第 14 章
14.1 Born − Oppenheimer 近似
2つ以上の運動モードが互いに影響しあっている場合,これらのモード間のエネルギーの授受の一部を省略 する近似を
だ ん ね つ き ん じ
断熱近似という。分子のように電子と複数個の原子核からなる系を扱うときには,ほとんど必然的 に断熱近似を用いなければならない。分子系において,相互作用によって互いに影響を及ぼしあっている運動 モードとは電子の運動と原子核の運動のことである。断熱近似を適用するには,
• 授受されるエネルギーが小さい。
• 一方のモードに比べて他方のモードの運動が緩慢である。
などの条件が必要である。分子系においては,電子の運動に比べて原子核の運動が緩慢であること*1を理由に,
この2つの運動を断熱近似の下に切り離して考える。すなわち,
1. 静止している原子核がつくる場の中で電子の運動を取扱い,
2. 電子のつくる平均的な場で原子核の運動を記述する。
という方針をとる。1927年に
ボ ル ン
Bornと
オ ッ ペ ン ハ イ マ ー
Oppenheimerは,分子系に量子力学を適用するときに断熱近似を用 いる方法を提唱したので,この分野ではBornボ ル ン−オ ッ ペ ン ハ イ マ ー
Oppenheimer 近似とも呼ばれる*2。また,原子間距離Rを パラメータとして残した電子のエネルギーをだんねつ断熱エネルギーという。 我々は,水素分子イオン中の電子の運動 を取り扱うので,ここでは,
1. 静止している原子核がつくる場の中で電子の運動を取扱う。
という作業に集中する。つまり,図14.1の核間距離Rを定数として扱うということである。
*1 もちろん,この原因は原子核と電子の質量差にある。原子殻と電子とが相互作用していることを考えよう。それぞれに作用する力を Fとすれば,原子核には加速度a=F/mpが働き,電子には加速度a=F/meが働く。両者の比は(F /mp)/(F/me) =me/mp
と両者の質量だけで決まる。付録A.1の表A.1を参照すれば,これは1/1000よりも小さいことが分かる。すなわち,質量の比が 大きい原子核と電子に作用反作用の法則によって同じ大きさの力が作用するとき,質量の大きい原子核はほとんど動かず,質量の 軽い電子だけが運動すると考えてよい。
*2 正確に言えば,電子の運動と原子核の運動の相互作用の一部,もしくは全部を省略するのを断熱近似といい,この全部を省略する 強い意味での断熱近似をBorn−Oppenheimer近似という。
ঈા߇ ঈા߇
ા
図14.1 水素分子イオンの分子軌道ϕと座標 のとり方。φa,φbは原子軌道を表す。
14.2 分子軌道
水素分子イオンでは2つの原子核のまわりに電 子が存在する。電子の軌道を ϕとしよう。ϕの ように分子全体に広がった電子軌道をぶ ん し き ど う
分子軌道:
エムオー
MOという。
14.2.1 波動関数とエネルギー
水素分子イオンを構成する2つの原子をa,bと し,これらは距離R を隔てて位置するとしよう。
原子核a,bと電子の距離をra, rb とすれば,ハミ ルトニアンは次のように書き表される。
Hˆ =−1 2∆− 1
ra − 1 rb
+ 1
R (14.1)
電子は分子全体に広がった分子軌道に沿って運動するが,電子が核aの近くにあるときは,電子に働く力は主
に核aからのCoulomb力なので,波動関数は水素原子の波動関数φaに似ていると考えられる。また,電子
が核bの近くにあるときは,同じ理由で水素原子の波動関数φbに似ていると考えられる。この推測を根拠に すれば,原子軌道の線形結合で分子やイオンの軌道を表現することができそうだ。そこで,水素分子イオンの 波動関数を
ϕ=caφa+cbφb (14.2)
で表すことにしよう。このように,原子軌道の線形結合で分子の軌道を表現する手法をエルシーエーオーLCAO−エムオーMOほう法とい う。このLCAOで表現したϕを試行関数として,水素分子イオンの波動関数を求めるには,Ritzの変分法を 用いればよい*3。
エネルギーを求める
早速,Ritzの変分法によりエネルギー表式を求めよう。永年方程式は次のようになる。
¯¯¯¯
¯
Haa−EϕSaa Hab−EϕSab
Hba−EϕSba Hbb−EϕSbb
¯¯¯¯
¯= 0 (11.68)式の2行2列分を書いた (14.3)
ところで,(14.2)式の φa と φb は水素原子の波動関数なので,これらは既に規格化されている。つまり,
