室蘭工業大学研究報告. 文科編 第37号 全1冊
その他(別言語等)
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Tec hnol ogy. Cul t ur al s c i enc e vol . 37
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1987- 11- 10
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室 蘭 工 業 大 学
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37
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1987
MU R O R A N H OK K A ID O
M. Mur o z umi
T. Ma t s uda
T. Ka na z uk a
H. Shi r ahat a
J. Ho z u mi
K. Ni s hi da
H. S u g a wa r a
H. Wa t a na be
H. Sai t o
T. A r a k a wa
H. T a z a wa
K. Na k a g a wa
U. Ba b a
N. Ma t s umur a
K. T a g a s hi r a
1. Shi r ot ani
Edi t i ng Commit t e e
P r of. Chi e] L i br ar i an
P r of. El ec t r i cα1 Engi nee riη g
P r of. l ndustγ L日1 Chemi s t r y
A s s t. P r of. Mi n巴γα 1 Res our c es Eπgl nee n n g
P r of. Ci vi l E ng iη e e n πg
As s t . P r of. Mec hani cα1 Engi neer iη g
P r of. Met al l ur gi c al Engi neer i ng
P r of. Che mic日1 Engi neer i ng
P r of. l ndust r i日1 Mec hani c al ,}' ngi neer i冗g
P r of. Ar c hi t ec t ur e 日目d Bui l di ng Eηg l ne e nng
P r of. El ec t r oni c ,Fng川 e e n n g
A s sl. P r of. Applιed Mロt e n日1 Sc i enc e
A s sl. P r of. Li t eγ 日tuγθ
A s st. Pr of. Scienc e
P r o L l'vl echa口[c日1 E ng i nθe n n g ( Ev eni ng Ses s iοη)
A s s t. P r o L Appl i ed Sc i enc e ] 0γ E ne r g y
Al l communi cal i ons r cgar di ng thc mcmoi r s shoul d bc
,
adcl r' cぷ お 引1 to the chai r man of the commi t l cιThes e publ i cat i ons a n
,
i ssued at i rrcgul ar i nte門' als. 1'11引 consi st of t¥VQpart s,文 科 編
目 次
受身文と話者の視点… … … 一… … … ・・… ・… 松 名
英語の代名詞化についての若干の考察… … … … ・・東
A Come dy of Er r or s - D. H. L awr enc e' s
隆
志 凡
セェH
l
27
“T he Capt ai n' s Dol l ". . . .・H ・. . …. . . ・H ・ . . … … … ・ 寺 田 昭 夫 49
Char act er i st i cs of body compos i t i on i n mal e 谷口公二
st udent s wi t h i nact i ve l i f 巴 … … … … …… … … … 清 野 市 治 81
小成英 寿
登 校 拒 否 女 子 中 学 生 の 心 理 治 療 過 程 で み ら れ た
象徴表現について…. . . ・H ・...・H ・H ・H ・...・H ・ . . … ・ ・ 清 水 信 介 89
Ube r Ent s t ehung der S a mml ung des
Hei denr δs l ei n- Ver t onungen ... ... . . . 一 坂 西 八 郎 123
ドイツの歌の歴史(
1
)
・.. H ・...………...・H ・ - 坂 西 八 郎155
Col e r d g e の 「 理 性 」 に つ い て … …… …安 藤 栄 子 167
受 身 文 と 話 者 の 視 点
松
名
隆
P a s s iv e S e nt e nc e s a n d t he S pe a k e r 's V ie wp o in t
T a k a s h i M AT S U N A
Ab s t r a c t
T h e a i mof t hi s pap巴r i s t o expl or巴 t he f undament al epi s t emol ogi cal f act or t hat domi nat es t he ac c巴pt abi l i t y of pas s i ve s ent enc es i n t er ms of t he s peaker ' s vi ewpoi nt . I n t he f i r st s巴ct i on 1 wi11 s umma r i z e Kuno' s c onc ept of t he s peak巴r' s empat hy and s ome di s c our s巴 pr i nci pl es t hat r el at es t o our di s c us s i on, and gi ve an out l i ne of t he t wo r emar k s t hat pr巴sent s o me ex ampl es whi c h s e e mt o demons t r at e t he def i ci ency of t hes e pr i nci pl es. I n t he s ec ond, payi ng speci al at t ent i on t o t hei r
f unct i onal appr oac hes
,
1wi l l ex ami ne t hes e ar gument s r巴spect i vel y,
and i ndi cat e t hat t hei r appr oac h巴s hav e s o m巴 def ect s bec aus e of t hei r bei ng st at i c and non- s t r uc t ur al. T he n i n t he t hi r d, 1 wi l l t r y my o wnanal ys i s of s ome pas s i ve s ent enc es by us i ng t h巴 c onc巴pt s of t he r eal
v i ewpoi nt and t he i deal o ne . Af t er t hat, 1 wi l l c onc l ude t hat t he
accept abi l i t y of pas s i v巴 s ent enc es di s c us s ed her e i s bas ed upon whet her a cer t ai n di s agr eement ar i s es i nt he speaker ' s vi ewpoi nt .
はじめに
K uno & Kabur ak i (1 977) ( 以下Ka t o ( 1979) に倣って K & K (1 977) とする)
及 び 久 野 ( 1 978) で は 、 話 者 の 視 点 と い う 観 点 か ら 様 々 な 英 語 及 び 日 本 語 の
事 象 を 分 析 し 、 そ れ ら の 容 認 可 能 性 を 説 明 す る い く つ か の 談 話 法 規 則 を 提 案
し て い る が 、 そ の 中 で も と く に 英 語 の 受 身 に 関 す る 久 野1) の 諸 提 案 に 対 し て
の 上 記 の 諸 提 案 を 取 り 上 げ 、 つ づ い て こ れ ら に 対 す る 批 判 的 論 考 を 紹 介 す るO
し か る の ち に 、 こ れ ら の 各 説 に 対 す る 筆 者 の 疑 問 点 を 示 し 、 そ れ に 続 け て 主
に 各 論 考 が 取 り 上 げ て い る 例 文 に つ い て の 筆 者 の 分 析 を 含 め て 拙 論 を 展 開 し
ていきたい。
1
.
久 野 の 提 案 及 び そ れ に 対 す る 批 判1- 1 久里子の受身文と話者の視点に関する見解及びそれと関わるいく
っ か の 談 話 法 規 則
久 野 ( 1978) は 、 受 身 文 そ の 他 の 言 語 事 象 を 話 者 の 視 点 の 観 点 か ら 分 析 す
る に 際 し て 、 先 ず 「 カ メ ラ ・ ア ン グ ル 」 と い う 用 語 で 、 話 し 手 が 何 処 に カ メ
ラ を 置 い て 文 中 の 出 来 事 を 描 写 し て い る の か を 問 題 と し 、 そ の カ メ ラ ・ ア ン
グルの変化を、一つの尺度から表わすために、「共感( Empat hy) 度」という概
念を導入している。
( 1 ) 共感度 文 中 の 名 詞 句 のx指 示 対 象 に 対 す る 話 し 手 の 自 己 同 一 視 化 を
共 感 ( Empat hy) と 呼 び 、 そ の 度 合 、 即 ち 共 感 度 をE (x) で表わす。共感
度 は 、 値
o
( 客観的描写) から値1 ( 完全な同一視化) 迄の連続体である。( 傍点は筆者)
こうして、 ' x よりも y 寄りのカメラ・アングル」は、 E (y)
>
E (x) 、 ' x とy いずれからも等距離のカメラ・アングル」は、 E ( x ) = E ( y ) = 0 、 ' x また
はyと同化した場合のカメラ・アングル」は、 E ( x)
=
1 または E ( y)=
1 というかたちで表現され、これらの ' E ( x) と 他 の 共 感 度 と の 大 小 関 係 を 指 定 す
る 等 式 、 不 等 式 を 話 し 手 のX に対する『視点』と呼」んでいる。3)
このような「共感度」、 「視点」という概念を導入することによって、久
野は、 「 構 文 法 的 に は 文 法 的 で あ る が 、 視 点 に 関 す る 様 々 な 制 約 に 違 反 し て
いるために、( 様々な度合いで) 受け入れがたいJ ( synt act i cal l y gr ammat
-i cal, but ar e unaccept abl e( i n var yi ng degr ees) due to vi ol at i on of c
o-st r ai nt s on empat hy f oci 叶 言 語 事 象 に 関 し て 、 多 種 多 様 な 談 話 法 規 則 を 提
案 す る こ と に よ っ て 説 明 を 試 み て い る わ け で あ る が 、 こ こ で は 本 稿 で 検 討 す
受身文と話者の視点
す る 様 々 な 受 身 文 に 関 わ る 限 り で の い く つ か の 談 話 法 規 則 を 先 ず 示 し て お く 。
最初は、 「受身文のカメラ・アングル」である。
( 2)受 身 文 の カ メ ラ ・ ア ン グ ル は 、 新 し い 主 語 の 指 示 対 象 寄 り で あ る 。
こ の 規 則 に よ れ ば 、 例 え ば 次 の よ う な 文
( 3) Ma r y wa s hi t by J ohn.
