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TGM5 7 最近の更新履歴 ボードゲーム読書会@高田馬場

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Academic year: 2018

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The Game Makers  5-7

○ 1950 年代:拡大の時代

1952 年のジョージの死後、ロバート・バートンが完全に実権を握る。好況に沸くアメリカのゲー ム需要(メインターゲットはベビーブーマーであり、彼らの親世代が PB を大企業へと押し上 げた顧客であった)に応えるため、PB は拡大を繰り返す。53 年には 50 万ドルをかけて工場 と倉庫を接続し、輸送のロスを無くした。これはセーラムから移転しないという決断も意味した。 モノポリー発売以後、PB を脅かすものはゲーム業界に存在しなかった。しかし 53 年に Selchow&Righter がスクラブルの権利を取得する。PB はスクラブルにキーワードカードを加え たその名もキーワードというゲームを発売するが、スクラブルの人気には対抗できず、PB 以外 からの大ヒット作の存在を許すことになる。

また MB の売上も急上昇していた。それまでの主要部門だった教育ビジネスにゲーム部門が取っ て代わっていた。【ミルトンブラッドレーはキンダーガーテンのアメリカ普及の立役者である。 J. L. Snyder, "A Critical Examination of Milton Bradley's Contributions to Kindergarten and Art Education in the Context of His Time" を参照】

急成長するライバルたちに対抗すべく、ロバート・バートンは会社内に R&D 部門を立ち上げる。 これまで無かったのが不思議な話だが、50 年代の PB には独立したマーケティング部門も存在 しておらず、広告もジョージ自身が書いていた。バートンは広告の手腕はなかったがその重要 性は認識しており、専門家を雇用して刷新を図った。

当時はテレビが爆発的に普及し、支配的メディアとなる時期である。PB もこの時流に乗り、全 国的な人気を誇る NBC's Today と契約。番組内に PB のゲームが置かれるようになる。効果は 抜群で、PB の主要商品は 50 年代を通じて売上が上昇していった。

1957 年のスプートニクをきっかけとして宇宙ブームが起こる。それはまた専門家養成の必要 性を国民に痛感させた。これにマッチしたゲームが 56 年にフロリダ大学の准教授であるジェ イムス・ブラウンが出版した Careers であった。例えば少女は「幸福」を大事にし、少年は「お 金」や「名声」を重視するというような様々な嗜好を持った人びとを、プレイヤーにそれぞ れ秘匿目的を持たせることにより、同時に楽しませることができた。PB はライセンスを受け、 57 年に出版。久々のヒット作となった。【そのものずばりの宇宙ゲームについては Polizzi and Schaefer, Spin Again,74-77 を参照。主役はスプートニク以前から宇宙もののライセンスを複数 とっていた MB だろう】

1957 年夏、PB のフランスにおけるパートナーである Miro 社のボワソーがセーラムを訪れ、「世 界征服」というゲームをプレゼンする。バートンは直ちに北アメリカでの権利を取得するが、「戦 争というテーマ」「初期配置が運ゲーすぎる」「長すぎる」等の理由でスタッフ受けは良くなかっ た。戦争テーマゲームは教育者たちの反対もあり、売上は落ちていた【戦争ゲームへの抗議が 高まるのはベトナム反戦運動の高潮と同時期の 60 年代中盤からで、65 年にはニューヨークト イフェアに保護者団体が抗議に訪れた。このときリスクも槍玉に挙げられた。Spin Again, 48- 53】

あまりに好戦的な題名はリスクと改められ、多くの社員がゲームをプレイし、改良に関わっ た(PB の R&D 部門が非常に小さかった理由として、他部門の社員が開発に携わる伝統が挙げ られる)。スピードアップのため、攻撃側のダイスを 3 個にし、防御側を 2 個にした。リスク

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は 1959 年に小売価格 7.5 ドルで発売された。当時のゲームとしては高価だったが、この年に 100 万ドルを売り上げた。

当時急成長を遂げた会社にマテルがあった。巧みなテレビ広告と、バービー人形に代表される 革新的な玩具により、短期間で PB を脅かす存在となっていた【1959 年発売のバービー人形は 子ども向けの、「胸のある」初めての人形だった。遠藤徹『プラスチックの文化史』を参照】 バートンはゲームだけではなく玩具にも乗り出すことを決意。Pastime Products というシリー ズを売りだすが、数年で停止となる。

だが拡大路線は続いた。セーラムに居を構える PB にとって、輸送コストが悩みの種であった。 ライバルの MB に比して、どうしても高価になってしまう。このためアイオワ州デモインに流 通センターを設立。セーラムで製造したゲーム部品をデモインに送り、組み立て、中西部に輸 送するようにした。

