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国際オリンピックアカデミー

ドキュメント内 IOC百年第2巻第2章 (ページ 91-94)

2.4. IOCの構造と内部政治

2.4.7. 国際オリンピックアカデミー

  ピエール・ド・クーベルタンは、体と心のトレーニングを通じての人類の道徳的向上を生涯の目標 としていた。しかしオリンピック大会の復興で、彼はこの目的のわずかに一部を達成したに過ぎな かった。

  自分の仕事の理論的基礎を強化し、拡張し、調査するために、彼は、オリンピックムーブメントの 知的な価値と教育的大志を熟考するための場所として使える施設を必要だと思っていた。

  1937年、ベルリンの1936年オリンピック大会の途方もない壮大さに深い感銘を受けたピエール・

ド・クーベルタンは、死の数か月前に一通の手紙をライヒススポーツ長官に書いた。

そしてオリンピックスタディーズセンターを設立することを求めた。

「オリンピックスタディーズセンターは(ついでながら、それは必ずしもベルリンである必要はありま せん)、何よりも、私の仕事を維持し発展させ、私が恐れる逸脱から仕事を護ることに役立つでしょ う。」

1 原注:下線はオリジナルテキストにあり。

  この申し出は、ドイツ政府の好意的な反応を得たがクーベルタンの生前には実現しなかった。

 1938年2月9日付の内務大臣、フリックの命により、国際オリンピック研究所(IOI)がベルリンに本

部を置いて設立された。

  フランスのIOC委員、ピエトリの提案で、IOCはその公式ブレッティンを国際オリンピック研究所の 発行する“オリンピッシェルントシャウ”と一体化することに同意した。

  国際オリンピック研究所の所長はカール・ディームが任命された。彼はクーベルタンの知的遺産 を管理することをこの研究所の使命と考えた。

  ディームは1938年3月26日、クーベルタンの心臓を埋葬する式典に出席するためオリンピアに旅 した。

  その機会に彼はまた、古代の競技場の遺跡を尋ねた。それは1936年10月にドイツ政府の援助 によって発掘されたものである。

  おそらくそこでの印象が、彼に古代オリンピアをよみがえらせるアイデアを吹き込んだのであろう。

オリンピアにおける式典についての報告で彼は次のように書いている:

「良い季節に、他の国々からの若者が、若者のためのオリンピックアカデミーに招かれる。

それは人里離れたオリンピアにあり、オリンピック大会がシンボルとして、また模範として仕える、心 と体の調和、そして知識の強化に貢献するであろう。」

  オリンピックアカデミーの計画を実現するために、ディームはギリシャの援助に頼った。

  ギリシャの側に、彼はジャン・ケトセアス、当時のギリシャNOC(HOC)の事務総長に、オリンピック の理想に対する情熱を分け持ち、彼の“オリンピック大学”の考えを熱心に支持する同志を見つけ た。

 HOCとギリシャ政府がこの計画を詳細に検討した後、ギリシャ国会は1939年春、オリンピアオリン

ピックアカデミーの設立を決めた。

  世界の若者のためのオリンピック教育の施設を造ろうとするすべての努力は、第2次世界大戦の 勃発によって妨げられた。

  大戦のすぐあと、ディームは当時IOC副会長であったブランデージに連絡を取った。

ディームの意見では、この恐ろしい出来事の後、世界はかつてないほどオリンピックの原則を必要 としていた。彼はオリンピックアカデミーをアメリカに設立することを提案した。アメリカは世界の政 治経済の指導的な力なのだからと。

  ブランデージがこの提案に何と答えたかは知られていない。

  ジャン・ケトセアスが1946年IOC委員となって、ギリシャのオリンピックアカデミーの計画は息を吹 き返した。

 1947年のストックホルム総会で、彼はIOCが“オリンピック学院”をギリシャに造るよう提案した。

  2年後、ローマの総会でIOCは全会一致で、1948年にケトセアスとディームによって用意された 覚書に賛成し、ギリシャにおけるオリンピックアカデミーの設立について1949年1月のIOCブレッテ ィンに公開した。

  このアカデミーの最初のセッションは1951年に計画されていた。しかしたった4か国しか参加に同 意しなかったのでキャンセルされた。

  世界中の若者をオリンピアに集めてアカデミックなイベントを開こうという計画も失敗した。

  オリンピックアカデミーの第1回セッションは開かれるまでに12年が経過した。

その時は、24か国からの参加者が2週間キャンプして、有名なスポーツ教育者の講義を聴き、ディ スカッションし、経験を交換し、遺跡を訪れ、スポーツを行った。

  第1回のセッションは実験的なコースとして計画されていたが、非常に上手くいった。しかしIOA が生き残るかどうかはまだ分からなかった。

  何よりも資金の問題がまだクリアーされていなかった。

  第1回のセッションの費用はドイツ連邦政府によって負担された。しかしこれは長く続けられること ではなかった。

  この問題は結局、1961年10月ギリシャオリンピック委員会の暫定的な条文によって解決された。

それによれば参加者の費用はそれぞれのNOCが負担し、講師の費用はHOCが負担することにな っていた。

  この条文はIOAの学院としての設立を保証し、そのあと何年もの間、そのコースはいろんなテー マで規則的に開催された。

  1966年のローマの総会でIOCは、ジョージW.フォン・ハノーヴァーをIOA会長に選んだ。この地 位はIOC憲章には定められていないものであったが、こうすることによってIOAの学院の重要性を 示したのであった。

 IOA会長と何回も会った後ブランデージは、1967年、IOAのための特別委員会を作ったと発表し た。この委員会は何よりもIOAの知的水準を高めるためにあった。そして内容、組織、財政の問題 を取り上げ、IOCとの協力を進めるためにあった。

  この委員会は公式には“国際オリンピックアカデミーのための委員会”と称された。

  テヘランでの1967年IOC総会で、この委員会はIOCの正式構成要素として第1回目の会議を持 った。

 1966年以来、有名なオリンピックの優勝者が講師と共に総会に招かれた。

 1967年には、住居棟、水泳プール、球技のコートを備えた最初の建設工事が完成した。

  以前は、参加者はテントにキャンプしなければならなかった。今や本格的な宿舎に移動できたの である。

  1961年の最初のセッションからブランデージの会長職の終わりまでに、60の国々から千人以上 の学生がオリンピアに集った。

  およそ200人の有名な研究者とIOC委員が幅広い分野の講義と議論のテーマを提供した。

  オリンピック大会とスポーツの歴史、オリンピズム、オリンピックムーブメント、スポーツ教育、トレー ニングと運動力学の問題、スポーツに関する哲学的問題、スポーツ心理学そしてスポーツサービ ス業務におけるコンピューターサイエンスなどであった。

  アマチュア問題や競技力強化のいろいろな側面などのような、時事的なテーマのディスカッショ

ンもカリキュラムのなかで大きな部分を占めていた。 

  この議論の結果はIOCに伝えられ、その決定の参考とされた。

  多くの学生にとってオリンピアのIOCセッションの参加は、人間的、国際的友情の面から、また知 的啓発の面から忘れ難い経験となった。

  多くの者にとって、IOA参加は、彼らが自分自身の国でオリンピックムーブメントに献身する出発 点となっているのである。 

ドキュメント内 IOC百年第2巻第2章 (ページ 91-94)