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本懐
不明
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典大
辞林
﹄︵
六三
一︶
は︑
山と
小さ
謀議
され
日夕
き︑
﹁法
門可
申
偽﹂の御異蹟を出し︒﹃類纂本﹄は﹁源平盛衰記﹄等に準じて﹃新池殿御返事﹄の如︿﹃大石小丸﹄とし
て居 る︒
あやし然る仁右に就ては昨牟の春︑大阪の岡嶋伊八氏より︑大石の山丸は︑文石の小丸の設で︑右は﹃日
本書紀﹄並に﹃同史略﹂共仁雄時帝十三年の慨に依て明瞭?乙なったが︑﹃H本書紀﹄十四
のセ
仁
雄 依れば
略天
皇十
一一
一年
︑秋
八月
播贈
圃御
井隈
人︑
丈石
小磨
有レ
力強
レ心
身一
一行
暴虐
一︒
路中
抄劫
︑不
レ便
一遁
行一
︒又
断一
向客
艇鮒
一︑
悉以
奪取
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乗謹
一一
固法
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不レ
輪三
租賦
一︒
於レ
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皇遺
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野臣
大樹
一領
一敢
死
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百二
並持
ご火
知一
同レ
宅而
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時自
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炎中
一︑
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逐一
一大
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一︑
其大
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大樹
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一文
石小
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史略
﹂
一二九
﹃文
石小
丸﹂
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Lリ0﹁扶桑略記﹄は﹃大石少磨﹄仁作
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﹃平家物語﹄五
﹃朝敵ぞろへの事﹂の下叉﹃大石の山九﹄に作り︒
﹃源
平盛
衰記
﹄十
七の
﹃謀
叛不
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一一
素怯
一事
﹄の
下亦﹁大石山丸﹂に作る︒乙れ古来輯寓の設で︑丈と大r
尋 問
hリ
︑小
v乙山と諜ちて︑遂に丈石の小丸︵磨︶
を︑大石山丸と書するに至ったものである︒
筒 御 旅
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内 法 門
二五
筒 御 総 紗 の 法 門
コ ム ハ
二 ︑
書 の 列 名
若し謀叛の二十六人に・城ては︑大地一人果して何仁依られたか不明であるが︑
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語式
﹂
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家物語﹂合引きo
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﹁淵
半盛
衰記
﹄
﹁太平記﹂の三書を引用して居る
が︑右三金円の記事は執れか立本仁なったので.粗ぼ同一の形式で記されて居る︒芳賀博士の如きは
﹃半家物語﹄に就て﹃書中の史且貨より推して︑此物語が今日の形を取るに烹bしは︑略御深草天皇の
建長十二年の頃な
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﹂といひ︒﹃盛衰記﹄に就ては﹃平家物語と前後は明かならず﹂︵国文串歴代議備考﹀といふが︑今﹃平家物語﹄五の﹁朝敵ぞみへの事﹄の下︑﹃盛衰記﹂十七の一 u謀叛不遜素懐事﹂の下
並に﹃太平記﹄十六﹃H本朝敵事﹄の下に列車する人名を見るに︑
(四)(三)(二)(ー)五 大 半 藤 土 平 石 綿 原 蜘 記 山 門 千 妹 )
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井上皇后
筒 御
探 /光仁帝扇︑ Jヘ零武帝女 ︵藤原仲麿
妙 の 法 門
聾 長 山 県 蘇 成 属 国 浦 我 右 右 石 太 入 大 大 川 匝 鹿
更旦 Z 言語
藤夫長担斐衣
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︵一 治則 自一
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守口
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物部
弓削
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︵源
︶
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二六
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︵源
︶
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藤原
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家﹄
﹁盛衰記﹄は土蜘妹より悪克街門督に至るまで︑前者は二十
三人︑後者は三十七人である︒然る仁﹁平家﹄には頼朝に就て︑
然るに其恩を忘れて︑嘗家に向以て弓をひき︑矢を放つにてぞあんなれ︒
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とあるに依て︑且らく頼朝をこ書の列名に加へれば︑二十四人︑二十八人J﹄なるのでゐる︒市し℃
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盛衰
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人
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若し﹁太平記﹄と﹃盛衰記﹄との相違は﹁太平記﹄の列名三十五人と︑嘗の朝敵たる足利骨骨氏を
加へて三十六人とするが此の中には︵三︶の平時門と︵ニO︶の大友皇子とは︑重複する故に之な除レて
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岡 山 叩 尽 か 心 夕
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内 川 御 総 紗 の 法 門
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計三十四人である︒而して﹃盛衰記﹄と数に依ては六人の相違でゐるが︑人には十二人の相惑がみる
ので
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盛衰
記﹂
には
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﹄に
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親王
︑︵
一九
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藤原
虞嗣
︑︵
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源頼
明の三名そ暴げて民的るし︒叉﹃太平記﹄には﹁盛衰記﹂に見えない︒︵二︶の藤原千方
︵九
︶の
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太
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衡.
