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隣人愛をめぐるニ-チェの思想

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椙山女学園大学

隣人愛をめぐるニ-チェの思想

著者

北岡 崇

雑誌名

椙山女学園大学研究論集 第2部

23

ページ

p1-18

発行年

1992

URL

http://id.nii.ac.jp/1454/00002981/

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隣人愛をめぐるニーチェの思想

はじめに  隣人愛の掟は、イエスによれば、神への愛の掟と同様の重要性を もつ掟である。イエスは、これら二つの掟について、﹁律法全体と 預言者は、この二つの掟にもとづいている﹂と述べ、また﹁この二 つにまさる掟はほかにない﹂とも述べている。しかし、﹁律法全体 と蓼言者﹂の根底を語りそれゆえまたバイブルの知恵すなわち人間 に た い す る 神 か ら の 音 信 の 根 底 を 語 る と さ れ る そ の 隣 人 愛 の 掟 に 、 .   t . 1             。   I       j -^   J i t r r   . 1 一 4 卜 L j 7 F コ ‘ k   ″ ’ E 、 ︷ ’ ‘   ’   / X   一   り ? ︸ ・ j 1 I Λ こ ヾ   ″ 7 ト J ゞ     / ‘ べ ` ’ ? `     ゛ ニーチェは独特の解釈をはとこし その掟の意味を解体し変容させ ようとしている。こうして、ニーチェの思考とバイブルの知恵が、 隣人愛の掟の意味をめぐって激しく衝突することになる。本稿は、 ニーチェの隣人愛批判 同時代人の言う隣人愛にたいするものか らバイブルの語る隣人愛にたいするものまで を明らかにしなが ら、バイブルの思想との対比のもとにニーチェの思考の特質を探る うとするものである。 隣人愛批判 レし JI_ 岡 ぶ フ 丁 で  隣人愛を実践すると称するみすがらの同時代人を観察するニー チェは、彼らの実践とその実践にともなう思想をどのように捉えて いたのだろうか? まずけじめに、ニーチェの主著﹃ツァラトウス トラ﹄第一部に所収の﹁隣人への愛﹂と題する章より、登場人物ヅア ラトウストラの次の言葉を引用したい。  ﹁あなたがたは隣人のまわりにむらがり、それをさも美しいこと のように言う。しかし私はあなたがたに言う。あなたがたの言う隣 人愛とは、あなたがた自身へのあなたがたの愛かうまくゆかないと いうことなのだ。あなたがたはあかたかた白身を避け隣人のもと 逃げだしずおきながら、そのことを自分の美徳にしたいと1 つて い へ る。しかし、私はあなたがたの︿無私﹀を見抜いている。︿あなた﹀ は︿私﹀より古い。︿あなた﹀は神聖なものと言言されているが、︿私﹀ はまだ聖化されていない。だから人間は隣大のもとに押しかけてゆ くのだ。私はあなたがたに隣人への愛を勧めるだろうか? いや、 むしろ私はあなたがたに隣人からの逃走と遠人への愛を勧める!        一

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池 . 不 北 岡 隣人への愛よりも、遠人への愛、来たるべき人への愛のほうが高い。 ⋮⋮あなたがたはあなたがた自身にがまんができないし、白身を十 分に愛してもいない。そこであなたがたは隣人を愛へと誘惑し、隣 人の錯誤によって自分に鍍金をかけようとするのだ﹂。  ツァラトゥストラの批評は辛辣だ。彼の言葉の鉾先は、隣人愛の 実践なるものにおいておそらくぼみすがら有徳であることにひそか な誇りを抱き満足さえ得ている同時代人の、まさしくその誇りと満 足にむけられている。ツァラトゥストラによれば、彼らの誇りと満 足は、充実した美徳とその力を自己白身のうちに意識するところか ら生じるものではない。彼らの言う隣人愛け、﹁奔流のようにみな ぎり、あふれ、波打つ﹂心情に由来するものではない。﹁ありあま る力から生まれる或る衝迫﹂が彼らを実践に駆り立てるのでもなく、 それゆえ、彼らの言う隣人愛の実践には、﹁充実の感情、今にもあ ふれようとする力の感情、高くはりつめた緊張のもつ幸福、贈りま た与えたいと思う富の意識﹂はともなっていない。逆に、彼らの心 情は貧弱で、その裸身はやせおとろえていて、彼ら自身もそのよう な自分かちのありさまに﹁がまんができない﹂。だからといって彼 らは、そのような白分かちのありさまを深く憎み、﹁遠人への愛、 来たるべき大への愛﹂に生きようともしない。彼らは﹁大いなる軽 蔑者﹂として生きることも﹁大いなる尊敬者﹂つまり﹁彼方の岸へ のあこがれの矢﹂として生きることもできない。彼らの場合、軽蔑 もあこがれも、ともに﹁貧弱にして不潔、そしてみじめな安逸﹂で ある。そこで彼らは、﹁がまんができない﹂自己自身に﹁鍍金﹂を かけてくれる他人を求めて隣人のもとに押しかけてゆくのだ、と ツァラトゥストラは語る。それゆえ、彼らが実践すると言う隣人愛 は、ツァラトゥストラによれば、彼らが貧弱でやせた自己自身を温        二 存しつつ何とか自己満足を得ようとする際の方便に堕している。つ まり彼らは、無私なる愛の動機からするおこないという体裁をもつ 働きかけを隣人におこなうことによって隣人をあざむき、その﹁隣 人の錯誤﹂を介してその隣人から自己自身にたいするまい評価を獲 得し、そのよい評価という﹁鍍金﹂で、貧弱でやせた自己白身の姿 をおおい隠すと問時に飾り立て、自分の目に自分をがまんのできる ものとして映じさせたいのだ。こうして、彼らが自己自身の目をも あざむき、自分も捨てたものではない、まんざらでもないと自己自 身に思い込ませることに成功すると、彼らはやっとひそかな誇りと 満足を抱くことのできる心境になれるというわけなのだ。それゆえ、 ツァラトゥストラは語るのである⋮⋮。﹁あなたがたは自分のこと をよく言いたいと思うときには、自分のためにその証人になってく れる者を招いてくる。そして、この証人を誘惑してあなたがたのこ とをよく思わせることに成功すると、あなたがた自身が自分のこと をよく思うようになる。自分の知に背いて語る者だけが嘘つきなの ではない。自分の無知に背いて語る者こそ、それ以上に嘘つきなの だ。まさにそのように、隣人との交際であなたがたは自分のことを 語り、自分をも隣人をもあざむいているのだ﹂、と。  ツァラトゥストラの言葉は鋭くかつ適確である。現代の人間ほど ではないにせよ、雑草のようにはびこる我欲やその我欲と共存しそ れに奉仕するさますまな文化活動のために、バイブルの知恵を表現 する語のなかでももっとも基本的なクラスに属する隣人愛という語 の意味にたいしてさえすでに鈍感になっている近代の人間 ニー チエの同時代人 適確に描き出して がその語に与えた意味を、ツァラトゥストラは いる。バイブルの思想にたいする感受性を失って しまった、しかしそのことに気づいていない1 ばかりの信仰者たち

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の心情をむしばむ欺腸を鋭くえぐり出す一呂葉である。  しかし、ニーチェがみずからの同時代人である1 ばかりの信仰者 だもの言う隣人愛の欺脆性を暴露しだからといって、ニーチェのそ の批判がただちにバイブルの知恵の根底に位置する隣人愛の掟の思 想にも適中するとはかどるまい。他人からよい評価を得るための機 会を利用することにかけては抜け目ないが、しかしみすがらの信仰 の内実にたいしては盲目で鈍感な名ばかりの信仰者たちが理解する 隣人愛は、バイブルに実践するよう勧められている隣人愛とはまっ たく異なるものであるからだ。ともあれ、事情を明らかにするため、 隣人愛を命じるバイブルの言葉に耳を傾けよう。

