(特集記事)ラウンド・テーブル・トーク報告 教科学習再検討の契機として 河野智文(兵庫教育大学言語系教育講座) 要旨 ①総合的学習で必要なのは、その場に応じて必要な知識・技能を総合化する力である。 教科学習では そのソース(源泉)となる知識・技能を身につけさせることができる。 ②教科学習は総合的学習の準備や練習ではないし、総合的学習は教科学習の応用でもない。 両者をこ うした関係でとらえようとすると、教科学習は魅力を失う。 ③総合的学習の提唱が教科学習批判の文脈にあることを受けとめ、教科学習自体の変革の契機としな ければならない。 ④テーマや領域が総合的なものであるだけでなく、そこで展開される学習活動が、多様な思考、認識 活動の総合でなければならない。 表現や思考を総合化のよりどころとする学習展開に期待する。 はじめに 学習指導要領案の提示をはじめとして、丁総合的な学 習の時間」についての情報はおびただしい量になり、先 駆的・試行的な実践とその報告も多くみられるようになっ たO本来なら、ラウンド・テーブル・トークが催された 7月2日以来の動向をふまえながらまとめなおすべきで あろうが、本稿は当日の報告の段階にとどまってしまっ てい*'*>一蝣 当E]のラウンド・テーブル・トークで稿者に与えられ た役割は、教科教育の立場から発言せよ、ということで あったので、本稿は「総合的な学習の時間」を必ずしも 総合的にとらえたことにはなっていない。 はじめにおこ とわり申し上げる。 1総合的学習と教科学習との接点 -「総合」的な力は分節化1)できるか 教育課程審議会「教育課程の基準の改善の基本方向に ついて(中間まとめ)」(以下「中間まとめ」とする) では、「各教科、道徳、特別活動それぞれで身に付けら れる知識や技能を児童生徒の中で総合化することをねら いとする」とあり、各教科で. いわば分節的に習得された 知識や技能が「総合的な学習の時間」で「総合化」され る、としている。いっぽうで「総合的な学習の時間」の 課題としては、あくまでも例ではあるが、「国際理解・ 外国語会話、情報、環境、福祉などの横断的・総合的課 題」が示され、さらに「教科の枠にとらわれた指導にな らないようにするため、教科ではなく教科以外の教育活 動として各学年に位置付けることが適当である」と述べ られている。つまり、課題そのものは教科には分節化で きないのである。 「総合的な学習の時間」からいったん離れて、教科以 外の教育活動と、して教育課程に位置づく総合的学習で必 要となる学習者の「(学)力」について、「やや極端では あるが∴以下のような二つの立場を想定してみたい。 (∋総合的学習で必要な力は「総合的な力」であり、分 節化することはできない。 したがって「総合的な力」 は総合的学習でしか育てることはできない0 ②総合的学習で必要な「総合的な力」は、分節化され た個々の臭扇哉・技能の総和、もしくはそれ以上である。 したがって、「総合的な力」を構成する要素となる 「分節化された力」は「分節的学習」でも育てること が可能である。 ①のよ. うな立場をとれば、教科学習が総合的学習に関 与することは絶望である。 ことば遊びをするわけではな いが、「生きる力は生きることによってしか育てえない」 ということになってしまう。 これでは教科学習のみなら ず、組織的、計画的な教育を行う学校そのものの役割が 否定されることにもなろう`。 これでは議論も不可能であ るし、なによりも極端すぎると思われるので、この立場 はとらない。 そこで、②の立場から総合的学習について考えてみた い。学校で、それも教科学習で習得した知識や技能はそ のままのかたちでは生活には使えない。 いったん獲得さ れた知識や技能は、場面や目的に応じて、選択・再構成 され、変形されて、適用されなければ適切には機能しな い。この必要に応じて知識弓支能を適用する能力を「総 合化する力」、適用される力そのものを「総合的な力」 と考えたい。
-12-これまでの教育課程の多くの場合には、このような 「総合化する力」を学習者に要求する場面は用意されて いなかったとみることができる。 「総合化する力」が必 要となるのは、当該教科以外の教科学習であったり、学 級活動や特別活動であったり、家庭や地域社会での活動・ 遊びであり、さらにまた卒業後の実社会であったのでは なかろうか。つまり、これまで「総合化する力」は多く の場合、「教えられる」ものではなく、必要に迫られて 獲得、あるいは構成されていくものであったといえよう。 「学校で学んだことなど、社会に出たらちっとも役に立 たない」という発言は、「私には『総合化する力』がな い」という告白と同義だととらえることは、教科学習へ の弁護が過ぎるだろうか。 