Saa =Sbb = 1である。すると永年方程式は少し簡単になって,次のように表すことができる。
¯¯¯¯
¯
Haa−Eϕ Hab−EϕSab
Hba−EϕSba Hbb−Eϕ
¯¯¯¯
¯= 0 (14.4)
さらに,
Haa=Hbb 等核2原子分子だから Sab=
∫
φaφbdτ =
∫
φbφadτ =Sba 波動関数の積は掛ける順番によらない Hab=
∫
φaHφˆ bdτ =Hba HˆはHermite演算子である*4
(14.5)
*3 適当な関数の線形結合で波動関数を表し,その係数を変分原理に基づいて決めようというのがRitzの変分法であった。このこと を思い出せば,これほど適した方法はないことに気づくだろう。
14.2 分子軌道 215 であることを考慮すれば,
¯¯¯¯
¯
Haa−Eϕ Hab−EϕSab
Hab−EϕSab Haa−Eϕ
¯¯¯¯
¯= 0 (14.6)
と簡単化できる。そもそも永年方程式は試行関数ϕによるエネルギー期待値Eϕが最小値をとる条件より得ら れることを思い出そう。すなわち,(14.6)式が最適解(Eϕが最小値をとる)の条件ということである。永年 方程式という仰々しい名前がついているが,単なる2行2列の行列式だから,これを展開してEϕについて整 理すれば,目的としていたエネルギー表式を得ることができる。
(Haa−Eϕ)2−(Hab−EϕSab)2= 0 −−−−−−−−−−−−→Eϕについて整理すると Eϕ= Haa±Hab
1±Sab
(14.7) 波動関数を求める
次に,波動関数に含まれる係数caとcbを決定しよう。この作業には,永年方程式を作る基になった連立方程 式に立ち返る必要がある。
(Haa−Eϕ)ca+ (Hab−EϕSab)cb = 0 (Hab−EϕSab)ca+ (Haa−Eϕ)cb = 0
(14.8) (14.8)上式より,係数比ca/cbは次のように表される。
ca
cb
=−Hab−EϕSab
Haa−Eϕ
=− Hab−
(Haa±Hab
1±Sab
) Sab
Haa−
(Haa±Hab
1±Sab
) (14.7)式を代入した
=±1 計算した (14.9)
少し考えれば当たり前のことだが,(14.8)下式を用いても同じ関係を得る。これより波動関数は,
ϕ=ca(φa±φb) (14.10)
となる。残すは波動関数の規格化条件によって係数の絶対値を決めるだけである。
∫
|ϕ|2dv=|ca|2 ( ∫
φ2adv
| {z }
=1
+
∫ φ2bdv
| {z }
=1
±2
∫
φaφbdv
| {z }
Sab
)
(14.2)式を代入した
=|ca|2(2±2Sab) 計算した
= 1 規格化条件より
|ca|= 1
√2±2Sab
|ca|について整理した (14.11)
*4 証明 ここでHab=Hbaを証明する。
Hab∗ =
„Z
φ∗aHφˆ bdτ
«∗
= Z
φ∗bHφˆ adτ HˆがHermite演算子であるから(定義を参照せよ)
=Hba
ところで,今考えているハミルトニアン,試行関数φa,φbは実数しか含まれていないから,Hab∗ =Habである。これと上で証 明したHab∗ =Hbaより,HabとHbaが等しいことが証明された。 ¤
以上より,水素分子イオンの波動関数とエネルギーが以下のように求まった。
ϕg= 1
√2 + 2Sab
(φa+φb) Eg= Haa+Hab
1 +Sab
ϕu= 1
√2−2Sab
(φa−φb) Eu= Haa−Hab
1−Sab
(14.12)
ここで,波動関数ϕやエネルギーEの右下に付けたg とuはgerade(偶の)とungerade(奇の)の頭文字
で,ϕがぐうかんすう偶関数か奇関数か,言い換えれば,き か ん す う ϕが結合中心に対して対称か反対称かを表す。
14.2.2 結合性軌道,反結合性軌道
前節で水素分子イオンの波動関数とエネルギー表式を得た。ここでは,このエネルギーを詳細に検討する。
Haaの評価
(11.63)式と(14.1)式を参照してHaaを丁寧に書き下すと,次のように変形できる。
Haa =
∫ φ∗a
[
−1 2∆− 1
ra − 1 rb
+ 1 R
] φadv
=
∫ φa
[
−1 2∆− 1
ra
] φa
| {z }
E1sφa
dv−
∫ φ2a rb
dv+ 1 R
∫
φ2adv 展開した, φ∗a=φaより
=E1s
∫
φ2adv−Eaa+ 1 R
∫
φ2adv Eaa :=
∫ φ2a rb
dvと定義した
