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IOC内の力関係の変化

ドキュメント内 IOC百年第2巻第2章 (ページ 62-71)

2.4. IOCの構造と内部政治

2.4.1. IOC内の力関係の変化

  地球規模の政治的、社会経済的変化はIOC内部の構造にも衝撃を与えずにはおかなかった。

  会長の一種の慣性を作り出そうとする保守主義と結びついた組織構造は自治を目標にしていた。

しかし長期的に見れば、政治的力と社会の進歩の底流に抵抗することはできないのであった。

  もしオリンピズムが普遍的なものであるという自らの主張に正当性を与えようとするならば、その 組織の中にソ連のような大きな勢力を含まないわけにはいかない。

  ロシアは1912年のストックホルム大会に参加した。しかし1917年10月の革命の後、ソヴィエトは国 際スポーツには参加してこなかった。

  第二次世界大戦の後、1948年、IAAFのメンバーでもないのに、彼らは突然ヨーロッパ陸上選手 権に姿を表して注目された。

  三年後、1951年4月23日、新しく設立されたソビエトNOCは承認を求める電報を打ってきた。数 週間後、ウイーンでの総会は31票賛成、3棄権で申請を受け入れた。

  同時に、エドストレーム会長の動議で、ソ連のコンスタンティン・アンドリアノフがIOC委員に任命 された。

  何人かの委員は、アンドリアノフがIOCの公式言語のどれも話せず、通訳に頼らなければならな いという理由で任命に反対した。しかしこの反対はすぐに忘れられてしまった。

 1952年のヘルシンキ大会参加がソ連のオリンピックムーブメントへの統合を完成した。

  しかし同時に、その出現は西側世界、とくにアメリカにとって挑戦を意味した。

  冷戦がオリンピック競技場に広がり、二つの敵対するシステムが優越を争う決闘の場となった。

 1952年のオスロの総会で、アレクセイ・ロマノフという政治家がソビエトの第二のIOC委員として認 められた。

  ソビエトの委員はIOCの組織改革の試みを、最初は穏やかなものであったが、1955年パリから始 めた。アンドリアノフが理事会の構成を変える提案を行ったのである。

  彼の提案は将来、会長、二人の副会長、それに7人の他のメンバーの構成にすべし、というもの であった。この提案は最初の部分だけが必要な過半数を得た。

  理事会は副会長が二人になったけれども、メンバーの総数は7人にとどまった。

  一年前すでに、スイスの委員、アルバート・メイヤーが業務多忙の理由で理事会のメンバーを増 やすことを提案していた。

  しかしアンドリアノフがメイヤーのアイデアを取り上げたのは明らかに他の理由からであった。彼 は間違いなく共産主義者の代表を入れる余地を作りたかったのである。

  ロード・バーリー(エクゼター)の席は普通なら空席になるところであったが、副会長に選ばれた のでそのまま理事会にとどまった。

  ヒュー・ウェイアーの提案で理事会の席がひとつ増えたのは1956年で、共産主義ブロックの代表、

ブルガリアのウラジミール・ストイチェフという人物が選ばれた。

  アンドリアノフは1953年に理事会に立候補したが成功しなかった。

  ウラジミール・ストイチェフは彼を“人民民主主義のグループに属する国が理事会に代表を出す べきである”という理由で指名したのであった。

  アンドリアノフに対する投票は反対37、賛成5であった。

  これはIOC内部にブロックを作ろうとする動きの最初のサインであった。この現象は、IOCの独立 を守ろうといつも心を砕いていたブランデージの目にとまらずにはおかなかった。

1954年の回状に彼は書いている:「IOCの中にはいかなるブロックも、ナショナリズムもあってはなら ない。」

  何ヶ月かあと、アテネでのIOC委員の集まりで、委員たちは、自分たちはNOCと彼らの国への IOCからの大使であり、IOCへの国の代表ではない、と述べてその独立を再確認した。

  1959年のミュンヘンでのIOC総会の少し前、USSRのNOCはIOCの完全な組織改革の提案をし た。彼らは、1957年のエヴィアンと1958年の東京で行われたIOC理事会と国際競技連盟と国内オ リンピック委員会との会議で出された、二つの組織にもっと大きな発言力をという要求を取り上げ た。ソ連はIFとNOCの代表との規則的な会合が足りないと考えていた。

  ソ連はIFとNOCの次第に大きくなる不満を拠りどころに、IOCの急激な組織替えを提案した。

新しい組織は次のメンバーから構成される:

