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必要にして且つ充分なるもの

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Academic year: 2021

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必 川 訟 に し て H A ワ充分なるもの

﹃刷訓﹄﹁夫れ仰法を皐ばん法は必ず先づ時を習ふぺし﹂ 不安と苦悶の濁った渦巻が世界至る所の制人と家庭と枇曾と 同家と凶擦との問に氾濫してゐる。 凡そ今日ほ

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人間が人間としての自負を喪失した時は紛れで あらう。治んど凡ての人が物質的苦しみに哨いでを P 、精神的 希望と創造性とを失ってゐる。人間は最早濁立的な人絡を持つ 人間的なものではなく、寧ろ事物化された品物に過ぎないかの 叡がある。不具化された人間性、破接された性持、とれが現代 人の赤裸身な姿ではないか。 最近に於ける﹁ひとのみち﹂﹁大本数﹂﹁生長の家﹂等々、あ P とるらゆる宗教的風味さや、愚劣な紳秘的復古思想の流行、 非人間的テロルの故国は正に人向性尉築の微候に非ずして何で るらうか、人間は今や自ら死せる形骸宇野綾人にな

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さがって ゐるのである。 このやうな苦問中世紀的紳秘性、無知凡な野鐙性、無生気な ﹂アカタシスが未曾有の勢を以て支配してゐる時には人間性の擁 護、人間性の再建といふ品閉めて自然な言葉さへ、却って大騰な

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革命的な胸骨をすら奥へるのである。 今日多くの人身によって、ヒ 4 l y −−ズムの問題が喧し︿論 議されてゐるが、会く蛍然のことでもあり、 M A 甚だ殊勝なこと でもある。而して千粍寓様の内容を持っこの言葉の概念は、之 をジャーナリズムに委すも、畢党ヒュ 1 7 ニテイの擁護と後民 とが強調される点に於て呉論はなからう。日く品何年論、日く個 人と金機、凶民と人類の釣立の新しき議題等身、即ち、溺死者 争−救ふべ︿多くの救助艇は堂々舶を娃ベて肉てゐる。しかるに 長先に誕身事に食らねばならぬ佐官の宗教家︵特に仰数山本︶の委 は徒らに渇流の巾に浅せられてその片彰だに見出すことは出来 な い 。 山辺美、多くの賢人達の主張が所認済世到彼岸といふ宗教の武 任︵仰の意志﹀をまで呆ずに必要にして且充分なる渡船万あるか どうか、言ひ換へれば、ヒユ e ’ ・ 7 ニテイの擁護後民の伐めには 寧なるヒユ 1 7 一一ズムでは駄目ではないか、宗教にはそのため の根本的有力なる立場がなければならぬ筈だ。この問題の反省 こそ宗教の死活を握る婆点であらねばならぬ。

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別ち、之を言ふならば、科事の隼章、客観的な形式の掌重を 不可欠の要素とするヒュ l マ二ズムは、由民宗教の検出、別言す れば事貸批判乃の方法に於てこそ絶封的の必要である、然し乍ら たとへヒ A 1 マ二ズムの具体的方法をコム号、−一ズムにあるとし ても、員宗教の良両目、即ち債値批判の究極に於ては不充分な ること一言ふ迄もないのである。 私ぽ今この立場に立脚して、且つ一箇のユチレユ λ トとして にの必要にして且つ充分なるものについての謹明を試みんとす るものである。それはとりもなぼさず員宗教の宣揚であり、俗 宗教への折伏である。約言すれば昌チレユズムの現代的検討で あ P 光顕である。以下、ヒ? BST ユテイの公正なる自種的国民相 として自我を捉へ来 P 、 ζ 、に推論の茶礎を置いて苔が−一チレ ユズムの殿疋なる反省としゃう。

凡そ現在に在つては、白我に日睡めるといふ根臨時のないもの は思想として、就中、宗教としては会︿存在の意義を持たない ξ 断言して慣らない。幸ひにも寄人は古今東西を遁じ最も自我 概念に徹底した宗教家として、普租日連理人を戴くものである。 聖人の自我概念巾には、自我の確認、自我の事貸批判叶、自我の 債値批判司、自我の貿現、その全部が具備してゐるものと信ずる。 聖人の研究結閣は所論党漢仰の三凶に行はれたほ晴外内の三敬に 過ぎぬのであるが、しかるに聖人の識見は、正に宇宙を芥吐す る概がある。 必要にして且つ充分なるもの ﹁日蓮は、日本第一の法華経の行者なること、るゑて疑ひなし これを以て推せよ、漢土月支には、一関浮提の内にも、肩を な ら ぷ る 者 は あ る べ か ら ず ﹂ ︵ 撰 時 抄 ︶ 一 一 一 一 二 六 蓋し、この一語は千金の重みを以て聖人の自我観念を裏書する ものである。乃ち聖人夫れ自身には他の之を奪はんとして奪ひ 得ざる強い