隣人愛の掟

 バイブルから、隣人愛を命じる言葉をいくつか引用しよう。  ﹁復讐してはならない。民の人々に恨みを抱いてはならない。自 分白身を愛するように隣人を愛しなさい。私は主である﹂︵﹃レビ 記﹄︶。  ﹁﹃心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神であ る主を愛しなさい。﹄これがもっとも重要な第一の掟である。第二も、 これと同じように重要である。﹃隣人を自分のように愛しなさい。ヒ  ︵﹃マタイによる福音書﹄︶。  ﹁入を愛する者は、律法をまっとうしているのです。﹃姦淫するな、 殺すな、盗むな、むさぼるな﹄、そのほかどんな掟があっても、﹃隣 人を自分のように愛しなさい﹄という言葉に要約されます。愛は隣 人に悪をおこないません。だから、愛は律法をまっとうするもので す﹂︵﹃ローマの信徒への手紙﹄︶。  隣人愛を命じるこれらすべての言葉は、隣人を自分のように愛す るようにと述べている。パウロはまた、妻帯1 にとって特に近しい 隣人であるその妻のことで、﹁⋮⋮夫も、自分の体のように妻を愛 さなくてはなりません。妻を愛する人は、自分自身を愛しているの  ︵23︶       N X X N X N です﹂と述べているが、この言葉にも隣人を自分のように愛するこ とを命じる隣人愛の掟が生きていると言えるだろう。また、﹃マタ イによる福音書﹄、山上の説教の次の一節にも、自己と他者を﹁わ けへだてなく﹂愛することを命じる隣人愛の掟の生きていることが 明らかである。﹁だから、人にしてもらいたいと思うことは何でも、 あなたがたも人にしなさい。これこそ律法と預言者である﹂。  したがって、バイブルによれば、自己への愛を知っている者だけ が隣人愛を実践できる。自己を愛することができないのであれば、 その人は隣人を愛することもできない。それゆえ、自己を十分に愛 することができず自己白身に退屈しうんざりし自己をもてあまして いる人問の自己からの逃避、自已に﹁がまんができない﹂という自 己の状況を直視することから自己をまぬがれさせてくれる実践、つ まり気晴らし暇つぶし、あるいはせいぜいそれをいくらか美的に表 現したものとしての趣味のようなものであるなら、たとえこれらが 他者からのよい評価をどれほど約束するものであるにせよ、そのよ うな実践を、バイブルは決して勧めてはいない。それゆえ、みすが ら隣人愛を実践すると称する同時代人を観察し、彼らの実践の意味 を彼らが意識している以上に、また彼らが意識している意味とは異 なるものとして暴き出すニーチェの批判が適確であればあるほどな おざらのこと、その批判はそれだけでは、その射程内に、バイブル の語る隣人愛の掟の思想をおさめてはいないということになる。く りかえしになるが、バイブル仁記された隣人愛の掟とは、隣人を自       三

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j Ξ は 匹 北 岡 分のように愛することを命じるものだからである。それどころか、 ニーチェの批判が適確であると言える状況において、バイブルの知 恵の導きに生活を全面的に委ねるような信仰の人々がまだいるとす れば、そのような人々は、ニーチェが批判する人々をやはりニーチェ と同じように批判 とはいえニーチェのように彼らを悪しざまに 言うことはないだろうが しつつ、隣人愛の掟にたいする彼らの 誤解を捨てさせその掟の意味を説きその実践を忍耐強く勧めること であろう。ニーチェも、バイブルの知恵の導きに生活の全体を委ね ようとする信仰の人々も、1 ばかりの信仰者たちにたいして、彼ら とのかかわり方に差があるとはいえ、ともに批判的な態度をもって かかかるということにおいては同じである。彼ら名ばかりの信仰者 たちは、ニーチェからも、バイブルの知恵に絶対的な信頼を寄せる 信仰の人々からも等しく遠く離れた存在なのだ。だからといって、 ニーチェの思考がバイブルの知恵と衝突することには少しも変わり はない。ニーチェは、同時代人への批判を越えてさらにバイブルの 思想そのものにまで攻撃の手をのばそうとする。だが、今はまず、 バイブルにおいて隣人愛の掟が語られるコンテクストを見ておこ  バイブルによれば、大地ならびに大地に所属するものは神に創造 されたものとして元来よいものであった。そして、サタンと最初の 人間夫婦アダムとエバを介して罪と悪が世界に入った後も、大地な らびに大地に所属するものは、すべて神による被造物として依然と してそれぞれの仕方で神の栄光を表現している。たとえば、﹃詩篇﹄ に記された詩の一節でダビデは次のように語っている。﹁天は神の 栄光を物語り、大空は御手の業を示す。昼は昼に語り伝え、夜昼僕 に知識を送る。話すことも、語ることもなく、声は聞こえなくても、        四 その響きは全地に、その言葉は世界の果てにむかう大まかパウロも。  ﹃ローマの信徒への手紙﹄に記している⋮⋮。﹁世界が造られたと きから、目に見えない神の性質、つまり神の永遠の力と神性は被造 物にあらわれており、これを通して神を知ることができます﹂。そ れぞれの仕方で創造主な石神の栄光を表現する被造物のなかでも特 に人間は、創造主である神のかたちにかたどられ造られたものとし て、もっともよく神の栄光を表現する被造物である。バイブルは、 各々の人間に、その存在の全体が神からの贈り物であること、しか も神のかたちにかたどられ造られていることを自覚させ、その自覚 をもって各人が神の栄光をみすがら進んで讃美しつつ生活するよう にと勧める。その上うな生活においてのみ人間は、万物を創造した 神の意図と合致して人間として享受できる最高の幸福を得ることが できると言うのである。  隣人愛の掟が隣人を自分のように、つまり自己と他者を﹁わけへ だてなく﹂愛するようにと命じるとき、この命令も、自己と他者を ともに神のかたちにかたどられた存在として、またともに神の栄光 をみすがら進んで讃えつつ幸福な生活を享受するようにと神によっ て招かれている存在として捉える捉え方と整合するコンテクストに おいて、なされている。それゆえ、隣人愛の掟は、隣人を自分のよ うに愛せよと命じるが、これは決して自分に媚びるものでもエゴイ ズムの一般化を推進しようとするものでもない。このことは、愛か 何をなし何をなさないかを語るパウロの次の言葉からも明らかであ る。﹁愛は忍耐強い。愛け情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、 高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨み を抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを 信じ、すべてを望み、すべてに耐える﹂。神への愛の掟と同様の重

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要性をもつ隣人愛の掟が、隣人を自分のように愛せよと命じるとき、 その愛にすでに一定の規準が存するのであり、目の欲望や肉の欲望 や虚栄心に支配された自己を中心に据えて他者とかかわろうとする 態度は、その掟によってはじめから排されているのだ。  さらにまた、バイブルには、﹁わが身を憎んだ者は一人もおらず、 かえって、・⋮⋮わが身を養い、いたわるものです﹂と記されている。 すなわち、隣人愛の掟とは、﹁わが身﹂ への愛、自己の全体にたい する愛を、誰もがすでにあたりまえのこととして実践していると前 提したうえで、さらに隣人を自分のように愛せよと命じるのである。 だが、誰もが﹁わが身を養い、いたわる﹂とはいえ、﹁わが身を養い、 いたわる﹂入、つまり﹁わが身﹂を愛する人がすべて、自己自身が 神のかたちにかたどられ造られた神からの贈り物であると意識した うえでその身を愛しているわけではない。だからこそバイブルは、 自己への愛をあたりまえのこととして各人がすでに実践していると 語りつつも、同時にその自己への愛を神への愛と調和するかたちに おいて自覚的に成長させてゆくように勧めるのであり、さらに、隣 人愛の掟において、神への愛と調和するかたちで自己を愛する際の そのような愛をもって、自己と同じように神のかたちにかたどられ た他の人間にかかわるようにと命じているのである。  もちろんニーチェも、右に述べたようなバイブルの思想を承知し ている。同時代人にたいする批判にあたって、先のツァラトゥスト ラの言葉だけではバイブルに記された隣人愛の掟の思想にたいする 批判としては不十分であることを、ニーチェは承知している。たし かにニーチェは、先のツァラトゥストラの言葉、とりわけ﹁遠人へ の愛﹂の勧めにおいて、バイブルの語る隣人愛の掟の思想にたいす る正面きっての批判をすでに開始しているのであるが、その批判を 十分になしえているなどという思い込みには決して陥っていない。 ニーチェは批判すべき思想の内実、その深さと高さをそれほど小さ なものであるとは考えていない。先のツァラトゥストラの言葉はま だそれだけでは、同時代の1 ばかりの信仰者たちにたいするその批 判的態度という点において、かえって、バイブルの語る隣人愛の掟 に服従しようとする信仰の人々との近接を示すことになりかねない ということを、ニーチェは知っている。彼は、バイブルの語る隣人 愛の掟には、神への愛と調和するかたちで自己への愛をもつものだ けがその愛に応じて隣人への愛を実践することができるという思想 の含意されていることを知っているからこそ、﹃ツァラトゥストこ 第三部に所収の﹁小さくする美徳﹂と題する章のなかで、ツァラトウ ストラに次のように語らせるのである。﹁あなたがた小さな有徳の 人々よ、あなたがたは奪うときにも、その手口はまるでこそ泥のよ うだ。⋮⋮﹃あなたがた白身と同じようにあなたがたの隣人を愛す るのもいいだろう、 となってくれ                                                                             X   X   入   X   X   3   ゝ   X だ が 、 何 よ り も ま ず 、 自 分 白 身 を 愛 す る 者 大いなる愛をもって愛する者、大いなる軽蔑を もって愛する者となってくれ!﹄神を無みする者ツァラトゥストラ はこのように語る﹂。  ニーチェの同時代人も、口先では、自分たちは隣人を自分のよう に愛するのだと言うのだろう。だが、ニーチェは、バイブルの語る 隣人愛の実践に先立ち、隣人愛を実践するためにも不可欠な自己へ の愛をまず勧める。﹁何よりもまず、自分白身を愛する者となって くれ﹂とツァラトゥストラは語る。これにたいして、彼らニーチェ の同時代人は、自己への愛はごく自然のものであるというバイブル の思想に回意したうえでみずから隣人愛を実践しているのだと応じ るにちがいない。しかし、バイブルがあたりまえのこととして捉え       五

