地図2.1. ソマリア
出典:国連ホームページ(http://www.un.org/Depts/Cartographic/english/htmain.htm)
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第 2 章 ソマリア:希望回復作戦
ソマリア介入は人道的介入の典型例である。それは、人道的危機の発生が広く認知され、
なおかつ介入の人道性が国際的に認められたという意味においてである。内戦に端を発す る人道的危機が多数の一般市民を襲い、それに対処する政府がソマリアには存在しなかっ た。そうした破綻国家の危機に対して、まずは国連や非政府間国際組織(non-governmental organization: NGO)が人道援助活動に乗り出し、その停滞を経て、最終的にアメリカによ る大規模な軍事介入へと至った。アメリカは、ソマリアという国にほとんど国益を有して いなかったにも関わらず、多くの自国兵士を送り込んだ。そして国際社会も、この行動の 人道性を認めて支持した。象徴的だったのは、アメリカが率いた多国籍軍UNITAFに、全 会一致で採択された安保理決議により武力行使の権限が認められたことである。
1992 年冬から翌年春にかけて行われた UNITAF の活動、希望回復作戦は一定の成果を あげた。しかしながら注意すべきは、アメリカが慎重にUNITAFの任務を限定的なものに していたこと、そしてそのしわ寄せが、国連の進めていた外交交渉に及んだことである。
アメリカは意図的に武力行使と外交交渉を切り離すことによって前者の成功を確保したが、
2つの活動の連携が欠如した結果、外交交渉および介入全体は失敗したのである。
ソマリア介入(希望回復作戦)に関する先行研究で代表的なものを挙げるならば、クラ ークとハーブスト(Walter Clarke and Jeffrey Herbst)、ハーシュとオークリー(John L.
Hirsch and Robert B. Oakley)、ライアンズとサマタール(Terrence Lyons and Ahmed I.
Samatar)、そしてラザフォード(Kenneth R. Rutherford)の各研究である1。その中で肯
定的な評価を受けてきたのが、UNITAFに明確な武力行使の権限が認められたこと、
UNITAFが人道的危機の緩和に寄与したことなどであり、逆に批判の的となってきたのは、
アメリカが武装解除を否定したこと、UNITAFがUNOSOM IIに多くの難題を押し付けて撤 退しことなどである。これらは重要な指摘だが、それでもまだソマリア介入の全体像を描 く努力は不十分なように思われる。そうした諸々のポイントを包括できる、議論の軸が必 要ではないだろうか。本稿では、「武力行使の限定性」がそれにあたると考える。すなわち、
UNITAFの武力行使の限定性こそが、ソマリア介入の成功と失敗の両方を説明できる根本 的な要因なのである。そしてこのことは、軍事・外交関係の観点からこの事例を見なけれ ば正確に理解できないものである。ライアンズとサマタールの研究を別とすれば、先行研 究はソマリア介入における外交交渉にはあまり関心を寄せてこなかった。しかし、まさに 外交交渉という要素にこそ、ソマリア介入の全体像を把握するための手がかりが潜んでい る。もちろん、希望回復作戦に関しては、その限定性が成功の理由だったという指摘自体 は目新しいものではない。だが、その詳細な内実を軍事・外交関係の観点から明らかにし たものはなかった。ソマリア介入における武力行使の限定性の本質は、武力行使と外交交
1 Clarke and Herbst (1996); Clarke and Herbst (1997); Hirsch and Oakley (1995); Lyons and Samatar (1995); Rutherford (2008).
