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一七
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々 報
校 友 曾 通 信
花の朝︑月のタ忘れ難きは我が母校の事であり︑共に巣立ワ
た校友の事である︒年を経るに従って︑懐しさを榊すは活き日
の思出である︑大一位祢が閉鎖され︑小檀林と併合し︑組山準院
の名の下に復活してから己に廿年に詑んとしてゐるo
烏智
由民
上
人の牡丹餅の講義︑納骨堂︑懇迦堂︑扱ては鴛谷寮の一備に於
いて︑開本閃山側︑亀口︑遠藤︑企口問等々の諸先生の講義を聞き︑
輪講に冷汗を箆へたのも︑途昨日の如くに思ってゐる問に︑一
昔前の忠出となってしまったo宮木教頭の温顔品川を・去って数年
にな
る︒
此問︑故武
m
宣明仰の仮はれた細山事院の門様を見返りつL巣立って行った我等の校友の胸に泊ふものの巾寮山身延に於け
る皐窓生活より懐しきものはあるまい︒車窓を離れて︑深刻な
る枇合苦に遭遇せる時思い出づるは校友の勤時である︒
此の校友の動静を互に知り合ひ︑母校を中心として結束し︑
純山敬阜の隆盛を期し相互協力の貨を期すベ︿生れ出た者が︑
我が刑判山懸院校友合である︒
泉義被君在山首時愛会護金し︑現在血中院に桧木︑結城︑野崎
赤松あり︑本山に望月︑小林︑内野あり︑支院の樋口︑遠藤︑
芦川等と相議し︑品刊の基礎献立に努力してゐる︒更に校友は︑
満州︑持太︑朝鮮︑上海︑北海道等を初め︑会闘に散在して撃
一七 八 生の活動を績けてゐるo近く聞休を引卒して来延せるものに︑
静岡燐の松下貞雄宏あり︑山梨の矢崎旧制静君がある︒静岡の望
月宗康君も十月二日布札抗議期司令の伐に氷山した︒更に最近左記
爾君が将位普山式を奉けれ︒
川口
如
H随 君 熊 本 蘇 川 尻 町 法 宜 寺 へ 泉 義 敬 君 長 野 豚 高 遠 町 在 蓮 準 寺 へ
倫本年永巣立つれ校友中︑古川啓善君は大阪の妙剥寺別院に︑
遠藤本働君は合津若松市大法寺に︑並烏額制定は札幌線王寺に
波透正敬君は稲岡市の削房に︑山帥脚麗剛君は長崎の抱林−い各活
動を績けてゐる︒是等校友が︑健紳賓符に合同して懐市内談に花を
咲かす時が何れは来るであらう事を期待して止まない︒
此の稿を玄日き終りし︑十月廿凶日校友井上能勝︑波法泰深雨
兄は九州上り︑長谷川泰鐙君は央Fふり︑三人相携へて登山︑準 校を参観して︑母校の遜遂をまυぴ
つ
L︑中山入行の伐東上した
事を
誌し
て捌
地帯
する
︒
ハ経
木慰
金記
︶
本皐寄宿合創設報告
朝に岡山親闘の暗殺峰を仰では商品徳の偉大を偲ぴ︑自然に口づき
むもの.夫は抑も何か︑開日紗の一節なる﹃孝とは高なり天商
けれども孝よりは高からず云々﹄の文︒タに御草庵の深哀より
流れ来る利水に・泌つては︑乃往﹃露深き本を分けて深谷に下り
て芹をつみ︑山河の流も早き於槻に常棋をすLぎ︑検しほれて千
わぷる一五々﹄︵身延山御書︶の御車訓に納をしぼり︑常に法悦に
浴し報恩に法る日の早や事に数十日︒﹃同じ勢季の静一に生れしも
削に逢はず︑﹄と草山の車一花政が嘆ぜし詩を思ひ出し︑今夏本化
の上首に両米の契はざりし自が罪業を省みると同時に︑大型の
御膝下に在る我仙寺同胞の未だ過去並口業の絶えざる儲か︒と又専
仲間
に端
︑え
ね︒
同じ
回山
ひの
吾等
同胞
三十
一一
三省
は西
渓の
昔ー
なが
らの
刊削減に面して建てられわい寄宿舎に此の九月一日より自治と言ふ
モットーの許に大サークルを諮り︑号制の﹃行皐二廷を鋤み候
ペし行血中絶えなば仰訟はあるべからず云々
c h︵諸法貨初抄︶を週
末し専念に其の行に︑其の血中に精怒しっ︑あり︒