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白我概念の上に自己の教宗を建設し、そしてそ の貸現に努力せられた偉塑であることが窺へるのである。

しかし単一人は周より偽殺の宣俸者である。自己の瑛想に仰陀 といふ最高人格者を確認して居った。しかも幼児が慈父悲母を 懲ひ慕ふその如︿、憧慢の熱火ほ天をも焦さんばかりであった のも事貨である。そは誰れなるか、言ふ迄もな︿、会仰教の教 主であり久遠の生命者であり、一切人類の先強者でるった。即 ちその御名を稼迦牟厄仰と崎へ奉る。 ﹁我等が本側乱株主懇曾は、五一白鹿点劫上り巳来、妙健果満の備 なり︵即ち先魔者としての緯迦牟尼仰を間帯戸、︶ o 此土の我等衆 生は五百鹿点劫より己来、設主将写の愛子なり︵即ち緯迦牟 尼仰を慈父悲母として輔忠義する真情を語る﹀﹂︵法華琢要沙﹀

O 三 入 品 了 も 、 ﹁ひとり、三徳を袋て旧制ふかきは、経迦一体にかぎりたり﹂︵即 ち懇迦牟尼仰を絶封の忠徳者として仰戸、︶ハ南保御書︶五一七 ム γ も 、 五

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必要にして且ワ充分なるもの 一日蓮が頭には、大覧世命かはらせ給ひぬ﹂︵即ち稗迦キ氾仰の 加護の威神力を仰いで立つ︶汽乙御前御書︶一二三九 ともえはれたるに徴しても、聖一人の仰がれた符翻の理想的円以一一 人持者は、穆迦牟厄備であったことが知れ宇ぅ。また、これに よって何人もこのことを疑ふ徐地はなからう。 しかし乍ら、人若しこれを見てた干すく我聖人を符観宗勺あ るかの如︿、遮断するものありとせば、そは全く翠人を烈併し ないものである。何んとなれば、客観の貸在として穆迦本怖を 償保するものは、元々、自己の自我確認の上に、事賞批判刈の結 果に符たので、全くム口組的自殺概念の賜であるから万ある。ま た 、 A 口県的事食批判の結果とすれば、そは認識的債値批列の前 徒であるのは言ふ迄もない。見ょ、既に﹁我等が本師﹂又は、 ﹁日蓮が頭に﹂と云はれであるではないか。﹁本師数主﹂の上に ﹁我等が﹂と一疋ひ﹁大由貿世掌﹂の上に﹁日蓮が或に﹂と一五 d れ た請に斎服したならば、そ ζ に、理想の本仰を自己の主観に債 値付けてあり、自己自身が理想の人格者の所信主であることを 物語ってゐるではないか、即ち、烈恕の本働組件等を﹁日蓮のも の﹂として見る所に、現人の自我観念が躍動する。さうして、 自己の自我観念の諮りに、控験り世界を造り上げやうとして、 懸命の努力を惜しまなかった所に、聖人の自我貸塊の境地は反 問 す る 。 品んソ川刷

序として事貸批列の教義か、 b 遮ぶれば、我副主人が緯隼 一 一 一 一 六 の泣かれた教法論や仰陀論につき、その教法の高下浅燃を州じ その品川陀の勝劣縦妙を畑押し、そして、その低きを捨て、よ向きに 就き、劣を筒んで勝を採り、浅より深きに謹むべ

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仕向け、遂 に会仰殺の陽一ずる所は、四梓迦本仰の自我と、その本法とに外 ならないとしてあるが、もしも、 ζ れを殿絡に類別するならば これ等の論述は、事資批列の教義であって、その賞、債値批判 の領域には這入らない 3 H

