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時間割表・シケプリ置き場 09年入学文ⅠⅡ22組 Neuling

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Academic year: 2018

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火曜 1 限 並木頼寿先生 歴史Ⅰ 

「清代の中国と東アジア」

試験対策プリント 1

作成:佐藤 芳敬

■はじめに

えっと・・・授業あんま出なくてスイマセン。 ありえないですね。反省します。

状況から考えて、皆さんが単位落としたら俺のせいになるんで(笑)頑張ってください。

■テストについて

去年の並木先生はレポートだったらしいです。 過去問は03、05しか見つかりませんでした。

ただ、傾向として、細かい知識よりも基本事項の意義の理解等に重点を置くようです。 逆評定は大仏らしいので、単位は来ると思います。

■このシケプリについて

テストの形式も考えて、スタンスとしては「歴史の教科書」的に作りました。 主眼を置いたのはレジュメの文章としての再構成、内容補足です。

不備・誤り等あるかもしれません。

念のため、他クラのシケプリを発見次第、置き場をメールで流します。 よろしくおねがいします。

■1 中国と東アジア――歴史の舞台 概要

中国史、東アジア史の中での「清代」の位置づけの解説、というか紹介。定義が曖昧な 語とか説明が必要な語が出てきていますが、それに関してはまた後の回で解説されていま す。

ここで学習する大まかな見方に、次回からの知識を組み合わせれば、テストの解答っぽ いのが作れるかもしれません。

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中国史の中の「清代」には、「征服王朝」としての捉え方と、「中華帝国」としての 捉え方がある。前者は、清朝が中原(中国本土)に侵入した女真(満州)族(東北部のツ ングース系民族)による王朝であることに着目しており、後者は、清朝が 易姓革命(天意 による支配者交代)によって建設された過去最大規模の王朝であることに着目している。

また、清代前半を「盛世」、後半を「衰退」の時代として捉える見方がある。盛世とは 康煕帝、雍正帝、乾隆帝3代の治世を頂点としたアヘン戦争(1840~1842)以前の時代 を指す。一方「衰退」期はアヘン戦争後にあたる。とはいえこの時代も、決して無能な皇 帝の連続ではない。たとえば同治帝は「同治の中興」と呼ばれる一時的な安定期を築いた。

さらに、連続性を持った時代の一部として清代を捉える見方もある。

例えば、「明清時代」「後期中華帝国」という呼称は、明朝・清朝を連続した一時代 とする考えに基づく。ここでは、元朝打倒により成立した宋代以来の連続した中華帝国

(漢民族、そしてその制度・文化に基づく王朝)として、両王朝を一貫した時代として見 なしている。

歴史区分の指標として「冊封朝貢体制」を重視する考え方もある。隋唐~清までを、 中華思想に基づく冊封・朝貢体制によるアジアの国際秩序が保たれた時代として一貫した 歴史と見なしている。

「近世社会」として東アジアの共通性を探る試みもなされている。具体的には、宋~ 清代を士大夫中心の一貫した歴史とし、日本の幕府(武家中心)、朝鮮王朝(両班中心) との共通性である。

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東アジアの中の「清代中国」を考えるには、アジアという地域概念、とくに「東アジ ア」地域の設定の問題が生じる。「アジア」「東洋」は同義かという問題もある。例え ば、日本から見た「東アジア」とは中国、日本、朝鮮、ベトナムなど、広範な地域を指す。 一方、中国から見た「東アジア」とは日本、朝鮮、琉球を指すのが一般的である。これは 、 皇帝の居場所を世界の中心とする中華思想に基づき、東=「中国の」東、東洋=「中国 の」東の海とする考えによる。

また、歴史の舞台としての東アジアに対しても、様々な見解がある。

中国古代からの歴史観によれば、この地域の歴史は「漢字文化圏」「儒教世界」「律令 体制」など中国文明の、中国王朝から周辺諸地域への広がりの過程であるといえる。  また、海上交易・「海域」へ注目した場合、政治権力(=皇帝を世界の中心とする冊 封体制)と経済関係(=朝貢形式による各地との貿易体制)の内容・バランスの変遷の 歴史であるといえる。