の場合、上記の表記法を用いれば、 Ma r y
>
J ohn と い う 共 感 度 関 係 が 成 立 し、すなわち話者は、 Ma r y 寄 り の 視 点 を と っ て い る と い う こ と に な るO この 「 受 身 文 の カ メ ラ ・ ア ン グ ル 」 を 、 こ の 規 則 も 含 め て さ ら に よ り 適 用 範 囲
の広い規則として公式化したものが「表層構造の視点、ハイアラーキー」
( Sur f ac e St r uc t ur e E mpa t hy Hi er ar c hy ) である。
( 4) ・般的に言って、話し手は、主語寄りの視点を取ることが・番容易であ
る 。 目 的 語 寄 り の 視 点 を と る こ と は 、 主 語 寄 り の 視 点 を 取 る の よ り 困 難
であるO 受 身 文 の 旧 主 語 ( 対 応 す る 能 動 文 の 主 語 ) 寄 り の 視 点 を 取 る の
は、最も困難で、あるO
E (主語)
>
E ( 目的語)>
E ( 受身文の旧主語)この原則と受身文の機能というものを関わらせて、K & K (1977) は次のように
述べている。
. . one of t he f unct i ons of Pas s i vi z at i on is t o el evat e t he r ef er ent
of t he obj ect t o t he mos t pr omi nent posi t i on i n t he Sur f ac e
St r uc t ur e E mpa t hy Hi er ar c hy, and t o def ocal i z e t he r ef er ent
of t he subj ect t o t he posi t i on t hat c annot r ec ei ve t he s peaker ' s
empat hy. 51
受 身 文 と 直 接 関 わ る 、 久 野 の 提 案 す る 原 則 は 以 上 の も の で あ る が 、 次 に こ
の! 京則との関連で本稿で取り上げる談話法規則のいくつかを示しておく。
( 5)立す干ホ詞の十見点ハイアラーキー
対 称 詞x ( 例えばJ ohn) と、 X に依存する対称、詞f( x) ( 例えばJ ohn' s wi f e)
が あ る 場 合 、 話 し 手 の x とf ( x) に 対 す る 共 感 度 に 、 次 の 関 係 が 成 り 立 つO
( 6)発話当事者の視点、ハイアラーキー
話 し 方 は 、 常 に 自 分 の 視 点 を と ら な け れ ば な ら ず 、 自 分 よ り 他 人 寄 り の
視点をとることができない。
1= E( 一人称)
>
E ( 二、三人称)(7) Huma nne s s H i er ar chy
Hu ma n
>
Ami ma l Nonhuma n>
T hi ngそ し て 、 こ れ ら の 諸 原 則 と 上 記 の 「 受 身 文 の カ メ ラ ・ ア ン グ ル 」 と が と も に
関わる受身文の容認可能性を説明するものとして提案されているのが、 「視
点、の一貫性」という原則である。
( 8)単」の文は、共感度関係に論現的矛盾を含んではいけない。
この原則は、 上記の諸原則がともに話者のある特定の視点を規定するもので
あ る の に 対 し て 、 そ の 規 定 さ れ た 視 点 と 視 点 と の 関 係 を さ ら に 規 定 す る と い
う特殊な性格をもっている。例えば次のような文の容認可能性が低いことは、
この原則によって説明できるとする。
( 9) ?? T he n J ohn' s wi f e wa s hi t by hi m.
すなわち、 「対称詞の視点ハイアラーキー」によれば、 J ohn' s wi f e という
表現は、ジョン寄りの視点を話し手がとっていることを示し、 ヴ
J
r 受身文の カ メ ラ ・ ア ン グ ル 」 に よ れ ば 、 こ の 文 全
f
本がジョンよりもむしろジョンの妻 寄 り の 視 点 を と っ て い る と い う こ と に な っ て 、 こ の 文 が 「 共 感 度 関 係 に 論
理 的 矛 盾 を 合 」 む こ と に な り 、 こ れ が こ の 文 の 容 認 可 能 性 の 低 さ を 説 明 す る
ものとされるのであるO このように、この「視点の一貫性」の原則は、視点、
に 関 わ る 様 々 な 受 身 文 の 容 認 可 能 性 を 説 明 す る も の と し て 、 久 野 の 提 案 全 体
の中でも重要な位置を占めている。
と こ ろ で 久 野 は 、 こ の 「 視 点 の お 貫 性 」 の 原 則 に 違 反 す る 文 の す べ て が す
べ て 容 認 し が た く な る の で は な い と い う 事 実 を 取 り 上 げ て 、 こ れ を 次 の よ う
な 「 談 話 法 規 則 違 反 の ペ ナ ル テ ィ ー 」 に よ っ て 説 明 し て い るO
(
10) 談話法規則の「意図的」な違反に対しでは、そのペナルティーとして、
文の不適格性が生じるが、 「非意図的」な違反に対しては、ペナルティ
受身文と話者の視点
ーがない。
これは、例えば次のような文が容認可能で、あることを説明するものとされて
いる。
(11) S ome one hi t me.
この文は、 「表層構造の視点ハイアラーキー」によれば、主語> 目的語とい
うことで、 S ome one 寄 り の 視 点 を と っ て い る と い う こ と に な る が 、 こ れ は 「 発
話当事者の視点ハイアラーキー」と矛盾し、 「視点の 4貫 性 」 の 原 則 か ら 容
認 し が た く な る は ず で あ る 。 と こ ろ が 久 野 は 、 こ の 文 のhi t という動詞が、
「行為主体を主語の位置に、行為対象を目的語の位置に置く動詞で、」あり、そ
の た め に 「 自 動 的 に 」 上 の よ う な 文 が 生 じ た の で あ っ て 、 上 記 の よ う な 違 反
は 「 非 意 図 的 」 な も の で あ り 、 そ れ ゆ え こ の 文 は 容 認 し が た く な っ て は い な
いのだと説明するO
以 上 、 久 野 の 視 点 に 関 す る 基 本 的 見 解 及 び そ れ を 軸 と し た い く つ か の 談 話
法 規 則 を 、 本 稿 で の 受 身 文 の 考 察 に 関 わ る か ぎ り で ま と め た が 、 次 に こ れ ら
の久野の提案に対する批判的見解を一二つ取り上げ、その後に久野の見解も含
めて問題点を検討していくこととする。
1 - 2 久野の提案に対する Kat o (1 979) の批判的見解
Ka t o は、久野のように、視点の観点からのみ受身文の機能を取り上げ、それ
に よ っ て 様 々 な 受 身 文 の 容 認 可 能 性 を 説 明 し よ う と す る こ と に 対 し て 、 具 体
的 な 文 例 を あ げ て そ の 問 題 点 を 指 摘 し て い るO すなわち、次のような文、
( 12) ?? Ma r y wa s cr i t i ci zed by me.