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ぶ 匹 北 岡 る自己への愛が、ニーチェによれば、実は決してあたりまえのこと ではない。﹁自分を愛することを学ぶということ、これはまことに 今日明目に果たせることではない。むしろこれこそ、あらゆる技芸 のなかでもっとも精妙な、手のこんだ、究極の、もっとも忍耐を要 する技芸なのだ。なぜなら、本当の自分のものはすべて、自分の手 がたやすく届かぬように、巧みに隠されているからである﹂。  自己への愛なら誰であれすでにあたりまえのこととして実践して いると捉えるバイブルと、自己への愛を学ぶことこそ困難を極める ことだとするニーチェと、これら二つの思想の差はとこから生じる のであろうか? 同時代人を批判するツァラトゥストラの言葉 のなかで、﹁︿あなた﹀は︿私﹀より古い。︿あなた﹀は神聖なもの と宣言されているが、︿私﹀はまだ聖化されていない﹂と語られて いた。だが、価値の唯一究極の根源としての神という観念を認めな いニーチェは、もはや、︿あなた﹀と言って神に呼びかけることを しない。神のかたちにかたどられているがゆえに被造物のなかでも 特に高い価値をもつとする考え方を、もはやニーチェは、自己の存 在、︿私﹀という存在について認めてはいない。そして今、聖なる 神をしりぞけその神のかわりに︿私﹀を聖化すること、これこそ自 己を愛することを学ぶということであり、ニーチェが困難を極める 業であると考えるものである。 神の死という出来事  ﹃ツァラトゥストラ﹄第一部が出版された年の前年、一八八二年に、  ﹃華やぐ知恵﹄初版が出版されている。そのなかに、﹁白昼に1 燈 をつけて﹂﹁広場﹂で神の死を告知する﹁気違いじみた男﹂を描出 する節かおる。       六 その男の語る言葉から次の箇所を引用しよう。    S I I I I I X X X I X X﹁ おれたちが神を殺したのだ 諸君とおれが! おれたちはみ な神の殺言1 だ! だが、どのようにしておれたちはそんなことを やってのけた? どのようにしておれたちは海を飲みほすことがで きた? ⋮⋮y﹂の地球をその太陽から切り離すようなどんなことを おれたちはやってのけた? 地球は今どっちへ動いてゆくのか? おれたちはどっちへ動いてゆくのか? すべての太陽から離れ去っ てゆくのか? お札だらけ絶えず突進してゆくのではないか? そ れも後方へか、側方へか、前方へか、四方八方へ、か? 上方と下方 がまだあるのか? おれたちは無限の虚無のなかを迷ってゆくので はないか? むなしい虚空がおれたちに息を吐きかけているのでは ないか? 冷えてきたのではないか? 絶えず夜が、ますます深い 夜がやってくるのではないか? 白昼に提燈をつけなければならな いのではないか?﹂。  大地を創造した神、みすがらのかたちを刻印することによって人 間に格別の価値を付与した神、さますまな掟を介し人間にその生活 の意味を自覚させその生活を導こうとする神、つまり人間ならびに 人間を取り囲かすべての存在の価値と意味の根源としての神、バイ ブルの語るこのような神への信仰を失った人間の、しかもそのよう な信仰を失ったことをはっきりと自覚しか人間の言葉である。なる ほど、たしかに、バイブルには、みすがらの日々の生活を全体的に 神からの贈り物として享受しつつその生活の全体を通して神への感 謝を表明しようと志向する信仰の人々のことが記されている。神の かたちにかたどられたその身一つをみすがら進んで神の栄光を讃え る場として用いようと努める人身、﹁私たちは生ける神の神殿なの です﹂という言葉を語る充実した信仰を有する人々のことが記され

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ている。だが、ニーチェは、今や人々は、みすがら進んで神の栄光 を讃えることに、人間の生活の最高の価値、究極の意珠が実現する のだとは考えていないということを見抜いている。人々が自己自身 を﹁生ける神の神殿﹂として用いる日々の生活に人間として享受し うる最高の幸福の約束されていることにもはや確信をもつことがで きなくなったということ、これこそ神の死という出来事である。こ の出来事の進行とともに、自己と他者とをともに神のかたちを宿す 存在として等しく敬愛すべきことを説く隣人愛の掟も、その掟にみ ずから進んで服従するよう人々をひきつける力を失ってしまった。 そして、今、近代の人間は事実上すでに神への信仰を失って完全に 方向感覚を喪失している。ところが、もはや信じていない神の観念 をまだ捨てきれない中途半端な信仰者たちは、﹁無限の虚無﹂のな かを拠りどころなくさまよい歩き右往左往するみすがらのその彷徨 を称して隣人愛と言う。T﹂のような彷徨に洗礼がはとこされて︿隣 人への愛﹀と命名される。この言葉ぐらいこれまでに嘘と偽善のた めに役立った言葉はない﹂とツァラトゥストラは語っている。つま り、自己のうちに神のかたちという価値の刻印されていることを確 信することも、その価値ないし偽価値をふり捨てることもできない 近代の人間か、自己自身に﹁がまんができず﹂隣人のところにおも むき、さまざまな手管を弄して自分の値をつり上げようと試み、そ の試みに成功すればやっとしばらく落ち着くことができるというわ けなのだ。それゆえニーチェは、ツァラトゥストラに語らせるので ある⋮⋮。﹁ある者は、自分をさがし求めているので、隣人のとこ ろへゆく。また他の者はノ目分を失いたいと思って隣人のところへ ゆく。あなたがた自身へのあなたがたの愛かうまくゆかないために、 孤独があなたがたには牢獄となっているの加﹂、と。  神の死という出来事の進行とともに変質したのは隣人愛という美 徳の意味だけではない。たとえば、謙遜という美徳についても、ま た世俗の﹁上に立つ権威﹂にたいする従順という美徳についても、 神の死という出来事の進行する時代に生きる彼らニーチェの同0 代 人のあいだでは、その意味が、バイブルの語る意味とは似ても似つ かぬものへと変質してしまっている。元来、神ないし神の栄光を表 現するものを前にしてわが身を屈するという意味での謙示が、今で は人開たちのあいだでわが身の安全と延命をはがるための方便、自 己保存のための方便に化している。﹁踏みつけられた虫は身を縮め る。とても利口なやり方だ。こうして虫はあらかに踏みつけられる ヽ 瓦凹 確率を減らしているのだ。これを道徳の言葉で言うなら、謙遜﹂と ニーチェは記している。また、パウロは、﹁人はみな、上に立つ権 威にしたがうべきです。神に由来しない権威はなく、今ある権威は すべて神によって立てられたものだからです。⋮⋮自分の義務を果 たしなさい。貢を納めるべき人には貢を納め、税を納めるべき人に は税を納め、恐るべき人は恐れ、敬うべき人は敬いなさい﹂と命じ ているが、この命令が彼らニーチェの同時代人、1 ばかりの信仰者 たちの鈍い心を通過すると、たとえば﹁官憲を敬い服従しなさい。 たとえ曲がった官憲であっても1﹂という勧告に変わる。﹁上に立 つ権威﹂あるいはその命令の執行者が神の命令に敵対する﹁曲かっ か﹂ものであるなら、当然バイブルはそれへの服従を神への敵対と 見なすであろうに。神への愛すなわち神の掟を守ろうとする意志は 彼らニーチェの同時代人の実践にはもう見られない。官憲に服従す ること、﹁よい眠りにはそれが必要だ。権力がともすれば曲がった 脚で歩くのを、私にどうすることができようか?﹂というのが彼ら の本音である。パウロの命令は﹃よい眠り﹄に誘う子守歌になって       七

