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ローデシア問題

ドキュメント内 IOC百年第2巻第2章 (ページ 46-53)

2.3. IOCの世界政治へのかかわり

2.3.2. アパルトヘイト問題

2.3.2.2. ローデシア問題

  南ローデシアは1923年以来、イギリスの直轄植民地であった。 

  19世紀の終わりにかけて、イギリス人植民者がこの地域を所有しはじめていた。マタベレ地方に ある金鉱を採掘したイギリス南アフリカ会社の後を追ってやってきたのである。

  南アフリカと同じように非白人の権利はすぐに法の力によって厳しく制限された。差別の根拠は 1937年の“土地指定法”であった。この法律によってアフリカ人は保護区を割り当てられた。

  1950年代に多くのアフリカ諸国で起こった独立運動の潮流の圧力の下に、政府は国内の政治

的不安定の機先を制するために、人種差別政策をあるていど緩めざるを得なかった。

  たとえば1962年以降、アフリカ人は白人と共に公共の水泳場を使うことが許された。

 60年代半ばに英国の側にも、植民地の独立を許す動きがあらわれた。

  しかし独立は、非白人多数の支配と差別の廃止の可能性を条件とした。

  当時権力の座にあった“ローデシア戦線”はしかし、これらの条件に同意せず、1965年11月11日

“一方的独立宣言”をした。それは当面の少数者支配の現状を確保するものであった。

  国際連合総会は圧倒的多数でこの行動を非難した。1966年には国連安全保障理事会はロー デシアに貿易制裁を科した。

  しかし多くの国々、なかんずく南アフリカはこの決議に従わず、制裁は効果を上げなかった。

 1970年の憲法、これは共和国が人種差別を悪化させたと非難されたが、アフリカ人によって占め

られる議席の数が制限され、非白人の議席は65のうちたった8つになった。

  人種差別のスポーツへの影響は間接的なものであった。人種の混じったクラブやスポーツのチ ームは許されていた。その結果、隣国の南アフリカと違ってローデシア人は人種の混じったオリン ピック予選に参加することができた。

  IAAF調査委員会は、1971年に、ローデシアは南アフリカと違ってスポーツにおける人種差別は ないと報告した。

  それにもかかわらず、フットボールとネットボールを除いてすべてのスポーツは、はっきり白人た ちの手の内にあった。国はほとんど排他的に白人たちのスポーツの機会を支援した。

  学校スポーツでは人種差別の原則があらわであった。子供たちをスポーツへ導く学校の役割は 非白人にとっては限られたものであった。

  厳しい学校政策は、非白人の子供たちが3年以上の教育を受けることを極めて稀にしていた。そ のためスポーツにおける平等の機会について語ることは、不可能であった。

  メキシコシティーのオリンピック大会に参加したチームのなかで14人の白人に対して非白人はわ ずかに2人であった。人口比率では非白人が96%であったが、チームの中では白人がほとんど 90%(87.5)であった。

 1967年11月、メキシコの組織委員会はローデシアNOCを大会に招いたが、結局彼らは競技する

ことができなかった。

 1968年5月、国連安全保障理事会はすべての国連加盟国は、ローデシアのパスポートを持つ者 の入国を拒否すべしと決定した。

  そのためメキシコ組織委員会はIOCに対して、こうした情勢ではローデシアの参加は不可能であ ると通告した。

  ブランデージは怒って、すでに他のことで非常に困難な問題が起こっているのだと指摘した。

彼はローデシア問題が起きることによって、南アフリカの紛争がさらに燃え上がることを望まなかっ たのである。彼の意見ではローデシア問題は純粋に政治的事件であった。

 IOCとアフリカ諸国は、南アフリカに気をとられていたのでローデシア問題は些細なものにしか映 らなかった。

  しかしメキシコ組織委員会には、ローデシアの参加はオリンピックをさらに危険に陥れると感じら れたので、国連決議を盾に取った。

  巧妙な遅延戦術を採用して、組織委員会はオリンピックIDカードの発行を延期し、大きな騒ぎを 引き起こすことなくローデシアを大会から締め出した。

  その時ブランデージには、ローデシアは自発的に入国を控えているのだと通知された。

  メキシコ組織委員会にとっても、IOCにとっても、この事件を公にすることは利益にならなかった。

双方とも、アパルトヘイト問題にさらなる躓きの石を置きたくはなかったのである。

  メキシコシティーでのIOC総会では、ローデシアは問題にならなかった。

  ローデシアは、1969年のドゥブロヴニクにおけるIOC理事会とNOC代表団の会議で、初めて、南 アフリカ問題と一緒に論じられた。

  そこでエジプトNOCの代表が、南アフリカとローデシアの代表団の追放を要求した。

  ブランデージはこの両国を並列に扱うことに当惑した、彼はこの二つは基本的に別の問題であ ると考えていたのである。

  ドゥブロヴニクの総会の二日前に、アフリカ諸国のNOCはローデシアNOC代表団の国籍を調査 する決議を行っていた。そしてローデシアにおいてオリンピック憲章が守られているかどうかを調 べる調査委員会の結成を決議していた。その要求は次のように書かれていた:

“―IOCによる第7項の解釈が次のように規定しているのを考慮して:

    ʻ以下のような地域におけるオリンピック委員会の承認:

1) は、政治的な承認を意味しない、なぜならこれは国際オリンピック委員会の権限 外のことだからである;