教科学習で学んだ知識や技能が、実生活で役に立たな いということは、そこで教える知識や技能の内実を問い 直すことを当然ながら要求しているが、上で述べたよう に、役に立てるための方法について、つまり今学習して いることと将来必要となる知識や技能との関連について 意識させるための、十分な配慮をしてこなかったという ことも意味している。「中間まとめ」の表現に帰れば、 「情報の集め方、調べ方、まとめ方、報告や発表・討論 の仕方などの学び方やものの考え方の習得を重視」する ことは、「内容」だけではなく「方法」を教えよ、と述 べているだけではなく、既有知識・技能を選択して呼び 出し、再構成して適用するという「総合化する力」を育 てることを視野に入れよ、と主張しているように思える。 「総合化する力」の育成をねらう総合的学習に対して 教科学習は、学習者が「総合化」を迫られたときに呼び 出すことのできる、「分節化された知識・技能」を育成 していくことで、総合的学習との接点をもつことができ ると考えたい。 2総合的学習と教科学習との関係 総合的学習での「総合化」の過程において呼び出され る「分節化された知識・技能」は、必ずしも教科学習に よって習得されたもののみに限らず、生活のあらゆる場 面からのものになるだろうが、ここでは教科学習に絞っ て考えてみたい。 これまでの整理にあらかじめ確認として付け加えてお きたいことは、総合的学習と教科学習との接点を前述の ようにとらえたからといって、教科学習が総合的学習の 前段階、準備段階という位置にあることは意味しないと いうことである。ましてや、「教育内容の厳選」によっ て抽出される「基礎・基本」がこのような、総合的学習 を前提とした「分節的」(分析的・要素的)な学力や教 育内容であってはならない。 あくまでも教科学習と総合 的学習との接点は、両者にとって一部でしかないという ことである。 そこで国語科の場合を想定しながら、総合的学習に接 する教科学習と、教科独自の学習とについて考えてみた い。 3総合的学習につながる「分節化された知識・技能」 先ほども引用工たように、「中間まとめ」のイメージ する「総合的な学習の時間」では、「学び方やものの考 え方の習得」が「重視」される。 「話し合い」を例に考 えてみたい。 ある国語教育のシンポジウムで、次のような提言がな さイ1>-I. _1音声言語・音声言語活動そのものの指導(A) と、音声言語活動による学習活動(B)との区別と 関連を考えたい。 例えば、「話し合い」の仕方を学習するのと「話 し合い」によって学習するのとでは、指導の重点も 指導の方法も異なる。 前者は「話し合い」が学習の 目的・内容であり、後者は「話し合い」が学習の方 法・手段である。 両者を混同すると、指導の重点が ぼやけてしまい、何を学習したのかわからないよう な結果になってしまう。 「話し合い」の仕方を学習 させないまま「話し合い」の活動をさせてはいない か。 逆に、せっかく「話し合い」の仕方を学習させ たのに、その後の学習活動で「話し合い」をさせて いないということはないか。 学級会での「話し合い」 に生かされているか。 目的・内容としての「話し合 い」の学習は、方法・手段として他の学習や活動に 生かされなければならないし、方法・手段としての 「話し合い」で発見された「話し合い」の問題点は、 目的・内容としての「話し合い」の学習で取り上げ られなければならない。 2' 教科学習で話し合いの「仕方」を教え、総合的学習で 話し合い活動による学習を組織する、それで上手に分担 しているように思えるが、そう単純にはいかない。 続き を引用してみる。 2音声言語活動の仕方も、音声言語活動を通して 学習される。 音声言語活動の仕方を「知識」として学ぶだけで は音声言語活動の力は育たない。 実際の音声言語活 動を通してこそ、その力は育つ。 (中略-河野) 「話し合い」の仕方を学習させる場合、込み入った 話し合いにならない問題を取り上げた方がよい結果 を生むようである。 特に、「話し合い」の初歩的な 学習の場合は、短時間で結論もだせる話題が適当な ようであるC「話し合ってよかった」という経験を させるのでなければ、「話し合おう」という心を育 てることはできない. 1) 。
