• 検索結果がありません。

一 〆

ドキュメント内 旧天間林村 村史上巻 中世 (ページ 82-103)

O

第二の解釈も︑文理解釈上立派に成立つ︒また第一説批判後段に述べたような理由もあり︑第二の解釈が正当

と考えられる︒

さ て

︑ 正 平 ご 三 四

i )

の初年頃と推定される顕信から政長にあてた左のような書状がある︒

其後無指事之間不申遣候兼又上田城事成和与之儀候之間遣此辺之軍勢御方をも無相違ひかせ

{

就其者以此仁申遺子細候被思案候て可承左右候也

六月十八日

( )

( )

り︑顕信は宇津峰宮を奉じて出羽に走る等のことがあり ︑さらに京都付近では正平三年(一三四八)正月五日 ︑

四条畷の戦争で楠木正行が戦死する等のことがあったが同日 ︑信政(根城南部六世)も京都付近で戦死をとげて

いる︒(

﹃東北太平記﹂)

その後も各地に小戦闘はあったようであるが︑大きな合戦はなかった︒

そして︑正平五年(一三五

O )

八月十五日 ︑死期を覚った政長は︑長子信政(六世)がすでに戦死していたの

で︑孫信光に八戸を︑

その弟政光のためには︑その父信政の妻(政光の母)である加伊寿御前に対し七戸を譲渡

する旨の譲状を認め︑十七日に死去した︒

六世信政の勤皇のことはすでに一部述べたが︑言及しなかった分を加えて次に簡単に述べておこう

第七節 六世信政の勤皇

信政は五世政長の長子で︑三郎と称した︒

建武二年(一三三五)から翌延元元年にかけての北畠顕家の第一次足利尊氏追討軍の先鋒となり︑尊氏を九州

に走らしたことは前に述べた︒

その妻は黒石の地頭工藤貞行の嫡女加伊寿である︒男二人あり︑長子を信光(幼名カ寿丸︑根城南部七世)︑次

子を政光(根城南部八世︑七戸に退隠)

とい

った

貞行は根城南部氏と同様︑南朝に忠節の武将であったが建武三年(=三三ハ)病没し︑その妻志練が遺領を相

第三編

一一 一一 一 続し︑興国四年二三四三)六月二十日︑自分の死後黒石の領地を南部信政の女房となった娘の加伊寿御前に譲

一部はその妹福寿にも分ち与うべきことなどを認めているが︑翌五年二月には改めて︑黒石を加伊寿の長男

カ寿丸(七世信光)に譲り︑うちいくらかを五人の女子に譲ることを認めている︒全文かな書きであり︑読みに

くいので︑漢字まじりに改めて左に示そう︒

譲渡す力寿丸

津軽田舎郡黒石の郷

右所ハ故工藤右衛門尉貞行 同じき政所職の事

重代の所領たる間志練彼の後家として相伝知行今に相違なし

その子細譲証に見えたり志練一期の後は︑嫡孫カ寿丸に此の所を譲り与うる也鈴の子孫等違乱ある

べか

らず

但し此所のうち女子五人に少しつ﹀一期の間譲る也譲証文ニありこれを違うべからず いづれも自筆なり自筆にて無からんをパ用いべからず依て譲証件の如し

興国五年二月十三日しれん花押

これより先︑建武元年八月二十一日に貞行は︑津軽山辺二想志郷内下方及び田舎郡上冬井郷拾分参を︑娘加伊

寿御前に譲っている︒

これらの譲状により︑工藤貞行の領知の大部分は ︑

信政の妻となった加伊寿御前を通じて根城南部氏に伝領さ

れるに至ったことがわかる︒

ついで延元二年(一三三六)八月︑第二次の足利尊氏追討の戦のときは︑信政は父政長とともに糠部にとどま

り︑北奥の押えに任じた︒

その後の北奥におけるたびたびの合戦にも当然信政は父政長とともに活躍したことだろう︒

興国六年二三四五)

三月二十六日には︑これらの合戦の戦功を国司から賞められ︑ついで翌二十七日には達

知門女院右近蔵人に推挙され︑吉野朝廷に出仕したことも先に述べた︒

信政は既述のように︑この後正平三年二三四八)京都付近の戦で討死をするが︑それより前︑信政は正平二

年(一三四七)四月参内し︑後村上天皇より後醍醐天皇の皇子護良親王の遺子八幡丸(麿)を託され︑これを北

部(下北)王に奉戴したことが﹁東北太平記﹂

に記

され

てい

る︒

この

こと

は︑

のちの康正二

{ }

こ四

五六

()

五七

)