 また、近代史における「東アジア」の位置づけは、概して「西洋の衝撃」(19c後~ 20c前における西洋列強の進出)以後、西洋列強の強い影響下(植民地など)になった 地域としてのものである。言うまでもなく、清朝もその歴史をたどった。

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(※中国における時代区分 に関してはレジュメ参照。)

■2 明末清初――明朝の滅亡と満州族再統合について 概要

 明の解説です。正直高校レベルの知識がほとんどなので、読み飛ばして構いません(俺 は忘れてましたが)。郷紳はすごいですね。バレると思いますが、陽明学の※解説はウィ キぺディアのコピペです。

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1351年、元朝の支配に対し、白蓮教団を母体とする「紅巾の乱」が勃発。反乱勢力は 中国南部を制圧する過程で内部分裂を繰り返すが、最終的には貧民出身の朱元璋によって 統一を達成。「明」王朝が創立される(1368)。

この戦争には二つの側面があると言える。一つは、民族戦争としての側面。元朝のモン ゴル人支配に対する、漢民族の「紅巾の乱」という構図である。もう一つは、階級闘争と しての側面。紅巾軍は貧民(生産者)主体であり、矛先は地主などの土地所有者、支配 者階級に向いた。朱元璋(貧農出身)も統一後に大商人・大土地所有者からの財産没収を 敢行し、自作農を創設した。

新たに成立した明朝では、皇帝独裁が指向された。皇帝として太祖洪武帝を名乗った朱 元璋は独裁権力の確立を目指し、中書省を廃止して六部を直属とした。また軍も皇帝直 属とし、宦官の専横を抑えるために宦官は学問をしてはならないという布告を出した。さ らに、文字の獄(明代)や官僚の不正への厳罰主義など、知識人・官僚の弾圧がおこなわ れた。疑獄事件も多発し、「胡惟庸の獄」「藍玉の獄」などで功臣が粛清される。これに よって、独裁権力がより強固になり、さらに皇帝の世襲制が確立した。

国家支配体制として賦役制度も整備される。

里甲制とは全国の民衆を 110 戸 1 グループとし、その中で裕福な者 1(里長戸)に対し それ以外 10 戸(甲首戸)を合わせ、11 戸を納税・労役の最小単位とする制度である。 110戸を里、11 戸を甲と呼んだ。

里の中の収税・治安維持などの公的業務は里甲正役と呼ばれた。これは甲が 1 年毎に持 ち回りで行い、10 年で一回りとなる。

さらに、「六諭」(道徳律)を唱えながら集落内を闊歩する役職として里老人が設置さ れた。民衆の儒教的強化(支配しやすさ)が目的であった。

また、制度施行のための道具として賦役黄冊が挙げられる。これは戸籍簿兼租税台帳で あり、戦乱によって実状に合わなくなった戸籍を整理するために編纂された。これによっ て上記の里甲制などが定まった。

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このような明初の諸制度は、経済発展に伴う富裕層への土地集中、民衆の都市移住の進 展により、次第に機能不全へと陥った。そのため、明末には丈量が行われる。これは張居 正の政策であり、彼は、所有地の量をごまかして報告して税逃れをすることが多かった郷 紳勢力に対し、大量の隠し田を摘発した。また、新たな税制として一条鞭法が導入された。 複雑化した税制は、これによって丁税(人頭税)と地税の一括銀納に変わる。背景にはア メリカ大陸・日本からの銀流入があった。

洪武帝の時代に話を戻す。官吏登用手段としては、引き続き科挙制度が採られた。しか し、前述した洪武帝の皇帝独裁への志向によって、官僚独自の裁量権・発言権は失われた 科挙制度も定型文暗記が重視され、官僚の気概・質の低下が見られた。とはいえ明代、科 挙官僚は地方社会において「郷紳」として力を持つ(後述)。「優免」と呼ばれる、税負 担免除の特権もあった。

