2.4. IOCの構造と内部政治
2.4.3. 初期“オリンピックソリダリティー”の困難
1960年はじめ、チリは大地震に襲われ、沢山の犠牲者を出した。チリオリンピックチームとの連
帯意識から、フランスNOCは三人のチリ選手の旅費を負担することにした。
イタリアNOCはチームのローマ滞在費を全額提供した。
ボーモン伯爵に、貧しいNOCのための組織設立のアイデアを思いつかせたのは、このNOCの間 の自発的なオリンピック連帯だったのだろうか?
一年後、1961年のアテネでのIOC総会で、彼は同僚たちに、IOCがアフリカやアジアの新しい 国々に何らかの形で経済援助する必要があることを訴えた。
彼はそのような援助を供給する可能な方法を研究する委員会を作ることを提案した。
出席していた委員はあまり乗り気でなかった。彼らはこの種のプロジェクトは実行に移すのは難 しいと考えていたのである。しかし提案を検討してみることには賛成した。
1962年、モスクワの次回のIOC総会で、ボーモンは、その委員会は自分が委員長で、アンドリア ノフがリーダーの役を務める“国際オリンピック援助委員会”と称すると発表した。
1年後、この委員会は再び議論の対象になった。1963年6月のローザンヌの理事会で、ボーモン 伯爵は国際オリンピック援助委員会の活動について報告した。続いての議論で、委員会の財政 について早速意見の相違が生じた。
オリンピックを招致しようとする市に寄付或いは援助を求めてはという案は、マサール副会長から 猛烈な反対を浴びた。
ブランデージもこの種の努力は先ず、経済より教育的な面に集中すべきだという意見であった。
結局、委員会はとりあえず次のナイロビに予定されている総会まで、IOCのヘッドの入った文書 を使うことは控え、委員会の名前から“オリンピック”の文字を消すことになった。
次のIOC総会は政治的問題のためにナイロビでは行われず、ドイツのバーデンバーデンで開催 されたが、IOCは委員会の財源を確保することは、必要な財源がないのでできないと決定した。ま たこの種の組織がIOCから独立してつくられることにも反対した。
しかしこの努力は続けるべきだというのが一般的意見で、サー・アーサー・ポリットによる以下の 提案は総会の決議となった:
「・・・報告書の中に考察されている可能性と活動の光に照らして、これからどのような活動が望ま しくそして実際的であるかを決めるIOCの特別のそのための委員会を設置することが勧告される1。」
1964年秋の理事会で、国際援助を扱うと共に、このことに関して過去に起きた間違いを避けるた めに情報を集める小委員会を作ることが決まった。
これは1968年メキシコシティーで、IOCとNOCが参加して設立された小委員会、“援助委員会”と して具体化した。しかしこの委員会は何年もの間、控えめな存在であった。
1969年初め、NOC常設総会の代表たちは“NOCの利益のための技術とスポーツの援助プログラ
ム”を作る必要を確信した。
このアイデアを実現するために、G.オネスティPGA䇲NOC会長、R.ガフナー スイスNOC会長、R.
モレ ベルギーNOC会長そしてE.ヴィーツォレックPGA-NOC事務総長が1969年4月29日、“NOC 発展のための国際機構”を作った。
1 原注:アンダーラインはオリジナルテキストに引かれている。
この機構は、それ自身をNOCのPGAの一部をなす“補助事業”であると見なしていた。
その主な目的は“NOCの利益ためのPGA援助プログラムとNOCのPGAによって決定され実行さ れる具体的な援助活動を賄う”基金を集めることである。
この機構の定款はその特別な目的を以下のように述べていた:
“a) 国内オリンピック委員会(NOCs)の間の緊密な協力関係を作り出すこととその発展を促進する こと。
b) オリンピックソリダリティの枠内でNOC常設総会によって採用された政策に従って、国内オリ ンピック委員会の利益のためのプロジェクトと、技術とスポーツの援助計画の具体的な実現の ために必要な物質的基礎を提供すること。
c) NOCの仕事の範囲内にあり、その進歩に貢献できるすべてのスポーツ事業あるいはプロジェ クトを育成すること。“
この機構の活動は、似たような組織の事業の敵対的な競争相手となるものではなく、他の事業の 活動と喜んで協力するものであることを、わざわざ強調していた。
このタイプの共同作業はオランダのIOC委員、ヘルマンA.ファン・カルネヴィークが1971年の理 事会に“オリンピックソリダリティ委員会”の設立を提案した時、ついに実現し始めるかに見えた。
ブランデージはアイデアには賛成したが、この種の計画をいかにして賄うかについて疑念を表明 した。彼は、まさにこの財政問題で暗礁にのりあげたボーモン伯爵の委員会に、この件を再付託し た。
札幌での理事会と総会への報告の中で、このプロジェクトのために働いた三人の副会長は
“NOC援助のためのオリンピック基金”の設立を喜んだ。この基金はテレビ放送権料から捻出され、
NOC援助のために使われることになっていた。
最初はIOC委員だけがこの組織に属するように考えられていたが、IOCの同意のもとに、NOC、
IF、そしてIOA(国際オリンピックアカデミー)の専門家が参加する規定が作られた。
この組織の予算は毎年IOCによって決められると規定された。この基金はミュンヘンオリンピック のあと活動を始めることになっていた。
NOC常設会議に属する同じような組織は、ローザンヌに移され、IOCの指揮の下に置かれること
になっていた。
次のIOC総会でこの提案はいくつかの批判を浴びた。
スミルノフは、究極の目的はテレビ放送権料の分配であるのだから、NOCが決定に加わるべきだ という意見を述べた。
次に年のミュンヘンでのIOC総会で、ファン・カルネヴィークはこの委員会の委任事項について 具体的な提案をした:
“1. 一般的に受け入れられているスポーツ行政についてのアドバイス。
2. スポーツの競技方法の導入。学校に始まり、街、地方そして国内選手権等に至る。
これはもちろんそれぞれの国際競技連盟との緊密な協力によってのみ実現される。
3. NOCの定款と規則の作成に当たっての助言。
4. NOCがスポーツ施設建設、整備、維持を扱うさまざまな機関や組織と接触する際のガイダン ス
5. オリンピックや大陸大会、地域大会で得られた経験を組織委員会に伝えること。
6. スポーツ分野におけるIOCの教育的出版物の回覧。“
長い困難な懐胎の後に“オリンピックソリダリティ”は生まれた。
真の独裁者の如くであったブランデージは、最初はこの組織が作られることを妨害し、後に引き 延ばした。NOCに対するコントロールを、用心深く、何とか維持しようとしたのである。