我等合生は舎監に本院特命の
m e
院教同氏丸山鼠孝師会松岡議孝氏の二名を裁き︑鼠中生中よりは更に本院任命の許に合長古川孝
秀君︑副会長水川雅門君の雨君を共主店として︑三一十三名の準
生は合則及細則に違反な︿今日に及ぶc合の細川中毎日賀行せ
るは起床午前五時四十五分︑朝動向六時︵勤行後合監に靭の挨
本
E手
々 報
拶︶朝食同七時︑前粛時間午前九時より同十一時迄︑正午宍食
午后二時より削凶時迄静粛時間︑同五時夕食︑M七時より九時
迄静粛時間九時︵合監に夜の挨拶︶同十時睡眠とす︒血中生室は
九室あり︑各室に室長二%づL泣き相互の融和を計る︒通常八
皐の問に三名平均とし︑外に合政安一棟︑炊事夫室一線︑而し
て食堂一棟ぞありo
創立己申体幾千もならざる鈴︑れ私物及び働問等諸機闘岡山未だ却
はざりし事は残念となす所なるも︑近々合生の努力と本院の投
助ごに依りて︑逐次改良に改一兵を加へつLあれば︑不日完備す
る暁を見ん︒殊に熱心なる信徒の内に於ては最近合へ御援助下
されし篤志の人を見るc
最初入合せし吾等は国民側なる態度を持って︑而も凡ゆる犠牲
を挽ひっ︑来りしも︑今後合の前途のお一名の段落者も無︿具
体同
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事を
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一岡
︑︑
一共
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現在の寄宿舎を見るに至る迄には其問先輩諸兄等幾多の人々
の御後援は一言を待たざるも︑就中現身延山々務監制H
冷泉
要淳
仙川
正の絶大なる御議力に依り及び丸山飯孝教授の自己を忘れて御
臨時闘の賜にして生仙寺の深︿感謝する所なりo
山部舶の御翠徳の日に婚して輝くさ同時に︑Y
一円
等が
さ
L干かな
る寄・口似合も日と共に隆盛ごなり後日宗門を背って立つべき許常掃
の ︑
λ管内より二陣一ニ陣引緩き輩出せん事を希望して除稿す︒
一七
九
同 窓
々 報 令
同
芯
ー元今々 報 曾
鹿 務 部
不作私等が昭和四年度の幹事さして選患に首選したのは四月
廿五日であるυ
即ち
廿哉
の氏
名は
庶 務 部 堀 内 義 光 合 計 部 瀧 川 瀬 照 迩 動 部 大 野 町 中 島 正 鈴 論 部 矢 谷 智 秀 文 車 部 岡 本 前 能 鱗 買 部 松 永 良 詮 購 買 部 助 手 組 本 孝 美
の六名であって也ちに本年度珠算案の編成に着手し︑越えて五
月二日午前八時より本皐院階上に第十八同定期同窓市町大令は開
催され︑摘出算案の承認を了し︑正式に就任の挨拶を述ベ蕊に引
絡を了した︒此の間僅かに二時閉徐例年に無い議事の遜行振で
あっ
た︒
文血午部幹事岡本前能対は四月下旬即ち幹事賞選の頃より盲腸
を忠ひ︑大令官口仁欲府し共の府大宮病院に入院し︑五月下旬
退院する事を符たが向ほ療養の免め郷里に蹄省する事となり齢
一八
O
任を
山叩
出で
られ
れ
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しれのであった︒
購買部幹事松永良詮君も就任の頃より病路一の一様ふ虎となり︑
党一戸川全快年務に召集され︑砕帥初より専ら助手組本孝美君に依っ
て蕗刻されて尉れが︑品目.付金額の整期等その功績見るべきもの
が多
い︒
六月に入り常感院の古き出身の大先輩にる内川水龍山先生は東
京大崎町立正大早々日誌に就任せられ︑曲川純山保利の訟符たるf
且 叫 が
身延に登山︑凸不利の鴻問中を謝し問中長就任の回目を報告し︑絞って
後議た
5 1 H々に訓話激励せら忠︑慮があっ穴
0 1 H