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ぶ 不 北 岡 しまっているのだ。パウロは、﹁上に立つ権威﹂ への従順を命じる 右に引用した言葉の少し後で、﹁あなたがたが眠りから覚めるべき 時がすでに来ています﹂と述べている。しかし、彼らニーチェの同 時代人は、パウロのこの言葉が促寸覚醒とは逆の﹁よい眠り﹂を得 るための処方能として、﹁上に立つ権威﹂ への服従を説くのである。 要するに、彼らの心を通過すると、隣人愛も謙遜も世俗の支配者へ の従順・服従も、かろうじて0 己満足を抱きつつ小さく貧弱でみじ めなものとして生きつづけてゆくための社交上の技術、保身のため の知恵、あるいは自己自身の現実に覚めることのないよう時をやり すごすための方便に堕してしまうのである。彼らがそのような処生 の知恵、方便に頼るかぎり、もちろん彼らはそれらにそれなりの価 値を認めているのであろう。だが、自己ならびに自己を取り囲むさ まざまな存在の価値と意味の根源を確信できず﹁無限の虚無﹂のな かを彷徨する人間にとって、根本的には、確たる価値と意味をもつ ものは何もない。たとえ、隣人愛なる実践によって隣人からのよい 評価を獲得し高い値に評価されたとしても、結局のところ﹁およそ 値段のつくものはすべて価値のないものである﹂。  ﹁値段のつくもの﹂とはその﹁値段﹂を他者からはりつけられた 品物である。その﹁値段﹂を決定するのはあくまでも他者であり、 他者が﹁値段﹂をはりつけたその品物は、その﹁値段﹂をはりつけ る他者のもとでのみそれだけの価値をもつものとして承認される。 だが、﹁値段のつくもの﹂、品物は、その﹁値段﹂を付与されたもの であるから、価値の根源としての価値、価値産出的なものとしての 価値は決して所有しない。だがニーチェは、まさしくこの価値の根 源、価値産出的なもの、評価しつつ創造する働きこそ価値をもつと 言うのである。ツァラトゥストラの言葉に耳を傾けよう。﹁自己を       八 維持する必要上、人間か事物のなかに、はじめて価値をさし入れた のだ。−人間がはじめて事物の意味を、人間的な意味を創造した のだ! だからこそ、人間はみすがらを︿人間︵図・回呂︶﹀と呼ぶ のだ。すなわち評価する者︵活﹁回冨に自活﹂と。評価すること  ︵回目に留︶が、創造すること︵曽目に自︶なのである。よく聞き なさい。あなたがた、創造する者だちよ! 評価することそれ自身 が、すべて評価された事物の富であり宝である。評価によってはじ めて価値が生じる。評価することがなければ、存在の胡桃はうつろ であろう﹂。万物を創造する神が各々の被造物の価値を定め、神の 啓示であるバイブルと、美と調和に満ちた自然とがその定められた 価値を開示するというバイブルの思想を、ニーチェは拒絶する。価 値と意味の根源としての神という他者をしりぞけ、ニーチェは、自 己ならびに身のまわりのすべての存在を、神による価値づけこ忌味 づけのはぎとられたその裸形の姿において、つまり﹁無限の虚無﹂ のなかに浮遊するものとして眺めている。そしてニーチェは、今、 無価値で無意味な空間に浮遊する﹁うっろ﹂な﹁存在の胡桃﹂に、 みすがらの意志にもとづいて価値をさし入れ意味を付与し、こうし て、みすがら一つの意味世界を創造しようとしているのである。す なわち、大地の価値と意味の根源である神という観念を排し、ニー チェは今、神の死を確認しつつ、万物にその光と熱を注ぎかける太 陽のようにみすがら大地にその意義を獲得させようとしているので ある。﹁新しい力﹂、﹁新しい権利﹂、﹁第一運動﹂としての自己白身、 価値と意味の根源としての自己自身のまわりに﹁星々を強いて回転 させる﹂ことをめざしているのである。人間は、他者から﹁値段﹂ をはりつけられたり価値づけされたり意味づけされたりするだけで なく、みすがら評価し會冨に留︶、その評価において一つの世界

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を創造する會回浄とからこそ、人間︵K・回呂︶であるのだ。そ れゆえ、﹁もはや意志しない、もはや評価しない、もはや創造しない﹂ 人間、T﹂の大いなる倦怠﹂にとらえられた人間は、ニーチェによ れば人間︵K・回呂︶の名に値しない。  バイブルでは、隣人愛の掟は、自己と他者をともに神のかたちと いう価値の刻印された存在として捉える捉之方と整合するコンテク ストにおいて提示されていた。だが、ニーチェは今、神のかたちに かたどられた被造物すなわち人間という人間一般の捉え方にたいす る信仰が事実上すでに失われていることを確認したうえで、何より もまず自己自身のうちにI自己と他者のうちにでも人間一般のう ちにでもなく 、新しい一つの意味連関をもつ価値の世界を創造 人間の語る新しい言葉は常に預言者の言葉のように響くものだ。 ニーチェは、ツァラトゥストラに﹁この民衆のあいだでは、私は私 白身の前触れだ。暗い路地に響きわたる私白身の鶏鳴だ﹂と語らせ るが、この言葉を語らせるのは、新しい時代の﹁初子にして早生児﹂ として思考するというニーチェ自身の自負心にばかならない。ツァ ラトウストラが﹁遠人 き、その﹁遠人﹂ある い へは﹁来たるべき人﹂という言葉も同様に理 の愛﹂、﹁来たるべき人への愛﹂を勧めると 解されなければならない。﹁遠人﹂あるいは﹁来たるべき大﹂とは、 今まさに生まれつつある現実のなかでその現実を思考し語りその現 実に働きかける大間か同時代人のねぼけまなこに映じる姿のことで あり、またまさしくその同し現実を生きていながらその夢うつつの 意識によってはめったに把握されることのない彼らニーチェの同時 代人白身の存在のことなのである。  だが、隣人を自分のように愛せよという掟において語られている 隣人あるいはまた自分という言葉にしても、その意味は、彼ら二1 チェの同時代人の意識にとっては、彼ら自身やニーチェないしツァ ラトゥストラと同じくらい遠い存在であるのだろう。﹃使住言行録﹄ には、﹁実際、神は私たち一人一人から遠く離れてはおられません﹂ というパウロの言葉が記されているが、自己と他者にともに宿る神 性をもはや確信できなくなっている彼らニーチェの同時代人の耳に は、このパウロの言葉は、バイブルに記された他の言葉と同様、日々 の生活のなかでときたまにしか聞こえてこない遠い声、たとえ聞こ えてきたとしてもその意味を聞きとることの困難な遠い声のような 響きしかもたないのであろう。近代の人間の意識にとっては、ニー チェの思考もバイブルの知恵も、ニーチェがその思考において捉え 語ろうとする新しい現実をまさしく生活する彼ら近代の人間自身の        九 する力、すなわち価値と意味の根源を探りあてようとしている。し かし、ニーチェの説く神の死という出来事は、﹁あまりにも大きすぎ、 遠すぎ、多くの人々の把握力からあまりにも掛け離れて﹂いる。そ れゆえ、まさにその出来事の進行する時代に生きる人々のもとにさ え﹁その情報がどうやらやっと届いたとすら言いかねるほどであ る﹂。それゆえ、もはやみすがらの生活の価値と意味の全体がバイ ブルの語る神に依存しているとは確信できず、隣人愛の掟の正当性 の究極の根拠についてもあやふやになっているにもかかわらず、依 然として形骸化した隣人愛の掟にこだわる同時代の信仰者たちのお いたにあって、ニーチェは、到来しつつある時代の﹁初子にして早 生児﹂として思考せざるをえないのである。今まさに到来しつつあ る一つの時代の真理を語る人間の言葉は、常に、その同時代人の耳 には、まるで未来の人の語る言葉、未来からの声のように響くもの だ。古びた観念や古び九言葉に呪縛され架空の現実のなかに生きる 人々にとって、生まれつつある現実と格闘しそこでもがき思考する