この場合、久野によれば、 「表層構造の視点ハイアラーキー」の要求する視
点( すなわち Ma r y 寄りの視点) と「発話当事者の視点ハイアラーキー」の要
求 す る 視 点 ( す な わ ち 話 し 手 寄 り の 視 点 ) が 矛 盾 し て お り 、 そ れ に よ っ て こ
の 文 の 容 認 し が た さ が 説 明 で き る と し て い る 6)そこで久野は、 「話し手が行
動 主 で あ る 受 身 文 は 、 多 く の 言 語 で 不 自 然 で 、 何 か 特 別 な 文 脈 が 無 い と 用 い
られないJ 7)とし、 「ただ、特殊な書きことばスタイルでは、書き手が、自分
い る 。 こ れ に 対 し てKat o (1 979) は、 112)の文は、 「もしも適切な文脈の中に
入 れ ら れ れ ば 、 容 認 可 能 と な る は ず で あ る 」 と 述 べ 、 話 し 手 が 行 動 主 と な っ
て い る 受 身 文 を 9例 示 し て 、 久 野 の 上 記 の 見 解 に 対 す る 反 例 と し て い る 。 そ
し て こ の よ う な 反 例 を 示 し た 後 に 、 視 点 の 観 点 か ら の み 受 身 文 の 機 能 を 把 え
る久野の見解に対して、 J es per s en ( 1933) が述べている受身文の別の機能、
す な わ ち そ れ が Iセ@ . つ の 文 と も う ゐ つ の 別 の 文 の つ な が り を 容 易 に す る こ と もあるJ 9)と い う 点 に 着 目 し て 、 受 動 化 は 、 談 話 の 中 で の 主 題 一 陳 述 ( Topi c
-Comme nt ) 関 係 を 変 え な い で そ の ま ま に し て お い て 、 次 に く る 情 報 の 処 理 を
し や す く す る 機 能 を も っ て い るJ 10)と 述 べ 、 さ ら に 別 の 文 例 を 上 げ て い るO
このようにKat o ( 1979) は 、 話 し 手 が 行 動 主 と な っ て い る 受 身 支 が 、 久 野
の主張するように、 「何か特日JIな 文 脈 」 や 「 特 殊 な 書 き こ と ば ス タ イ ル 」 に お い て し か 用 い ら れ て い な い と す る 見 解 に 対 し て 実 例 を 上 げ て 反 論 し 、 「主
題 A陳 述 関 係 」 と い う 観 点 か ら も 受 身 文 の 容 認 可 能 性 を 説 明 で き る と し て い
るので、ある。
1 - 3 久 野 の 提 案 に 対 す るF al ¥王( 1 980) の 批 判 的 見 解
F a lk ( 1980) は、久里子の提案しているいくつかの談話法規則のうち、文中
の指ポ対象に関わる三つの規則、すなわち「発話当事者の視点ノ、イアラーキ
ー」、 「立
J
称、吉司の干見点ハイアラーキー」、及び、Huma nne s s E mpt hy Hi er ar c hが 関 わ る 受 身 文 を 、 主 に そ れ ら に 対 応 す る 能 動 文 と の 関 係 で 把 え 、 そ れ ら の
受 身 文 、 能 動 文 の 容 認 可 能 性 を 、 久 野 の よ う に 「 談 話 法 規 則 違 反 の ベ ナ ル テ
ィ ー 」 に よ っ て 説 明 す る 場 合 の 問 題 点 に つ い て 指 摘 し て い る 。
先 ず 、 話 者 が 主 語 と な っ て い る 受 身 文 と そ れ に 対 応 す る 能 動 文 と を 比 較 し
て 、 受 身 文 の 方 が 容 認 可 能 性 が 低 い と し て 、 次 の よ う な 例 を 上 げ て い る 。
( 3) a. ( ? ) 1 wa s cr i t i ci z ed b y t he may or .
b. T h e ma y or cr i t i ci zed me .
すなわち、 1131 bが 「 表 層 構 造 の 視 点 ハ イ ア ラ ー キ ー 」 と 「 発 話 当 事 者 の 視 点
ハ イ ア ラ ー キ ー 」 の 矛 盾 に よ り 容 認 し が た い は ず で あ る に も か か わ ら ず 、 そ
うならないのは、 「 談 話 法 規 則 違 反 の ペ ナ ル テ ィ ー 」 に よ っ て 説 明 で き る と
受身文と話者の視点
し で も う 一 方 向131aは、 「発話当事者の視点ハイアラーキー」を含めたどの
談 話 法 規 則 に も 違 反 し て い な い に も か か わ ら ず 、 能 動 文 よ り も 容 認 可 能 性 が
低 い と い う 事 実 を 、 久 野 の 談 話 法 規 則 で は 説 明 で き な い と し て い る 。 そ こ で
彼は、このような事実を説明するために、次のように述べている。すなわち、
「おそらく、自分寄りの視点というのは絶対的なもので、他のものは自分と
の 関 係 で 記 述 さ れ ね ば な ら な い ゆ え に 、 こ の よ う な ( 自 分 寄 り の … 引 用 者 )
視 点 と い う の は 前 提 と さ れ て お り 、 し た が っ て 、 こ の 視 点 を 明 ら か に す る た
めに、有標の文構造( すなわち受身文… 引用者) を利用する必要はなしミJ 11)
ということであるO
次にF al k (1980) は、 「対称詞の視点ハイアラーキー」に関する受身文と
そ れ に 対 応 す る 能 動 文 と の 容 認 可 能 性 を 次 の よ う な 例 文 を 上 げ て 比 較 し て い
る。
(141 a. J ohn wa s puni sh巴d by hi s f at her.
b. J ohn' s f at her puni s hed hi m
(151 a. T h e boy wa s puni s hed by hi s f at her.
b.
?
T he boy' s f at her puni s hed hi m.ここで、Fal l 王は、 (141の場合は a,b ともに容認可能で、あるが、 a の方は、 by hi s
f at her が焦点として解釈される傾向があり、 A方1151の場合は、 a のby hi s
f
α
t her は 焦 点 と し て は 解 釈 さ れ ず 、 そ の 上b がa
と 較 べ て 容 認 可 能 性 が 低 い という事実を上げているO これは、 Fal k(土
i
直接言及していないが、久野の「談話 法 規 則 違 反 の ペ ナ ル テ ィ ー 」 に 対 す る---jつの問題提起と考えられる。すな
わち、久野の提案によれば、 (141 b 、1151 bともに「対称詞の視点ハイアラーキ
ー 」 と 「 表 層 構 造 の 視 点 ハ イ ア ラ ー キ ー 」 の 矛 盾 を 生 じ て い る に も か か わ ら
ず、 (111の 例 と 同 様 に 、 そ れ が 「 非 意 凶 的 」 違 反 で あ る ゆ え に 、 い ず れ も 適 格
と な る は ず で あ る 。 と こ ろ が こ の よ う に 、 久 野 の 「 対 称 詞 の 視 点 ハ イ ア ラ ー
キ ー 」 の 原 則 で 述 べ て い る と こ ろ の 「 対 称 詞X J が、 1141の よ う に 固 有 名 詞 (
または、 F al k が別の例として上げているように、代名詞) の場合と、 1151のよ
は説明できないということである。そこで、F a l k は、この点について次のよう
に 説 明 し て い る 。 す な わ ち 「 固 有 名 詞 や 代 名 詞 は 、 一 般 的 に 視 点 / 主 題 が ど
こ に あ る の か を 示 す 機 能 を も っ て お り 、 そ れ ゆ え 統 語 的 に 有 標 の 受 身 文 を 利
用 す る 必 要 が 、 焦 点 的 意 味 を 示 す 場 合 を 除 い て は な い の に 対 し て 、 他 の 名 詞
句 の 場 合 に は 、 そ の よ う な 機 能 を も っ て い な いJ 12) ということであるO
次に、(7 )の Huma nne s s E mpa t hy Hi er ar c hy と受身文に関わる F a l k ( 1980)
の見解を見てみよう。先ず、彼は、この原則に対する「非意図的」違反である
に も か か わ ら ず 、 容 認 可 能 性 が 低 い ( あ る い は 少 な く と も 、 こ の 原 則 に 従 っ
て い る 受 身 文 よ り も 容 認 可 能 が 低 い ) 次 の よ う な 例 を 上 げ て い るO
(16) a. J ohn wa s hi t by t he yel l ow car.
b.
??
T h e y eI I ow c ar hi t J ohn.ここでU6) bは、久野の説に従えば、 「表層構造の視点ハイアラーキー」と
Huma nne s s E mpa t hy Hi er ar dy の二つの原則による矛盾が生じているが、そ
れはこの場合「非意図的」違反であるがゆえに、( 11 ) の場合と同様に容認可能
となるはずで、あるO ところが事実はこれに反しており、そこで、F a l k は、( 16)b
の容認可能性が低い根拠を、次のような文が容認可能で、あることとの対比に
おいて説明している。
(1わ T h e get away c ar hi t a pol i c eman wh o had been s ummone d t o t he
scene.
すなわち、この(17 )の主語 t he get away c ar は主題としての機能をもっている
がゆえに容認可能となっているが、 (16)b の主語 t he y el l ow car の場合は、
そのような機能をもっているとは解釈されにくいということである。
次に F a l k は、この Huma nne s s E mpa t hy Hi巴r ar c hy に「意図的」に違反し
ているにもかかわらず、容認可能で、ある次のような受身文の例を上げている。
(18) T h e mov i e wa s di r ect ed by FeI I i ni .
そして彼は、この文が容認可能で、あることを、次のような文の容認可能性が
低 い こ と と の 対 比 で 説 明 し て い るO
119)
?