々の修養に資
する勤多々布りし事を感謝して止まないのである
0 1ロが務院よ
り新かる知名の士を出せる本は︑古き一脈史を布す串準院の誇・い
あらずして何んであらうかQ
同月下旬に至り本令各部々長の更迭殺友あり︑
氏名は
庶 務 部 長 購 買 部 長 合 計 部 長
依って弐勤者たる近藤一志聴刊仰を以って補充
即ち新部長の
並 同 義 遜 先 生
中 脇 陣 R克 明 先 生 永 倉 唯 嘉 先 生
日 川 一 論 部 長 松 木 本 興 先 生 文 則 中 部 長 徳 官 智 徳 先 生 運 動 部 長 野 崎 製 稜 先 生 等であるo凶みに本合々長は学院長杉同日布狼下︑副合長は殺
到向
岡市
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b先生である︒
七月に入り矢張り滋事院出身の先端恥れる伊藤海開削より活動
庶民を上映さして封ひ皮いとの交渉ありわいるを以て︑二日夜身
怨公品開堂に於て峡稼す︒内山芥は教育及び宗教快蓄にして折柄の
暑さにも拘らず階上階下数百名の叡覧者を以って充にされ︑近
来稀れの虚視を呈しれ︒
川十五日例年の如く大阪明浮高等女問中佼米中和卒業内H紙上級生
百数約名は︑教職員引卒の許に族行白山地に就き宮九月延にも多読
されれ︒五げ仙寺は大本殿に於て限迎茶話令を傑ほし約此の機合に
於て口蓮主義ω一端を御紹介する事をねわい事は喜びとする庭で
ある
長い暑中休恨を終って九月早々一台々は揃ふれ次いで川ド旬o ︒ 松永良訟君も軍務を果たして防られたo
十月五日午后七時より時論部主催にて第四川雄
MM
大令を身延 公a村山中に附き︑川力女阜円年闘は勿論今年は特に京都光山県a院及び
兵山以下本門校本宗尼ケ崎桜林より紳士を招待し︑此山中干の紳士
に伏リ熱紳火を吐︿大獅子肌は試みられたo
総本
位⁝
慮六
百名
品川
同
窓、
々 報 舎
めて盛大であった︒
同夜氾ケ崎務林幹論部長は親しく五日々と合談したが中百年数家
の閃に於て︑新かる機舎を利川して親睦を凶かけ将来近々の手
に依って分汲的概念を排除しん
HM
の機運を促進せしめ皮き旨を
述べられたが︑忍としても松めて訟を同じうする虎であるo将
来此の事が合同促進への微縁ともなれば幸県内至り℃ある︒
十月十一日より三日間宗加入滅報恩曾式である︒ーけが同窓合
は十二日夜務迦会に於て幻燈布教を伐し︑給って通夜詑款に移
った
o秋の夜は阪に本かったにも拘らず熱心・
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也多︵の信者遣は円以後迄陀を離れなかったQ国民に文字泊り淑
Ah円
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脱が
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行光地畑出定裁であすた放行の件よ品士五山と決定して漸︿愁 た ︒
眉を附くに至って︑十一月凶H早朝四十余名の考は鶴岡敬投引
卒︑大野叩出動部幹事諸般の庶務捻任の許に出役︑向夜は火山片町
に一泊翌日午店向山した︒
一部の者は修準族行に時間伶山者は同じ︿十一月間日夜七時か
ら池上事林生徒一行サ三名の紋迎茶話品開を大名殿に闘いたο近
藤幹事の間合の館︑法主犯下の御訓齢に次いで首方よ川武悶海
正芳の元政上人ω詩吟方哲源君山一以読みり︑池上眠中体生徒六
︑七名山︵品積交々銭山身辺的崇鍛は人貴ければ虞立しの用口ひ出不利
日蓮聖人の人絡の部きの流であるの回日を述べて山岡山銘之れを深う
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