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ぶ 六 北 岡 存在と同様に、ともに遠くへだたっている。とはいえ、ニーチェの 思考がバイブルの知恵と合致するというのではない。ニーチェは、 バイブルの語る道徳を真正面から批判しつつ、それとはまったく異 なる道徳を樹立するための基盤を探っている。バイブルの語る道徳 にたいする二ヽ−チェの論評を見てみよう。    道徳の根源  バイブルの語る神は、モーセに﹁私はある。私はあるという者だ﹂ と語りかける神であり、イザヤをして﹁死を永久に滅ぼしてくださ る﹂と語らせる神である。また、望む者には誰にでもT沓短の命﹂ を得ることができるようにとの手だてをととのえてくれる神であ る。それゆえ、バイブルの語る神は死よりも強い。バイブルを神の 啓不と捉える信仰の人々にとって、神は決して死に屈することのな い存在である。だが、ニーチェによれば、バイブルの語る神もまた 人間が造った一つの観念でしかない。人回が神の被造物なのではな く、逆に、神が人間の被造物、人間の思考と意志の産物であり、バ イブルもまた、神が人間を用いて自己白身を啓示しか書物ではなく、 人間の独創に由来する一つの作品であるとニーチェは考えている。 それゆえ、彼が神の死に言及するとき、神の死とは、バイブルに記 された神の観念が、信仰者を自認する人々のあいたでさえ、その日々 の生活を構成する無限に多様な実践を統御し導く唯一にして最強の 動因であることをやめてしまっているという事態のことにほかなら ない。したがって、神の死という出来事の進行を指摘するニーチェ も、﹁生ける神﹂ へのだちかえりを勧めるバイブルの知恵も、その 信仰が﹁死んだもの﹂となっている1 ばかりの信仰者にともに批判       一〇 的にかかわるとはいえ、決して両者が合致することはない。﹁この 神は生ける神、世々にいまし、その主権は滅びることなく、その支 配は永遠﹄と語り神の永遠の存在とその神に由来する永遠の道徳を 説くバイブルの知恵と、バイブルの語る神もバイブルの語る道徳も 人間の思考と意志の産物にすぎないと考えるニーチェのあいだに、 一致は生じえない。  ﹁道徳的現象などというものはまったく存在せず、あるのはただ、 現象の道徳的解釈だけだ﹂と于−チェは言う。この考え方からすれ ば、バイブルの語る善悪も、諸現象にたいする一定の解釈、あるい はさらに言うならその解釈を導く一定の意志から生じたものだとい うことになる。善とか悪とか称されるものも、そこから解釈を取り 去ってそれ自体として眺めてみれば、いかなる価値も意味も所有し ない。バイブルの語る善悪とは、それ自体としてはうつろな現象を、 神の掟にたいする服従ないし反逆と解釈する意志より生じた意味な のだ、とニーチェは考える。そして彼は、バイブルの語る道徳を支 える意味連関を解体し、一つの新しい道徳を樹立するための基盤を 固めようとしている。つまり、一方で、バイブルの語る道徳への批 判を、その道徳を造り上げた意志への批判として展開すると同時に、 他方では、そのような意志とは類をまったく異にする別様の意志と この意志が造る道徳の概略を提示しているのである。  ニーチェは、道徳には﹁二つの基本タイプ﹂、すなわちT王人の  ゝ X         I S I I I         ︵76︶道徳﹂と﹁奴隷の道徳﹂があると言う。前者は、ニーチェが﹁騎士 的工貝族的な評価様式﹂と呼ぶ仕方で価値判断する意志が造る道徳 で、後者は、ニーチェが﹁僧侶的な評価様式﹂と呼ぶ仕方で価値判 断する意志が造る道徳である。ニーチェによれば、高貴ですぐれた 力強い人間、すなわち魂の高揚した誇らしい状態にある人間は、自

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己自身の充実した力、実在性、誠実さ、健康、富などを意識し、﹁勝 ち誇った自己肯定﹂からまず目己自身のことをくまい﹀と呼ぶ。﹁わ れら高貴なる者、われらよき者、われら美しき者、われら幸福なる 者!﹂というわけだ。次いで、そのような白分かちの状態とは反対 の状態にある人々、つまり貧弱で無力な人々、影の薄い人々、臆病 な者、こせこせした者、目さきの利益ばかり考える者、取り柄のな い普通の人々を﹁距離のパトス﹂によって自己自身からへだて︿劣 悪﹀と呼ぶ。こうして生じるくよいI劣悪﹀という価値区別がT王 人の道徳﹂の基礎に存している。すなわち、私はくよい﹀、そして 私のようでない彼らは︿劣悪﹀だという評価様式がT王大の道徳﹂ を支えていると言うのである。この評価様式の対極に位置づけられ るのが、﹁僧侶的な評価様式﹂である。これは、高貴ですぐれた力 強い人々にたいする無力で劣った普通の人々の側からの﹁反感﹂ から生じる評価様式である。ニーチェは、そのような﹁反感﹂を心 中に燃えたぎらせるもっとも典型的な種類の人間として僧侶を念頭 に置き、次のように述べている。﹁僧侶らは、周知のごとく、最悪 の敵である だが、なぜだろう? 彼らが最無力者だからだ。彼 らにあっては、この無力から憎悪が成長し、やがてそれが奇怪にし て不気味なものとなり、もっとも精神的でもっとも有毒なものにな る。世界史における巨大な憎悪者は常に僧侶であったし、またもっ とも才気に富んだ憎悪者も常に僧侶であった﹂。さらに、そのよう な﹁陰険極まる僧侶的復讐心﹂に満ちた民族、ユダヤ人こそが、﹁貴 族的な価値方程式︵よい=高貴な=力強い=美しい=幸福な⋮⋮︶﹂ の逆転を敢行し、T王人の道徳﹂とは別の道徳、つまり﹁奴隷の道徳﹂ を造り上げたと述べている。すなわち、実際の行為による反発ので きない無力で劣った普通の人間の抱く﹁反感﹂が、内燃する憎悪に もとづく﹁想像上の復讐﹂において、高貴ですぐれた力強い人々を 頭から否定しようとするとき、その﹁反感﹂が、︿よいI劣悪﹀と いう価値区別とは別の価値区別、︿邪悪−よい﹀という価値区別を 生ぜしめ、これが﹁奴隷の道徳﹂を造り上げるに至ったと言うのだ。 この価値区別を定式化すれば、﹁惨めなる者のみがよき者である。 貧しき者、無力なる者、低き者のみがよき者である。悩める者、乏 しき者、病める者、醜き者のみがひとり敬虔な者、神を敬う者であっ て、彼らの身にのみ浄福がある。 これに反し、汝ら高貴にして 権勢ある者ども、汝らは永却に邪悪なるもの、残忍なる者、・=・⋮神 を無みする者である。汝らはまた永遠に救われざる者、呪われたる 者、罰せられたる者であるだろう!﹂、となる。T王人の道徳﹂は、 自己を肯定し自己を愛する人間がまず第一に﹁自発的に﹂自己自身 についてくよい﹀という概念を構想し、次いで自分とは異なる種類 の人間を﹁一種の憐欄、斟酌、容赦﹂の思いを混じえて︿劣悪﹀と 呼ぶときに芽ばえるが、﹁奴隷の道徳﹂の場合は逆である。﹁奴隷の 道徳﹂は、自己と対立する﹁外のもの﹂、﹁他のもの﹂、﹁自己でない もの﹂の存在をまず前提し、その価値を否定するときにはじまる。 すなわち、彼らは︿邪悪﹀だ、そして彼らのようでない私はくよI という評価様式が﹁奴隷の道徳﹂を支えているのである。それゆえ。  T王人の道徳﹂を造る価値判断は﹁自発的に﹂なされる肯定にはじ まるのにたいし、﹁奴隷の道徳﹂を造る価値判断の活動は﹁根本的 に反動であり﹂、否定にはじまる。﹁抑圧された者、圧迫された者、 悩める者、自由でない者、自分自身に確信のもてない者、疲れた者﹂ のまなざし、﹁反感の毒をふくんだまなざし﹂が、T王人の道徳﹂の 意昧でくよい﹀人、高貴ですぐれた力強い人を︿邪悪﹀とみなし、 これと比較すれば︿劣悪﹀なTつらなりの蒼白い対照像﹂でしがな        一 一

