第 4 章 コソボ:同盟の力作戦
第 6 節 外
コソボ介入における外交交渉は、空爆前と空爆中の そ
その後しばらくして再開されたという経緯がある。第二に、空爆前の交渉の大部分は、少 なくとも形式的にはミロシェビッチとアルバニア人の間を介入側が仲介する形で進められ たが、空爆中の交渉は完全にミロシェビッチと介入側の二者間の交渉となったからである
125。第三に、軍事・外交関係の観点から見ると、空爆前の交渉は、次第に武力行使の正統 性を高めるための方策へと変質していった一方、空爆中の交渉は、武力行使の後押しを受 けて紛争の政治的解決に向かうものだったからである。
(1)空爆前の外交交渉
123 Lambeth (2001), pp. 72-77. 空爆開始から1ヶ月ほどたった4月中旬、地上軍派遣の可 能性を検討していたオルブライトに対して、シェルトンは7月中旬まで派遣は無理だと伝 えている。Albright (2003), p. 528.ミロシェビッチは地上戦の脅威を感じていなかったとい う見方もある。Stigler (2002/2003).
124 ‘Crisis in Yugoslavia: How an Uneasy Alliance Prevailed,’ Los Angels Times, June 6, 1999, quoted in Lambeth (2001), p. 76.
125 篠田がこの流れを簡潔に記している。「紛争停止までの一連の政治的事件は、形式的に はランブイエ合意[案]をミロシェビッチ大統領が拒絶したため、NATOが強制執行措置 をとったという流れになっている。しかし実際には空爆以後、NATOが代表する国際社会 とユーゴスラビア政府との間で紛争は展開したのであり、コソボ解放軍は、NATOの空爆 以降、和平合意の当事者としての立場からほとんど退いた。つまりコソボ紛争は、NATO による軍事介入以後、NATO構成諸国とユーゴスラビア政府の間の紛争という様相を呈し ていたのであり、結果として事実上、和平合意は非対称関係を持つ両者の間で結ばれた」。
篠田 (2003b)、68頁。
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1998年2月にコソボ紛争が勃発してから、国際社会は外交交渉による平和的な解決を目 指したが、当初はその交渉すら始まらない状況だった。そこで国際社会は紛争当事者であ る
した。具体的にはユーゴ部隊の活動の停止と撤
の
ロシェビッチとアルバニア人代表のルゴ バ
の見通しが立たないと判断し、KLAとの接触を始めた
13
ユーゴ政府とアルバニア人のうち、前者すなわちミロシェビッチ大統領に対して、交渉 テーブルにつくよう圧力をかけ始める。
3月9日、コンタクト・グループがコソボ問題に関する初めての協議を行い、ミロシェビ ッチに対する一定の要求項目について合意
退、人道援助機関のコソボへのアクセスの許可、アルバニア人との交渉の開始などである126。 グループは同月25日にも2回目の協議を行い、その後に発表した声明で再度ミロシェビ ッチに交渉の開始を要求した127。さらに4月29日にも協議を行い声明を発表している。そ 中でグループは、ユーゴ政府とセルビア政府の海外資産の凍結を決定し、加えてユーゴ 政府が外交交渉を始めなければ同国への新規の投資を停止すると警告した128(但し、ロシ アはこの警告に反対した)。一方国連では、安保理が3月31日に採択した決議1160におい てユーゴに対する武器禁輸措置を決定した129。
こうした国際的な圧力が功を奏して、ようやく外交交渉が始まったのは 5 月のことであ る。アメリカの仲介により、同月15日に初めてミ
の間で話し合いの場がもたれた。その後、アメリカのヒル駐マケドニア大使が両者の間 を仲介する形で交渉を進めた。しかしながら、交渉は実質的にほとんど進まなかった。ミ ロシェビッチが外部からの仲介を拒否する一方、アルバニア人側はルゴバとKLAの対立で まとまりきれず、そしてコンタクト・グループ側は交渉枠組みがない中でほとんど何もで きなかったのである130。唯一わずかな進展は、9 月にミロシェビッチとルゴバの間でコソ ボの最終地位の決定は数年先に先送りして、とりあえず暫定的な計画について話し合うと いう方針で合意したことである131。
さらに 6 月になるとアメリカが、それまでテロリストとして非難していたKLAを外交交 渉の枠組みに取り込まなければ交渉
2。ただ、この時点でKLAはまだ軍事的勝利を信じていて、停戦や交渉に関心を持ってい なかった133。実際、KLAはその後も戦闘を止めず、ユーゴ政府の弾圧が激しくなる一因を 形づくるのである134。