1398年の洪武帝死後、孫の建文帝が即位した。1399 年、幼少の皇帝に対し燕王の朱レ イ(木偏に隷の左側)が挙兵。「君側の奸を靖んじ皇室の難を除く」とし「靖難の軍」を 自称する。この反乱は成功し、1402 年、燕王は南京で永楽帝として即位した。即位後、 彼は宦官を諜報機関として用い、独裁権力を確立した。さらに、郷紳や大領主の勢力下に ある南京から、より自由に裁量をふるうことのできる北京へ遷都した(1421)。

永楽帝の最大の功績として、大規模な対外拡張政策がある。彼はベトナム征服、モンゴ ル遠征によって明朝の領土を拡大した。さらに宦官・鄭和による南海への大航海(1405

~1433)で、朝貢地域が増大した。

ここで、洪武帝と永楽帝を比べてみよう。恐怖政治や軍事行動による権力奪取は、二人 に共通する特徴である。一方、洪武帝の時代には宦官勢力は不遇であったのに対し永楽帝 は宦官を優遇したこと、前者が領土拡大に慎重で農本主義的国家を目指したのに対し後者 が積極的領土拡張・冊封の拡大による世界帝国を志向したことなど、対照的な点もある。

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明代には日本銀、メキシコ銀が流入し、銀経済が発達した。西洋での大航海時代の展開 によって交易も盛んに行われるようになり、1557 年にはポルトガルがマカオに居留地を 獲得した。これらによって経済の活性化が促された。

一方で、社会変動も起こる。農村部においては、大土地所有が進展する中、抗租とよば れる佃戸による小作料不払い、奴変と呼ばれる奴僕(とりわけ、生産力向上などで実力を 蓄えた豪奴)による反抗が発生した。身分秩序の崩壊ともいえる諸事件を背景に、従来全 面的な支配・被支配の関係だった地主と小作人は、「契約」による関係を結ぶようにな る。

都市部においても、万歴以降、民変と呼ばれる組織的貧民反乱が多発する。これは陽明 学などに属する実践重視の知識人が扇動した。(明代の学門については後述)

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 明代(特に後期)より富裕な士大夫層が地方の指導者としての地位を確立し、郷紳と言 う新しい身分層を形成し始める。彼らは基本的に官僚であり、優免特権を有した。多くは 大土地所有者であり、それゆえ子孫の教育環境を整えられたため、官僚が社会的階層とし て固定化された。地域社会においては地主としてリーダーシップを発揮し、水利事業、徴 税、さらには世論形成の主導権を握った。地方秩序の頂点としての意識の元、彼らは慈善 事業にも積極的であった(同善会など)。

 また、経済発展、農業生産性向上によって多様な社会層が繁栄した。従来の皇帝―民衆 という社会観に変わって社会的な多元主義が見られ、商人や職人の倫理としての思想が萌 芽した(後述の理学)。

 明末の新たな思想として、科挙合格・支配秩序の道具と化した 朱子学(宋学)に対する 新しい諸学派が挙げられる。それらは人間の善性と欲望に基づいた自由な行動を肯定し、 前述の多元主義的社会観のもとになった。例えば王陽明に大成された陽明学は「心即理

(※1)」「致良知(※2)」「知行合一(※3)」を掲げている。この思想は性質から 理学に対して心学と呼ばれた。一方で知識人(=官僚・在野の学者)の中には、社会の現 実的な要求に応えることを学問の目的とする考えもあった。顧憲成のもと東林書院に結集 した彼らは東林党と呼ばれ、一時は政権を握った。

※1 「心即理」は陸象山が朱子の「性即理」の反措定として唱えた概念で、王陽明はそ れを継承した。朱子学のテーゼ「性即理」では、心を「性」と「情」に分別する。「性」 とは天から賦与された純粋な善性を、他方「情」とは感情としてあらわれる心の動きを指 し、「情」の極端なものが人欲といわれる。そして朱子は前者のみが「理」に当たるとし た。また「理」とは人に内在する理(=性)であると同時に、外在する事事物物の「理」 でもあるとされる。つまり「理」の遍在性・内外貫通性が朱子学の特徴であった。 しかし王陽明は「理あに吾が心に外ならんや」と述べるように、「性」・「情」をあわせ た心そのものが「理」に他ならないという立場をとる。この解釈では心の内にある「性」