Ma n y mov i es we r巴 cl i rect ed by FeI l i ni .受身文と話者の視点
すなわち、( 18) の 主 語 t h巴 mOV le は主題の機能を有するものと解釈されるが、
(
19) の場合はそのように解釈され難いということが、( 18)と( 19) の容認可能性の差
となって表われているということであるO これを要するに、 F a l k は、Huma
n-nes s E mpa t hy Hi er ar c hy の原則よりも、主語の主題としての機能が、文の
容 認 可 能 性 の 基 準 と し て 優 先 す る も の で あ る こ と を 主 張 し て い る と 言 え る で
あろう。
以 上 、 久 野 の 受 身 文 ( 及 び そ れ に 対 応 す る 能 動 文 ) に 関 す る い く つ か の 談
話 法 規 則 と 、 そ れ ら に 対 す る こ つ の 批 判 的 見 解 を 見 て き た が 、 次 節 に お い て
は 、 こ れ を 踏 ま え て 、 久 野 を 含 め た こ れ ら 三 者 の 主 張 の 問 題 点 を 検 討 し て い
きたい。
2
.
久 野 の 提 案 及 び そ れ に 対 す る 批 判 的 見 解 の 検 討2- 1 久 野 の 談 話 法 規 則 の 問 題 点
久 野 の 受 身 文 と そ れ に 関 わ る い く つ か の 談 話 法 規 則 に 対 す るKat o(1 979) と
F al k ( 1980)の 批 判 で 取 り 上 げ ら れ た 問 題 点 に つ い て は 、 前 節 で そ の 概 略 を 説
明 し た 。 そ こ で 本 節 に お い て は 、 そ れ ら の 批 判 と 関 わ ら せ つ つ も ま た 別 の 観
点、から、久野の提案の問題点を検討していきたい。
先ず一般的な問題点であるが、前節で取り上け、た久里子のいくつかの談話法
規 則 の 成 立 の 根 拠 に つ い て 、 そ れ が た だ 単 に 当 該 受 身 文 の 容 認 可 能 性 を 説 明
す る た め と い う だ け で は な く 、 よ り 根 本 的 な 観 点 か ら の 当 該 談 話 法 規 則 成 立
の 根 拠 に 関 す る 議 論 が な さ れ て い な い と い う こ と で あ るO そこで先ず、これ
らの諸原則の核心部分である久野の「視点」概念について検討してみよう。
前節第一項で取り上げたように、この「視点、」概念は、文中の名詞句の指
示 対 象 に 対 す る 話 者 の 自 己 同 一 視 化 の 度 合 の 大 小 を 、 構 文 ( 受 身 文 や
s v o
構 文 な ど ) や 語 句 ( 対 称 詞 や 一 人 称 表 現 な ど ) を 手 が か り と し て 把 握 し た と
こ ろ に 成 立 す る 概 念 で あ る 。 言 い か え れ ば 、 こ の 概 念 は 、 こ れ ら の 構 文 や 語
句 の 機 能 論 的 把 握 を 土 台 と し て 成 立 し て い る と 言 え るO 例 え ば 、 受 身 文 の 機
ヌ し て い る と 考 え ら れ る 。 す な わ ち 、 受 身 文 と い う も の が 、 話 者 の 視 点 を 規
定 す る 機 能 を 有 し て い る と い う わ け で あ るO そして話者の視点、に関わるその
他 の 構 文 や 語 句 に つ い て も 、 そ の よ う な 機 能 を も つ も の と し て 把 え ら れ て い
るO そ こ で 、 こ の よ う な 視 点 の 把 え 方 に つ い て 、 次 の 二 つ の 問 題 を 指 摘 し て
わきたいo
Z
F2
4
に 、 視 点 の こ の よ う な 機 能 的 把 握 に お い て は 、 話 者 の 視 点 と あ る 特 定の 構 文 、 語 句 が 現 象 的 に し か 対 応 さ せ ら れ て い な い た め に 、 そ の 現 象 の 背 後
に あ る 構 造 の 検 討 ま で は な さ れ ず 、 そ の 結 果 こ の 機 能 的 把 握 の 基 盤 自 体 を 弱
く し て い る と い う こ と で あ るO つ ま り 、 な ぜ そ れ ら の 構 文 、 語 句 が あ る 特 定
定 の 視 点 を 規 定 す る 機 能 を 有 す る の か が 、 対 象 の 構 造 に 即 し て 踏 ま え ら れ て
いなければ、統) 伯守に視点現象を説明できなくなるということである。
第 二 に 、 こ の よ う な 機 能 論 的 見 方 で は 、 あ る 文 に わ い て 、 特 定 の 構 文 、 語
句 に 対 応 し た 複 数 の 視 点 が 、 静 的 ・ 平 面 的 に 並 べ ら れ て 把 握 さ れ 、 そ の こ と
が さ ら に 視 点 現 象 の 統 ム 的 把 握 を 困 難 に し て い る と 考 え ら れ る 。 で は さ ら に
こ の 二 つ の 問 題 点 に つ い て 具 体 的 に 検 討 し て み よ うO
先ず第一の問題点については、 「表層構造の視点ハイアラーキー」及びそ
の特殊なケースの原H l J と さ れ て い る 「 受 身 文 の カ メ ラ ・ ア ン グ ル 」 を 取 り 上
げ て み た し 、 こ の 「 表 情 構 造 の 視 点 ハ イ ア ラ ー キ ー 」 の 原 則 は 、 久 野 に よ れ
ば、 「 支 の 構 文 法 的 構 造 か ら 見 て 、 視 点 の 焦 点 の 対 象 と し て 、 主 語 が 優 先 す
るという仮説である。J J : l ) すなわち、文の構造自体が、主語の指示対象寄りの 視 点 を 指 定 す る 機 能 を も っ て い る と い う こ と に な るO さ て 、 文 の 構 造 白 体 が
か か る 機 能 を も っ て い る と し て 、 で は イ 本 い か な る 理 由 で そ う 言 え る の か 。
久 野 の 議 論 の 中 に は 、 こ の 点 に 関 す る 説 明 は 見 出 せ な い 。 こ の こ と は 「 受 身
文 の カ メ ラ ・ ア ン グ ル 」 の 場 合 も 同 様 で 、 あ る 。 す な わ ち 、 文 の 静 的 ・ 平 面 的
構 造 把 握 ( S
v o
構 造 、 受 身 文 構 造 ) か ら 、 そ の 構 造 の も つ 視 点 的 機 能 を 説 明 す る の に と ど ま り 、 さ ら に 構 造 に 分 け 入 っ て そ の 機 能 の 根 拠 を 把 え よ う とす る と こ ろ ま で は 進 ん で い な い と い う こ と で あ る 。 さ ら に 久 野 は 、 こ の 「 表
層 構 造 の 視 点 ハ イ ア ラ ー キ ー 」 の 原 則 に あ て は ま ら な い も の が あ る こ と を 認
受 身 文 と 話 者 の 視 点
めているが、 14) このことが意味するところは重大で、ある。なぜならば、この
原則にあてはまる場合もあれば、 ( たとえ少数であっても) あてはまらない
場 合 も あ る と い う こ と は 、 文 の 構 造 自 体 が 話 者 の 視 点 を 規 定 す る 機 能 を も っ
て い る の で は な い こ と を 意 味 す る か ら で あ る 。 し た が っ て 、 久 野 は 、 多 く の
動 詞 が 「 主 語 寄 り の 視 点 を 要 求 す る と し て 、 一 体 ど う し て こ の よ う な 制 約 が
存在するのかJ 15) その根拠を説明しようとして、 「表層構造の視点ハイアラー
キ ー 」 の 原 則 を 提 案 し て い る が 、 以 上 の こ と か ら 、 こ の 原 則 が そ の 根 拠 た り
得 な い こ と は 明 ら か で あ ろ う 。 す な わ ち 久 野 の 議 論 に 、 あ る 動 詞 が 「 主 語 寄
りの視点、を要求する」という機能的把握にとどまっており、その根拠までは
把握していないと言えるであろう。例えば次の文を見てみよう。
(20) T h e n Mar y ' s hus band hi t her .