秋になって交渉がはじめて目立った進展を見せる。もっとも、それは紛争当事者の間で
126 UN Doc., S/1998/223, March 12, 1998, Annex.
127 UN Doc., S/1998/272, March 27, 1998, Annex, para. 3.
Auerswald and Auerswald (2000),
Albright (2003), p. 491.
Oによる武力の威嚇が強まるほど、それに乗じてますます妥協しなくなっ p. 152.
128 ‘Statement by the Contact Group,’ April 29, 1998, p. 161.
129 UN Doc., S/RES/1160, March 31, 1998.
130 Daalder and O’Hanlon (2000), pp. 39-40.
131 Ibid., p. 40.
132 Ibid., p. 39.
133
134 KLAはNAT
たといわれる。IICK (2000),
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のことではなく、介入側と被介入側、すなわちアメリカとユーゴ政府の間でのことだった。
先
135。ユーゴ・セルビア政府とアルバニ ア
②約28,000人のNATOの平和維持部隊をユーゴ全土に展開する。
後に「人々の意志(will of the people)」などを考慮
ているアメリ ロッパの軍隊を自国の領土に、まして全土にわたって受け入れるわけにはいかな
述のように、10月13日にアメリカのホルブルックとミロシェビッチが一定の合意に達し たのである(ミロシェビッチ・ホルブルック合意)。この合意によって紛争は一時的に沈静 化した。そしてヒルが再び紛争解決に向けて交渉に乗り出したものの、抜本的な解決には つながらず、年が明けると再び事態は緊迫した。
そうしていよいよ空爆の現実味が高まる中で、紛争解決を目指す和平会議がフランスは ランブイエの古城で1999年2月6日から始まった
人それぞれの代表団が呼ばれ、フランスのベドリーヌ外相(Hubert Vedrine)とイギリ スのクック外相が共同議長を務めた。ユーゴ政府側の代表団は副首相などの政府関係者に よって構成されていたが、ミロシェビッチは参加しなかった136。一方のアルバニア人側の 代表団は、ルゴバなどの政治指導者やKLAメンバーを含む雑多な人々の集まりであった137。 交渉のためにコンタクト・グループが提示した和平案の主要項目は、以下の4点である138。
①コソボに自治権を与える。
③コソボの地位については3年 して再検討する。
④国際的な支援の下で選挙を実施して、民主的な制度を確立する。
このうちユーゴ政府は特に②に反対した。ユーゴ政府からすれば、敵対し カやヨー
かった139。ユーゴ側からすればそれはセルビア全土を占領しようとする試みに等しかった のである140。一方のアルバニア人側は③に反対する。彼らが欲していたのは、このような 曖昧な形ではなく明確に、コソボ独立の是非を問う住民投票を認める約束だったからであ
72; Weller (1999b), pp. 221-234.
人たちは、外交史
――すなわちゲリラ司令官、新聞編集者、
シンジャー(Henry A. Kissinger)も当時、「セルビア側はNATO による占領と同一視している」と語っている。『Newsweek(日本語版)』
135 交渉過程の詳細は以下を参照。Albright (2003), pp. 505-515; Kaufman (2004), pp.