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旭 , 匹 北 岡 い自分たちのことをくよい﹀とみなすこと、ここに﹁奴隷の道徳﹂ の根源がある。そして、このような﹁奴隷の道徳﹂の典型を、ニー チェは、バイブルの語る道徳、神への愛の掟と隣人愛の掟を根底に もつバイブルの愛の思想に見ているのである。ニーチェは言う⋮⋮。  ﹁復讐と憎悪のあの樹の幹から、ユダヤ人的な憎悪−もっとも深 くもっとも崇高な憎悪、すなわち理想を創造し価値を変造する憎悪、 かつて地上にその比を見なかったような憎悪 のあの樹の幹か ら、同じく比類を絶するあるものが、一つの新しい愛か、あらゆる 種類の愛のうちもっとも深くもっとも崇高な愛か成長してきた。 ⋮⋮とはいえ、その愛はあの復讐欲の真の否定として、ユダヤ人的 な憎悪の反対物として生い立つだのではあるまいかなどとは、決し て思わないでもらいたい! いや、その逆こそが真理なのだ! こ の愛は、あの憎悪の樹の幹から、その樹冠として成長してきたのだ﹂。  バイブルの語る道徳、その愛の思想が、高貴ですぐれた力強い人々 にたいする無力で劣った普通の人々の﹁反感﹂、﹁憎悪﹂から誕生し たのであるとすれば、その道徳、その愛の思想においては、おりと あらゆる価値と意味の変換、変造、逆転がおこなわれていることで あろう。ニーチェは、バイブルの語る道徳、その愛の思想を造り上       I X       ︵93︶げた人々を﹁弱さを嘘でごまかして功績に変えようとする﹂者、あ るいは﹁贋金造り﹂と評している。彼らによって、報復しない無力 は善良さ、臆病な下劣さは謙虚、力を尽くそうとしない事勿主義 や待つしか能のないことは忍耐に変えられる。また、彼らは自分か ちが望んでいるものを報復とは呼ばず正義の勝利と呼び、その同胞 を、憎悪における同胞とは呼ばず愛における同胞と呼ぶ。等々。つ まりニーチェは、彼らの道徳には、嘘や偽善や自己欺腸が満ちあふ       コー れていると言うのである。同時代の1 ばかりの信仰者たちにたいす るニーチェの批判は、すでに見た。だが、自己欺腸に陥っているの はニーチェの同時代人だけではない。バイブルの語る道徳、その愛 の思想が﹁飽くことのない憎悪の醸造釜﹂から誕生したのであれば、 むしろ、バイブルの語る道徳の根底に愛かあると真剣に考えて疑う ことのない信仰の人々、あるいはさらにバイブルの語る道徳、その 愛の思想を造り上げた大々こそ、けるかに深く自己欺腸に陥ってい るということになる。すでに見たように、ニーチェの同時代人は、 たしかに、バイブルの思想をづイプルが語る意味とは似ても似っか ぬものへと変質させているのであるが、それでも彼らは、ニーチェ によれば、嘘や偽善や自己欺腸から成る思想をもって生活するとい う点において、バイブルの思想を造り上げた大々やその思想にみず からの生活全体の導きを求める信仰の人々と同類として一括される のである。すなわちニーチェは、みすがらの同時代人である1 ばか りの信仰者たちを、﹁偽り者﹂を父とするその末裔と見ているので ある。それゆえ、同時代人の言う隣人使にたいするニーチェの批判 は、バイブルの語る隣人愛の掟の思想を擁護する立場からなされて いるのではない。ニーチェは、その隣人愛批判において、同時代人 にバイブルの知恵の引き立て役を演じさせようとしているのではな い。彼の隣人愛批判は、回時代人の言う隣人愛にたいする批判を越 えて、彼らがすでにそこから遠く離脱してしまっているとはいえ依 然としてそこからの由来を保持している源泉の思想、つまりバイブ ルの語る隣人愛の掟の思想にまでおよぶ。つまり、回時代人の言う 隣人愛にたいするニーチェの批判の背景には、バイブルの語る道徳、 その愛の思想の誕生についての彼の独特の解釈が存しているのであ る。ダンテは﹃神曲﹄地獄篇第三歌の冒頭の詩句で、地獄の門の上

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に﹁我を造りしも永遠の愛なり﹂という恐るべき銘文を掲げている が、このダンテの創意に匹敵する創意をもって、ニーチェは、キリ スト教の言うパラダイスとその永遠の浄福に至る門の上に﹁我を造 りしも永遠の憎悪なり﹂という銘文を掲げることを提唱している しかも、﹁虚偽に至る門の上に真理を掲げることが許されると すれば!﹂と語りつつ。  ニーチェは、バイブルの語る道徳、その基礎に存する善悪の価値 区別、すなわち︿邪悪−よい﹀という価値区別、さらにこの価値区 別を生ぜしめた意志を、右のように批判すると同時に、それらとは まったく異なる道徳、自己を愛し肯定する者の高貴な意志とこの意 志が生ぜしめるくよいI劣悪﹀という価値区別とにもとづく道徳を 樹立しようとしている。高貴な者、すぐれた者、力強い者を︿邪悪﹀ と呼び、無力な者、劣った者、普通の者をくまい﹀と呼ぶ道徳が﹁勝 利をおさめた﹂ということ、ニーチェは、これこそが﹁ヨーロッパ 的人間の倭小化と均一化﹂をもたらし、T一ヒリスムス﹂ もは や人間に恐怖も愛も畏敬も希望も抱くことができずただ倦怠を感じ るばかりだという状況 を招き寄せたと考えている。︿邪悪−よ Iという価値区別が支配する領域においては、T一ヒリスムこ はますます深くなる。﹁事態はいよいよ下へ下へと落ちてゆき、よ り稀薄なもの、より温良なもの、より利□なもの、より気楽なもの、 より凡庸なもの、⋮⋮よりキリスト教的なものへと落ちてゆく﹂。 そこでは、﹁特権への勇気、支配権への勇気、自己ならびに自己の 同類を前にしての廉恥心への勇試、−つまり距離のパトスへの勇 試﹂を具え九人聞か育かないからである。﹁文化のあらゆる向上と あらゆる成長にとっての前提﹂であるとニーチェの考える﹁人間と 人間とのあいたのあらゆる畏敬と距離の感情﹂が育かないからであ る。ニーチェは、ますます深くなる﹁ニヒリスムス﹂の状況を克服 するために、バイブルの語る善悪の彼岸、すなわち︿邪悪−よI という価値区別の彼岸に立って新しい道徳を樹立しようとしている 望に値する人間を回復しようとしているのである。 のである。まず、自己への愛を回復し、次いで恐怖や愛や畏敬や希 む す び  隣人愛批判をおこなうニーチェの思考の根底には、バイブルの語 る隣人愛の掟を、高貴ですぐれた力強い人間にたいする無力で劣っ た普通の人々の側からの﹁反感﹂と﹁憎悪﹂の産物として捉える解 釈があった。さらに、隣人愛の掟に含意された平等の思想、つまり 自己と他者のうちにともに神のかたちという価値が刻印されている という思想が、人間と人間とのあいたの裂け目を縮め、自己自身で あろうとし自己を際立だせようとする意志を抑圧し、﹁すべての強 い時代に特有﹂とニーチェの考える﹁距離のパトス﹂の成育を阻み、 人間を劣悪化してきたし今後さらに急速に劣悪化してゆくであろう という歴史意識、危機意識があった。だが、ニーチェは、﹁奴隷の 道徳﹂がT王人の道徳﹂との闘争において﹁勝利をおきめた﹂と主 張するときにも、彼自身、その﹁奴隷の道徳﹂を踏み越えた彼岸に 新しい一つのT王人の道徳﹂を樹立しようとするときにも、いずれ の揚合においても、高貴ですぐれた力強い人間と無力で劣った普通 の人間の区別があるという前提のもとで思考している。もちろんこ の区別自体かくまいI劣悪﹀という価値区別に拠るものであり、こ の価値区別は高貴ですぐれた力強い人間の意志が生ぜしめるもので あるから、ニーチェはみすがら一人の高貴ですぐれた力強い人間と       コニ

