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地図3.1. ボスニア

出典:国連ホームページ(http://www.un.org/Depts/Cartographic/english/htmain.htm)

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第 3 章 ボスニア:限定空爆と周到な力作戦

ソマリア介入の希望回復作戦が、国際的な正統性に支えられて一定の成果を収めたとい う意味で、人道的介入の 1 つの可能性を示した例だったとすれば、ボスニア介入は逆に、

人道的介入の限界を浮き彫りにした例だったといえるだろう。介入の中核を担ったアメリ カ、ヨーロッパ、国連は、それぞれの考え方の違いからなかなか足並みを揃えることがで きず、約4年もの間ボスニアの人道的危機に対して有効な手立てを打てないままだった。

ボスニア紛争の複雑さからすれば、そうなったのもある意味では無理がなかったかもし れない。この紛争は、ボスニアのユーゴからの独立をめぐって、ムスリム人勢力、セルビ ア人勢力、クロアチア人勢力が争うものであり基本的には内戦だったが、近隣諸国も深く 関わっていて、国際紛争としての側面も合わせ持っていた。また、程度の差こそあれ 3 勢 力のどれもが一般市民への迫害や攻撃を行っていて、誰が「悪人」か必ずしも明確ではな かった。こうした状況下では、介入側は紛争を終わらせ人道的危機を解決する方法につい て合意するのが難しかった。言い換えるとそれは、どのような和平案を携えて紛争に分け 入っていくのかについて、意見がまとまらないということでもあった。結果、明確な軍事・

外交戦略が定まらないまま、NATO と国連はごく限定的な空爆を受動的、散発的に続ける しかできなかった。それは人権侵害・人道法違反に苦しむ人々を救うには不十分だった。

最終的に紛争を終わらせたのは、そうした空爆の失敗の後に始まった本格空爆、周到な力 作戦である。しかし、そこにも明確な軍事・外交戦略はなかった。それでも成功したのは、

ボスニア紛争の本質が「陣取り合戦」であり、それへの介入に関しては軍事資源の量が大 きくものを言う構造があったからである。すなわち、領土分割を主要な争点とする外交交 渉に対しては、武力行使の作用が直接及びやすかったのである。

ボスニア介入の先行研究としては、例えば、アメリカが当初の消極姿勢から転じて積極 的に介入に参画していくプロセスを明らかにした、ダールダー(Ivo H. Daalder)の研究が ある1。ガウ(James Gow)は、欧米諸国が介入に躊躇し続けたことを批判的に捉え、そこ には政治的な意志が欠如していたと論じる2。これらの研究は周到な力作戦に至るまでの政 治過程や外交交渉を詳細に分析している反面、作戦そのものへの関心が弱いように思われ る。この点は多くの先行研究に共通している。すなわち、紛争に決着をつけた周到な力作 戦については、意外にも十分な考察がなされてきたとは言い難いのである。そうした中で の例外は、バーグとシャウプ(Steven L. Burg and Paul S. Shoup)の研究である3。彼ら はボスニア紛争の始まりから、介入、そしてデイトン合意による紛争終結まで、長きにわ たるプロセスを丹念に追っており、その中で周到な力作戦についても相当なページを割い ていて、しかも武力行使と外交交渉の関係に着目している。但し、それは周到な力作戦が

1 Daalder (2000).

2 Gow (1997).

3 Burg and Shoup (1999).

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外交交渉を後押しする性質ものであることを強調しているものの、実際にどのように後押 ししたのかというところまで考察を深めていない。後述するように、この点にこそ周到な 力作戦の重要な特徴を見出せるのである。

また、周到な力作戦に対する関心が総じて弱かったことの結果として、限定空爆と同作 戦という 2 つの武力行使の連続性・共通点と断続性・相違点についても、十分な考察が行 われてこなかったように思われる。両者の関係には、前者が失敗したから後者へという流 れ以上の意味があり、そこに注目することには大きな研究上の価値がある。

第 1 節 紛争の概要

ユーゴスラビア社会主義連邦共和国(旧ユーゴ)は、6つの共和国からなる連邦制の多民 族国家だった。クロアチア、スロベニア、セルビア、ボスニア、マケドニア、モンテネグ ロ。これら共和国の1つ1つもまた多民族の共存の上に成り立っていた。旧ユーゴの多民 族性を言い表す有名な言葉がある。「7つの国境、6つの共和国、5つの民族、4つの言語、

3つの宗教、2つの文字、1つの国家4」。そうした特殊な国家の統合を支えていたのは、何 よりもカリスマ的指導者チトー(Josip Broz Tito)の存在であった。しかし彼が1980年に 死去し、加えて統合に寄与していた他の様々な要素も失われた結果5、旧ユーゴは1990 年 代初頭からせきをきったように分裂し始めた――共和国が次々に独立に向けて動き始めた。

それぞれの独立をめぐって諸民族の間で軋轢が生まれ、ほとんどの場合武力紛争に発展し た。なかでも凄惨を極めたのがボスニアの独立をめぐる紛争である。1992年から 1995 年 まで続いたその紛争は、20世紀で最も悲惨な出来事の1つとして歴史に刻まれている。

