第 4 章 コソボ:同盟の力作戦
1 IICK (2000)
2 Wilson (2009).
3 Lambeth (2001).
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ら、コソボ介入の最大の特徴は武力行使と外交交渉の組み合わせにあり、その武力行使の 本質を理解するには、やはり外交交渉との関係をクローズアップする必要がある。この点 を意識した研究としては、ヘンリクセン(Dag Henriksen)のものが挙げられる4。但し、
その研究の射程は時期的に、空爆に至るまでの経緯にほぼ絞られている。そのため、NATO が楽観的な見通しと不確かな戦略をもって空爆に突入した事実が説得力をもって示されて いる反面、それでもなぜ最終的に空爆が成功したのかについては教えてくれない。
軍事・外交関係に着目した最も包括的かつ詳細な研究は、ダールダーとオハンロン
(Michael E O’Hanlon)によるものだろう5。彼らは、アメリカやNATOの政策決定者の動 き、空爆の長期化、外交交渉の展開、ミロシェビッチの思惑など重要なポイントをバラン スよく整理しながら、コソボ介入の実態をクリアに描きだしている。そして、結論の 1 つ として軍事・外交関係の観点から以下のように述べる。「将来の軍事作戦への教訓ははっき りしている。軍事的手段は政治目的に関連しなければならないということである。成功し そうな戦略を形成する時、軍幹部の役割は、決定された政治目的がどうすれば軍事的に達 成できるのかということについて、彼らのリーダーたちにアドバイスすることである。つ まるところ、これが彼らの最も重大な責任である6」。しかしながら、コソボ介入に関して見 逃してならないのは、まさにその政治目的(の一部)が定まらなかったことである。すな わち、この介入が示唆するのは、常にあらかじめ明確に決定された政治目的に合わせて、
武力行使が計画されるとは限らないということである。そこに人道的介入における軍事・
外交関係の難しさがある。ダールダーとオハンロンの研究は、この点について十分な考察 を行っていない。これを踏まえて本章では、政治目的の不明瞭さを、外交交渉ないし和平 案の変遷と関連付けながら、武力行使の実効性を左右する要因として位置づけることで、
コソボ介入の軍事・外交関係の重要な側面を明らかにし、ひいてはそこから介入の本質に 関わる知見へと議論を発展させていきたい。さらには、同盟の力作戦の終盤に関して、ダ ールダーとオハンロンの研究および星野の研究7を参考にしつつ議論を発展させ、人道的介 入の中で外交交渉が武力行使の失敗を補うという、まさに「複合的プロセス」ならではの 介入の展開について、新しい視点を提示したい。
第 1 節 紛争の概要
旧ユーゴからクロアチア、スロベニア、ボスニア、マケドニアが独立した後、残された セルビアとモンテネグロは1992年4月に新しい連邦国家、ユーゴスラビア連邦共和国(新 ユーゴ)を樹立して再出発した。だが、その中には国家の統合を揺るがす紛争の火種がま だ残っていた。コソボである。多民族が混在する新ユーゴないしセルビア全体において多
4 Henriksen (2007).
5 Daalder and O’Hanlon (2000).
6 Ibid., p. 211.
7 星野 (2000)。
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数派はセルビア人だったが、セルビア南部に位置するコソボ自治州は特殊な地域で、約200 万人の住民のうち9割をアルバニア人が占めており、1974年に広範な自治権を与えられて いた。ところが1989年にセルビア政府が自治権を剥奪し、翌年にはコソボの議会を廃止す る。当然のことながらコソボのアルバニア人の中で自治権の回復を求める政治運動が起こ り、急進的な一部の人々はコソボの独立をも主張するようになった。これに対して政府が 厳しい弾圧でもって応じているうちに、アルバニア人の間では次第に独立を求めるムード が広がった。自治を取り戻そうとする反政府運動が、独立運動へと発展していったのであ る。当初はこの運動も、政治指導者のルゴバ(Ibrahim Rugova)率いるコソボ民主同盟の 方針に従って非暴力主義に基づいて展開していたが、次第に武力闘争の色彩を強めていく ことになる8。
こうした流れの中で、1998 年 1 月にアルバニア人の武装組織「コソボ解放軍(Kosovo
Liberation Army: KLA)」が公に武力闘争を宣言し、独立運動はより一層激しくなった。そ
して、ユーゴ政府が 2月末から対KLAの本格的な掃討作戦に乗り出したことで、コソボは いよいよ内戦へと突入する。武力衝突の回数を見ると、1996 年と1997年ではそれぞれ年 間31回と55回だったところ、1998年になると1月と2月だけで66回にのぼった9。3月 に入って掃討作戦はさらに激しくなり、5月末には死者が約300人に達した10。
コソボ紛争の基本的な構図は「ユーゴ政府vs.コソボのアルバニア人」である。ユーゴ政 府側の軍事組織にはユーゴ軍、セルビア内務省の警察部隊、民兵組織の 3 つがあった(以 下、3 つをまとめて「ユーゴ部隊」とする)。民兵組織は政府の公式の組織ではないが、政 府から指令を受けて行動していたといわれる。アルバニア人の方はKLAが主な戦闘主体で あった。なお、コソボ問題の平和的解決を目指す上述のコソボ民主同盟と、武力闘争にま い進するKLAは基本的に対立していた。同じコソボのアルバニア人として、独立という目 標は共有しながらも、それを実現するための手段については――平和的方法か武力闘争か
――意見を異にしていたのである。
コソボ紛争はこのように少数民族地域の政治的地位をめぐる争いだったが、人道上の問 題を惹起することにもなる。それは、ユーゴ部隊による攻撃の矛先が、KLAという反政府 武装組織以外の一般市民にも向けられたからである。具体的にいえば、ユーゴ部隊はKLA の掃討に乗じる形で、様々な迫害(脅迫、拉致、殺人など)によってコソボからアルバニ ア人全般を追い出そうとしたのである11。1998年1月の時点でKLAのメンバーは数千人だ
8 この流れの中で一つの転機となったのが、ボスニア紛争を終わらせたデイトン合意だった ともいわれる。合意がコソボ問題の解決に言及しなかったことが、アルバニア人に武器を とって戦うしかないという気持ちを抱かせたのである。Albright (2003), pp. 483-484;
DiPrizio (2002), p. 135; Hedges (1999), p. 29.