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心 不 北 岡 して思考すると自認していることになる。しかし、バイブルなら、 それら二種の人間の区別のさらに根底に同一の神を置き、いずれの 種類の人間にもともに神のかたちが宿り、それゆえそれら二種の人 間は神の前においては平等なのだと語るであろう。だがニーチエは、 バイブルがおこなうように二種の人間の区別の根底に同一の神を置 き人間の平等を語る思考こそ、無力で劣った普通の人間の思考の特 質だと言うのである。そして、人間のあいたには位階の差が存在す るという前提のもとに、その位階の差を肯定し享受する側の人間の 自己愛のうえに、新しい道徳を構築しようとしているのである。し かし、バイブルは、ニーチェの前提する位階の差にかかわりなく、 強い者であれ弱い者であれ誰であれ、そこに存在しているという事 実あるいは存在を贈られてそこにあるという生存の事実こそが万人 に共通の根源的な強さなのだと語り、そのような根源的な強さを無 償で付与し保持させる神への感謝と愛のうちに道徳の基盤を見る。 それゆえ、バイブルの知恵の立場からすれば、道徳の誕生について 語るニーチェは、道徳の基盤を究めずに道徳の基盤について語る者、 あるいはニーチェが同時代人を批判する際ツァラトゥストラに語ら せた言葉を用いるなら﹁自分の無知に背いて語る者﹂だということ になるのだろう。﹃ヨブ記﹄には、T﹂れは何者か。知識もないのに、 言葉を重ねて、神の経綸を暗くするとは﹂と記されている。ニーチェ は、位階の差を享受する人間の自己愛のさらにその基盤にまでさか のぼるバイブルの思想を虚偽、しかも人間を劣悪化する虚偽、ヨー ロッパ文明とその息吹を吐きかけられた大地を衰弱させ荒廃させる 危険な虚偽と見なしていた。しかし、彼のそのような解釈・攻撃に 少しもひるまずバイブルの知恵の導きにみずからの生活を全面的に 委ねようとする信仰の人冷かわずかとはいえ小さな群をなしておそ       一四 らく存在するのだ。彼らは、バイブルに記された次の呼びかけを聴 き入れ、この呼びかけに心を尽くし魂を尽くし力を尽くしこたえ応 じようとするにちがいない。﹁わが子よ、知恵を得て私の心を楽し ませよ。そうすれば、私を嘲る者に言葉を返すことができる﹂。 注  バイブルからの引用ならびにバイブルへの参照は、共同訳聖書実行委 員会、﹁聖書 新共同訳1旧約聖書続編つき﹂、日本聖書協会、一九八 七年、による。当該箇所は、バイブルを構成する各書のうちの当該の書 物の名称とその書物の章節を記し明示する。なお、引用・参照に際し。 いくつか表記︵仮名と漢字︶を改め、地の文との統一をはかっか。 ら   1 心 へ 2 心 ら3 心 ら4 心 ら5 心 ら6 心 へ 7 W 八   8 心 ら9 心 ら10 心 ら11 W ら12 心 ら13 W   ﹃ マ タ イ に よ る 福 音 書 ﹄ 二 二 の 四 ○ 。   ﹃ マ ル コ に よ る 福 音 書 ﹄   一 二 の 三 一 。   ﹃ ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ は こ の よ う に 語 っ た ﹄ の 略 称 。 以 下 、 ﹃ ツ ァ ラ ト ゥ ス ト ラ ﹄ の 引 用 ・ 参 照 は 、 K r o n e r s   T a s c h e n a u s e a b e   B a 乱 7 5 。   A l f r 乱 K r o n e r     V e r l a g 。     S t u t t g a r t 。   ご の じ   ︵ t ゴ 乱 r i c h     N i e t z s c h e .     A l s o     s o r a c h Z a r a t h u s t r a .   1 8 8 3 -1 8 8 5 ︶ を 用 い 、 こ の 書 物 の 頁 数 を 、 Z a r a t h u s t r a の 後 に 添 え て 当 該 箇 所 を 示 す 。   N a r a t h u s t r a 。   S .   6 4 -6 6 に 所 収 。   N a r a t h u s t r a 。   S .   6 4 に   N a r a t h u s t r a 。   S .   8 1 .   K r o n e r s   T a s c h e n a u s e a b e   B a n d   7 6 。   A l f r e d   K r o n e r   V e r l a e 。   S t u t t g a r t 。 ご 7 6   [ 以 下 、 円 づ 回 と 略 す ]   。   S .   2 0 2   ︵ ツ 右 d r i c h   N i e t z s c h e 。   J e n -s e i t s   V 呂 の 回 口 乱 回 留 詰 回 [ 以 下 、 夕 円 と 略 す ] 談 笑 I   呼 気 :   く 吼 ゜ N a r a t h u s t r a 。   S .   i ︶ − ↑ O ゛ 吊 ↑ 3 1 。   S .   2 9 5 .   N a r a t h u s t r a 。   S .   1 1 .   v g l .   Z a r a t h u s t r a 。   S .   1 卜 こ こ に 、 ﹁ も は や 自 己 白 身 を 9   蔑 す る こ と の で き な い も っ と も 軽 蔑 す べ き 人 間 の 時 が 来 る ﹂ 、 と あ る 。   N a r a t h u s t r a .   S .   1 1 .   i b i d :   N a r a t h u s t r a 。   S .   9 I ↑ O ’

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ら14 W ら15 W ら16 W ら17 W ら18 心 ら19 W ら20 心 ら21 心 ら22 心 ら23 心 へ24 W ら25 心 パ26

心  Zarathustra けない。﹄﹂ ︵yJ節目︷夕汐↑巳。 にされる十字架ではないのか? だが私の同情は、私を十字架にか の同情が何だと言うのだ! 同情とは、人間を愛する者がはりつけ ストラは次のように説教する。﹁あなたがたがこう言う時である。﹃私  同時代人の実践を無私なる愛からの実践と対比して、ツァラトゥ とる方便としての隣人愛。 隣人にわが身をこすりつける。温暖が必要だからだ﹂、とある。暖を  昌[N目弧目今F汐↑鰹ここに、﹁人はやはり隣人を愛している。 しようとしない人々だ﹂、とある。vd. auch Zarathustra乱・に・  必↑長目阻耳膏夕汐謡↑’ここに、﹁私か愛するのは、わが身を温存

。  S. 64-示’また、﹃善悪の彼岸﹄ 一四八節には次のよ うに記されでいる。﹁隣人を誘惑し、よい意見を抱かせ、その後で隣 人のこの意見を信じて帰依する。この手管にかけて女ともにおよぶ ものが誰かいるか?﹂︵円づぶ谷よご戸戸回泉□。  回[阿づ回し’呂︵戸戸温泉︶・そこでニーチェは、﹁キリスト教の すべての術語にたいして鈍感になってしまった近代の人間﹂に言及 している。しかし、鈍感なのは近代や現代の人間だけではない。イ エスの時代においても、隣人あるいは隣人愛という語の意味にたい する鈍感さが、律法の専門家たちのあいだにさえ広まっていたと推 測される︵﹃ルカによる福音書﹄ 一〇の二五−三七、に記された親切 なサマリア人の記事を参照せよ。  ﹃レビ記﹄ 一九の一八。なお、﹃レビ記﹄ 一九の三四、﹃申命記﹄ 一 ○の一九、を参照せよ。  ﹃マタイによる福音書﹄二二の三七上二九。なお、﹃マルコによる 福音書﹄ コーの二九上二I、﹃ルカによる福音書﹄ 一〇の二七、を参 照せよ。  ﹃ローマの信徒への手紙﹄ 一三の八−一〇。  ﹃マタイによる福音書﹄ 一九の一九、﹃ガラテヤの信徒への手紙﹄ 五の一四、﹃ヤコブの手紙﹄二の八、等を参照せよ。  ﹃エフェソの信徒への手紙﹄五の二八。  ﹃ヤコブの手紙﹄二の九。  ﹃マタイによる福音書﹄七のコー。  vgl. Kroners Taschenausgabe Ba乱77 。  Alfred Kronerくerlag 。  SEF 回ユ]呂弁汐に呂−に器﹁回﹂乱rich Nietzsche. Der Antichrist温回︶・参 八27 心 ぺ28 W .へ 29 心 ら30 W 八31 心 ら32 W 彼らにキリスト者であることをやめよと言う。﹁今日キリスト者であ の人間にキ叶スト者らしく生活することを勧めるが、ニーチェは、 だが、そのかかわり方に差か1 る。バイブルなら、このような近代 奇形児にたいして、ニーチェもバイブルもともに批判的にかかかる。 形児であることかと言わざるを得ないであろう!﹂。このいんちきな リスト者と称して恥じない。近代の人間とは何といういんちきな奇 キリスト教的である。にもかかわらず、近代の人間は依然としてキ すべての本能、現に実行されるすべての価値評価加、ことごとく反 のことをではないか。⋮⋮八﹁日では、すべての瞬間のすべての実践、 すること、人が自分の利益を欲すること、人が高慢であること、そ そのことをではないか。人が自衛すること、人が自分の名誉に固執 人が兵士であること、人が裁判官であること、人が愛国1 であること、 は誰を否定するのであろうか? 何を︿世俗﹀と呼んでいるのか? 照箇所でニーチェは、次のように述べている。﹁そもそもキリスト教 る と い 吐がはじまる﹂とニーチェは言う。  ﹃創世記﹄ 一の三コまた、﹃テモテヘの手紙 二四の四、を参 照せよ。  ﹃創世記﹄三のII六、を参照せよ。また、﹃ヨハネの黙示録﹄ 一 二の九、二〇の二、も参照せよ。  ﹃詩編﹄ 一九のニー五。  ﹃ローマの信徒への手紙﹄ 一の二〇。さらに、外典﹃知恵の書﹄ 一 三のI、四−五、を参照せよ。ここに、﹁神を知らない人々はみな、 生来むなしい。彼らは目に見えるまいものを通して、存在そのもの である方を知ることができず、作品を前にしても作者を知るに至ら なかった。⋮⋮もし宇宙の力と働きに心を打たれたなら、天地を造 られた方がどれほど力強い方であるか、それらを通して知るべきだっ たのだ。造られたものの偉大さと美しさから推し測り、それらを造っ た方を認めるはずなのだから﹂、とある。  ﹃創世記﹄ 一の二六−二七、五の二﹃ヤコブの手紙﹄三の九。また、  ﹃使徒言行録﹄ 一七の二九、﹃コリントの信徒への手紙 二 一一の 七、も参照せよ。  贈り物とはいえ、自己自身の全体が神からの贈り物であるのだか ら、根本的に言うなら、すでに受け手が存在しているところに贈ら つことは恥知らずであるということだ。そしてここに私の嘔 一 五

