商 業 と 経 済
四一四
一般的に.それを多少認容し得るものたらしむべき諸程の事情から濁立に.観察するならば.それ
は人類にとっても.叉は雨性の何れにとっても.││それを幣用する者にとっても︑給用される者にとっても. ﹁
多妻
制を
.
││竜も儒にならぬ︒それは叉子供にとっても鍔にならぬ︒﹂紛
﹁共和攻に於ては︑市民の地位は限定され.平等であり.混和であり制限されてゐる︒そこではすべてが攻治
的自由な去はしてゐる︒女子に封する支配はそこでは.しかし十分に錦され得ぬ︒そして.気候がニの支配を
必要とする時は.一人統治の政障が最も遁蛍であった︒東方に於て民衆的岡家の樹立が常に困難であった理由の 一つはこれむD
﹁反乙女子緑風制は︑すべての常用を好む専制攻慌の精髄にきはめて適合してゐる︒従って.アジヤに於ては
いつも家内隷属制と専制攻鰐とが歩を共にして進んだ︒
L m
﹁多妻制の場合に於ては家族が統一を快けば快くほ
r .
法はこれらの介離した部八?を一の中心に統一せねばな
らぬ︒利盆が種々相違すればするほど.法がそれを一の共通な利盆に引き民すのが︑ょの遁蛍となる︒﹂初
﹁であるから.ある気候の物理的勢力ハ自然力Uが耐性の自然法裁びに慧知的存在のそれ守破る時は.立一向者はま
さに気候の性質に封抗して︑根元的な法在恢復すべき市民法を作るべき記︒
L m
IV
ることを説く︒
﹁強い暑さは人のカと﹄勇気を弱めるが.来︑い気候では一定の内陸的及び精紳的カがあって︑長く︑苦しく︑大い
なる而して大路な行屑却を矯す能力を人に奥へることは既に述べた︒このことは園民と同民との聞について云は
れるのみなら宇さらに同じ邦に於ても.その一部と他の部分との間についても云はれる︒支那の北部の人民は
南部のそれより勇敢であるし朝鮮の南部の人民は︑北部のそれほど勇敢ではない︒
﹁従って暑い気候の人民は怯.情なる銭殆んど常に奴認となり︑来︑い気候
ω
人民は勇敢なる錯その自由を維持し得たことは.慌しむに足らぬ︒これはその白然的原凶から射する一結果︑記︒
L ω
﹁これらの事寅を前提として余は斯く論中るQ印ち︑アジヤは同有の意義に於ける淵都在有たぬ︒きはめて寒い
気候にある場所が︑直ちに︑きはめて暑い気候の下にある場所.郎ちトルコ波新︑モプル︑安那朝鮮及び
日本
に接
する
︒
﹁反之.欧洲では.流帯がきはめて皮い︒それは種々の甚に相異る気候の下に位し.西班牙及び伊太利の気候と
諾成比び瑞共のそれとの聞には何らの類似も無いのではあるが︒併し.そこでは気候は南から北に進むにつれ
殆んど各地方の緯度に比例して少しづ﹄来︑くなるから.各地方は殆んどその隣の地方︑ど同様であり︑その間に
著しき相遣はなく.余の今述べた如く.渦帯がきはめて皮い︑と云ふ結果になるの記︒
﹁以上から次の結紛が坐守る︒アジヤでは強い図民と弱い閥民とが封峠し.好戦的な勇敢な︐而して活動的な
屯シテスキューの祉合阜的思想
四一
五
「法の精神
J
(上)374頁。40)
商 業 主 経 済
四一六
人民が.直ちに柔弱な.怠惰な.快儒な人民に隣接する︒従って︑一は征服され︑他が征服者とならねばぬ︒
欧洲では.反之強い図民と強い閥民とが針時してゐる︒相隣接する園民は殆んか﹂同じ位の勇気を有する︒これ
がアジヤの無力及び険洲の強力.欧洲の自由及びアジヤの隷局制の大きな理由花︒この原因は.余の知るとこ
ろでは.未詑何人も指摘したことがない︒アジヤでは自由が増加すゐことが決して無いのに反して.欧洲ではそ
れは事情に従って増加したり.減少したりするのは.この理由にもとづく︒1仰
モ ン テ ス キ ュ ー は
︑ 園 に 就 い て の 一 般 法 則 に 封 し て は 一 つ の 重 大 な 除 外 例 を 示 し て ゐ る
︒ れは︑ロシヤの貴族が︑その君主の一人に依って隷嵐山肌態に陥れられたことであるが︑それも︑南方 の 気 候 に よ っ て は 決 し て 奥 へ ら れ ぬ 短 気 の 特 色 が 見 え る の で あ る
︒ 更 に
︑ 北 方 の 一 王 国 た る デ
ンマ
l
ク で は そ の 法 を 失 っ た が
︑ こ れ も 気 候 の 影 響 か ら 考 ふ る な ら ば
︑ そ の 喪 失 は 恢 復 出 来 な い こ と で は な い と し て
︑ 彼 は 矢 張 り 気 候 の 影 響 を 重 視 し て ゐ る の で あ る
︒
V
︑ 攻 健 と 気 候 と の 関 係 に 於 け る 宗 教
﹁ 法 の 精 神
﹂ 第 二 十 四 篇 第 五 辛 に ご の 問 題 を 取 扱 っ て ゐ る
︒
﹁宗教がある図で生れ.形成される時.それは通常その図の攻陸形式に従ふ.なぜなら.それを受ける入︑及び
それを受けさせる人は.その生れた図の施設以外在考へぬから︒
コ一世紀前.基督教が不幸にもカトリックとプロテスタントに分割されるや︑北方人民はプロテストタントを採 そ
「法の精神
J
(上)376‑7頁。41)
り.南万人民はカトリックを保持したω
﹁これは.北方人民は南方人民の右大ぬ溺立と自由の精神を有も.常に有つであらうし︑而して.眼に見える首
長をもたぬ宗教は.首長をもっ宗教よりも気候(風土)の濁立心に適合するから花︒
﹁プロテスタントが確立され大図に於ても.革命は政治的欣態のプランに基づいて鍔された︒有力な君公や味方
にしたルッテルは.何らの外部的優越を有たぬ数合的核威巻彼らに味はせることは出来なかったであらう︒が.
共和攻に生活せる人民や君主攻に於ける無知な町人を味方にしカルグィンは︑優越や祭典を設け中に十分すん記︒
﹁この二宗教の各々は自ら最も完全百と信中るこえか出来た︒カルグィン汲は自ら基督の云ったニとより遁合す
ると考へ︑而してルッテル汲は自ら使徒にもの録したことによわ遁合すると考へつ﹄O﹂