142-145; Henriksen (2007), pp. 168-1
136 Daalder and O’Hanlon (2000), pp. 78-79.
137 イグナティエフはその様子を以下のように描いている。「アルバニア 上、もっとも型破りな代表団のひとつであった
西欧化した知識人を、この交渉のためにアメリカ人がまとめあげた混成集団であって、そ れゆえにほとんどが、プリシュティナからランブイエに移動するフランス軍輸送機に搭乗 するまで一面識もなかった、というほどお互いをよく知らなかった」。イグナティエフ
(2003)、62頁。オルブライトも、この代表団をまとめるのに苦労したと振り返っている。
Albright (2003), p. 498.
138 Ibid., p. 505.
139 この点に関して、キッ 軍の駐留を、外国
1999年4月7日号、27頁。
140 Henriksen (2007), P. 170.
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る141。
交渉は14世紀に建てられた古城の中で、アメリカのヒル、EUのペトリシュ(Wolfgang Petritsch)、ロシアのメイヨールスキー(Boris Mayorski)の3人を実質的な仲介役として 進
ー
った。これこそ、先述の「秩序と正義の 調
ついて、アルバニア人側が署名の意志を示し た
なかった。ホルブルックとの交渉に先立って、ミロシェビッチは声明の中でこう述べてい められた142。しかしながら、交渉が困難なことはすぐに明らかになった。なぜなら、ユ ーゴ政府側はミロシェビッチの不参加に象徴されるように、真剣に交渉に臨む姿勢を見せ ず、アルバニア人側も独立に関してまったく譲る気配を見せなかったからである143。
そこで、アメリカのオルブライト国務長官が終盤から交渉に加わり、アルバニア人側の 説得にエネルギーを注いだ144。とりあえずアルバニア人の合意さえ得られれば、あとはユ ゴ側に圧力をかけるだけで良くなり、それこそ彼女が望んでいたことだったからである。
彼女は、住民投票実施の保証を求めるアルバニア人に対して、コソボの最終的な地位を決 定する際に考慮する要素の 1 つに「住民の表明された意志(the expressed will of the people)」を付け加えること、そしてアメリカはこれを、コソボの人々が住民投票を実施す る権利を承認するものとして理解すると伝えた。但し、2つ目の点については一定の留保を つけた。すなわち、住民投票の結果はコソボの最終的な地位を決定する諸要素のうちの 1 つに過ぎないこと、言い換えれば住民投票で独立が支持されたとしても、それが実際の独 立を保証するものではないということである。
このようにしてアメリカは、アルバニア人の協力を得るために一定の譲歩をしながらも、
「独立の保証」の一歩手前のところで踏みとどま
和」を維持する上で譲れない一線だったのである。アメリカは、アルバニア人の置かれ ている非人道的な状況を決して見過ごすことはできないし、彼らを助けるために武力を用 いることも辞さない構えだった。しかし同時に、既存の主権国家の分裂を招くようなこと は避けなければならない。正義の追求が秩序の動揺につながってはならない。従って、も し武力行使に踏み切るのならば、そうした事態を招くことのない形での「秩序と正義の調 和」を、和平案の中で確保しておく必要がある。これが、空爆前の外交交渉の最終段階に おけるアメリカの外交姿勢の核心だった。
ランブイエでの交渉は難航をきわめた結果、コンタクト・グループが提示した和平案に 一定の修正を加えた「ランブイエ合意案」に
ところで2月23日に終了した。ユーゴ側は反対の姿勢を変えなかった。その後、パリに 場所を移して改めて和平会議が開かれるまでの間、ミロシェビッチの説得が続けられたが 彼の態度は変わらなかった。再びホルブルックが送り込まれたが、それでも成果はあがら
た。「我々の国が外国の軍隊を受け入れることを政治合意の条件にしようとすることは、受
141 Albright (2003), p. 509.
142 Ibid., p. 506.
143 Ibid. ユーゴ政府側の交渉姿勢については以下も参照。Daalder and O’Hanlon (2000), p.
79; Henriksen (2007), pp. 168-169.
144 この段落は以下の要約である。Daalder and O’Hanlon (2000), p. 82.
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