第 12 章
12.6 スペクトル項
12.6.3 項記号( Russell − Saunders 方式)
前節でLS多重項を議論した際に,ハミルトニアンHˆ の具体的な形は示さなかったが,これまでに扱って きた運動エネルギーと位置エネルギー(Coulomb相互作用を含む)だけを含んだハミルトニアンを想定して いた。ここでは新たに,スピンき ど う そ う ご さ よ う
軌道相互作用を考慮することにしよう。このスピン軌道相互作用は,
Hˆls =∑
i
ζiˆliˆsi (12.57)
で表される*23。ここで,ζiはスピンき ど う そ う ご さ よ う て い す う
軌道相互作用定数といい,Z4に比例することが知られている。このスピ ン軌道相互作用をハミルトニアンに含めると,(残念なことに)Hˆ はLˆ2やSˆ2と交換しなくなる。
すなわち,前節での議論が成り立たなくなり,エネルギー固有値を分類するのにLとSを使えなくなる。そ こで,新たにぜんかくうんどうりょう
全角運動量 Jˆ を定義する。全角運動量についてはすぐ後で少し解説をする。証明は12.6.9節に まわすが,スピン軌道相互作用を考慮したハミルトニアンと合成全角運動量演算子は可換である。もう少し正 確に書けば,
• H,ˆ Jˆ2,Jˆzが全て可換である。
とすれば,(LS多重項のときと全く同じ論法で)エネルギー固有値がn以外にもJˆ2の量子数であるJによっ て分類されるという結論を得る。すなわち,nとJ で電子状態を分類できることになる。しかし,それよりも いい方法がある。というのも,通常の分子ではHˆlsはかなり小さいので,まずはHˆlsがないとしてLS多重項 で状態の分類を行ない,次にHˆlsをLS 多重項に対する摂動として取り入れるのが賢い方法である。この方法
*23 荷電体である電子の軌道運動によって生じる磁場Bは,その軌道運動による角運動量lに比例する。すなわち,B∝lが成り立 つ。この磁場Bと電子スピンの角運動量sに基づく磁気モーメントµeとが相互作用するとE=−µeB∝ −µelのエネルギー を生じる。µeはsと逆の向きを向くことが古典電磁気学との類似から推測されるので,この比例定数をζとするとE=ζslを得 る。これを演算子で表示したものが(12.57)式である。
をRussellラ ッ セ ル−サ ウ ン ダ ー ス
Saunders ほうしき方式という。表記法としては,
n2S+1{L}J (12.58)
とJ の値をLS多重項の右下に書く。
12.6.4 全角運動量
これまでに,電子の持つ軌道角運動量ˆlとスピン角運動量ˆsについて見てきた。ここでは新たに,
ˆj= ˆl+ ˆs (12.59)
でぜんかくうんどうりょう
全角運動量を定義する。また,(12.41)式と(12.42)式で軌道角運動量とスピン角運動量をn粒子系に拡張 したように,全角運動量もn粒子系に拡張しごうせいぜんかくうんどうりょう
合成全角運動量を定義する。
Jˆ =∑
i
ˆji (合成全角運動量) (12.60)
ここで,(12.59)式,(12.45)式,(12.46)式から,Jˆ は次のようにも書ける。
Jˆ =∑
i
(ˆli+ ˆsi
)
=∑
i
ˆli+∑
i
ˆ
si (12.60)式に(12.59)式を代入して,展開した
= ˆL+ ˆS (12.41)式と(12.42)式より (12.61)
もちろん,Jˆz は次のようにLˆzとSˆz の和である。
Jˆz = ˆLz+Sˆz (12.62)
ここで,Lˆ2,Sˆ2の量子数がL,Sである状態のときに,合成全角運動量Jˆ2の量子数Jはどんな値になるか について考えてみよう。いま,合成軌道角運動量の量子数がLとMLの状態をψL,ML としよう。同様に,合 成スピン角運動量の量子数がSとMS の状態をφS,MS と書く。すなわち,次の固有方程式が成り立つとする。