(=理)を完成させるために、外的な事物の理を参照する必要は無いことになる。この考 えはやがて外的権威である経書、ひいては現実政治における権威の軽視にまでいたる危険 性をはらんでいた。

※2 陽明学の方法論的側面を表すことば。「致良知」の「良知」とは『孟子』の「良知 良能」に由来することばで、「格物致知」の「知」を指すが、「致良知」はそれを元に王 陽明が独自に提唱した概念である。まず「良知」とは貴賤にかかわらず万人が心の内にも つ先天的な道徳知(「良知良能は、愚夫愚婦も聖人と同じ」)であり、また人間の生命力の 根元でもある。天理や性が天から賦与されたものであることを想起させる言葉であるのに 対し、「良知」は人が生来もつものというニュアンスが強い。また陽明学において非常に

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動的なものとして扱われる。

そして「致良知」とはこの「良知」を全面的に発揮することを意味し、「良知」に従う限 りその行動は善なるものとされる。逆に言えばそれは「良知」に基づく行動は外的な規範 に束縛されず、これを「無善無悪」という。

※3 良知の有り様。ここでの「知」(良知)とは端的に言えば認識を、「行」とは実践 を指す。陽明学に反感を持つ朱子学者や日本では誤解され実践重視論として理解されたが 、 これは本来の意味からずれた理解である。心の外に理を認めない陽明学では、経書など外 的知識によって理を悟るわけではない。むしろ認識と実践(あるいは体験)とは不可分と 考える。たとえば美しい色を見るときのことを例に取ると、見るというのは「知」に、好 むというのは「行」に属す。ただ美しいと感じてその色を見るときには、すでにして好ん でいるのであるから、「知」と「行」、つまり認識と体験とは一体不可分であって、両者 が離れてあるわけではないと王陽明は説く。また「知は行の始めにして、行は知の成な り」とする。これが「知行合一」である。道徳的知である良知は実践的性格を有し、また 道徳的行いは良知に基づくものであって、もし「知」と「行」が分離するのであれば、そ れは私欲によって分断されているのだ、とする。朱子学では「知」が先にあって「行」が 後になると教える(「知先行後」)が、「知行合一」はこれへの反措定である。

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 明末と呼ばれる時代には、帝国は「北虜南倭」と呼ばれる苦境に陥る。

 北虜と呼ばれた北方民族の侵入に着目すると、1449 年にはオイラートのエセン・ハン が侵入し、英宗が捕虜となった(土木堡の変)。さらに 1550 年にはオイラートに代わっ たタタールのアルタン・ハンが北京を包囲する。そして 1588 年には、ヌルハチ率いる 女真族によって建州三衛が統一される。この間にも北方での戦闘は止まず、明の国力は疲 弊した。

 南倭と呼ばれたのは、豊臣秀吉の文禄・慶長の役(1592,1597)である。朝鮮への大 規模な援軍によって、すでに限界であった明の崩壊は決定的となった。

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 ヌルハチの指揮下、中国東北部出身の少数民族である女真族は、急速に勢力を拡大した。 1616年には支配地を後金国と号し、1636 年には後継者ホンタイジ(皇太極)が国号を

「清」として民族名を「満州」に変更する。その後、清は李氏朝鮮・モンゴルを征服した が、背景には八旗と呼ばれる強力な軍事制度があった。

(以下のレジュメ内容については第三回以降に述べる)

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■3明清交代と東アジア諸地域――「華夷変態」をめぐって 概要

 清の支配確立と漢民族の懐柔、そして東アジア外交。日本も朝鮮も意外と「中華」に 拘ってます。レジュメの文献資料と合わせて「知るところを記せ」とか出そうなので、ご 確認を。