2) は、その地域が安定した政府を適当な期間持っていることによる。ʼ

―国際的にその国によって発行されたパスポートとビザが無効であるために、ローデシアが世界 の他の国々と国際スポーツ関係を維持することが不可能であることを考慮して;

―ローデシアではスポーツにおける人種差別が確立されていることを考慮して。“

  南アフリカ問題を改めて念頭に置いて、今回は国際法に基づく正当化があるので、アフリカ人た ちはローデシアを追放するより大きなチャンスがあると考えた。これまでは、ローデシアに関しては 南アフリカと違って人種の混じった予選競技会を開いているので、人種差別の証拠を集めるのが 難しかったのである。

  しかしアフリカ人たちにとっては、ローデシア政府の人種政策こそが問題だった。

 1970年5月のアムステルダムにおけるIOC総会で、ローデシア問題が議題に上った。

  しかし、エクゼターからIOCはスポーツにおける差別にのみ関心があるのだ、という意見が出され ると議論はすぐ終わってしまった。

  アフリカのNOCの代表たちが驚いたことに、次の日、彼らはローデシア問題は解決されたと新聞 で読むことになった。ジャーナリストたちが、議論がすぐ打ち切られたことを誤って解釈したのであ る。問題は単に次回に先送りされたのであった。

  次の年、この問題はルクセンブルグのIOC総会で再び議論された。

  会長は状況を要約し、35ヵ国のNOCからIOCに宛て、ローデシアにおけるスポーツの状況を調 査してほしいと要求する手紙を受け取っている、と委員たちに報告した。

  彼の知るところではローデシアのNOCはオリンピックの規則に適合している。

国籍の問題については、ローデシアの選手はオリンピックIDカードもしくはイギリスのパスポートで 旅行することができると指摘した。

  アフリカ人委員の、ローデシアは国際法で承認されていないとう異議申し立て対しては、ブラン デージは、国内オリンピック委員会がオリンピック規則に従っている限り、IOCはその政府には関 心がないと述べることによって反論した。

  アフリカのスポーツの代表たちとの何回かの議論の末、ブランデージは、ローデシアが1964年の 東京と同じの旗と国歌の下にミュンヘン大会に参加を許されるということで、彼らをなんとか説得す ることができた。

  アフリカ人とソビエトのIOC委員、アンドリアノフによって要求された調査委員会は大会の後まで 仕事を行わないことになった。以下の決定がなされた:

“ローデシアの選手は、東京大会に参加したときと同じ旗と国歌の下に、ミュンヘンで競技すること ができる。この問題はミュンヘン大会の後に再考される。”

  アフリカ人たちは、ローデシアがミュンヘンのスタジアムで植民地主義のシンボルの下に行進す ることを拒否するであろう、と期待した。

  しかし彼らは間違っていた。最初、ソウルズベリーの政府はこの決定を受け入れがたいとするよう に見えた。しかしローデシアの最初の拒絶は、アフリカ人たちを安心させようとする戦術的な動き であったのであろう。

  ほとんどすべての世界から孤立しているローデシア人たちは、国際舞台に現れるこの機会を見 逃そうとはしなかった。

 1972年8月、大会開会の直前にローデシアNOC会長、プラスキッドは、彼のチームは必要ならロ シア国旗あるいはボーイスカウトの旗の下にでも行進すると宣言した。

何故なら、そうしても、彼らはローデシア人であり、誰でもそれを知っているのだから。

  アフリカの国々は、彼らが見当違いをしていたことに気が付いた。

  ドイツ人主催者たちは、最初のボイコットの脅しが聞こえてくるに及んで、水平線上に黒雲が湧き 上がってくるのを感じた。

  ドイツNOC会長、ウイリー・ダウメは、初めにブランデージとローデシアNOC会長と電話で話し、

そのあとアフリカスポーツ最高評議会の代表、ガンガとカソンカと長時間議論した末、以下のような 結論に至った:

“アフリカスポーツ最高評議会の代表はミュンヘンにおいて組織委員会から以下の保証を得た:

1. 南ローデシアは第20回オリンピアードにイギリス植民地時代の条件、すなわち1964年の東京

大会と同じ条件、の下に参加することに同意した。

2. 南ローデシアは1964年と同じ旗の下に競技する。すなわちユニオンジャックとロイヤルブルー

の地の上に南ローデシアの盾の紋章を付けたものである。

3. イギリスの国歌ʻゴッドセイヴザクイーンʼが演奏される。

4. IDカードは国籍の欄にʻイギリス臣民ʼと記入される。

5. ブランデージ会長は電話でダウメ会長に、国籍の確認は公式記録を参照し、IOCまたは国際

競技連盟または組織委員会によって行はれる、と確認した。

ブランデージ会長はIOCを代表し、ダウメ会長は組織委員会を代表して、これら5つの点に同意し 受け入れた。アフリカスポーツ最高評議会の代表はこの議論の結論に満足の意を表明する。”

 

  最初の4つの条件はIOCのアムステルダム決議と同じである、しかし第5の点は、新しいものであ った。

  公式には、南アフリカの選手がローデシア選手として競技することを防ぐためであったがしかし、

実際には、ローデシア人にとって耐え難い障害となることを期待したものであった。

  アフリカでは、SCSA代表は非難と抗議で迎えられた。そこでは、イギリスが好意的に、ローデシ

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