且 学 ﹁天台宗より外の諸宗は・、本曾にま Y ﹄えり。倶合、成賞、律宗 は、三十問心断結成遣の穣舎を本命とせ

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。天舎の太子、迷 惑 し て 我 身 は 民 の 子 と 田 山 ふ が 如 し 、 翠 股 宗 、 由 民 号 一 口 宗 、 一 ニ 論 末 は勝腹身に似たる仰を本曾とす。天王の太子、我父は侍と田山 ふが如し。華厳宗、吉田県︷一京、明仲寧を下て種姓もなき者の法立 の如くなるにつけり。時伊土宗は、韓迦の分身の阿姻陀仰を街 縁の怖と閉山ふて、教主︵輯件等︶を捨てたり。時宗は、下賎の者 一分の徳ありて、父母を下戸、るが如し。仰をさげ経を下す、 これ皆、本牟に迷へり。例せば、=一皇己前に父を知らず、人 皆、禽款に同ぜしが如し。室町最口聞を知らざる諸宗の者は、畜 に同じ不知阿国の者なり﹂︵開目沙︶七九一 これは設聖人が、約宗から見た全備教の偽陀観で、即ち事賃批 列の教義である。例令、久遠の務迦本備に錫一ナベ︿論明して るっても、此蛇干の教義を以て、直ちに、翠人の仰陀嗣酬に於ける 債値批列と見るのは早計である。何となれば、偽典の客観にあ

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らはれてゐる備陀を、そのま L 諸宗のものが、移して以て偽陀 観としてゐるのであり、毒量の本備であっても.客観の経典に あらはれてゐるのである。陽一ナる仰陀も、陽一される偽陀も 共に客観の事貨であって、何にも、聖一人の自我按念に債値付け るまでの段取 P になづてゐないからである。此等の批剣誇考は 固撃覚、自我観念を徹底させる前提としての事貸批殉に過ぎない。 事貸批列の教義主債値批列の教義とを混じてはならぬのでるる ﹁次第と浅深とに迷惑せは、英人は我身に五逆を作らずして、 無問地獄に入

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。とれに蹄依せん檀那も阿鼻大城に隆司 Je へ し ﹂ ︵ 静 岡 玉 妙 ︶ − 三 五 八 在、移して以て今の訓とすべきである。則ち、客観的事食批判刈 の乱抗議は、迭に主観的債値批列に掻取されて、そこに始めて、 慣値付けられるものであるととを銘記せねばならない。

然らは、我聖人の債値批列の教義とは如何。 ﹁議量品に一五︿、然るに我貨に成備してより巳来、無意無濯、 百千高億、那由陀劫等と一五一五。我等が己心の稗傘、五百康古川 乃至所掘の三身にして無始の古仰なり﹂︵本命紗︶九三九 とれで始めて、憧保された客観的開想的懇迦本仰が、聖人の自 我の主観に償値付けられたと云へるのである。即ち、客観の事 費批判叫に於て、設考された懇迦本備が、そのま込、聖人の自我 に取入れられて﹁我等が己心の稗隼﹂となるのである。﹁乃烹所 領の三身、無始の古仰﹂がそのま込﹁能額の五百懐点久成の本 必要にして且つ充分なるもの 働﹂に償値付けられ、そのまた、久成の稗診が、その室、﹁日 蓮等の己心﹂に償値付けられるのである。か、‘る生仰額、即ち 神人視が、我聖一人の白我観の基本的権認となって、そとに始め て 、 ﹁妙畳の緯曾は、我俸の血肉な

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因果の功徳、骨髄にあらず 苧﹂︵本館妙︶九三九 と一五へる宇うになるのである。哲事でも宗敬でも債依批列に根 底をおかないものとすれば、それは育目的感情の支問下にある もので、何等の偵値も纏成もない。

哲阜でも由不敬でも債値批判河が事賃批剣よ P は一歩怨んだ研究 である。しかし、それは事賃批列の過程争践んだ債値批列に於 てのみそれが云へるのである。過去現在を問はず、所謂一般の 宗数は概して事貨批剣の遇裂を無視して、濁断と紳秘の蔭に隠 れ、強いて、掴阿佐批列に類する教義を立てゃうとしてゐる。如 何にその名を債値批列に借りても、その賀、自我概念の限から 見れば、一一臓に値しない。某督教の神人観宇偽敬諸宗の品川陀観 は、如何に騒婦と舞文の努を費しても、到底債値批剣の仲間入 は防来ない。何となれば既に業に、合理的事賃批判の途上に於 て神の存在も阿鰯陀仰苧大日如来の貿在も、そピろに否定さる 込運命に支閉されてゐるからである。乃ち、人絡的紳が全知 H 1 2 能守、宇宙の創掻者であるならば、建られた宇宙寓有は、総て がみや一的であらねばならぬ筈であるのに、それを宇宙は不完全で 二二七