こ れ に 関 し て 久 野 は 、 主 語 の 位 置 に あ る Mar y ' s hus bαば と い う 表 現 か ら し
て 、 話 者 がMa r y 寄りの視点をとっているにもかかわらず、 her の 指 示 対 象
である Ma r yが 目 的 語 の 位 置 に き て い る こ と か ら 、 こ れ は 「 表 層 構 造 の 視 点
ハ イ ア ラ ー キ ー 」 の 原 則 に 違 反 し て い る ( た だ し 「 非 意 図 的 」 で あ る が ) と
している。16) したがって、これまで述べてきたことからして、 この違反は、
動 詞 hi t が 主 語 寄 り の 視 点 を 指 定 す る こ と か ら 生 じ た も の だ と い う こ と に な
るO だ が 、 は た し て 動 詞 hi t が そ の よ う な 機 能 を も っ て い る で あ ろ う か 。 言
い か え れ ば 、 こ の 文 の 構 造 全 体 か ら し て 、 話 者 が Ma r y よ り も む し ろ Ma r y
の 夫 寄 り の 視 点 を と っ て い る と 、 何 を 拠 り ど こ ろ と し て 主 張 で き る で あ ろ うO
久 野 は こ の 点 に 関 し て 説 明 し て は い な い の で あ るO 要するにこの原則自体、
説得力を欠いていると考えざるを得ないのである。
と こ ろ で 、 こ の 原 則 の 特 殊 な ケ ー ス と さ れ て い る 「 受 身 文 の カ メ ラ ・ ア ン
グ、ル」の場合はどうであろうか。特殊で、あるというのは、その原則の適用範
囲 が 限 定 さ れ て い る と い う こ と で あ る が 、 し か し こ の 場 合 に お い て も 、 な ぜ
受 身 文 が 、 そ の 主 語 の 指 示 対 象 寄 り の 視 点 を 指 定 す る 機 能 を も つ の か が 、 さ
ら に 受 身 文 の 構 造 に 分 け 入 っ て 説 明 さ れ て い る わ け で は な い 。 つ ま り 、 受 身
立 体 的 に 把 握 し て は お ら ず 、 そ の こ と が 前 節 で 示 し たKat o(1 979) やFal l王( 1 9
80) の批判を招いていると考えられるのである。
以 上 の こ と と 関 連 し て 、 こ の よ う な 機 能 論 的 規 則 の 定 式 化 に 関 わ る 問 題 に
つ い て 言 え ば 、 こ れ ら の 談 話 法 規 則 の 適 用 条 件 が 明 ら か に さ れ て い な い と い
う こ と で あ る 。 す な わ ち こ れ ら の 規 則 が 限 定 性 の き わ め て 弱 い 普 遍 的 な も の
と し て 提 出 さ れ て い る た め に 、 前 節 で 見 て き た よ う に 、 久 野 が 提 案 し て い る
唯 一 の 適 用 条 件 的 規 則 で あ る 「 談 話 法 規 則 違 反 の ペ ナ ル テ ィ ー 」 を も っ て し
て も 説 明 で き な い 様 々 な 例 が あ る と い う こ と で 、 さ ら に 新 た な 適 用 条 件 を 設
定 す る 必 要 が あ る よ う に 思 わ れ る 。 し か し こ れ は 、 受 身 文 に 関 わ る 視 点 的 現
象 の 統 命 的 把 握 と い う 方 向 と は 逆 で あ る こ と は 、 こ こ で 確 認 し で わ か ね ば な
るまい。
以 上 、 久 野 の 受 身 丈 と 話 者 の 視 点 に 関 わ る 提 案 の 問 題 点 を 理 論 的 な 側 面 を
中心に検討してきたが、次[ こKat o ( 1979)、F al k(1 980) の見解についても同様
にof食言すしてみたい。
2- 2 Kat o(1 979) 、F al k(l980) の 主 張 の 問 題 点
Kat o は、前節で取り
k
げた1121の 文 の 存 認 可 能 性 が 低 い 理 由 に つ い て 、 そ れは「適切な文脈を欠いているからであって、受動化されているからではないJ 17)
と述べ、 「 主 題 一 陳 述 関 係 」 の 保 持 と い う 観 点 か ら 、 話 者 が 受 身 文 の 行 為 者
と な っ て い る 場 合 の 容 認 可 能 性 を 説 明 し よ う と し た こ と は す で に 見 た 通 り
である。しかし、 Kat o が 上 げ て い る 次 の 例 は 、 こ の 観 点 か ら 説 明 す る こ と は
できないはずである。
(211" If you woul d be gui ded by me - " he sai d, hesi t at i ng.
( Agat ha Chr i s t i e, T he Ma n i n t he Br oωπ Sui t )
な ぜ な ら 、 受 身 文 の 主 語 で あ るy ou は 従 属 節 の 中 に あ り 、 こ の 文 全 体 の 主 題
で あ る に は 必 ず し も 言 え な い か ら で あ る 。 こ の よ う に 「 主 題 陳 述 関 係 」 の
保 持 と い う 受 身 文 の 機 能 か ら 、 当 該 受 身 文 の 容 認 可 能 性 を す べ て 説 明 で き る
わけで、はないということで、ある。
次にF al k(1 980) の 主 張 を 検 討 し て み よ う 。 先 ず 、 話 者 が 主 語 と な っ て い る
-受身文と話者の視点
受 身 文 が 、 そ れ に 対 応 す る 能 動 文 と 比 較 し て 容 認 可 能 性 が 低 い と い う 指 摘 で
あ る が 、 こ れ に 対 す る 前 節 で のF a l kの説明は、 Bol i nger ( 1977) が示してい
る 次 の よ う な 受 身 文 の 容 認 可 能 性 を 考 慮 外 に お い て い る と 思 わ れ るO
(22) a. T h e s t r anger appr oac hed me.
b. 1 wa s appr oac hed by t he st r anger .
この例に対してBol i ngerは、「わたしには、このいずれの言い方もできるO
わたしは、その見知らぬ人が近づいてくれば、自分にどのような影響を与えそ
うか、もしかしたら彼は乞食かもしれないと考えているからである」と述べて
いる。18)また彼は、話者を主語とする受身文がどんな場合も容認可能で、あると
は主張しではj己らず、次のような場合には、
,
-
. つのものの位置関係を語っているにすぎない」川ので、存認しがたいと述べている。
ロ
3)*
1 wa s appr oac hed by t he t rai n.要するに、 F a l kの主張する、受身文と一人称表現のもつ視点的機能の重複と
いう観点からは、 (23)が 容 認 し が た い こ と を 説 明 す る こ と は で き て も 、 こ れ を
(22) b が 容 認 可 能 で あ る こ と と の 区 別 と 連 関 に む い て 統 一 的 に 把 握 す る こ と は
できないということである。
次に「対称詞の視点ハイアラーキー」に関連して、F a l kが固有名詞と代名
詞 の ( そ れ 以 外 の 名 詞 の も っ て い な し リ 視 点 的 機 能 と い う 観 点 か ら 論 じ て い
る問題であるが、このような観点から、( l
4
)b
と(1
5
)
b
の 能 動 文 の 存 認 可 能 性 の度 合 い の 違 い を 説 明 す る こ と は 難 し い と 忠 わ れ るO なぜなら、それぞ、れの名
詞 の 属 格 に よ る 表 現 ( J o加' 8 f at heγ と the 6oy' 8 f at heγ) の遠いが、 J ohnと
the 60y の 違 い と の 関 連 で 説 明 さ れ て い な い か ら で あ るO
次にHuma nne s s E mpa t hy Hi er ar c hyに関わるF a l k の 見 解 に つ い て で あ
るが、次の伊jを見てみようO
(24) A n i nt er est i ng mov i e is bei ng ma d e by Fel l i ni .
この場合、 (18)と 違 っ て 、 主 語 を 主 題 と し て 解 釈 す る こ と が で き な い に も か か
わらず、容認可能で、あるO したがって、 Huma nne s s E mpa t hy Hi er ar c hyに 対
てj夫定しているわけではないと言えよう。
以上、 F al k ( 1980) の 久 野 の 諸 原 則 に 対 す る 批 判 を 検 討 し て き た が 、 こ こ に
お い て も そ の 機 能 論 的 見 方 が 、 久 野 の そ れ を 克 服 す る に は 至 っ て い な い こ と
が明らかとなったであろうO
さて、これまでK & K ( 1977) の 問 題 提 起 を 手 が か り と し て 、 受 身 文 と 話 者
の視点に関する久野、 Kat o、 F al k の三者の見解を、その機能論的見方の内包
す る 問 題 点 を 中 心 と し て 険 討 し て き た が 、 次 節 に お い て は 、 筆 者 の こ の 問 題
に 対 す る 見 解 を 展 開 し て い き た いO
3
.
受 身 文 と 話 者 の 視 点 に 関 わ る 認 識 論 的 考 察3- 1 受 身 文 の 認 識 構 造
こ れ ま で の 議 論 か ら 明 ら か な よ う に 、 受 身 丈 を そ の 視 点 的 機 能 ま た は 「 主
題 一 陳 述 関 係 」 の 保 持 等 の 側 面 か ら 把 握 す る と い う 機 能 論 的 見 方 で は 、 話 者
の 視 点 に 関 わ る 受 身 文 の 容 認 可 能 性 を 統 一 的 に 説 明 す る こ と が で き な い と 忠
わ れ る 。 そ こ で 先 ず 、 受 身 文 に お い て 読 者 は 、 そ の 主 語 ( 変 形 文 法 の 考 え 方
で は 、 受 動 化 後 の 新 し い 主 語 ) の 指 示 対 象 寄 り の 視 点 を と る と さ れ る が 、 そ
れ は 受 身 文 の ど の よ う な 認 識 構 造 に 基 づ く も の な の か を 考 え て み よ う 。 次 の
例を参照されたい。
ぼ51 a. T o m beat J ohn.
b. J ohn wa s beat en by T om.
