原始仰我々闘に於ける卒仙寺思認と其路結
一︑
冨・
2
・ ω∞豆島曲
目曲
目
Z
ロ
g
r r z z
中阿
コ二
組陀
恕羅
艇︑
二︑捜本側敬三八四頁
生と哲尚子的精榊
望
月
界 :
勝
生育といふ語は現代思想界の流行語である︒生の意義とか︑深刻なる生とか︑或は内面的の生とかい
ふ語は現代人が興味をもっ℃普く用ゆる語であるの
然し生正いふ乙左は極めて直接なる事官民拘ら
ず︑十九?にその意義が促へられ℃わない︒元来人聞が生物的の生存を保つには卸ち単に生主るといふ
ためには︑自己の生活とか自己の意識とかいふものを反符するよ
b
も︑外界の事物を知ることの方︒か直接必要である︒自己の生活内容を反省する乙とは︑低う生活の階段に於いては割に盆のない乙とで
ある︒人聞が原始的の階段そ速︑ざかる
k
共に︑生活が高まb
複雑になb
︑従つ℃生訴に楠々の破綻が生じて︑その結果生の内商的意義といふものが反省
3
るる様になったのである︒而しτ
近頃に雫っては︑動
i
・ともすれば生の内面的意義とか生の臨験どいふ乙とに貫主を置くが魚に︑哲皐の如3m
論は迂遠である︒生活の韓験を持って居れば︑院にその人は深刻な哲皐者であるといふ風に論ずる人が出
住 宅 哲 準 的 精 神
九 五
kと
T F
包セ可申
# ま 臨 肖 内 HJa
干
九六
る粍
であ
る︒
ユイチヱの如きはその一例であって︑彼は多︿の哲事者を攻撃して︑哲串は人生とは波
交捗であると主張したのである︒乙れ程までに生の健験が唱へられ︑その意義が零ばれた︒
併し五日々は一歩進んで考へて見なければならね︒凡ての人が生活をしてゐる叉は生を臆験するとい
ふ乙とは事買でゐるが︑生活の意義を明瞭に解樫してゐるか何うか︑生を鰻験してゐるといふ︑だけで
直に哲事者ご栴する資格があるかないか︑乙れは余程考へ
τ
凡なければならね問題でゐる︒世の中には質行といふ乙l﹂は間難であるが︑考へるごか知るごかい
i λ
ことは比較的に容易だといふ︒三歳の武見も猶ほ乙れを知
b
︑白髪の老翁も猶ほ之を行以難しご︒これは理解が貴行に比して容易なことを道破したものである︒併し賀行三掛照しての珂解の容易きは︑或る事件或る艶象について
は営
挟ま
る︒
例へば倫珂の法則︑盗む勿れ詐る勿れといふ乙は︑小皐校の児童にも解る︒併しなが
らそれを行人といふことは︑
一生修養そ積んでも困難である︒理解は容易で貫行は困難ごいふ乙と
は斯う云ふ場人H仁は嘗械設る︒しかし或る事件或る問題については賀行は容易で理解は困難な場合が
あ乙︒生活などごいふことはその最も著しいl例であらう︒生
3
とし生けるもの皆生活してゐる︒賢者愚者仁拘らず善人悪人民拘らず︑曇術家三非事術家三に拘らず皆生活してゐる︒而してをの内には可
なり深
3
閲験を持ってゐるものもあるが︑生の立義如何といふことを理解して居るものほ板めて稀である
︒斯
・フ
云ム
場人
Hには古人の所謂﹃百姓は日に用以て之を知らず﹄といふ言葉が趨周すると忠人︒
百姓とは農夫といふ意味でなく︑無串の田夫野人といふ意味である︒か︑︑る人々でも生
3
てゐる限b
は︑宇宙の真測に従って賀行して居ろに相違ない︒即ち日に用ひてゐるがその異聞を悟らぬこごを言
ったのでゐる︒
生といふものは何人も或る程度までは艇験し︑或る程度までは所有してゐるが︑その立義は解らね︒
そこで生ごいふちのを吾々の世界観にしなければならぬ︒けれども生が直に世界観であるとは云へな
ぃ︒誌に生の経験と︑生の意義とを別けて考へて昆−なければなら向︒世界観といふものは生の立義の
一種の解搾でゐる︒生を経験することが直に世界観にならやして︑生の意義の解料︑これが世界湖と
なるのである︒
然らば生の経験といふこと︑︑生の立義といふこ三︑何うして別ち得るかU今一つの講を三って考
へて
見る
oA1名者家がその書をかいたミする︒その畜に現して居る立昧はきまってゐる︒しかしそれ
を見る津山の人々は夫々一皆自分の従来の経験管慣︑或は修養に蝶じて査の意味に針して柿今様々に綬
験する︒併し蓄に表はしてゐる立昧はきう樺山ゐる誇ではない︒グーァの最大傑作フア久トは今でも
謎と稀せらる位に困難な文皐的作品であって︑これに闘する詰搾評論を輯めたならば︑立探な一つの
品 川 と 折
H m e
的 精 紳
九 七
止 と 折 感 的 精 紳
九
j\、
聞書館をなす科でゐらうが︑しかしながらフアスト劇仁到する解稗は︑種々雑多であらうごも意味そ
