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ドキュメント内 旧天間林村 村史上巻 中世 (ページ 78-82)

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十五日︑尊氏の命をうけた石塔義房の誘いに応じ︑ついに款を尊氏に通じた︒それとも知らず︑親朝への説得は

なおも続くが︑無駄であった︒

南朝の大忠臣結成宗弘のあとの親朝を敵にまわしたことは顕信にとっては大きな痛手となった︒

同年十一月︑関東の宮方の拠点である常陸の関︑大宝の二城も陥り︑宮方の参謀である北畠親房もついに遁れ

て尾張に到りやがて吉野に入られた c

興国

四年

五年の政長らの動静は明らかでないが︑五年(一三四四)には︑北畠顕信による常陸大宝城の一時

的回復︑同年四月の足利方石塔義元による顕信の居城宇津峰城攻撃︑八月陸奥霊山城の北畠軍の伊達・信夫二郡

の攻略等の戦闘があった︒

越えて興国六年二三四五)二月八日︑政長は軍功により︑足利尊氏の所領であった陸奥国甘美部(加美郡)

を加

賜さ

れた

﹃三翁昔語﹄によれば︑この恩賞は︑四一戸における逆意の者を討伐した功によるものだという︒

同年三月二十六日には︑政長の長男信政に対し︑国司顕信から︑たびたびの合戦の忠節をほめた感状(教書)

を下賜︑翌二十七日には信政を達知門女院右近蔵人に推挙した︒その推挙状は左の通りである︒

可被挙申達知門女院也

( )

申右近蔵人

O

O

源信政

興国

六年

三月

廿七

この女院は後宇多天皇第一皇女奨子であり︑弘安九年(一二八六)誕生︑文保三年(一三一九)皇后宮となり︑

十一月院号を名のり︑

ついで出家された方である︒

この推挙状によって︑信政は吉野朝廷に出仕したことが明らかとなる︒

同日︑政長の二男政持は左馬助に︑三男信助は兵庫助に推挙されている︒

南部

政長

一族

が︑

いかに南朝から重視されていたかがこれでもわかる︒

顕信は ︑同じ目︑津軽の平賀蔵人を鼻和郡摩称牛郷地頭に︑工藤四郎五郎を同郷大浦郷北方地頭に︑海老名小

太郎を田舎郡安庶子郷地頭に任じている︒

南朝勢力の全国的衰退傾向の中にあって︑ひとり糠部・津軽においては南朝方がなお優勢を保っていたのであ

このような情勢を見て足利方では・正平元年(貞和二年︑︑ る

:一

三四

六)

四月十一日︑政長に対し︑勧降状を発

したが政長は応じない︒そこで十二月九日︑四度目の勧降状を発したが︑もちろん応ずる筈はない︒

然るに﹃斎藤文書﹄に︑左のように政長が降伏したか︑という疑問をいだかせる足利氏の教書がある︒

(政長)南部遠江守降参事就ニ 注進状一 所レ 成ニ 御教書一 也 此上之儀宜レ 有レ 計二 沙汰一 之状如レ 件

貞和二年十二月廿一日

御 判

右京太夫殿(吉良貞家)

右馬権頭殿(畠山国氏)

この教書については︑二つの解釈が成立つ︒

第一は︑南部政長が隆参したという注進状が届いたので教書を下す︒今後よろしく取計うように︑という解釈

であり︑第二は︑南部政長に降参をす﹀めたという注進状が届い︐たので教書を下す︒今後のことは

(降

参さ

せる

こと

)

よろしく取計らうように︑

という解釈である︒

まず第一の解釈についていえば︑文字の解釈としてはこの解釈は成りたつ︒従って降参したことになる︒

しかし︑政長に対する第四回目の勤降状は十二月九日に出されているから︑少くともこの日まで︑政長は降服

していない筈である︒

もしその後数日の聞に政長が降服したとしても︑そのしらせを陸奥から得て︑九日からわずか十二日目の二十

一日に教書を認めるということは不可能である︒

ま た

その後の根城南部氏の南朝に対する勤皇の事実からみても︑政長の降伏はあり得ないことである︒

O九

O

第二の解釈も︑文理解釈上立派に成立つ︒また第一説批判後段に述べたような理由もあり︑第二の解釈が正当

と考えられる︒

さ て

︑ 正 平 ご 三 四

i )

の初年頃と推定される顕信から政長にあてた左のような書状がある︒

其後無指事之間不申遣候兼又上田城事成和与之儀候之間遣此辺之軍勢御方をも無相違ひかせ

{

就其者以此仁申遺子細候被思案候て可承左右候也

六月十八日

( )

( )

ドキュメント内 旧天間林村 村史上巻 中世 (ページ 78-82)

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