、否定判断においては、 主語概念が与えられた述語概念から排除される「完全なる否定」8であり、それ以外の述語概念が一 切顧慮されないのに対して、無限判断「Sは、非Pである」においては、与えられた述語Pは否定さ れるが、形式的には肯定の機能をもつため、主語概念の位置を占める対象そのものは、たとえ無規定 的であるにせよ、依然として「何かあるもの」(etwas)として確保されている。否定判断は、いわば「not P」で終わるのに対して、無限判断は「not P,but 非P」として区別され9、無限判断はした
1)肯定判断 Sは、Pである。 2)否定判断 Sは、Pでない。 3)無限判断 Sは、非Pである。 カントにおいて矛盾律および排中律は、否定判断と肯定判断との間に成り立つものであり、この限 りで<ある述語PとPの欠如>、つまりアリストテレスのそれ「いかなる述語も、対象に属するか、 または、属さないかのいずれかである」として定式化される。しかし、ヘーゲルは、この限りでの排 中律は、「精神は、甘いか甘くないかのどちらかである、緑であるか緑でないかのどちらかである 等々」を許す「とるに足らない判断」(WLⅡ 6. 73)として批判する。例えば10「あるものは、良い 匂いがするか、良い匂いがしないかどちらかである」の場合、そこに排中律が機能するには、その前 提として、「そもそも匂いがしないもの(Aでもなく、非Aでもないもの)」ではなく、「匂いのするも の」が主語として成立していなければならないであろう。ヘーゲルはアリストテレス的排中律を拒否 し、排中律の命題の中にはすでに「Aでもなければ、非Aでもないようなあるものは存在しないとい うこと」「この対立に無関心であるようなあるものは存在しないということ」(WLⅡ 6. 73)が含意さ れていること、これが見逃されてはならないと指摘する。 たしかに、通常、排中律の意味をわれわれが理解するとき、「独身者である」と「独身者でない」 という二つの述語は形式的には肯定と否定の形をとるにせよ、後者も前者と同様、主語である人物Ⅹ に関して積極的な規定(例えば、妻帯者である)を施しており、カントにおける否定判断のように、 コプラを否定する「完全な否定」ということはない。 Xは、独身者である。 = Xは、妻帯者でない。 Ⅹは、独身者でない。 = Ⅹは、妻帯者である。 もっとも、「独身者である」という述語Pの場合は、その否定は、独身者でないもの(妻帯者)にな るが、その他、例えば、肯定判断「この花は、赤い」に対する否定判断「この花は、赤くない」にお ける「赤くない」は、赤以外の色について、例えば、黄、青、緑など、どの色であるかは不確定であ ると言える。しかし、あくまでも「赤ではない色」を積極的に規定していることから、ここでヘーゲ ルが指摘する悟性的な排中律とは、カント的な肯定判断と無限判断の間に成立するものと言える。 (2) ヘーゲルにおける排中律と矛盾の概念 ヘーゲルの排中律=対立律を改めて確認しておこう。それは、<あるXに関して、XはAであるか 非Aであるかのどちらかであり、第三のものは存在しない>と定式化された。すると、例えば、赤 (A)に対する非赤(非A)は、黄でも、青でも、緑でもありえるため、第三者を許容する反対対立の 可能性を孕むことになる。その限りでヘーゲルに対する矛盾論批判は一見妥当するようにみえる。
しかし、へーゲルが、これまでの分析において着目していたのは、たんにAと非Aの水平的な対立 ではなく、Aと非Aの対立をそもそも可能にするような主語Xとそれらとの垂直的な関係(自己分裂 の関係)である。ヘーゲルが排中律において注目すべきとしていた「第三者(ただし、主語Xとして のそれ)」は、こうした述語間の水平的対立を成立させる「根拠」(Grund)と位置づけられるが、こ の「第三者の成立」それ自体にへーゲルは着目し、そこに独自の「矛盾」を見る。 ヘーゲルが注解の最後で例示しているように、あるXという人物の同一性は、父であり、息子であ る、等々の差異性から成立するが、そのそれぞれは、その他者(父は息子ではない、息子は母ではな い)に対する関係を離れては成立しえない。