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必要にして且つ充分なるもの あり、人は界の子であると断定するのであるから、事食批列の 裁剣に出ては、到底、矛盾と持符とを股れない。理牲を依いた 紳仰の安在は、濁断と紳秘の外に、肯定さる込ものではない。 それに、人格的に紳宇仰の貧在を謹明し辛うと一五ふには、事貿 批列の要件として、人間の樫史的事実がなくてはならない。即 ち、自我の合理に基いた事貨でな︿ては、人絡的質在は成立し ない。基山 H 教の紳宇品川教諭宗の阿漏陀仰帝大月如来には、人間 としての際史を持たない。この ζ とは、何人の手でも増減の能 きない賂史其物が立汲に誇明してゐる。隠って、人格者として は根本的に事貸批列の合理性を有してゐない。かくの如き無批 判刈の紳宇例陀を擁して、愛晶 T 惑悲を附晶冒しても、またとれを信 じて償値付け宇うとしても、事寅批判河の前誌に於て、否定され てゐるのであるから、その名は愛と言ひ慈悲と綿へでも、その 賞、美名を摘出してゐるに過ぎない。また、か、 A る 紳 宇 品 川 陀 を 信 ヒて、これを債値付け苧うとしても、元身、波我の観念から割 問した盲目的感情に過ぎないから、自我の合理に曲て築きあげ られた債値批判内と、問より同日に論ずべきではない。 勧もすると、比較宗敬皐宇蹄納的研究では、言現しの言葉が 悶一ーなる点より、その閃に共通牲を見出し、さうして同一の結 論に到着し宇うとする傾向がある。しかし、事費批列の前には 何等の穣威を有するものでもな︿、傾値批剣の飽閣には符易に 入

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符るものではない。きれば明滅常なき類似宗教は言ふに及 ぼず、これが温床ともいふべき既成宗殺の多くは、丸信︿美名に 二二八 隠れたずマ力シであ P 、一例の悲喜劇であり、反文化的議素で あると宣告して過言ではな︿、これが徹底的折伏と機滅こそ人 類の念務勺あり、否人の責任である。

然るに、我聖人の宗教は所請、東漸偽教の愛蓬その極に建し た我悶鎌倉時代に於て、大乗偽札砿最後の結論として、生れ出で たるものなるが故に、その基礎を白我観念の確認の上に置いて 線ての札抗議が組織されてゐる。たとへ教相論の事賓批列でもそ の根底は必ず翻心論の債値批判刈の見地より出てゐる。聖人の中 心著書たる﹁親心本館紗﹂の始終を見れば、明らかに看取し作 るが如︿、即ち︷親心本館紗﹂は、支那天台の﹁摩詞止観﹂に あらはれた、一念三千の自我観念に筆を起し従浅至深の序を逐 ふて、初めに、自我の確認を得るために﹁我等己心﹂の自我に 十界の客観界を具する所以を反覆し、次に、事貨批列に移 P て 諸経務自一小の差別観を纏めて、とれを﹁誇仰﹂として怠げ、法華 経 の 一 一 揖 経 を 緩 め て 、 ζ れを﹁韓迦本偽﹂として示し、コ一に債 値批剣に及んで、本帥仰担梓骨干の依正と一切衆生の依正とを一慢な らし札口、所諮法僚の四十五字で、一世叡を悉く自我の主翻に債 依付け、最後に、自我賞現の象徴として、償値批判の一念三千 を経緯の五字に巻き牧め、それ争−所信の本館として光肘糊されて ゐ る 。 かくの如︿、我聖人の凸不敬には、一念三千の親心に、自我の 確認と、事・民批列の理性と、債値批列の認識とを以て敬義の内

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容となし、との自我概念の哲墜を、宗敬の信仰的象徴に具控化 したものを本掌とするのであるから、本隼は型人の自我寅現の 象徴である。 ζ れで我連人が過去の宗教を葬

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去ワた構成と新 に完成された宗教の面白とが、島芳器開するであらう。 仁 哲撃は本傘の自我貸現を内にして、税心の自我を表として立 ち、宗教は親心の自我を内にして本寧の貨現を表として立ワベ きものである。我副聖人は元よ