-13-教科学習で「方mをスキル的、ハウトゥー式に教え、 それにテーマを与えて総合的学習で実践、応用させる、 このような流れは-見合理的に思えるが、この指摘をふ まえれば決してそうではないことがわかる。 話し合いの仕方を教えるには、話し合いたくなるよう な、しかも話し合うことによって「仕方」をも身につけ ることができるような話題が必要である。 「調べ方」を 教えようと思えば、学習者が調べたくなる、調べないと 気が済まないような問題を準備しなければならないOテー マや題材への配慮を欠いたまま、ただ方法的な技能を教 えようとする授業のなんと無味乾燥なことか、国語科の 授業における「言語技能」の学習指導が抱えてきた課題 の中心はここにあったといってもよい。 その意味で、国 語教師は言語技能を身につける過程において、また身に つけた言語能力が必要とされるような「実の場」づくり を常に心がけてきた。 つまり、従来の国語科授業では 「総合化」する段階まで、-単元のなかで引き受けよう としてきたのである。 このような指導理念、指導方法の 代表的なものが「国語単元学習」である。 国語単元学習 についてこれ以上ふれることができないのは残念だが、 国語科以外の諸教科にも、同様の問題意識に基づいたす ぐれた実践があると思う。 このように考えてみると、教科学習にとって総合的学 習は、各教科の枠内で「総合化」を必要とする実践的、 実際的な学習場面、学習活動を用意しなければならない という、一種の「強迫観念」から実践者を解放してくれ ることになりそうである。 それは、総合的学習が教科学 習にもたらす「可能性」のひとつとなろう。 教科で教え ていることを以後の学習や卒業後の学習者の生活と関連 づけることを省いて展開されていた授業にとっては、再 検討を迫られるきっかけとなるかもしれない。 ただし、 繰り返すが、総合的学習への展開を動かせない前提とし て教科学習を組織しようとすれば、自らの知識、技能を 総動員し、かつ補いながら課題を解決した成就感、達成 感を学習者に経験させるという場面は、総合的学習にす べてもっていかれる、ということになってしまうかもし SlaXぎ 4教科学習はどう変わるべきか 総合的学習に接しない教科学習とはどのようなものが 想定できるか、考えてみたい。「学校で学んだことなど、 社会に出たらちっとも役に立たない」という批判につい て、さきほどはやや強引な解釈をほどこしたが、この批 判は、学校では社会に出て役に立つ、使えるような知識 や技能を与えていくべきだ、という考えに基づいている と思える。しかも、その知識、技能は一切加工すること なしに、そのまま適用できる、という性質のものを指し ているようにも思える。 ここでは別の視点から考えてみ たい。このことを考えるうえで、稿者にとって示唆的だっ たのが、以下に引用する小説の一場面であるO 「ねえツタナベ君、英語の仮定法現在と仮定法過去 の違いをきちんと説明できる?」と突然僕に質問し >. 「できると思うよ」と僕は言った。 「ちょっと訊きたいんだけれど、そういうのが日常 生活の中で何かの役に立ってる?」 「日常生活の中で何かの役に立つということはあま りないね」と僕は言った。 「でも具体的に何かの役 に立つというよりは、そういうのは物事をより系統 的に捉えるための訓練になるんだと僕は思ってるけ れど」 緑はしばらくそれについて真剣な顔つきで考えこ んでいた。 「あなたって偉いのね」と彼女は言った。 「私これまでそんなこと思いつきもしなかったわ。 仮定法だの微分だの化学記号だの、そんなもの何の 役にも立つもんですかとしか考えなかったわ。 だか らずっと無視してやってきたの、そういうややっこ しいの。 私の生き方は間違っていたのかしら?」 「無視してやってきた?」 「ええそうよ。 そういうの、ないものとしてやって きたの。 私、サイン、コサインだって全然わかって ないのよ」 「それでまあよく高校を出て大学に入れたもんだよ ね」と僕はあきれて言った。 「あなた馬鹿ねえ」と緑は言った。 「知らないの? 勘さえ良きゃ何も知らなくても大学の試験なんて受 かっちゃうのよ。 私すごく勘がいいのよ。 次の三つ のうちから正しいものを選べなんてパッとわかっちゃ うもの」 「僕は君ほど勘が良くないから、ある程度系統的な ものの考え方を身につける必要があるんだ。 鴇が木 のほらにガラスを貯めるみたいに」 「そういうのが何か役に立つのかしら?」 「どうかな」と僕は言った。 「まあある種のことは やりやすくなるだろうね」 「たとえばどんなことが?」 「形而上的思考、数力国語の習得、たとえばね」 「それが何かの役に立つのかしら?」 「それはその人次第だね。 役に立つ人もいるし、立 たない人もいる。 でもそういうのはあくまで訓練な んであって役に立つ立たないはその次の問題なんだ よ。 最初にも言ったように」 「ふうん」と緑は感心したように言って、僕の手を 引いて坂道を下りつづけた。 4) 教科学習が学習者に身につけさせるのは諸科学の成果 に基づく知識や、定型化された技能だけではない。 そう