=E1s−Eaa+ 1
R φaは規格化済み (14.13)
ঈા߇ ঈા߇
図 14.2 −Eaa = −Z ` φ2a/rb
´dv は ,φa に あ る 電 荷 と 核 b と の Coulomb相互作用エネルギーを表す。
最終表式中のE1sと1/Rは,
• E1s:水素原子の1s軌道のエネルギー
• 1
R:核間のCoulomb反発力
という意味を持つのは明らかだろう。式中で定義した
−Eaaは,φaにおけるdv部分の電荷−φ2advと核bにあ る正電荷とのCoulomb相互作用エネルギーを空間全体に 積分したものだから,φaにある電荷と核bとのCoulomb 相互作用エネルギーと解釈できる。
Habの評価
Habを丁寧に書き下すと,次のようになる。
Hab=
∫ φa
[
−1 2∆− 1
rb
− 1 ra
+ 1 R
] φbdv
=
∫ φa
[
−1 2∆− 1
rb
] φb
| {z }
E1sφb
dv−
∫ φaφa
ra
dv+ 1 R
∫
φaφbdv 展開した
=E1s
∫
φaφbdv−Eab+ 1 R
∫
φaφbdv Eab:=
∫ φaφb
ra
dvと定義した
=E1sSab−Eab+Sab
R (14.14)
14.2 分子軌道 217
ঈા߇ ঈા߇
図14.3 −Eab=−Z
(φaφb/ra) dvは φa とφbの重なり電荷分布と核aとの
Coulomb相互作用エネルギーと解釈で
きる。
式中で定義した −Eab も −Eaa と同じように解釈で きる。すなわち,φaとφb が重なっている部分の電荷
−φaφb と核aにある電荷とのCoulomb相互作用エネ ルギーを空間全体に積分したもの,すなわち,φaとφb
の重なり電荷分布と核aとのCoulomb相互作用エネル ギーと解釈できる。
図14.4 水素分子イオンのエネルギー 表式に出てくるSab,Haa,HabのR依 存性。
Haa とHab の核間距離依存性を評価するためには Eaa, Eab, Sabの評価が必要である。水素分子イオンの 基底状態を考えるためには,φa, φb として水素原子の 1s軌道:(13.7)式Ψ = 1
√πe−r(a.u.)を用いてこれら を計算すればよい。その結果,
Sab =
(
1 +R+ R2 3
) e−R Eaa = 1
R
[1−(1 +R)e−2R] Eab = (1 +R)e−R
(14.15)
を得る。この積分の計算については 14.3 節で説明す る。これらを(14.13)式と(14.14)式に代入するとHaa
とHabのR依存性が得られる*5 。
Haa=−1 2 +
(1 R + 1
) e−2R Hab=Sab
(1 R −1
2 )
−(1 +R)e−R
(14.16)
Haa,HabとSabを図14.4にプロットした。図14.4に よるとR > a0付近では,Hab <0となり,Rの全範
囲でSab >0となることが分かる。(14.12)式でSab>0とHab<0を考慮すれば,Eg < Euであることが 分かる。つまり,Sabの寄与を無視すれば,Habの大きさがEgのエネルギーの低さを決定する。すぐ後で,
このエネルギーに対応する波動関数ϕgが水素分子イオンの結合を担うけ つ ご う せ い き ど う
結合性軌道であることを示すが,この 結合性軌道の安定化の程度を決定するのがHabであるといえる。こういう理由からHabはけつごうせきぶん結合積分と呼ばれ る。 (14.13)式と(14.14)式を(14.12)式に代入すると,次式を得る。
Eg= 1 1 +Sab
[
E1s(1 +Sab)−(Eaa+Eab) + 1
R(1 +Sab) ]
=E1s+ 1
R −Eaa+Eab
1 +Sab
(14.17) Eu = 1
1−Sab
[
E1s(1−Sab)−(Eaa−Eab) + 1
R(1−Sab) ]
=E1s+ 1
R −Eaa−Eab
1−Sab
(14.18) (14.15) 式を(14.17)式と(14.18)式に代入し,EgとEu のR依存性を計算した結果を図 14.5に示す。縦
軸はEh(hartree)単位で表している。EuとEgに注目して欲しい。言うまでもないことだろうが,例えば
Eu−E1sをRに対してプロットするということは,E1sを基準にEu のR依存性を見ることを目的として いる。つまり,Eu がE1sよりも大きいエネルギーを持っている場合には正の値が,逆に小さいエネルギーを
*5 原子単位系ではE1s=−1/2であることを思い出そう。