―現在のIOC委員

―承認されているNOCの会長

―承認されている国際競技連盟の会長

  国際競技連盟と国内オリンピック委員会は必要な場合にはその代表を交代させる権利を持つ。

  ソ連の見解では、この構成にして210人から215人のメンバーになれば、IOCは真に代表的な機 関になるのであった。

  彼らの提案によれば、IOCは以下の部分から構成される。

  ―オリンピック大会のときに4年に1度開かれる総会、そこで会長、副会長、理事会のメンバーを 選ぶ。

  ―50人から55人の理事会、これはIOC会長、何人かのIF会長とNOC会長を含み、1年に一回会 合し決議を行う。

  ―理事会事務局、IOC会長、副会長、事務局長からなり、組織の問題の計画作成に責任を持つ。

  ―IOC事務局、これは事務局長の指示の下に行政的な仕事を行う。

 IOCの財政は次によって確保される。

  ―IFとNOCの会費。

  ―入場料の一部。

  ―出版その他の活動からの収入。

  この提案ではメンバーの旅費はそれぞれの組織が負担し、国際競技連盟は入場料の分け前を 受け取る。

  これらの要求と、国連に関してフルシチョフがとった戦術との間には明らかな類似があった。その 目的は権力を非共産主義国、共産主義国、非同盟諸国の間に分散する事であった。

   

  これらの提案についての議論は、提案があまりに遅かったという理由で、次の総会に延期された。

しかし実際には、2年後のアテネ迄投票は先送りされた。そこではこの提案は35対7で拒否された。

  ブランデージにとっては、これらの提案は彼が全力を尽くして守ってきたIOCの独立に対する攻 撃であった。

  アテネ総会の開会演説で彼は、この点を繰り返し強調した。彼はIOCの成功はまさにこの独立性 に基づいていると考えていた:

  「国際オリンピック委員会がこの巨大な世界的事業を、このような見事な成功をもって行うことが できた一つの理由は、クーベルタン男爵によって憲章に書き込まれた独立の原則の故である。」

  ソビエトの案を採用すれば、IOC内部の政治的役割を持つ集団の数は大幅に増えたであろう。

  ブランデージはまた、スポーツの伝統を持たない小さな国が、偉大なスポーツ大国と同じ影響力 を要求するようになるであろうと恐れた。

  当時ブランデージは、1960年に拍手による賛成をもってIOC会長に再選されており、圧倒的な 支持を求めることが可能であったので、分離主義的な傾向をもつ勢力をまとめ上げるのに困難は 感じていなかった。

  1962年のモスクワの総会で、ソビエトの委員、アンドリアノフとロマノフは自分の国であることの利

点を利用して、IOCを再組織する更なる試みを発動した。

  もしこの改正の案が採用されれば、IOCは承認されているすべてのNOCから少なくとも一人の委 員を含むよう最大の努力をしなければならないという規定を、その憲章に含むことになったであろ う。

  国際競技連盟との協議を進めるうちに、彼らの代表もまたIOC委員に選ばれたいと願っているこ とが明らかになった。

  国内オリンピック委員会および国際競技連盟との緊密な協力はまた、憲章に書き込まなければ ならなくなったであろう。そして承認されている国際競技連盟と国内オリンピック委員会の会長は、

IOC委員でなくても彼らに関係ある問題については、投票権は無いにしても、IOC総会の議論に 参加する権利を得ることになったであろう。

  3年前の改革案と同じく、これもまたIOCの意思決定過程に沢山の国内オリンピック委員会と国

際競技連盟が参加することを目的としたものであった。

  違いと言えば、より用意周到で、あからさまでないことだけであった。

  今度もまた、より大きなスポーツの盛んな国々に、二次的な投票権を与えるという譲歩を含んで いた。しかしこの改革案もハッキリした過半数で葬られた。

  さらにアンドリアノフとロマノフによって提出された、理事会の中に大陸の代表を入れる原則を確 立する考えを含んだ規則改正の案は、出席委員の間のきわどい過半数で拒否された。

 16票が賛成。17票が反対であった。

  しかしついに、ソビエト人はひとつの成功を収めることができた。アンドリアノフが任期の来たブル ガリアの委員、ストイチェフに代わって理事会に選ばれたのである。

 4年後、彼はエクゼター侯爵の後を継いで第二副会長になった。

  フランスの委員、ボーモン伯爵の提案で、総会で第三副会長が選ばれた。当選したのはブラン デージの親友でメキシコの委員、ホセ・ド・J. クラーク・フォレスであった。

  東京で再選されたフランスの委員、マサールは第一副会長の職に残った。

  1970年のアムステルダムのIOC総会で、ソ連の理事会は地域を代表する形にすべきだという要

求は、以下の人々の選挙で非公式に叶えられることになった。

  ソビエトのコンスタンティン・アンドリアノフ、スペインのホアン・アントニオ・サマランチ、ブラジルの

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