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帝国書院 | 高校の先生のページ 高等学校 世界史のしおり 2007年 1月号

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Academic year: 2018

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経済紛争を解決するイスラーム法

 イスラームは時代とともに姿を変えながら、世 界の各地に広がった。12世紀頃から、スーフィー 教団と呼ばれる組織が大きな姿を現すようになっ た。いわゆる神秘主義教団のことである。それ以 前は、イスラーム法学や神学の整備が急務であっ た時代で、戒律や規則の体系としてのイスラーム が確立されたから、その次の時代に急速に出現し た神秘主義は、そこから逸脱したかのようにも見 える。そのため、神秘主義がどこに由来するのか、 という議論もなされてきた。今回は、この転換期 について考えてみたい。

 7世紀のアラビア半島に成立したイスラームで は、開祖であるムハンマドの存在が非常に重い。 何よりもまず、ムハンマドがもたらしたクルアー ンが神の啓示として唯一の聖典となっている。さ らに、ムハンマド自身の事蹟も「スンナ(慣行)」 と呼ばれて、信徒が従うべき規範となった。イス ラームを「ムハンマドがもたらした聖典に従い、 彼の人生モデルに習う教え」と定義できる。  しかし、モデルとしてのムハンマドには多様な 側面がある。夜通し礼拝をして脚がむくんだ、と いうような敬虔の面がある一方、商業によって身 を立てていたことも事実であるし、預言者と名乗 ってからも俗事を捨てたわけではなく、家庭生活 をやめることもなかった。おそらく、聖と俗のバ ランスのなかにムハンマド的な特徴があるのであ ろう。彼自身、過度の敬虔に流れることを戒めて、 「アッラーにかけて、私は汝らの中でもっともア

ッラーを畏れ、篤信なる者である。しかし、私は 断食もすれば断食明けの食事を摂るし、礼拝もす れば睡眠もとり、妻たちと結婚している。(独身

主義や苦行に走って)わがスンナを避ける者は、 われに従う者ではない」といったと伝えられる。  しかし、バランスは逆の方向、つまり現世的な 方向にも崩れうる。8世紀に成立したアッバース 朝のもと、広大な世界貿易ネットワークが構築さ れ、イスラーム世界は大きな富と力を手にした。 帝国の繁栄によって、富裕な社会生活や奢侈的な 人生態度も生まれた。イスラーム法の整備は、そ れを規制する側面を持っていた。

 一般論としていえば、イスラームは人間の本能 や欲望を肯定する。神が人間をそのように創造し た以上、食欲があり性欲があり、種々の欲望はそ れ自体としては自然である。そこで大事なことは、 生活をイスラーム法によって制御することである とする。たとえば、食欲を満たすことはよいこと であるが、食べ物が神の恵みであることを認め、 例外として禁じられているものは食べてはならな い(豚肉のように)。性欲を満たすことは大いに けっこうであるが、結婚契約を結んでいる男女の 間だけに限られる、とする。

 守るべきルール、規則が何であるか、それを明 示するためにイスラーム法学が8〜10世紀の間に 整備された。ムハンマド時代からイスラームの法 として「シャリーア」という考え方は確固として あった。シャリーアとは、もともと「水場へ至る 道」を意味する。乾燥地帯では水場に至る道を歩 まなければ、生命を失うことはいうまでもない。 シャリーアには「人の生きる必然的な道」という ニュアンスがある。

 しかし、その具体的内容は、聖典クルアーンの 中に条文のように書かれているわけではない。た とえば、クルアーンではブドウ酒が禁じられたが、 イスラーム帝国の版図が広がると、各地でブドウ