Lˆ2ψL,ML =L(L+ 1)~2ψL,ML LˆzψL,ML =ML~ψL,ML (12.63) Sˆ2φS,MS =S(S+ 1)~2φS,MS SˆzφS,MS =MS~φS,MS (12.64) ここで,Ψ =ψL,ML·φS,MS にJˆz を作用させよう。
JˆzΨ =
(Lˆz + ˆSz
)
ψL,ML·φS,MS (12.62)式より
=φS,MS
(LˆzψL,ML
)
+ψL,ML
(SˆzφS,MS
) LˆzはψL,MLだけ,SˆzはφS,MSだけに作用する
=φS,MS(ML~ψL,ML) +ψL,ML(MS~φS,MS) (12.63)式と(12.64)式より
= (ML+MS)
| {z }
=:MJ
~Ψ 整理した
=MJ~Ψ MJ =ML+MSとした (12.65)
すなわち,ΨはJˆz の固有関数になっていて,固有値は(ML+MS)~であることが分かる。(12.65)式では MJ = (ML+MS)とした。
次に,固有値MJ~= (ML+MS)~の最大値について考えてみよう。ML =−L,−L+ 1,· · · , L−1, Lと MS =−S,−S+ 1,· · ·, S−1, Sを思い出せばMJ の最大値はL+Sで与えられることはすぐに分かる。
ML = −L −L+ 1 · · · L−1 L
+ MS = −S −S+ 1 · · · S−1 S
MJ = −L−S, −L−S+ 1, −L−S+ 2, · · · L+S−2, L+S−1, L+S
12.6 スペクトル項 195 また,MJ =−J,−J+ 1,· · ·, J −1, J(角運動量の一般的な性質)であるから,J の最大値もL+Sである ことが分かる。すなわち,J =L+S, L+S−1,· · · が示されたわけである。このようにしてJ の上限が示さ れたわけだが,J の「下限」はどのようにして規定されるのだろうか。これは角運動量を合成する前後で状態 数が変化しないということから得られる。具体例で示そう。簡単化のためL = 1,S = 1の場合を考えよう。
もちろん,MLとMS は,ML=−1,0,1とMS =−1,0,1の3とおりずつの値をとる。これより直ちにMJ
はMJ =−2,−1,0,1,2の5とおりの値をとることが分かる。
ML = −1 0 1
+ MS = −1 0 1
MJ = −2 −1 0 1 2
ただし,これは状態の数が 5 とおりであることを意味するのではないことに注意しなければならない。例 えば,MJ = 2 の状態は(ML, MS) = (1,1)という状態に確定するが,MJ = 1 の状態は(ML, MS) = (1,0) と (ML, MS) = (0,1) の 2 とおりの状態が考えられる。同様に,MJ = 0 の状態は (ML, MS) = (0,0), (−1,1), (1,−1)の3とおりの状態が考えられる。
ML = −1 0 1
+ MS = −1 0 1
MJ = −2 −1 0 1 2
(ML, MS) (−1,−1) (−1,0) (0,0) (1,0) (1,1) (0,−1) (−1,1) (0,1)
(1,−1)
これは,量子数LとSで指定される状態が,MLとMSに関して(2L+ 1)(2S+ 1)重に縮退していることの具 体例である。MJ の最大値に関する考察から,J の最大値はJ =L+Sで与えられることが分かっているから,