のものは幾っかはない︒一つ仁纏まったものであらうと思はれる︒斯︿の如︿意味そのものと意味
の解轄とは迷はねばならぬ︒立義の解樟は解樟せんとする個々人
ω
心理上の働主であって︑その倒々人の心理上の働
3
の向びゆく封象は意義そのものでゐる︒現代の哲皐は経験と純験の立義︑或は心開上の作用とその作用の針象たるところの内容とを亦け乙︒きれば世界観といふものは生の経験そのも
のでは直に出来上るものではない︒それは生の立義一見に康︿世持の立義仁封する解梓でな︵てはなら
官二足
。
所が生の意義
t
いふもι
は決して車一な色のではない︒五日々の評伯作用心理作用が向日ゆ︿べき封象となるものは種々様々である︒科串
k
の良一郎︑道徳上の善︑事術上の作品即ち美︑或は親が子を愛し園民が闘を愛する如く愛の劃象たるものもあるに相違ない︒即ち五口々の評債の方向に種々ある如︿
ぞれに封躍して評偵きる種々様々の憤値ごか意味といふものがある︒即ち生の意義は決して唯︸つの
ものではない︒車義的のものではな︿して多義的のものであるり吾々が異の生活をしよう︒換言すれ
ば意義のない生活に比較して一層意義ある生活︑債値のない生託に封し一一暦偵他ある生活をしようと
思へば︑何うじても五口々の生訴の経験の向ひゆ︿べき封象物言以かへると生に立義を輿へるもの︑多
方面なる多義的なる生の意義を或る程度まで統一しなければ−なら向︑人々が深刻なる生活であるとか
或は内面的生活であるミか或は精神的生活ごいふ稗び方はこれは通俗の言葉であって皆生の立義を現
はそうとの要求から出たものである︒外面的の生活に封して内面的の生活ごいふし︑外商内面といよ
乙止は一体安問的な語であるが︑我々の生活は別に空間では・ない︒生活について浅いとか深いとかい
っても然
bo
乙れ等は皆物質を現はす語から借bて来ただけであって︑貫はよ
h
意義
ある
生活
︑よ
ムリ
同開値ある生活を然らぎるものよb匝別せんが魚にいふのである︒
斯く我々の生には種々の意義を含んでおる︒その立義は多義的であるから我φはそれを統一しなけ
ればならね︒乙の統一の仕方に種︒あるDその統一の仕方の種類によって︑或は宗教的世界観も生れ
或は詩的世界相慨も生れ︑哲撃的世界観も出て来る︒世界観の純々の模型は牛一に合まれた立義の統一の
仕方の相遣に依存するのである︒宗教的世界観詩的世界観は哲皐的世界観に劃して言ムならば立義の
統一が充
nT
に理論的でない︒意義の統一が理論的でないといふこ止は概念を統一の機関として利用し
ない乙とである︒更に皐的に言へば範略的統一をしないといふことである︒乙れに封して哲皐的世界
視は生の立義を範略的に統一する乙とである︒宗教的世界観詩的世界観はその非範略的の統一であ
る
。
生 と 哲 験 的 精 神
九 九
民 主 哲 取 的 紛 糾
一 円 ︒
斯くの如く哲準的世界観は生に封すみ孜々の反省であb︑生の聞論的統一であるo
従って哲撃的精
一耐の出殺点が生活に在るこ正は明かである︒然らばか︑了
ω
哲率的精一仰は如何にして山てくるのであるか︒五日今は乙れについて以下少しく考察して見なければならない︒若し五日々の生活が極めて岡尚であ
b滑かなものであb何等障碍なく並行するものであったならば︑生活に到する反省といふものは起
3
ないであろうと恩人︒生活に針する反省から料品T的精一叫が起るのであるが︒生活に到する反省の起る
保件が何であるか佐一見に根本的に考へると︑それは生活の破綻といム乙ごが挺に根本的の保件でゐろ
ム?と思ム︑換言すれば生の破綻Zいふこ之が一番根本の出接点による乙と\思ム︒一個人としても深
刻に生の意義を反省するといふのは生活の行持
b
の時である︒八方塞b
袋小路で出て行く道がないからである︒偶数でいふと所前大疑凶が生ずるのであるが︑併し疑ムといふ前に生活の破綻行詰
b
と い
ふ乙とがなければならね︒即ち生活に破れがあるから之を結び直
3
︐フとして反省するのでゐるo民族
に於
て−
A亦
然
λリ︒支那の賊態を見ても希臓の献態を見ても濁逸の朕態を見ても︑一枇命日の秩序が整って
岡家が安泰であるといふ時には却て深刻な哲事は生れない︒支那に於て哲串的思想の最も隆盛であっ
たのは所謂春秋戦闘の時代であって︑枇曾に統一がな︿って諸子百家競ひ起った時代であるo希臓に
於ても
ソフ
ィス
ト︑
.ア
ラト
γ︑ アリストテレス等の出た頃はもう末期であっ