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宗教家であるから、#目拳の自我 を内にして、本舎の自我を表として、世に見えたもので、自我 貨現の象徴として本館を光瀬し、そ ζ に、あらゆる所信の正境 を 統 一 し 、 ζ れに肉て自己の自我賃現の週日、民的強除、義的 鴨験、美的按験の世界を造り出ださう・として努力され、而して 努力を揚って到達すべき曲目験世界の目標、即ち、理想主義の程 度は自己の自我賞現の象徴たる本館と、同量同質のものでなけ ればならぬ。院。て宇宙を血中げて、本骨串に蹄命せしめ、そこに 一止義的混想曲目験の世界を造り上げ、秋田介各闘の民衆を本舎に持 続せしめ、更に人道的善の勝験世界を築きあげ、近くは、日本 閣の上下を、皆乙の本徐に統一して、そとに人格的美の齢験世 界を見出し、そして世界を現想化しゃうとするに至るのである。 との自我賞現を望むで向上する主義を﹁庚笠流布﹂とも﹁一天 内海皆蹄妙法﹂とも一五ふ。言ひ換へれば、世界統一を到恕とす るのである。この甥想主義の信保を﹁三大秘法﹂といふ。とれ ﹁本傘紗﹂に 必紫にして且つ充分なるもの ﹁一関浮提第一の本舎を此闘に立つべし。月氏震且、いまだ此 本館あらず﹂九四八 といはれ、同妙﹁副欣﹂に ﹁働滅後三千二百二十品開年、いまだ、此の書の心あらす﹂ と連べられ、間顛の﹁且茸茶羅﹂に ﹁此法華経の大長茶羅は悌滅後二千二百二十品開年の問、一問符 援の内、いまだ、 ζ れ有らず﹄ ム﹂稀へられ、﹁報恩妙﹂には、貸魂の順序と内容の純問とを品購ね て 、 ﹁日本乃至一関浮提一同に本隼とすべし﹂−五 O 九 と告げられ﹁日女御前御返事﹂には、宣俸の縫印として、 ﹁袋に日蓮いかなる不思議にてや候らん。龍 d 伺天親等、天台妙 融不等だにも尉酬はし給はぎる大長茶羅を、末法二百儀年の比、は じめて、法事弘通の焼認として願はし来るなり﹂一六二五 と語られたる所以である。とれに由て、自我賃現の宗教として も、嶋市又、理想主義の宗教としても、良質と光明とに満ち、洋 々たる希望一に輝いてゐることが察しられるであらう。 寸 l ﹂ ﹁ し 以上我日蓮田昌人の宗数は、自我の確認に間後し、自我の賃拐 にその絡

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を告げ、そして理恕主義の努力を以て、サ一回介入類を 調印化して、そこに慢験の世界を見出さん止するのである。か、為 る教義正信仰とを有する宗教は、現代の世界中他に之を見出し 符ざるは無論にして﹁釆竹有﹂と云ひ﹁始弘﹂正一五ひ﹁始矧﹂と

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必川女にして孔ワ充分たるもの 一五はれた攻聖人の明へが、果して誇稼であらうか。これを何日に 訴へでも、情に訴へでも、勝又、意に訴へでも、寄人は現人に 如同するの外はない。 しからば、翠人の門下として否人は、果して荷ふた任務を遂 行してゐるであらうか。回顧するに、我聖人去って六百数十年 を経るも、世界の人類中、幾人あってか、我禦人の自我貸現の 境ぜに成った問浮統一の本家の御前に野脆するものがあるであ らうか。我形式的教閣の現般を良而目に反行したならば貨に閉山 牛に週刊、るものがあらう。即ち量を以て之を一五はピ、荷も教徒 と呼び狩る者の全部を暴げて、什鴎有我同人口の三十分の一に過 ぎず、来し世界の大人口に比すれば、正に大爆布に於ける小飛 沫、殆んど教の内にも這入れぬと一五ワて差支へはあ

f

まい。小 在儲周知⋮の論法を庭用すれば、現在の日蓮宗は宗教としての存在 を否認されても、敢て苦情を申立つる資椅ありや否や。又質を 以て之を一五はピ、信俗共に、組側が﹁蛍身の大事﹂を以て己が ﹁営身の大事﹂と伐さず、或るは徒らに紳秘的復古思想に捉はれ て﹁時を習ふ﹂ ζ とを怠 b あり、或るは只今唾棄すべき浅薄な 涜行性の神経を露出して、麻酔的狂惑に街往し、﹁日蓮が魂﹂を 胃潰して敢て省みざるあり、殊に後者