ここで¥251a, bは、しミずれも同じーっの出来事を、前者は能動文、後者は受身
文 の か た ち で 表 現 し て い る 。 と こ ろ で 、 こ の 両 文 を 話 者 が ど の よ う な 立 場 か
ら表現しているのかを考えてみると、 1251a の 場 合 は 、 話 者 は T o m寄 り の 立 場
か ら 表 現 し て い る と も 解 釈 さ れ る が 、 ま たJ ohn寄 り の 立 場 か ら と も 、 両 者 い
ず れ 寄 り で も な く 中 立 的 立 場 か ら 表 現 し て い る と も 解 釈 で き る 。 こ の よ う に
様々な話者の立場の解釈が可能で、あるということは、この構文自体または、
こ の 構 文 を 構 成 し て い る 諸 要 素 ( T om,beat, J ohn) の 内 的 構 造 に よ っ て 、 こ
の よ う な 様 々 な 立 場 が 規 定 さ れ て い る の で は な い こ と を 意 味 す る 。
-受身文と話者の視点
次に町,
)b
であるが、この場合には、話者はJ okn
寄りの立場から表現しているとする解釈のみが可能で、ある。また受身文が、一般的にその主語の指示対
象寄りの立場から表現されるとされているところから、受身文の一般的構造
のどこかに、そのような立場を規定する要因が存するであろうことが予想さ
れる。そこで注目されるのが、受身文における「過去分詞」表現である。そ
こでこの受身文における過去分詞の認識構造を探ってみよう。
言うまでもなく、過去分詞は、動詞( この場合は他動詞) の一屈折形態で
ある。したがってここには、対象( すなわち行為主体) の行為の認識が結び
ついている。そしてこの認識は、対象の行為という( 属性としての) 客体を
反映した認識、すなわち客体的認識である。さらにまた、この受身文の過去
分調には、この客体的認識とは区別される別の認識が結びついている。それ
\セ o
の客体的認識のように、それ自体として自立した認識ではなく、あくまでも
この客体に対する、行為を受ける側のあり方の認識、すなわち主体的認識で
ある。つまり、受身文における過去分詞の認識とは、このような客体的認識
と主体的認識とが統一された認識である。
このような過去分詞( 受身文における) の認識構造から明らかなように、
この表現は、行為を受ける側の主体的認識がその背後にあり、それゆえ被行
為者寄りの立場に立たなければ不可能な表現なのである。そしてこれが、受
身文がその主語の指示対象寄りの立場からの表現であるとされる認識論的根
拠である。これで、町,
)b
で、はJ ohn
寄りの立場からの表現であるとする解釈のみが可能で、ある理由が明らかとなったであろう。
ここで、話者が受身文においてその主語の指示対象寄りの立場に立つとは
どういうことかを論理的に考えてみよう。これは一般的に言えば、人聞が自
分以外の存在( 寄り) の立場に立つとはどういうことかという問題であるが、
現実の人聞は自分の身体を分離して分身をっくり出すことはできないのであ
るから、現実の自分の立場以外の立場に現実的に( つまり身体的に) 、同時
の自分と同時的にっくり出すことはできる。このことは、例えば人聞が夢を
見たり、空想したりする時のことを考えれば理解できるであろう。すなわち、
こういった行為は、現実の世界にいる現実の自分ではなく、これらの夢の世
界、空想の世界にいるもう一人の自分( 観念的な自分) の存在を想定しなけ
れば不可能なはずである。したがって自分以外の存在の立場に立つというこ
とは、現実の自分からは相対的に独立した( すなわち、現実の自分なくして
は存在し得ないが、その限りではそこから離れて活動することができる) 観
念的な自分の存在によるものであると言えよう。20)
このことから、次のように言うことができる。すなわち、受身文において、
話者が主語の指示対象寄りの立場に立つという場合には、現実の話者とは相
対的に区別される観念的な話者の存在を想定して、その観念的な話者が、現
実の話者の立場から移行して、主語の指示対象寄りの立場に立つという認識
構造になっているということである。
以上、受身文の認識構造とそれによって規定される話者の立場との関係を
考察してきたが、ここで久野の機能論的見方からなる視点の規定とは異なる、
次のような筆者の構造論的な視点の規定を示しておきたい。
間 視点とは、当該表現の基盤となっている認識の構造によって規定され
た、話者の現実的または観念的な立場である。
このような規定に基づいて、以下の、話者の視点に関わらせた受身文の容認
可能性について、その認識論的基礎を追究していきたい。
3- 2 I発話当事者の視点ハイアラーキー」に関わる受身文の考察
久野は、 「発話当事者の視点ハイアラーキー」において、文中の話者( 自
分) 寄りの視点を最優先とし、この原則とある特定の構文、語句が規定する
視点に関わる原則との関係、すなわち当該諸原則に関わる視点の聞の「論理
的矛盾」、及びその矛盾が「意図的」か「非意図的」かを基準として、文の
容認可能性を説明しているが、これらの諸原則によっては説明することので
きない事例が存在することは先に取り上げた通りである。そこで先ず、前項
の伽) の規定に従って、 「発話当事者の視点ハイアラーキー」の原則に関わる
-受身文と話者の視点
一人称表現の認識構造について考えてみようO
一 人 称 表 現 と は 、 話 者 が 自 分 ( ま た は 自 分 を 含 む 複 数 の も の ) を 表 現 し た
ものであることは、その通りであるが、では話者が自己を認識し表現すると
は 、 一 体 ど う い う 認 識 構 造 を も つ も の な の で あ ろ う か 。 こ の 自 己 を 認 識 す る
と い う こ と で あ る が 、 こ れ は 自 己 以 外 の も の を 認 識 す る と い う こ と と 同 じ よ
う に は い か な い 。 な ぜ な ら ば 、 自 己 以 外 の も の は 、 自 分 の 外 に 対 象 と し て す
で に 存 在 す る も の で あ る が 、 自 分 自 身 は そ う で は な い か ら で あ るO したがっ
て話者が自己を認識するためには、先ず自分自身を対象化しなければならず、
こ れ は も ち ろ ん 現 実 的 に は 不 可 能 な の で 、 観 念 的 に 対 象 化 す る と い う こ と で
あるO す な わ ち こ こ に お い て 、 現 実 の 自 分 と 観 念 的 な 自 分 と の 二 重 化 が 成 立
しているということであるO そしてこのことから、 - 人称で表現される認識
には、次の二つの種類があることがわかるO すなわち、(
i
) 観念的な自分の立 場 か ら 現 実 の 自 分 を 認 識 す る 場 合 と 、 (
i
i
) 観念的な自分が現実の自分と同じ 立 場 か ら 、 対 象 化 さ れ た 自 分 を 、 あ た か も 自 分 の 外 の 第 三 者 で あ る か の よ
うに認識する場合である。21)
こ の よ う な 一 人 称 の 認 識 構 造 及 び 上 述 の 受 身 文 の 認 識 構 造 の 把 握 に 基 づ い
て、ではこれから具体的に文の検討を進めていこう。次の文を参照されたい。
ロ
わ
? ?
T h e n, J ohn wa s hi t by me.この文の容認可能性が低い点について、久野は「受身文のカメラ・アングル」
と「発話当事者の視点、ハイアラーキー」の原則聞の「論理的矛盾」によって
説明しているが、彼は同時に次の( 28)a に対する(28) bの文に容認可能で、あると
しているO
(28) a. T h e n, J ohn wa s hi t by Bi ll.
b. N o, J ohn wa s hi t by m,巴 not by Bi11.