次いでバートンはミロの株式を 40% 取得し、筆頭株主となった(三頭政治状態)。それからま もなくミロはツーリングの改変版であるミルボーンを発売、フランスで大好評を得た。ツーリ ングがある PB がこれを売る理由はなかったが、他会社がアメリカでミルボーンを売るのを懸 念し、ツーリングの発売を停止してミルボーンに置き換えた。アメリカ版ミルボーンは 1963 年に 3 ドルで発売。全国的人気となり、モノポリーの売上を凌いだ。

当時はまた「プラスチック革命」の時期であり、多くの会社がプラスチックを用いた「三次元 アクションゲーム」を発売していた。とくに Ideal Toy(著者が後に勤めることになる)はマウ ストラップを始めとしたヒット作で、このジャンルで隆盛を誇っていた。

【三次元ゲームについては Spin Again, 14 を参照。ビデオゲームの前史と捉えている】

【戦前のプラスチックにはセルロイド(ピンポン玉に使われた)、ベークライトがある。後者は 暗い色しか出せないという欠点があったが、30-40 年代の流線型ブームに大きく寄与した。戦 後のプラスチック(ポリなんたらとか塩化うんたらとか)はカラフルな色使いを可能とし、食 器等を始めさまざまな用途に使用された。プラスチックがネガティブイメージをもって見られ るようになるのは 60 年代からで、ケン・キージーの批判が若者に浸透したのを濫觴とする。 一般に普及するのは 70 年代以降だと思われる。(『プラスチックの文化史』)】

PB にはプラスチックのノウハウがなく、成功した最初のアクションゲームであるブービート ラップも木製であった。バートンはプラスチック成型会社を取得し、以後モノポリーのコマは ポリスチレン製となった(デラックス版は木製コマ)。

○ 1960 年代:買収劇

1963 年、還暦を迎えたロバート・バートンは、後継者にエドワード・パーカー(ジョージの 長兄エドワードの孫)を指名した。

PB の売上は上昇を続けていた。1957 年に 1330 万ドルだった売上は、1966 年には 1600 万 ドルとなっていた。コスト削減のためデモインにゲームボード工場が作られ、1967 年に稼働 を開始した。

1967 年、ウィジャ盤の権利をウィリアム・フルドの息子兄弟から 97 万 5 千ドルで獲得。こ れは会社史上最高額だった。67 年の売上はモノポリーを凌ぎ、230 万個が売られた。不安の 高まる「不確実性の時代」に、超自然的ゲームは適合していた。

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ウィジャ盤の起源は古代にまで遡るが、アメリカ近代史では 1891 年にエリジャ・ボンドがウィ ジャ盤のアメリカパテントを取ったのが始めで、それをフルドが翌年に買い取り、改良をほど こした。最初はオリオールという名でヒットしたこのゲームは、Ouija(フランス語の「ウイ」 とドイツ語の「ヤー」)と改名され、27 年のフルドの死後も人気を保っていた(特に大戦時に 人気が上がり、67 年にもヒットしていた)。

50 年代からの PB の拡大路線は、より多くのキャッシュを必要としていた。対策会議は 57 年 から続いていたが、67 年には恒常的議題となっていた。同時期に、PB 買収に興味を示す会社 が複数現れた。バートンはリーマンブラザーズに審査を依頼し、その結果残ったひとつが、シ リアルを主力商品とする食品会社、ジェネラルミルズであった。

ロバート・バートン自身は買収に余り乗り気ではなかったが、いくつかの要因が決意を促した。 まず次世代の役員たち、とりわけ息子のラニーが乗り気であったこと。彼はビジネススクール 出の MBA 持ちであり、PB の近代化を図っていた。また 65 歳となったバートンが引退に惹か れていたこと。それに当時、玩具メーカーの株価が軒並み高値をつけていたことである。こう して 1968 年、パーカーブラザーズはジェネラルミルズに買収された。

○ 1970 年代:ジェネラルミルズとの蜜月期

買収に合わせ、エドワード・パーカーが社長となる。彼は会社を財務、制作、人事、マーケティ ング、営業、開発の 6 部門に分け、それぞれの頭に役員を置いて機能化を図った。他にも IBM コンピュータの導入、巨大流通センターの設立、オフセット印刷機の導入などが行われた。 ロバート・バートンは会長職に就いていたが、ジェネラルミルズの人事権を無視したため、引 退に追い込まれた。