つまり、へーゲルがこの例において矛盾をみるのは、ヘ ーゲル特有の言い回しによって、Xが「他に対して」(für Anderes)「何であるか」(Aであるか非Aで あるか)ということと、他との関係から切り離されて「それ自体」(an sich)で何であるか(X=X) ということの間の関係である。すなわち、「同一性」(X=X)と「対立」(Aであるか非Aであるか)と の関係である。Xは、Xそれ自体では空虚(X=X)であり、Aあるいは非Aにおいてその内実を充たさ れるしかない。Aと非Aとがいわば本質を争い対立しているという事態そのものがXを充たす。とこ ろが、同時に、Aと非Aとの対立は、Xという同一の観点が先立つからこそ対立として現れるはずで ある。Xの同一性<ひとつのもの>をめぐり、探求のアポリアを思わせる、空虚(ないもの)と内実 (あるもの)の間の循環構造が、ヘーゲルのとらえる矛盾である。本質(Wesen)という概念が、ド イツ語の表記においてGewesenという過去性を孕むものであるにもかかわらず、本質(X)は現象 (非AとAの対立関係)に先だって、それ自体で事前的に存在する同一性ではなく、むしろ、そう考え られる同一性は、現象の後に、事後的に、規定A(あるいは非A)をまって初めて同一性として生成 する「第三者」ということなのである。根拠(づけるもの)は、根拠づけられるものを、一方的に根 拠づけるもののみならず、同時に、根拠づけられるものによって、逆に根拠づけられるものとなって いる。 へーゲルが伝統的論理学に対して、自らの論理学として顕在化しようとしたことの一つは、差異性 やアリストテレス的な排中律で問題になってきた、述語Aと述語非Aとの水平的な対立(「あるもの」 と「あるもの」との対立)ではなく、主語Ⅹと述語A(あるいは述語非A)との垂直的な対立(「ない もの」と「あるもの」との矛盾対立)である。アリストテレスの論理学において判断は、予め成立し た諸概念を後から結合して作られる関係であるが、へーゲル論理学において判断は、元来おなじ<ひ とつのもの>の「根源分割」(自己分裂)と言われ、しかし、その<ひとつ性>の内実はAと非Aとの 対立の後に、ようやく主語が生成するというように、いわば主語が述語に<遅れてやってくる>もの なのである。 われわれは、同一律「すべてのものは、自己自身に等しい(A=A)」から出発し、そこから、差異 性、対立(排中律)を顕在化することによって、矛盾律「すべてのものは、それ自身において、自ら
矛盾している」へといたり、ここに、同一律の構造を取り戻すことになる。「対立のうちに現れる矛 盾は、同一性のうちに含まれており、同一律は何ものも語らない・ ・ ・ ・ ・ ・ ・ ・という表現のうちに見られる無の展 開したものである」(WLⅡ 6.74)。 「矛盾」は、「本質論」において、この後、さらにさまざまな諸概念(物と諸性質、法則と現象、 実体と属性、原因と結果等々)においてより内容豊かに展開されていくが、あらゆる「事物」「主体」 「概念」(WLⅡ 6.79)の「同一性」においてそれが潜在しているということ、ここにへーゲルの矛盾 論の眼目があると思われる。 ヘーゲルにおいて矛盾は「自ら解消する」(sich auflösen)が、「消滅する」わけではなく常に潜在 している。その限りで矛盾が解消している「存在」(同一性)は、後の展開を示唆しながら「偶然的 存在」(WLⅡ 6.73)と述べられている。しかし、ヘーゲルにおいて「潜在性」そのものも、常に顕 在化してはじめてその存在様相を認められるものであり、潜在する矛盾は、繰り返し「偶然」顕在化 する。そこには、例えば、われわれの既存のA=A が覆され、新たな(ただし暫定的な)同一性を求 める合理的知の営みがはじまる瞬間であり、新たな「観点」が創出されながら、パラダイム転換が反 復され、われわれの知の体系が進展していくさまを思い浮かべることができるであろう。また、緻密 で有用な論理体系が、しかし、その原理そのものにおいて―微分11における「瞬間の速度」、ユーク リッド幾何学における「点」12の定義等々―いかに矛盾を孕む概念であっても、なぜかそこから見事 な論理体系が紡ぎ出されていることもその現れと言えるのではないだろうか。