J = 1 + 1 = 2の状態があることは確定している。すると,角運動量の一般的な性質からMJ =−2,−1,0,1,2 の5とおりの状態をとる。これでは上で列挙した9とおりには足りない。そこで,J = 1の状態があるだろう と推測できる。仮にJ = 1の状態があれば,これからMJ =−1,0,1の3とおりの状態が考えられ,J = 2の 場合と合わせると8とおりの状態があることになる。まだ9とおりには足りないから,J = 0の状態を考えよ う。これからはMJ = 0の1とおりの状態が考えられるから,これまでの8とおりと合わせて合計9とおり の状態を考えることができた。J = 3,2,1をLとSで表すとJ =L+S, L+S−1, L+S−2と書ける。こ こではL= 1とS= 1で考察したが,LとSの値をもっと大きい値で考えると,J の下限の値がL−Sで与 えられることが分かる。(ここで考えているL= 1とS = 1の場合でも,下限のJ = 0をL+S−2ではなく L−Sと書いてもよい)これを一般化すると,次のかくうんどうりょう角 運 動 量のごうせいそく合成則を得る。
角運動量の合成則
互いに可換な角運動量演算子Jˆ1とJˆ2の和で与えられる演算子Jˆを考える。Jˆ1とJˆ2のそれぞれの自乗の量 子数がJ1,J2であるならば,Jˆの自乗の量子数J はJ =J1+J2, J1+J2−1,· · ·,|J1−J2|の値をとる。
Jˆ2の固有値: J(J + 1)~2 ただし,J =L+S, L+S−1,· · ·,|L−S| Jˆzの固有値: MJ~ ただし,MJ =ML+MS
演習問題 L= 2,S = 1のときにJ のとりうる値を,角運動量の合成則を用いずに求めよ。
解答 まずは,L = 2 より ML = 2,1,0,−1,−2,S = 1より MS = −1,0,1 であることが分かる。
すると,MJ = ML+MS から,MJ は MJ = 3,2,1,0,−1,−2,−3 の7 種類の値をとることが分かる。
MJ がこれらの値をとるのは ML と MS の組み合わせとして,MJ = 3:(ML, MS) = (2,1),MJ = 2:(ML, MS) = (2,0),(1,1),(0,2),MJ = 1:(ML, MS) = (2,−1),(1,0),(0,1),MJ = 0:(ML, MS) = (1,−1),(0,0),(−1,1),MJ =−1:(ML, MS) = (0,−1),(−1,0),(−2,1),MJ =−2:(ML, MS) = (−2,0),
MJ =−3:(ML, MS) = (−2,−1)の計15とおりある。MJ の最大値が3だから,J の最大値も3であるこ とが分かる。J = 3からはMJ = 3,2,1,0,−1,−2,−3の7とおりの状態が生じる。15とおりには足りないか ら,次にJ = 2を考える。J = 2からはMJ = 2,1,0,−1,−2の5とおりが生じ,あと3とおり足りない。そ こでJ = 1を考えれば,これからMJ = 1,0,−1の3とおりが生じ計15とおりとなる。以上から,L = 2, S = 1のときにJ はJ = 3,2,1の値をとる。やはり,J の最小値1は1 = 2−1 =L−Sで表される。
12.6.5 スペクトル項の例
ここでは,スペクトル項の例をいくつか見てみよう。まずはじめに,1電子系である水素原子の基底状態と いくつかの励起状態についてスペクトル項を求めよう。その後で,多電子系の例として,炭素原子の基底状態 と励起状態についてスペクトル項を求めてみよう。ここではスペクトル項の記号n2S+1{L}J を4¤°Oと表 し,量子数やスピン多重度を検討して1つずつ数値や記号をあてはめていこう。もちろん,主量子数nを4 で,スピン多重度2S+ 1を¤で,{L}を°で,合成全角運動量JをOで表している。
スペクトル項−水素原子の基底状態(1s)1−
水素原子の基底状態である(1s)1のスペクトル項を求めてみよう。
方法1 まずは,丁寧に正攻法でスペクトル項を求める。
• 主量子数はn= 1 である。 · · · −→ 1¤°O
• 方位量子数はl= 0である。(s軌道だから)
◦ ml =−l,−l+ 1,· · ·, l−1, lの関係:(12.43)式より,ml = 0と決まる。
◦ ML=
∑1 i=1
(ml)i=mlより,ML= 0が決まる。
◦ ML=−L,−L+ 1,· · ·, L−1, Lの関係:(12.45)式より,L= 0と決まる。
