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第7回研究会資料 原因論 原因論研究会

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Academic year: 2018

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原因論 第十一章 改訂版2

小林 剛

103 すべての第一のもののうち或るものは[他の]或るもののうちに在る。それは、それら の一方が他方のうちに在ってよい仕方でである1

Primorum omnium quaedam sunt in quibusdam per modum quo licet ut sit unum eorum in alio.

104 というのも、存在のうちには生命と知性体とが在り、生命のうちには存在と知性体 とが在り、知性体のうちには存在と生命とが在るからである。

Quod est quia in esse sunt vita et intelligentia, et in vita sunt esse et intelligentia, et in intelligentia sunt esst et vita.

105 しかしながら、知性体における存在と生命は二つのアラキリ(すなわち)知性体で あり、生命における存在と知性体は二つの生命であり、存在における知性体と生命は二つ の存在である。

Verumtamen esse et vita in intelligentia sunt duae alachili, [id est] intelligentiae, et esse et intelligentia in vita sunt duae vitae, et intelligentia et vita in esse sunt duo esse.

106 そして上記のことがこのようであるのはただ、諸々の第一のものの各々が、原因か あるいは結果だからである2。それゆえ、結果は原因のうちに原因の在り方によって在 り、原因は結果のうちに結果の在り方で在るのである。

Et illud [quidem] non est ita nisi quia unumquodque primorum aut est causa aut causatum. Causatum ergo in causa est per modum causae et causa in causato per modum causati.

1 アラビア語原文では「それらの一方が他方のうちに在るということが相応しい仕方で」 となっている。

2 本章に対応するプロクロス『神学綱要』第103命題では、原因、本質、分有という三 つの在り方が語られているが、ここでは原因と結果という二つの在り方しか語られていな い。

(2)

107 そして我々は手短に次のように言う。すなわち、事物において原因の在り方で働く3 事物がその事物のうちに在る4のはただ、その事物の原因であるという在り方による5。た とえば6、感覚が魂のうちに魂的な在り方で、魂が知性体のうちに知性的な在り方で、知 性体が存在のうちに存在的な在り方で、第一存在が知性体のうちに知性的な在り方で、知

3 アラビア語原語ではkā’in(存在する・実在する)となっている。

4「事物において原因の在り方で働く事物がその事物のうちに在る」の部分を英訳は、最初 の「事物」をanother(「(原因とは)他のもの」)、「その事物」もthe other(「(原因では なく)もう一方のもの」)と取っている。仏訳も最初の「事物」をune autre(「(原因と は)他のもの」)と取っている。英仏訳の解釈をパラフレーズすれば、「結果である別の事 物において原因の在り方で働く原因である或る事物が、結果であるその事物のうちに在る のはただ、結果であるその事物の原因であるという在り方による」となるだろう。英仏訳 がこのように訳した理由は恐らく次の通りである。当該箇所より少し先の「その事物の原 因」は、今の箇所の「働く事物」のことだろう。そうすると「その事物の原因」の「その 事物」が指すものは当然、「原因」である「働く事物」とは異なるものである。そして「そ の事物の原因」の「その事物」が指すものと、「事物において原因の在り方で働く」の「事 物」が指すものとがもし同じであるならば、両者とも「原因の在り方で働く事物」とは異 なるもの、つまり、原因に対する結果ということになる。だからanother, the other, une autreとは、原因causaとは別のものである結果causatumのことを意味している思われ る。しかしこのような内容は『原因論』第11章内の少し前の箇所である106の内容、「結 果は原因のうちに原因の在り方によって在り、原因は結果のうちに結果の在り方で在る」 と齟齬するように思われる。この箇所によれば原因は、結果においては結果の在り方でな ければならず、原因の在り方で在るのは原因のうちに在る結果なはずである。しかし上記 の107の解釈では、原因は結果において原因の在り方で在ることになってしまう。これは 英仏訳の翻訳やその基となっている解釈が間違っているのではなく、『純粋善について』の ラテン語訳としての『原因論』そのものに、特にアラビア語原文の同定に問題があるよう に思われる。次註参照。

5 「その事物の原因であるという在り方による」は、アラビア語原文ではbi-l-nawʻi alladhī huwa ʻalay-hi。これは恐らく「それ[原因がそれのうちに在るところの事物が] が それに従っているところの在り方による」という意味であろう。そしてこの最後の「在り 方」を原因の在り方と取れば(つまり「原因がそれのうちに在るところの事物」を原因そ のものである事物と理解すれば)106の内容との齟齬はなくなる。しかし最後のʻalay-hi のところが、アラビア語原文のアンカラ/イスタンブール系統の写本ではal-'illatu-hu

「それの原因[である]」となっており、ライデン系統の写本でも、記号がついていなけれ ば'alay-hiとも'illatu-huとも読める。『原因論』作者はこの部分を'alay-hiではなく'illatu- huと読んだと思われる。

6 この「たとえば」がどこまでかかっているのかは問題である。アラビア語原文に従え ば、「知性体が存在のうちに存在的な在り方で」までであるように思われる。その理由は次 の通り。106では「結果は原因のうちに原因の在り方によって在り」とされている。だか ら、107で「或る事物において原因の在り方で働く[在る]事物がその事物のうちに在る」 と語られている事態は、あくまでもこの「結果は原因のうちに原因の在り方によって在」 るということだけを指していると思われる。そうすると、存在は知性体の原因、知性体は 魂の原因、魂は感覚の原因であるならば、「結果は原因のうちに原因の在り方によって在」 るということの例は、「知性体が存在のうちに存在的な在り方で」までである。おそらくこ の後、「原因が結果のうちに、結果の在り方で在るのはたとえば」というような趣旨の言葉 が省略されているのであろう。

(3)

性体が魂のうちに魂的な在り方で、魂が感覚のうちに感覚的な在り方で[在るといった具合 である]

Et nos [quidem] abbreviamus et dicimus quod res agens in re7 per modum causae non est in ea nisi per modum qui8 est causa eius, sicut sensus in anima per modum

animalem, et anima in intelligentia per modum intellectibilem, et intelligentia in esse per modum essentialem, et esse primum in intelligentia per intellectibilem, et

intelligeita in anima per modum animalem, et anima in sensu per modum sensibilem.

108 もう一度次のように言おう。すなわち、我々が明らかにしたことに即せば、感覚[能 力]は魂のうちに、知性体は第一原因のうちに、それら[魂や第一原因]の在り方で存在して いる9

Et redeamus et dicamus quod sensus in anima et intelligentia in causa prima sunt per modos suos, secundum quod ostendimus.

7 Pattinはここをin remと読んでいるが、アラビア語原文はfī al-shay’i なので、Taylor に従ってin reと読む。

8 Pattinはここをquoと読んでいるが、アラビア語原語はalladhīなので、Taylorに従っ てquiと読む。

9 アラビア語原文と表現の仕方が少し異なる。アラビア語原文では「感覚と魂とは、何ら かの仕方で知性と第一原因のうちに在る」となっている。

参照