(17)

心 匹 北 岡   れてくる贈り物ではなく、受け手のない贈り物、あるいはそれ自身   が受け手である贈り物だということになる。 ︵33︶ ﹃コリントの信徒への手紙 こ 一〇の三一、を参照せよ。ここに、   ﹁あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべ   て神の栄光をあらわすためにしなさい﹂、と記されている。また、﹃マ   タイによる福音書﹄五の一六、等も参照せよ。 ︵34︶ ﹃コリントの信徒への手紙 二 一三の四−七。 ︵35︶ ﹃エフ9 いの信徒への手紙﹄五の二九。 ソーマ ︵36︶ ﹁わが身﹂ への愛、あるいは﹁自分の体﹂への愛とは、自己の   全体にたいする愛を意味する。ゼム人によれば、サルクスもソーマも、   一個の人間全体を表現するものであり、ともに尊重すべきものであ   る。﹃聖書思想事典 く〇のyココrと留り巾吋コ町OrOの圃日甲石応こ、   三省堂、一九七三年、二二六百八︵﹁体﹂の項︶、﹃旧約新約聖書大事典﹄、   教文館、一九八九年、三三〇頁︵﹁体﹂の項︶、を参照せよ。なお、 先の引用箇所−注︵23︶ 八37 心 へ38 心 ら39 心 ら40 心 へ41 心 ら42 心 八43 心 を参照せよ。 ﹃ローマの信徒への手紙﹄ 一一の三三、を参照せよ。 Narathustra。 S. 1841↑COに所収。 Narathustra。 S. 189-190. Narathustra。 S. 213-2↑︷ 先の引用箇所 注︵5︶−を参照せよ。   v g l .   K r o n e r s   T a s c h e n a u s g a b e   B a n d   7 弁 A l f r e d   K r o n e r   V e r l a g 。   S 笞 t t -g a r t 。   1 9 6 5 。   S .   1 8 7 1 品 ∝ ︵ F r i e d r i c h   N i e t z s c h e 。   D i e   f r o h l i c h e   W i s s e n s -c h a f t ︵ レ 回 罵 且 の 罵 ≒ ︶ 二 器 ド 留 回 ︶ ・ こ こ に 記 さ れ た ﹁ 断 念 の 人 ︵ M e n s c h   d e r   b n t s a g u n g ︶ ﹂ と は ニ ー チ ェ 自 身 の こ と で あ る 。   K r o n e r s   T a s c h e n a u s g a b e   B a n d   7 弁 A l f r e d   K r o n e r   V e r l a g 。   S t u t t g a 芦 ご ︵ 月 卿   言 ︵ ︶ − ズ ↑   ︵ 万 l e d r i c h   W i e t z s c h e 。   D i e   f r o h l i c h e   W i s s e n s c h a f t ︵ 。 l a   g a y a   s c i e n z a   ︶ 。   1 8 8 2 。   § 1 2 5 ︶ 。 ︵嬰︶ 回斤 ︵45︶ ﹃コリントの信徒への手紙 こ 八46 心 ら47 W ら48 心 六の一六。なお、﹃出エジプト記﹄ 二九の四五、﹃レビ記﹄二六の一一−一二、﹃エゼキエル書﹄三七の 二六−二八、﹃ヨハネによる福音書﹄二の一九−二I、等を参照せよ。  Narathustra. S. 213.  Narathustra。 S. 65.  ﹃ローマの信徒への手紙﹄ 一三のI。 ぺ49 ら50 ぺ51 ら52 ら53 一 _ _ l . ノ \ ︶   ﹃ ヤ コ ブ の 手 紙 ﹄ 四 の I 〇 、 ﹃ づ ア ロ の 手 紙   二 五 の 五 − 六 、 等   を 参 照 せ よ 。 ﹄     K r o n e r s   T a s c h e n a u s e a b e   B a n d   7 7 。   A l f r e d   K r o n e r く の ユ a g 。   S t u t t g a r t 。   1 9 6 4 。   S .   8 5 ︵ t ゴ 乱 r i c h   N i e t z s c h e 。   G 0   に e n ︱ D a m m e r u n g 。   1 8 8 9 。   S p r i i c h e   u n d   I ︶ 回 y 留 ︲ ︶   ﹃ ロ ー マ の 信 徒 へ の 手 紙 ﹄   一 三 の I 、 七 。 ︶       N a r a t h u s t r a 。   S .   2 8 . ︶   ﹃ ヤ コ ブ の 手 紙 ﹄ 四 の 四 。 ま た 、 ﹃ ガ ラ テ ヤ の 信 徒 へ の 手 紙 ﹄   一 の ら54 心 ら55 心 ぺ56 心 ぺ57 心 ら58 心 八59 W 一 〇 、 ﹃ ヨ ハ ネ の 手 紙   二 二 の 一 五 、 等 も 参 照 せ よ 。   ﹃ ヨ ハ ネ の 手 紙   二 五 の 三 、 を 参 照 せ よ 。   N a r a t h u s t r a 。   S .   2 8 .   ﹃ ロ ー マ の 信 徒 へ の 手 紙 ﹄   一 三 の 一 一 。   N a r a t h u s t r a 。   S .   2 2 5 .   Z a r a t h u s t r a 。   S .   6 2 -6 3 . こ こ で ニ ー チ ェ は 、 M e n s c h ︱ S c h a t z e n I S c h a f f e n の 語 呂 を 楽 し ん で い る よ う だ 。 な お 、 図 ・ 回 呂 と い う 語 の 起 源 に 関 す る ニ ー チ ェ の 独 特 の 考 察 が 、 回 o n e r s   T a s c h e n a u s g a b e   B a 乱 7 2 。     A l f r e d     K r o n e r   く の 器 品 。     S t u t 寂 叫 号   ↑ 娘 り ジ   N w e i t e r     B a n d 。     S .       1 8 2 ︷ ︸ ゴ 乱 r i c h     N i e t z s c h e 。     M e n s c h l i c h e s     A l l z u m e n s c h l i c h e s 。       1 8 7 8 -1 8 8 0 。 Zw唱er Band。 Z万活か即亀目呻回↑︶に記されている。﹁測る者とし ての人間︵Der Mensch als der Messende︶﹂という標題の付されたそ の節で、ニーチェは、ぶ・示回という語は﹁測る者︵der Messende︶﹂ に由来すると述べ、さらに人間のもつすべての道徳性は、人間が﹁尺 度と測ること︵das Mali und das Messen︶﹂を発見した際に感じた興 奮に由来すると主張している。同様の考察が、阿が余長乱呂1301 ︵Friedrich Nietzsche 。 Nur Genealogie der Moral 。  1887 ︻以下、戸戸 と略す︼長万万y孚回忌器呻留︶にも記されている。人問は自己を﹁諸 価値を測る存在︵das Wesen 。 welches Werte niiBt︶﹂、﹁評価する動物 ︵das abschatzende Ti旦︶として捉之るからこそ、Menschと自称す るのだとニーチェは述べている。  vgl. Kroners Taschenausgabe Band 7弁とired iironer Verlag谷EF 回芦ご65 。  S. 181-182 ︵Friedrich Nietzsche 。 回のfrohliche Wissens-chafニ壮回罵乙自回ざ詰回謳回づ本節でニーチェは、﹁人格的摂 理﹂の思想の﹁威力﹂と﹁危険な誘惑﹂に言及しつつ、その思想を しりぞけようとしている。

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