そしてこの文が容認可能であるのは、 「話し手が、過去の出来事を回想し、
自分がとった行動を、恰かも他人の行動であるかの如く語る場合である」から
としている。22) では包わの場合はどうであろうか。この場合も話し手の過去の
かも他人の行動であるかの如く」語られているとするならば、信わも同じよう
に解釈できるはずで、あるO こ の よ う に 、 こ れ ら の 文 の 容 認 可 能 性 に 対 す る 久
野 の 説 明 は 説 得 力 を 欠 い て い る と 思 わ れ るO
でl i こ こ で 、 両 文 の 認 識 構 造 を 統 一 的 に 検 討 し て み よ う 。 先 ず 両 文 に お い
て共通しているのは、受身文の認識構造から明らかなように、話者は先ず、J ohn
寄りの立場に立っているということである。一方両者の異なっている点は、
(28) bのby meがこの文のいわゆる「焦点」であるのに対して、信わのby m巴は
そうではないということであるO この「焦点」というのは、文中の語句をそ
の 意 味 的 機 能 の 面 か ら 把 握 し た も の で あ る が 、 直 接 的 に は 、 言 い か え れ ば 話
者 の 認 識 と し て は ど の よ う な 認 識 で あ る の か を 考 え て み る と 、 こ れ は 、 対 象
( この場合は対象化された話者) に対する主体的認識であると言えようO そ
してこの認識は、倒bの場合、 J ohn寄りの立場からではなく、観念的な話者
が 現 実 の 話 者 を 認 識 す る 立 場 か ら の 認 識 で あ る 。 な ぜ な ら こ の 「 焦 点 」 の 認
識に、 J ohn寄 り の 立 場 に 立 っ て は じ め て 成 立 す る 認 識 で は な く 、 観 念 的 な 話
者 がJ ohn寄りの立場から現実の話者の立場に復帰して、そこにおいて現実の
話者を対象として認識したときに伴う認識であるからである。23)
それに対して仰の場合とは、 (28)bの 場 合 の よ う に 「 焦 点 」 の 認 識 が な い た
め に 、 観 念 的 な 話 者 がJ ohn寄 り の 立 場 か ら 現 実 の 話 者 の 立 場 に 復 帰 す る 契 機
をもち得ず、 J ohn寄 り の 立 場 か ら な る 自 分 に 対 す る 第 三 者 的 な 認 識 が 成 立 し
ている。そしてこれが、 (28)bの 場 合 の よ う な 通 常 の 自 己 認 識 、 す な わ ち 現 実
の 話 者 を 観 念 的 な 話 者 が 認 識 す る と い う も の と の 聞 に 対 立 関 係 を 発 生 さ せ て
お り 、 仰 の 容 認 可 能 性 が 低 い の は 、 こ こ に 認 識 論 的 根 拠 が あ る と 考 え ら れ る
のである。
では、これらと話者を行為者とする受身文で、「焦点」認識がない場合に、
容認可能なのはどんな場合であろうか。ここで、 Ka t o(1979) の提出してい
る次の例を検討してみよう。
四) 1 s ai d,“ Me wa t c h i t ! F u c k t hat ! L e t h im wa t c h it . "
H e wa s hi r ed by me. 1 c oul d f i r e h im if 1 di dn' t l i ke hi m.
受身文と話者の視点
( St uds Ter k el, W or ki ng)
問題は下線部の受身文であるが、 こ こ で 注 意 す べ き は 、 過 去 分 詞 hi r ed であ
るo 217J の分析から明らかなように、 この hi r ed が、「彼」の立場に話者が移行
して、 そ こ に と ど ま っ た ま ま の 認 識 の 表 現 で あ る な ら ば 、 こ の 受 身 文 の 容 認
可能性ムは低くなるはずであるO ところがこの表現は、 iセ
と い う 客 体 的 認 識 と 主 体 的 認 識 の 統 宇された認識が表現されているばかりで
はなく、 この認識を、
I
f
皮 」 の 立 場 か ら 復 帰 し て 、 現 実 の 話 者 の 立 場 か ら さ ら に 主 体 的 に 認 識 す る と い う 構 造 を も っ て い る の で あ る 。 よ り 直 接 的 な 言 い方をするならば、 「傭われている」 こ と を 強 調 す る 認 識 で あ る 。 そ し て こ の
現 実 の 話 者 の 立 場 か ら 分 離 し た 観 念 的 な 話 者 の 立 場 か ら 、 現 実 の 話 者 を me
と表現している。 したがってこれは通常の自己認識のあり方であるから、
の 受 身 文 は 容 認 可 能 と な っ て い る と 考 え ら れ る 。
次に、 F a l k (1 980) がとり L げ て い る 、 話 者 が 主 語 と な っ て い る 受 身 文 の 容
認 可 能 性 に つ い て 検 討 し て み よ う 。 次 の 文 を 参 照 さ れ たL。、
(30) a. (? ) 1 wa s s t opped by J ohn.
b John s t opped me.
先 ず(30)bについてであるが、 (26)の「視点」の規定に基づいて考えると、 この
文 に む い て は 、 観 念 的 な 話 者 の 立 場 か ら 現 実 の 話 者 を 認 識 す る と い う 通 常 の
自 己 認 識 が me と い う 表 現 で 示 さ れ て お り 、 ま た J one 寄 り の 立 場 へ の 観 念 的
な 話 者 の 移 行 を 規 定 す る よ う な 認 識 の 構 造 と は な っ て お ら ず 、 認 識 に む け る
対丘関係は発生していない。
三方(30)aの場合、 こ れ を た ん な る 現 実 の 客 観 的 な 事 実 の 叙 述 と 解 釈 す る な
な ら ば 、 前 項 で 考 察 し た 受 身 丈 の 認 識 構 造 に 規 定 さ れ て 、 観 念 的 な 話 者 が 現
実の話者と同じ立場で、 第 三 者 的 に 対 象 化 さ れ た 自 分 を 認 識 し 、 次 に そ の 対
象 化 さ れ た 自 分 の 立 場 に 移 行 す る と い う 過 程 的 構 造 を も っ て い る と 考 え ら れ
る 。 そ し て こ の 第 三 者 的 な 臼 己 認 識 と 、 通 常 の 、 観 念 的 な 話 者 が 現 実 の 話 者
を 認 識 す る と い う 自 己 認 識 と の 聞 に 対 立 関 係 が 発 生 し 、 そのことが、 (30) aの
的 な 話 者 が は じ め か ら 自 分 を 第 三 者 的 に 認 識 し て い る 場 合 に は 、 こ の よ う な
対立関係は発生しない。したがって、 (30) a を こ の よ う に 解 釈 す る な ら ば 、 容
認可能となるはずで、あるO
で は 、 話 者 を 主 語 と し た 受 身 文 が 、 夢 や 空 想 の 世 界 の 自 分 を 描 く と き 以 外
はすべて容認可能性が低いかというとそうではないことは、 (22)b、でBol i ng e r
(1977 ) の例として示しておいた通りである。そこで、この例を再び取り上げ
て十食言すしてみよう。
(22) b. I wa s a ppr oa c he d by t he s t r anger .
この受身文が単なる客観的な事実の叙述ではないことを、 Bol i ng e rは仰との
対 比 で 述 べ て い る が 、 こ れ は ど う い う こ と を 意 味 す る の で あ ろ う か 。 す な わ
ち 、 こ れ ま で の 分 析 で 明 ら か な よ う に 、 叩p1・oac hedとp う過去分詞表現が、
単 な る 客 体 的 認 識 と 主 体 的 認 識 の 統 ー さ れ た 認 識 で あ る ば か り で は な く 、 そ
れ に 対 す る 現 実 の 話 者 の 立 場 か ら の 主 体 的 認 識 を も 併 せ て 表 現 し て い る と い
うことである。それゆえ四
)b
のl
は 、 観 念 的 な 話 者 の 立 場 か ら 現 実 の 話 者 を認識した表現であり、 αppr oac hedは 、 観 念 的 な 話 者 が 現 実 の 話 者 の 立 場 に 復
帰 し て 、 そ こ か ら 上 述 の よ う に 認 識 し た 表 現 で あ る と 言 え よ う 。 つ ま り こ こ
に は 、 認 識 に お け る 対 立 関 係 が 発 生 し て お ら ず 、 し た が っ て(22)bは 容 認 可 能
となっていると考えられる。
以上、 「発話当事者・の視点ハイアラーキー」に関わる受身丈の容認可能性
の 認 識 論 的 根 拠 に つ い て 、 筆 者 の 分 析 を 示 し て き た が 、 次 に 「 対 称 詞 の 視 点
ハ イ ア ラ ー キ ー 」 に 関 わ る 受 身 文 に つ い て 、 同 様 の 分 析 を 試 み て み た い 。
3- 3 I対 称 詞 の 視 点 ハ イ ア ラ ー キ ー 」 に 関 わ る 受 身 文 の 考 察
先ず、この原則に関わる表現、例えばJ ohn' s wi f e としけ表現を取り上げて、
この認識構造を考察してみよう。ここで注目すべきは、 wi f e という表現であ
る 。 こ れ が あ る 対 象 ( こ の 場 合 は 実 体 ) を 実 体 的 に 認 識 し た も の で あ る こ と
には異論あるまいが、ただそれだけの認識ではなし迎。これはJ ohnという表現
と比較すれば A層はっきりするが、 J ohnというのは、ある特定の対象を、個
別 的 に 、 つ ま り 他 の 対 象 と 切 り 離 し て 、 固 有 の 実 体 と し て 認 識 し た 表 現 で あ
受身文と話者の視点
る。
そ れ に 対 し て 川f eという表現は、ある対象を実体として認識したものであ
る と 同 時 に 、 そ れ を 他 の 存 在 と 切 り 離 す の で は な く 、 他 の 存 在 と の あ る 特 定
の 「 関 係 」 の 認 識 を も 含 ん で い る こ と が わ か る 。 そ し て こ の 「 関 係 」 認 識 は 、
ある特定の衣場からの( この場合はJ ohn の土場からの) 認識であるO
それゆえに、 J ohn' s wi f e と い う 表 現 は 、 観 念 的 な 話 者 がJ ohn 寄 り の_,'f.場
に移行して、そこからJ ohn か ら 見 た 「 妻 」 と し て の 対 象 を 認 識 し た も の で あ
ると言えるのである。そしてここに、 「対称、詞の視点ハイアラーキー」の原
則 が 成 止 す る 認 識 論 的 根 拠 が あ る の で あ るO
と こ ろ で 、 こ の 原 則 だ け で は 説 明 す る こ と の で き な い 例 が あ る こ と は 、 先
のF al k(l980) の見解を述べたところで見た通りである。そして、 Fal lく['j 身の
説明にも難点があることは前節でも示しておいた。そこでここでは、 F a l k の
扱っている例を用いて、筆者の分析を示しておきたい。
(311 a. H e wa s puni s hed by hi s f at her.