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 ヌルハチ、ホンタイジ二代の活躍により、清は朝鮮、モンゴル族、チベット族、新疆地 域そして中国北部を支配下に置く大帝国となった。1644 年に明朝が滅亡すると、前年に 即位した順治帝のもと、清軍は呉三桂(明清国境の山海関を守っていた明の軍人)の求め に応じて南下を開始する。北京を奪った清は翌年、南京の南明政権を破り、1662 年まで に南明勢力を掃討する。

 反乱によって明を倒したのは李自成であり、彼が建国した「大順」を圧倒的な実力で 破った清は、明の後継を名乗る根拠があり、政権奪取を「易姓革命」と称することがで きた。とはいえ異民族の清による中国支配には反発も大きく、支配には慎重を要した。  そのような事情を背景に、清は、科挙の実施や満人官僚と漢人官僚(優遇)の同数採用 など、明朝の支配を継承する路線を進む。さらに漢民族に対しては、伝統文化尊重や編 纂事業(『康煕字典』『古今図書集成』『四庫全書』etc.)といった懐柔策と、辮髪強 制・文字の獄・禁書に代表される強圧策を併用した。実際の満州人は本土侵入以前からか なり中国化しており、虐殺などは稀であったと見られる。

 それでも漢民族の反発は根強かった。「大義覚迷録」雍正帝の上論では、逆書(反清文 書)の「夷狄は人類と異なる」とする考えに対し、満州は種族的には「夷」であれ、文明 化されて「徳」を有するため、天下を治める資格を与えられたと反論している。(ただし 、 乾隆帝は「満州は夷ではない」し、この書を禁書とした。)

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 広大な領土と冊封地域を有し「世界帝国」となった清のシステムは、皇帝を中心に本 土・周辺地域・外国(直轄地・藩部・朝貢国・互市諸国(貿易相手))へと連続していた

「海禁」と呼ばれる対外貿易の統制は乾隆帝時代には非常に強固になったが、一方で実質 的な交易ネットワークは機能し続けた。当時の朝貢使節の文書には清朝皇帝への畏敬が示 されている(レジュメ参照)。

 江戸幕府成立後、明との国交回復が難航した日本は 1609 年、対馬の宗氏を介し朝鮮に

「仮道入明(明に入るため国内を通行させてほしい)」を要求したが拒絶され、軍事衝突 事件に到る。1636 年には清が朝鮮経由で日本に朝貢を促すが、朝鮮は取り次がなかった。 1635年以降、幕府は中国人の来航も長崎に限定し、王朝交代期の海禁弛緩期に来日した 中国人を長崎市内に雑居させ、幕府主導の中国貿易を確保しようとしていた。つまり、清

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との国交は結ばれなかったのである。思想的にも、「華」である明に代わって「夷」で ある清が起こったこと(変態)を「華」の消滅と見なし、皇統の一貫性が保たれている

(とされる)日本こそが「華」であるとする日本型華夷意識が形成された。

 江戸幕府と清が直接の関わりを持たなかったのに対して、朝鮮は露骨な侵略を受けた。 清は 1627 年に朝鮮へ侵攻し、1636 年には服属を達成した(27 年の侵攻の際、朝鮮政府 は幕府の救援申し入れを拒否している)。しかし、軍事的な制圧に対し、朝鮮知識人は儒 教的伝統を根拠に自国を「小中華」とし、夷狄である清の追放、中原の「中華」回復を志 向する「攘夷」論を展開する。

1609年、琉球は島津家によって征服され、国王尚寧以下が薩摩に連行された。日本へ の忠誠を誓った王国であるが、1649 年、順治帝の招諭を受け、1654 年には 2 年 1 貢の 冊封に組み込まれた。これは 1663 年に康煕帝によって繰り返され、琉球は二重支配を受 けることになった。幕府は清による琉球の直轄領化・文化強制を憂慮する一方で日琉関係 を隠匿し、琉球の対外的独立性は逆に強まった。この体制によって、幕府には対清の外 交文書は存在しなかった。

 また、朝鮮と日本の関係は、1607 年に宗氏を介して回復した。ここでは「万暦己酉約 条」が結ばれ、宗氏の通交貿易と詳細が決定された。

参照

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