京都大学アジア・アフリカ地域研究研究科教授 小 杉 泰

連載:イスラームはどう変わってきたか? ムハンマドからホメイニまで

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− − − − 以外を原料とする酒に出会うことになった。クル アーンを字義的に限定的に理解するならば、それ らの酒は禁じられていない。しかし法学者たちは、 酩酊作用を共通要素として、禁止の規定が酔いを もたらす飲料すべてにあてはまる、と解釈した。  法学者たちは、聖典クルアーンとムハンマドの 慣行の中から、しかるべき内容を探し、新しい事 態に適用させる努力を続けた。時の経過とともに、 このような解釈の具体例が蓄積し、解釈の方法論 も確立した。「法学者」という専門家集団もでき あがり、イスラーム法学ができあがったのである。 この過程は10世紀頃には、一応の完成を見た。  このようにして、大征服によって成立したイス ラーム世界で、イスラーム法によって運営される 社会が成立した。イスラーム法の確立は、過剰な 奢侈を戒めるとともに、いわば、「法にのっとっ ていれば、おおいに現世を享受してよい」という 生活態度をも生み出した。礼拝が終わったら市場 に戻り商売をしてどんどん儲ける暮らし、をイメ ージすることができる。

修行機会と同胞意識を提供するスーフィズム

 これに飽き足らない人びともいた。より倫理的 な暮らし、純粋に精神的な満足を求める人びとで ある。「スーフィー」という言葉は、「スーフ(羊 毛)」を語源とするといわれる。「粗末な羊毛の衣 服を着て、修行に励んだ人」が、転じてスーフィ ーと呼ばれるようになったという。それが発展し て、現世の奢侈、享楽を避けて、より純粋な宗教 的価値の追求を行う個々人が、やがて組織化され てスーフィー教団となる。

 ここで、羊毛の衣服は粗末か、という点に注記 したい。日本人の感覚では、羊毛は暖かく、十分 立派なものに見える。しかし、牧畜を生業とする 地域ではそうとはいえない。イスラーム暦の12月 (巡礼月)には犠牲祭があり、一家の主人は羊を ほふることになっている。その肉は、3分の1を 自分たちで取り、残りは貧者などに施す。そのた め、どんなに貧しい人でも、このときだけは肉の 食事にありつける。羊の皮も、衣服や敷物にする

ため施されることが多い。粗末な羊毛の衣服とは、 そのような貧者に施された羊の皮のことであろう。  羊皮の服を着た人びとは、物欲を抑え礼拝をし たり神の名を唱えて暮らしていたようで、8世紀 から9世紀にはそのような禁欲主義の人びとが各 地で現れた。世を捨てるような生活態度のゆえに、 キリスト教の修道院さらには仏教の影響があるの ではないかとする説もある。実際、南アジアでは 仏教との接触もあったであろう。しかし、現世の 暮らしを批判的にとらえる立場は、もともとクル アーンの章句にも明確に示されている。クルアー ンには「彼らは現世の暮らしを好んでいるが、来 世こそ、よりよく永続的である」「現世の暮らしは、 迷妄の糧である」というような表現が数多い。  別な説ではスーフィーの語源は「スッファ(回 廊)」とされる。これは、マディーナの預言者モ スクの一角に設けられていた回廊をさしている。 そこは住居さえも持たない貧しい信徒を保護する ために使われていた。土地も家畜も持たない彼ら は、モスクの一角に住んでいるだけに、イスラー ムを学び信仰儀礼を行うことに精を出した。それ が、のちの修行者たちの原型であり、スッファの 名がスーフィーの語を生んだという。

 ちなみに、「スーフィー」に主義や思潮をさす「イ ズム」をつけて「スーフィズム」としたのは、近 代の西欧での造語である。スーフィー教団が12世 紀に登場する以前は特定の名称がないので、思潮 としてのスーフィズムという表現は便利であろう。 思潮としてのスーフィズムは9世紀にはっきりと した姿を現した。しかし当時は、法学的なイスラ ームの確立期であり、修行者たちの実践は行き過 ぎと思われていた。たとえ初期イスラームに起源 があるにしても、いささかバランスを欠いている のではないか、という疑問や批判が寄せられた。 初期のスーフィズムは、正統な教義の一部とはま だ認知されていなかった。