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o故に三者通じで謀叛人ごして都人口三十九人となる
ので
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一 一
一 ︑
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人
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然るに大黒人は﹁筒御器鉢﹄には︑﹁H本固に代始まりてより︑己に謀叛の者二十六人﹂−九三二
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十三人の相違があるo併し﹁神国王書﹂に依れば神ご申すは叉岡闘の岡主等の崩去し給へるを︑生身のごごくゐがめ給ふ︒此小園王岡人のための父
母品︒主君品︒附匠也Q片時もをむかば園安穏なるべからず︒此を崇むれば岡は三災を消し七難
を梯以︑人は病な︿長書を持も︒後生には人天ご三乗手﹄仰とな
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0・::::王法の力に大法を行以合せて︑頼朝三義時ごの本命ご元神とをば︑党王ご帝稗等仁
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五 六
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始め
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τ
︑所謂﹁謀叛の二十六人﹂の中へは︑
恐ら
く白
干
a族閥係の方今を加へられなかったのではなからうか︒然るに﹁筒御器紗﹂の先の蓮文仁は
ぷ叛の者二十六人︑第一は大山の王子︒第二は大石の山丸︑乃至第二十五人は頼朝︑第二十六人は
義時也︒二十四人は奉レ被ν責レ朝︑獄門に被
h懸レ首山野に曝レ骸︒二人は奉
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中を
翠レ
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王法既に謹き向︒一九
さ記された点からすれば︑三書に見ゆる︵一︶の士蜘妹は除かれたが︑第一を大山の王子ごして︑騒柿
帝の第二皇子を出された点から見れば︑必ずしも皇族閥係を除かれたのでもない様である︒
きれば﹃一杯蒙﹂二九には上掲の三書左大柴一人の二十六入手を合して﹃平家﹄の二十四人の中頼朝を
除
3
︑事件の内容かちして︑︵八﹀の文属官田とつきの藤原庚嗣︵却も宮田腔は康嗣の第三弟である︶主を
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一と
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巳上廿二人也︒太平記には県浦大.位ど︑左大臣長屋王と︑右大臣豊成とを加へ︒更に魚義清盛
義 仲をも列ねたれば︑其内にて何れ仁ても諒罰に値へる一一人を加へて廿四人としo更に頼朝義時を添
筒 御 務 紗 の 法 門
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へて廿六人ごし玉へるなるぺし︒︵二九四五た︶
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語式平家の設をた立す︑少武具﹂康嗣とを分て二人?として廿三人とし︒更に宗盛乞加へて廿六人主せ
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ごいふが︑勿論太宰ゆ武藤原康嗣を︑官名主人名ごを升って二人とするこごは設であるが︑﹃砕蒙﹂が
官国府p
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りなかったのは︒似て非なる説である︒