◦ 表12.4より,スペクトル項の記号はSと決まる。 · · · −→ 1¤SO
• スピン量子数はs= 1/2である。
◦ 電子は1個しかないので,ms = +1/2かms=−1/2のいずれかである。
◦ MS =
∑1 i=1
(ms)i=msなので,やはりMS = +1/2かMS =−1/2のいずれかである。
◦ MS =−S,−S+ 1,· · · , S−1, S:(12.46)式より,S = 1/2と決まる。
◦ スピン多重度は2S+ 1 = 2と決まる。 · · · −→ 12SO
• 角運動量の合成則J =L+S, L+S−1,· · ·,|L−S|にS = 1/2,L= 0を代入し,J = 1/2と決ま
る。 · · · −→ 12S1/2
別法 1電子系はこのように考えれば,すんなりとスペクトル項が得られるが,2電子以上の系になると少 し厄介になるので,まどろっこしいが,多電子系への応用を考えて別法を示す。
• 主量子数はn= 1 である。 · · · −→ 1¤°O
• 方位量子数はl= 0である。(s軌道だから)
◦ ml =−l,−l+ 1,· · ·, l−1, lの関係:(12.43)式より,ml = 0と決まる。
• 電子配置とML,MS の表を作る。→ 表12.5
• |ML|の最大値|ML|maxを見つける。
◦ |ML|max= 0であることが分かる。
12.6 スペクトル項 197
◦ ML=−L,−L+ 1,· · · , L−1, L:(12.45)式より,L= 0と決まる*24。
· · · −→ 1¤SO
◦ ML= 0の状態[1]ではMS = 1/2,状態[2]ではMS =−1/2であることから,L= 0のスペクト ル項にはS= 1/2が対応していることが分かる。 · · · −→ 12SO
• 角運動量の合成則J =L+S, L+S−1,· · · ,|L−S|にS = 1/2,L= 0を代入し,J = 1/2と決ま
る。 · · · → 12S1/2
◦ (ML, MS)の組が(0,1/2),(0,−1/2)である電子配置(この場合は全ての電子配置)のLS項欄に 12S1/2を記入する。
表12.5 水素原子の基底状態(1s)1の電子配置とスペクトル項。
ml= 0 ML=
∑1 i=1
(ml)i MS =
∑1 i=1
(ms)i スペクトル項
[1] ↑ 0 1/2 12S1/2
[2] ↓ 0 −1/2 12S1/2
別法の略記 この別法を次のように書き表すと約束しよう。
n= 1
|ML|max= 0−→L= 0のスペクトル項の存在 ML= 0−→[1] (MS = 1/2)
ML= 0−→[2] (MS =−1/2) }
−→ S = 1/2 J = 1/2
−→12S1/2: (0,1/2) (0,−1/2) ここで,(0,1/2) (0,−1/2)は(ML, MS)を表す。
スペクトル項−水素原子の励起状態(2s)1 −
演習問題 水素原子の励起状態である(2s)1のスペクトル項を求めよ。
解答 22S1/2。(1s)1の結果を見れば,(2s)1でも(3s)1でもスペクトル項はn2S1/2になるのは明らかであ ろう。
スペクトル項−He原子の基底状態(1s)2 −
演習問題 He原子の基底状態について,電子配置とML,MS の表を作成し,スペクトル項を求めよ。
解答 結果は次のようになり,L= 0, S= 0と求まるから,スペクトル項は11S0となる。
表12.6 He原子の基底状態(1s)2の電子配置とスペクトル項。
ml= 0 ML =
∑2 i=1
(ml)i MS =
∑2 i=1
(ms)i スペクトル項 [1] ↑ ↓ 0 + 0 =0 1/2 + (−1/2) = 0 11S0
この結果から,完全に満ちた副殻の電子によるML,MS への寄与はともに0であることが理解できる。
*24 そして,これ以外にはあり得ないことも分かる。