-14-した成果に到達すBjまでの思考の道筋や認識の枠組みに 間接的にでもふれさせることが重要だと考える。 教科学 習に対する「知識中心」「詰め込み主義」という批判は、 一面的ではあるが全くの的外れであ るというわけではな い。これらの批判を克服するためには、できあがった成 果としての知識ではなく、その成果を導くための思考・ 探求の「過程」を、学習者自身にたどらせ、構成させる ことがひとつの示唆を与えてくれるように思われる。 そ の意味では、教科学習においても、教科固有の学問成果 を、学習者に追体験可能な「問い」として再構成し、そ の追究の過程として学習を組織することで、「自ら学び 自ら考える力」を学習者に保障することができるだろう。 5「総合」するのは誰か 「中間まとめ」には、その課題として「国際理解・外 国語会話、情報、環境、福祉など」が挙げられている。 従来の区分では複数の教科にまたがってしまうようなも ので、まさに「総合」的な課題といえる。 例えば、国語 科の説明的な教材では国際理解や環境などの問題が取り 上げられることが多いが、授業者はそうした内容的側面 にどれだけ踏み込めばいいのか、どのあたりで止めてお けば「これは国語ではなく、社会科の授業だ」と言われ ずにすむのか、苦心してきた。 このような教科の枠があ ることによる負の気遣いや配慮が無用になる点で、複数 教科にまたがる学習領域を整理できるという点以上に、 総合的学習がもつ可能性に期待している。 (ただし、例 とはいえ学習課親が多くは社会状況に規定される必要性 という点から発想されていることには危快を感じている が、論点が逸れるので省く) しかし、課題は確かに総合的なものだが、それが教え る側によって設定されたものであれば、学習者にとって は、与えられた教材を学習することと大差がない。 つま り、このような領域を観点にした総合化だけではなく、 学習者の、いわば「学び」を観点にした総合的学習が組 織されることに期待したい。 学習者の「学び」を観点にするということは、学習者 が総体としてのひとりの人間として、自らの全存在をか けて、活動を展開するということである。 国語科の立場 からの発言になってしまうが、その具体化の視点として 「表現」と「思考」を挙げたい。 表現することが表現者の全人的な行為であることはも ちろんのことであるが、思考も同様である。 ある問題に ついて、たとえば矛盾を止揚すべく眉間にしわを寄せて いるとき、表面的にはじっと目を閉じているように見え ても、内面では目まぐるしい思考活動が展開されている。 そこでは既有の知識や、認識の方法が参照され、変形さ れて当座の間蓮解決に通用される。 ある文学作品が問い かける矛盾に答えるような思考を展開する読みの授業で は、学習者は外見的には椅子に縛り付けられて、教科書 や黒板を眺めているに過ぎないかもしれないが(活発な 意見交換がなされていることが望ましいが)、教師が準 備した「動き」をただ次々とこなしていく飛んだり跳ね たりの授業展開より・はどんなにか総合的ではなかろうか。 課題や領域の観点からの総合化だけではなく、実質と しての学びの観点から組織された総合的学習の実践に期 待したい。 おわりに 教科学習それ自体は自己変革することなく、「総合的 な学習の時間」の創設によって「知識を-方的に教え込 むことになりがちであった」という批判をかわそうとす ることや、「中間まとめ」に示された「基本的考え方」 のひとつである「教育内容の厳選と基礎・基本の徹底」 において「厳選された基礎的・基本的内容については、 子どもたちの今後の学習を支障なく進めるために繰り返 し粘り強く学習させるなどして、確実に習得させるよう にしなければならない」という見解に支えられて、学習 者の関心や意欲への配慮を欠いた詰め込み型の授業が続 くこと、これらは悲観的に過ぎるのかもしれないが、あっ てはならないことである。 (総合的な学習の時間に費や す時間と労力が、結果として教科学習へのしわ寄せとな ることは十分に考えられることである) 従来の教科学習に対する否定的なトーンが「総合的な 学習の時間」の足下にうかがえて、これを教科の立場か ら考えるにあたって、必ずしも前向きの可能性を論ずる ことができなかったが、これまで積み重ねられてきた総 合的学習に類する実践的追究の成果や、「中間まとめ」 に示された「総合的な学習の時間」の主張には、敬意と 期待をもっていることを最後に確認しておきたい。 当面は教育課程の中心にありつづけるであろう教科学 習が変わるきっかけとして、また、主として中学校以上 の各教科担任の教師が「横断」する契機としての、「総 合的な学習の時間」創設によりもたらされる「可能性」 にも注目したい。 注 l)「総合」の対義語は「分析」であるが、ここでは、 「心理学. で、思考・行動のなかで、全体との関連をも ちながらも一応取り出して考察の対象とすることので きる構成部分をいう」(日本国語大辞典)という語義 によるものとする。 2)大槻和夫「音声言語指導への若干の提案」第23回日 本国語教育学会西日本(関西)集会シンポジウム提案 資料1998.6.13 3)2)に同じ 4)村上春樹Fノルウェイの森』下55-56ページ 1987講i&ft