買収によってキャッシュを得た PB は、MB やアイデアルトイ等のライバルたちのようにテレビ コマーシャルに乗り出そうとしたが、彼らのプラスチック製アクショントイに比して PB のゲー ムは見栄えがしなかった。この解決のため 1968 年に Instant Insanity(4 個のキューブを用い た逆ルービックキューブのようなもの)が売りだされた。翌年には Soma(もともとは 1933 年につくられたパズル。テトリス型のパーツを組み合わせてお題のかたちをつくる)が発売され、 こちらもヒットした。70 年には Nerf という室内ボールを発売。3600 万ドルを売り上げた。 しかし 70 年、PB の買収を主張し、買収成立後は PB を統括してきたクレイグ・ナレンがジェ ネラルミルズを去った。代わってドン・スワンソンがその地位に就き、ジェネラルミルズ傘下 の PB やケナー、他小ゲームメーカーのグループ化を行った。【ケナーは 1947 年設立の玩具会社。 67 年にジェネラルミルズに買収される。買収後になるが、スターウォーズのアクションフィギュ アが有名】

1972 年、ボビー・フィッシャーとボリス・スパスキーがアイスランド、レイキャヴィークで対戦、 世界中を沸かせた。これを見たワディントンのヴィクター・ワトスンはレイキャヴィークでの モノポリー世界大会をラニー・バートンに掛け合い、了承を得て開催した。1977 年には「真の」 第一回世界大会がモンテカルロで行われ、以後数年おきに開催されている。

リスク以来、久々の PB「ゲーム」のヒットとなったのが、70 年発売のアートをテーマにした 非対称情報競りゲーム、マスターピースである。これはゲーム・玩具作家マーヴィン・グラス がつくったもので、彼はマウストラップ等多くのヒット作を生み出していた。PB によるシカゴ

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美術館との絵画複製交渉の後で発売されたこのゲームは、5 年間で 350 万個を売り上げた。 1974 年、エドワード・パーカー死去。ラニー・バートンが跡を継いだ。ラニーによって PB の 近代化は完了を見る。保守的な同族会社から、MBA 持ちを多く雇い入れ、爆発的な売り上げ拡 大を目的とする企業への変換がここに成った。また役員用のオフィスをベバリーに建設。セー ラム住民は不平を漏らしたが、ラニーが志向するの企業イメージ転換には必要なことだった。 この時期のヒット作として Payday や Boggle(ワードゲーム。ランダム生成されるアルファベッ トのグリッドから言葉を探す)がある。後者は 1972 年の発売時には失敗したが、76 年に地下 鉄広告と広告板によってヒットし、77 年にはミリオンセラーとなった。他にもテレビ番組をも とにした Happy Days や、雑誌をテーマにした The Mad Magazine Game がヒットした。 カリフォルニア・バークレー校の経済学教授ラルフ・アンスパックが自作の経済ゲームをアン チモノポリーと改名した。PB は商標権侵害で告訴し、法廷闘争が行われた。審理は PB 有利に 運ぶがアンスパックは控訴し、控訴院は『「モノポリーを買ってきてということばは、パーカー ブラザーズの当該ゲームを買うことを意味する」ということを発話者が認識していなければ、 その商標は適正ではない』(要はモノポリーが PB のものだと認識してなきゃだめだということ) とする「購買動機付けテスト」の結果に基づき、PB に不利な判決を下した。

PB は判決への対抗として、まずアンチモノポリーの商標を買い上げ、それをアンスパックに再 ライセンスした。また他商標権者と連合しロビー活動を行い、連邦商標権法を成立させた。こ れにより「購買動機付けテスト」方式は公式に否定された。

70 年代を通じ、PB は成長を続けた。この時代は PB の「黄金期」と言って良い。

【と著者は書いているが、しかしゲーマーとしては見るべきものは少ないのだ】

○ 1980 年代:凋落の開始

*時間が全くないので覚書で(すんません)非常に面白いところなんで次回の前半で扱いましょ う。

70 年末からの電子ゲームブームは PB も襲い、数々のエレクトロニクスゲームを開発。またビ デオゲームにも参入を試みる。新たにジェネラルミルズのトイ部門統括者となったジム・フィ フィールドのもとで、PB はグループ内におけるビデオゲーム開発の役割を担うこととなる。た だしハードメーカーではなく、さまざまなプラットフォームにソフトを提供していく。

スターウォーズやフロッガー(セガ。開発はコナミ)といったヒット作に恵まれ、82 年には空 前の売り上げを誇るが、83 年にコンソール市場崩壊で大きな痛手を受ける。

85 年にジェネラルミルズはケナーと PB を合併させ、手放す。ケナー・パーカーは「初心に帰 り」ボード・カードゲーム制作に注力するが、87 年、Tonka 社に買収される。コレコの破綻 後、1989 年にトリヴィアル・パスートを獲得。88-89 年と、PB の業績は高潮だった。しかし 買収は Tonka の体力を相当に削っており、89 年には破産寸前であった。91 年、Tonka は傘下 の PB ごと、Hasbro に買収された。

参照

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