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至つては之を一般教徒 に於ては見ざる所であるが、宗門最高の教育機関に事ぷ青年法 子の中に於ける依ふべからぎる濁流として之を看取せねばなら ぬ ζ とを否人は痛恨せざ入を符ない。組附への絶釘的讃仰の粉 紳を築き上げないうちに、組側の精紳の現代的貨現を一五キする ( 0 のは哀れにも係りにソ、ツカしい醜悌だ。﹁腐敗医務その娠に透 した宗門を正湖しヮ、良質、田県起の使徒たる面白を溌持して貰 ひ度い﹂との正 H 人宗門の青年に針ずる識者の滋働と要求とは飽 くまで日惑の策き弟子山中山への命い言事長であり、良質の持品目では ないか、宗門京新の根本的態度は、反面白な机削讃仰者に依つ てのみ成されるのである。告から﹁革新﹂は決して時型兄に依 つてなきれではゐない。日蓮の弟子への充貸した恭き俊民な誇 習に燃えてこそ、品川同土建設の現代的方法が具体化されるので あ る 。 ︵ 立 K 烹 偉 人 T 凶 大 愚 民 事 雄 知 大 曾 一 一 川 際 シ 一 γ 見 向 ス ︶ 兎まれ、此惨めな宗門の現般を符察するだけの宗教的良心が あるならば、形式的な布教宇儀躍や教育合は、聖人の開設に到し て恐らく市議がなからう。 問問の事情は品川ん Y ﹂事志と違ひ、我等の理想たる世界的浮化 運動の目的成就も 1 7一︿過去の夢物語 D となり果てた宇うではあ るが、我徒にして由民側、聖人の自我貸現の本館を迩世帯する限り 断じてこの聖業を放棄すべきではない。石石、我聖人の遣され た諮教に肉ツて修養し得た自我賃現の信仰共物が、自径の上の 街勤として、 ζ の訓告業を放棄するを許さない。これが先づ、白 我賞現の宗教を奉ずる我徒の死守する信僚であらねばならぬか ら勺ある。 人間性の支持と毅展の思潮をこ込まで堀り下げ対生気付けて とそ﹁必ず時を習ふべし﹂の組訓を服管するものであり、組師 の魂を現代に活かす幾分かの方法な P と 信 ず る 。

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即ち、有人は、こ L に混迷せる思想航海の旗艦として、克︿ 済生到彼岸の重責を果すに、必要にして且ワ充分なるもの、名

子の魂に血ハム

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ξ 近代科祭文明の設建せる紡果生じた経済生活、精紳生活の爾 函に於ける不安と佐川慮は民衆の恐怖である。その弱点を窺ひ、 忍び寄る類似宗教の害毒著しき今日、我等のなすべき急務!そ は訓告制が末法高年への毒殺、絡封的根本原理たる一大秘法山深 奥を究明し、そが根本原理の絶劃性をして実際化し翠砲の一・穴 埋想たる立正安闘を貸現すベ︿、布敬線の鎖張を計り、枇曾民 衆の指導に嘗るべきである。而して枇合民衆、それが組織する 各階級の老若男女の中、私は特に児童をして闘申校数育と相倹っ て施さるべ︿、必要な宗教情操教育のそれに副長級が精神を打込 むべき必袋性を述べんとするものである。先,っその例として、 身延立正子供舎の拍車を一一言すれば、宗祖が一大竺の霊山、日域 の比叡山にも勝れたる地として九ヶ年の御生活があ官、永へに 魂を止むべき庭なりとせられて線る事七百年、その不滅の霊光 の輝きを仰ぎ、絶へざる法流を掬する身延に斯の如き事業施設 一ツ見の魂に奥ふべきは 付けて︷ニチレニズム﹂を提供し、高揚するものである。 ’ ’ h s ・ ’ 上

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の 存 す る は 品 開

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にも蛍然すぎるかも知れないが、それは本山省 局の一枇曾事業の一として大正十年聖誕七百年を記念するために 産産を母げ、先輩諸氏の努力に依り十六年を経た今日は身延小 事校八百の金生徒を合員として、毎週土曜日に開曾せられ、︿ぬ みに創立以来講師は組山皐院生是を携首す︶仰此の外二三の支 部を有してゐる。 私は此の曾に関係を有し講師の末席を汚して符た、品栂︿浅海 で は あ る が 、 比 一 ョ か の 経 験 よ H J その必嬰を感じその一端を述べる ものである。 純情無垢の童心は天民側没、そのものにしてその鋭敏に且つ 笠宮なる感受性は未だ善惑を識別する能力を有しないのみか、 それは環鎗に支配せられて、一位合有伐の士たる素地を、時には 祉舎を呪ふ反逆者ともなワて生長して行くのである。その大切 な出品斑点、所誇三ツ子の魂へ投じて宇るべきは、圧しき智慧で

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