9 IICK (2000), p. 67.
10 Ibid., p.72.
11 一般市民に対する迫害の詳細については、以下を参照。UN Doc., S/1998/912, October 3,
1998, para. 7-10. ユーゴ政府はKLAを攻撃しているだけだと言い張り続け、一般のアル
バニア人が被っている人権侵害はKLAと(空爆開始後は)NATOのせいだと非難した。
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った12。それにも関わらず、ユーゴ部隊によるKLA掃討作戦の間に家を追われて難民・避 難民となったアルバニア人の数は、UNHCRによれば1998年8月の時点で46万人にまで 膨れ上がった13。1998年についていえば、ユーゴ政府の狙いが「KLAの鎮圧」にあったの か「民族浄化」にあったのかは意見の分かれるところである14。但し、1999 年春にNATO の空爆が始まった後の時期についていえば、ユーゴ政府は明らかに民族浄化を狙っていた
(後述)。このようにして、コソボ紛争は一国の政治問題にとどまらず、国際的関心を集め る人道問題にもなったのである。この点について1 つ付け加えれば、KLAが意図的にユー ゴ政府を挑発して、同胞であるアルバニア人への迫害を加速させていたといわれる。とい うのも、KLAはそうすることによって、コソボを救うための国際介入への気運が高まるこ とを期待していたからである。その意味で、コソボの人道的危機の責任の一端は、KLAに もあったといえよう15。
紛争の構図に関してもう 1 つ重要な点は、コソボ紛争がセルビアやユーゴの内部にとど まる事象ではなかったことである。ユーゴ内のモンテネグロ、そして周辺のマケドニアとギ リシャにも同じく少数派としてのアルバニア人がいることから、コソボでの独立闘争はそう した国々に波及する可能性があった。さらにそれが究極的には、バルカン半島に住むアルバ ニア人が結集して「大アルバニア」を形成しようという動きにつながって、半島全体の秩序、
ひいてはヨーロッパ全体の秩序を不安定にする恐れも否定できなかった。また、より現実的 な問題として、コソボからの大量の難民流出が周辺地域の秩序に動揺をもたらしていた。ボ スニア介入から引き続き、コソボ介入でも外交交渉の中核を担ったコンタクト・グループは、
ある声明で以下のように述べている。
「[コンタクト・グループは]ユーゴスラビア連邦共和国の近隣諸国が、コソ ボにおける暴力と不穏な状態から正当な安全保障上の懸念を抱いていること を認め……16」
コソボ紛争は基本的に内戦でありながら、ソマリア紛争やボスニア紛争と同じように国 際的な安全保障に関わる問題ともなっていた。だからこそ、それはヨーロッパとアメリカ の関心を強くひきつけることにもなり、本格空爆という帰結に至ったのである。そして、
ボスニアの場合と同様、やはりNATOの信頼性の問題が、アメリカおよびヨーロッパの安 全保障上の懸念を増大させていた。またもNATOが関与しながら紛争を解決できないとな
IICK (2000), p. 88.
12 その後KLAのメンバーは増え続け、1999年6月にNATOの空爆が終わる頃には約
17,000人に達していたといわれる。その背景には、世界中のアルバニア人ディアスポラに
よる人員・資金面での協力があった。Daalder and O’Hanlon (2000), pp. 114-115.
13 IICK (2000), p. 74.
14 Ibid., pp. 135-136.
15 Henriksen (2007), pp. 176-177; Seybolt (2007), p. 79.
16 UN Doc., S/1998/223, March 12, 1998, Annex, para. 6.
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