第三編
中
世
興国二年(一三四二︑顕信はいよいよ国府回復の動きをみせる︒
四月︑政長は兵を率いて南進し︑岩手の滴石氏︑斯波の河村氏とともに︑岩手・
斯波
二郡
を討
ち︑
さらに和賀
氏・葛西・氏と合し︑国府を攻撃した︒
国府の石塔勢は一時国府を逃れ︑栗原郡三迫において防戦するなどのことがあり︑戦は翌年十月まで及んだが
頼みとする結城親朝が両端を持し︑いっこうに立たなかったので︑遂に国府奪回は成らなかった︒
今や政長は南朝では最も頼みとする武将であった︒
足利方としても政長を味方につけたくでしょうがなかった︒
そこで暦応二年(延元四年:::一三三八)三月十七日︑足利直義名で左のような勧降状を発した︒
参御方者本領事可被定置之旨可有其沙汰之上致軍忠可抽賞之状如件
暦応
二年
三月
十七
日
直義花押
南部六郎殿
政長がこれに応じなかったことは︑その後︑暦応三年(興国元年・:
一三 三九 )︑六月二十五日︑暦応四年
二月 七
日︑貞和二年(正平元年:・一三四六)十二月九日付の直義から政長にあてた同種の勧降状が出されていることで
天 間 林 村 史
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ニ
O四も明
瞭で
ある
︒(
写真
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六頁 )
しかし︑後醍醐天皇亡きあとの南朝の退勢は覆うべくもなかった︒
この機に乗じて津軽の武家方曽我氏が大攻勢に転じ︑足利尊氏の教書を受けて︑はるばる相模国曽我郷から津
軽に下向した同族曽我師助とともに︑暦応四年(興国二年:・一三四二六月︑糠部に攻吟入り︑翌年秋まで糠部
の各地で数十度の合戦が行われた︒
この時の合戦の模様は武家方の貞光の記した貞和三年(正平二年:・一三四七)の﹁曽我余一左衛門貞光謹言上﹂
暦応
四年
(興
国二
年:
・一
三四 二 六 月
同御敵滝瀬彦次郎入道以下輩打塞路次部之処致防戦之問 令発向凶徒南部六郎政長等城郭糠夏
比 秋 比 冬
自同年六月至翌年七月数十度合戦仁
或
曽我左衛門尉師助賜御教書
貞光自身被庇或若党以下手勢数百人同被庇討死之上若干凶徒等打取畢︒此条師助連々令注進之間
被下御感御教書畢︒巨細師助之一見状
失
以前条々粗恐々言上如件
貞和
三年
五月
日 と書かれてある︒
ここで注意しなければならないのは︑まずこの合戦の行われた年月日である︒この年月日は︑前述政長等の国
府回復のための合戦とほとんど重複する︒
そのことがなぜおかしいのかといえば︑たとえば根城側の後世の史書である﹃南部五世伝﹂
には
興国三年六月︑曽我師助受尊氏命
与族貞光大挙来攻
相持織年
敵兵愈加
城殆陥
政長執戟
関 門 出 戦
衆従之
縦横奮撃
新師助
敵兵遂潰
後村上帝賞賜万及甲胃
とあり︑貞光言上書にはこの合戦を興国二年から三年にかけてのこととしているのに対し︑
五世
伝は
︑
一年
後
の興国三年から四年にかけてのこととし︑一年のくいちがいがあるからである ︒
国府回復の戦も︑糠部での防戦もどちらも大変な激戦であり︑政長にとっては苦戦であった戦いである︒
この二つの戦いが︑同時の戦いであるとすれば︑政長が両方に顔を出しているのはおかしい︑といった考方で
﹃南部五世伝﹄等後世の根城関係の史書は︑これを一年ずらしたものではなかろうか︒
しかし︑貞光の言上書は︑貞和三年すなわち︑この糠部の合戦のわずか数年後に書かれたものであるから︑こ
ちらの記述が正しい︑ということになろう︒
してみると︑政長は︑興国二年から三年にかけ︑南の国府奪回作戦遂行中 ︑糠部を突かれたため︑急拠軍をか
えし︑曽我氏を退けた︑ということになろう︒
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第 三 編
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