の嬬崎戦争へとつながるものであり︑本県中世史上の大き

な謎の一っともなっているので別記することとするが︑この信政が八幡麿を託された年代を﹃東北太平記﹄

は正

平二年(一三四七)としているのに対し︑森林助氏は正平元年説を主張している︒

いず

れに

せよ

﹃東北太平記﹄にのみその記載があり︑根本資料を欠くこのことが事実とすれば︑吉野朝廷に仕

えていた信政は一時八幡麿を奉戴して下北へ下り︑再び吉野に赴き︑正平三年︑京都付近で戦死したことになる︒

戦死のことも︑系図︑家伝の類に見えず﹁東北太平記﹄

にあるのみである︒

一一一 一

二一四

第八節

七世信光の忠節

信光は幼名カ寿丸といい︑のち三郎と称した︒

六世信政の長子で︑八世政光の兄である︒母は黒石の工藤貞行の娘加伊寿御前である︒

貞行の妻志練の没後︑黒石の地を伝領したことは前に述べた ︒

正平五年(一三五

O )

八月十五日︑祖父である五世政長は︑死期を悟って︑八戸をば信光に ︑七戸をば加伊寿

御前に譲り︑信光の弟政光が成人となったら七戸の半分を政光に与えるようにとの譲状を認め︑十七日に死去し

た︒譲状は左の通りである ︒

陸奥国糠部郡内

八戸

右彼ところハくんこうのしゃうたるあひた

をまほりてはいりゃうすへし 政長知行せしむるを 信光に譲あたふる物なり彼譲状

正平五年明

八月十五日

前遠江守源政長(

花押

)

陸奥国糠部郡内

七戸

右かのところハくんこうのしゃうたるによりて

せいしんせは半分はたふへし

たふへし いま半分をハ

二 せ 人 し の む こ る

Z

あ聞 い問 の た 後室に譲所也︒但政光

一期の﹀ち

心さしあらんに

正平五年川八月十五日

前遠江守源政長(花押)

すなわち信光は祖父政長の領地のうち八戸を譲られ根城南部氏の家督を継ぎ︑七戸の地は一旦加伊寿御前の手 を経た上

︑弟の政光に譲られることになったのである︒(写真

一二 六頁 )

この年︑中央では足利尊氏

・直義兄弟が不和となり︑十二月九日直義は吉野朝に帰順したが翌六年

月︑尊氏

直義聞に和議が成立

七月には再び不和となり

︑十月には今度は尊氏が偽って︑

その子義詮とともに吉野朝に降 伏したが︑結局︑七年ご三五二)閏二月義詮は︑公武の和の破れたことを宣するなど

変転極まりない時であ

った

こうした情勢に乗じて︑奥州でも一時国司方が勢力を盛りかえし︑三戸南部十一世信長も国司方につき活躍す ︒

二 一

第三編

るなどのことがあったが︑当時信光は幼君であったため

か ︑まだその名は歴史の前面に登場してこない︒

正年十年三三五五)三月十五日︑信光は大炊助に任

ぜられ︑翌十一年十一月には昇進して薩摩守に叙爵した︒

﹃東北太平記﹄に︑正平十一年五月︑信光は北部王と

なった護良親王の遺子八幡麿(良弄)の長子乙寿丸(安

南 部 政 長

義)当時八歳を奉じて吉野に参内し︑翌正平十二年北部

に帰ったとあるから︑薩摩守昇進は参内後のこととなる︒

正平十五年(一三六

O )

六月五日 ︑信光は︑津軽田舎

郡黒石郷ならびに鼻和郡田谷郷等を相伝領掌することの

安堵状を顕信から賜わった︒

このうち黒石郷はすでに興国五年こ三四四)︑外祖母

志練尼(工藤貞行の妻)から志練の死後譲渡を約束され

てい

たも

ので

ある

また同日︑津軽田舎郡冬井・日野間・外浜野尻郷は南

部雅楽助に安堵された︒

このうち冬井郷拾分参は︑工藤貞行から娘加伊寿御前に建武元年(一三三四)八月二十一日に譲られたもので

あっ

た︒

これらの土地を譲られた南部雅楽助とは誰であるか︒あるいは三戸南部茂行か政行であろうとされ︑あるいは

信光の弟の政光であろうとされているが︑今のところいずれともはっきりしない︒

正平十六年ご三六こ十一月九日︑信光は︑戦功により後村上天皇より左のような叡感の論旨を賜った︒

今度合戦致

一 一 忠節

一 之由被

一 一 一 畢間食

b4う一 御感不レ 少者

天気如 悉レ

之以

レ 状

正平十六年十一月九日

左中 将( 花押 )

南部薩摩守殿

左中将はその花押から顕信であることが明瞭である︒

これと全く同文のものが南部左馬助(政持)と南部兵庫助(信助)にも与えられており︑また翌正平十七年正

月十八日付の北畠顕信から信光にあてられた書状には︑﹁七戸へも同じく下され候︑っかわし候よし︑ったへられ

候へく候﹂とあるから七戸在住の政光も同文の感状を賜ったことは確かである︒

してみると︑この戦は相当に重要なものであったと思われるが︑どのような合戦か︑全くわからない︒

これより少し前︑正平十六年五月十八日︑顕信は曽我周防守に対し勧降状を発している︒

しかし︑曽我氏が降伏しなかったため︑根城南部の一族と曽我氏との間で合戦をみるに至ったのではあるまい

ドキュメント内 旧天間林村 村史上巻 中世 (ページ 82-103)

関連したドキュメント