紛争が始まる前のボスニアの主要な民族構成は、ムスリム人44%、セルビア人31%、ク ロアチア人17%というものであった(人口は全部で約430万人)。このうちムスリム人(ボ スニア政府を主導)とクロアチア人がボスニアの旧ユーゴからの独立を求めた一方、セル ビア人がこれに反対していた。そして独立が避けられなくなると見るや、セルビア人はそ こからの分離に向けて動き始める。具体的には、ボスニア内に点在していたいくつかのセ ルビア人自治区を地続きに統合して「ボスニア・セルビア人共和国」を設立し、ゆくゆく はセルビアとの連合を目指したのである6

1992年2月29日と3月1日にボスニアで独立の是非を問う国民投票が実施され、投票 数の 99%が独立に賛成という結果が出た。だが、セルビア人の大半がそもそも投票をボイ コットしており投票率は約60%にとどまっていた。それでもこの投票結果を受けて、3月3 日にイゼトベゴビッチ大統領(Alija Izetbegovic)が独立を宣言する。こうして独立に向け

4 旧ユーゴの多民族性の実態については、以下を参照。月村 (2006)、11-12頁。

5 この詳細については、以下を参照。同上、20-23頁。

6 独立をめぐるボスニア国内の政治的対立については、以下を参照。久保 (2003)、170-184 頁; 月村 (2006)、80-93頁。

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た動きが加速すると 3 民族の間で頻繁に衝突が起きるようになり、ボスニアの治安は急速 に悪化しはじめた。

4月6日、首都サラエボで行われた独立を祝うデモ行進に対して、セルビア人勢力が銃撃 するという事件が起きた。これをきっかけにボスニアは本格的な内戦に突入、たがが外れ たように民族間の戦闘が一気にエスカレートした。早くも4月末の時点で死者は350人に 達し、家を追われた人は42万人にのぼった7。6月20日にはボスニア政府が戦争状態にあ ることを正式に宣言する。政府の発表によれば、この時点ですでに7000 人以上が死亡し、

3万人以上が行方不明となり(死亡と推測される)、100万人以上の難民が発生していた8。 これらの数字が物語るように、ボスニア紛争は各勢力の戦闘員同士の戦いにとどまらず、

かなりの規模で一般市民を巻き込むものであった。しかも一般市民の被害の多くは、単な る副次的被害というより意図的に引き起こされた結果だった。すなわち、各勢力とも最初 からその攻撃の矛先の大部分を相手の一般市民に向けていたのである。強制追放、殺害、

強姦、強制収容所での監禁など様々なタイプの暴力が人々を襲った。そうした中でいつし か「民族浄化」という言葉が使われるようになった。それは「複数の民族集団が混住する 地域において、ある特定の民族集団が他の民族集団を強制的に追放したり殺害することで、

その地域を民族的に『純化』すること」である9。民族浄化は多かれ少なかれ3勢力全てが 行っていたが、群を抜いていたのはセルビア人勢力がムスリム人に対して行ったものであ り、国際的な批判もそこに集中した10。これが、ボスニア紛争の人道問題としてクローズア ップされていくのである。

ボスニア紛争の基本的な構図は、ボスニアの独立をめぐってムスリム人勢力(あるいは 同勢力主導のボスニア政府)、セルビア人勢力、クロアチア人勢力の3勢力が争うというも のであった11。各勢力の主な軍事組織は、ムスリム人勢力は政府軍、セルビア人勢力はボス ニア・セルビア人共和国軍、クロアチア人勢力はクロアチア防衛会議である12(以下の記述 において、各民族の中でこれら軍事組織のメンバーなど戦闘行為に従事する者と政治的指 導層については「○○人勢力」と表記し、各民族一般を指す「○○人」と区別する)。

紛争の最大の特徴は、それが「陣取り合戦」だったことである13。各勢力とも新しい国家

7 ‘Keesing’s Record of World Events,’ 38, April, 1992, p. 38848.

8 Ibid., June, 1992, p. 38942.

9 多谷 (2005)、p. ii.

10 2004年4月20日の時点で、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所に起訴された被告人は103

人いたが、その民族別の内訳はセルビア人73名、クロアチア人19名、ムスリム人7名、

アルバニア人4名となっている。同上、25頁。

11 基本的にボスニア紛争は「民族紛争」だったが、各民族が厳然と分かれて対立していた わけではない。例えば、当事者の指導部や戦闘部隊が民族的に均質ではない場合もあった り、各民族内での対立や戦闘もあったのである。月村 (2006)、6-7頁。

12 各組織の詳細は以下を参照。同上、94-95頁。さらにセルビア人勢力の側では、様々な 民兵組織も重要な役割を果たしていた。そのうちのいくつかはセルビア人勢力の政党とつ ながりがあったり、ミロシェビッチから支援を受けたりもしていた。同上、96-97頁。

13 この点は以下を参考にした。佐原 (2008)、186-193頁。

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