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渉の関係に注目して初めて見えてくるものである。
第 1 節 紛争の概要
アフリカ大陸の東部に突き出たいわゆる「アフリカの角」に位置するソマリアでは、1990 年代から現在まで無政府状態が続いている。本稿の研究対象は1991~1993年の紛争と人道 的危機である2。それは、冷戦後の国際政治を象徴する1つの出来事だったが、その淵源は 少なくとも冷戦期の中頃にまでさかのぼれる。1969年、バーレ少将(Siad Barre)が軍事 クーデターによりこの国の政権を奪取し、以後、独裁体制を敷いてソ連モデルの社会主義 プログラムを押し進めた。だがソマリア経済は発展せず、1970年代後半には隣国のエチオ ピアに侵略して敗退するという失策もあって(オガデン戦争)、国民のバーレ政権に対する 不満は募る一方となった。各地で様々な反政府組織が結成され、ソマリアの政治情勢は次 第に不安定さを増していった。そして1988年に内戦が勃発。1991年1月には、反政府組 織の1つである統一ソマリア会議(United Somali Congress: USC)がバーレ政権を打倒し た3。
しかしソマリアは安定しなかった。バーレ政権が崩壊した後にUSCが暫定政府を樹立し たものの、11月にはUSC自体が内紛で分裂し、ソマリア紛争は新しいステージに突入する
4。内紛の中核をなしていたのは、アイディード将軍(Farah Aidid)とマハディ暫定大統
領(Ali Mahdi)の対立である。1990年代初頭のソマリア紛争は、2人のグループ間の政治
的抗争を中心に展開することになる。血縁関係に基づく様々な氏族、支族(clan, sub-clan) がそれぞれの利害から武装勢力としてこの抗争に加わり、全体としてソマリア紛争は非常 に複雑な様相を呈することとなった。
そもそもソマリアでは、異なる氏族同士が政治権力をめぐって争うことが多かった。ア メリカの中央情報局(Central Intelligence Agency)の分析によれば、「氏族が支配するこ の地域では、氏族は冷酷かつ自己陶酔的で、大きなビジョンも市民としての礼儀正しさと いう観念も持ち合わせていない。彼らが執着しているのはただ 1 つ、権力にしがみつきラ イバル氏族を追い出すことである。そのためなら、行く手を阻む全ての人とモノを破壊し てしまう5」。
2 より厳密には、ソマリア南部を中心に発生した紛争と人道的危機を研究対象とする。
UNITAFの活動範囲はソマリアの南部に限定されていた。北部では、ソマリア国民運動
(Somalia National Movement)が北西部を、ソマリア救済民主戦線(Somalia Salvation Democratic Front)が北東部を支配していて一定の秩序を保っていたので、アメリカも国 連もそちらにはあまり関心を払わなかったのである。 Lyons and Samatar (1995), p. 40.
3 バーレ政権の成立から崩壊までの経緯は以下が詳しい。Lewis and Mayall (1996), pp.
95-106; 遠藤 (2007)。
4 この間の経緯については以下を参照。Drysdale (1997), pp. 118-119.
5 Halberstam (2002), p. 253. 但し、確かに「氏族」の観点から見ると分断された国家のイ メージが強いソマリアだが、「民族」の観点から見ると全く逆である。すなわち、この国は
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さらに、政治的抗争に乗じて諸々の犯罪行為がはびこったことで混乱は一層深刻になり、
ソマリアは完全な無秩序に陥った。最もひどい時には1日に3000人が餓死し、70万人の 難民と170万人の避難民が発生した6。1992年の1年間で死亡した人の数は、30万人以上 にのぼる7。政治的抗争と犯罪が一緒くたになって行き着いた先は、まさに「人道的危機」
と呼ぶにふさわしい極限状態であった。1992年4月の国連事務総長報告書は、当時のソマ リアの状況をこう表現している。「機能する政府は存在せず、政治的不安定が国中に広がっ ている。氏族間・氏族内の紛争をもたらした権力闘争は、町や都市を流血と暴力の悪夢に 陥れた8」。
危機に陥った人々を救うべく、国連の機関や赤十字国際委員会などのNGOがソマリアで 人道援助活動を行っていたものの、極度に治安が悪化した状況下での活動は困難を極めた。
ソマリアに援助物資を持ち込んでも、それを必要としている人に届けることが難しかった のである。
1 つ付け加えるならば、この人道的危機はソマリア自身にのみ関わる問題ではなかった。
というのも、夥しい数の難民がソマリア周辺の国に押し寄せ、地域秩序に少なからず動揺 をもたらしていたからである。再び上記の事務総長報告書を見ると、以下のように書かれ ている。
「ソマリアからのケニア、ジブチ、エチオピアへの難民の流出がすでに証明 しているように、ソマリアの人々が直面している現下の危機は地域的な影 響ももたらしており、そのような人々の移動がアフリカの角に及ぼす影響 については深刻な懸念がある9」。
ソマリアの危機は、人権保障に関わる問題であると同時に、周辺国や地域秩序の安全保 障に関わる問題でもあった。但し、武力を伴う軍事介入へと向かう国際的な流れを形作っ たのは、基本的に人権保障上の懸念である(第4節で詳述)。すなわち、客観的事実として 確かにソマリアの危機は安全保障上の問題でもあったが、介入側はもっぱらそれを人権保 障上の問題として扱ったのである。
国民の90%がソマリア民族で、そのほとんどがソマリア語を使用し、90%以上がイスラム
教スンニ派という、「アジア、アフリカ諸国の中でも珍しい民族的にも言語的にも宗教的に もほぼ統一された国家である」。柴田 (1993)、17頁。
6 滝澤 (2001)、50頁。
7 Wheeler (2000a), p. 174. 当時のソマリアの惨状については以下も参照。Clark (1993), pp.
212-214.
8 UN Doc., S/23829/Add.1, April 21, 1992, para. 10.
9 UN Doc., S/23829, April 21, 1992, para. 36.
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