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− − − − この転換に貢献したのは、2人の偉大な思想家で

あった。一人は、アブー =ハーミド=ガザーリーで、 この人の没年は西暦1111年なので覚えやすい。も う一人は、史上初のスーフィー教団を生み出した ジーラーニー(1166年没)である。

 二人とも、帝都バグダードで活躍した。ガザー リーは、当時の正統なイスラーム学の牙城であっ たニザーミーヤ学院の正教授となって、法学者と しても、神学者としても高名をはせた。哲学や論 理学にも通暁し、その著作は後に西欧でも訳され、 大きな影響を与えた。ラテン語ではアルガゼルの 名で知られる。しかし、ガザーリーは精緻な学問 を修めながらもそれに飽きたらず、内面の信仰を 追求するため、職をなげうって放浪・修行の旅に 出た。要するにスーフィーの道を歩んだのである。  後に悟りを開いたガザーリーは、法学や神学と スーフィズムが調和したイスラームを説いた。彼 のような確立された大学者が、スーフィーの道が イスラームの教えと合致していることを説いたた め、スーフィズムは正統な教えの一部となった。  他方、ジーラーニーは、彼の名「アブドゥルカ ーディル」から後に「カーディリー教団」と呼ば れる組織を創始した。すでにスーフィズムは思想 的にも熟成してきていたから、時代はその教えを 体系的に伝達する仕組みを必要としていた。それ を成し遂げたジーラーニーの功績は大きい。彼以 降、数々の教団が誕生し、イスラーム世界の各地 に広がることになった。カーディリー教団は、今 日でも最大規模の教団の一つとなっている。  教団の広がりは、初期の征服地を越えて、東ア フリカ、東南アジア、中央アジア、南アジアなど へとめざましいものがあった。とりわけ、東アフ リカ、東南アジアの2地域は、スーフィー教団と 商業ネットワークによるイスラームの広がりとい う点で共通性を持っている。商人であると同時に 教団に帰属する人びとが、商業を広め、スーフィ ズムを通じてイスラームを広めた。大征服によっ て獲得された地域が主として乾燥オアシス地帯だ とすれば、彼らが活躍したのは湿潤な地域であり、 海域世界によって結ばれていた。

 インドネシアのジャワ島では、「ワリ・ソンゴ(9 人の聖者)」によってイスラームが広められたと されている。彼らは15〜16世紀の人物であるが、 スーフィーだったと考えられる。インドネシアに 限らず、スーフィー教団こそが12世紀以降、イス ラームの拡大に最も貢献したのであった。  スーフィー教団は単に倫理的な生活を強調し信 仰行為に励むだけではない。彼らは「唯一神」の 信仰を極限まで突き詰め、神が絶対者であるなら ば世界は真の実在ではなく、修行によって迷妄の 自己を取り去れば、神だけが実在する次元を体験 できる、と説いた。自己滅却による「神との合一」 といわれるのはそのことで、スーフィズムが神秘 主義とされるのは、この考え方による。

 身をもってそれを実体験したスーフィーたちは、 教団の中で弟子たちに修行の仕方やその意義を教 えた。もとの「タリーカ」という語は「道」を意 味する。排他的な組織の意味ではなく、修行道と 訳す方がわかりやすい。シャリーア(イスラーム 法)が信徒の誰もが歩むべき道とすれば、タリー カは、とくに強く神を求める人びとだけが歩む道 なのである。

 その一方で、神だけを実在と見る彼らの考え方 は、被造物の中にも神を見出す汎神論につながる 面を持ち、また、「神との合一」を体験した聖者 を特別な人間とみなし、いわゆる「聖者崇拝」に つながる面も持っている。実は、この側面が、イ スラーム以前の土着の宗教感情をうまく汲み取る 作用を持った。また、教団では師を中心に弟子た ちの親密な同胞関係が築かれた。イスラームがい たるところに広まるとイスラームの同胞性は薄ま るため、教団の絆は本来の同胞精神を体現するも のとして歓迎された。

参照

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