§3 おわりに 新たな「排中律」の立ち上がり
最後に、カントのそれとは異なるヘーゲル独自の無限判断について若干の考察を加えつつ、今後の 展望をしめしておきたい。 前節に挙げた「精神は、甘くない」という否定判断は、アリストテレス的な排中律を「とるにたら ない判断」として位置づけるための消極的な意義をもつものではなく、むしろ、カントとは異なる独 自の無限判断として提示される積極的意義をもつものである。それは、一定の次元での固定的な肯定 判断と否定判断を乗越える、文字通り、「第三の弁証法的判断」を誘引するもの、新たな次元での排 中律を誘引するものとして積極的意義をもつ。 一般に「Sは、甘くない」という否定判断は、Sは「甘い」という味をもたないが、苦い、酸っぱ い、辛い等他の「味」をもつということを意味しているととらえられる。しかし、ヘーゲルが「精神 は、甘くない」という命題を提示する際には、この判断において、精神がそもそも「味をもたないも の」であるということが示されている。すなわち、「甘いか、または、甘くないかのいずれかである」 という「味」の次元(Pであるか、または、非Pであるかのいずれかである)そのものを否定するこ とで新たな次元を拓く判断が、ヘーゲル的な無限判断「Sは、(非P)´である」である(カントの無限判断と区別するために、(非P)´と表記する)。 1)肯定判断 Sは、Pである。 :甘い 2)否定判断 Sは、Pでない。 :甘いという特定の味の否定 「味」は前提 3)無限判断 Sは、(非P)´である。 :「味」そのものの否定 カントの無限判断において示される「非P」は、Pとの連続性を保っているものでなければならな い。例えば、「味のするもの」Pに対しては「味のしないもの」が非Pになり、われわれは、前者に対 して後者の意味を、無規定的ではあれ連続的に理解することが可能である。言い換えれば、Pと非P のニ項がともに属する上位概念を理解することができる。冒頭の占いの例にかえるなら、結婚相手と して「A関係の職種であるか、または、非A関係の職種であるかのいずれかである」については、共 通の「サラリーマン(会社員)」という観点が理解可能であり、さらにサラリーマンについてはそれ を包摂する「サラリーマン(会社員 P)であるか、または、自営業者(非会社員 非P)であるか のいずれかである」という共通の「有職者(P)´という観点」が理解可能であるというように、連 続的、自動的に上位概念へと上昇していくことができる場合である。この占いの場合は、そもそも 「結婚できるか、できないかという観点」がもっとも上位の観点ということになり、この観点におい てはじめてこの占いのさまざまな命題が成立するであろう。対して、ヘーゲルが提示する無限判断は、 固定的な肯定判断と否定判断に対して、それらを連続的にではなく、非連続的に乗越える機能、共に 属する上位概念に向かうのではない「奔放な飛躍」13がなされる機能をもつ判断であると思われる。 例えば、「明日の天気は、晴れであるか、あるいは、晴れでないかのいずれかである」について、二 つの判断に排中律が成立するには「明日の天気はあり、それは何か」という観点が大前提として成立 していなければならない。しかし、その大前提に対して、例えば、「そもそも、明日の天気がないと いう観点」を想定するというような、ある既存のパラダイム内においてはもはや理解不可能な超越性 が示される判断である。 「無限判断」について、その哲学史的な背景をふりかえってみるなら、古来「万物の根源」なるも のは、アナクシマンドロスの「非―限定者」、デモクリトスの「非―分割者」など、「無限判断」(非 Ⅹ)の定式で言い表されていた。すなわち、物の根源は、非存在を通してしかその存在が叙述されえ ないという共通性をもっていたといえる14。