b. H is f at her puni s hed hi m.
1321 a. T h e chi l dr en we r e bei ng s c ol ded by t hei r mot her
b. つ T h e chi l dr en' s mot her wa s scol di ng t hem.
先ず、 1311 a が、 by- phr as e を焦点として解釈するのが第ー義的であるのに
対して、 (321 a はそうではないという事実を分析してみよう。 F al k (1 980) はこ
の こ と と 関 連 し て 、 固 有 名 詞 や 代 名 詞 が 視 点 を 示 す 機 能 を も っ て お り 、 他 の
名 詞 ( 上 の 例 の 場 合 は 普 通 名 詞 ) は そ う で は な い と し て い る こ と は 先 に も 述
べ た が 、 こ れ を 認 識 論 的 に 検 討 し て み る と 、 次 の よ う な こ と に な ろ う 。 す な
わち、 13DaのHeという表現は、観念的な話者が、 「彼」寄りの立場に移行し
て、その位置から「彼」を認識して表現したものであるのに対して、 (30) a の
t he chi l dr en と い う 表 現 は 、 現 実 の 話 者 の 立 場 か ら そ の 対 象 を 認 識 し 表 現 し
た も の で あ る と い う こ と で あ るO
こ の よ う な 認 識 構 造 の 違 い を 踏 ま え て13D a 、(32) aを分析してみると、 (3!1a
と 、 観 念 的 な 話 者 が 「 彼 」 寄 り の 立 場 に 移 行 し て 、 そ こ か ら の 「 彼 」 に 対 す
る認識をH eと表現し、さらにその立場から、 puni s hという行為を客体的かっ
主 体 的 に 認 識 し 、 さ ら にpuni s hの行為主体をそこから認識して、 hi s f at hr と
表 現 し て い る と 考 え ら れ るO と こ ろ が こ れ は 、 単 な る 客 観 的 な 事 実 を 表 現 す
る 受 身 文 の 認 識 の 過 程 的 構 造 、 す な わ ち 、 現 実 の 話 者 の 立 場 か ら 受 身 文 の 主
語 の 指 示 対 象 を 先 ず 認 識 し 、 次 に 観 念 的 な 話 者 が 、 そ の 指 示 対 象 寄 り の 立 場
ヘ 移 行 し て 、 そ こ か ら 上 の よ う な 認 識 を す る と い う 構 造 と は 異 な り 、 そ の た
め(311aの 受 身 文 の 認 識 に 対 立 関 係 が 生 じ て い るO このことが、 (311a を単なる
客 観 的 な 事 実 の 叙 述 と す る 解 釈 を 受 け 入 れ に く く さ せ て い る と 忠 わ れ る の で
ある。
これに対して(321aは 、 事 実 の 客 観 的 な 叙 述 と し て 第 a義 的 に 解 釈 で き るO
な ぜ な ら こ の 場 合 は 、 先 の 分 析 か ら 明 ら か な よ う に 、 t he chi l dr en という表
現 が 、 現 実 の 話 者 の 立 場 か ら の 認 識 の 表 現 で あ り 、 そ こ か ら 観 念 的 な 話 者 が
「 子 供 達 」 寄 り の 立 場 に 移 行 す る と い う 、 客 観 的 な 事 実 の 叙 述 の 受 身 文 の 構
造をもっているからである。
で は 次 に 、 引 は が 焦 点 的 解 釈 を 第 - 義 的 と す る こ と の 認 識 論 的 根 拠 に つ い
て 検 討 し て み よ う 。 前 項 に お い て も 示 し た よ う に 、 「焦点」の認識は、現実
の 話 者 の 立 場 か ら の 主 体 的 認 識 で あ る 。 ま た そ れ に 対 応 し て 、 H e,puni s hed
と い う 表 現 は 、 単 に 客 観 的 な 事 実 を 認 識 し 表 現 し て い る の で は な し こ の 認
識 を さ ら に 「 前 提 」 と し て 主 体 的 に 認 識 し た も の で あ る 。 し た が っ て こ の 場
合 に は 、 客 観 的 な 事 実 の 叙 述 と い う 解 釈 の 場 合 の よ う な 対 立 関 係 は 生 じ て い
な い が ゆ え に 、 よ り 容 認 可 能 と な っ て い る と 言 え よ うO
次に、 (311 b と(321 bの 容 認 可 能 性 の 度 合 の 去 に つ い て 分 析 し て み よ う 。 先 ず
(311 bの場合、先ほどの同有名詞、代名詞の認識構造の検討を踏まえれば、Hi s
f at her という表現は、観念的な話者が「彼」寄りの立場に立ち、そこからHis
という表現がなされ、さらにその位置から「彼」と関わりのある対象をf at her
と表現していると考えられる。そしてさらに、 hi mと い う の は 、 そ の 位 置 か
ら 「 彼 」 を 認 識 し た 表 現 で あ る と 言 え る 。 し た が っ て こ こ に は 対 立 関 係 が 生
-受身文と話者の視点
じていない。
一方(32)bの場合、 t he chi l dr en' s mot her という表現は、現実の話者の立場
から t he chi l dr en と表現し、そこから観念的な話者が「子供達」寄りの立場
ヘ 移 行 し 、 そ こ か ら 「 子 供 達 」 と 関 わ り の あ る 対 象 をmot her と表現したも
のであるO そして t hem と い う 表 現 は 、 そ の 「 子 供 達 」 寄 り の 立 場 か ら 認 識
され表現されていると考えられるが、この認識は、 「子供達」に対する現実
の話者の立場からのt he chi l dr en で表現される認識と、話者の立場を異にし
ているO す な わ ち 、 同 じ 対 象 を 認 識 す る の に 、 違 っ た 立 場 か ら 認 識 し て い る
のである。したがってここに認識における対立関係が発生し、そのために、
(32) bの 容 認 可 能 性 が 低 く な っ て い る と 考 え ら れ るO
以上、 「対称、詞の視点、ハイアラーキー」に関わる受身文( 及びそれに対応
す る 能 動 文 ) に つ い て 、 筆 者 の 認 識 論 的 考 察 を 示 し たO それでは最後にHu
-ma nne s s E mpa t hy H i er ar c hy に関わる受身文の分析を試みてみようO
3- 4 Huma nne s s Empat hy . Hi er ar c hy に関わる受身文の考察
先ず次の諸例を参照されたい。
。
3) ‘T h e Na k e d Maj a' wa s pai nt ed b y Goy a.(34) T h e hous e wa s bui 1t by my f at her .
(35) T h e g a me c an be pl ay巴dby t hr巴e pl ayer s.
(36) T h e benc h wa s c ar v ed by J ohn.
(3
わ ?
*
Gr ot es que c ar i c at ur es we r e pai nt ed by Goy a.(38)
??
T h e f l oor wa s wa s he d by my f at her .(39)
??
T h e g a me i s bei ng pl ayed by t hr ee peopl e.仰い T h e wo o d wa s c a円 edby J ohn.
これらを、前節で取り} 二げた(24) の例と比較してみよう。
(24) A n i nt巴r es t i ng mov i e is bei ng ma d e by Fel l i ni .
さて、 ( 33) - ( 36)と(3わ-( 40)の容認可能性の度合の差を、 F al k (1980) は、主語が主
題としての機能をもっているか否かに求め、そうすると、叫が容認可能で、あ