レ静 二 議郡内一 之由︑鎮守大将軍所レ 仰
也︒
の執 達如 件︒
延元元年八月六日
軍監有実奉 南部六郎殿 尊氏以下数十人
自殺
︑と
い
うの
は全
くの
誤伝
であ
る︒
天
間 林 村 史
一九 三
第三編
中
世
一九 四
顕家が尊氏自害を信じて︑政長に報じたものか︑デマと知りつ﹀︑士気を鼓舞するために流したもの
か判然としないが︑後者とすれば顕家の追いつめられた気持の現われとも見られる︒
とにかく︑京都方面および多賀方面のことは気にせず︑政長は専ら糠部郡内の治安の維持に心がける
ょう指示したものである︒この時︑政長の兄師行は︑顕家帰府の祝儀言上のため国府に参着していた︒
京都
では
︑
八月足利尊氏が光明院をたて︑偽って後醍醐天皇に降ったので後醍醐天皇は十月京都に還
幸したが︑偽りと知り︑十二月︑吉野の奥に潜幸された︒
かくて︑尊氏の擁した光厳天皇(北朝)と︑吉野に潜幸した後醍醐天皇(南朝文は吉野朝)とのこ人
の天皇が同時に在位することとなり︑じ来南北両朝対立の全国的動乱の時代が数十年にわたり続くこと
とな
る︒
次に南北両朝の皇統を掲げよう︒
悼吋 明院 統
1
後深草│││伏見│後伏見後嵯峨ー上
﹁亀山││後宇多大覚寺続 北朝花園││光厳
l
光明ー崇光│後光厳│後円融l後小松後小松
後二条││後醍醐││後村上││長慶│後亀山
南 朝
第五節
四世師行の戦死
南北両朝対立の始まった延元元年の十一月二十五日︑師行に対し︑糠部に帰国するよう顕家の命が下り︑師行
は根
城に
帰っ
た︒
帰国早々︑翌延元二年(一三三七)正月には︑曽我貞光の再度の田舎楯攻撃があり︑七月には鹿角の合戦があ
り︑政情は不安定であったが︑多賀の国府はさらに多事であり︑仙北方面の足利軍に脅かされ︑正月早々国府を
霊山(福島県伊達郡)へ移さなければならなかった︒
しかし︑霊山は岩石突冗たる天然の要害で︑しかも多数の僧兵を有する霊山寺の支援を得ることができたので ︑
顕家軍に対する後醍醐天皇の期待は大きかった︒
その期待に応え︑顕家軍はようやく足利軍の囲みを破り︑延元二年八月︑義良親王を奉じ︑総勢十万余騎の大
軍を率いて︑再度足利尊氏追討のため西上した︒
前年の第一次足利征討の軍の時は留守を守った根城南部四世であり顕家の国代である師行も糠部の兵士を召し
連れて参加し︑政長と︑前回第一次征討軍に加わった政長の男信政とが糠部にとどまって北奥の押えの任に当っ
征討軍は八月十九日白河関を立ち︑十二月十三日利根川を渡り︑鎌倉にうちいり︑同二十五日足利義詮を敗走 た
ついで迂回して二月二十一日奈良をさせ︑翌延元三年ご三三八)正月︑美濃の青野原で足利の追撃軍を破り︑
天 問 林 村 史
一九 五
第 三 編
中
世
一九
六
占拠したが︑足利軍の反撃を受け︑河内に退いた︒
義良親王はここから吉野にいる後醍醐天皇のもとに赴いた︒
征討軍は進んで河内より和泉・
摂津
に転
戦し
︑
一時勝利を得たが︑高師直・師冬等の大軍のため大きな損害を
受け
た︒
五月︑顕家軍は堺浦を連続攻撃し︑摂津・河内・和泉の戦野に対峠したが︑五月二十二日︑堺浦と石津におけ
る激戦に高師直の軍に敗れ︑北畠顕象は壮烈な戦死を遂げ︑師行もともに討死︑家士一百八人がことごとくこれ
に殉
じた
︒
ときに北畠顕家二一歳︑師行四二歳であった︒
第六節 五世政長の活躍
延元三年二三三八)師行戦死の後の糠部は師行の実弟であり︑女婿である政長の支配するところとなった︒
政長は既に述べたように元弘三年ご三三三)
の鎌倉攻めの時は︑奥州より馳参じ︑新田義貞の旗下の武将と
して功をたて︑建武元年二三三四)五月三日︑後醍醐天泉より甲州倉見山を賜る給旨をうけた︒
この頃政長は︑元弘三年(二ニ三三)北畠顕家に従って奥州に下った兄師行にかわり︑甲州の本領破木井郷を
守っていたが︑建武二年こ三三五)三月十日には顕家より︑左のように七戸を勲功の賞として賜っているから
それより先糠部に下向し︑戦功をたてていたものと推察される︒