ヘーゲル哲学においても、『大論理学』は、「絶」対者、 「無」制約者を叙述しようとする存在論的モチーフで展開されたものであり、その序文において< 「神」の世界創造の以前の叙述>とも喩えられている。存在論としてのヘーゲル論理学は、世界が安 定と不安定を反復しながら、いわば、その都度、その都度の世界創造に立ち会っているといったイメ ージに近いであろう。それは「Xは、Aであるか、非Aであるかのいずれかである」という既存の排 中律に対し、「無限判断」によって、Aと非Aが成立する次元そのものが否定され、非連続的な新たな 次元が拓かれる瞬間であり、したがって、新たな排中律(Bか非B)が生成する瞬間である。新たな
排中律が生成し、さらに、例えば「BはBである」という同一性が成立していくまでの間、束の間わ れわれは「無制約者」をとらえていると言えるのではないか。こうして、繰り返し、繰り返し、世界 創造が行われる瞬間を、ヘーゲルは特有の「矛盾」として抉り出そうとし、またそれが「すべてのも のは、それ自体において、自らに矛盾している」、そして、「世界を動かすものが矛盾である」という テーゼに託された内実ではないだろうか。
【註】へーゲルのテキストからの引用の略記号は以下の通りであり、さらにSuhrkamp版へ
ーゲル全集(G.W.F.Hegel Werke in zwanzig Bänden, Suhrkamp)の巻数および頁数を施し
たものである。
WLⅠ=Wissenschaft der Logik, Erstes Buch .1812/13 WLⅡ=Wissenschaft der Logik, Zweites Buch.1812/13 Phäno=Phänomenologie des Geistes
EnzyⅠ=Enzyklopädie der philosophischen Wissenschaften im Grundrisse.1830,Erster Teil Diffe=Differenz des Fichte’schen und Schelling’schen Systems der Philosophie
1 Die Wesenheiten oder die Reflexionsbestimmungen 章全体15p中、本文は5pであり、 Anmerkungは10pをしめる。
2
3 HabilitatiosthesenⅠ,2.533.
4 反対概念との混同については、A.Trendelenburg,LogischeUntersuchungen,Leibzig,1862.および、 F.Überweg,System der Logik und Geschichte der logischen Lehre,Bonn,1857.カントの対立概念との混 同については、G.Patzig,Artikel,“Widerspruch“im Handbuch philosophischer Grundbegriff, hrsg.von.H.Krings,München,1974.
5 高山 守『ヘーゲル哲学と無の論理』(東京大学出版会2001)p363参照。
6 EnzyⅠ8.243. §119
7 Kritik der reinen Vernunft からの引用は、慣例にしたがって、第1版をA、第2版をBとし、そ れぞれアラビア数字で頁数を付す。
8 石川文康 『カント 第三の思考』(名古屋大学出版会)p65,67.
9 石川 【同書】p68
10 KrV. A503,B531,M.Wolff,Der Begriff des Widerspruchs,Koenigsten/Ts. 1981 『矛盾の概念』 (山口祐弘他訳 学陽書房)p46。
12 ヘーゲルはエンチクロペディーにおいて、点・線・面の定義に関し、線の「限界(Grenze)」と しての「点」に関わる考察をしている。EnzyⅡ9.41§254
13 石川 【同書】 p259.石川氏は、ここでヘーゲルの無限判断の継承を、カントの無限判断の誤
解、無理解に基づくものとして批判している。